ホルティ・ミクローシュ
テンプレート:ハンガリー人の姓名 テンプレート:政治家 テンプレート:基礎情報 軍人 ヴィテーズ・ナジバーニャイ・ホルティ・ミクローシュ(テンプレート:Lang-hu [ˈvite̝ːz ˈnɒɟbɑ̈ːɲɒi ˈhorti ˌmikloːʃ]、1868年6月18日 - 1957年2月9日)は、ハンガリーの海軍軍人、政治家。ハンガリー王国の事実上の元首である執政(テンプレート:Lang-hu)を務めた(在任:1920年3月1日 - 1944年10月15日)。フランス語風のミクローシュ・ホルティ・ド・ナジバーニャ(Miklós Horthy de Nagybánya)と言う名でも知られている。「ヴィテーズ(vitéz)」 とはハンガリー語で「勇者(勇爵)」の意味であり、ホルティが自ら創設した「テンプレート:仮リンク(Vitézi Rend)」に列せられた者だけが、自分の姓名の前に付ける事を許された称号であり、正式には名前の一部ではない。
ハンガリー王国におけるホルティの地位を表すkormányzójaは、日本語では「摂政」「執政」「執政官」などと訳される。当時のハンガリーは王制であったため、本来の国家元首は国王であるべきであったが、後述する事情によって国王を選出することができず、その代行としてkormányzójaを設置した。
生涯
オーストリア=ハンガリー帝国海軍
現在のヤース・ナジクン・ソルノク県ケンデレシュ市の在郷貴族の家に生まれた。1886年、当時、ハンガリーで唯一の海港都市だったフィウメ(現在のクロアチア領リエカ)市の海軍兵学校で教育を受け、オーストリア=ハンガリー帝国海軍に入隊。1899年から教育艦「アルテミダ」艦長。1903年から「ハプスブルク」の水雷士官を務め、数ヵ月後に「ザンクト・ゲオルク」に異動。1907年から帆船「ラクロマ」一等士官に異動。1908年、コンスタンティノープル(イスタンブル)海軍泊地長に昇進。翌1909年に艦隊勤務から離れて、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の侍従武官を拝命した。
第一次世界大戦勃発後の1914年8月、帝国海軍第3戦隊旗艦戦艦「ハプスブルク」の艦長となる。同年12月、巡洋艦「ナヴァラ」艦長に異動。イギリス=フランス=イタリアの三国連合艦隊がアドリア海を海上封鎖するも、圧倒的な戦力差の中突破に成功。1917年5月にはオトラント作戦を発動しイタリア海軍東地中海艦隊を撃破、国民的名声を得た(オトラント海峡海戦)。翌1918年、帝国海軍提督マクシミリアン・ニェゴヴァンに代わり少将ながら帝国海軍総司令官に就任。停戦により艦隊が戦勝国に接収されるまでこれを務めた。同年10月、ユーゴスラビア・アルバニア沿岸への出撃を計画したが、作戦の要となる戦艦「セント・イシュトヴァーン」がイタリア海軍の水雷艇による雷撃を受け撃沈されたため、計画は頓挫。10月30日、海軍中将に昇進。11月3日の休戦協定後、艦隊は正式に活動を停止。しかし同時期に、敗戦の混乱に乗じてコトルで発生した暴動を陸戦隊によって鎮圧している。
アドリア海を中心とした地中海中東部で、イギリス・フランス・イタリアと言った海軍国を相手に寡兵とも言える帝国海軍を率いて暴れ回り、大戦間を通じ終始軍事的優位を保った提督としてホルティはハンガリー国内に不動の名声を築く事となった。
ハンガリー国民軍
1918年11月16日、ハンガリーはハンガリー民主共和国(第一人民共和制)として独立したが、その前途は多難であった。北部ハンガリー(スロバキア、テンプレート:仮リンク)はチェコスロバキアとして独立。また、ハンガリー領だったトランシルヴァニアはルーマニアに占領されるなど、帝国解体後に大きく領土を喪失、国民の不満は高まった。
