ハンガリー王国
テンプレート:基礎情報 過去の国 ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、洪:Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。
概要
1000年頃、イシュトヴァーン1世の即位によって王国が成立した。その一族であるアールパード朝による統治が300年続いたが1301年に断絶し、以降は選挙王政によって王位が継承されるようになった。1526年にオスマン帝国の攻撃を受けて領土を失陥した。前後してハプスブルク家による王位の世襲が固まり、ハンガリーはハプスブルク君主国の一部となった。1867年のアウスグライヒにより、オーストリア=ハンガリー帝国の一翼を担う王国に位置づけられた。1919年に帝国が崩壊し、ハンガリー民主共和国の成立により王国は一時消滅したが、1920年には新たな独立国としての「ハンガリー王国」が成立し、1946年に廃止されるまで続いた。
地理
テンプレート:See 現在のハンガリー共和国とは異なる。現在の共和国領全域に加え
がハンガリー王国の最大領域であった。
首都
- ペシュト(Pest) ( - 1361年)
- ブダ(Buda) (1361年 - 1541年)
- ポジョニ(ブラチスラヴァ)(Pozsony) (1541年 - 1784年)
- ブダ(1784年 - 1873年)
- ブダペシュト(Budapest) (1873年 - )
1541年から1784年まで現スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァが首都になったのは、バルカン半島に侵入してきたオスマン帝国の圧力から逃れるためである。
歴史
- 896年 アールパードに率いられたマジャール人がパンノニアに入る。10世紀前半、モラヴィアの大モラヴィア王国を征服、第一次ブルガリア帝国よりトランシルヴァニアアルプス山脈以北を獲得。ヨーロッパ各地に遠征。
- 1000年頃 イシュトヴァーン1世がローマ教皇より戴冠され、ハンガリー王国が成立する。同時期マジャル人がカトリックを受容し始める。
- 12世紀から13世紀 - ハンガリー王国の領域が最大となり、スロバキア、クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニアを領域化する(大ハンガリー)。
- 1241年 モンゴル帝国の襲来を受け(モヒの戦い)、異民族クマン族(ジョチ・ウルス)も流入する。ベーラ4世は、荒廃したハンガリーの復興事業を行なう。
- 1246年 テンプレート:仮リンクでベーラ4世がオーストリア公フリードリヒ2世を敗死させる。
- 1248年 バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王オタカル2世がオーストリアなどの支配権を獲得。
- 1260年 クレッセンブルンの戦いでベーラ4世がオタカル2世に敗れる。
- 1278年 マルヒフェルトの戦いでラースロー4世は神聖ローマ皇帝ルドルフ1世とともにボヘミアのオタカル2世を破り、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝とともに欧州の有力な勢力となる。
- 1308年 選挙王政に移行。外国貴族による王朝の時代。
- 1396年 オスマン帝国とのニコポリスの戦い。ジギスムント敗走。
- 1444年 オスマン帝国とのヴァルナの戦い。ヴァルナ十字軍が敗れ、1452年までハンガリー王位が空位となる。
- 1446年-1452年、ハンガリー王国摂政フニャディ・ヤーノシュによるハンガリー復興。
- 1458年 フニャディによってオスマン帝国撃退。
- 1479年 ハンガリー王マーチャーシュ1世がオーストリア(オーストリア大公国)を支配する。
- 1485年 マーチャーシュ1世、ウィーンを占領(-1490年)。
- 1526年 オスマン帝国とのモハーチの戦いでラヨシュ2世戦死。
- ハンガリー王国は領土の大部分をオスマンに奪われる。
- ハンガリー王位を巡り、ハプスブルク家とハンガリー貴族サポヤイ・ヤーノシュが争う。
- 以降ハンガリー王冠はハプスブルク家によって所有される。
- 1541年 オスマン帝国がハプスブルク家のハンガリー王位を承認。代わりにオスマン帝国領ハンガリーが南部に成立。
- 1571年 トランシルヴァニア公国が分離。ハンガリー王国は、公国とハプスブルク家の王領ハンガリー、オスマン帝国領ハンガリーに分断される。
- 1623年 ハプスブルク家によるハンガリー王位の世襲権を認める。
- 1683年 第二次ウィーン包囲。ポーランドの支援を受けて撃退。オスマン帝国への反撃を開始する。
- 1699年 カルロヴィッツ条約においてハンガリーがオスマン領ハンガリー、トランシルヴァニアなど大半を回復する。
- 1740年 マリア・テレジアによるハンガリー女王戴冠(オーストリア継承戦争)。
- 1761年 クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナも回復。
- 1804年 オーストリア帝国成立。
- 1848年 1848年革命起こる。ハンガリーで蜂起。ハンガリー独立宣言( - 1849年)
- 1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国成立(アウスグライヒ)。
- 1867年 クロアチアとの間でナゴドバ法が結ばれる。
- 1918年 第一次世界大戦において敗戦国とされる。カーロイ・ミハーイによるハンガリー民主共和国が独立宣言。
- トランシルヴァニアにルーマニア軍が、スロバキアにチェコスロバキア軍が侵攻。両国に占領される。
- 1919年 ハンガリー革命。クン・ベーラによるハンガリー・ソビエト共和国が成立。
- ルーマニア軍が侵入し、8月に首都ブダペストを占領(ハンガリー・ルーマニア戦争)。ハンガリー・ソビエト共和国崩壊。
