ザ・ドリフターズ
テンプレート:雑多な内容の箇条書き テンプレート:未検証 テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Infobox お笑いコンビ ザ・ドリフターズ(The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活躍。現在もCM出演などで活動している。
目次
概要
一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、結成はそれより前の1956年頃(クレージーキャッツより一年後輩)。結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。
当たりギャグは「8時だョ!全員集合」の欄を参照。
所属事務所
いかりや長介がリーダーに就任した当時は渡辺プロダクションに所属。1979年より渡辺プロダクションより分社した「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)で、デビュー当初より在籍していた。なお、東芝音楽工業在籍中「ドリフのツーレロ節」のみ、なぜか当時渡辺プロが出資していたワーナーパイオニアから出ている。また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システムから発売された。
メンバー構成
前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかったが、新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。初期のメンバーには、後にドンキーカルテットのメンバーとなったジャイアント吉田(現在、催眠カウンセラーの吉田かずお)が在籍していた。ただし、荒井注の脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現:すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることはない。さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定はなく、現在4人の構成となっている。
いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。
芸名の由来
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇で、アメリカの黒人コーラス・グループのドリフターズから拝借し命名。ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)。
ミュージシャンとしてのドリフ
前期バンド時代はともかく、新生ドリフはカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけた川口真のアレンジは、独自の「ドリフサウンド」を作り上げた。
1966年にはビートルズ日本公演の前座を務めた。僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず、ドリフターズだけは勝手にビートルズと同じステージで演奏してしまった(ただし、加藤のドラムセットはリンゴのものとは隔離されていた)。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。その際、ポールのベースがいかりやのベースにぶつかり疵は付かなかったものの激昂。何も言うことができずにいたが、後に「疵が付いて欲しかった」と話した。
1970年の「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。彼らの「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。この年の『第21回NHK紅白歌合戦』に出場が内定していたが、加藤茶の交通事故により出場を辞退した[1]。
後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったため、音楽とはほど遠い存在になったが、音楽活動は各メンバーごとに継続されており、全く音楽活動を休止してしまったわけではなかった。これは、高木ブーが日本屈指のウクレレ奏者であることや、CMでいかりや長介がウッドベースを披露したり、加藤茶がドラマーの実力をたびたび番組内で披露していることからもわかることである。また最近では、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。
2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援に来たことは過去にもたびたびあった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となり、往年のヒットメドレーを披露した。だが、いかりや長介亡き今日、ドリフにとってはこれが現時点で歌手として最初で最後の紅白出場となる見通しである。
コメディアンとしてのドリフ
元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。これが後の彼らのキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。
1970年代になると憧れていた先輩バンドである、「ハナ肇とクレージーキャッツ」に取って代わる形でドリフターズが人気になった。これは、クレージーキャッツと同様、「歌」や「コント」等、何でもできたためである。
お笑いとしては、グループを生かした色々なパターンを生み出す。特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを取るという新しいパターンを生んだ。いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と卑下し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位を保った。
志村が正式メンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化している。ドリフ再結成直後は高木ブーを中心にした笑いだったが、すぐに加藤茶を中心としたコントに変更され、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という、吹き溜まりの集団内での人間関係というチームワークで、加藤がオチを取っていた。それと同時に「いかりやから加藤を中心として4人共にいじめられながらも表向きは従い、機会を見ては権力者であるいかりやに前述のキャラクターを生かしたそれぞれの方法で時には共謀して歯向かい、形勢がいかりやに戻るとその4人がそれぞれの個性をもった方法でばらばらになり、要領の悪いメンバー(加藤)だけがバレて犠牲になる」といった社会的な縮図を指摘する者もいる。時折、加藤といかりやとの権力争いの結果、リーダーの座が逆転したり始めから加藤がリーダーとなるパターンもあった。また、音楽の要素を残し、笑いに取り入れている時代でもあった。
後期は、まともでない役のメンバー(特に志村)に、いかりやが突っ込みを入れたり、振り回されるという笑いのパターンだった。イントロの高木、つかみの仲本、オチの加藤、さらに加藤のオチよりパワーアップした奇天烈な行為をする志村という各々の順番でいかりやが突っ込みを入れていった。しかし、荒井の脱退から志村への交代で定着するまでには2年近くもの時間がかかった。それまでの荒井の人気の高さと同時に、志村を前面に押し出すまでの他のメンバー、特にいかりやと加藤の力量とキャリアによるサポートによるものであり、この頃には3枚目としての仲本も強調されてきた。一方で志村はいかりやの演出を無視してアドリブでギャグを入れることがしばしば見受けられた。リハーサルでダメ出しをされても、生放送のドサクサに実行してしまうこともあった。これは、「緻密なストーリーと演出に基づいたドリフコント」を若干ながら崩すこととなる。
