T-34
T-34(テンプレート:Ru テンプレート:Small、ティーさんじゅうよん)は、第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車である。
開発
背景
スペイン内戦やノモンハン事件の戦訓で、BTシリーズは、機動力は申し分ないが防御力に問題のあることが浮彫となり、その快速性を受け継ぐ新たな中戦車を求めるようになった。そこで開発されたのがT-34である。
1939年の時点で、ソビエト軍で最も数が多かった戦車は、T-26軽戦車と、BTシリーズの快速戦車であった。T-26は動きの遅い歩兵戦車で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方、BT戦車は巡航戦車で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために、非常に快速の軽戦車として設計されていた。いずれも装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性があったが、対戦車ライフルや PaK 36 対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。さらに、その当時は世界中の戦車で用いられていたガソリンエンジンは「わずかの刺激で[1]」炎に包まれた (Zaloga & Grandsen 1984:111)。いずれも1930年代の初期からソ連が外国の設計を基にして開発したもので、T-26はイギリス製のヴィッカース 6トン戦車、BTはアメリカ人技術者ジョン・W・クリスティーの戦車が原型であった。
A-20とA-32
1937年、赤軍は技師ミハイル・コーシュキンをBT戦車の後継戦車開発チームのリーダーに指名し、その作業はハルキウのハリコフ機関車工場 (KhPZ) で行われた。A-20型(別名BT-20)と呼ばれた試作戦車は、装甲の厚みを20 mm とし、45 mm 砲M1934を装備し、ガソリンよりは燃えにくい軽油を用いたV型12気筒の新型エンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用した。また、BT戦車の8×2輪のコンバーチブル・ドライブ(道路を走る場合には履帯を取り外して車輪で走行できる機能)を継承し、A-20では8×6輪のコンバーチブル・ドライブを採用しており、これにより履帯無しでも走行できた(Zheltov 1999)。この特長により、1930年代の信頼性の低い履帯のメンテナンスや修理作業を大幅に削減でき、更に舗装道路上では時速 85 km での走行が可能となったが、戦闘にはあまり役立たない特長であるとも言えた。結局、設計者らは空間と重量の無駄であると考えるようになった(Zaloga & Grandsen 1984:66, 111)。また、A-20には先行する研究(BT-IS および BT-SW-2 計画)から傾斜装甲を取り入れた。A-20は全方向が傾斜装甲で、これは垂直に立ててある装甲板と比べると、徹甲弾を弾いて逸らしやすい[2]。
コーシュキン技師はソビエトの指導者スターリンを説得して、別の試作戦車を開発する許可を得た。それは、T-26 および BT戦車のいずれの後継戦車にもなりうるような、より重武装・重装甲の「万能戦車」を開発するという計画であった[3]。コーシュキンは二番目の試作戦車を、32 mm の前面装甲にちなんで、A-32と命名した。A-32には45 mm 砲 M1938または76.2 mm 砲 L-10を採用し、A-20と同じV-2ディーゼルエンジンを採用した(Zaloga 1994:5)。なお、構造が複雑な割に実用性が低いクリスティー式戦車譲りのコンバーチブル・ドライブは、A-32の時点で廃止されている。
A-20とA-32は1939年にクビンカで性能試験を受けた。試験の結果は両車とも良好で、より重装備のA-32がA-20と同等の機動性を持っている事が証明された。そしてスターリンの裁定でA-32がT-32として正式採用されることになった。
A-34/T-34の誕生
しかし、冬戦争でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45 mm にするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2 mm 砲 L-11に強化することとなった。
この改良試作車A-34の完成を待たずに、1939年12月にはT-34として正式採用された。T-34という名前は、機甲兵力の拡張を命ずる命令が出されてグリゴリー・オルジョニキーゼが戦車生産を率いることとなり、コーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなんで、コーシュキンが命名したものである(Zaloga 1994:6)。
コーシュキンのチームは、1940年1月にT-34の試作車を2輌完成させた。T-34は、同年4月と5月に、ハルキウからモスクワまでの 2000 km の走行試験を行って、クレムリンの指導者たちに姿を披露したあと、フィンランドのマンネルハイム線まで行き[4]、ミンスクとキエフを経由してハルキウに戻った(Zaloga 1994:6)。伝動機構(ドライブトレイン)にいくつか欠点が見つかり修正された(Zaloga & Grandsen 1983:6)。軍の司令部からの反対論や、生産コストが高い事についての懸念はフィンランドとの冬戦争において露呈したソビエト戦車の性能の低さや、ドイツの電撃戦の有効性を示すことによって克服され、1940年9月に量産第1号の戦車が完成した。ハリコフ機関車工場ではT-26、BTシリーズ、そして多砲塔のT-28中戦車の生産を打ち切り、全ての生産ラインをT-34に変更した。コーシュキンは同月の末に肺炎で亡くなった(ハルキウからモスクワへの試験走行によって悪化していた)。後任の主任設計技師にはT-34の伝動装置の開発者であるアレクサンドル・モロゾフ技師が指名された。
T-34は、サスペンションには過去の設計の延長としてBTシリーズから引き継いだコイルスプリングを用いたクリスティー式サスペンションを採用していた。駆動部分としては、重量に対して比較的出力の高いエンジンを持ち駆動輪は後輪とし、ソビエト連邦の大地に適した幅広の柔軟な履帯を備えていた。履帯が上滑りしたときに巻きもどすしくみはなく、重量がかさむ割に効果の低いコンバーチブル・ドライブは廃止されている。装甲に置いては優れた傾斜装甲である。武装については、初期型は76.2 mm 砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる(第二次世界大戦当時のドイツ軍側がこの名称で呼んだのが初出である)。1944年には2番目の改良型の生産が始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。これは 85 mm 砲を搭載した大きな砲塔を備えている。
T-34が実戦に投入されたのは、1941年7月のバルバロッサ作戦からで、初期の戦闘では乗員の未熟さや、無線設備の不備により連携しての戦闘ができなかったり、トランスミッションを故障させ放棄されたり、性能的に劣っているはずのドイツ軍の戦車や突撃砲[5]に撃破されたりもした。
生産体制の確立と維持
T-34はソビエト工業にとって新たなる挑戦だった。T-34の装甲は、それまで作られていた中戦車のどれよりも厚いものだったし、いくつかの工場で作られた部品を組み合わせて作る必要があった。例えば、V-2エンジンは第75ハリコフディーゼル工場が供給し、レニングラードのキロフスキー工場(前身はプティロフ工場)が76.2 mm 砲 L-11の原型をつくり、モスクワのダイナモ工場が電気部品を作るといった具合である。当初、T-34は第183ハリコフ機関車工場で作られたが、1941年初期からはスターリングラード・トラクター工場で作られ、ドイツが侵攻してきてからしばらく経った7月にはニジニ・ノヴゴロドの国営第112クラスノヤ・ソロモフ工場でも生産が始まった。この頃は不完全な装甲板が生産される問題があった(Zaloga 1983:6)。新型のV-2エンジンの数が不足したため、国営第112クラスノヤ・ソロモフ工場での初期の生産においてはBT戦車にも使われたガソリン式のミクーリン M-17航空機エンジンや、性能の劣った変速機やクラッチを取り付けていた(Zheltov 2001:40-42)。無線機は高価である上に供給量も少なく、中隊長用の戦車にのみ取り付けられた。L-11砲は期待通りの性能を発揮しなかったため、第92ゴルキー工場のワシリー・グラビン技師の設計チームはより優れたF-34 76mm戦車砲を設計した。官僚たちは生産を認めなかったが、ゴルキー工場とハリコフ機関車工場はそれに構わず新型の砲の生産を始めた。前線の部隊からこの新型砲への賞賛の声が届いた後、スターリンのソ連国家防衛委員会から、ようやく新型砲生産の正式な許可が届いたのだった(Zaloga & Grandsen 1984:130)。
