ピンク・レディー
テンプレート:独自研究 テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Infobox Musician ピンク・レディー(Pink Lady)は、1970年代後半に活躍したデュオのアイドル。ミー(現:未唯mie、本名:根本美鶴代、1958年3月9日 - 、A型、静岡県静岡市葵区出身)とケイ(現:増田恵子、本名:桑木啓子(旧姓:増田)、1957年9月2日 - 、O型、静岡県静岡市葵区出身)の2人組。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。
来歴
出会いとデビュー
常葉高校(現・常葉学園高校)卒業後の1976年8月25日に、シングル「ペッパー警部」で歌手デビュー。中学、高校時代に同級生だった二人は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。講師の勧めで“クッキー”というデュオを結成し歌手を目指していた。クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。デビューのきっかけとなったテレビ番組『スター誕生!』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。歌も当時ほとんど無名に近かった、フォークグループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。メンバーのうち、叶正子は後にコーラス・グループ「サーカス」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され、合格する。
『スター誕生!』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。「ピンク・レディー」とは“ピンクレディーの生みの親”である作曲家・都倉俊一の命名であり、カクテルのピンク・レディーに由来する。
同様の歌手としては1970年代前半に人気を博した山本リンダの前例もあるが、山本が“大人の女”の色気を売りにし夜のイメージを感じさせたのに対し、ピンク・レディーは明るく健康的なムードなのが対照的だった。山本もまた、作詞家・阿久悠と都倉俊一によるプロジェクトであり、この二人が提供した楽曲が多い[1]。デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべて土居甫の手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に二人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった[2]。
人気絶頂期
ピンク・レディーのデビュー・シングル『ペッパー警部』(1976年8月)は、発売当初の売上は芳しくなかったものの、1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得した事などを契機に、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。第2弾シングルの『S・O・S』(1976年11月)は“名曲”として評価が高く、またオリコンチャートでも1位を記録し、ピンクレディーがダンスを売りにした単なるセクシーアイドルではないということを証明した。第3弾シングルの『カルメン'77』(1977年3月)もオリコン1位を記録するヒット・ソングとなる。
そして、ピンクレディーが最も大きな輝きを発したと言える作品が、第4弾シングルの『渚のシンドバッド』(1977年6月)であった。ピンクレディー初のミリオンセラーとなったこの曲によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。当時はデビューしたばかりのサザンオールスターズがピンクレディーの『渚のシンドバッド』に“敬意”を表して、同年1977年に大ヒットした沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲『勝手にしやがれ』と『渚のシンドバッド』の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を『勝手にシンドバッド』としたほどである。第5弾シングルの『ウォンテッド(指名手配)』(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングも発売されている。1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「大衆賞」を受賞した。(大賞を受賞した勝手にしやがれとはわずか一票差で大賞を逃した。)
