ザ・ピーナッツ
テンプレート:Infobox Musician ザ・ピーナッツ(The Peanuts)は日本の元女性歌手(デュオ)、俳優である。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)出身、同県名古屋市育ち[1]の双子で、略称「ピーナッツ」。
目次
人物
姉 伊藤エミ(本名、澤田[2] 日出代(さわだ ひでよ)(旧姓、伊藤)1941年4月1日 - 2012年6月15日)、妹 伊藤ユミ(本名、伊藤 月子(いとう つきこ)1941年4月1日 - )。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ。ただしすぐに転居し、子供-学生時代は同県名古屋市で過ごす。
所属事務所はデビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに、所属レコード会社は各社の争奪戦となり、ビクターレコード[3]と契約寸前まで達したが逆転され1959年4月2日にキングレコードと契約した。
発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する[4]。
略歴
愛知県名古屋市立西陵商業高等学校(現・名古屋市立西陵高等学校)を2年生の時に中途退学後、主に名古屋市内などで「伊藤シスターズ」名義で歌っていたが、1958年に同市内のレストランにて渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウトされ[5]上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける[6]。
1959年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー、4月、「可愛い花」でレコードデビュー。1959年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。
その後1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。
日本国外でも活躍し、『エド・サリヴァン・ショー』(アメリカ)や『カテリーナ・バレンテ・ショー』(当時の西ドイツ。現・ドイツ)、『ダニー・ケイ・ショー』(アメリカ)にも出演したことがある。
また女優活動も少ないながらも行っており、映画などにも数作出演。中でもモスラでの「小美人」役は現在もなお人気が根強くある。
和製ポップス[7]を海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手と言えば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍振りも高く評価された。
1975年2月18日に当時東京都千代田区有楽町の三信ビルヂングにあった渡辺プロダクション社屋[8]にて記者会見を開き、現役を引退することを表明(1972年頃より引退を検討していた)した。
同年3月31日には番組開始時より数多く出演をした「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)にて引退記念特集「さよならピーナッツ」[9]が組まれ、続く4月5日にはNHKホールにおいて、高橋圭三司会で「さよなら公演」を興行。[10]
この時、渡辺プロの主要タレントがほぼ総出で見届けていた。なお、このさよなら公演は3月から4月に掛けて大阪・京都・名古屋でも行われていた。なお同公演を最後に芸能界を引退した。[11]以後は現在に至るまで一切公の場には姿を現していない[12]。
姉の伊藤エミは1975年6月4日に同じ所属事務所であった元・ザ・タイガースの沢田研二と結婚し、ハナ肇宅の隣に居を構えていた。その後1男を出産するが、1987年1月に離婚した。
その後2005年12月23日より2006年1月15日まで東京都千代田区にある丸ビルで「渡辺プロダクション創立50周年企画 「抱えきれない夢」 日本のエンターテインメントの50年」が開催され、会場内の「ザ・ピーナッツコーナー」の展示品に、上記のさよなら公演で使用されたマイクが伊藤エミ・ユミの提供により展示されていた。
名付け親
グループ名は元・日本テレビの敏腕プロデューサー、井原高忠がグループ名、2人の芸名ともに名付けた。井原はのちにとんねるずの芸名も名付けている。また、個人の芸名を付けたのは渡邊晋である[14]。
伊藤エミとユミの相違点
双子の見分け方
ほくろのある方が姉の伊藤エミ、ない方が妹の伊藤ユミ(最初期は妹のユミもマジックで付けほくろをしていた)。
歌のパート
ハーモニーが姉の伊藤エミ、メロディーが妹の伊藤ユミで歌うのが通常のパターンである。