陸軍の保守派からは、「旧式のT-26やBT戦車の生産も継続すべき」とか、「より発展したT-34Mの設計が固まるまでT-34の生産は延期すべき」といった政治的な圧力が掛った。こうした政治的圧力は、T-34と競争関係にあったKV-1戦車やIS-2戦車の開発グループが吹聴したものであった[6](Sewell 1998)。
1941年6月22日、ドイツがソビエト連邦を奇襲攻撃したバルバロッサ作戦が開始された。これを受けてソビエト連邦は戦車の改良を凍結し、戦車の大量生産に舵を切った。
ドイツ軍の進撃は速かったため、それまでに前例がないほどのスケールと速さで戦車工場をウラル山脈へ疎開させねばならなかった。ハリコフ機関車工場はニジニ・タギルのジェルジンスキー・ウラル貨車工場の近辺に移設されることとなり、第183スターリン・ウラル戦車工場と改称した。キロフスキー工場は、その一週間前にレニングラードから避難して、ハリコフ・ディーゼル工場と共にチェリャビンスクのスターリン・トラクター工場となり、間もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車の町)という別名が付けられた。レニングラードから避難した第174ヴォロシーロフ戦車工場はウラル工場に吸収されて新たに第174オムスク工場として再出発した。いくつかの小さい工場はエカテリンブルクのオルジョニキーゼ・ウラル重機械工具製作所(UZTM)に吸収された。これらの工場が記録的な速さで移動している間、スターリングラード・トラクター工場周辺の工業地区がT-34の全生産量の内の40%を生産していた(Zaloga & Grandsen 1983:13)。この工場はスターリングラード攻防戦の激戦の中で包囲されてしまい、状況は絶望的になった。物資の不足により生産方法を変更せざるを得ず、塗装されていないT-34が周辺の戦場へ出て行ったとする主張もある(Zaloga & Sarson 1994:23)。スターリングラードの工場は1942年9月まで生産を続けた。
スターリングラードのように生産が妨害された場合は別として、生産現場に許されたのは戦車をより簡単に、より安く作るための変更だけであった。エフゲニー・パトン教授による技術革新などにより、板の溶接および硬化を自動化する方法が開発された[7]。F-34 76mm戦車砲は初期型では部品数が861点あったが、それが614点まで少なくなった(Zaloga & Grandsen 1984:131)。その後の2年間で、戦車の生産コストは1941年時点の26万9500ルーブルから、19万3000ルーブルへ下がり、その後更に13万5000ルーブルにまで抑えられた(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そして戦車の生産に要する時間は、熟練工員が戦場に送られて、50%が女性・15%が少年・15%が身体障害者や老人という勤労団が生産を行うという状況にもかかわらず、1942年末までに半分の時間にまで短縮された。それと同時にT-34は、それまでは「美しい外面仕上げで立派に作られた機械であり、西欧やアメリカと並び立つ、あるいは優れている」と言われていたが、この頃になると表面の仕上げは雑になっていた。しかし機械的な信頼性には妥協がなかった(Zaloga & Grandsen 1983:17)。
改良
1942年になって、既に放棄されていたT-34M計画において考えられていた六角形の砲塔を生産に移す事になった。この新型砲塔は砲塔内の窮屈さを解消すると共に、車長が全方向を見渡せるように、車長席にコマンダーキューポラも付けられる事になった。ゴムの供給量が限られていたため、転輪は鋼鉄製であった。また、改良された5段変速の変速機とエンジン、そして新型クラッチが採用された。
1942年には、長砲身の優れた貫徹力を持つ 75 mm 砲を装備したドイツ軍戦車が戦場に登場した。モロゾフ技師の設計チームは、T-34を発展させたT-43戦車の開発を計画した。これは、装甲を更に強化する一方で、トーションバーサスペンションや三人式の砲塔といった最新の特徴を取り入れる狙いを設計に持たせていた。T-43はT-34ばかりでなくKV-1重戦車の代替にもなりうるような万能戦車として計画されたため、KV-1重戦車を開発していたチェリャビンスクの重戦車設計チームによるKV-13計画と真正面から競争する事になった(Zaloga et al. 1997:5)。
1943年になると、ソビエト軍は新型のドイツ軍戦車ティーガー戦車やパンター戦車と戦わねばならなくなった。クルスクの戦いにおける経験により、T-34の76.2 mm 砲ではもはや十分に戦えないという報告が前線から届いていた。また、既にあった85 mm 高射砲は新型ドイツ軍戦車にも有効であるという事も分かったので、この砲を戦車に搭載する事になった(Russian Battlefield 1998b)。しかし、より厚くしたT-43試作車の装甲でさえもティーガーの88mm砲に対しては十分ではなく、また機動性の面でみても、より重い85 mm 砲を搭載する前の状態であったにもかかわらずT-34の機動性よりも劣っていた。T-43の部品は70%以上がT-34と共通であったが、T-43の生産も並行して行うと、生産の速度はかなり低下する事が予想された(Zaloga et al. 1997:5)。
結局T-43計画は中止される事になり、ソビエトの司令部はT-34の新型を製造するように工場を再改装するという難しい決断をした。T-34の新型では砲塔を嵌め込む穴の径を 1425 mm から 1600 mm に広げ、より大きな砲塔を取り付けられるようにした。T-43の砲塔の設計をクラスノヤ・ソロモフ工場の V.ケリチェフ技師が急遽やり直して、T-34に合うようにした(Zaloga 1984:166)。こうして完成した新型のT-34-85は以前よりはるかに優れた砲を持ち、遂に無線付きの三人式の砲塔となった(無線機はそれまで車体の方にあった)。これにより車長は砲手や装填手の役割を兼務する事から解放され、戦車の指揮に集中できるようになった。また、もう一つ重要な点は、イギリスやポーランドで戦前に設計されたものをコピーしたヴィッカース 戦車用ペリスコープ MK.IV(戦車用の潜望鏡)が砲塔の屋根に取り付けられた事で、これにより車長は全方向の視野を得る事ができるようになった。
T-34は85 mm 砲を装備したT-34-85になっても依然としてティーガー戦車やパンター戦車に不利な戦いを強いられたが、それでも火力が増したことにより500m前後にまで接近出来ればティーガー戦車やパンター戦車に正面から有効打を与えられる様になったため、正面からの撃破がほぼ不可能だったそれまでよりは格段に戦いやすくなった。また、ドイツ軍機甲戦力の実質的な主力であった四号戦車や三号突撃砲に対して優位に立った事がそれ以上に大きな意味を持った。ソビエト側は最新型の武装を追い求めず、既存の設計を発展させるという決断をした。この事によって、ソビエトは性能の差が問題にならなくなる程の、大多数の戦車を製造する事が出来た。1944年5月、ドイツ国防軍は東部戦線で304輌のパンターを持っていただけであったのに対し、ソビエトは1200輌/月というスピードでT-34-85の数を増やしていったのである (Zaloga et al. 1997:6)。
生産効率