第6弾シングルの『UFO』(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞する。それまでピンクレディーのような“ディスコ・ポップス系”のアイドル歌手がレコード大賞を受賞した例はなく、ピンクレディーのレコード大賞受賞はまさに“前代未聞の革命”であった。また『UFO』では、“地球の美女が異星人に恋をする”という阿久悠作詞の歌詞も、当時としては画期的なものであった。
第7弾シングルの『サウスポー』(1978年3月)もミリオンセラーとなり、ピンクレディーは“70年代最大のアイドル歌手”としての地位を決定的なものとした。この『サウスポー』では“左利きの女性投手が王貞治と一騎打ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたものである(この頃、王貞治は初代の国民栄誉賞を受賞した)。ピンクレディーの作詞家・阿久悠は「作詞とは“時代”である」をポリシーとしており、まさに時代を映し出した名曲となった。さらに、次のシングル『モンスター』(1978年6月)も、『渚のシンドバッド』・『UFO』・『サウスポー』と続いた“大ブームの勢い”を受けて、ミリオンセラーを記録した。
このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年の約2年間にわたって続いていた。なお、それまでピンクレディー旋風を支えていたのは若い年代の成人男性たちであったが、『モンスター』以降は“事務所の方針”でそれまでの“アダルト路線”から子供向けの“お子様路線”へと営業戦略が大転換された。このピンクレディーの“お子様路線”が、やがてピンクレディーを“没落”へと導いていく原因の一つになる。
ピンク・レディーは、1970年代前半の国民的アイドルだった天地真理や1970年代半ばから後半にかけ人気を博した山口百恵らを超え、さらに時代を象徴するスーパーアイドルになったと言える。1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1を獲得した。また『サウスポー』や『透明人間』(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。
人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2011年現在でも破られていない(1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付にモーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。
アメリカ進出・人気急降下、解散
『カメレオン・アーミー』(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。しかし、1978年大晦日の『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を敢えて辞退、日本テレビ系のチャリティー番組に出演する。しかし当時の『紅白歌合戦』は国民的番組であり、ピンク・レディーが出演した裏番組は惨敗する結果になった。
ニューミュージック全盛期を迎える翌1979年、「ジパング」(1979年3月)はオリコン4位留まりで、オリコン連続首位記録がついにストップする。その後「ピンク・タイフーン」(1979年5月)と、「波乗りパイレーツ」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持したが、アメリカでの活動を主軸に置いた同年秋からは、急速に人気の低下を見せるようになってゆく。アメリカのショービジネスの世界へ進出して日本のマーケットを省みなかった事が、結果として人気に悪影響を与えてしまい、爆発的な人気が出た後に、前述の紅白辞退やアメリカ進出で負の遺産を背負い込むことになった。
そして1980年9月1日、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。それから7か月後の1981年3月31日、みぞれ交じりの冷たい雨が降り続く中、後楽園球場でピンク・レディーの解散コンサートを開催する。しかし空席が目立つスタンドは、かつて人気絶頂だった頃の面影は殆ど失われ、又ピンク・レディーと何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったのと比べると、あまりにも寂しいものであった。この解散コンサートでは、ピンク・レディーのマネージャーがミーとケイがいつも穿いている“ステージ用の見せパンティー”を持参するのを忘れてしまい、ミーとケイは自分たちの“生パンティー1枚”を穿いただけの状態でコンサートに出演した(徹子の部屋・ミー談)。そのため、いつものようにミニスカートを穿いて歌い踊ったミーとケイは、汗まみれになった生パンティーを観客に露出する羽目になった。
