歌謡曲

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テンプレート:独自研究 歌謡曲(かようきょく)は、日本ポピュラー音楽の総称、およびジャンルの1つ。

概念

歌謡曲は「現代日本の代表的な大衆歌曲」である[1]

翻訳語として

歌謡」とは日本古来のを意味する[1]明治時代に、ヨーロッパアメリカ合衆国などから日本に入ってきた欧米の芸術歌曲を「歌謡曲」と呼び、「新時代の歌」という意味で用いられた[1]。この使用法は現在でも使用されることがあり、クラシック的な歌曲、欧米のポピュラー音楽のカバー曲、シャンソンを指す和名としてなど、広いカテゴリーを持っている。

「流行歌」・大衆歌曲

昭和時代初期に、JOAK(NHK)が、それまで「流行歌(はやり歌)と呼ばれていた大衆歌曲を放送する際に、「はやるかはやらないかわからない歌を〈はやり歌〉とするのは適当でない」として「歌謡曲」として放送した[1]。これによって「歌謡曲」は西欧の歌曲という限定的な意味だけでなく、日本のポピュラー音楽全般のうち歌詞のあるものの総称として用いられるようになる。英語では日本の歌謡曲を「スタンダード・ジャパニーズ・ポップ(スタンダード化した日本のポップス)」または「昭和時代のポップス」と記述している(ジャパンタイムズなど)。

演歌と歌謡曲

1990年代以降は、1960年代以降に隆盛した演歌と混同されがちであるものの、本来はあくまで西欧のクラシックやポピュラー音楽の日本における派生形である[2]。他方、演歌サイドにとっての「歌謡曲」とは「ひたすら耳に快感を与える」音楽といった説明がなされることもある[3]

その後、商業的な理由により、演歌の愛好者層と重なる一部の歌謡曲を演歌と一体的に扱うために、『演歌・歌謡曲』というジャンルが考案された。

歴史

以下、日本における歌謡曲の歴史について概説する。

日本では元々「歌謡曲」はいわゆるクラシック音楽の歌曲を指していた。藤山一郎淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。演歌の基礎とされる古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲であった。

流行歌

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NHKラジオ放送『国民歌謡』

「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である『国民歌謡』は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があった。

読売新聞昭和8年7月7日記事には「『歌謡曲』というから、シューベルトブラームスのリード(リート歌曲)を放送するのかと早合点すると、そうではない。渋谷の姐さんが歌う流行歌であり、AK(現在のNHK東京)の当事者に理由を聞くと、何故か放送ではなるべく流行歌なる語を使いたくないそうだ」[4]と書かれており、当時、「歌謡曲」がクラシック音楽の歌曲を意味していたこと、そしてNHK側も「流行歌」という言葉を使用しなかった事情の一端が伺える。その後、日本が戦争に邁進し軍国主義が台頭するようになると、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡軍国歌謡と呼ばれた。これらの戦中時代の歴史については一部では現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。

戦後、番組はラジオ歌謡として再開する。しかし、戦後の歌謡曲の流行においてはNHKの歌の系譜が軽視される傾向があるが、その理由について藍川由美は「NHKが戦後、戦時中の音楽をタブー視し、『國民歌謠』から『國民合唱』の歴史を回顧しようとしないことが大きい」と述べている[5]

戦後

戦後「歌謡曲」という用語は一般的に使われ続けるが、特にジャンルとして「歌謡曲」といった場合は1950年代後半の日本が高度経済成長にあった時の音楽を指すことが多い。これは即ち藤山一郎の引退(1954年)以降に流行歌から春日八郎の『お富さん』(1954年)及び『別れの一本杉』(1955年)のヒットなどが発生し後に演歌と呼ばれる流れの源流が生まれた時期である。

ムード歌謡

この際、一方では曲調からは演歌ともいえず、むしろラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせたような、フランク永井石原裕次郎ムード歌謡が一世を風靡した。これらの音楽は現在「昭和歌謡」などと呼ばれたりする。

多ジャンル化

1950年代後半、日本の歌謡曲のジャンルの多様化がますます進行した。ザ・ピーナッツの『可愛い花』(1959年)が多ジャンル化の契機とされている[6]。この曲は日本における本格的なポップ・ミュージック曲として話題となり、日本の歌手が歌唱するポップス曲は「和製ポップス」とも呼ばれるようになった。(ただし日本でのポップ・ミュージック曲そのものは戦前にもあった。)