T-34-85の生産コストは当初、16万4000ルーブルで、これは1943年型より30%高かったが、1945年までに14万2000ルーブルまで下がった(Harrison 2002:181)。戦争期間中に、T-34の価格は1941年の27万ルーブルからほぼ半分に下がった(Harrison 2002:181)。しかもこの間、戦車の最高速度は同じまま保たれ、主砲の装甲貫通力と砲塔の前面装甲の厚みはいずれもほぼ2倍になったのである(Zaloga 1984:113, 184, 225)。
生産台数
1945年末までに、5万7000輌以上のT-34が作られた。このうち3万4780輌は、1940年から1944年に掛けて製造された初期型のT-34で、残りの2万2559輌は、1944年から1945年に掛けて作られたT-34-85である(1998a, 1998b)。最も生産量の多かったのは第183工場 (UTZ) で、1941年から1945年にかけて、T-34とT-34-85を合わせて2万8952輌製造している。次に多かったのは第112ゴルキー工場(クラスノエ・ソルモヴォ)で、同時期に1万2604輌製造している(Michulec & Zientarzewski 2006:220)。戦後の1946年には2701輌が製造され、大規模な生産はそこで打ち切られた。その後、ポーランド人民共和国やチェコスロバキアで生産が再開され、1956年までの集計で、それぞれ1951~1955年に1380輌、1951~1958年に3185輌のT-34-85が製造された。その後、T-54/55やT-72もまたソビエト連邦の外で製造された。1960年代後半には、ソビエトのT-34-85は輸出用と予備役用とするために近代化改修を受け(T-34-85M)、T-54/55シリーズのドライブトレインを組み込まれた。この事実もソビエトの戦車設計の標準化の水準の高さを示す一つの証拠となるものであろう。
T-34は合わせて8万4070輌が製造されたと推定され、この他にT-34の車台を用いて作られた1万3170門の自走砲がある(Zaloga & Grandsen 1996:18)。これらの内のいくらかは冷戦下で起こった、朝鮮戦争など世界各地の軍事衝突の中で失われた。
特徴
T-34の特徴は
- 攻撃力において
- 当時としては強力な砲を装備している。さまざまな時代を通して、ソ連・ロシアは砲を重視する傾向にある。常に他国の戦車よりも大口径の砲を装備する傾向があり、冷戦時代の主力戦車も常に西側諸国の主力戦車の口径よりも大きかった。
- 防御面において
- 防御上有利となる避弾経始を考慮した傾斜装甲(砲塔のサイズと車体とのフォルム含む)であった。これは当時の砲弾の性能に対して、最先端の防衛方法であった。
- 駆動方式において
- 生産性において
- 設計が時期を追うごとに徹底的に簡略化され、結果としての生産性の高さはソ連の工業力を鑑みても驚くほどの数量の生産を可能とした
である。
T-34を調査したドイツ軍は、既存戦車の改良と共に新型戦車(ティーガー、パンター)の開発を促進することになる。特にパンター戦車の設計にはこのT-34の構造が非常に強い影響を与えた。ダイムラー・ベンツ社によるVK3002(DB)はT-34に似たシルエットであったが、実際に採用されたのはT-34の影響はうかがえるものの、大分異なった形状のMAN社製のVK3002(M)であった。
さまざまな部分において当時のドイツ戦車を圧倒していたこの戦車であるが、同時に多くの欠点を有していた。その多くは工作精度と人間工学的な問題である。これはドイツとソ連の技術的な問題と同時に、戦車による地上戦の戦術・思想に対しての差であったといえるであろう。
設計上の問題
- 大きさが限られている状態において、
- 傾斜した装甲を用いるということは全体的な容積を減らすことになる。前面の傾斜は前方にいる兵を、側面の傾斜は装備面での制限をもうける要因となり、そのことは大小さまざまな運営用の影響を与えた。だが、これらはあくまでもドイツ軍のような5人での運用を前提としたものと比較した場合であり、4人での運用を前提としている場合においては大きな問題ではなかった。これらはドイツが戦車を用いた戦術において先進的であったかということの証左でもあったといえるだろう。→人間工学上の問題
- 低いシルエットの砲塔は防御の点においては有利だが、居住性が悪く、砲弾が床下に収納されていたので砲塔バスケットは採用されていなかった。特に1940/41年型では砲塔内が狭いため主砲を操作するハンドルは腕を交差させて回すという使いにくい配置である(これは1942/43年型砲塔で改善される)。砲塔における2人・3人体制と戦車長の独立性については、大型砲塔化によって解消される。→人間工学上の問題
- 主砲の俯角がほとんどつけられず、近距離においては背の低い対戦車砲や突撃砲、歩兵のパンツァーファウスト[8]などに対抗できなかった。また車体前方機銃の視界や射界は狭く、あまり効果的ではなかったという。→設計上の問題
- シンプルな乾式クラッチ・ブレーキ式操行装置は、生産と整備が楽である反面、特に前期の4段変速型は操作が大変重く操縦手を疲労させる。片腕の力だけでは動かせず、同時に片膝で押しながら動かさなくてはいけないほどで、長時間の行軍の際は、隣の無線手がギアチェンジの時に手を貸してやったほどであり、疲労で体重が2~3 kg も減るとまで言われ、特にバックに入れる時はハンマーでレバーを打撃して入れたという証言もある。また直進速度は確かに速いが、構造的に左右に細かく機動するのは苦手で、大回りになりがちであった。高速走行しながら滑らかに曲がるという機動は不可能である。更にクラッチ接続のタイミングも難しく、性急な操作により破損する危険も大きかった。しかしこれは、ドイツ戦車同様にシンクロメッシュ機構を取り入れた5段変速型の登場により、かなり改善されている。→技術上の問題。
- 排気管にマフラーの類は無く、ディーゼルエンジンはラバーマウントを介さず直接車体に固定され振動と騒音がひどい。また、下向きの排気管により乾燥した場所では激しく土埃が発生する。→資源・設計・技術上の問題。
- ディーゼルエンジンは炎上し難いというふれこみで採用され、事実乗員もそう考えていたが、実際の統計ではガソリンエンジンの戦車に比べ、燃料の爆発はおこさないまでも特に燃えにくいということはなかった。軽油はマッチの火を落とした程度では燃え上がらないが、装甲を撃ち抜いて爆発するドイツ軍の徹甲榴弾では着火してしまうのである。また、一度炎上すると砲弾の誘爆をおこしやすく、乗員は直ちに退避する必要があった。朝鮮戦争では、T-34-85の乗員の死因の実に75%が車輌火災による。→技術誤認の問題。
- ラジエーターが虚弱で、被弾や衝撃で簡単に冷却水漏れをおこしやすく、またエアフィルターの性能が低く塵を除去しきれず、エンジンの寿命を縮めている。→技術・工業上の問題。
運用上の問題
- 戦車長が砲手を兼ねるため、周囲の監視や戦車全体の指揮に専念しにくかった[9]。なお、T-34を鹵獲使用したフィンランド軍では、戦車長が(通常は一番経験の浅い兵士の役割であった)装填手を兼ねるように役割を変えていた。ソビエト軍でも、操縦手あがりの戦車長が砲塔乗員の死傷率の高さを嫌って、戦車長兼操縦手という変則的な配置を選んだ例もある。だが、砲塔での三人体制というのはドイツ軍が各国に先立って取り組んだことであり、特に時代遅れということでもなかった。この点はドイツ軍の戦車戦闘における戦車長の重要度を見る先進性をみるべきであろう。この問題は砲塔が大型化されたT-34-85では戦車長と砲手に分かれるように改善された。
- 独ソ戦初期には無線機が小隊長車まで、あるいは中隊長車にしか装備されていない場合もあった。しかも乗員が訓練不足でこれに習熟しておらず、[10]連携した行動は一列縦隊で突進するのがやっとだった。後に無線は常設となるが、兵員不足で無線手が搭乗していないことも多かった[11]。しかし大戦後期にアメリカから部品が供給されるようになると無線機はほぼ全車両に普及し、ソ連版電撃戦であるバグラチオン作戦の成功にT-34の高い機動性と共に一役買う事になった。
製造上の問題
- ペリスコープの質が悪く、また前期の型には周辺監視用のコマンダー・キューポラも無い。主砲交換と燃料タンク取り出し用に巨大化した砲塔上面ハッチが前方の視界を塞いでしまうため、周囲確認のため乗り出した戦車長は格好の標的として狙撃された。またこのハッチは極めて重いため、負傷すると開けられず脱出が大変困難であった。1942年型からハッチが戦車長兼砲手用と装填手用別々に分かれ、後には直視型の防弾ガラス入りスリットのあるキューポラを装備した1943年型も生産され、視界はある程度改善されたが、それでもハッチが重いので現地ではロック機構のスプリングを取り外すなどしている。