エピソード
代表的な作品の一覧
主なテレビ番組
- 魅惑の宵(初レギュラー番組)
- ザ・ヒットパレード
- シャボン玉ホリデー
ラジオ番組
- 『ザ・ピーナッツ』(ニッポン放送 1961年~1965年/朝帯番組)
主な楽曲
シングル
シングルで発表した主要な楽曲のみを記述。
- 可愛い花(デビュー曲)/南京豆売り(1959年4月)
- キサス・キサス/チャッキリ・チャ・チャ・チャ(1959年6月)
- 情熱の花(歌詞は2種類存在している、オリジナルはカテリーナ・ヴァレンテ)/米山さんから(1959年9月)
- 乙女の祈り/ばってん、ばってん、ばってんてん(1960年2月)
- 悲しき16才(オリジナルはキャシー・リンデン)/心の窓にともし灯を(1960年4月)
- 月影のナポリ(森山加代子との競作、オリジナルはイタリアの歌手ミーナ・マッツィーニ)/白鳥の恋(1960年7月)
- パパはママにイカレてる/マイ・ホーム・タウン(ダニー飯田とパラダイスキングとの競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。またダニー飯田とパラダイスキング版は題名が「恋のホームタウン」である)(1960年10月)
- ジングル・ベル/サンタクロースがやってくる(1960年10月)
- 清しこの夜/別れのワルツ(1960年10月)
- ルナ・ナポリターナ(坂本九、西田佐知子、松島トモ子との競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。また坂本九版は題名が「夢のナポリターナ」、松島トモ子版は「夢のナポレターナ」である)/バイアの小道(1960年12月)
- 17歳よさようなら/二人はしあわせ(1961年3月)
- しあわせがいっぱい/マッダレーナおばあさん(1961年5月)
- インファントの娘(東宝映画「モスラ」挿入歌。劇中歌唱バージョンとは、曲の構成が異なる)/草原情歌(1961年7月)
- スク・スク(ダニー飯田とパラダイスキングとの競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。またパラキン版は題名が「パラキンのスクスク」である)/カカオの瞳(1961年8月)
- 今池音頭/お城音頭(当時は名古屋限定発売)(1961年8月)
- あれは15の夏祭り/スク・スク・ドール(1961年8月)
- ペピト/ヘロー・メリー・ルー(1961年9月)
- コーヒー・ルンバ(西田佐知子との競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない)/シンデレラ(1962年1月)
- イエロー・バード/急がば廻れ(1962年1月)
- いつも心に太陽を/山小屋の太郎さん(1962年3月)
- ふりむかないで(後にWink、松雪泰子がカバーする。またハニー・ナイツの同タイトルの曲とは全く別のものである。ザ・ピーナッツ初のオリジナルヒット曲)/アテネの恋唄(1962年3月)
- 君去りし夜/あなたなんかもういや(1962年4月)
- 夕焼けのトランペット/ローマの恋(すぎやまこういち初のザ・ピーナッツソング作曲)(1962年5月)
- 私と私/幸福のシッポ(1962年6月)
- モスコーの夜は更けて/初恋のところ(1962年7月)
- イエスサリー/グッド・ラック・チャーム(1962年8月)
- さいはての慕情/ジョニー・エンジェル(1962年9月)
- 手編みの靴下/二人の高原(1962年12月)
- レモンのキッス/恋のジューク・ボックス(森山加代子との競作)(1962年12月)
- 若い季節(NHK放送の同タイトルのテレビドラマ主題歌であった)/わたしの心はうわのそら(1963年1月)
- 祇園小唄/深川くずし(1963年1月)
- 夜霧に泣くブルース/トンボラ(1963年3月)
- 恋のバカンス(後に田中美奈子、W(ダブルユー) がカバーする)/チャオ(1963年4月)
- 舞妓はん音頭/うちら祇園の舞妓はん(1963年5月)
- 東京たそがれ/こっちを向いて(1963年11月)
- 悲しきカンガルー(ダニー飯田とパラダイスキングとの競作)/ノン・ムッシュ(1964年1月)
- キャンディームーン/ドミニク(1964年4月)
- ジューン・ブライド/ほほにかかる涙(1964年5月)
- 青空の笑顔/ポエトリー(1964年9月)
- ウナ・セラ・ディ東京(和田弘とマヒナスターズ、西田佐知子、坂本スミ子との競作。『東京たそがれ』というシングルを再アレンジ・改題して発売)/知らなかった(1964年9月)
- 赤いダイヤ(藤田まこと)/好きになっちゃっちゃった(共演:藤田まこと)(1964年9月)
- マイ・ラブ/ブーベの恋人(1964年11月)
