ニキータ・フルシチョフ

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ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフテンプレート:Lang-ru(ニキータ・スィルギェーイェヴィチュ・フルシショーフ), ラテン文字表記の例:Nikita Sergeyevich Khrushchev, テンプレート:Lang-uk(ムィクィータ・セルヒーヨヴィチュ・フルシュチョーウ), 1894年4月17日 - 1971年9月11日)は、ソビエト連邦政治家、同国の第4代最高指導者ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)を兼務した。民族的にはウクライナ人[1]

ヨシフ・スターリンの死後、スターリン批判によってその独裁恐怖政治を世界に暴露し、非スターリン化に基づく、自由化の諸潮流をもたらした。対外的には、アメリカ合衆国を中心とする西側陣営平和共存を図り、核実験を抑制しようとした。一方で中華人民共和国およびアルバニアと激しく対立し、またハンガリー動乱に際し軍事介入を行うなど社会主義国同士の紛争が目立った。

生涯

生い立ち

1894年4月17日ロシア帝国テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクに生まれる。父親セルゲイ・フルシチョフは炭坑夫。祖父は農奴ロシア帝国陸軍に勤務していた。家族とともにウクライナドンバス地方のユゾフカ(スターリノ、現在のドネツィク)に移る。15歳で鉛管工として働きはじめる。第一次世界大戦では、工場で勤務していたため、徴兵を猶予された。

共産党入党

1917年ロシア革命の以前から、労働運動に参加したことがきっかけとなり、1918年にロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。ロシア内戦中の1919年には赤軍政治委員として参加した。1920年にはセミョーン・ブジョーンヌイ元帥の下で勤務し、反革命を標榜した白軍ポーランド軍との戦闘に参加。1921年、ユゾフカに戻る。

1925年、ユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区党書記に就任し、以後党活動に専従することとなる。ウクライナでのフルシチョフは、精力的な仕事ぶりと経験から学んだ実際的な現地事情に関する広範な知識で台頭し、ヨシフ・スターリンの側近であった、カガノーヴィチに注目されることになる。1929年にはモスクワのスターリン記念工業大学に入学を許可され、冶金学を学ぶとともに、大学内でも党活動を熱心に推進し、大学の共産党書記に選出される。

中央委員就任

1931年に、モスクワ党専従となり、モスクワ地下鉄の建設の功でレーニン勲章を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、1934年の第17回ソ連共産党大会で中央委員に選出され、翌1935年にはモスクワ党第一書記となる。1938年、政治局員候補となり、スターリンに粛清されたスタニスラフ・コシオールの後任として、ウクライナ共産党第一書記となった。1939年、第18回党大会で政治局員に昇格する。

この時期、党中央では大粛清の嵐が吹き荒れていたが、フルシチョフもスターリンを称える演説をし、さらにはウクライナにて大規模な粛清を実行した。1938年だけで10万人以上が逮捕され、大部分が処刑された。中央委員会で200人の役員の中で生き残れたのは、わずか3人であった。

第二次世界大戦

第二次世界大戦では、1941年ドイツによる侵攻以降ウクライナ共産党の責任者としてウクライナの産業を東部に疎開させることに尽力する。疎開作業の完了後、陸軍中将と同位の政治委員の階級を授与され、南部戦線でドイツ軍と戦った。

スターリングラード攻防戦では、アンドレイ・エレメンコ大将の政治委員となり、1943年クルスクの戦いでは、ニコライ・ヴァトゥーチン中将の政治委員として直接前線に参加している。

第一書記兼首相

1953年3月のスターリンの死後、ラヴレンチー・ベリヤによってゲオルギー・マレンコフが閣僚会議議長(首相)と筆頭書記に祭り上げられてスターリンの後継者となったが、ベリヤの権力掌握を警戒する指導層の抵抗にあい、マレンコフはわずか9日で筆頭書記の座をフルシチョフに譲ることになった。フルシチョフはまずベリヤを逮捕・粛清して権力基盤を固めた後に党中央委員会第一書記に就任する。ついでマレンコフに首相を辞任させ、後任には腹心のニコライ・ブルガーニンを充てた。