- 精密機器として見た場合、ドイツ戦車に比べまったく見劣りがした。照準器やペリスコープに気泡や曇りがあったり、トランスミッションが故障しやすく寿命が短かったり、防水加工が不十分で砲弾を濡らしたり電気系が漏電する危険があり、砲塔回転用のモーターが過負荷で火花を噴いたり、砲塔回転ギアの材質や工作精度が悪く破損したりした。これらはアメリカに1輌提供され、現在もアバディーンに展示されている1941年戦時簡易型の調査でも明らかになり、アメリカ軍により記録されている。しかし、後にアメリカから提供された工作機械や、供与されたイギリス戦車の物をコピーしたペリスコープの採用などで改善された部分もある。
- 被弾すると、敵弾が貫通してもしなくてもホプキンソン効果により装甲内壁が剥離して飛び散り、乗員を殺傷する危険があった。これは、レンドリースされた米英製戦車のニッケルを多く含む装甲と比較して顕著であった。当時の乗員の話によると、特に砲塔の乗員の死傷率が高かったという。これは大戦期に製造されたT-34のほとんどが戦況が逼迫する中で急造されたものであり、製造に使用された素材もスクラップにされた旧式戦車や自動車等の機械類をいったん溶かしてから再利用されるのがほとんどで、新しくニッケル等の素材を調合して装甲材を製造する余裕が、戦時下のソ連では大戦後期を除いて与えられなかったことが挙げられる。
生産性
この戦車は、それまでのドイツ軍が有していた戦車と比較して、生産においてはソビエトが有する生産能力を考慮してもドイツ軍の戦車の製造を凌駕するものであった。そして損害を上回る数が次々に戦場に投入された。T-34は大戦中だけで3万5000輌あまり、T-34-85は2万9480輌が生産され、合計するとアメリカのM4シャーマンを上回る当時世界最多の生産数を誇った。ただし生産数だけを見て最優秀戦車であるという意見があるが、当時のソ連はレンドリースによって戦車、ジープ、トラックなどの提供を受け、生産力を主力兵器に全て振向けることができたのがこの生産数の大きな要因である(アメリカは自国の兵器を生産しながら大量の補給物資や兵器をソ連やイギリスに供給している)。T-34-85は戦後、チェコやポーランドでも生産され、共産圏諸国や中東諸国等に輸出された。これら東欧製は1944年型の製造ラインを受け継いで作られたが、表面仕上げや工作精度が大戦中のソ連製より良く、また砲塔の形状などに微妙な違い(鋳型の変更)が見られる。
戦闘の歴史
第二次世界大戦
T-34はしばしば独ソ戦におけるソビエト反撃の象徴とされる。ドイツ軍兵士らは装備の劣ったソビエト軍と戦うだけだと考えていたが、1941年夏にT-34が戦場に現れた事により精神的なショックを受けた。この事はアルフレート・ヨードルの日記でも示されている。彼もリガにT-34が現れたときは驚いたようである[12]。1941年の戦闘では、T-34はドイツ軍の全ての戦車と効果的に戦う事ができた。しかしながら、新型戦車であるT-34には深刻な問題があった。それは塵や砂がエンジンに入ると、エンジンが削られて動きが止まってしまうという問題である。初期の Pomon フィルターにはほとんど防塵効果が無いと言ってもよい程だった。その他にも変速機とクラッチに深刻な機械的トラブルが頻発した。1941年夏の戦車の損失の少なくとも半数は、ドイツ軍の攻撃によるものではなく、故障による損失であった(但し、この統計にはT-34以前の古い戦車も含まれている)[12]。修理用の器材が不足したため、初期のT-34はエンジンデッキの上にスペアの変速機を積んで戦場に向かうのが珍しい事ではなかった。機械的なトラブルの方はのちに改善された。
1941年から1942年にかけての冬、T-34は泥や雪の中でも埋まらずに移動できる特長を生かしてドイツ軍戦車に対して再び優位に立った。T-34はドイツ軍戦車が移動できないような地形でも移動できたのである。IV号戦車は性能の劣るリーフ式サスペンションと狭い履帯を使っていたため深い泥や雪の中で沈み易かった[13]。
当時のドイツ歩兵部隊は大部分がPaK 36(37ミリ対戦車砲)を装備していたが、これはT-34には効果がなかった。バトル・オブ・フランスでは、PaK 36 は最も薄い部類の戦車装甲以外は何も貫通できず、ただ対戦車砲の位置を敵に知らせるだけの役割しか果たせなかったため、「ドア・ノッカー」という異名を取ったものだった。言うまでもなく、東部戦線を戦っていたドイツ軍兵士らは、ソビエト軍戦車と戦うにはこの対戦車砲では力不足であると考えており、より大きな牽引式の砲の火力に頼らねばならなかった。例えば、数は少ないが効果的な5.0cm砲PaK 38、新型でより強力な7.5cm砲PaK 40、88ミリ高射砲などがある(ただし88ミリ高射砲は戦場に運び込むのが容易ではなかった)。しかしながら、それでもT-34が大きな戦果を挙げるには至らなかった。それはソビエト軍の戦車乗員の練度が低く、ソビエト軍指揮官の指揮も拙く、またT-34の配置も疎らであったという事にドイツ軍が助けられた面が大きい。ドイツの側から言うなれば、戦車を用いた戦術を当時のソ連赤軍が理解していないということである。
1942年から1943年にかけて、ソビエト軍は1941年の損害を挽回する事を目指し、作戦面でも進歩しつつあった。T-34の生産台数は急増したが、生産能率を上げるための改善が行われただけで、その設計はほぼ「凍結」されたままだった。ソビエトの設計者らはいくつかの設計上の欠点を修正する必要性は認識していたが、その改良を行うと生産に要する時間が長くなるため、改良は実施されなかった。1943年、T-34の生産量は平均で1300輌/月に達した[14]。これはドイツの1ヶ月当たり生産量よりかなり多い。しかしながら、ソビエト軍は引き続き作戦面での拙さによりドイツ軍よりもかなり多く戦車を失っていた。
圧倒的な数のT-34が戦場に現れ、重火器の必要性が増したため、ドイツ軍は砲口初速の大きい PaK 40(75ミリ対戦車砲。牽引式と自走式の両方があった)を多数配置するようになった。これらが1943年までの対戦車砲の主力となった。また、遅くとも1942年末頃から1943年中ごろに至るまで、ドイツ軍は強力なティーガー重戦車およびパンター中戦車を配備し始めた。これらの事によって、T-34の改良の必要性もまた高まる事となった。こうしてできたT-34の改良型には二つの主要な形式があった。一つは装甲を強化した1942/43年型で、燃料の容量や信頼性も向上し、砲塔も改良された。もう一つは 85mm戦車砲D-5(後にZiS-S-53)を採用した新しい砲塔を持つT-34-85である。T-34-85の火力はそれまでのF-34 76mm戦車砲に比べると大きく向上した。T-34に強く要望されていた攻撃力の強化はこのT-34-85において達成された事になる。
それまでの数年の戦いの中では、ソビエト軍の作戦はドイツ軍の作戦に比べると拙かったが、ソビエト軍も運用や戦術の技術を高めつつあり、また戦車の数において優位に立っていた事から、損害率は減少していった[15]。1944年初期から登場したT-34-85型は、ドイツ軍のIV号戦車やIII号突撃砲よりも装甲や機動性において優れていたが、パンターの砲や装甲よりは劣っていた。ソビエト側の有利な点は、T-34に比べればパンターの台数は遥かに少ないという点であった。従って、練度の高い乗員と戦術的な条件が整えば、T-34-85によってパンターを撃破しえた。
開戦当初、T-34はソビエト戦車の内のわずか数%に過ぎなかったが、終戦時までにソビエト連邦の膨大な戦車生産台数の少なくとも55%を占めるまでになっている([16]の図より。Zheltov 2001はより大きな数字を挙げている)。終戦までにはT-34は旧式の戦車と置き替わり、多くの台数を配備できた。性能面では新型ドイツ軍戦車(たとえばパンター)に劣っていたものの、数で上回る事ができたのである。