撮影用ではあるがケーキや鶏卵、牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗中傷をネタにすることはなく、かつ素人いじりをしなかった[2]。また、トーク中心のギャグは、たとえ優秀な通訳がいたとしても日本人以外には受けないが、ドリフは体を張ったギャグや音楽ネタが中心であるため、老若男女を問わず日本人以外からの受けもよい。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。日本だけでなく、台湾などでも彼らは人気がある。
「8時だョ!全員集合」、「ドリフ大爆笑」、テレビ朝日「ドリフと女優の爆笑劇場」等の番組にゲスト出演した一流俳優、一流女優、アイドル歌手、演歌歌手までが、番組内では本来のイメージを越えた役作りやギャグをすることをバーチャルなお笑いドラマやコント出演としてファンからも許されたばかりか、ドリフと一緒にコントをやりたいために自ら希望して演じる者も多数出てきた。そういったゲストからお笑いとしての個性を引き出され、新たな方向性や個性をも作っていった者も少なくない。また、実際に主に立ち回りながらしゃべって笑いを引き出すのはメンバーであっても、ゲストが笑いの中心であるように見せる企画力や技術もあり、この点ではドリフに対する信頼の高さをうかがわせた。
現メンバー
加藤茶
テンプレート:Main (1943年3月1日 - 、本名:加藤英文、かとう ひでゆき)
- 1962年メンバー入り。1964年のドリフ再結成当初では最年少だった。いかりや没後、現行ドリフでは最も古いメンバー。ドラムとボケ担当。
- 志村が東村山音頭でブレイクするまではメンバー内の一番人気であり、いかりやのギャグの落ちの期待を一身にかけられていた。その期間ドリフを実質的に牽引し、メジャーに押し上げた功労者でもある。グループ内ではいかりやと衝突することもあったが、メンバーの人間関係の調整役の役割を果たしていた。いかりやの葬儀の際には弔辞を読んだ。
- 1964年、後述するグループ内の内紛クーデターの際、小野ヤスシらと共にドリフを抜ける予定だった。
- 荒井が脱退宣言をするまでが人気絶頂期であり、当時国民的人気者だったが、本人は限界を感じ始めていた。この時にも荒井と同時期の脱退を考えていたが、荒井が先に表明し、周囲が騒然となってしまったため、言いそびれた、と後に語っている。
- 志村がブレイクした後は志村のボケ、ツッコミの受け役に回ることが多かったが、それは本人が疲れと限界を感じていたため、自ら志村のサポートに回った結果である。実際、「志村がいて助かった」と公言している。ただ、それまでメンバー1の人気者であった加藤が、途中から入ってきた志村にその地位を明け渡すことになったことについては「ものすごい複雑な心境であったし、『グループを活性化させたり維持していくためには最善策だった』と割り切れるまでには時間がかかった。ただ志村は真面目な性格で、周囲に対して『自分はボーヤから上げてもらった』という気遣いも感じられたため、自分はよくコミュニケーションをとり、よく飲みにも行った。そうした事が良かったのかもしれない」と語っている。
- 現リーダーではない。ドリフのリーダーは永久不在のいかりや長介が三代目リーダー。
高木ブー
テンプレート:Main (1933年3月8日 - 、本名:高木友之助、たかぎ とものすけ)
- 中央大学卒。1964年9月に荒井と同時にドリフ入り。自称、いかりや没後の四代目リーダー。初期ではリードギター担当。最も印象が薄いが、「ドリフの中では最も音楽性が高い」とのいかりやの評価もある。
- ドリフ脱退が決定していた小山威の後釜ギターとして仲本をドリフに誘った人物。仲本を誘う際、嘗てのハワイアンバンドのメンバーである青木健か仲本のどちらをドリフへ誘うべきか悩んだらしいが、いかりやがあまりにも早急にメンバー補充を求めており、直ぐに連絡が付き、なおかつ対バンした事もあった仲本を誘ったという本人の証言がある。[3]
- 本人がNHKのトーク番組に出た際の証言によれば、元々お笑いというよりも音楽を求めてのドリフ参加だったため、志村がレギュラー入りしグループのお笑い色が濃くなってきたときに辞めそうになったという。
- ドリフが音楽活動をやめた理由を「志村がギターしか弾けないので自分がキーボードを担当した。しかし、自分は荒井ほどキーボードが弾けなかったのでドリフは音楽活動をやめた」と発言している。
- 1984年9月14日、「全員集合」のリハーサル中にアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱したこともある。
仲本工事
テンプレート:Main (1941年7月5日 - 、本名:仲本興喜、なかもと こうき)
- 学習院大学卒。東京商工会議所の内定を得ていたが、高木が脱退するギタリスト小山威の後釜として仲本をいかりやに紹介し内定を蹴って1965年1月1日付でドリフ入り。初期のドリフでは、ギターとロック系ボーカル担当。ビートルズの前座で「ロング・トール・サリー」のボーカルを取ったのも彼である。
- コントでは、「要領のいい、リーダーに媚を売る役」、「内心、何を考えているのか分からない役柄」を演じることが多く、全てのメンバーにしっかり合わせられる器用さがあった。また、学生時代に体操部で身につけた床運動(マット体操)での軽快な身のこなしも有名だった。
- 1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1カ月、書類送検の上略式起訴された。賭けた金額は当時の金額で約100万円だった。
志村けん
テンプレート:Main (1950年2月20日 - 、本名:志村康徳、しむら やすのり)
- 1951年生まれ説もあり。
- 1968年、いかりやに直々に懇願しドリフの付き人となる。しかし、1年余りであっけなく脱走。志村の著書では、あくまで「社会勉強のための休養」となっている。その後、加藤の口添えで出戻り。加藤の付き人兼加藤家居候を経て、お笑いコンビ「マックボンボン」を結成し、日本テレビ「ぎんぎら!ボンボン!」も担当したが、人気が出ず2年余りで解散。しかし、脱退する荒井の後釜として1973年12月にドリフ見習いとなり、1974年4月に正式メンバーになる。
- 交代後2年近くはギャグが受けずスランプ状態に陥っていたが(かといって全然受けなかったわけではない)、東村山音頭で一気にブレイクして子供たちの人気を獲得し、さらに新たなネタやギャグを連発。やがてドリフ内では加藤を超える人気者になった。
- 映像では荒井の脱退後に初期はキーボード、のちにギターを弾いていたとはいえ元々コメディアン志望であり、ミュージシャンと呼んでいいかどうかは疑問が残るが、ソウル・ミュージックにかなり精通している。
- ドリフメンバー内では、荒井在籍時のコントで加藤が担当していた役(一人になったとき、すわが演じる幽霊やミイラなどが現れる、というネタなど)、及びいかりやの代わりの突っ込み役を担当。「一人になった時に、何かが現れる」というコントでは、客席の子どもたちが舞台に向かって一斉に「志村!うしろ、うしろ」と声援を送る、という恒例のパターンを生み出した。
- 仲本同様、1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1カ月、書類送検のうえ略式起訴された。
- 1970年代からビートルズのレコード収集家としてコレクター界では有名で、所有している種類や枚数は海賊盤を含めかなりの数に及び、マニアだと言われている。自身の番組内にビートルズナンバーをたびたび使用している理由の一つでもある。高校生の時、ビートルズ武道館公演を観に行ったことをのちに語っている(ただしこの時の前座はドリフではない)。
