キューバ危機
キューバ危機(キューバきき、テンプレート:Lang-en-short、テンプレート:Lang-es-short)は、キューバを舞台に、1962年10月14日から28日までの14日間に亘って米ソ間の冷戦の緊張が、核戦争寸前まで達した危機的な状況のことである。
目次
概要
アメリカとキューバの対立
1959年1月のキューバ革命で親米のフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒し、その後アメリカを訪問し、経済援助要請を申し入れたキューバのフィデル・カストロ首相は、公式会談に欠席したドワイト・D・アイゼンハワー大統領(アイゼンハワーが欠席した理由はゴルフとも言われる)に代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領に、「共産主義者」であるとの報告をされる。
カストロはアイゼンハワーの非礼とその報告に憤慨し、その上にアメリカがカストロをあからさまに敵視し始めたことから、アメリカと冷戦下で対峙していたソ連との接触を開始することとなる。それに反発したアメリカは、1961年1月にアイゼンハワーを継いで就任したジョン・F・ケネディ大統領のもとで、ピッグス湾事件などを起こし軍事力でカストロ政権打倒をはかるも失敗した。
ピッグス湾事件の7カ月後の1961年8月、ケネディ政権はエドワード・G・ランズデール空軍少将[1]を作戦立案者に指名し、政権の総力を挙げてカストロ政権打倒を目指すマングース作戦(Operation MONGOOSE)を極秘裏に開始し、軍事訓練を施した亡命キューバ人をキューバ本土に派遣して破壊活動を実施させ、またCIAを中心にカストロ暗殺計画、キューバ侵攻作戦の計画立案を進めていた。 ソ連によるキューバへのミサイル配備とは無関係に進められたマングース作戦は徐々に速度を上げて進捗し、米軍によるキューバ侵攻作戦の準備は1962年10月20日に完了する予定であった。それは奇しくもキューバへのミサイル配備計画とほとんど時期を一にするものであった。
米ソの核ミサイル配備
そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、1962年には、ソ連は兵器の提供の代わりに核ミサイルをキューバ国内に配備する「アナディル作戦」を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。 アナディル作戦の背景には、当時核ミサイルの攻撃能力で大幅な劣勢に立たされていたソ連がその不均衡を挽回する狙いがあった。 アメリカは本土にソ連を攻撃可能な大陸間弾道ミサイルを配備し、加えて西ヨーロッパ、トルコに中距離核ミサイルを配備していた。これに対し、ソ連の大陸間弾道ミサイルはまだ開発段階で、潜水艦・爆撃機による攻撃以外にアメリカ本土を直接攻撃する手段を持たなかったといわれる。 1962年7月から8月にかけて、ソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、アメリカ軍はキューバ近海を行き来する船舶や、キューバ国内に対する偵察飛行を強化していた。同年10月14日にアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル (MRBM) の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル (IRBM) を発見した。
対立激化
これに対してアメリカ政府は激烈な反応を示し、ケネディ大統領はエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第1段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止しようとした(これに対してソ連船は海上封鎖を突破することはせず、また臨検を受けることをよしとせず引き返した)。そしてアメリカ政府はNATOや米州機構(OAS)の指導者たちに状況を説明し、彼らの支持を得た。
またケネディは10月18日にアンドレイ・グロムイコ外務大臣とホワイトハウスで会見しソ連政府の対応を迫ったが、グロムイコはミサイルは防御用のものであると述べた。ケネディはこの時点ではアメリカの握っている証拠を明らかにせず、会談は物別れに終わった。 10月19日にU-2偵察機による決定的写真が撮影され、同盟国への説明が行われた。
ケネディは10月22日午後7時の全米テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。