戦車は戦場の中で様々な役割を期待されている。まず第一に戦車は最前線で歩兵を支援し、敵陣に乗り込む事を期待されているが、敵の戦車を撃破する役割もまた重要である。ドイツ軍は、優秀ではあるが機構の複雑な戦車を少数生産していた(これは突撃砲の開発も並行して行っていたため開発資源が分散してしまった事も一つの原因である)。これによりドイツ軍は台数の面で不利になった。一方、T-34を大量に生産し、徐々に改良や設計の簡素化を加えていくというソビエト軍側が取った戦略は、第二次世界大戦を勝利する上で優れた戦略であったという事が証明された。これは、ドイツが1939年に開戦したのとソ連にとっての独ソ戦の開戦が1941年であったことも大きいであろう。ソ連赤軍はT-34を基礎とすることが可能であったが、ドイツ軍はⅢ号戦車が主力戦車とならないことに対して、重戦車であるⅥ号戦車を、そして新たなⅤ号戦車を生み出すのであるが、急造の戦車とナチス・ドイツの生産能力はその溝を埋めることはついに、出来なかったのである。
第二次世界大戦後
ソビエト軍ではT-54が1950年に正式採用されるまで主力戦車であり続けた。また、T-34-85型などは、第二次世界大戦後もソビエトから輸出されて各地で使用された。
例えば1950年6月の朝鮮戦争における北朝鮮軍の侵攻の先鋒は約120輌のT-34-85を装備した第105機甲旅団であった。第一次侵攻部隊が韓国に入ってから後も更にT-34が送り込まれた[17]。
T-34はM24軽戦車、M4中戦車、M26中戦車と戦ったが、国連軍のセンチュリオン戦車とは戦っていない。北朝鮮軍の第105機甲旅団は、戦争初期には韓国軍の歩兵や、アメリカ軍のスミス支隊、M24軽戦車などに対して劇的な勝利をおさめた。アメリカ軍は第二次世界大戦の時代の2.36インチバズーカを依然として使っていたが、これはT-34には無力であった[18]。しかしアメリカ軍のM26中戦車、航空機による地上攻撃、そしてアメリカ軍歩兵がアメリカから急遽空輸された3.5インチ・スーパー・バズーカを使い始めた事などにより、北朝鮮軍のT-34の進撃速度は鈍化した。一連の戦闘で北朝鮮軍が大部分の戦車を失った一方、国連軍側には新しい装備が供給され続け、1950年8月になると形勢は国連軍に有利となった。アメリカ軍による9月15日の仁川上陸作戦によって北朝鮮の補給路が断ち切られ、北朝鮮軍の機甲兵力と歩兵には燃料・弾薬・その他の物資が補給されなくなった。その結果として北朝鮮軍は退却を余儀なくされ、多くのT-34と重火器が放棄された。北朝鮮軍が朝鮮南部から撤退したこの時までに、239輌のT-34と74輌のSU-76が失われた[18]。その後、北朝鮮軍の戦車とは稀にしか出会わなくなった[19]。
フィンランド軍は攻撃してきたソビエト軍から鹵獲したものや、ドイツ軍から戦中・戦後にかけて購入したT-34を1960年まで使用していた。それらは光学系などをフィンランドや西側の装備によって改良されていた。
T-34は多くの東欧諸国(後のワルシャワ条約機構)の陸軍で採用され、1953年6月17日の東ドイツにおける蜂起や1956年のハンガリー動乱の鎮圧に使用された。
またT-34は中東戦争やベトナム戦争、チェコ事件、ソマリア紛争、中越戦争などでも使われ、1974年のキプロス紛争では、キプロス国家守備隊がユーゴスラビアから供給された35輌ほどのT-34-85を装備していた。それは民主的選挙で劇的にキプロス大統領に選ばれたマカリオス3世(ギリシア・キプロス合邦運動の中心人物と目されていた)が(ギリシャ軍事政権にとって)想定外の現実主義的政策を採ったため、ギリシア(及び西側諸国)との関係が急速に悪化。孤立化したキプロスは武器の調達を旧ユーゴスラビアなど旧東側諸国に求め、少量の装備が供与された。T-34もそうした装備の一つであった。しかし、そのマカリオスに対して、皮肉にもギリシア軍事政権が煽動した1974年7月15日のクーデターにおいてT-34が用いられた。また、7月20日のトルコ軍のキプロス侵攻においても、これらのT-34が広範囲に活動したのが目撃されており、その内の主な戦いは20日のen:Kioneliやen:Kyreniaの二つの戦いである(Drousiotis 2006)。
冷戦終結後のユーゴスラビア紛争におけるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争等の地域紛争においてもなお使われている。1995年5月、ボスニアにおいてセルビア人のT-34が、国際連合保護軍のイギリス陸軍王立工兵(Royal Engineers)第21連隊の前哨を攻撃し、イギリス人兵士を負傷させた[20]。クロアチアはユーゴスラビアから25輌乃至30輌を引き継いだが、既に退役させている。コソボ紛争ではユーゴスラビア陸軍がT-34をNATO空爆に対する囮として使った。又、コソボ解放軍も若干数のT-34を使用していた。
アフガニスタンでもT-34は時々利用されている(T-34が有志連合軍(Coalition Force)に対する攻撃に用いられたかどうかは不明)。イラク軍は1990年代初期までT-34を使用していた。アンゴラやソマリアなどのいくつかのアフリカ諸国においてもT-34-85を近年でも使用している。キューバのT-34-85がアフリカで作戦行動をしているのも目撃されている。
また、レバノン内戦ではPLOやイスラム教左派民兵組織が主に運用し、さらには一部のキリスト教民兵組織がイスラエルから供給されたM50スーパーシャーマン等と共に使用していた。 2011年のリビア内戦でも前線で活用されたとの情報が多数入っているテンプレート:要出典。
バリエーション
T-34はその生産工場の違いと改良により、細部の異なる数多くのバリエーションがある。主砲の口径によりT-34-76とT-34-85に大別され、さらに(主に西側の研究家により)主な生産年、製造工場名で細分される。
なお、T-34-76はソ連ではもともと単にT-34と呼称、85 mm 砲搭載型登場後、区別のためにT-34-76と呼称されるようになった。また、かつて西側ではT-34/76、T-34/85等と表記するのが普通だったが、ソ連崩壊以降に公表されているロシア発の資料ではT-34-76、T-34-85等となっている。
1940~1941
その形状から「ピロシキ」と呼ばれた背の低い1940/41年型砲塔は、当初は圧延鋼板の溶接型のみであったが、直に量産性の優れた鋳造製砲塔が並行生産されるようになった。当時ソビエトは大型部品の鋳造技術ではドイツを大きく上回っており、以後のT-34改良型やスターリン重戦車などに積極的に鋳造製砲塔を採用した。
しかし鋳造装甲は製法上、同じ厚さの圧延鍛造装甲より一割ほど強度が劣り、また大戦中の粗製濫造のため鋳巣(空洞)が装甲の中に発生し、更に強度を落としていた例もある。このため、当時の乗員は「鋳造砲塔は37 mm 高射機関砲弾程度の被弾ですら安全ではなかったと」証言している。一方、圧延鍛造の傾斜装甲を採用している車体前面装甲は乗員達から多くの信頼を得ている。
- T-34 1940年型
- 1940年9月より、ハリコフ機関車工場(第183工場)で最初に量産された型で、30.5口径76.2 mm L-11戦車砲を搭載する。当初は溶接砲塔のみだったが、後にほぼ同様のスタイルの鋳造砲塔搭載型も並行生産されるようになる。
- T-34 1941年型
- 1940年型と略同型の車体・砲塔に41.6口径F-34戦車砲(初期の一部の車両はF-32)を搭載したタイプで、当初は指揮官車として1940年型と並行生産、後に完全に切り替わった。生産途上、新型操縦手ハッチの導入など各部の小改良が逐次導入された。特に新型操縦手用ハッチ導入後の車体については、従来1942年型と呼ばれることが多かったが、最近の(特にロシア・ソースの)資料では1941年型に含める。これらは主に生産簡略化のための改修であったので、これを特に1941年戦時簡易型と呼ぶことがある。ハリコフ機関車工場に続き、スターリングラードトラクター工場、さらに第112工場などでも生産が行われるようになった。
- T-34駆逐戦車(T-34-57)
- 高初速のZIS-4 57 mm 対戦車砲を41年型の砲塔に搭載したT-34-57駆逐戦車が1941年10月から少数量産され、第21戦車旅団に配備されその冬のモスクワ攻防戦に投入されたが、戦果を挙げつつも11月中に全滅している。T-34-57は1943年にも再生産され、8月に実戦投入されたが、T-34-85の量産に伴い生産終了した。
1942~1943