歌謡曲の多ジャンル化は1960年代中頃に弘田三枝子によってリズム・アンド・ブルースと言う新たなジャンルも始まり、これを契機に歌謡曲のジャンルの多様化が本格化することになる。

歌謡曲における民謡音階

音楽学者の小泉文夫は1977年に発表した歌謡曲(ヒット曲)の音階構造分析において[7]、四七抜き音階から二六抜き音階(エオリア短調)へ移行しつつあると指摘し、これを日本の伝統的音楽感覚、民謡音階の復活とみて、1970年代の歌謡曲における「ラドレミソラ」音階を「日本のうたの古層の出現」と評した[8]。この小泉理論に対して佐藤良明は世界的にロック音楽が浸透した結果、さらにロック音楽のルーツにあるジャズやブルースなどの黒人音楽の影響のもとに二六抜き音階の出現があるとして[9][8]、たとえば美空ひばりの「真赤な太陽」(1967年)には日本伝来の民謡よりむしろアメリカ音楽の影響が強く、民謡の再現としての「演歌」というよりも、ロック音楽としてみなすべきだとした[8]

テレビ歌謡

また、1960年代に入るとカラーテレビに媒体が変わりテレビにおけるプロモーションを重視した「テレビ歌謡」が発展していくことにもなるが、この頃には演歌の歌唱法と比較した場合に感情表現が少なめな音楽として歌謡曲という用語が用いられている。多ジャンル化は高度経済成長期末期となった以降も続き、1972年頃からはニューミュージックがテレビ出演を拒みながら歌謡曲と一線を画しながら発展していく一方、アイドル歌謡の流行も始まる。

1970年代も後半になると、歌謡曲の中からも英語歌詞の影響を受けたような本来の歌謡曲にはなかった発音の音楽が生まれ出し、1980年代になると徐々に音楽的には歌謡曲からアイドル系の音楽は外れていく。

1978年のピンク・レディーの『サウスポー』にシンセサイザーが使われたり、同年にYMOが活動開始することでテクノ・ポップが日本で流行し、歌謡曲にもその影響下につくられたものをテクノ歌謡とも呼ぶ(1999年P-VINEレーベルが同名のコンピレーション・アルバムを発表[10])。

1989年に人気の高かった歌謡番組「ザ・ベストテン」が終了し、その頃を境に媒体の消滅により歌謡曲という用語自体が使用されなくなっていく。

1990年代、J-POP以降

1990年代初めにビーイングブームが発生し、歌番組における露出が控えめな歌手でも売上が伸びる現象が起き、「J-POP」などの言葉が流布された結果、「歌謡曲」という言葉はあまり使われなくなった。それゆえ、昭和の終わりとともに歌謡曲というジャンルが無くなったという俗説もある一方、流行の曲調ではなく、1990年代以前の広義での歌謡曲のような楽曲を歌い、売上を伸ばすKinKi Kidsといった歌手の登場や、カバーの流行により、J-POPの中における歌謡曲調なるものとして、かつての歌謡曲が見直されつつもある。

出典

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参考文献

テンプレート:参照方法

関連図書

  • 貴志俊彦『東アジア流行歌アワー―越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)、岩波書店、2013年10月

関連項目

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 世界大百科事典第二版。
  • テンプレート:Cite webweb魚拓
  • テンプレート:Cite web
  • 仮名遣い等を一部現代語化、小学館日本国語大辞典「歌謡曲」の項に掲載
  • テンプレート:Cite web web魚拓
  • NHK「歌謡スクランブル」2003年6月放送「ザ・ピーナッツ特集」での解説。
  • 「歌謡曲の音楽構造」増田論文参照
  • 8.0 8.1 8.2 [1]増田聡「音階論とポピュラー音楽研究」鳴門教育大学研究紀要 芸術編 18巻 2003年
  • 『J-POP進化論』1999年
  • [2]四方宏明「テクノ歌謡の逆襲~Part I P-VINEの『テクノ歌謡シリーズ』」、[3]四方宏明「テクノ歌謡の逆襲~Part 3 テクノ歌謡発掘隊が行く」