フランツ・ヨーゼフ1世

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テンプレート:基礎情報 君主 フランツ・ヨーゼフ1世テンプレート:Lang-de1830年8月18日 - 1916年11月21日)は、オーストリア帝国、のちオーストリア=ハンガリー帝国オーストリア皇帝およびハンガリー国王(在位:1848年 - 1916年)。ハンガリー国王としてはフェレンツ・ヨージェフ1世テンプレート:Lang-hu [ˈɛlʃøːˈfɛrɛnʦˌjoːʒɛf])。68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から晩年はオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「国父」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。

生涯

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母ゾフィーに抱かれたフランツ・ヨーゼフ・カール皇子
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フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)
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フランツ・ヨーゼフ1世(1910年)

オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。ゾフィーは凡庸な夫よりも愛息の養育に心血を注ぎ、皇位を一足飛びにフランツ・ヨーゼフに継承させることを狙っていた。3月革命によって、伯父のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、18歳の若さで即位する。

治世当初は首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵に補佐され、イタリアハンガリーの独立運動を抑圧、革命を鎮圧した。フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であり、自由主義国民主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルーティスムス)と称する絶対主義的統治の維持を図った。

イタリア統一戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディア1859年に、ヴェネト1866年に相次いで失う。さらに、ドイツ統一に燃えるプロイセン王国首相のビスマルクの罠にかかり、1866年普墺戦争では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。

1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領ハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。しかし、この後も民族問題は先鋭化の一途をたどり、1908年ボスニアヘルツェゴヴィナを併合したことは、汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させ、更に民族問題を複雑化させることに繋がった。

普墺戦争後は、普仏戦争で中立を守り、ビスマルク及びドイツ帝国と接近・協調していった(パン=ゲルマン主義)。1873年にはドイツ、ロシア三帝同盟を、1882年にはドイツ、イタリア三国同盟を結ぶ。

帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が勃発する。戦争中の1916年、肺炎のためウィーンにて86歳で崩御した。

人物

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フランツ・ヨーゼフ1世と兄弟(1863年)
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フランツ・ヨーゼフ1世と家族(1861年)

非常に勤勉で時間に正確で、判で押したような規則正しい生活を送った。皇帝になって以後は死の直前まで、日々3時間睡眠で激務に当たったという。しかし、母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、母親に頭が上がらない部分もあった。君主や政治家というよりは、軍人ないし官僚のような人物であった。そのためか、正反対の性格のイギリス国王エドワード7世とは仲が悪かったというが、その母親であるヴィクトリア女王には敬意を抱いていたようである。

69年の治世の中で、政治的には数々の難題に直面したが、オーストリアの文化、経済は発展をみている。フランツ・ヨーゼフ1世の命でそれまでウィーン市内を囲んでいた城壁は撤去され、リングと呼ばれる環状線が引かれ、歴史主義的な建造物による都市計画が行われた。

一方、家庭的には悲劇が繰り返された。1854年にフランツ・ヨーゼフ1世は、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の一族で母方の従妹に当たるエリーザベトと、母ゾフィー大公妃の反対を押し切って結婚した。皇帝は皇后エリーザベトを終生心から愛していたといわれるが、そのエリーザベトは、政務に忙殺される夫との心のすれ違い、姑のゾフィー大公妃との確執などもあって、窮屈な宮廷生活を嫌い、ウィーンに留まることなく放浪にも似た旅を続けた。

皇帝はその淋しさを紛らわすため、エリーザベトから紹介された舞台女優カタリーナ・シュラットと親しくなり、しばしば会話を楽しむようになった。また、そのような境遇のためか、聡明で将来を嘱望された長男ルドルフは、保守的な父帝と対立、1889年マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げた(暗殺説もある)。

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フランツ・ヨーゼフ1世の遺体
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フランツ・ヨーゼフ1世の墓

悲劇は続き、皇帝の弟マクシミリアン大公はフランス皇帝ナポレオン3世によって傀儡のメキシコ皇帝に擁立されたが、メキシコ共和国のベニート・フアレスに逮捕され、銃殺された。さらに1898年、最愛の妻エリーザベトが旅先でイタリア人無政府主義ルイジ・ルキーニに暗殺されたことは、皇帝に大きな衝撃を与えた。

息子ルドルフに代わる皇位継承者とした甥のフランツ・フェルディナント大公とは政治的対立が見られた。オーストリア=ハンガリー帝国の成立に見られる、皇帝のハンガリーの政治的独立を半ば認め、帝国内の民族融和を図る政策に対し、フランツ・フェルディナント大公はドイツ人の優位の上で、スラブ人の「保護」を主張したためである。またフランツ・フェルディナント大公はゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚を成しており、この結婚をめぐっても結婚式に出席を拒否し、その子供たちの相続権も認めなかった。フランツ・ヨーゼフ1世はシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナント大公はベルヴェデーレ宮殿に居を構えていたため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた。

このフランツ・フェルディナント大公夫妻の結婚に対し、その次の皇位継承者と目されていたカール大公(後のカール1世)の妃ツィタは皇位継承者に相応しい身分の出身(パルマ公女でありスペインフランスの両ブルボン家の血を引く)であったため、フランツ・ヨーゼフ1世は喜び、カール大公の結婚式ではわざわざバルコニーに出て民衆に手を振るという、久しく民衆と触れ合うことのなかった老帝としては珍しいサービスを行うほど上機嫌であった。

1914年にフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されると(サラエボ事件)、この事件に端を発してセルビア王国への宣戦布告を行うこととなる。この一連の流れは第一次世界大戦の引き金ともなり、フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国そのものを崩壊に導くのである。

家族

皇后エリーザベトとの間に一男三女を儲けた。

関連作品

映画

フランツ・ヨーゼフ1世を演じた主な俳優は以下の通りである。

ミュージカル

参考文献

  • スティーヴン・ベラー著/坂井榮八郎監訳・川瀬美保訳『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』刀水書房

関連項目

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