ボリス・エリツィン

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ボリス・エリツィン
Борис Николаевич Ельцин
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ボリス・エリツィン<small/></center>

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任期 1991年7月10日1999年12月31日
副大統領 アレクサンドル・ルツコイ
1991年 - 1993年

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任期 1990年5月29日1991年7月10日

出生 テンプレート:生年月日と年齢
テンプレート:SSR1923スヴェルドロフスク州
死去 テンプレート:死亡年月日と没年齢
テンプレート:Flagicon ロシアモスクワ

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政党 ソビエト連邦共産党
(1961年 - 1990年)

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配偶者 ナイーナ・エリツィナ

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署名 128px

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ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンテンプレート:Lang-ru バリース・ニカラーイェヴィチ・イェリツィンラテン文字表記: Boris Nikolayevich Yeltsin1931年2月1日 - 2007年4月23日)は、ロシア連邦政治家で、同国の初代大統領(在任: 1991年 - 1999年)である。

大統領在任中にソ連8月クーデターに対する抵抗を呼びかけロシア連邦の民主化を主導した評価と共に、急速な市場経済移行に伴う市民生活の困窮、ロシアの国際的地位の低下、チェチェン紛争の泥沼化、強権・縁故政治への批判もあった。

来歴・人物

青年期

スヴェルドロフスク州テンプレート:仮リンクブトカ村生まれ。家系はウラル地方の独立農民。父は富農撲滅運動で無実の罪を着せられ収容所生活を送った。自伝によれば、エリツィンは共産主義をとったソビエト連邦時代において幼年期にロシア正教会でキリスト教の幼児洗礼を受けたという。第二次世界大戦中に武器庫から盗んだ手榴弾を分解している最中に、手榴弾が暴発し、左手の親指と人さし指が失われた。ベレズニキ(Berezniki)にあるプーシキン高校(Pushkin High School)を卒業。1955年にスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)にあるウラル工科大学建築科を卒業する。その後、1968年までスヴェルドロフスク州にある建設企業に勤めた。

ソ連共産党

1961年ソ連共産党に入党する。1968年に党の活動に専従し、1976年スヴェルドロフスク州第一書記に就任する。なお、1977年には党の指示によりニコライ2世一家殺害現場のイパチェフ館を取り壊している。スヴェルドロフスク州での働きぶりをレオニード・ブレジネフに評価され、1981年にソ連共産党中央委員となる。

ミハイル・ゴルバチョフの書記長就任後、1985年にソ連共産党政治局員候補兼中央委員会書記に就任。ブレジネフ派の大物であるヴィクトル・グリシンがモスクワ党第一書記を解任されると、1985年12月に後任のモスクワ党第一書記に就任した。

ゴルバチョフの下では改革派として行動したが、ゴルバチョフ政権におけるペレストロイカの遅れを強く非難したため、他の政治局員からのエリツィンに対する批判はゴルバチョフを驚かせるほど強いものとなる。1987年にブレジネフ派の大物エゴール・リガチョフを公然と非難したため、そのリガチョフと対立し、モスクワ市の党第一書記を解任された。さらに1988年2月には政治局員候補からも解任される。

ロシア共和国大統領

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1991年ソ連8月クーデターの際にロシア最高会議ビルの前で戦車の上に立ち演説を行うエリツィンら

しかし、1989年3月の人民代議員大会選挙にモスクワ選挙区から出馬して当選し政界への復帰を果たす。この年民主綱領派のリーダーとなる。翌年の1990年5月にロシア共和国のテンプレート:仮リンク議長(実質大統領)に就任。同年7月13日にはソ連共産党を離党した。1991年6月12日に行われたロシア共和国大統領選挙では57.3%の得票率を獲得して当選し、同年7月にロシア共和国大統領に就任。

同年8月にソ連副大統領ヤナーエフ を擁立する「保守派」が起こしたソ連8月クーデターの際には戦車の上からロシア国民に対しゼネストを呼びかけるなど徹底抗戦した。ゼネストは不徹底であったものの、軍と治安機関の大勢はクーデター派を支持せず、結果としてクーデターを失敗に終わらせた。

この事件の後、ゴルバチョフの求心力が低下し、代わってエリツィンの影響力が増大する。同年11月6日、エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党が活動することを禁止した。12月8日、エリツィンはウクライナレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)の樹立を宣言することで合意した(ベロヴェーシ合意)。ソ連崩壊は避けられなくなり、12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任。ソビエト連邦はその歴史に幕を下ろした。

ロシア連邦大統領として

ロシア共和国大統領(任期5年)だったエリツィンはソ連崩壊後も引き続いてロシア連邦大統領としてロシアを主導した。

ソ連の事実上の後継国家であるロシアでは、アメリカとの関係改善が進み(連邦崩壊後も、ソ連時代の全ての核兵器をロシア共和国が所有することをウクライナやベラルーシに認めさせたのは、アメリカの助言によるところが大きい)、1993年には第二次戦略兵器削減条約(START II)に調印。