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ブルガーニンらと歩くフルシチョフ

1957年ヴャチェスラフ・モロトフ、マレンコフ、カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求し、中央委員会幹部会の投票でいったんフルシチョフの第一書記からの解任が決まるが、中央委員会総会での投票で逆転勝ちして辛くも第一書記の座にとどまった(反党グループ事件)。「反党グループ」の3人は追放されたが、このときフルシチョフを積極的に支持しなかったブルガーニンはほどなく首相を辞任させられ、フルシチョフが首相を兼任した。

反党グループ事件のときにフルシチョフを積極的に支持した人物の中に、第二次世界大戦の英雄であるゲオルギー・ジューコフ国防相がいたが、ジューコフは広大なソ連各地から中央委員を集めるのに軍用機まで動員してフルシチョフに協力し、反党グループ追放後は中央委員会幹部会員(政治局員)として迎えられた。しかし、軍縮をめぐってすぐにフルシチョフと対立した結果、大臣を解任され、中央委員会からも追放された。

内政

フルシチョフは1956年の第20回党大会の秘密報告でいわゆる「スターリン批判」を行い世界中に衝撃をもたらした。国内政治の民主化の推進や軍縮を進めるとともに、軍事目的やソ連の宣伝も念頭に宇宙開発を推し進め、スプートニクボストークの打ち上げに成功し、宇宙開発競争においてアメリカを引き離したのも、フルシチョフ在任中のことである。

一方で、集団指導体制を無視した主意主義、主観主義による重要政策の決定、農業政策の失敗によりアメリカやカナダから穀物を輸入するようになったこと、海外訪問の際に家族を同行させたこと、娘婿アレクセイ・アジュベイを特使として西ドイツに派遣したことなどが、一部から顰蹙を買った。また、フルシチョフは激情家で知られ、同志に対する叱責や暴言を繰り返し、党内に多くの敵を作ったとされ、これがのちに失脚につながる大きな原因となった。

フルシチョフは無神論者で、「宗教アヘンなり」とする共産主義の思想に忠実であった。第二次世界大戦中に士気高揚のためにごく部分的に緩和された宗教弾圧が再び厳しさを増し、1960-1962年の間に教会(特にロシア正教会聖堂)の約3割を取り壊したと言われている。聖堂の数はその後ペレストロイカ時代に至るまで復興する事はなかった。

フルシチョフは無学な労働者階級出身の出自からか、特に科学技術や芸術に関する政策決定ついては周囲の人間の考えを鵜呑みにしやすく、その結果フルシチョフに取り入った人間の主張がそのまま国家の政策となることがままあった。

トロフィム・ルイセンコによる反遺伝学キャンペーン(ルイセンコ論争)はスターリン批判に伴って下火となったものの、ルイセンコ一派は巻き返しを図ってフルシチョフを取り込むことに成功する。フルシチョフは死ぬまでルイセンコの学説を信じ続け、遺伝子の存在を信じず、ピョートル・カピッツァ(ノーベル物理学賞受賞者)、イーゴリ・クルチャトフ(ソ連核開発の父)、息子セルゲイ・フルシチョフ(ミサイル開発技術者)、娘ラーダ(『ナウカ・イ・ジーズニ(科学と生活)』誌の副編集長)の説得にも耳を貸さなかった[2]。結果、ソ連の農業生産高は大きく落ち込み、アメリカからの穀物輸入に依存する事態に陥った。

芸術家たちとの関係も、政治的にうまく立ち回る芸術家たちに振り回され、有名なマネージ展覧会ホールの事件では、エルンスト・ネイズヴェスヌイら前衛芸術家を「西側イデオロギーに侵された逸脱者」として罵倒した上、その作品を「ロバの尻尾で描いたようだ」としてこき下ろした。

ただし、「反体制作家」の烙印を押されて当局からにらまれていた作家のアレクサンドル・ソルジェニーツィン(後にノーベル文学賞受賞)を擁護したり、「ソ連水爆の父」と呼ばれたアンドレイ・サハロフ(後にノーベル平和賞受賞)の進言を聞き入れて核軍縮を行うなど、後世評価されるような業績も残した。

外交

「雪解け」とキューバ危機

フルシチョフはアメリカ合衆国フランスなどの資本主義諸国との平和共存外交をすすめ、1959年にはアメリカをソ連の指導者として初めて公式訪問し、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領との友好的な関係を築くことで、冷戦下の世界に一時的な「雪どけ」をもたらした。

