エルンスト・マッハ

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エルンスト・マッハ(1905年)

エルンスト・ヴァルトフリート・ヨーゼフ・ヴェンツェル・マッハテンプレート:De1838年2月18日 - 1916年2月19日)は、オーストリア物理学者科学史家哲学者オーストリア帝国モラヴィア州ヒルリッツ Chirlitz(現チェコモラヴィアフルリツェ Chrlice)出身のモラヴィア・ドイツ人である。

概要

マッハの研究した領域は哲学物理学科学史心理学生理学音楽学などの様々な分野にわたっている。物理学だけでなく、哲学心理学科学史科学哲学などの領域で、後世にまで残る大きな影響を残している。

哲学の分野では現象学等に多くの影響を与えている。認識論科学哲学の分野では、思惟経済という考えかたを強調したことで影響を残した。生理学でも《マッハ・ブロイアー説》など、マッハの名前が冠された業績は多数ある。心理学分野では《マッハの帯》や《マッハ効果》を発見し、さらに現在のゲシュタルト心理学知覚心理学にも影響を与えている。

生涯

ウィーン大学で学んだ。 グラーツ大学の教授(数学物理学担当)、プラハ大学の教授(実験物理学担当)の職を経験した後、1895年にウィーン大学教授として招聘された。ウィーン大学では新設された《機能的科学の歴史と理論》という講座を担当した。

1901年にオーストリア貴族院議員に選出されたのを機に、ウィーン大を退職した。

年譜

業績

物理学

超音速気流の研究でも有名であり、静止流体中を運動する物体が音速を超えた場合、空気に劇的な変化が起き衝撃波が生じることを実験的に示した(1877年)。この実験には、当時の最新技術であった写真撮影が用いられた。 この業績にちなみ、音速を超える物体の速度を表すための数(物体の速度と音速との比)は彼の名前を冠し「マッハ数」と呼ばれている。

科学史・科学哲学

科学史の分野では『力学の発達』(1883年)、『熱学の諸原理』(1896年)、『物理光学の諸原理』(1921年)が科学史三部作と呼ばれ、高く評価されている。

『力学の発達』1883年では、当時の物理学界を支配していた力学的自然観を批判した。

ニュートンによる絶対時間、絶対空間などの基本概念には、形而上学的な要素が入り込んでいるとして批判した。この考え方はアインシュタインに大きな影響を与え、特殊相対性理論の構築への道を開いた。そしてマッハの原理を提唱した。このマッハの原理は、物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる、とするものである。この原理は一般相対性理論の構築に貢献することになった。マッハは「皆さん、はたしてこの世に《絶対》などというのはあるのでしょうか?」と指摘したことがある[1]

マッハは、ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)で主張して後に、哲学者や科学者らに用いられるようになった「絶対時間」「絶対空間」という概念は、人間が感覚したこともないものを記述にあらかじめ持ち込んでしまっている、形而上的な概念だとして否定した。また同様の理由で、ニュートンがプリンキピアで持ち込んだ「」という概念の問題点も指摘し、ニュートン力学およびその継承を「力学的物理学」と呼び、そのような物理学ではなく「現象的物理学」あるいは「物理学的現象学」を構築するべきだ、とした。マッハのこうした表現は、フッサール現象学と共通する点もあるが、フッサール自身はマッハの考えに志向性の概念が欠けていることを批判している[2]。また同様に、形而上学的概念を排するべきだという観点から、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判した。

認識論の分野では、『感覚の分析』(1886年)と 『認識と誤謬』(1905年)が代表的著作である。

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マッハによるイラスト。マッハの左目で見た視覚体験

マッハの認識論の核心部は現在では「要素一元論」と呼ばれることがある。ヨーロッパで発達した、近代哲学及び近代科学は、-二元論や物心二元論などのパラダイムの中にある。マッハはそれの問題点を指摘し、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだとした。つまり我々の「世界」は、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば、色彩、感触、等々)から成り立っているのであって、我々が「物体」と呼んだり「自我」と呼んでいるのは、それらの感覚的要素がある程度安定した関係で立ち現れること、そういったことの複合を、そういった言葉で呼んでいるにすぎず、「物体」や「自我」などというのは本当は何ら「実体」などではない、と指摘し、因果関係というのも、感覚的諸要素(現象)の関数関係として表現できる、とした。そして「科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ」といったことを主張した。