活動期間は4年7ヶ月。なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。
再結成
解散後はそれぞれ女優やタレントとしてソロ活動。ピンク・レディーとしては、2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動。二人でテレビ出演する際の衣装は、増田がピンク、未唯mieはブルーで登場することが多い。これは、現役の頃から今までも増田がピンクが大好きだということの表れである。
2010年、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー、ピンク・レディー Concert Tour 2011 "INNOVATION" を開催[3][4]。
年表
- 1971年 - 中学2年生の時、ケイがミーの在学する中学校に転校し、演劇部に入ったことで2人が知り合う。
- 1973年 - 当時、浜松市幸にあった音楽教室「ヤマハ四ツ池センター」のヤマハミュージックスクールに通い始める。
- 1974年 - コンビ結成。元々は「クッキー」(当時人気の有った「キャンディーズ」にあやかった)というフォークユニットだった。
- 1976年 - 日本テレビの番組『スター誕生!』にて合格し、8月25日シングル「ペッパー警部」でデビュー。
- 1977年〜1978年 - 日清焼そばU.F.O.のテレビCMに起用される。テレビの露出がこの時期に極端に増える。
- 1977年 - 「ウォンテッド (指名手配)」で第19回日本レコード大賞大衆賞受賞。レコード大賞を沢田研二の「勝手にしやがれ」と同点投票で逃す。
- 1978年 - 「UFO」で第20回日本レコード大賞受賞、「サウスポー」で第9回日本歌謡大賞受賞。
- 1979年 - シングル「Kiss In The Dark」で全米デビュー。
- 1980年 - 9月1日に7ヵ月後の解散を宣言。
- 1981年 - 解散。
- 1984年 - 1度目の再結成。
- 1989年 - 2度目の再結成。第40回NHK紅白歌合戦に出場
- 1990年 - 第41回NHK紅白歌合戦に出場
- 1996年 - 3度目の再結成(〜1997年)。
- 2000年 - 第51回NHK紅白歌合戦に出場
- 2002年 - パチンコ「CRピンク・レディー」(大一商会)が当時メーカー過去最大の売り上げを誇ったほど大ヒット。翌2003年の再結成へのきっかけとなる。
- 2003年 - 4度目の再結成。同年から2年間限定で全国ツアーを実施する。Vol.1のツアー・タイトルは『PINK LADY TYPHOON〜AGAIN〜ピンク・レディー メモリアル・コンサート -JAPAN TOUR 2003-』。
- 2004年 - 音楽番組『ミュージックフェア』にてモーニング娘。と共演、世代を超えた国民的アイドル同士での共演が実現した。ただし未唯は『ハロー!モーニング。』初回にて既にゲスト出演で共演している。
- 2004年 - コンサート・ツアー『ピンク・レディー メモリアル・コンサートVol.2 モンスターパニック』を行う。
- 2005年 - コンサート・ツアー『ピンク・レディー メモリアル・コンサートVol.3 LAST TOUR Unforgettable Final Ovation』を行う。(最終公演は『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』)。
- 2007年 - ピンク・レディーのパチンコが再び登場、パチンコで使用される曲の再レコーディングを行った。
- 2010年 - 最初の解散宣言から丁度30年経った同年9月1日に、「解散やめ!」宣言で5度目となる再結成。
- 2011年 - 3月31日、赤坂BLITZにてチャリティーイベント「初陣式」を決行。公演の模様は全てUstreamにて配信された。5月21日の市原市市民会館を皮切りに全国ツアーをスタートする。
エピソードなど
- 後に増田恵子(ケイ)は素朴な田舎っぽいイメージはオーディション番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたと語っている。当時のテレビ局関係者には素朴な田舎娘だったとの印象が強く、フォーク歌手指向と語られ、グループ名が「白い風船」もしくは「茶ばたけ」・「みかんばこ」になりかけたこともあった。
