恐怖政治
恐怖政治(きょうふせいじ)とは、
- 投獄、殺戮、等の苛烈な手段によって、反対者を弾圧して行う政治のこと[1]。(フランス語: terreur)[2]
- フランス革命時にロベスピエールを中心とするジャコバン派(山岳派)が行ったそれ(恐怖政治)のこと[1](仏:la Terreur、英:Reign of Terror)。
概要
恐怖政治というのは、権力者が、自らに反対するものを投獄したり、殺戮したりなどという苛烈・暴力的な手段を用いて弾圧することで、国民に恐怖を抱かせることで強引に自らの権力を保つような政治全般のことである。「暗黒政治」とも言う。
恐怖政治はフランス語では普通名詞で「terreur テルール」と言う。terreurはもともとは単に「恐怖」の意味であったが、フランス革命時にロベスピエールらが人々に恐怖を引き起こさせるような政治手法を採り(政治状況を作りだし)、当時の人々がそれを「terreur」と表現したわけだが、その後も同様の政治手法を用いる権力者たちがいたので、それも同様にterreurと呼ぶようになったわけである。フランス語というのはメタファーの技法や詩的な表現が発達し人々は使い慣れているので「terreur」だけで十分伝わるが、日本語の語感では「恐怖」だけではさすがに分かりづらいので、後ろに「政治」という語を足し明示して「恐怖政治」と訳している。この「terreur」が「テロ(=テロリズム)」の語源でもある。
特にフランス革命時のterreurだけを指す場合は(つまり固有名詞的に用いる場合は)、フランス語では前に定冠詞のlaを付けて大文字で始め「la Terreur」と表現する。
独裁政治(独裁者が行う政治)や非民主的な政治というのは、しばしば恐怖政治に陥る、とされている。例えば第二次世界大戦時であれば、ソヴィエト(ロシア)ではスターリンが恐怖政治を行っていたと指摘されており、イタリアではムッソリーニが恐怖政治を行ったことが知られている。→#恐怖政治一般
この記事ではフランス革命時の恐怖政治から解説し、その後に恐怖政治一般について解説する。
フランス革命での恐怖政治
ロベスピエール派は、恐怖政治を行い、革命反対派、穏健派、過激派など、反対派の人物を次々と処刑した。処刑された人物は、ダントン、カミーユ・デムーラン、エベール、ラヴォアジェ、リュシル・デュプレシなど数知れない。恐怖政治の間、パリだけで約1,400名もの処刑が行われた。フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法は、銃殺刑も多かったが、ギロチンによる刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらをふくめると犠牲者は4万人を超えるものと思われるテンプレート:要出典。
ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、テルミドールのクーデター(1794年7月27日)でロベスピエール派が失脚するまで続いた。
開始
1793年3月10日、革命裁判所が設置された。これは上訴審のない、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足した。これらは恐怖政治への道を開くものであった。
この頃ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派が決裂し、マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。
5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。
進展
山岳派独裁開始後も、当初はジロンド派の抵抗が見られ、地方では6月2日事件への反発が強かった。ジロンド派の宣伝に影響を受けたシャルロット・コルデーが7月13日にマラーを殺害した。しかし、こうした抵抗も空しく、多くの人間が断頭台の露と消えることとなる。
6月23日には1793年憲法(通称「ジャコバン憲法」)が制定される。民衆やサン・キュロットなど議会外の要求を代弁する「過激派」のジャック・ルーやヴァルレの主張により、より大きな権限が公安委員会に付与されることになる。公安委員会は再三改組され、7月にダントンらは排除され、9月に最終的に12人の委員が決定された。これによりロベスピエールが指導権を掌握、クートンとサン・ジュストなどがそれを補佐する構造が完成した。革命裁判所では検察官のフーキエ・タンヴィルが仮借のない弾圧の執行者となった。
山岳派は、農民の心をつかむため、6月には国有地の小区画での売却や、共有地の分割を認める法律を制定しており、7月17日には領主権の無償廃止を決定する。さらに、27日には、小麦を独占・隠匿したものに対する極刑を規定した。
山岳派と国民公会は要求に応じる形で、巧みに自分たちの政策実現を果たした。 この頃、民衆が武装して一団となって立ち上がるべきだ、という要請が直接行動を重視するセクションの意見として議会に提出されていた。ロベスピエールが議長となった国民公会は、8月23日、ダントンの介入でこれを採択。しかし、これはセクションのイメージと違い、軍を立て直すための一種の国民総動員令であった。これにより93年秋から94年春までに、40万近い兵力が調達された。
