ヤギェウォ朝

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テンプレート:ポーランドの歴史 ヤギェウォ朝ポーランド語Dynastia Jagiellonów)は、ポーランド王国の王朝。ヤゲウォ朝ヤゲロー朝とも[1]ピャスト朝フランス王家カペー家の流れを汲むアンジュー朝に続く、ポーランドで3番目の王朝である。1386年から1572年まで7代(アンナ女王を含めれば1586年または1596年まで8代)続いた。

ピャスト朝最後のカジミェシュ3世には嫡男がおらず、後継者には甥であるアンジュー家ハンガリーラヨシュ1世が選ばれて、ポーランド王ルドヴィクとして即位したが、1382年に没した。ルドヴィクの死後、王位を継いだ末娘ヤドヴィガは、1386年リトアニア大公ヤギェウォ(リトアニア名ヨガイラ)と結婚し、ヤギェウォはキリスト教に改宗してヴワディスワフ2世となり、ヤギェウォ朝を開いた。

ヤギェウォ朝はポーランドとリトアニア同君連合であるポーランド・リトアニア連合の君主として200年にわたってポーランドを統治し、リトアニアとあわせて連合王国を東はウクライナベラルーシから西は神聖ローマ帝国との境に接する大国に成長させた。またボヘミアハンガリーの王を兼ねる者も現れ、一時はヨーロッパ最大の王国として繁栄したが、1572年に断絶した。

ヤギェウォ家の血筋は、リヴォニア戦争の最中、スウェーデンヴァーサ家と婚姻関係を結ぶことで1668年まで命脈を保っている。このヴァーサ朝時代の初期までの2世紀あまりが、ポーランドの黄金時代であったと言える。

ポーランド王

ファイル:Jagiellonowie.png
ヤギェウオ朝の最大版図
ポーランド王国、リトアニア大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国
現在のポーランド、リトアニア、ウクライナ(の西部)、ロシア(の西南部)、ドイツ(の東部)、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア(の北部)、クロアチア(の北部)を含む

ヴワディスワフ3世、ヤン1世、アンナ以外はリトアニア大公を兼ねた(在位期間は重なるが、必ずしも一致しない)。

  1. ヴワディスワフ2世Władysław II Jagiełło, 1386年 - 1434年
  2. ヴワディスワフ3世Władysław III Warneńczyk, 1434年 - 1444年
  3. カジミェシュ4世Kazimierz IV Jagiellończyk, 1447年 - 1492年
  4. ヤン1世Jan I Olbracht, 1492年 - 1501年
  5. アレクサンデルAleksander Jagiellończyk, 1501年 - 1506年
  6. ジグムント1世Zygmunt I Stary, 1506年 - 1548年
  7. ジグムント2世Zygmunt II August, 1548年 - 1572年
  8. アンナAnna Jagiellonka, 1575年 - 1586年

ハンガリー王

テンプレート:See also

系図

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  • L:リトアニア大公
  • P:ポーランド王
  • H:ハンガリー王
  • B:ボヘミア王
  • S:スウェーデン王
  • K:神聖ローマ皇帝
  • O:オーストリア公・大公

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. ポーランド語名は、基本のの形ではヤギェウォJagiełłoヤギェーウォ)であるが、ヤギェウォ朝Dynastia Jagiellonówドィナースティヤ・ヤギェローヌフ)となると「ディナスティヤ・ヤギェヌフ」となる。「ヤゲウォ」、「ヤゲロー」は日本語での慣用。

関連項目