元・新生ドリフメンバー
いかりや長介
テンプレート:Main (1931年11月1日 - 2004年3月20日、本名:碇矢長一、いかりや ちょういち)
- ドリフの三代目リーダー。1962年にドリフのメンバーとなり、1964年より正式リーダーとなる。新生ドリフでは加藤と並んで最古参メンバーだった。ベース、ツッコミ(時にはボケ)担当。
- コントでは、わざと嫌われ役汚れ役の権力者を演じ、加藤(後には志村)の仕返しというパターンで笑いを取ることが多かった。
- ワンマンな一面があり、コントネタの厳格なまでの作り込みや、ギャラの配分(いわゆるワリ)をめぐってメンバーと衝突することも少なくなかったが、新生ドリフを立ち上げて以降は、そうした厳しさを含めた采配ぶりによって、メンバーを見事にまとめた。
荒井注
テンプレート:Main (1928年7月30日 - 2000年2月9日、本名:荒井安雄、あらい やすお)
- 元・正メンバー。二松學舍大学卒。1964年9月に高木と同時にドリフ入り。ドリフ入りした当初は「リーダーより年上では何かと問題がある」ということで、加入後しばらくは高木とほぼ同年代(1934年生まれ)と年齢を詐称していた。なお、当初はドリフのメンバーですら彼の正確な年齢を知らなかった。
- オルガン(ピアノ)担当。しかし演奏できるレパートリーは数少なかった。いかりやの著書によれば、いかりやは彼のレパートリーの少ないことを知らないままヘッドハンティングしたことを後悔したという。
- コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、シカトし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが人気を博した。「なんだ、バカヤロー!」と「This is a pen!」のギャグはよく知れ渡っている。
- 1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。当初は芸能界引退を示唆していたにも関わらず、半年後にはドラマなどで復帰したため、ドリフメンバーから反感を買うこととなり、和解までには3年間を要したという。その後ゲスト出演した「ドリフ大爆笑」で放送されたドリフの歴史を面白可笑しく紹介するコント(保存版・ドリフの隠された秘密)ではいかりやが、荒井脱退の理由を「陰険な性格とふてぶてしい態度がメンバー全員の反感を買って、永久追放の憂き目に遭う」と紹介し、完全にネタにされていた。
- 荒井が亡くなる直前の2000年の正月放送の「フジカラー・フィルム」のCM撮りで6人ドリフとして14年3カ月ぶりの全員集合となり、大きな話題となった。七福神をモチーフとしたもの。結局これが彼ら6人が勢揃いした最後の映像となった。
すわしんじ
(現:すわ親治)(1952年11月14日 - 、本名:諏訪園親治、すわぞの ちかはる)
- 元付き人・見習い。幻のドリフ第六の男。日劇でのドリフ公演では、すわを含めた6人構成のコントが披露されていた。
- 1970年頃、加藤の運転手として採用され、1972年頃にそれから付き人に昇格。「(荒井時代の)全員集合」に志村より先に出演し、「奇声を上げながらやたら走りまくったあげく加藤のクシャミでズッコケるブルース・リー」役で受ける。グループ内の音楽では、ドラムを担当することもあった。結果としては先輩に当たる志村がドリフに加入することとなった。その後、正メンバーになることなく1985年にドリフを辞める。いかりやは、メンバー昇格を延ばし延ばしにした結果すわを脱退に追い込んでしまったと悔やみ、その才能を惜しんでいた。
- ドリフ脱退後は一時サラリーマン生活を送る。その後、1990年に政治風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」に参加。中心的な存在となるが、脱退。その後は、ソロライブや松崎菊也、石倉直樹とコント公演「はだかの王様」や沢田研二主演の音楽劇に出演するなど、地道ながら精力的に活動を続けている。
- 2001年でのNHKの特別歌番組で、ドリフターズが全員集合した際、歌やコントをするにあたって、彼も一緒に集合をかけられた。元付き人の特別出演というよりメンバーの一人としての扱いに近かった。同番組、ドリフのコーナーの最後の歌の時に「馬」の扮装で出演。伏線は後述する「主な出演番組」の項目の「飛べ!孫悟空」を参照。
- いかりやの葬儀のときには、残された4人の現メンバーとともにいかりやの棺を運んでいた。
前期バンド時代のメンバー
ドリフは元々バンドであり、コントを行っていたわけでなく、前期バンド時代には、現在のドリフ構成からは考えられない大御所ミュージシャンが在籍していた。
- 岸部清(1931年1月3日 - )
- 初代リーダー。ギター担当。元・東京ウエスタンボーイスの出身。マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。その後、井上ひろしとドリフターズ時代までリーダーを務め、1960年桜井輝夫にリーダーの座を譲り、渡辺プロマネージャーを経て、現在は芸能事務所「第一プロダクション」社長。音楽出版社協会(MPA)副会長、音事協の名誉理事を兼任。
- 大野義夫(1931年9月9日 - )
- 結成当時のメンバーで、元・マウンテンボーイズの出身。バンジョー担当。岸部清ではなく、彼を初代リーダーだとする説もある。現在も芸能活動をしているが、メディアへの露出は殆ど無く、稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度。現在も現役で音楽活動をしており[4]、「大野義夫&カントリーメイツ」を率いてライブ・コンサート・ディナーショーなどを行っている。結成当時の元メンバーで現在もシンガーもしくは器楽奏者として音楽関係に携わっていることが判明している唯一の人物である(岸辺も音楽関係に携わってはいるが、岸辺は組織人として携わっているに過ぎず、音楽活動自体はしていないため)。なぎら健壱や寺本圭一との親交が深く、ドリフメンバーの中では高木ブーと親交がある。
- 山下敬二郎(1939年2月22日 - 2011年1月5日)
- ボーカル担当。ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手。平尾昌晃、ミッキー・カーチスと並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。実父は落語家で喜劇俳優の柳家金語楼。本人はコメディの分野には進んでいないが、ドリフ大爆笑に1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。
- 桜井輝夫(1931年1月- )
- 2代目リーダー。ギター、ボーカル担当。岸部リーダー時のメンバーの大半が脱退後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木を誘って3人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。ドリフをロカビリー→ロックバンドからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったためジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘットハンティング。一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木、仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)した。1964年リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1966年ドリフの管理を渡辺プロへ譲渡し脱退。フジテレビ系バラエティ番組『ウチくる!?』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある[5]。