アメリカ軍部隊の警戒態勢は、22日の大統領演説中にデフコン3となり、26日午後10時にデフコン2[2]となり準戦時体制が敷かれ、ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置いた他、日本やトルコ、イギリスなどに駐留する基地を臨戦態勢に置いた。核爆弾を搭載したB-52戦略爆撃機やポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦がソ連国境近くまで進出し戦争に備えた。また、ソ連も国内のR-7やキューバのテンプレート:仮リンクを発射準備に入れた。
また、デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買いに殺到する事態が起きた。
交渉開始
その一方でアメリカはソ連に対しミサイル撤去交渉を開始する。際10月25日の緊急国連安全保障理事会で、アメリカ国連大使のアドレー・スティーブンソンが、キューバのミサイル基地を撮影した写真を示し、核ミサイルの存在を認めるよう迫ったが、ソ連国連大使のワレリアン・ゾリンにはぐらかされる有名なやり取りは、当時の米ソ間の緊迫感を示している。
10月26日にソ連からアメリカへ妥協案が示される。その内容は、アメリカがキューバに対する軍事行動をしないなら、キューバの核ミサイルを撤退させるというものだった。しかし、10月27日に内容が変更され、トルコに配備されているジュピター・ミサイルの撤退を要求する。これは、アメリカにとって受け入れがたいものだった。
さらに27日昼頃、キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜された。同日、アメリカ海軍は海上封鎖線上で、ソ連のフォックストロット型潜水艦B-59に対し、その艦が核兵器(核魚雷)を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下した[3]。攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだったが、テンプレート:仮リンクの強い反対によって核戦争は回避された。この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、誰もがテンプレート:要検証第三次世界大戦の勃発を覚悟した。
ミサイル撤去
しかし、ワシントン時間10月28日午前9時、ニキータ・フルシチョフ首相はモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。
この決定は、ケネディ大統領が教会に礼拝に訪れ(アメリカ大統領が通例として戦争突入前に教会で祈りを捧げる、という憶測)また、再度TV演説を行う、という情報を受け、ここでアメリカによる戦争開始声明が読み上げられると同時にキューバへの空爆が実行に移される、という憶測に狼狽したソ連首脳部の決定で、その放送予定に間に合うよう、外交ルートを通さずにモスクワ放送を通じてロシア語でミサイル撤去声明を読み上げるという形で急遽行われた。
しかしこれらは誤報・誤解で、実際のケネディ大統領演説放送は単なる海上封鎖演説の再放送番組にすぎなかったことが後に判明している。
フルシチョフはケネディの条件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、ケネディもキューバへの武力侵攻はしないことを約束、その後1963年4月トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了した。
キューバのカストロ首相は、この措置に激怒した。キューバが国家を挙げて対アメリカ戦に備えていたのにもかかわらず、キューバの頭上で政治的な妥協を、米ソで決定してしまったからである。一方、後のフルシチョフ首相の回想によれば、アメリカの度重なる偵察と海上封鎖に興奮したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、ソ連の方も、核戦争をもいとわない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになっていった。
その後
その後キューバに対するアメリカの介入も減少し、冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになる(米ソデタント)。この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれた。一方、カストロは、米ソの頭越しの妥協に不快感を示し、ソ連への不信感をも募らせていくことになる(チェコ事件で和解)。カストロはその後ソ連に2回訪問し、フルシチョフと2人で事件について冷静に振り返っている。カストロは自らがアメリカを核攻撃をするようにソ連に迫ったことを記憶していないとしたが、フルシチョフは通訳の速記録まで持ってこさせて、カストロに核攻撃に関する自らの過去の発言を認めさせた。