エリツィンはエゴール・ガイダルアナトリー・チュバイスに経済政策のイニシアティヴを取らせ、国際通貨基金(IMF)等の国際機関の助言に従い「ショック療法」と呼ばれる急激な市場主義経済導入を図った。しかしこの急激な市場経済への移行は経済に混乱をもたらすことになる。市場経済化への一環として行われた価格自由化は1992年に前年比2510%ものハイパーインフレを引き起こし、民衆の貯蓄・資産に打撃を与えて多くの民衆を貧困に追いやった。また1992年の国内総生産(GDP)は前年比マイナス14.5%となってしまった。エリツィンは同年6月にガイダルを首相代行に指名し、経済改革を推進しようとしたが、このような経済政策の失敗から人民代議員大会から信任を得られなかった。そのためエリツィンはガイダルを解任し、代わりにガスプロム社長のヴィクトル・チェルノムイルジンを首相に指名した。その後、チェルノムイルジンは議会の信任を得、首相に就任した。一方、バウチャー方式[1]による民営化も行われたが、これを上手く利用して国有資産だった企業を手に入れ、莫大な富を築き上げる者も出現した。彼らはロシアの新興財閥として政治的にも大きな影響力を及ぼしていくことになる。

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モスクワ騒乱事件で砲撃を受けたベールイ・ドーム。鎮火直後の1993年10月4日撮影。

また、その過程で発生したアレクサンドル・ルツコイ副大統領、ルスラン・ハズブラートフ最高会議議長ら議会との対立は1993年9月の議会による大統領解任劇に発展。これをみたエリツィンは最高会議と人民代議員大会を強制解体し、両者の対立は頂点に達した。翌10月には反大統領派がたてこもる最高会議ビルを戦車で砲撃し、議会側は降伏した(10月政変)。その後12月には大統領に強大な権限を与え、連邦会議国家会議から成る両院制議会、ロシア連邦議会にする事を定めた新しいロシア連邦憲法が制定された。西側の主要国はエリツィンを支持した。

ロシアの威勢低下

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1996年大統領選の選挙運動でモスクワ州ナロフォミンスク郡を訪問するエリツィン

その後、1994年デノミを行うなど経済の混乱が続き、またチェチェン侵攻が失敗した結果、エリツィンの支持率は低下した。さらにエリツィン自身、持病の心臓病の手術による過労がたたり、政権に不安定さが目立つようになる。

1995年の下院選挙ではロシア連邦共産党(ソ連崩壊後に再建)が第一党となるなど、エリツィン反対派が議会の多数を占めた。続く1996年の大統領選挙ではそのロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ議長に肉薄され、大苦戦。劣勢を逆転させたい一念でアメリカから選挙キャンペーンのプロを呼び、また、テレビカメラの前で若者に混じりダンスを披露した[2]。そしてジュガーノフ当選による共産主義の復活を恐れたボリス・ベレゾフスキーウラジーミル・グシンスキーなど新興財閥から巨額の選挙資金を捻出させ、新興財閥支配下のメディアにエリツィン支持のキャンペーンを張らせるなどしてなり振りかまわぬ選挙戦を展開した。その甲斐あってか第1回投票で得票率35.3%の1位につけ、ジュガーノフとの決選投票に持ち込んだ。決選投票の前には、第1回投票で3位につけたアレクサンドル・レベジ退役大将を安全保障会議書記に任命して取り込み、決選投票でエリツィンは53.8%を獲得し結果的に再選を果たした。

しかし大統領選において新興財閥の力に大きく頼ったために第二次エリツィン政権では新興財閥の影響力が増した。また、大統領選前の1995年に株式担保型民営化[3]が行われていたことで、新興財閥は結果として石油産業ほか多くの国営企業を手に入れ、国有資産を私物化するようになっていた。彼ら新興財閥は「オリガルヒ」と呼ばれ、二女のタチアナ・ディアチェンコらエリツィンの親族とともに「セミヤー」と呼ばれる側近集団を形成するようになる。このような「セミヤー」との癒着によりエリツィン政権は政治腐敗が蔓延していった。

相次ぐ首相交代

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1998年、アメリカ合衆国大統領のビル・クリントンと

1998年5月、経済復興を実現するには力不足だとして、チェルノムイルジン首相を解任した。同首相は、5年間にわたる長期首相だったが、一説によると病身の大統領に代わり副大統領然として振舞っていたこと、あるいは経済界との腐れ縁を大統領が嫌っての解任とも言われる。後任には35歳のセルゲイ・キリエンコ第一副首相兼燃料エネルギー相が就任したが、8月17日ロシア財政危機が発生。短期国債の取引を停止し、事実上の債務超過に陥った。就任直後の出来事だったが、責任をとらされ、解任された。