- デビュー曲のB面に予定されていた「ペッパー警部」を強引にA面にし、セクシー路線に変更させたのは、資金繰りに苦しんでいたデビュー前のピンク・レディーの所属事務所から、人を介して融資を頼まれ「T&C」と社名変更させた上でオーナーとなった[5]、総会屋の小川薫である。T&Cの社長・貫泰夫と専務は小川の中学(幟町中学)時代からの友人で、原爆の焼け野原で一緒にボールを追った野球部仲間だったが、二人とも証券、生命保険の大手企業出身の堅気で、一攫千金を夢見て脱サラした人物だった[6][7][8][9]。
- アイドル歌手では一般的なことだが、活動方針やイメージ戦略などはピンク・レディー本人(ミーとケイ)が立案しているのではなく、所属事務所など周囲の関係者が行っていた。多忙がたたり、当時の仕事の現場はダブルブッキングなどは日常茶飯事な状態であった。ミーとケイは、デビュー当時から寝る間もないほどの仕事を課せられていたため、自分たちが実際にどれくらい人気なのか全く分からなかったと後述している[10]。
- 当時の子供向けテレビ雑誌「テレビマガジン」(講談社)、「テレビランド」(徳間書店)、「てれびくん」(小学館)誌上における短期グラビア連載を展開した他、女児の間ではピンク・レディーの振り付けの真似が大流行した。『探偵!ナイトスクープ』2001年2月9日放送分の「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」の調査でも、街頭インタビューを行った一般の女性達が次々と完璧に「UFO」「サウスポー」などを踊りこなし、当時の人気振りを偲ばせた。当時フィーバーやアパッチ、キャッツ★アイなど、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。
- 絶頂期当時、ピンク・レディーのブロマイドの販売数も驚異的なものであったが、山口百恵や他のアイドル達の写真がスタジオなどできちんとした撮影がされているのに比べてピンクレディーの写真はその多くがテレビ局の廊下や階段などで撮影されたものが使用されている。これは写真スタジオで撮影するだけの時間が全くなかったほど多忙であり、番組出演の移動の合間に手っ取り早く撮影していたことが理由であったと本人達が後に語っている。
- アメリカ進出の経緯については一般に知られていないが、多くのファンを得て、短期間に準レギュラー出演の番組を獲得するなど、当時の外国人デュオとしては成功を収めた。しかしながら、よりセックスアピールを前面に出したスタイルであったため、国内でのイメージを損なう恐れがあるとの判断から日本ではほとんど報道されなかった。アメリカのマーケットにおける長期的な見通しの欠如と、国内マーケット重視の営業判断から、活動途中でアメリカから撤退を余儀なくされた。また当時、主に私生活上(特に恋愛関係)の要因からケイが日本への帰国を強く主張していたことを、後にケイ自身が著書で明らかにしており[11]、それもアメリカ撤退の一因となった。
- 一方で音楽プロデューサーでテレビコメンテイターでもあるデーブ・スペクターが、「ピンクレディーは名前が悪すぎた。アメリカでピンクレディーという名前では売れるはずがないんですよ。」と一刀両断にしている(アメリカでは「ピンクレディー」とは一般的にはカクテルの名前が想起されるが、他に”共産主義者っぽい女性”、”バルビツール酸系催眠鎮静剤”、“売春婦”がある)。
- サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」は、沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」のふたつの曲のもじりである(それ以前に『8時だョ!全員集合』で志村けんが「勝手にシンドバッド」というギャグを披露している)。
シングル
現役時代
- ペッパー警部(1976年8月25日)
- 作詞の阿久悠の書籍『夢を食った男たち - 「スター誕生」と黄金の70年代』によると、阿久がこの曲名をつけた際の由来についてはドクターペッパーからの引用か、またはサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからか、『ピンク・パンサー』の登場人物クルーゾー警部からか、落語のくしゃみ講釈の落ちに登場する胡椒(故障)からペッパーを連想したのか、あるいは曽根史朗の往年のヒット曲「若いお巡りさん」[12]からの連想なのかもしれないが、どれも(阿久悠自身による)後付けの解釈であり、本当のところは分からないとしている。なお、映画『007 死ぬのは奴らだ』と『007 黄金銃を持つ男』に出てくるペッパー保安官(後に警部)については同書では言及されていない。ダンスで大胆に股を開く振り付けは当初は下品とマスコミ関係者に不評であった。B面の「乾杯お嬢さん」も人気で、こちらはキャンディーズを意識した楽曲でもあった。前述書『夢を食った男たち』によると、阿久は最初からA面を「ペッパー警部」、B面を「乾杯お嬢さん」にするつもりで作詞したが、当初ビクターは「乾杯お嬢さん」をA面で売り出そうとしたという。