その一方で、1959年キューバ革命後に同国の政権を握ったフィデル・カストロとの関係を深め、1962年に起きたキューバ危機ではアメリカとの戦争の瀬戸際まで進むことになるが、寸前で譲歩し戦争を回避した。 1960年に起きた「U-2撃墜事件」ではアメリカと激しく対立、翌1961年に行われたウィーン会談では、アイゼンハワー大統領の後を継いでアメリカの大統領となったジョン・F・ケネディ大統領と会談を行ったものの、ベルリンの処遇について対立し、その後の「ベルリンの壁」の構築につながった。

社会主義国との関係

同じ社会主義国との関係では、ハンガリー動乱に軍事介入し、スターリン批判およびデタントは東欧諸国の自由化や同盟離脱の容認を意味するものではないことを示した。逆に毛沢東率いる中華人民共和国はフルシチョフの脱スターリン路線を「修正主義」であると批判して中ソ対立が始まり、同様に原理主義的なアルバニアとも1961年に断交して軍事衝突寸前まで行くこととなる[3]北朝鮮とも路線の違いから対立し多数のスパイを送り込んだ。

日本との関係

日本との関係については、日ソ交渉をしたときの最高指導者である(詳細は日ソ共同宣言にあり)。晩年に記した回想記の中で、フルシチョフは日本の戦後の発展を羨み、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。フルシチョフは「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘している。このくだりは結局フルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって1989年になってはじめてその内容が公開された[4]

エピソード

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副大統領時代のリチャード・ニクソンと「キッチン討論」を行うフルシチョフ

フルシチョフは激情家として知られ、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なもののひとつは、1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」(テンプレート:Lang-ru)との暴言を吐いたことである。

他にも1960年10月12日の国連総会で、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、フィリピン代表ロレンソ・スムロンが「ソ連の東欧諸国への関与こそ正に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲したことに怒ったフルシチョフは、自分の靴を脱いでこれで机をバンバンと繰り返し叩いてスムロンの演説を妨害した事件がある。

また、アメリカの副大統領のリチャード・ニクソンが1959年7月にモスクワを訪れた際に、博覧会会場に展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功とアメリカにおける宇宙開発の遅れ、アメリカにおける国民生活の豊かさとソ連の国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。この際にフルシチョフは、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語ったニクソンと対照的に、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてた。その討論内容は後に「キッチン討論」として有名になった。

失脚

フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには前述のように同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかにニコライ・イグナトフアレクサンドル・シェレーピンウラジーミル・セミチャストヌイレオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落としを着実に準備していった。ブレジネフはフルシチョフの毒殺や専用機の爆破をもたくらんだとも言われている[5]

宮廷クーデターの噂はひそかに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとして、息子セルゲイや娘ラーダに接触した。セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。

1964年10月、黒海沿岸のピツンダで休暇中のフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、ミハイル・スースロフ(一説ではブレジネフ)からの突然の電話で「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモスクワに呼び戻された。10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。ミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、この提案は否決された上、ミコヤンは多くの中央委員から強い非難を受けた。

孤立無援となったフルシチョフは、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長の両方を辞任することに同意した。後任にはブレジネフとアレクセイ・コスイギンがそれぞれ選ばれたが、これは、第二書記であったブレジネフと閣僚会議第一副議長であったコスイギンがそれぞれ昇格した暫定的な意味合いの濃い人事であった。

フルシチョフ追放の黒幕であったシェレーピンとセミチャストヌイは、権力に対する野心があまりに露骨であったために疎まれ、党指導部から外された。イグナトフは小者だったので無視された。フルシチョフと親しかったミコヤンも指導部から排除された。その結果、ブレジネフ、コスイギン、ニコライ・ポドゴルヌイトロイカ体制による長い停滞の時代が始まることになる。

フルシチョフが用いた「第一書記」という肩書きはブレジネフの時代でも継続して用いられたが、呼び名に対する党幹部による不満が表出した。1966年の第23回党大会にて、初期の用語である「第一書記」から「書記長」に復帰した。