1919年3月1日、ハンガリー革命が発生し、クーン・ベーラの指導により蜂起した一部の都市・炭坑労働者が共産主義政権ハンガリー評議会共和国(ハンガリー・ソビエト共和国とも)を樹立。しかし評議会(ソビエト)共和国は、その国民の大半が敬虔なカトリック農民である、元来保守的な国民性のハンガリー人からは支持を得られなかった。大半の国民から支持を得られず、焦りを覚えた評議会は赤色テロを行い、旧皇帝派・教会に属する多くの人々が迫害を受けた。4月16日、ハンガリー国内の混乱を見たルーマニアが「赤色革命の飛び火」を恐れてハンガリーへ侵攻(ハンガリー・ルーマニア戦争)。評議会は国土防衛の為、急遽炭坑労働者を中心に国土防衛隊を組織、トランシルヴァニア地方への逆侵攻をも狙って行軍を開始した。第一次大戦による敗戦と帝国解体、領土喪失とルーマニアの侵攻と言うまさに「亡国の危機」に瀕した。
フィウメにて帝国艦隊の解散とイタリア海軍への艦船の引き渡しと言う屈辱的な敗戦処理を終えたホルティは、一度は帰郷し名誉貴族として静かに隠棲するつもりでいたが、ホルティの元には共産主義に反対する人々が日々陳情・請願に訪れ帰郷できる状態ではなかった。祖国の混乱に対して「軍人は政治家に非ず」と言う厳格な理念を抱いていたホルティは忸怩たる思いでいたが、ルーマニアの侵攻と言う軍事的危機に際し遂に祖国奪還・評議会打倒を決断、イタリアに接収されたフィウメを後に、6月にハンガリーへ帰国。旧帝国海軍兵を率いてハンガリー西部の名も無き村で蜂起した。このホルティの勢力はハンガリー国民軍と呼ばれ、全国的な反評議会運動へ発展、ホルティの元には日々志願兵が集まり、国民軍は短期間の内に「正規軍」とも言える規模にまで拡大した。だが、国民軍よりも早く8月6日にルーマニア軍がブダペストへ入城しクーン政権を打倒。11月14日にルーマニア軍はブダペストから撤退し、代わってホルティ率いる国民軍が晴れてブダペスト入城を果たし、ハンガリー全土の政権を掌握した。この後、赤色テロの反動のためか愛国者・保守皇帝派による共産主義者やユダヤ人に対する白色テロが横行した(テンプレート:仮リンク)。
国民軍は旧帝国皇族であったオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストを「我らが王」(Homo Regius)として擁立していたが、ハプスブルク王国の復活を怖れる協商国陣営とルーマニアに反対され、10月23日にヨーゼフ・アウグスト大公は暫定的な王位から退位せざるを得なかった。以降極めて短期間ではあるが「共和国大統領」による統治があったものの、国内の愛国者達は聖イシュトヴァーンの王冠の地として、かつて中欧に栄えた王国の残照を追い「ハンガリーの誇り」を盛んに鼓舞。これが国民的な社会変革運動へ発展し、国内世論は国王を擁した立憲君主主義体制へと傾いた。ヨーゼフ・アウグスト大公が暫定的な王位を退位して僅か数ヵ月後の1920年2月には国民投票が行われ、王政復古が決定された。
ハンガリー王国執政