- S・O・S(1976年11月25日)
- カルメン'77(1977年3月10日)
- この曲あたりから激しい振り付けが増えてゆき、さらなるインパクトがつけられた。
- 渚のシンドバッド(1977年6月10日)
- オリコン上における初のミリオン・セラー。オリコンチャートにおいて計8週に渡り1位を獲得。
- ウォンテッド(指名手配)(1977年9月5日)
- 簡単な振り付けが子供たちの間に広まり、振り付けの真似がはやるきっかけとなる。イエロー・マジック・オーケストラ (YMO) が結成初期のライヴで演奏したこともある。オリコンチャートでは「渚のシンドバッド」から連続して1位を獲得し続け、この曲だけで12週連続1位を獲得。
- UFO(1977年12月5日)
- サウスポー(1978年3月25日)
- 当時まだ珍しかった「オリコン初登場1位」を達成。歌詞中には同時代のスターであった王貞治をイメージした打者が登場する(王貞治#歌を参照されたい)。また、高校野球の応援歌では、現在も山本リンダの「狙いうち」等と共に定番の曲である。
- 同曲にはお蔵入りになったバージョンが存在する。こちらは歌詞も曲調も異なり、王貞治をイメージした打者も登場しない。こちらはレコーディングまでされたものの日の目を見ることはなかった。なお、没バージョンの「サウスポー」は、1998年1月12日に日本テレビ系列で放送された『スーパーテレビ情報最前線 特別版 今夜公開! 山口百恵・ピンク・レディー伝説』でごく一部が流れた後、2008年になって阿久悠の作詞作品を集めたCD-BOX『続・人間万葉歌』に収録され、ようやく商品化された[14]。
- モンスター(1978年6月25日)
- 出だしから「ワハハハ…」という不気味なモンスターの声(都倉俊一の声に音声加工)に、二人が「キャー!」と叫ぶイントロが話題に。
- 透明人間(1978年9月5日)
- 三角ブラとホットパンツを基調としたシースルーの衣装で歌った。B面は『飛べ!孫悟空』の主題歌「スーパーモンキー孫悟空」。
- カメレオン・アーミー(1978年12月5日)
- オリコンにおいて、初登場88位→翌週1位という珍記録を達成[15]。
- 『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』 第74話「恐怖のカメレオン人間」では挿入歌としてこの曲が使用されていた。
- 松田優作主演のアクション映画、『俺達に墓はない』では、島とヒコのアジトであるバー亜邪馬の店内で、島が都築興業襲撃の最初の打ち合わせをヒコとしていた時に、この曲が流れていた。
- ジパング(1979年3月9日)
- デビュー曲以来続いた出荷枚数の連続100万枚突破記録、「S・O・S」以来続いたオリコン連続1位記録が途切れるが、総シングルレコードの売上合計枚数が1000万枚を突破した。これもオリコン史上初となる快挙であった。
- 「カメレオン・アーミー」と同じく、『俺達に墓はない』で、島が都築興業の襲撃に失敗し、滝田と手を組み、店に帰ってきて、ミチが店を開いていた時に、この曲が流れていた。
- ピンク・タイフーン (In The Navy)(1979年5月1日)
- ヴィレッジ・ピープルの「In The Navy」をカヴァー。同じカヴァー曲の渋谷哲平「ヤング・セーラーマン(In The Navy)」と競作となる。
- 波乗りパイレーツ(1979年7月5日)
- B面の「USA吹込盤」は、ザ・ビーチ・ボーイズがコーラスに参加。
- Kiss In The Dark(1979年9月5日)
- 全米デビューシングル。ビルボード誌の「HOT 100」で37位にランクインした。総合チャートにおいては坂本九に次ぐ記録。2011年までの時点で40位以内に入った最後の日本人歌手となる(ラジオ番組『American Top 40』の影響もあり、40位以内へのランクインがヒット曲の基準として重視される傾向にある)。
- マンデー・モナリザ・クラブ(1979年9月9日)
- DO YOUR BEST(1979年12月5日)
- 1980年のモスクワオリンピックに出場予定だった日本選手を応援するため、「がんばれ! ニッポン募金 Do your best!」というキャッチフレーズでピンク・レディーが選手強化募金を呼びかけた曲。その後政治的理由により、アメリカに続き日本もモスクワオリンピックをボイコットし、強化募金呼びかけは消滅。フジテレビ『夜のヒットスタジオ』では披露されていない。