年金生活と回想録

引退後のフルシチョフは、公式には1966年まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、恩給と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有ダーチャ(別荘)に住まわされた。移動の制限は受けなかったが、ダーチャのいたるところに盗聴器が仕掛けられており、生活は当局の監視下にあり、事実上軟禁状態にあった。年金生活中、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子のセルゲイ・フルシチョフらがテープをタイプライターで書き起こした。キリレンコらソ連指導部はフルシチョフを呼び出して回想録の執筆の中止を要求するが、フルシチョフはこの要求を拒絶した。この結果、息子のセルゲイ・フルシチョフや娘婿のアレクセイ・アジュベイは、当局から様々な嫌がらせを受けることになった。セルゲイはミサイルの専門家であったが、転職を余儀なくされた。

1970年7月には、フルシチョフの入院中に国家保安委員会(KGB)が息子セルゲイを騙して回想原稿とテープを押収することに成功するが、原稿のコピーはすでにアメリカのタイム社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに報復した。なお、セルゲイが西側に原稿を送るのを仲介したのは実はKGB自身であり、その代償としてフルシチョフ自身が回想録の内容の一部削除に応じたという噂がある。この噂が真実かと問われたセルゲイは「その質問の重要性は理解するが、いかんともしがたい事情から、それに答えることはできない」と述べている[6]

回想録が西側で出版されると、激怒したソ連指導部はフルシチョフに新聞プラウダ紙上で「回想録はニセモノである」との声明を発表させた。実際のところ、回想録がニセモノでないかどうか、すなわち仲介相手からニセモノを掴まされていないかをタイム社は非常に気を揉んでおり、そのため同社はフルシチョフの回想を録音したテープの声紋分析を徹底して行っており、少しでもテープが途切れた部分はそのつど鑑定しなおす必要があったことから、声紋分析の数は数千にも及んだ。

死去と記念碑

7年間の年金生活の後に、フルシチョフは1971年9月11日にモスクワの病院で死去した。しかし歴代の要人が埋葬されている赤の広場脇には埋葬されず、モスクワにあるノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。

当局との数年にわたる戦いの末に、家族らは墓地に記念碑を建てることを許されたが、その設計を請け負ったのはフルシチョフがマネージ展覧会ホールで罵倒した彫刻家エルンスト・ネイズヴェスヌイだった。記念碑の黒と白のデザインは様々な憶測を呼んだが[7]、ネイズヴェスヌイはセルゲイ・フルシチョフに「白と黒の組み合わせは、統一と、死に抗する生の戦いとを象徴する」と述べている。ネイズヴェスヌイはこの記念碑の仕事を引き受けたことが主として災いし、ブレジネフ政権下で様々な迫害をうけることとなり、1976年スイスへの亡命を余儀なくされた。

1984年に死去したフルシチョフの妻ニーナ・ペトロブナも、ノヴォデヴィチ修道院のフルシチョフの隣で眠っている。

家族

フルシチョフは1914年に最初の妻となるエフロシーニャ・ピサレワと結婚。エフロシーニャはロシア内戦の最中の1921年に飢餓、衰弱とチフスが重なって亡くなる。2人の間には娘ユリヤ(1918年没)と息子レオニード(1943年に戦死)がいた。

1922年にマルシアという名前の17歳の女性と再婚するが、すぐに離婚する。

1924年に3度目の妻となるニーナ・ペトロブナ・クハルチュクと結婚(ただし正式な届けを出したのは失脚後の1960年代後半になってからである)。2人の間には、息子セルゲイ、娘ラーダ、娘レーナ(1972年に病死)がいる。