冷戦後わかったことは、キューバ危機の時点でソ連はすでにキューバに核ミサイル(ワシントンを射程に置く中距離核弾頭ミサイルR12、R14、上陸軍をたたく戦術短距離核ミサイル「ルナ」)を9月中に42基(核弾頭は150発)配備済みであり、グアンタナモ米軍基地への核攻撃も準備済みであった。さらに臨検を受けた時には自爆するよう命じられたミサイル(核弾頭を取り外している)搭載船が封鎖線を目指していた為、アメリカによる臨検はほとんど効果がなかったことである。また兵士の数は米側の見積もりの数千名ではなく、4万名であった。カーチス・ルメイ空軍参謀総長をはじめとするアメリカ軍はその危険性に気付かず、圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。
もしフルシチョフの譲歩がなく、ルメイの主張通りミサイル基地を空爆していたら、残りの数十基のミサイルが発射され、世界は第三次世界大戦に突入していた可能性が高い。しかし実はこの時点でアメリカ軍にもソ連軍にも相手を壊滅させるほどの核兵器がなかった。そのため中距離ミサイルをアメリカ軍はトルコに、ソ連はキューバに配備した。
解決までの経緯
なぜソビエト連邦のフルシチョフがキューバからのミサイル撤退を受け入れたかについては様々な説がある。よく聞かれる説には次のようなものがある。
ワシントン時間10月28日午前9時にケネディが緊急テレビ演説をするという情報がフルシチョフのもとに入った。そしてその演説に先立ってケネディは教会で礼拝をするという。開戦前のアメリカ大統領は開戦を告げる前に必ず礼拝に行くと聞いていたフルシチョフは、ケネディが開戦を決意したと勘違いしてミサイル撤退を決意した、というものである。
しかし、当時は情報機関の間では様々な不確実な情報が飛び交っており、ソ連のアレクサンダー・アレクセーエフ駐キューバ大使のところには「数時間以内にアメリカが武力侵攻するという確実な情報」が届けられ、これを知って激高したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫った。しかし、老練なフルシチョフは、この情報はアメリカの情報機関がソ連の情報機関に意図的に流したデマだとして取り合わなかった。ケネディが教会で礼拝をするという話を聞いてフルシチョフがあわててミサイル撤退を決意したなどというのは、ゴシップ誌の報道に過ぎず、むしろ敬虔なキリスト教徒が毎週日曜日に礼拝を行うのは当然の慣習である。
ケネディの側近だったセオドア・C・ソレンセンの著書「ケネディ」では、キューバ危機の米ソ対決が沈静化したのは、ロバート・ケネディ司法長官とアナトリー・ドブルイニン駐米大使が、ABCネットワークの記者ジョン・A・スカリー[4]の仲介で深夜のワシントン市内の公園で密かに会って話し合ったときであったことが記されている。その会談で実際にどのようなやり取りがなされたかは具体的には書かれていない。しかし、当時のソ連の権力機構から考えて、駐米大使に決定的な権限が与えられていたとは考えられず、会談の存在が事実だとしても、この会談が問題解決に決定的な役目を果たしたとは考えられない。
なお当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数300発に対してアメリカは5000発と、ソ連は圧倒的に不利な状況であり、仮に両国の全面戦争という事態になればソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの敗北するのは決定的であった。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフはこのことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが国際政治の現実であったと考えられている。実際にフルシチョフは「正直なところ、アメリカが戦争を開始しても、当時のわれわれにはアメリカに然るべき攻撃を加えられるだけの用意はなかった。とすると、われわれはヨーロッパで戦争を始めることを余儀なくされただろう。そうなったらむろん第三次世界大戦が始まっていたにちがいない」と後に回想している。その一方、フルシチョフとしては、キューバに対するアメリカの干渉を阻止したことで満足したとも考えられている。
この2年後にフルシチョフは失脚することになるが、フルシチョフが更迭された中央委員会総会では、キューバ危機におけるアメリカへの「譲歩」が非難されることになる。また、このキューバ危機を教訓として2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。
ケネディはクレマンソーの言葉「将軍たちに任せておくには、戦争は重要すぎる」を頭に置いて外交的解決を目指し、第一次世界大戦への道筋を描いた「八月の砲声」(バーバラ・タックマン)を読み、自分が「十月の砲声を演じる気はない」と言っていたという[5]。
主な関係者(前職::その後)
- アメリカ
- ジョン・F・ケネディ 大統領 45歳 (上院議員::暗殺)
- リンドン・B・ジョンソン 副大統領 54歳 (民主党上院院内総務::大統領)