- 愛・GIRI GIRI(1980年3月5日)
- 発売当時、ピンク・レディーはアメリカで活動中だったため、テレビでは一度しか歌われなかった曲。
- 世界英雄史(1980年5月21日)
- 日本帰国後のシングル。当時解散説が流れ、2人と事務所は当初完全否定していたが、それから約3か月後の9月1日に解散宣言を公表する。
- うたかた(1980年9月21日)
- アメリカで発売したアルバム『ピンク・レディー・イン・USA』収録曲「Strangers When We Kiss」の日本語バージョン。歌詞もサウンドもセクシーな雰囲気。
- リメンバー (フェーム)(1980年12月5日)
- Last Pretender(1981年1月21日)
- OH!(1981年3月5日)
- ラスト・シングル[16]。
- なおピンク・レディーが1981年解散の後、未唯mie(当時・MIE)は1984年に「NEVER」(TBS系「不良少女とよばれて」主題歌)を、増田恵子(当時・けい子)は1982年に「すずめ」(中島みゆき作詞・作曲)を、それぞれソロ歌手として大ヒットさせている。
解散後
1度目の再結成時
2度目の再結成時
1990年、ポリドールより「2年目のジンクス/ポロロッカ」がシングル発売される予定だったが、未唯mieと増田の契約上の問題など諸事情から見送られた。「2年目のジンクス」はNHKのテレビ番組出演時に披露され、同年末の第41回NHK紅白歌合戦においても、「ピンク・レディー・メドレー[17]」の中で歌われた。
この2曲は1993年に、ビクターから発売されたベスト・アルバム『BEST ONE』に収録された。
3度目の再結成時
- PINK EYED SOUL(1996年11月21日)
- シングルとしては「不思議LOVE」以降12年ぶりの新曲。ビクターより発売。
4度目の再結成時
- テレビが来た日(2003年5月2日)
- NHK『みんなのうた』、テイチクエンタテインメントより発売。
その他
- PINK LADY DANCE MIX TRAX(1993年9月) - リミックス・シングル
- リミックス・マキシ・シングル(1996年8月) - 5枚同時発売
- ペッパー警部
- カルメン'77
- 渚のシンドバッド
- UFO
- モンスター
アルバム
スタジオ・アルバム
- ペッパー警部(1977年1月25日)
- 星から来た二人(1978年11月5日)
- ピンク・レディーの不思議な旅(1979年8月5日)
- ピンク・レディー・イン・USA(1979年9月5日)
- 1979年6月1日に全米で発売されたアルバム『PINK LADY』と同内容の日本版
- WE ARE SEXY(1979年12月1日)
- 洋楽のカバー・アルバム
- SUSPENCE 〜Pink Lady Again(1984年6月21日)
ライブ・アルバム
- チャレンジ・コンサート(1977年6月5日)
- サマー・ファイア'77(1977年9月10)
- バイ・バイ・カーニバル(1978年3月5日)
- アメリカ!アメリカ!アメリカ!(1978年6月25日)
- '78ジャンピング・サマー・カーニバル(1978年9月5日)
- LIVE IN 武道館(1979年2月5日)
- さよならピンク・レディー(1981年6月25日)
- 1981年3月31日、後楽園球場で行われた解散コンサートを収録
ベスト・アルバム
- ベスト・ヒット・アルバム(1977年12月5日)
- ベスト・ヒット・アルバム(1978年12月5日)
- UFO/サウスポー(1979年6月1日)
- ターニング・ポイント(1980年12月5日)
- PINK LADY(1981年3月21日)
- 全米発売された『PINK LADY』とは別。新曲11曲を含む全42曲収録の3枚組限定ベスト・アルバム(通称・銀箱)。
- PINK LADY HISTORY 〜ピンク・レディー・シングル全曲集〜(1990年12月1日)
- BEST ONE(1993年12月1日)
- 「2年目のジンクス」「ポロロッカ」収録
- TWIN BEST(1995年6月28日)
- Mie & Kei 〜Pink Lady Best Selection〜(1996年12月18日)
- シングル「PINK EYED SOUL」含む本人選曲のベスト・アルバム
- ピンク・レディー ベスト・ヒット・アルバム(2003年6月4日)
- 1977年版のベスト・ヒット・アルバムをCD化し、更にそれ以降に発売されたシングルA面曲集を加えた2枚組のベスト・アルバム
- MEGA HITS!!(2006年2月22日)
- オリジナル・カラオケDiscを含む2枚組ベスト・アルバム
- ピンク・レディー「阿久 悠 作品集」(2008年3月26日)