逸話

  • 回想録を出版したアメリカのタイム社は、軟禁状態にあったフルシチョフと接触するのに、仲介者を通さなければならなかった。回想録がフルシチョフ本人が書いたものであることの確かな証拠が欲しいタイム社は、真っ赤な帽子を仲介者に預け、フルシチョフ本人がその帽子をかぶっている写真を撮影して送るようにと依頼した。帽子を届けられたフルシチョフは、その帽子が贈られた意図を知ると発案者のウイットに敬服し、事情を知らない家族が反対する中、進んでその派手な帽子をかぶって写真撮影にのぞみ、家族の反対を煽ってむしろ面白がっていたという。
  • フルシチョフは権力の座にあったとき、ろくに仕事をせず部下にほとんど丸投げの状態だったという。訪仏の際ド・ゴールと船乗りを楽しんでいた際、「あなたはいったいいつ仕事をしているのか?ソ連政府の発表ではあなたの予定はほとんど国内外の旅行や会見だ。一体いつ書類に目を通しているのですか?」とたずねると、「私は働きませんよ。わが党の規約では65歳以上の者は一日六時間、週四日働けばよいと定めています。私は66歳ですから旅行や会見で十分なのです。政務はすべて国家計画があらかじめ決定しています。」と答え、ド・ゴールを唖然とさせた。ただし、息子セルゲイによる回想録では、フルシチョフは秘書官による頻繁なブリーフィング、タス通信の新聞記事の要約を読ませたり、上映中止処分を受けた映画を自分の目で直接見たりする様子が描かれている。また、フルシチョフは殆どすべてを自分で決定しないと気が済まなかったことが主意主義や主観主義だと批判されており、こうしたイメージは、「仕事を丸投げにしていた」というイメージとは必ずしも一致しない。
  • 失脚後、党中央委員会に呼び出されて回想録の執筆中止を求められたフルシチョフは、その命令に激怒して怒りを爆発させた上に、ブレジネフ指導部の政治をこき下ろす大演説をはじめた。さらに、ダーチャの至るところに盗聴器が仕掛けられていることを「憲法違反」と指摘したうえで「便所にまで盗聴器を仕掛けるとはな!君らは国民の税金を使ってワシが屁をするのを盗み聞きしておるんだぞ!」と怒鳴りつけた。

語録

「今や世界は二つの陣営(西側諸国東側諸国)に分断され、互いが相手を絶滅させるための手段の開発にエネルギーを消費している。しかし、戦争は避けることができる。の時代においては、平和共存こそが唯一の合理的選択なのだ」[8]

著書

  • 『十月革命の四十周年』西原五十七訳. 日月社, 1958.
  • 『共産主義への移行 フルシチョフ論文集』高橋勝之,村田陽一編訳 合同出版社, 1958.
  • 『ソ連の新七カ年計画と学制改革』ソビエトニュース社編集部訳. ソビエト・ニュース社, 1958.
  • 『フルシチョフと語る 11人の記者の対談記』高橋勝之等訳. 新日本出版社, 1958.
  • 『英和対照フルシチョフ会見記』ウォルター・リップマン 黒田和雄訳. 原書房, 1963.
  • 『平和共存か熱核戦争か』ノーボスチ通信社訳編 駿台社, 1963.
  • 『ロバの尻尾論争以後』英・エンカウンター誌編 直井武夫訳. 自由社, 1963.
  • 『社会主義と共産主義 論説選集(1956-1963年)』駿台社編集部訳. 駿台社, 1964.
  • 『帝国主義は人民と平和の敵 論説選集(1956-1963年)』駿台社編集部訳. 駿台社, 1964.
  • 『フルシチョフ経済論集 第1巻』フルシチョフ経済論集刊行会訳. 刀江書院, 1964.
  • 『フルシチョフ言説集』日刊労働通信社編. 日刊労働通信社, 1964.
  • 『フルシチョフ毒舌警句名言集』鈴木啓介,水野俊彦共編. アサヒ芸能出版, 1964. 平和新書
  • 『民族解放運動 論説選集(1956-1963年)』駿台社編集部訳. 駿台社, 1964.
  • 『労働運動と共産主義運動 論説選集(1956-1963年) 』駿台社編集部 訳. 駿台社, 1964.
  • 『フルシチョフ回想録』ストローブ・タルボット編 タイムライフブックス編集部訳(タイム・ライフ・インターナショナル, 1972年)
  • 『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』(講談社学術文庫, 志水速雄訳, 1978年
  • 『フルシチョフ――最後の遺言』佐藤亮一訳(河出書房新社, 1975年)
  • 『フルシチョフ――封印されていた証言』ジェロルド・シェクター,ヴャチェスラフ・ルチコフ編 福島正光訳(草思社, 1991年)