- 井上ひろし(1941年8月23日 - 1985年9月19日)
- ボーカル担当。水原弘、守屋浩と並んで「三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手。ドリフのバンドボーイから昇格。長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。映画「青春を賭けろ」にも出演。代表曲は「雨に咲く花」。ドリフ脱退後暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になるための勉強を始めるが44歳という若さで死去。
- 坂本九(1941年12月10日 - 1985年8月12日)
- ボーカル・ギター担当。雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月に井上ひろしとドリフターズの正メンバーとなり、ボーカルをやっていた。同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演し、12月にダニー飯田とパラダイス・キングに移籍の形で脱退。「8時だョ!全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。
- 小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日)
- 元・正メンバー(1959年 - 1964年)。コンガ、ボーカル担当。井上ひろしとザ・ドリフターズの最末期に加入。1964年秋にいかりやと対立してドリフを脱退。後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されているためか、彼がドリフメンバーだったことを知っている者は少ない。脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にドンキーカルテットを結成。1970年よりソロ活動となり、バラエティー番組で活躍。ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。
- ポン青木
- 1960年に桜井輝夫とザ・ドリフターズにメンバー入り。ビブラフォン担当。いかりやがドリフに加入して暫くの後に脱退。いかりやの著書では、青木はコミックに前向きだったと述べている。脱退原因は不明だが、既に故人であることが判明している[6]。脱退後1970年代には真木ひでとのマネージャーを務めていた[7]が白血病により40代の若さで他界した。
- 田中良夫
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。テナー・サックス担当。加藤をドリフターズに加入するよう誘い、メンバーに加入させている。桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り完全にコミック色が強くなった頃に脱退。
- 三好明
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。ピアノ担当。桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り完全にコミック色が強くなった頃に脱退。
- 小山威
- エレキギター担当。彼が脱退するかわりのギターが仲本となる。桜井が正式にドリフから身を引いたと同時期に体調不良で1964年に脱退[8]。
- 高松秀晴(1942年3月16日 - [9])
- 1960年5月、第一プロダクション(ドリフターズの初代リーダーとされる岸部清が現在社長を務める芸能事務所)主催の新人ロック歌手コンテストに入賞して芸能界入り。桜井輝夫とザ・ドリフターズにボーカルがいなかったことから抜擢され1961年~1962年頃、木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。高校生でウェスタンカーニバルの出場資格を得たほどの実力者だった(諸般の事情で実際には出場していない)。
- 木の実ナナ(1946年7月11日 - 、本名池田鞠子)
- 高木の証言によれば元メンバー。本人の証言、いかりやの著書、加藤の証言では、前歌を歌っていたという。1961年~1962年頃専属シンガーだった。彼女はいかりや、加藤らのバックミュージックの下で歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。
- ジャイアント吉田(1936年1月25日 - )
- ギター担当。元々いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーであったが、いかりやに誘われ1962年ドリフ入り。1964年、小野ヤスシと共にクーデターを起こし脱退し、ドンキーカルテットを結成。現在は芸能界の他、催眠術師として、執筆活動や催眠法のクリニックなどで活躍している。
- 飯塚文男(1940年11月23日 - 2003年3月27日)
- フィドル担当。小野ヤスシと共にクーデターを起こし脱退。ドンキーカルテットを結成するがまもなく脱退。後に11PMの水曜日のレポーターとして活躍。
- 猪熊虎五郎( - 2001年11月4日)
- キーボード担当。長身でメガネが特徴。ドンキーカルテットに移籍。ドンキーのメンバーでは最後にドリフに加入。後に声優もこなしたが芸能界から引退。
- 綱木文夫
- サックス担当。1964年初頭に桜井と繋がりのあった渡辺プロより「ドリフのメンバーになって助けてやってくれないか?」と言われてメンバー入り。中野にあるお寺の息子で、売れない頃のドリフターズは稽古場として彼の実家であるお寺を利用していた。小野のクーデター後も暫くはドリフに在籍し、新生ドリフがお笑いを確立する前のれっきとした正メンバーだった(1964年 - 1966年)。彼は正メンバーとして残りたがったが真面目気質でコメディに向いていなかったため、ドリフが1966年に正式に渡辺プロ傘下へ預けられる直前でいかりやから脱退を命じられる。経年経過が著しく、彼に関する資料も殆ど残ってないため、生死も含めて現在の動向は不明。
関係者
ここでは、ドリフと関係の深い番組スタッフ、プロダクションマネージャー、新生ドリフから派生したコメディアン(すわ親冶を除く)、および新生ドリフにスカウトされそうになった芸能人を紹介する。
- 山田康雄(1932年9月10日 - 1995年3月19日)
- 『全員集合』が開始された頃に、『ルパン三世』の声優として有名な山田康雄に演技指導を受けていたというエピソードもあり(山田の本業はコメディ劇団テアトル・エコーの俳優のため)、それが縁でルパンの収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演したという。また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。
- 山田の追悼本において小林清志が、ルパン三世のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。
- 水木一郎(1948年1月7日 - )
- 「徹子の部屋」出演時の本人の証言によれば、1963年頃付き人をやっていた。
- 井山淳
- 元付き人。1972年に志村が結成したマックボンボンの最初の相方。志村と共に冠番組の「ぎんぎら!ボンボン!」に出演していた。また1969年、ドリフの映画「ドリフターズですよ!全員突撃」にガードマン役として出演。やや強引な売り込みが祟ってのネタ切れによる人気低迷で「ぎんぎら!ボンボン!」が打ち切りになった後失踪。