1920年3月1日、ハンガリー国会は第一次世界大戦の敗戦により事実上瓦解していた(チェック人・スロバキア人を始めとする各民族の「民族自決」による独立)オーストリア=ハンガリー帝国を収拾し再建すべく、その第一歩としてハンガリー王国の成立を宣言した(元々ハンガリー人は帝国の中核をなす民族としての自負が高く、事実ハンガリー人貴族の方がドイツ人貴族より多かった)。しかしハプスブルク家の国王推戴は戦勝国側である協商国に否定され、ハンガリーは国王不在を余儀なくされた。この状況を打開すべく、国会は事実上の元首としてホルティをハンガリー王国執政に選出(138票中131票獲得、5票は欠席、2票は退席)。この選出は表向き協商国に対する安全保障、つまりオーストリアを追われたハプスブルク=ロートリンゲン家の皇帝カール1世(カーロイ4世)をハンガリー国王に復位させないことを条件とした選出であったが、実際にはカール1世を戴いてオーストリア=ハンガリー帝国の再興を目指す皇帝派と、ハンガリー王国として失地回復を目論む民族主義者との妥協の産物とも言えるものであった。ちなみに、ソビエト政権打倒後のホルティは国内の地方都市を巡行し、かつて共に戦った退役軍人達との交流を愉しんでいたが、職業軍人的な思考から政治には無関心であったため、国会が自分を執政に指名していることすら新聞記事を読むまで知らなかったという(実際にはホルティの性格を熟知していた側近達が情報を隠蔽していた)。自らの意志とは関係なく、半ば強制的に選出された事に激怒したホルティは「私は一介の軍人に過ぎない。忠誠を誓うのは大公殿下とハンガリー国民のみだ」と辞退しようとしたが、そのヨーゼフ・アウグスト大公が直々にホルティの元を極秘裏に訪れて執政就任を要請、ホルティも断り切れず正式に執政就任を受諾した。ホルティは国王不在のまま執政として、長い大戦とそれに続く混乱・内戦で疲弊した国内経済の立て直しに着手、国会は概ねホルティの政策を支持し、議会制立憲君主主義ながらも緩やかな独裁体制が確立した。1921年3月6日と10月にはカール1世がハンガリーに帰国し、ハンガリー王カーロイ4世としての地位を要求したが、協商国との係争化を懸念した国内世論に推されてホルティはこれを拒否、ホルティ自身はハプスブルク家への忠誠を誓っていたが、11月に国会がカーロイ4世の退位を決議した事でホルティもハプスブルク家による立憲王政への回帰を諦めざるを得ない状況となった(カール1世の復帰運動)。
1920年6月20日にトリアノン条約が成立、ハンガリーの領土は著しく削減された。北部ハンガリー、トランシルヴァニアなどを失い、ハンガリーは伝統的な国土の大半を失った。この為ハンガリー国内には不満が鬱積し、失地回復が要求される様になった。民族主義者達はイタリアで起ったファシスト運動に触発され、矢十字党を始めとして数多くの民族主義政党を設立、国会選挙を通じて一定の議席数を確保し、国政へ発言権を増幅させていった。国会は復興目覚ましいナチス・ドイツへ接近、渋るホルティを促してドイツとの軍事同盟を締結させた。ホルティ自身はナチス政権に懐疑的で、時に嫌悪感すら表していたが、国内世論に流されて新たな戦争へと突き進む事となった。ドイツはハンガリーへの懐柔策としてウィーン裁定を行い、スロバキア南部とカルパティア・ルテニア、ルーマニアから北部トランシルヴァニアをハンガリーへ返還させた。また、ドイツ軍のユーゴスラビア侵攻後、東部ヴォイヴォディナを割譲した事から、ハンガリー国内ではより一層ドイツに協力的なファシスト運動が盛んとなった。
第二次世界大戦の独ソ戦が始まると、国内のファシズム運動に押され国会も枢軸国の一員としてソビエト連邦に宣戦布告を決議、ホルティも追認した。しかしホルティは反共主義者ではあったものの、現実主義者としての側面も強く、破竹の勢いで欧州を席巻したドイツ軍を評価しつつも、ソ連への宣戦には懐疑的だった。「ロシアの冬を甘く見るな、ナポレオンの二の舞になるぞ」と駐独大使に忠告している。ハンガリー軍はルーマニア軍と共に長大なロシア戦線の最右翼、オデッサ方面の攻略を担い、参戦当初は順調に進撃していた。