アナトリー・チュバイス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家

アナトリー・ボリソヴィチ・チュバイステンプレート:Lang-ru、ラテン文字転写の例:Anatoly Borisovich Chubais1955年6月16日 - )は、ロシア政治家、企業家。ロシアナノテクノロジー社(ロスナノテク)社長。ベラルーシ人。エリツィン大統領時代に大統領府長官、第一副首相兼蔵相を歴任し民営化政策を推進し、エリツィン時代後期にはボリス・ベレゾフスキーロマン・アブラモビッチらと共にロシアの政財界に強大な影響力を及ぼした。エリツィン政権末期からプーチン時代にかけては政権内からは離れるものの新興財閥(オリガルヒ)「統一エネルギーシステム(UES)」会長として一定の地歩を占めた。

経歴・概要

1955年6月16日、白ロシア共和国(現在のベラルーシ)に生まれる。父親は軍人。母方はユダヤ系。1977年レニングラード技術経済大学を卒業。1980年ソ連共産党入党[1]1990年からレニングラード市執行委員会副議長、第一副議長、サンクトペテルブルク市長首席顧問を歴任。1992年6月にロシア連邦政府、民営化担当副首相に就任。エゴール・ガイダル首相代行と共に急進的市場経済改革を実施した。

しかし、ガイダル、チュバイスたちが実施した経済改革は、脆弱なロシア経済にハイパーインフレーションをもたらした。更に、チュバイスは民営化を実施するにあたり、国営企業の経営者をそのまま、民営化した企業の経営者=所有者にした。これによって例えば国営石油会社の社長は、一夜にして民営化された石油会社の社長となった。チュバイスの民営化は、大変不平等な結果をもたらし、後に政界を操るようになるオリガルヒと呼ばれる新興財閥と寡頭資本家が生まれ、ロシア社会には、貧富の差が増大した。

1994年11月より有価証券委員会担当第一副首相。1996年1月解任。1996年の大統領選挙において、チュバイスはエリツィン陣営の選挙対策本部の責任者に就任し、ベレゾフスキーや他の新興財閥と協力し、エリツィンを再選に導く。エリツィン再選の功労により、1996年7月より大統領府長官に就任しエリツィン政権の「摂政」の異名をとる。1997年3月解任。第一副首相兼蔵相に就任。1997年11月解任。その後、UES会長に就任。

チュバイスは1998年8月、ガイダルと共に、セルゲイ・キリエンコ首相にルーブルの切り下げを迫った。首相は、その勧告に従ったが、これが引き金となりロシア金融危機が発生した。1999年12月に実施された下院選挙では、右派勢力をまとめ上げ右派連合を組織。同党は比例区で4位につけた。

このように、エリツィン時代、エリツィン・ファミリーの一員として、ロシアの政財界に強い影響力を誇ったチュバイスだが、プーチン大統領が就任し、状況は一変する。プーチンと「シロヴィキ」の新興財閥抑圧策により他の新興財閥同様、政治的影響力が衰えたと観測される。その一方でプーチンを強権政治と批判を強め、チュバイスは2008年大統領選挙に立候補を予定していたミハイル・カシヤノフ前首相を支持する可能性を示唆した。

2005年3月17日モスクワ近郊でチュバイスが乗った車が銃撃された。捜査当局は、暗殺未遂事件と見ている。チュバイスは「国内エネルギー業界の改革と民主勢力の統一をあくまで続行する」「誰がやったかは分かっている」と声明を出した。

2005年5月に発生した大停電に関し、プーチン大統領は同社の経営方法、経営陣に欠陥があることにより発生したと非難した。

他の新興財閥が投獄や訴追、懐柔によって政界への影響力を失っていく中、2011年現在では唯一反プーチン路線を声高に叫んでいる新興財閥の長である。

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

先代:
ミハイル・マレイ
ロシア国家資産管理委員会議長
1991年 - 1994年
次代:
ウラジーミル・ポレヴァノフ
先代:
ニコライ・エゴロフ
ロシア大統領府長官
1996年 - 1997年
次代:
ワレンチン・ユマシェフ
先代:
アレクサンドル・リフシツ
ロシアの蔵相・財務相
1997年3月7日 - 1997年11月20日
次代:
ミハイル・ザドルノフ
先代:
ボリス・ブレフノフ
統一エネルギーシステム取締役会議長(会長)
1998年 - 2008年
次代:
解体整理
先代:
レオニード・メラメード
ロスナノテク代表取締役社長
2008年 -
次代:
現職
  1. テンプレート:Cite web