1942年型以降では「ナット」と呼ばれる六角形状の新型砲塔が使用された。この砲塔は試作戦車T-34Mの砲塔を元に設計され、鋳造製の外周部と圧延鋼板からなる天板を組み合わせた構造をしていた。また、「ナット」に似た形状であるものの、外周部と上面との間に継ぎ目なく、一体に成型された「フォルモチカ」と呼ばれる砲塔がウラルマシ(国営第9ウラル重機械工具製造所、UZTM[21])で生産されていた。
「フォルモチカ」砲塔に関しては、昔からの鋳造一体成型説と、プレス機での熱間鍛造説があった。後者は1994年にスティーヴン・ザロガの著書により発表された。当初は 5000 t フォージングプレス機を用いたとされたが、側面で52 mm もある装甲の成型は不可能と指摘され、ザロガも翌年、1万 t プレス機であると訂正した。しかし、当時ソ連に存在しない 2万 t プレスでないと不可能とする異論、また現代のプレス業者から見ても不合理な工程であるとの意見もあり、未だ真相はハッキリしていない。一説[22]では52 mm厚というのは鋳造製ナット型砲塔での数値であり、実際にはより薄い25~30 mm程度の鋼板をプレスしたもので、ウラジオストックで記念碑として展示されている砲塔[1]のように、薄い装甲が主砲発射の反動に耐えられず、次第に下端部に特徴的なたわみが発生するのではないか、と言われている。一方、他所でもこの砲塔にキューポラ付きのT-34[2]が展示されているが、こちらには下端部のたわみ具合が小さい。
- T-34 1942年型
- それまでの背の低い、避弾経始には優れるものの狭すぎた「ピロシキ」型砲塔に代わり、背が高く砲耳部が別体となった「ナット」砲塔を搭載するタイプである。砲塔上面の大きな1枚ハッチは2枚の小さな丸ハッチに改められ、それを開けた姿からドイツ軍には"ミッキーマウス"砲塔と通称された。1942年中にフィンランドやドイツ軍側の夏季攻勢であるブラウ作戦時から姿を現している。なお、「ナット」砲塔搭載型を(下記の1943年型と合わせて)1943年型とする分類法もあり、現在でもこの呼称を採用している資料も多いので、混同に留意する必要がある。
- T-34 1943年型
- それまでのT-34の車長視界の悪さを改めるため、「ナット」砲塔に上面左側にキューポラを装着したタイプ。
1943~
- T-34-85 1943年型
- 1943年12月に試作完成した最初の 85 mm 戦車砲搭載型で、試作中戦車T-43の砲塔を基に更に改良した大型3人用砲塔を持つ。搭載砲は予定のZiS-53が完成せず、暫定的にD-5Tが搭載された。1944年1月から第112工場で量産が開始された。
- T-34-85 1944年型
- T-34-85の主量産型で、ZiS-53の改良型、85 mm 戦車砲ZiS-S-53を搭載。第183工場を中心に多くの工場で生産された。
ドイツ軍での分類
ドイツ軍でも独自に1940年型をT-34A、1941年型をT-34B、1941年戦時簡易型をT-34C、1942年型をT-34D、1943年型をT-34E、そして1942年型で砲塔上面まで一体成型されたタイプをT-34Fと分類した。もっとも、前述の通りソ連では76.2 mm 砲搭載型の全てが単に"T-34"であり、細かい分類はされなかった。またソビエト軍が新型戦車を開発していることを知ったドイツ軍は、新たに現れたT-34-85を誤って(別の戦車である)T-43と呼んだ[23]。
ドイツ軍は鹵獲したT-34をPanzerkampfwagen T-34 747(r)と名づけ使用した(「Panzerkampfwagen」を「PzKpfw」と略記する場合もある)[3]。そのまま使用しただけでなく、車長用キューポラを増設したり、対空戦車などにも改造して使用した例もあった。
- Panzerkampfwagen T-34 747(r)
- ドイツ軍内での鹵獲T-34の呼称。
- Flakpanzer T-34(r)
- T-34-76車体に破損した対空ハーフトラックに搭載されていた2cm Flakvierling38 連装対空砲を移植した現地改修モデル。
派生車
大戦中にもT-34M、T-43(この二種の戦車は全くの別物だが、古い資料では混同されている)といった装甲強化型の試作が行われたが、それ以上に火力の増強が必要とされ却下され、代わってT-34-85や後継戦車として開発されたT-44が生産された。
ソ連では派生車として、下記の自走砲が生産されている(形式番号は搭載火砲の口径を示している)。SU-85やSU-100は対戦車戦闘を目した駆逐戦車の性格が強いが、ソ連ではまとめてSU(СУ)=自走砲と分類されている。
戦後、中国、エジプト、シリアなどでも、ソ連製やチェコ製のT-34-85を独自に自走砲や対空自走砲を改造した。
- SU-122
- SU-85以前に開発された、122 mm 榴弾砲 M-30を搭載した自走榴弾砲。
- SU-85
- 85 mm 対戦車砲D-5Sを搭載する駆逐戦車。
- SU-100
- 強力な100 mm 対戦車砲D-10Sを搭載するため、SU-85の戦闘室を改良した物。SU-100の車体を流用し85 mm 砲を搭載した車両はSU-85Mと呼ばれる。
- OT-34火焔放射戦車
- T-34の車体機銃の代わりにATO-41火焔放射器(後にATO-42)を搭載したもの。ベース車体は1941年型(戦時簡易型)から1943年型まで各種ある。1回あたり10リットルの燃料を用いて10分間に3回と、あまり多く放射できるものではなかった。
- OT-34-85火焔放射戦車
- OT-34同様、T-34-85にATO-42火焔放射器を搭載したもの。
- PT-34
- T-34やT-34-85の車体前面にアタッチメントを装着、PT-3ローラーを取り付けた地雷処理車。
- T-34-T
- T-34の砲塔を取り外した牽引車両。
- T-34-100 (T-100)
- エジプト軍が、余剰となったT-34-85の砲塔を大きく切断して、ソ連製のBS-3/M1944 100 mm 野砲を砲塔に対して後ろ向きに搭載した対戦車車輌(駆逐戦車)。なお大戦中のソ連でも、T-34-85をベースに砲塔形状その他を改め、試験的に100 mm 戦車砲を搭載したT-34-100があった。
- T-34-122 (T-122)
- エジプト軍が、余剰となったT-34-85の砲塔側面・後面を切断、そこに溶接箱組みの戦闘室を付け、D-30 122mm榴弾砲を搭載した自走砲。なおシリア軍では砲塔を撤去、同じ砲を車体上に後ろ向きに搭載した自走砲が作られている。
- 65式対空自走砲
- 中国軍がT-34の車体をベースにして65式対空砲を搭載した対空自走砲。
主要生産工場
独ソ戦によるドイツ軍のソ連領内侵攻で、工場は大規模な疎開を行って生産を続けることとなった。これら数カ所あった工場によって砲塔、車体の構成などが異なることがわかっている。
- 第183工場
- ハリコフにあったハリコフ機関車工場(現V・O・マールィシェウ記念工場)でT-34の設計・試作が行われ、初期のT-34/1940年式の生産も行われた。この国営第183ハリコフ機関車工場(別名 コミンテルン、KhPZ)が独ソ戦開始後、ウラル山脈東方のニジニ・タギルに疎開して現地のウラル貨車工場(ウラルヴァゴンザヴォート)と併合し国営第183ウラル戦車工場(別名 ヨシフ・スターリン、UTZ)に改名して操業。T-34の開発工場であり、戦中を通しT-34生産の中核を担った。
- スターリングラード・トラクター工場(別名 F.ジェルジンスキー、STZ)
- スターリングラード(現ヴォルゴグラード)にあった。立地条件の問題か、独自形状の起動輪や緩衝ゴム内蔵の鋼製リム転輪[24]、独特の装甲板構成を持つ砲塔や車体など、生産が進むに連れ独特の仕様が多い車両を生産した。他の工場が疎開のため生産ラインが閉じてしまい、一時期はT-34を生産している唯一の工場となった。このためスターリングラード攻防戦の最中にも生産が続けられ、塗装もされていないT-34が工員の手により直接前線に向かったが、結局施設は灰燼に帰し、生産を再開したのは戦後になってからであった。
- 第112工場(国営第112クラスノヤ・ソロモフ工場)