- 二人の恋人は?/スーヴェニール・東京(1965年3月)
- かえしておくれ今すぐに(吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人に向けての歌であった)/ドナ・ドナ(岸洋子との競作)(1965年3月)
- あなたの胸に/私を愛して(1965年7月)
- かわいい小鳥/ブルーレディーに紅バラを(1965年8月)
- 乙女の涙/明日になれば(1965年12月)
- 愛は永遠に/花のささやき(1966年5月)
- シュガー・キャンディー/スパニッシュ・フリー(1966年8月)
- ローマの雨/銀色の道(ダークダックスとの競作)(1966年10月)
- 東京ブルー・レイン/しあわせの花を摘もう(1967年5月)
- 恋のフーガ(後に小柳ゆき、W(ダブルユー)、GO!GO!7188がカバーする)/離れないで(1967年8月)
- 恋のオフェリア/愛のフィナーレ(1968年2月)
- 恋のロンド/愛への祈り(1968年6月)
- ガラスの城/たった一度の夢(1968年9月)
- 悲しきタンゴ/愛しい人にさよならを(1969年3月)
- 哀愁のヴァレンティーノ/夕陽に消えた恋(1969年7月)
- 野いちご摘んで/ついて行きたい(1969年9月)
- 男と女の世界/しあわせの誓い(1970年3月)
- 東京の女(『とうきょうのひと』沢田研二作曲。後に椎名林檎がカバーする)/愛が終ったとき(1970年7月)
- 大阪の女/青白いバラ(1970年9月)
- なんの気なしに/北国の恋(1971年5月)
- サンフランシスコの女/ロンリー香港(1971年10月)
- リオの女/恋のカーニバル(1972年3月)
- さよならは突然に/夜行列車(1972年9月)
- 指輪のあとに/最終便(1973年2月)
- 情熱の砂漠/あの時、もし(1973年7月)
- 気になる噂/ひとり暮し(1974年1月)
- 愛のゆくえ/さよならは微笑んで(1974年4月)
- お別れですあなた/季節めぐり(1974年9月)
- 浮気なあいつ/よこがお(1975年3月)
- モスラの歌(1961年の東宝映画「モスラ」主題歌。当時はレコード発売がなく、シングル化されたのは解散後にして「モスラ」公開17年目の1978年。後に1992年にコスモス(今村恵子&大沢さやか)、1996年に小林恵&山口紗弥加、2003年に長澤まさみ&大塚ちひろがカバーする)/インファントの娘(1961年発売のものとは異なる、「モスラ」劇中歌唱バージョン)(1978年5月)
シングル以外
- ふたりの四季(ABCホームソングとして制作・放送。後に梓みちよが、3番をカットしたものを「ポカンポカン」のタイトルでカバーしヒット)
- 砂に消えた涙(弘田三枝子、伊東ゆかりなどとの競作)
- オー・シャンゼリーゼ
- スター・ダスト
- 白い恋人たち(1968年グルノーブルオリンピックの同名記録映画主題曲の日本語訳歌唱)
- 昭和フォーティーズ~ザ・ピーナッツ・オン・ステージ(ヒット曲や洋楽カバーなどを収録したライブ版、1972年)
みんなのうた
CMソング
コマーシャルソングの一部を記述。
- 日立キドカラーの歌
- 小田急ピポーの電車
- キッコーマンの歌
- レナウンの唄(「ワンサカ娘」(弘田三枝子)が発表される前はザ・ピーナッツの歌が使用されていた)
- エーワンベーカリーのうた
- プリンス自動車の歌
- 日本テレビの歌
- QRソング(文化放送)
- 資生堂ミラクルの歌
- ハマフォームポーリーの唄(横浜ゴム)
- しるこサンド
- マルゴのタナベ(田辺製薬(現・田辺三菱製薬))
など。
放送番組向けソング
民謡
民謡関連の一部の曲目を記述。
など。
クリスマスソング
その他
出演映画
- 素晴らしき十九歳(1959年7月14日、松竹)
- 実は熟したり(1959年9月17日、大映)
- 可愛い花(1959年11月3日、日活)
- 右門捕物帖 地獄の風車 (1960年3月1日、東映)- 風車売りの姉妹
- 女は抵抗する (1960年3月8日、大映)- 新人歌手
- 情熱の花(1960年11月12日、日活)
- 腰抜け女兵騒動(1961年1月26日、東宝)
- 飛び出した女大名(1961年4月16日、大映)
- モスラ(1961年7月30日、東宝)- 小美人
- 私と私(1962年8月11日、東宝):主演映画 - 赤城増美(エミ)、山本まゆみ(ユミ)
- 夢で逢いましょ(1962年9月15日、東宝)
- 若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん(1963年6月30日、東宝):主演映画
- モスラ対ゴジラ(1964年4月29日、東宝) - 小美人
- 三大怪獣 地球最大の決戦(1964年12月20日、東宝) - 小美人