- ロバート・S・マクナマラ 国防長官 46歳 (フォード自動車社長::世界銀行総裁)
- ロバート・F・ケネディ 司法長官 36歳(大統領の実弟。最高首脳会議に参画)(上院マクラレン委員会法律顧問::上院議員、暗殺)
- ディーン・ラスク 国務長官 53歳 (ロックフェラー財団理事長::ジョージア大学教授)
- マクジョージ・バンディ 国家安全保障担当大統領特別補佐官 43歳(ハーバード大学文理学部長::フォード財団理事長)
- セオドア・ソレンセン 大統領特別顧問 34歳
- マクスウェル・D・テイラー 統合参謀本部議長(陸軍大将)(10月1日就任) 61歳 (陸軍参謀総長(退役))
- ジョン・A・マコーン CIA長官 60歳(原子力委員会(AEC)委員長)
- アドレー・スティーブンソン 国連大使 62歳
- ケネス・オドンネル 大統領補佐官 38歳
- カーチス・ルメイ 空軍参謀総長(空軍大将)55歳(戦略航空軍団(SAC)司令官::アメリカ独立党副大統領候補)
- ソ連
- ニキタ・S・フルシチョフ ソ連首相・第一書記 68歳
- アンドレイ・A・グロムイコ 外務大臣 53歳 (34歳で駐米大使になったあと外務次官::政治局員、最高会議幹部会議長)
- アナトリー・F・ドブルイニン 駐米大使 42歳(?::ソ連共産党中央委員会書記兼国際部長)
- ヴァレリアン・ゾーリン 国連大使 61歳
- ロディオン・マリノフスキー 国防相(ソ連邦元帥)63歳
- キューバ
- フィデル・カストロ・ルス 首相 37歳
- ラウル・カストロ 国防相 31歳
キューバ危機を扱った作品
- 映画『トパーズ』
- 映画『13デイズ』
- 映画『テンプレート:仮リンク』
- 映画『JFK』
- 映画『世界大戦争』
- 映画『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』
- アニメ『テレビまんが 昭和物語』
脚注
- ↑ CIA所属
- ↑ 2012年末までデフコン2まで警戒態勢が上昇したのはこのときだけであったといわれる。9.11同時多発テロ当時などもデフコン2は発令されなかった。
- ↑ The Cuban Missile Crisis, 1962: Press Release, 11 October 2002, 5:00 pm. George Washington University, National Security Archive. October 11, 2002. Retrieved October 26, 2008.
- ↑ その後1972-75年に国連大使となる。
- ↑ 『挑発が招く惨事 回避を 第1次大戦の教訓(上)』ローレンス・フリードマン 日本経済新聞2014年7月17日朝刊24面「経済教室」
参考文献
- 「核時計 零時1分前」マイケル・ドブス(Michael Dobbs) NHK出版
- 『NHKスペシャル キューバ危機・戦慄の記録 十月の悪夢』NHK DVD
関連項目
外部リンク
日本語サイト
英語サイト
- Declassified Documents, etc. - Provided by the National Security Archive.
- Transcripts and Audio of ExComm meetings - Provided by the Miller Center's Presidential Recordings Program, University of Virginia.
- Forty Years After 13 Days - Robert S. McNamara.
- Tapes of debates between JFK and his advisors during the crisis
- Cuban Missile Crisis Reunion, October 2002
- The World On the Brink: John F. Kennedy and the Cuban Missile Crisis
- 14 Days in October: The Cuban Missile Crisis - a site geared toward high-school students
- Nuclear Files.org Introduction, timeline and articles regarding the Cuban Missile Crisis
- Cuba Havana Documentary Bye Bye Havana is a documentary revealing what Cubans are thinking about today
- Annotated bibliography on the Cuban Missile Crisis from the Alsos Digital Library.