- 1920年 トリアノン条約によって広大な領土を失う。
- クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナをセルビア・クロアチア・スロベニア王国が、北部ハンガリー(スロバキア、カルパティア・ルテニア)をチェコスロバキアが、トランシルヴァニアをルーマニア王国、ブルゲンラントをオーストリアが獲得する。
- 3月1日、ハンガリー王国の成立が宣言される。ホルティ・ミクローシュが摂政に就任。
- 1938年 ミュンヘン協定と第一次ウィーン裁定により南部スロバキア、南部カルパティア・ルテニアの獲得が決定される。
- 1939年3月14日 チェコスロバキアからスロバキア共和国とカルパト・ウクライナ共和国が独立。
- 3月16日 ハンガリー王国軍がカルパト・ウクライナを占領し、併合する。
- 3月23日 ハンガリー王国軍がスロバキアに侵攻(スロバキア・ハンガリー戦争)。ドイツの仲介により南部スロバキアを獲得。
- 1940年 第二次ウィーン裁定により、ルーマニアからトランシルヴァニア北部を獲得。
- 1941年4月6日 ユーゴスラビア侵攻に参加。ヴォイヴォディナ東部を獲得。
- 1944年 ドイツ軍と矢十字党のクーデター(パンツァーファウスト作戦)。ホルティが摂政を退位し、サーラシ・フェレンツによる親独政権が成立。
- 1945年3月27日 矢十字党政府が崩壊。ソ連軍がハンガリー全土を占領。ダールノキ・ミクローシュ・ベーラ首班のハンガリー臨時国民政府が成立。
- 9月、ティルディ・ゾルターンが首相就任。
- 1946年 王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立。ハンガリー王国の消滅。
- 1947年 パリ条約により、連合国との講和成立。ハンガリーの領域はウィーン裁定以前のものに確定。
- 1949年 ハンガリー人民共和国が成立。
歴代国王
テンプレート:See アールパード朝が300年(王国成立以前を含めれば400年)続いた後、13世紀末に断絶するが、その後はアールパード家の血を引く王位請求者による抗争を経て、1308年以降は選挙王制となる。14世紀にはほぼアンジュー朝の統治が続いたが、その断絶後はルクセンブルク家、ハプスブルク家、フニャディ家、ヤギェウォ家の間を王位が変遷した。
1526年以降はハプスブルク家が王位をほぼ独占し(ただし当初は対立王がいた)、同家の神聖ローマ皇帝が、1804年からはオーストリア皇帝がハンガリー王位を継承した。ただし例外が2人いる。1人はローマ王フェルディナント4世で、父フェルディナント3世の生前にハンガリー王位を譲られ、次期皇帝としてローマ王にもなっていたが、帝位を継承する前に死去した。このように、ハンガリー王位は帝位継承に先立って譲位されることが多かった。もう1人はマリア・テレジアで、彼女は神聖ローマ皇帝ではなかったが、ハンガリー女王の他にもボヘミア女王やオーストリア大公に即位した。彼女の夫フランツ1世は神聖ローマ皇帝ではあったが、オーストリア大公、ハンガリー王などではなかった。これは、マリア・テレジアがハプスブルク家の唯一の後継者でありながら、男子でなかったためサリカ法典により神聖ローマ皇帝になれなかったことで生じた(オーストリア継承戦争を参照)。法的にはマリア・テレジアのハンガリー王継承はカール6世が1713年に発した国事勅書によるものである。
1920年から1946年までのハンガリー王国
テンプレート:Main オーストリアから独立したハンガリー人民共和国は混乱が続き、革命によってハンガリー・ソビエト共和国が成立した。しかしソビエト共和国の統治も失敗した上にルーマニアの侵入を招き、ハンガリー・ルーマニア戦争によって崩壊した。
ソビエト政府の打倒に功績を挙げたホルティ・ミクローシュら保守派はハンガリー王国を再建することで混乱を収拾しようとした。国王としてハプスブルク家の一族であるヨーゼフ・アウグスト大公を擁立したが、ハプスブルク帝国の復活を懸念する国際社会から承認が得られず、ヨーゼフは即位を断念した。1920年3月1日、国王が空位のままハンガリー王国が成立し、ホルティが摂政として統治することになった。
1921年、オーストリア最後の皇帝カール1世もハンガリー王カーロイ4世として王国を改めて統治することを狙い、ブダペストに入城しようとしたが、周辺諸国の反対により失敗した(カール1世の復帰運動)。その後ハンガリー議会は1713年の国事勅書を無効とする議決を行い、マリア・テレジアの子孫であるハプスブルク=ロートリンゲン家のハンガリー王位継承権を否定した。しかしカール1世は1923年の死までハンガリー王退位を認めず、カール1世の長子オットー・フォン・ハプスブルク(元オーストリア皇太子)も名目上のハンガリー王を称した。
1944年、第二次世界大戦で講和を模索したホルティは、ナチス・ドイツのクーデターにより退位を余儀なくされた。その後は矢十字党のサーラシ・フェレンツを国家指導者とするファシスト政権が成立した。サーラシの政府は「Magyar Állam」(ハンガリー国)を国名としており、王国は事実上崩壊した。ただし正式に王国が廃止されたのは、反矢十字党勢力によってハンガリー第二共和国が成立した1946年である。
ハンガリー王国の残した問題
ハンガリー王国はその広大な領域に数多くのマジャール人を残した。現在でも、スロバキア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアには数多くのマジャール人が住んでおり、ハンガリーとこれらの国の外交問題の一つとなっている。
例として、ヴォイヴォディナにおいては1941年のユーゴスラビア侵攻の理由の一つとなった。また、1989年に起こったルーマニア革命も、発端はルーマニアのマジャール人問題であった。
1990年以降、ハンガリー共和国は国章として1920年から1946年までのハンガリー王国の国章と同じものを使用している。