マッハのこの論点に立つと、物理学と心理学との違いというのは、従来考えられていたような研究対象の違いではないことになり、記述を作り出す観点が異なっているにすぎない、ということになる。こうした観点に立ち、マッハは「統一科学」というものを構想した。

マッハは、感覚に直接立ち現れないことを先験的に認めて命題に織り込むようなことは認めない、としたわけで、いわば、実証主義の中でも極端な立場を採ったことになる。

そして当時、ニュートン流の粒子論原子論)的世界観を応用して理論を構築しつつあり世界を実在論的な見方をしていたルートヴィッヒ・ボルツマンマックス・プランクらと論争を繰り広げた[3]

影響

ウィーン学団への影響

マッハの、形而上学を超えようとする発想、現象的物理学や統一科学の構想などは、当時の若手の哲学者・科学者らに多大な影響を与え、ウィーン学団の結成のきっかけとなり、同グループによる論理実証主義統一科学運動の基礎を提供することになった。

レーニンの批判

マッハは、《唯心論的立場》対《唯物論実在論》の対立を乗り越えて、その両者の上を行く視座を提供すると称した。マッハは共産主義者らにも影響を与え、オーストリア社会民主党ロシア社会民主党などのボグダーノフバザーロフユシケーヴィチらが弁証法的唯物論を変革しようとした。

それを見て、レーニンは、『唯物論と経験批判論』[4]を書き、「感覚の複合としての物というE・マッハの学説は、主観的観念論[5]であり、バークリー主義のたんなる焼き直し」[6]であると厳しく批判した。

著書

  • John T. Blackmore, Ernst Mach - His Work, Life, and Influence, University of California Press: Berkeley & Los Angeles, 1972. ISBN 978-0520018495.
  • John Blackmore (ed.), Ernst Mach - A Deeper Look, Dordrecht, Netherlands: Kluwer, 1992. ISBN 978-0792318538.
  • J. Blackmore, R. Itagaki and S. Tanaka (eds.), Ernst Mach's Vienna 1895-1930, Dordreht, Netherlands: Kluwer, 2001. ISBN 978-0792371229.
  • John T. Blackmore, Ryoichi Itagaki and Setsuko Tanaka (eds.), Ernst Mach's Science: Its Character and Influence on Einstein and Others, Kanagawa, Japan: Tokai University Press, 2006. ISBN 978-4-486-03188-8.

邦訳書

参考文献

脚注

  1. ただし、マッハ自身は相対性理論に対しては、生涯否定的な立場をとった。
  2. 谷徹「現象学と経験の可能性の条件」
  3. 尚、当時、分子なるものが存在するかどうかについて、科学者たちの見解は一致を見ず、科学界の大御所のマッハの見解は大きな影響力を持ち、それを支持する科学者が多数であった。ただし、ボルツマン流の世界観を支持する科学者もおり、科学界は混乱していた。だが、20世紀初頭にアインシュタインがブラウン運動の研究で分子の存在を示したことで、一旦、当時の科学者の間では見解が落ち着き、1916年にマッハが死去したので、収束した形になった。その後、一応「原子」と呼ぶことができる存在があるようだ、と科学者たちから認識されたが、だがその後、当時原子と呼ばれ分割不可能なように信じられた存在も内部構造があるということがわかり、、《直接知覚できない最小単位》を前提にして組み立てる仮説(=原子論素粒子論)のような方法で知識を構築することが果たして妥当かどうか、という認識論上の懐疑は、数十年を経て、再認識されるようになっており、認識論上はマッハの考え方の価値は現在でも(肯定的に)評価されている
  4. 『日本大百科全書』(小学館)の「唯物論と経験批判論」の項目を参照。
  5. 『日本大百科全書』(小学館)の「観念論」の項目も参照。
  6. レーニン 『唯物論と経験批判論 上』 新日本出版社〈新日本文庫〉、1979年、48頁。

外部リンク

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