- 福田正夫
- 元付き人。志村が結成したマックボンボンの井山失踪後の相方。自衛隊出身であり、「自分は芸能界でなくてもやっていける」と強気でコンビ結成後の練習に身が入らず、マックボンボンは自然消滅的な形で解散の道をたどる。
- 桑田佳祐(1956年2月26日 - )
- サザンオールスターズは、デビュー当時コミックバンドと思われていた。いかりやは桑田に目を付け、TBSプロデューサー居作昌果を通して高木が辞めそうになった時に桑田にドリフ加入を打診していた。
- 居作昌果(いづくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)
- 元TBSテレビプロデューサーで、独立後テレビ制作会社「タイクス」を設立、同社の代表取締役社長を務めた。「8時だョ!全員集合」や前枠番組の「お笑い頭の体操」、「クイズダービー」をプロデュースした。2005年4月10日没。享年72。
- 井澤健(1935年9月9日 - )
- ドリフが渡辺プロに在籍していた時のマネージャー。いかりやによれば、ドリフの営業面をサポートし、影のドリフメンバーと呼んでいた程ドリフに貢献した人物。現在ドリフの所属するプロダクション「イザワオフィス」社長兼ワタナベエンターテインメント社長。
- 久世光彦(1935年4月19日 - 2006年3月2日)
- 元TBSテレビプロデューサーで、作家・演出家。演出面でいかりやのコントに感心し、いかりやの弟子となった。荒井の芸能界復帰に力を尽くした。「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」、「ムー」、「ムー一族」などのテレビドラマのプロデュース・演出を手掛けたことで知られる。2006年3月2日没。享年70。
- たかしまあきひこ
- 音楽面のブレーン的存在。ドリフ及び志村の冠番組の大半で作曲を担当。「全員集合」の少年少女合唱隊コーナーではピアノ伴奏者として出演もしていた。
- 山田満郎
- 全員集合のコントの仕掛けを作っていた美術スタッフ。後に番組の回顧として「8時だョ!全員集合の作り方―笑いを生み出すテレビ美術」を執筆。
- ビートルズ
- 来日公演の際にドリフが前座をつとめた。演奏曲は「ロング・トール・サリー」。6/30夜公演、7/1昼公演ともに映像が残されている。当時テレビでドリフの演奏が見られることはなかったが、近年になり日本テレビ番組「いつみても波瀾万丈」に加藤茶、高木ブーが出演した際にその一部が放映されついに日の目を見た。
- 萩原芳樹
- コメディアン、放送作家。自身が司会を務めた「小柳ルミ子ショ-」にマックボンボンがコントで出演していた。いかりややドリフのマネージャーから、マックボンボンやドリフのメンバー候補に挙げられた事がある(自身のブログの記事「伝説のコンビ『マックボンボン』」より )。
- 小泉孝太郎
- いかりや長介に弟子入りし、ドリフの6番目のメンバー入りも計画されていた。そのときの父・小泉純一郎のコメントは「力をつけてもらわないと…」だった。
- いかりやとは「金曜エンターテイメント」枠で放送されたドラマで共演している。
ドリフの歴史
前期バンド時代
以下、雑誌「ミュージックライフ」、いかりや長介著「だめだこりゃ」、高木ブー著「第5の男」、および加藤茶の証言などを基に極力矛盾が少なくなるように整合させた、いかりやが正式リーダーになるまでの経緯を紹介する。なお、新生ドリフ結成の解釈には、おなじみ5人のメンバーが揃った時と、桜井輝夫と小山威が抜けてから2年後の渡辺プロ移籍時の2通りがあるが、本記事ではイザワオフィスの公式発表に従い後者とする。
- サンズ・オブ・ドリフターズ
- 1956年秋、「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成(参考[1])。岸部清がリーダー。メンバーは、グループ名は、アメリカのThe Driftersに傾倒していた岸部が、自分達のグループをDriftersの息子たちと自負して命名したという説がある。駐留米兵相手のウエスタンバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。なお、初代リーダーは大野という説もある。大野と親交のある高木は[2]にて、いかりやが3代か4代目のリーダーと語っている。大野が初代とすればいかりやは4代目となる。
- この時のメンバー:岸部、大野義夫、多田正幸、新井利昌、鈴木修、根本節夫、吉田博久、能勢武、清水一夫、斉藤任弘、山下敬二郎、桜井輝夫の12人
- 1956年秋、「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成(参考[1])。岸部清がリーダー。メンバーは、グループ名は、アメリカのThe Driftersに傾倒していた岸部が、自分達のグループをDriftersの息子たちと自負して命名したという説がある。駐留米兵相手のウエスタンバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。なお、初代リーダーは大野という説もある。大野と親交のある高木は[2]にて、いかりやが3代か4代目のリーダーと語っている。大野が初代とすればいかりやは4代目となる。
- 井上ひろしとザ・ドリフターズ
- 1957年12月山下は脱退しバンドの名称を「ザ・ドリフターズ」に変更。山下の代わりのボーカルとしてバンドボーイから井上ひろしが昇格。一時期は同じくバンドボーイから昇格した坂本九も在籍。この時の写真→[3](1958年頃)坂本は正メンバー昇格後わずか7ヶ月余りでダニー飯田とパラダイスキングへ移籍の形で脱退。その後坂本の後釜のボーカルとして、城みさをと小山信義が加入する。この時の写真→[4](1959年頃)当時ドリフはロカビリーが売りのバンドであったが、渡辺プロと繋がりのあった岸部が井上ひろしを売り出すために徐々に歌謡曲を歌うようになり、ドリフは井上のバックバンド的な存在となってしまった。最末期の1959年には小野ヤスシも加入した。
- この時のメンバー1:岸部、鈴木、吉田、能勢、桜井、新家治、井上ひろしの7人
- この時のメンバー2(昭和33年頃):岸部、鈴木、吉田、能勢、桜井、新家、井上、坂本の8人
- この時のメンバー3(昭和34年頃):岸部、鈴木、吉田、能勢、桜井、新家、井上、小山信義、城みさをの9人
- この時のメンバー4(昭和34年頃):岸部、鈴木、吉田、能勢、桜井、新家、井上、小山、城、小野の10人
- 1957年12月山下は脱退しバンドの名称を「ザ・ドリフターズ」に変更。山下の代わりのボーカルとしてバンドボーイから井上ひろしが昇格。一時期は同じくバンドボーイから昇格した坂本九も在籍。この時の写真→[3](1958年頃)坂本は正メンバー昇格後わずか7ヶ月余りでダニー飯田とパラダイスキングへ移籍の形で脱退。その後坂本の後釜のボーカルとして、城みさをと小山信義が加入する。この時の写真→[4](1959年頃)当時ドリフはロカビリーが売りのバンドであったが、渡辺プロと繋がりのあった岸部が井上ひろしを売り出すために徐々に歌謡曲を歌うようになり、ドリフは井上のバックバンド的な存在となってしまった。最末期の1959年には小野ヤスシも加入した。
- 桜井輝夫とザ・ドリフターズ
- 1960年、井上の独立と共に、ドリフのバックバンド化に反対したメンバーが岸部と対立して脱退。岸部から桜井へとリーダーが交替し、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」となる。また、ポン青木が加入。初期はロカビリーバンドだったが、次第に音楽主体のコミカル路線を歩むこととなる。バンドであるにも拘わらず専任のボーカルがいなかったことから、苦肉の策として専属シンガー高松秀晴を加えてバンドとしての体を整えていた。