関連邦語著作

  • スターリンの亡霊とフルシチョフ バートラム・ウルフ 原子林二郎訳 時事通信社, 1957. 時事新書
  • フルシチョフ V.アレクサンドロフ 杉山市平訳. 平凡社, 1958.
  • ニキタ・フルシチョフ マイロン・ラッシュ 安田志郎訳 時事通信社出版局, 1959. 時事新書
  • フルシチョフ遠征従軍記 大宅壮一 新潮社, 1960.
  • フルシチョフじかに見たアメリカ コミュニスト,資本主義国へ行く A.アジュベイ等 江川卓訳 光文社 1960 カッパ・ブックス
  • フルシチョフのソ連 H.E.ソルスベリー 原子林二郎訳. 時事通信社, 1960. 時事新書
  • 魅力ある怪物 フルシチョフ 沢田謙 日本週報社, 1960.
  • スターリンからフルシチョフへ イタリー共産党員の見たソ連の内幕 ギウセッペ・ボッファ 石川善之助訳 1961 三一新書
  • フルシチョフ君の挑戦 アヴェレル・ハリマン 大谷正義訳. 自由アジア社, 1961.
  • フルシチョフと毛沢東 土居明夫 時事通信社 1961. 時事新書
  • フルシチョフの手法 フランク・ギブニー 原子林二郎訳. 時事通信社, 1961. 時事新書
  • フルシチョフ時代 続スターリンからフルシチョフへ ジュセッペ・ボッファ 石川善之助訳 1962. 三一新書
  • フルシチョフと毛沢東 安東仁兵衛等 合同出版社, 1963. 合同新書
  • フルシチョフ首相との三時間 私の訪ソ手記 河合良成 講談社, 1964.
  • フルシチョフ その政治的生涯 E.クランクショー 高橋正訳. 弘文堂新社, 1967.
  • フルシチョフ権力の時代 ロイ・A&ジョレス・A.メドベージェフ 下斗米伸夫訳 御茶の水書房, 1980.7.
  • 危機の年 1960-1963 ケネディとフルシチョフの闘い マイケル・ベシュロス 筑紫哲也訳 飛島新社, 1992.7.
  • 父フルシチョフ解任と死 セルゲイ・フルシチョフ ウィリアム・トーブマン編 福島正光訳 草思社, 1991.11.

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

先代:
ゲオルギー・マレンコフ
テンプレート:Flagicon最高指導者
1953年 - 1964年
次代:
レオニード・ブレジネフ
先代:
ニコライ・ブルガーニン
テンプレート:Flagicon閣僚会議議長(首相)
1958年 - 1964年
次代:
アレクセイ・コスイギン
先代:
ゲオルギー・マレンコフ
(書記局筆頭書記)
ソビエト連邦共産党
中央委員会第一書記
1953年 - 1964年
次代:
レオニード・ブレジネフ

テンプレート:ロシアの首相

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  1. ドキュメンタリー「黙示録:カラーで見る第2次世界大戦」シリーズ 第4回「真珠湾攻撃」(ナショナルジオグラフィックチャンネル
  2. セルゲイ・フルシチョフ『父フルシチョフ 解任と死』(草思社、1991年刊)。
  3. ソ連とアルバニアの緊張が高まった当時、ソ連からアルバニアに譲り渡す予定だった12隻の潜水艦がアルバニアに到着し、ソ連人乗員によるアルバニア人乗員の訓練中であった。ソ連側は潜水艦12隻すべてを引き揚げようと試みたが、アルバニア側は拒み、ソ連が軍艦を出動させる事態となった。結局、アルバニア人乗員しか乗っていなかった3-4隻の引渡しをアルバニア側が拒み、8-9隻のみがソ連に戻された。
  4. ニキータ・フルシチョフ『封印されていた証言』(草思社、1991年)。
  5. ソ連崩壊後のV.A.スタルコフによるセミチャストヌイへのインタビュー。
  6. セルゲイ・フルシチョフ『父フルシチョフ 解任と死』。
  7. 白がフルシチョフで黒がブレジネフだとする説(そうした憶測からフルシチョフの遺族は長年記念碑の建立を許されなかった)、白がフルシチョフ政治のよかったこと黒が悪かったこととする説など様々なものがある。
  8. フルシチョフ回顧録, NHK映像の世紀 第8集 恐怖の中の平和」