- GOLDEN☆BEST ピンク・レディー コンプリート・シングル・コレクション(2009年9月16日)
- 1981年までのシングルA・B面を完全収録
- INNOVATION(2010年12月1日)
- 現役当時のマスターテープをそのまま使い、ヴォーカルのみ新しく録音し直したベスト・アルバム。これは、当時の一流スタジオミュージシャンの演奏まで捨てて新アレンジにするのは惜しいという理由からのもの。
リミックス・アルバム
- BLOOD NEW(1987年12月1日)
- REMIXES(1990年12月5日)
- RARE TRAX(2006年1月21日)
サウンドトラック
- ピンク・レディーの活動大写真(1978年12月25日)
CD-BOX
- ピンク・レディー・プラチナ・ボックス(2006年5月31日)
- PINK LADY ORIGINAL ALBUM COLLECTION BOX(2006年7月26日)
- 『ペッパー警部』から『バイ・バイ・カーニバル』までの4作を収納。
- Singles Premium(2011年8月25日)
- CD23枚+DVD2枚。1981年までのシングルA・B面、「サウスポー」の幻の初期バージョンを収録。DVDには『スター誕生!』・『NTV紅白歌のベストテン』を中心とした日本テレビ出演時の番組映像と、1978年のコンサート『アメリカ!アメリカ!アメリカ!』(ラスベガス公演)・『'78ジャンピング・サマー・カーニバル』(後楽園球場コンサート)のライブ映像が収録されている。
映像作品
VHS・LD
- ピンク・レディーのすべて〜スター誕生からさよならピンク・レディーまで〜(1990年10月5日)
- NOW in Los Angels(1991年3月21日)
- PINK EYED SOUL(1997年1月1日)
- 再会 Pink Lady(1997年9月19日)
DVD
- メモリアル・コンサートVol.3 PINK LADY LAST TOUR Unforgettable Final Ovation(2005年8月25日)
- ピンク・レディーの活動大写真(2006年7月28日)
- ピンク・レディー IN 夜のヒットスタジオ〜フジテレビ秘蔵映像集〜(2011年5月27日)
- CONCERT TOUR 2011 "INNOVATION"(2011年12月28日)
DVD BOOK
- ピンク・レディー フリツケ完全マスターDVD vol.1(2004年7月8日)
- ピンク・レディー フリツケ完全マスターDVD vol.2(2004年8月31日)
テレビ作品
- 24時間テレビ 「愛は地球を救う」(日本テレビ)
- ハロー! ピンク・レディー(東京12チャンネル)
- ディス・イズ・ピンク・レディー(東京12チャンネル)
- ピンク・レディー物語 栄光の天使たち
- 1978年10月24日から1979年6月26日に、東京12チャンネルで放送されたアニメ作品。全34話および前夜祭1回と総集編2本からなる。「本人達にあまりにも似ていない」と不評であったため、シリーズ途中でキャラクターデザインをやり直したという逸話がある。
- NTVザ・ヒット! ピンク百発百中(日本テレビ)
- たまりまセブン大放送!(TBS)
- 走れ! ピンク・レディー(テレビ朝日)
- 基本的には着ぐるみ人形劇で、ピンク・レディーもモンピーと言う架空の動物着ぐるみの姿で登場する(イメージを似せて、本人たちが声を担当しているだけで、着ぐるみを着ているわけではない)。ゲスト・スターのコーナーでも、ゲスト・スター本人と着ぐるみが時々入れ替わる演出や、ピンク・レディーの持ち歌コーナーでは、本人と着ぐるみが共演して踊るといった演出が行われた。
- UFOセブン大冒険(TBS)
- 1978年4月から9月まで放送。『たまりまセブン』の流れを汲むドラマ・バラエティ。ピンク・レディーは、榊原郁恵扮する未来人「フェルメーテ」の実姉・ミーテ(ミー)とケーテ(ケイ)役でレギュラー出演。
- ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!(1978年12月31日、日本テレビ)
- それまで放送していた『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』に代わって放送した、『NHK紅白歌合戦』対抗番組。ピンク・レディーはこの出演のため、『第29回NHK紅白歌合戦』の出場を辞退した。
- ザ・チャンス!(TBS)
- Pink Lady and Jeff(アメリカNBC)
CM
- グリコ
- ラブリーチョコ
- アーモンドダン
- チョコリロ
- グリコしぐれ
- 雪印乳業
- 神州一味噌
- 日清食品
- 日清焼そばU.F.O.