- この時のメンバー1(昭和35年頃):桜井、小野、青木の3人
- この時のメンバー2(昭和36年頃):桜井、小野、青木、田中良夫、三好明、不明1人(ドラマー)の6人
- この時のメンバー3(昭和36年頃):桜井、小野、青木、田中良夫、三好明、不明1人(ドラマー)、※高松(※は専属シンガー)の7人
- 1960年、井上の独立と共に、ドリフのバックバンド化に反対したメンバーが岸部と対立して脱退。岸部から桜井へとリーダーが交替し、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」となる。また、ポン青木が加入。初期はロカビリーバンドだったが、次第に音楽主体のコミカル路線を歩むこととなる。バンドであるにも拘わらず専任のボーカルがいなかったことから、苦肉の策として専属シンガー高松秀晴を加えてバンドとしての体を整えていた。
- 碇矢と加藤の加入
- 1962年二代目リーダー桜井がグループのコミカル路線を強化するため、「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」のベーシストをやっていたが、演奏の合間のお笑いに熱を入れすぎたり、交通事故を起こしたりしてバンド内で孤立していた碇矢長一(当時は芸名でなく本名)をヘッドハンティングした。碇矢は、アメリカの一流ミュージシャンが演奏だけではなくジョークも上手い事に感銘を受けて司会やコミカルな演奏を行うようになり、バンドの客層が音楽目当てとギャグ目当てに二分される原因ともなっていたという。その少し前には「クレイジー・ウエスト」(ミッキー・カーチスのバンド)のメンバーだった加藤英文(同じく当時は芸名でなく本名)がコミックに興味が無く脱退したドラマーの後釜として田中の誘いで参加し、ドリフメンバーとしての活動を始めていた。加藤の証言ではドリフ加入時には加藤を含めて総勢15人のメンバーがいたとのこと。この15人に木の実と高松が含まれていたかは不明だが仮に含めたとしても加藤を除いて12人となるため、下記に記載のメンバー以外に名前が全く知られていないメンバーが在籍していたことになる。また、いかりやは自分が移籍した直後にマウンテンプレーボーイズ時代から旧知の間柄でコミック向きだったジャイアント吉田を誘ってドリフに加入させる。そして、桜井より碇矢がリーダー代行という形で、「ザ・ドリフターズ」を本格的なコミック・バンドとして9人で再々編して出発することになる。この時の写真→[5](サイトのレス番号1参照。1962年頃)
- しかし碇矢がメンバー入りし、ドリフがコミックバンドへと完全に方向転換して演奏前のコントの練習を新たに始めた矢先、お笑いに全く興味が無くコミカル路線を嫌うメンバー(田中、三好)が脱退。その後、暫くして青木も移籍という形で脱退してしまったため、メンバーに飯塚を加えることとなる。この当時のメンバーの中には加藤もいたが小野もフィーチャーリングボーカリストとして在籍していた。さらには、桜井がボーカルを行ったり、木の実ナナや高松秀晴がドリフ演奏の下で前歌を歌うこともあった。これが、現在万人に知られているドリフの母体、原形である。
- この時のメンバー1(昭和37年頃):桜井、小野、青木、田中、三好、小山威、碇矢、加藤、※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の10人
- この時のメンバー2(昭和37年頃):桜井、小野、青木、田中、三好、小山、碇矢、加藤、吉田※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の11人
- この時のメンバー3(昭和37年頃):桜井、小野、青木、小山、碇矢、加藤、吉田※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の9人
- この時のメンバー4(昭和37年頃):桜井、小野、小山、碇矢、加藤、吉田※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の8人
- この時のメンバー5(昭和37年頃):桜井、小野、小山、碇矢、加藤、吉田、飯塚文男の7人
- ドンキーカルテットとの分裂
- 1963年、桜井はライブに出演しなくなり、完全なオーナーの立場となった。桜井はオーナーとしてバンドの采配を握っており、碇矢は依然雇われリーダーの形式だったが、碇矢の影響力が強まり、碇矢は練習の鬼と化した。写真→[6](この時のメンバーの写真だが、オーナー桜井と飯塚の2人が写っていない)碇矢のワンマンぶりに対し小野は一種のクーデターを起こし、吉田、飯塚、猪熊を誘って脱退して、「ドンキーカルテット」を結成する。当初は加藤も加入したい意向であったが、小野はグループ名を「カルテッド(4人組)」と決めていたことで今さらグループ名を変更しにくいのと当時辛うじて世間に顔が売れていた加藤を残留させれば新たにメンバーを集めてドリフは残せるとの考えから、加藤へ「お前はドリフに残った方がいいのではないか?」と説得した。また、加藤本人の話では碇矢からも「お前はどうするんだ!!」と凄まれて執拗に残留を求められ、その時の碇矢の顔の迫力により「残ります…」と言わざるを得なかったとされているが、実際はオーナー桜井から「加藤、お前はどうするんだ?」と持ちかけられて説得されたという経緯がある。その他、小野らが正式に脱退を決めていないうちから脱退後の仕事をブッキングしていたのに違和感を覚えた事も、残留を決めた理由の一つだったという。小野らのクーデターのきっかけは、碇矢がコントの練習中に練習に身が入らないメンバーに対して怒り出し「お前らなんか辞めちまえ!」と恫喝した事で、それに対して小野らは既に脱退メンバーで構成するグループ名を「ドンキーカルテット」と決めており、脱退後の仕事をブッキングしていたため「はい、仰せの通り辞めさせて頂きます」と言ってあっさり辞める意思を示した。焦った碇矢は「俺が辞めるからお前らはドリフに残ってくれ」と何度も小野らを説得したが、小野らは碇矢がリーダー代行となった当初から音楽よりもコントの練習を重視する姿勢に嫌気がさし、ドリフが世間に売れ始めてようやく収入を得られるようになったことから仕方なく残っていただけであり、既にドンキーとしての仕事を始める直前であったことから結局脱退する運びとなった。この結果、残されたメンバーはリーダー(代行)の碇矢、ドラムの加藤、ギターの小山、オーナーである桜井の渡辺プロダクションとの繋がりからメンバー入りしたサックスの綱木だった。ここで、オーナー桜井の腹心を除いた実質のメンバーは、いかりやと加藤だけだった。
- この時のメンバー1(昭和38年頃):桜井(オーナー)、小野、碇矢、加藤、小山、吉田、飯塚、猪熊虎五郎の8人
- この時のメンバー2(昭和39年頃):桜井(オーナー)、小野、碇矢、小山、加藤、吉田、飯塚、猪熊、綱木文夫の9人
- この時のメンバー3(昭和39年頃):桜井(オーナー)、小山、碇矢、加藤、綱木の5人