- ゴーリキー(現ニジニー・ノヴゴロト)にあった。なお、この工場で生産されたT-34(1941年戦時簡易型)の初期638輌は、折り悪くV-2ディーゼルエンジンの製造工場が疎開中で入手が困難だったため、やむを得ずM-17Tガソリンエンジン(BT-7用にライセンス生産していた、BMWの航空機用エンジンを戦車用に改造したもの)を搭載している。外見上は後部の丸い点検ハッチが標準型より車体中央に寄っていることで識別できる。最も遅くまで「ピロシキ」型砲塔搭載の1941年戦時簡易型を生産した一方で、最初にT-34-85を生産した工場でもある。
- 第100工場(国営第100キーロフスキー工場)
- レニングラード(現サンクトペテルブルク)にあった。独ソ戦開始後、ウラル山脈東方のチェリャビンスクに疎開。もともと現地にあったトラクター工場と合体し、巨大戦車生産コンビナートタンコグラードを形成する。
- 第9工場(国営第9ウラル重機械工具製造所、UZTM)
- スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)にあった。当初はシャーシ、砲塔のみの製造を行う工場だったが、後に独自生産。
- 第174工場(国営第174工場ヴォロシーロフ製造所)
- レニングラードの工場がオムスクに疎開して成立。
ライセンス生産
第二次世界大戦後、「友好国」に生産ラインの設備が譲渡され、ライセンス生産もおこなわれている。
生産国
- ポーランド - T-34-85の1944年型が1951年から1955年にかけて生産され、多くがワルシャワ条約の同盟国に売却された。
- チェコスロバキア - 1958年までポーランドより多数を生産、中東に輸出された。
生産中止国
- ユーゴスラビア - T-34-85を同国で大きく改修した「重戦車A型」が量産される予定であったが、ソ連との関係悪化で中止された。従ってユーゴではT-34は生産されていない。かわりにアメリカからM4シャーマンの供与を受けている。
- 中国はT-34を58式戦車として生産していたが、59式戦車が出来ると間もなく生産を中止した。
- 北朝鮮はT-34の生産を一切行っていない。
運用国
第二次世界大戦以降、以下の40カ国がT-34を使用した。この内「*」印を付した27カ国では1996年時点でも現役である(Zaloga & Kinnear 1996:34)。
ヨーロッパおよびアメリカ
中東およびアジア
アフリカ
現存する車輛
T-34は大量に生産されたため、半世紀を経た現在でも数百輛程度が現存している。第三世界の軍において第二線級の兵器として保管されている車両は、21世紀に入った現在でも数多くあると見られている。
世界各地の軍事博物館で収蔵品として展示されている他、百輛以上が戦争記念のモニュメントとして展示されている。コレクターやマニアの私有物として保有されている車両もあり、非武装化されて運転可能な状態の戦車は、2万から4万米ドルの間で取引されている。
T-34の耐久性は最近の修復作業においても示された。エストニアで56年間にわたって沼の底にあった1943年型のT-34が、2000年に復活した[25]。その戦車はドイツ軍によって鹵獲され、退却中のドイツ軍が使用したが、その燃料が切れた所でドイツ軍が沼の中へ投棄したものであった。油漏れ・錆・その他水による機械系統への損傷の徴候は見られなかった。エンジンは完全に稼働する状態に回復した[26]。
その他に現存する顕著なT-34は、米国メリーランド州アバディーンのアメリカ陸軍兵器博物館が所蔵する1941年型のT-34である。これは現存する車輛の中でも最古級である。その他に、更に古い76mm砲を搭載したT-34が最近になって昔の戦場から回収されたが、L-11砲を搭載した1940年型のT-34が現存するという情報は知られていない。フランスのソミュールにある「Musée des Blindés」では2輛のT-34を保有しており、その内の一輛は完全に稼働する状態で、それは夏の「Carrousel」戦車走行展示会において、走行する様子を展示される。
また別の有名な例として、マンデラ・ウェイのT-34戦車がある。これは個人所有のT-34-85で、それが置かれている通りの名にちなんで、こう呼ばれている。マンデラ・ウェイはロンドンのBermondsey近くにある。このT-34は画家や落書き芸術家たちによって、頻繁に塗り変えられている。
2010年の対ナチス・ドイツ戦勝65周年パレードでは現存するT-34やSU-100などがパレードに参加した。
その他に、民間で主に映画製作に使用されているものもある。第二次世界大戦を題材とした多くの映画(例えば『プライベート・ライアン』『ネレトバの戦い』『戦略大作戦』『誓いの休暇』)では、T-34-85戦車をティーガーI戦車に見えるように改装して使用した。これは、現存するティーガーIの数が少ないためである。
これと同じように、数輛のT-34がポーランドのテレビシリーズ「Czterej pancerni i pies」の、主に第3話で、用いられた。このテレビシリーズに登場したティーガーは、映画「プライベート・ライアン」に登場したいわゆる「ライアン・タイガー」とは異なり、転輪の部分にカバーを付けてあったため、T-34改造だとは比較的見破られにくくなっていた。
登場作品
T-34は第二次世界大戦におけるソビエト軍の主力戦車の一つであり、第二次世界大戦を扱った作品には頻繁に登場する。
小説
アニメーション・漫画
- 『銀河英雄伝説』(1987-1991年)
- 作中で登場する「歴史資料」の映像にT-34-85が描かれている。
- 小林源文作品
- 代表作『パンツァーフォー!』『黒騎士物語』他、第二次世界大戦の独ソ戦が舞台の作品には必ず登場している。
- 『宮崎駿の雑想ノート』シリーズ
- 『豚の虎』でT-34-76、『ハンスの帰還』でT-34-85、『泥まみれの虎』でT-34-76、T-34-85が登場。
- 『ココロ図書館』
- 11話に敵軍戦車隊として二両が登場。
- 『ガールズ&パンツァー』(2012年)
- プラウダ高校がT-34-76、T-34-85を使用。
映画
T-34は現存車両が多いこともあり、第2次世界大戦を扱った戦争映画には数多く登場するが、映画の作中設定年代としては登場しているのは誤っている作品も多い(モスクワ攻防戦やスターリングラード攻防戦など独ソ戦初期が舞台でT-34-85が登場する等)。
ソビエト軍の戦車としての他に、外観はそのままにドイツ軍の国籍標識を描かれて「ドイツ戦車」として登場する例も多い。「現存する車両」の項で述べたように、大改造を施されてティーガーIその他のドイツ戦車を模した外観に改装されて登場している例も多くある。
邦画
- 『戦争と人間』(1970–1973年)
- 日活製作の大河作品。第三部『完結篇』においてノモンハン事変のシーンに登場。なお、T-34-85が登場しているが、歴史考証的には誤りである。
- このシーンはモスフィルムとの提携により、ソビエトロケを敢行してソビエト軍全面協力の下に撮影された。『ヨーロッパの解放』のフィルムからも映像が流用されている。
外国映画
- 『地下水道(原題:kanal)』(1956年)
- ポーランド映画。外観を改装されドイツ軍戦車として登場。作中の台詞では「タイガー戦車」と呼ばれている。
- 『橋(原題:Die Brucke)』(1959年)
- 外観を改装され「M4 シャーマン」として登場。
- 『戦争のはらわた(原題:Cross of Iron)』(1977年)
- サム・ペキンパー監督の戦争映画。ロケ地のユーゴスラビア軍の車両である。
- 『ナバロンの嵐(原題:FORCE 10 FROM NAVARONE)』(1978年)
- ドイツ軍戦車として登場。『戦争のはらわた』と同じく、ロケ地のユーゴスラビア軍の車両である。
ソビエト・ロシア映画
- 『鬼戦車T-34(原題:テンプレート:Llang)』(1965年)
- T-34-76が登場。フィルム流用の関係上か、カットによってはT-34-85が登場する。
- 『ヨーロッパの解放(原題:テンプレート:Llang)』(1968–1970年)
- T-34-76及びT-34-85が登場。尚、クルスクの戦いのシーンにT-34-85が大挙登場しているが、これは考証的には誤りである。
- 『モスクワ大攻防戦(原題:テンプレート:Llang)』(1985年)
- T-34-76が登場。1940年型および1941年型が登場するが、これらはT-34-85、それも戦後型の生産車の車体の砲塔だけを換装したもので、本来の1940/1941年型の車両とは車体の各所が異なっている。また、T-34を大改造したBT-5戦車も登場している。