キリエンコに替わって首相に任命されたのは諜報機関KGB出身のエフゲニー・プリマコフであった。プリマコフは、ゴルバチョフ時代にソ連共産党政治局員候補で、ソ連崩壊後のロシアで対外情報庁(SVR)長官や外相を歴任した実力者であった。やわな若手改革派ではこの危機を乗りきれないと考えられたのであろう。プリマコフ首相は、大統領よりも、議会重視のスタンスを打ち出し、共産党からも閣僚を一本釣りの形で起用し、議会の支持に依拠する珍しい内閣であった。ロシアは金融危機を乗り切るため、IMFに支援を要請、金融危機を沈静化させた。また、エリツィン大統領周辺の「セミヤー」「オリガルヒ」と呼ばれる側近グループの排除に乗り出し、ユーリ・スクラトフ検事総長に命じて汚職摘発を開始した。これによってプリマコフ首相の支持率は上昇したが、一方これに危機感を抱いた大統領によって1999年5月に解任された。

さらに後任のセルゲイ・ステパーシン首相も僅か3ヶ月で解職し、1999年8月にロシア連邦保安庁長官のウラジーミル・プーチンに首相を交代した。このように首相を短期間で次々に挿げ替え、自らの権力を維持するためになりふり構わぬようにも見える行動を繰り返すなど政権はレームダックの様相を呈し始めた。

晩年

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1999年、テレビ演説で辞任を表明するエリツィン

1999年12月31日正午にテレビ演説を行い、電撃辞任を表明。後継の大統領として、当時首相だったプーチンを指名した。辞任演説では、国民の期待に応えられなかったことの許しを乞いたいと述べ、新しい時代のロシアには新しい指導者が求められていると語った。

その後表舞台からは姿を消し、悠々自適の年金生活を送ったという[4]。プーチン政権については、2004年ベスラン学校占拠事件発生後に知事を大統領による任命制に改めたことに対しては批判をする一方、2006年2月にプーチンはロシアにとって正しい選択だったと賞賛している。同年6月3日パリで開催されていた全仏オープン7日目を夫妻で観戦し、シャラポワから帽子にサインしてもらう姿が撮られている。これが最後の公の姿となった。

2007年4月23日、長年の心臓疾患による多臓器不全(一部報道では心血管不全症とも)によりモスクワの病院で死去。76歳だった。4月25日救世主ハリストス大聖堂にて国葬が行われ、プーチンはこの日を「国民服喪の日」とすることを宣言した。葬儀にはプーチン、ジョージ・H・W・ブッシュビル・クリントンらが参列した。なお、日本からは要人が派遣できなかった[5]。葬儀後、遺体はノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。

エピソード

議員時代に、泥酔し足を滑らせて川に転落。危うく命を落としかけるところを通りがかった警官に保護されて一命を取り留めるという珍事件に遭遇している。後にこれが「エリツィン議員殺人未遂事件」として騒ぎになった。本人も後年回顧録で非常に恥らいながら回想している。

著書

脚注

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外部リンク

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先代:
コンスタンチン・コベッツ
(代行)
ロシア連邦国防相(代行)
1992年
次代:
パーヴェル・グラチョフ
先代:
ヴィタリー・ウォロトニコフ
(最高会議幹部会議長)
ロシア共和国最高会議議長
1990年 - 1991年
次代:
ルスラン・ハズブラートフ

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  1. 国民一人ひとりに国有企業の株式を与え、自由に売買をさせることで民営化を進める方式。
  2. しかしその後心臓発作を起こしたという。また、このダンスを収めた写真は翌年の1997年ピューリッツァー賞特集写真部門を受賞している。この頃から(各国で報じられて有名な)「酔っ払い」あるいは「白熊エリツィン」と呼ばれるようになった。
  3. 政府による財政赤字の補填のため、エネルギー産業などの国営企業が株式を担保に金融機関から融資を受けられるようにした政策。
  4. AFPBB News「故エリツィン大統領、『晩年はプーチン政権監視下』と露元首相
    プーチン大統領時代の1期目である2000年から4年間首相を務めたミハイル・カシヤノフによれば、エリツィンはプーチン監視下での隔離された生活であったという。
  5. これは26日に安倍晋三首相の訪米が予定されていて政府専用機のスケジュールがふさがっており、かつモスクワへ向かう便の確保が葬儀に間に合わなかった(連絡のあった24日午前の段階で特使を指名し、当該特使が準備を整えて当日のモスクワ直行便へ搭乗することは、時間的制約から困難であったと見られる)ことによるもの。このような経緯から、麻生太郎外相(当時)は後日の閣僚懇談会で小型政府専用機の導入を提唱している。ちなみにロシア側も葬儀に当たって公式な弔問団の招待は一切しないとの表明をしている。