- 1963年、桜井はライブに出演しなくなり、完全なオーナーの立場となった。桜井はオーナーとしてバンドの采配を握っており、碇矢は依然雇われリーダーの形式だったが、碇矢の影響力が強まり、碇矢は練習の鬼と化した。写真→[6](この時のメンバーの写真だが、オーナー桜井と飯塚の2人が写っていない)碇矢のワンマンぶりに対し小野は一種のクーデターを起こし、吉田、飯塚、猪熊を誘って脱退して、「ドンキーカルテット」を結成する。当初は加藤も加入したい意向であったが、小野はグループ名を「カルテッド(4人組)」と決めていたことで今さらグループ名を変更しにくいのと当時辛うじて世間に顔が売れていた加藤を残留させれば新たにメンバーを集めてドリフは残せるとの考えから、加藤へ「お前はドリフに残った方がいいのではないか?」と説得した。また、加藤本人の話では碇矢からも「お前はどうするんだ!!」と凄まれて執拗に残留を求められ、その時の碇矢の顔の迫力により「残ります…」と言わざるを得なかったとされているが、実際はオーナー桜井から「加藤、お前はどうするんだ?」と持ちかけられて説得されたという経緯がある。その他、小野らが正式に脱退を決めていないうちから脱退後の仕事をブッキングしていたのに違和感を覚えた事も、残留を決めた理由の一つだったという。小野らのクーデターのきっかけは、碇矢がコントの練習中に練習に身が入らないメンバーに対して怒り出し「お前らなんか辞めちまえ!」と恫喝した事で、それに対して小野らは既に脱退メンバーで構成するグループ名を「ドンキーカルテット」と決めており、脱退後の仕事をブッキングしていたため「はい、仰せの通り辞めさせて頂きます」と言ってあっさり辞める意思を示した。焦った碇矢は「俺が辞めるからお前らはドリフに残ってくれ」と何度も小野らを説得したが、小野らは碇矢がリーダー代行となった当初から音楽よりもコントの練習を重視する姿勢に嫌気がさし、ドリフが世間に売れ始めてようやく収入を得られるようになったことから仕方なく残っていただけであり、既にドンキーとしての仕事を始める直前であったことから結局脱退する運びとなった。この結果、残されたメンバーはリーダー(代行)の碇矢、ドラムの加藤、ギターの小山、オーナーである桜井の渡辺プロダクションとの繋がりからメンバー入りしたサックスの綱木だった。ここで、オーナー桜井の腹心を除いた実質のメンバーは、いかりやと加藤だけだった。
- 高木・荒井の加入
- 桜井、小山の脱退と仲本の加入による新生ドリフ誕生
- 1964年秋、小山はバンドが完全にお笑いに移行することに興味が無いことと体調不良もあり脱退する意向を示した。脱退が決まっていた小山の後釜としていかりやが早急なメンバー補充を求めており、1965年初頭に「クレイジー・ウエスト」でのボーカル経験があり、「パップ・コーンズ」にも在籍したことがあり高木とは顔なじみの仲本こうじが参加。ここで初めて誰もが知る5人のメンバーが揃った。またこの後しばらくは綱木が正メンバーとして在籍し、ドリフは6人構成だったことはあまり知られていない。この時の写真→[7](写真後方左が綱木)1965年いかりやが正式に三代目リーダーとなり、それからしばらくして、正メンバーとして残りたがったが性格的にお笑いに向いていないとして、綱木がいかりやに強制脱退させられる。その後1966年、桜井の意向によりドリフは渡辺プロダクション傘下に預けられることとなり桜井はドリフから身を引いた。なお、ドリフといえば通常、桜井の影響が完全に無くなり碇矢が正式にリーダーに就任したこの時期以降のことを指す。しかし、新生ドリフターズ(仲本加入以降)の結成当初は正メンバーとして綱木文夫がいたのでオーナー桜井を含めると7人構成であり、5人となったのは新生ドリフ結成後2年経った1966年頃である。TVでいかりやが「ドリフ40周年」と言っていたが、西暦を数えるとちょうどこの年に当たる。なお、渡辺プロに移った年が1965年という説もあることや、加藤の「20歳でドリフに入った」との証言(彼が入ったのは19歳で、1964年の秋は21歳)から、ドリフ再結成(新生ドリフ結成)年の解釈に疑問も残る。
- この頃までは、ドリフターズはジャズ喫茶出演が中心で、全国的には無名に近いバンドであり、かろうじて加藤の「カトちゃんぺっ」のギャグがTV放映でわずかに知られていた程度である。
- この時のメンバー1(昭和39年頃):桜井(オーナー)、いかりや、加藤、綱木、高木、荒井の6人
- この時のメンバー2(昭和40年頃):桜井(オーナー)、いかりや、加藤、綱木、高木、荒井、仲本の7人
- この時のメンバー3(昭和41年頃):桜井(オーナー)、いかりや、加藤、高木、荒井、仲本の6人
- この時のメンバー4(昭和41年頃):いかりや、加藤、高木、荒井、仲本の5人
※1965年以前は各文献で記述と年代の矛盾があり、正確な年次は不明な部分がある。ドリフは、渡辺プロとイザワオフィスの公式発表では1964年の新生ドリフ結成、小野や加藤の出演するバラエティー番組では1960年の桜井輝夫とザ・ドリフターズ結成、坂本が紹介される番組では1956年のサンズ・オブ・ドリフターズ結成を起源として紹介されている。
新生ドリフ時代
- 全員集合まで
- 渡辺プロ移籍直後、事務所の先輩ハナ肇に芸名を付けられる。その後に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」と名乗ることもあった(短期間ながら、初期には「いかりや長一とザ・ドリフターズ」だったこともある)。
- 初期新生ドリフは、ポスト「クレージーキャッツ」を自負するコミックバンドとしてジャズ喫茶出演やTV出演を行っていた。当時高校生の志村けんはビートルズ公演の際にドリフの前座を観客として見ていた、とする記述が居作昌果の著作などに見られるが、志村本人は否定。また志村が隠し撮りしたビートルズ公演の写真からも志村が見たのはドリフターズが出演しなかった日であることがわかる。後述する『大正テレビ寄席』出演の頃からコントに軸足を移すようになる。この番組で、後のライバルとなるコント55号と出会う。この頃から徐々にドリフの人気が高まる。そして、1967年には映画『なにはなくとも全員集合』で初主演を果たす。
- いかりやはこのメンバーを急場凌ぎと捉え、いずれ整理しようと自著『だめだこりゃ』に記している。音楽面に有能なメンバーに去られ、新メンバーは音楽面では劣ると見ていたから(特に荒井は満足にピアノが弾けなかった)である。しかし、『大正テレビ寄席』の山下武プロデューサーによれば、お笑いの技量はドリフがドンキーを凌いでいたという。番組としてはもっと出て欲しかったが諸般の事情(司会の牧伸二がドンキーカルテットと同じ事務所だったこと)により数回の起用にとどまり、泣く泣くドリフよりもドンキーを重用していたとのことである。
- 1968年、『大正テレビ寄席』や『あなた出番です!』を見ていたコメディアン志望の志村康徳が付き人として加入。この頃のドリフの番組は、コント55号に押され気味だった。
- 全員集合開始から荒井注脱退まで
- 1969年、居作昌果の誘いにより『8時だョ!全員集合』のメインキャストを務め、コント55号を人気の面で圧倒し、ドリフは一躍お茶の間の人気者となったと同時に、全員集合は低俗番組のレッテルを貼られ、ドリフは人気と引き換えにPTAと地婦連から目の仇にされる。この番組を見ていたお笑い好きのバンド青年、諏訪園親治が1970年に加藤の運転手として加入、2年後に見習いとして全員集合に出演。
- 1973年秋、荒井が体力の限界を理由に脱退宣言を行い、志村が荒井の後釜として見習いとなる。加藤の証言では、そのとき加藤も抜ける予定であり、二人で脱退宣言をする約束をしたらしいが、先に荒井が脱退宣言をし大騒ぎとなったため、加藤は辞められなくなってしまった。また、荒井の後釜選びのとき、加藤がいかりやに志村を推薦し、悩んでいたいかりやも付き人の中で最も才能のある志村を選んだ。ファンは「荒井の後釜はすわである」と思っていた人が多く、当時無名の志村が後釜ということで違和感を覚えた人が多かった。当時、すわは付き人の中で最も世間に顔が売れており、かつ全員集合ではブルース・リーのものまねにより人気が出ていた。
- 志村けん加入から全員集合終了まで
- 1974年3月、荒井が脱退し、志村が正メンバーとなる。しかし、新人志村が軌道に乗らず人気に陰りが見え、萩本欽一の番組(フジテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう!」)に再び押され気味となる。
- 1976年、志村は東村山音頭をヒットさせ、再びドリフはお笑い界の頂点に返り咲く。また、翌1977年には『ドリフ大爆笑』、すわを含めた6人構成の『飛べ!孫悟空』が開始される。この絶頂期は1980年台初頭まで続く。
- 1983年頃には、いかりやとスタッフ、およびいかりやと加藤&志村組の不協和音が見られるようになり、全員集合は視聴率で『オレたちひょうきん族』に抜かれ、ドリフ人気に再び陰りが見え始める。そして1985年には16年間続いた全員集合が終了、さらにすわが付き人を辞めた。