- 『テンプレート:Llang(邦題:ホワイトタイガー)』(2012年)
- T-34-76、T-34-85が登場。
これらの作品以外にもT-34の登場する映像作品は数多い。
ゲーム
- 『ARMA 2』(2009年)
- 現代戦を扱ったFPSだがゲリラ陣営の戦闘車両の一つとして登場し、プレイヤーやAIが操作可能。
- 『コール オブ デューティー ファイネストアワー』(2004年)
- ソ連軍の主人公ニコライが搭乗。スターリングラードでドイツ軍と戦火を交える。
- 『コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー』(2008年)
- ソビエト赤軍が使用。プレイヤーも1つのミッションで操縦可能。
- 『メダル・オブ・オナー ヨーロッパ強襲』(2005年)
- ソ連軍兵器として登場。
- 『メタルサーガニューフロンティア』(2010年)
- プレイヤーの搭乗戦車の一台として登場。
- 『World of Tanks』(2010年)
- ソビエト戦車として登場。
- 『虫けら戦車』(2013年)
- アリほどの大きさになったドイツ軍が虫たちと戦うアクションゲーム。
- T-34-76及びT-34-85が登場しプレイヤーはドイツ軍だがフィールド上に落ちている車両を見つけると使用可能になる。
- また小さくなった連合国軍はT-34-76を装備している
- 『大戦略シリーズ』(1985年-)
- T-34-85が登場。
名称
かつてタミヤは自社製のT-34-76のプラモデルに「ボルガ」という独自の愛称を与えていた。
参考資料
- 『月刊グランドパワー』 1995年6月号、1997年9月号(デルタ出版)、2004年11月号、2004年12月号(ガリレオ出版)
- 「T-34/76中戦車 1941-1945」「T-35/85中戦車 1944-1994」(スティーブン・ザロガ+ジム・キニア/著 大日本絵画)
- "Я дрался на Т-34"(『私はT-34で戦った』 アルチョーム・ドラプキン/編)日本語訳のあるサイト[4]
- ウェブサイト"RUSSIAN BATTLEFIELD" [5]
- ウェブサイト"T-34 maniacs" [6]
- テンプレート:Wikicite
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- 他、様々なミリタリー関連・模型関連の書籍及びウェブサイトより引用、再編集。
注釈
関連項目
- ミハイル・コーシュキン:T-34の設計者
外部リンク
- ソ連軍戦車兵の回想 :T-34の技術的側面についての記述、T-34搭乗戦車兵の体験記など。
- テンプレート:YouTube革命後~第2次世界大戦終了までT-34の開発と活動動画
- ↑ 榴弾が機関部付近に命中した場合、気化したガソリンに点火して火災をおこしやすかった。
- ↑ Yaziv, D.; Chocron, S.; Anderson, Jr., C.E.; Grosch, D.J. “Oblique Penetration in Ceramic Targets”. Proceedings of the 19th International Symposium on Ballistics IBS 2001, Interlaken, Switzerland, 1257?64
- ↑ レニングラードのチームも T-26 の後継となる戦車の開発に取り組んでいたが、技術的問題や政治的な改革により開発は進んでいなかった。最終的に1941年の冬になって、シベリアのオムスクでT-50軽歩兵戦車が約69輌製造されたが、その頃には何千輌ものT-34が戦場に出て行っており、歩兵戦車のコンセプトは放棄された (Zaloga 1984:114)
- ↑ 実戦運用試験のためにフィンランド戦線に1輌が送られたが、冬戦争の終結によりモスクワに送り返されている
- ↑ バルバロッサ作戦開始時におけるドイツ機甲部隊の主力戦車は、戦闘の中核となるように開発された主力戦車である III号戦車(E~J型)と、その支援用に開発された IV号戦車(D~F型)であった。もっともより古いIV号戦車A~C型も未だに使われており、本来は訓練用として作られたI号、II号戦車やチェコ製の35(t)、38(t)軽戦車も全体の半分近くを占めていた。
- ↑ 同じ仕様要件を満たそうとして、異なる戦車を設計・開発している設計グループや工場が複数あったため、これら相互の間の軋轢は戦後になっても長い間続いた。T-55、T-64、T-72、T-80の時代に至ってもなお、ソビエト連邦の最高評議会の中の別々の政治的な支援者らをバックとして、別の戦車が生産され続けていた
- ↑ “Paton Evgeny Oscarovich”, at the E.O. Paton Electric Welding Institute, retrieved November 17, 2008.
- ↑ パンツァーファウストなどの成形炸薬弾対策として、大戦末期には現地調達で金網やベッドスプリングを車体周辺に設置している例が多く見られる。中にはIV号戦車J後期型の金網製シュルツェンであるトーマ・シールドを鹵獲して装着したものまであった。
- ↑ 例えばクルスクでのプロホロフカ戦車戦において、1輌のIV号戦車が突破してきたT-34の只中に取り残され、共にドイツ軍側を向きながら前進、このIV号戦車は後ろからT-34を順に撃破していったが、前しか見ていないT-34側はこれに全く気づかなかった。
- ↑ 無線は本部との通信用であり、他車との連絡は戦車長が身を乗り出して小旗を振って合図していたが、これは戦闘中には不可能であった。
- ↑ これはソビエト軍の編成上の問題であるが、同一部隊内でもロシア語を解さない少数民族出身の乗員も多かったため、車輌ごとに伝言ゲームのように命令を伝えることもある有様だった。
- ↑ 12.0 12.1 Zaloga & Grandsen 1984:127
- ↑ Perrett 1999
- ↑ Zaloga 1984:225
- ↑ Zaloga & Grandsen 1984:223
- ↑ Zaloga 1984:125?6, 225
- ↑ Perrett 1987:134?5
- ↑ 18.0 18.1 Perrett 1987:135
- ↑ Zaloga & Kinnear 1996:34?3」日本語版「T-35/85中戦車 1944-1994」(スティーブン・ザロガ+ジム・キニア/著 大日本絵画)
- ↑ “Regina v. Ministry of Defence Ex Parte Walker” (judgment), 6 April 2000, retrieved November 17, 2008.
- ↑ 古い資料での説に基づいたタミヤの1/35スケールプラモデルの商品名では「チェリヤビンスク」砲塔型になっている。
- ↑ ホビージャパン「ミリタリーモデリングマニュアル22」の記事・高田裕久「MODEL WORLD OF OTHER SIDE:16」
- ↑ ティーガー戦車のエースであるオットー・カリウスは戦後のインタビューでT-34-85をT-43と呼んでおり、前線のドイツ軍兵士の間では間違った呼称が改められず使われていた可能性もある。
- ↑ 後にほぼ同型の緩衝ゴム内蔵転輪が、第183工場製1942年型でも(主に第2~第4転輪として)使われている。
- ↑ Tanki T34-76 valjatombamine Kurtna jarvest (WWII Trophy tank). Militaarne Hiiumaa web site, text republished from Komatsu Times vol 3 no 1. English and Estonian language, retrieved on February 3, 2007.
- ↑ Подъем танка (pulling tank) T-34. Otsing Club web site. Russian language, retrieved on February 3, 2007. なおエストニアの沼底は泥炭であり、戦車は無酸素状態におかれ状態が保たれていた。