- 大冒険(1965年10月31日、東宝=渡辺プロ) - クラブの歌手
- クレージー黄金作戦(1967年4月29日、東宝=渡辺プロ)
- クレージーメキシコ大作戦(1968年4月27日、東宝=渡辺プロ)- メキシコショーの歌手
また、2003年の映画『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』でもライブフィルムでワンカット出演している。
支えた裏方達
ザ・ピーナッツ担当のマネージャーは基本的に幹部候補生を数名抜擢した。これらの担当者は後年、渡辺プロで、あるいは独立し、それぞれが芸能界で大成している。
- 主なマネージャー
- 松下治夫(渡辺プロダクション元社員) - 芸能プロ・ワイズメン代表
- 諸岡義明(渡辺プロダクション社員(現・取締役)、後にキャンディーズも担当する)
- 池田道彦(渡辺プロダクション元社員) - 元・アトリエ・ダンカン代表取締役
- 大里洋吉(渡辺プロダクション元社員) - 株式会社アミューズ代表取締役会長
最終公演
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1959年(昭和34年)/第10回 | 初 | 情熱の花 | 07/25 | 和田弘とマヒナ・スターズ | |
1960年(昭和35年)/第11回 | 2 | 悲しき16才 | 11/27 | 和田弘とマヒナ・スターズ(2) | |
1961年(昭和36年)/第12回 | 3 | スク・スク | 19/25 | ダーク・ダックス | |
1962年(昭和37年)/第13回 | 4 | ふりむかないで | 05/25 | ダーク・ダックス(2) | |
1963年(昭和38年)/第14回 | 5 | 恋のバカンス | 22/25 | デューク・エイセス | |
1964年(昭和39年)/第15回 | 6 | ウナ・セラ・ディ東京 | 24/25 | 坂本九 | トリ前(1) |
1965年(昭和40年)/第16回 | 7 | ロック・アンド・ロール・ミュージック | 21/25 | デューク・エイセス(2) | |
1966年(昭和41年)/第17回 | 8 | ローマの雨 | 16/25 | ジャッキー吉川とブルーコメッツ | |
1967年(昭和42年)/第18回 | 9 | 恋のフーガ | 22/23 | アイ・ジョージ | トリ前(2) |
1968年(昭和43年)/第19回 | 10 | ガラスの城 | 06/23 | 西郷輝彦 | |
1969年(昭和44年)/第20回 | 11 | ウナ・セラ・ディ東京(2回目) | 20/23 | フランク永井 | |
1970年(昭和45年)/第21回 | 12 | 東京の女 | 03/24 | 野村真樹 | |
1971年(昭和46年)/第22回 | 13 | サンフランシスコの女 | 18/25 | 堺正章 | |
1972年(昭和47年)/第23回 | 14 | さよならは突然に | 11/23 | ビリー・バンバン | |
1973年(昭和48年)/第24回 | 15 | ウナ・セラ・ディ東京(3回目) | 12/22 | 上條恒彦 | |
1974年(昭和49年)/第25回 | 16 | ブギウギ・ビューグル・ボーイ | 20/25 | 布施明 |
- 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
- 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
- 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
その他
- ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ドリフターズとともに最強時代のナベプロを築き上げていた功績が評価されている。
なお、クレージーとの共演は比較的多かったものの、ドリフとの共演はほとんどない。特に志村けん加入後の後者との共演は茶の間に出回っている出典に残る範囲では1975年(昭和50年)正月の新春かくし芸大会と前述の「さよなら公演」(ただしドリフは会場で出迎えをしたのみ)、8時だョ!全員集合でのゲスト出演が数回ある程度である(「芸能ビジネスを創った男 〜渡辺プロとその時代〜」と言う書籍の表紙の裏のページに1975年(昭和50年)の新春かくし芸大会の写真が掲載されている)。 - 上記のような縁もあってか、ハナ肇が1993年に他界する直前にはハナの弟子であるなべおさみと共に看病に当たっていた。ハナは伊藤姉妹が見舞うたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。