公安委員会は9月5日ジャック・ルーを逮捕し、18日にはヴァルレを逮捕した。「過激派」のクラブや出版物も禁止された。9月には民衆のデモに応えて食糧の価格統制が定められ、同月末には全般的価格統制法が制定され、経済統制が実施されるようになった。10月10日、サン・ジュストが公安委員会を代表して演説し、国民公会は「フランスの臨時政府は、平和が到来するまで、革命的でありつづける」ことを宣言した(革命政府宣言)。
10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。粗末な服を着せられ、両手を後ろ手に縛られた彼女は、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。ついで、ジロンド派の粛清が行なわれた。国民公会は3日間しか弁論の期間を与えず、21人のジロンド派全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソー、ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。11月8日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだという。その死を知った夫のロランは自殺した。
さらにフイヤン派のバイイ、三頭派のリーダーであるバルナーヴも処刑された。逃亡中のコンドルセは服毒自殺した。デュ・バリー夫人は金持ちというだけで処刑された。また有名な化学者のラヴォアジェは、審理が終わらないまま、「共和国は学者を必要としない」という理由で処刑された。
12月4日、法令により政府の細目が制定される。これにより、公安委員会が外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。
1794年には、ルイ16世の妹であるエリザベート王女、ルイ16世の弁護をつとめたマルゼルブ、ラ・ロシュフーコー=リアンクール公爵(ラ・ロシュフーコーの孫)、詩人のアンドレ・シェニエも処刑された。
革命裁判所が死刑を宣告した数は、1793年9月中旬から10月中旬までに15、次の1ヶ月間には65、翌年の2月中旬から3月中旬には116、3月中旬の1ヶ月では155、4月中旬からの1ヶ月では354にという風に漸次増加していき、それに合わせて裁判手続きは簡素化された。
地方での状況
中央のパリでジャコバン派がイニシアティヴをとった後も、地方では王党派やジロンド派の勢力が残っていた場所があった。革命政府はそれらの地域に対し、中央のパリから派遣議員を送り、反革命派の粛清をはかった。これに対する反革命派の抵抗により、フランス全土は内戦状態に陥る。
内戦により、ヴァンデ、リヨン、トゥーロンで革命軍による虐殺が起きた。ヴァンデの反乱は1793年末までに、ほぼ鎮圧され、ロワール川を渡りブルターニュを目指した8万人の農民のうち、生き残ったのは僅か4、5千人であった。リヨンでは派遣議員のフーシェ、コロー・デルボワの指導のもとに教会の略奪が命じられ、叛徒の処刑が4ヶ月にわたり間断なく続けられ、犠牲者は2千人を越えた。トゥーロンでは、陥落後にバラスとフレロンの指揮下で1794年1月末までに千人以上の処刑が行なわれた(詳細はヴァンデの反乱・リヨンの反乱・トゥーロン攻囲戦をそれぞれ参照のこと)。
分派闘争
ジャコバン派内では、ロベスピエール、もしくはサン・ジュストとクートンを加えた「三頭政治家」へのダントン派(寛容派)とエベール派の戦いという形で分派闘争が起きる。
1794年1月8日、ロベスピエールは、ジャコバン・クラブで、両派を激しく非難する演説を行なう。
矛先はまずダントン派に向けられた。インド会社の解散に伴う清算における横領が発覚し(インド会社事件)、1794年1月13日、ファーブル・デグランティーヌが逮捕され、外国人から収賄している議員の名前を暴露した。これにより議員や銀行家、投機家が逮捕された。
2月、ロベスピエールは「民衆の革命政府の原動力は徳と恐怖である。徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」という有名な演説を行い、革命政府を擁護する。
2月末から3月初め、サン・ジュストが、反革命派の土地を没収し貧困者に無償で配分する、ヴァントーズ法を提案する。これには民衆運動を味方につける狙いがあった。 エベール派は民衆に対して公安委員会に反対して革命的運動をとるよう呼びかけた。3月13日、国民公会でサン・ジュストが「悪徳に対して戦え」と叫んだことから、エベール派の指導者が逮捕された。3月23日、エベール、ロンサン、モモロ、クローツなどの過激派は、外国人と通謀し、市民を腐敗させる計画を練っていたとして処刑された。
その後、ロベスピエールは盟友のダントンを排除することを決定し、ダントンの腐敗について記したノートをサン・ジュストに手渡した。国民公会でダントンの逮捕が決定され、3月30日にダントンはカミーユ・デムーランらと共に逮捕された。ダントンは法廷で熱弁をふるい検事の論告を押し返したが、発言が停止させられ、彼が退席したまま討論が続けられ、4月4日に死刑判決が出され、翌日執行された。ダントンは首切り役人に「俺の首を人民に見せてやれ。それだけの値打ちはある」と語った。断頭台はダントン派の処刑で血の海となり、首切り役人は言われたとおりダントンの首を高々と差し上げて群集に示した。
結果
パリで革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までに、1251人が処刑されたのに対し、審理を経ない略式判決が許された6月11日から7月27日、(テルミドール9日)までの僅か47日間で、パリの断頭台は1376名の血を吸い込んだ。
恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人にのぼるとみられるテンプレート:要出典。
恐怖政治は疑心暗鬼の悪循環を生み出し、ロベスピエールらを孤立化させ、テルミドール反動を惹起する。
恐怖政治一般
恐怖政治一般について解説する。
恐怖政治というのは、投獄、殺戮 等の苛烈な手段によって、反対者を弾圧して行う政治のことである[1]。 つまり、権力を握った者が人々を弾圧したり恫喝することで恐怖を持たせ、恐怖のあまりに権力者に反対意見を言うことができなくなるようにすることで、無理やり従わせ、自らの権力を維持するという政治形態である。広辞苑に「投獄、殺戮(さつりく) 等の苛烈な手段」と書いてあるように、権力を握った者が人々を逮捕し牢獄・監獄に入れてしまったり、殺してしまったりするのである。一般的に権力者が自分自身で直接逮捕に出向き自分の手で監獄に連れてゆくわけではなく、権力者の手先となり逮捕・収監を実行するような組織・機関を作りそこに属する者に実行させる。「秘密警察」「官憲」「公安警察」などと呼ばれるものである。逮捕や収監はしばしば、法律に基づかず、闇雲に行われる。ともかく権力者の意に従わないかも知れないと少しでも思われた者をそのままにしておかず排除する。逮捕直後に「取調べ」などとしつつ暴力を振るって殺してしまう事例も多い。逮捕直後に殺さなかった場合でも、収監後に、人々に分からないように、殺してしまう。逮捕された人の家族から見ると、家族が傷だらけの遺体で帰ってきて、警察機関の者から「取調べ中に自殺した」などという作り話を聞かされたり、あるいは消息が全く判らなくなる、ということになる。恐怖政治を行う権力者はしばしば密告を奨励し、人々を相互監視の状態に追い込む。人々は、言うべきことは言い状況を変えてゆくために努力しなければならないと頭では分っていても、恐怖心のあまり行動することも発言することもできなくなってゆく。それでも一部の人は、人々を弾圧・抑圧から解放するための策を練り、身を挺して行動しようとする。それでうまく権力者を倒せることもあるが、権力者の側に察知され殺されてしまうことも多く、権力者はそうした計画を「陰謀」と呼び、さらに弾圧に強める。
人々を幸福にする良い君主(権力者)であれば、陰謀をそれほど恐れる必要は無い。だが、独裁者はほとんどが陰謀を非常に恐れ、人々に過酷な刑罰を課し、人々を疑い、無実の人のことまで罪があるとし、その結果、自ら(彼らが言うところの)「陰謀」を誘発しているわけである[3]。
- 具体例
20世紀の恐怖政治について解説すると、 スターリンが恐怖政治を行っていた、ということはしばしば指摘されている。[4] 。 スターリンのやり方に少しでも反対するような様子を見せたら、投獄、処刑、シベリアへ送り現地で殺す、といったことを行い、その大粛清によって何百万人もの人々が犠牲になったという。人々に相互に密告をさせるようにしていたらしい。スターリンと直接話をする機会があった部下などでも、話の途中で一瞬目をそらしただけでもあらぬ嫌疑をかけられ殺されたという。
日本でも東条英機が憲兵(や特高警察)を用いて人々を監視・恫喝・投獄するという独裁的、恐怖政治的な手法をとり、一般民衆は監視・恫喝されて、言いたいこと言うべきことを言う方法も勇気もなくなってしまったという実態がある、と指摘されてもいる[6]。
ドイツのヒットラーもスターリンなどと並んで(悪辣な、極悪非道な)独裁者とされ、ゲシュタポなどを使って人々を監視・投獄するなどの手法も用いたが、(極悪非道な独裁者という点は確かにそうだろうが)だがヒットラーの場合、その主たる政治手法というのは恐怖政治というよりもむしろ巧みな演説術や言葉の抑揚、身振り等によって民衆を熱狂・陶酔させるところに力点があったようで、ヒットラーの行動というのは当時のドイツ国民の期待に応えているような面も多かったようである[7]。
韓国の朴正煕の政権(朴政権)は(一方で批判する人も多いが、他方で信奉者も多いようで、見解が分かれることも多いようだが)恐怖政治の実態があった、と指摘されることがある[8]。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 広辞苑 第六版
- ↑ 参考までにフランス語の定義は【terreur】「 peur collective qu'on fait régner dans une population pour briser sa résistance ; régime politique fondé sur cette peur, sur l'emploi des mesures d'exception」(Le Petit Robert, 1993)
- ↑ 大橋武夫『兵法 孫子:戦わずして勝つ』p.233-234
- ↑ 武·富田『スターリンの大テロル: 恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相』1998
- ↑ 『ムッソリィニ恐怖政治と伊太利脫出記』1931
- ↑ 『憲兵政治: 監視と恫喝の時代』 2008
- ↑ 桐生操『知っておきたい 世界の悪人・暴君・独裁者』2008年
- ↑ 路樹·吉留『朴政権の素顔: その恐怖政治・腐敗政治の実態』1974
関連項目
- フランス革命下の恐怖政治関連
- 恐怖政治一般関連