モラヴィア
モラヴィア(テンプレート:Lang-en、テンプレート:Lang-cs、テンプレート:Lang-de, メーレン)は、チェコ共和国の東部の名称。歴史的な中心地はブルノ。
目次
歴史
地名はモラヴァ川に由来する。古代にスラヴ民族の王国の名称となり定着した。9世紀から10世紀にかけてスラヴ系民族が大モラヴィア王国を築く。東フランク王国と対立を繰り返しつつ、東ローマ帝国から正教会と文化を受け入れた。「スラヴの使徒」キュリロスとメトディオスが布教を行ったのも、このモラヴィア王国である。しかし王国内部からの分裂によって、東フランク王国に屈服を許し、カトリックを受け入れることとなった。その後、モラヴィア王国は内部分裂し、弱体化した。10世紀に入ると東欧から侵入したマジャル人に征服され、王国は滅亡する。
それ以降、マジャル人の建国したハンガリー王国に従属した。1241年にモンゴル帝国がポーランドに侵攻した際には、ボヘミア軍が援軍として派兵されたが、オロモウツまでモンゴル軍に迫られた(テンプレート:仮リンク、モヒの戦い)。
さらにハンガリーの王冠がオーストリアのハプスブルク家に渡るとその支配下に置かれた。この従属は20世紀まで続く。この過程でモラヴィアのスラヴ人は、ボヘミア人(チェック人)とほぼ同化され、チェコと同一化された。オーストリアとハンガリーに支配されたモラヴィアは、千年の桎梏と呼ばれるくびきを経て、1918年にチェコスロヴァキアとして、独立を果たした。共産化、冷戦を経て、1992年にチェコとスロヴァキアが分離すると、モラヴィアはチェコの一部として留まることとなった。
地域区分
地方
チェコの住民と地方は文化(主な特徴は言語、民俗衣装など)によって幾つかに区分され、モラヴィアの中にもテンプレート:仮リンク (Lachia, Lašsko) 、テンプレート:仮リンク (Wallachei, Valachia, Valašsko) 、テンプレート:仮リンク (Hana) 、テンプレート:仮リンク (Slovácko) といった地方名がある。
西部はボヘミア(ベーメン)という。チェコ共和国東北部のシレジアは普通モラヴィアには含まれない。
行政区分
主な都市と世界遺産
- イフラヴァ(イグラウ)
- ヴァルチツェ
- オロモウツ(オルミュッツ)
- ズノイモ(ツナイム)
- スラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)
- ブジェツラフ
- ミクロフ(ニコルスブルク)
- ブルノ(ブリュン)
- プロスチェヨフ(プロスニッツ)
- テンプレート:仮リンク
- テルチ
- テンプレート:仮リンク(クレムジール)
住民
民族・言語
この地方のチェコ語の方言を話す人々をモラヴィア人 (de:Mähren (Volk)) といい、チェコ人の下位の民族集団ともとらえられる。
宗教
文化
ハンガリー文化の影響を受けており、特にヴァラシュスコ(Valašsko, Wallachei, Valachiaとも。「モラヴィアのワラキア」と呼ばれる。14世紀から17世紀にかけ現在のルーマニアやカルパチア山脈西部から人々が移住してきた)地方はハンガリー的な音楽で有名である。またモラヴィア独特の方言もこの地方の音楽に影響を与えている。これらの独特の要素はレオシュ・ヤナーチェクらによって研究されている。
人物誌
歴代総督
有名な出身者
- グイード・アードラー - 音楽学者。ユダヤ系
- カウニッツ家
- クルト・ゲーデル
- ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス、ヨハン・アモス・コメニウス)
- エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト - 作曲家。ユダヤ系
- ジョーゼフ・A・シュンペーター - 経済学者
- レオ・ファル - 作曲家。ユダヤ系
- トーマス・ロシツキー - サッカー選手
- エドムント・フッサール - 哲学者。ユダヤ系
- ジギスムント・シュローモ・フロイト(後改名しジークムント・フロイト) - 精神分析学創始者の精神医学者。ユダヤ系
- エルンスト・マッハ - 哲学者、物理学者。
- アルフォンス・ムハ(フランス語名アルフォンス・ミュシャ) - アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー
- グレゴール・ヨハン・メンデル
- レオシュ・ヤナーチェク - 作曲家
- ヨーゼフ・ラデツキー伯爵
- アドルフ・ロース - 建築家
- フランティシェク・パラツキー - 政治家。歴史家
- ベンジャミン・ヘイン - 植物学者
在外
- カール・レンナー - オーストリアの政治家
関連項目
テンプレート:チェコの歴史的行政区画 テンプレート:Central-europe-stub