- ザ・ピーナッツの愛車はプリンス自動車[15]の桃(ピンク)色の車(プリンス・グロリアデラックス)であった。
- 同じ双子の歌手であったこまどり姉妹とはデビューした年も同一であったこともあり、公私共に交流があった。
- 1966年(昭和41年)発売の園まりのシングル「逢いたくて逢いたくて」は、ザ・ピーナッツが1962年(昭和37年)に発売したシングル「手編みの靴下」が元歌である。
- 「夜のヒットスタジオ」には1969年(昭和44年)1月13日に初出演(曲は「ガラスの城」)して以来、約6年間の間に40回に渡り出演。まだ「歌謡バラエティ」の色が強かった夜ヒットにおける常連歌手の一組であり、「シャボン玉ホリデー」での経験から当時の人気コーナー「歌謡ドラマ」にも率先して参加した。
- 「シャボン玉ホリデー」の番組タイトルを「ピーナッツ・ホリデー」にする事が有力であったが、スポンサー側の意向で立ち消えとなった。この為、テレビ番組に於けるザ・ピーナッツの冠番組は、現役時代には1番組も存在しなかった。
- ニッポン放送(JOLF)で、1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)にかけて、その名も『ザ・ピーナッツ』というタイトルで、伊藤姉妹がDJを務めていたラジオ番組の音源がこのほど発見され、番組中で歌唱した曲(未発表曲10曲を含む)を集めてコンパクトディスク化したアルバムを、キングレコードが2008年(平成20年)11月26日に発売した[16]。
ザ・ピーナッツを演じた女優
- Wink(相田翔子・鈴木早智子)
- 「シャボン玉の消えた日」(1989年12月31日、日本テレビ系)
- 「シャボン玉ホリデー」の最終回の裏側を描いたドラマ。ちなみにWinkはその後、ザ・ピーナッツのヒット曲「ふりむかないで」をカバーしてシングルCDで発売した。
- 「シャボン玉の消えた日」(1989年12月31日、日本テレビ系)
- 安倍なつみ・安倍麻美姉妹
- 「ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜」(2006年5月26日・5月27日、フジテレビ系で2夜連続放送)
- 堀内敬子、瀬戸カトリーヌ
- 奈津子、亜希子双子姉妹
- 「ヒットメーカー 阿久悠物語」(2008年8月1日、日本テレビ系)
参考文献
脚注
関連項目
- ハナ肇とクレージーキャッツ
- 宮川泰
- すぎやまこういち
- 伊福部昭
- 岩谷時子
- シャボン玉ホリデー
- ザ・ヒットパレード (テレビ番組)
- キングレコード
- 森岡賢一郎
- 沢田研二
- 双子の有名人の一覧
- 小美人
- モスラ
- 古関裕而
- 井原高忠
外部リンク
- テンプレート:URL
- テンプレート:URL
- テンプレート:JMDb name ※13、は「伊藤リエ」の出演作であるピンク映画で、誤記。
- ↑ 中日新聞1975年3月30日朝刊の名古屋でのさよなら公演の記事によると小学生時代に名古屋市中区西大須に転居したとある。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 当時は独立した会社ではなく日本ビクターの一部門であった。
- ↑ きょう発プラス! TBS系番組『きょう発プラス!』 2006年4月17日放送より
- ↑ 最初は名ドラマーとして知られたジミー竹内が渡邊に紹介したという。
- ↑ 社長宅には当時、事務所の先輩である浜村淳なども下宿していた。
- ↑ 現代風に言えば「J-POP」と称される事もある。但し、若干意味合いが異なると定義されている。
- ↑ 2009年現在は渋谷区内に移転している。
- ↑ これが同番組での「サヨナラ」企画第1号とされている。ザ・ピーナッツは夜のヒットスタジオには通算40回出演している
- ↑ この当時は歌手の引退コンサートはまだ一般的ではなかった。また歌手として史上初めてのさよならコンサートとも言われている。
- ↑ その後同年4月13日の「さようならザ・ピーナッツ」、また同年5月25日に「最後の最後のザ・ピーナッツ」が日本テレビで放送されたが「さよなら公演」等のVTRを主としたものであり、ザ・ピーナッツは直接出演はしていない。
- ↑ 例外として1975年6月4日の比叡山延暦寺に於ける結婚式では一部メディアで報道されていた(1987年1月の離婚時は不明)。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 「ザ・ピーナッツ シングルス〜モスラの歌〜」(40周年記念CD)解説書
- ↑ 後に日産自動車に吸収合併され現在会社は存在しないが、現在も日産販売店系列の名称に「日産プリンス」という形で名称が残っている。
- ↑ ザ・ピーナッツ未発表曲10曲がCD化 サンケイスポーツ 2008年9月20日閲覧