しかし「野砲の援護と騎兵突撃」を組み合わせたハンガリー軍の旧来の戦法は、後に登場したT-34を始めとするソ連軍の新式中・重戦車に太刀打ち出来なくなっていった。スターリングラード攻防戦でのパウルス元帥率いるドイツ軍の壊滅など次第に枢軸国が劣勢となると、ホルティはドイツと距離を置くことを考慮し始めた。また、ドイツはハンガリー国内のユダヤ人をドイツ国内に移送することを要求したが、ナチスによるユダヤ人政策にかねてから批判的であったホルティはこれを断固拒否、駐在するドイツ大使を政務室へ呼びつけ、「諸君が我が国から誘拐出来るユダヤ人はただの一人も存在しない。彼等は我々の友であり、我々と同じ国民だ。私は執政として国民を護る義務を負う者である」と一喝したエピソードが伝えられている。
テンプレート:Main 1944年3月、首相テンプレート:仮リンクが行っていた連合国との休戦交渉が発覚し、ハンガリー全土はドイツ軍によって短期間の内に無血占領された(マルガレーテI作戦)。8月、隣国ルーマニアが枢軸国を離脱し、ソ連軍がハンガリー国境に迫った。ホルティはドイツと断交し、連合国と休戦することを決定した。しかし、それを阻止したいドイツはホルティの次男ミクローシュを誘拐し(ミッキーマウス作戦)、親独派の矢十字党に政権を握らせるクーデターを起こした。ホルティは「息子と国家とどちらが大事なのか、それが分からない程愚かではない」と当初は要求を撥ねつけていたが、矢十字党から要求を呑まなければ各地方の主なカトリック教会の司祭を処刑すると脅迫され動揺、その間にも既成事実化すべく、10月15日に矢十字党は休戦を発表したホルティの放送を撤回し、王宮は矢十字党党員とドイツ兵に取り囲まれた。ホルティはドイツの強要に従い、矢十字党のサーラシ・フェレンツを首相および国家指導者に指名した後、執政の座から退くことを宣言。王宮で会見したホルティがサーラシに対して「国を売り渡す者よ、私を(王宮前広場に)吊るす革紐は用意出来たかね?」と悪態を吐いた事は有名である。ホルティを愛国者として、また大戦の英雄として深く尊敬していたサーラシはホルティの悪態に酷くうろたえ、ホルティ連行後も数日間、王宮への登城を控えた程であった。以降ハンガリーは、ソ連軍によって占領されるまで枢軸国側に留まった。ホルティは「亡命」と言う形でドイツに連行され、以降ドイツ国内の別荘地に軟禁された。なお、誘拐された息子ミクローシュは終戦後にアメリカ軍によって解放されている。
戦後
戦後拘留を解かれたホルティに対して、戦犯テンプレート:要曖昧さ回避として裁くことをユーゴスラビアが要求したが、この訴えは連合国によって却下された。ホルティは身の安全を得たが、ソ連軍の占領下でハンガリーには共産主義政権が樹立されたため、帰国することができなくなった。以後、ホルティは家族と共にアントニオ・サラザール政権下のポルトガルで余生を送り、1957年に死去した。晩年に両世界大戦を振り返った回想録を執筆している。ハンガリー動乱が鎮圧されたことに衝撃を受け、「ロシア兵が一人残らずハンガリーを去るまで」自分の遺体をハンガリーには返さないよう言い残した。かつて国民軍を率いソビエト政権と戦った勇将として、最後の意地とも言える遺言であった。
ホルティの遺骸はソ連が崩壊しハンガリーが民主化を達成した後の1993年にようやくハンガリーに戻され、故郷のケンデレシュに埋葬された。ハンガリー国内でのホルティの評価は「大戦の英雄」であり、また「困難な時代に担ぎ出された指導者」として概ね同情的であり、ホルティの霊廟には今も献花が絶えることはない。
外部リンク
- Horthy’s memoirsホルティの回顧録の英訳。
関連項目