- めんくらべ
- 牛乳石鹸共進社
- シャワラン シャンプー&リンス
- シャワラン トリートメントセブン
- 大日本除虫菊
- 金鳥蚊取りマット
- 松下電器産業
- ナショナル薄型ラジオ ペッパー
- ナショナル電子制御エアコン クールクール
- 日本コカ・コーラ
- 学研
- アサヒ玩具
- カンロ
- ポッカ
- つぶコーン カップスープ(歌唱のみ)
- 他多数
映画
- ピンク・レディーの活動大写真(1978年、東宝)
関連項目
- ピンク・レディーX
- ピンク・レディー (カクテル) - ユニットの名の由来になっているカクテル
脚注
- ↑ 小田急電鉄発行フリーマガジン「Como le va?」No.10 による
- ↑ なお小川も、付き合いのあった企業へCM起用を売り込んだ
- ↑ 「解散やめ!」ピンク・レディーが再結成 年内ニューアルバム&来年復活コンサート - 2010年9月1日付、oricon style
- ↑ ピンク・レディーが復活宣言! ライバルAKBには「燃えちゃうかも・・・」 - 2010年9月1日付、共同通信
- ↑ サンデー毎日、1978年1月22日号、111頁
- ↑ 哀悼 小川 薫 - 貫泰夫のブログ『ぶらりぶらり』 2009年4月28日付
- ↑ 野球少年 - 貫泰夫のブログ『ぶらりぶらり』 2008年12月26日付
- ↑ 雑誌『週刊サンケイ』 1977年7月17日号、151 - 152頁
- ↑ 朝日新聞夕刊、1981年1月24日、7頁
- ↑ 地方公演に行った際、驚異的な数の観衆が集まっているのを見て、初めて自分たちが爆発的な人気を得ていると実感したという。当時の多忙ぶりを象徴するエピソードとして『欽ドン!』にゲスト出演した際、最後に出演者一同が布団に入り「お休みなさい」と言って番組終了を伝えるシーンで、演技ではなく本当に眠ってしまったことがある。
- ↑ 増田恵子著『あこがれ』(2004年、幻冬舎) ISBN 978-4344006768
- ↑ 公園のベンチにいるカップルに「早く帰りなさい」と諭す巡査が主人公の歌。「ペッパー警部」と同じビクターより発売
- ↑ モールス符号による通信は、1999年に廃止されている。
- ↑ 「サウスポー <未発表バージョン>」として収録。
- ↑ 正式な発売日以前にフライング発売された分がオリコンに集計されたため。
- ↑ 解散コンサートでのラストナンバーは舟木一夫が1980年に発表した自作曲『グッド・バイ・ソング』のカバーだった(『舟木一夫の青春賛歌』2012年 産経新聞出版 ISBN 987-4-8191-1157-7 P185・186、アルバム『さよならピンク・レディー』で『OH!』の後に歌われているのが確認できる)。
- ↑ 「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド (指名手配)」「2年目のジンクス」のメドレー