- 全員集合終了後
- 全員集合終了後には、ドリフメンバーが全員揃っての活躍は一時停止状態となる。これをもってドリフターズが事実上解散したとする文献もある。[10]そして、加藤と志村は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を立ち上げ、また加藤と志村が各々単独で冠番組を持つなどバラエティタレントとなり、いかりやは俳優、高木はミュージシャン、仲本は舞台とそれぞれの活動に励むようになる。
- 後に加藤・高木・仲本がこぶ茶バンドを結成し、地方巡業を行うようになった。
- 志村のゴールデンタイムのレギュラー番組が終了すると、ドリフ大爆笑にて徐々に5人のコントが復活するようになる。
- 平均年齢60歳を超えた頃からは「ザ・ドリフターズ」として全員集合することは少なくなったが、メンバー個人での活動は減るどころか、それぞれテレビドラマや映画、トーク番組やCM出演などで色褪せることのない活躍ぶりをみせている。1999年末に富士フイルムのテレビCMで荒井を含めて、久々の6人による「全員集合」となりドリフの健在ぶりを見せた。荒井は2000年2月8日に肝不全のため死去。2003年12月8日、「ドリフ大爆笑」の最新オープニングの収録に臨み、4年ぶりに5人揃っての「全員集合」となった。2004年3月20日にはリーダーのいかりやがリンパ節がんのため死去。その後も解散宣言は出されず、最後の1人が死去することによって終焉を迎える自然消滅という形を採る模様。なお、いかりやの死去以降はリーダー制が無くなり、誰がリーダーだという取り決めは特に無いが、桜井リーダー時から在籍する最古参であること、現ドリフメンバーの中ではいかりやと最も古い付き合いであること、インタビュー時には代表としてコメントする機会が多いこと、などから加藤が実質的なリーダー格と言える。
TV出演
主な出演番組
(ドリフターズ全員出演のものに限る)
- 『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』(1962年 - 1965年、日本テレビ系)
- ドリフ初のレギュラー番組。鈴木ヤスシと木の実ナナが司会のオーディション番組。ドリフは1964年5月より、コーナーレギュラーで音楽コントを披露していた。この番組で全員集合など座付き作家となった田村隆や以後の日テレドリフ番組を全て演出した白井荘也と出会うことになる。初めの頃は小野等も出ていたが、前述したクーデターの後には出演メンバーの変遷が見られ、後におなじみの5人のみの出演となる。この番組の後、ドリフはTVレギュラー出演が増える。
- 『歌え!一億』(1965年、フジテレビ系)
- 伊東ゆかりとドリフによる歌謡番組。視聴率が伸びず、スポンサー(日本レイヨン=現:ユニチカ。一社提供)と局スタッフを集めた会議にて、高木が大いびきをかきながら居眠りをしてしまい、スポンサーを怒らせて番組終了となった。
- 『あなた出番です!』(1966年 - 1969年、日本テレビ系)
- 伊東とドリフによる、オーディション番組。後に『ドリフターズ大作戦!』と番組名が変更される。『歌え!一億』の雪辱を果たし、視聴率がアップした結果、ドリフに海外旅行のプレゼントがあった。それまで、メンバーにも秘密だった荒井の真の年齢が、パスポートに生年月日を記入する際に加藤に盗み見され公表される。
- 『大正テレビ寄席』(1966年、NETテレビ〈現:テレビ朝日〉系)
- 牧伸二の司会で渋谷東急文化会館にて収録。毎週日曜日の正午に放送された。「5秒間に1回笑わせる」ことをキャッチフレーズとして、様々な芸人による芸を披露した公開演芸番組(ネタ番組)。いかりやは、この番組で東西の寄席芸人やストリップ小屋のコメディアン、キャバレー主体の芸人といったあらゆるお笑い芸人と知遇を得て懇意にし、また彼らの様々な芸に触発され自分達のコントの形態を研究。その結果、今日に至るドリフのコント戦略の方針ができ上がった。また、コントグループとしてのドリフの知名度が上がった番組でもある。
- ※当時、ドリフはコミックバンドとして主に演芸番組にゲスト出演していた。『お茶の間寄席』(フジテレビ系)『テレビ演芸場』(テレビ朝日系)『かねてつトップ寄席』(ABC)など。第一次演芸ブームのメンバーとして、ドリフも含まれていたのである。
- 『ドリフターズドン!』(1967年、TBS系)
- ドリフのTV初主演でもあるお笑い番組。藤村俊二が主題歌の振り付けとギャグアドバイザーを行う。
- 『進め!ドリフターズ』(1968年、TBS系)
- 公開番組。職を探すドリフが毎回いろんな職に就いては失敗する内容。この番組の収録中にいかりやは首に下げていた笛が体に突き刺さり肋骨を損傷。この事故が原因でいかりやが倒れ、番組はそのまま打ち切りに。
- 『突撃!ドリフターズ』(1968年、TBS系)
- 『チータ55号』の後を受けて登場した公開番組。ドリフが扮するガードマン会社「世界おたすけ商会」(SOS)に、毎回ゲストが仕事を依頼。
- 『ドリフターズ大作戦』(1969年、日本テレビ系)
- 副題は『あなた出番です!』。既述の通り元々は副題が正式タイトルだった公開視聴者参加番組。出場者がのど自慢や珍芸を披露。ドリフは司会進行役兼出場者の応援団。
- 『8時だョ!全員集合』(1969年 - 1985年、TBS系)
- 平均視聴率30%超(人気絶頂の数年間の平均視聴率は、40%を超えた)という、怪物公開生番組。最高視聴率は、プロボクサーの輪島功一をゲストに迎えた1973年4月7日の50.5%。この番組によって、ドリフは「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率戦争を長い間生き抜く。当時は、家庭用ビデオの普及していない(そして風呂付きの家も今より少なかった)時代で、その放送時間だった「土曜日の夜8時からの約1時間」はがら空き状態の施設や銭湯も多かった。キャンディーズも、その第二期より準レギュラー化する。膨大な生放送分を録画したものの中からセレクトされたものが、2004年になってDVD化され、その後もDVD化されている。
- 『ドリフのドパンチ!学園』(1970年、日本テレビ系)
- ゲストが校長、いかりやが教頭役に扮し、収録会場近辺の視聴者が生徒役。ドリフの他のメンバーが落ちこぼれ生徒役の公開学園コント。いかりやがこの番組で腹話術を披露。第1回の新聞発表タイトルは「いかりやに隠し子発覚!?」。
- 『日曜日だョ!ドリフターズ!!』(1971年、日本テレビ系)
- 渡辺プロが強引にTBS系の『8時だョ!全員集合』を一時休止してまで製作した公開生番組。内容・構成は「全員集合」とほぼ類似。セットは後に同局の『ハッチャキ!!マチャアキ 』や『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に流用された。
- 『ドリフ大爆笑』(1977年 - 1998年、フジテレビ系)
- 『8時だョ!全員集合』と共にドリフの代名詞ともいえるテレビ番組で、『火曜ワイドスペシャル』の月1回企画として放送された。現在、新作は製作されていないが、2003年12月23日、年末特番として編集版放送の際、オープニングとエンディングが新しく撮り直された。2003年では、1983年の時に踊っていたスクールメイツの娘がスクールメイツとして踊ったりと、歴史を感じさせた。リーダーのいかりやが翌2004年に死去したため、この映像がメンバー5人が一堂に会した最後のものとなった。なお、このドリフとしての最後の映像は、2003年12月8日に撮影されたものである。このタイトルの後ろに、「ドリフ大爆笑'77」など、その年の西暦のうちの下2桁の数字が付く。
- 『飛べ!孫悟空』(1977年10月 - 1979年3月、全74回、TBS系)
- 人形劇のアテレコではあるが、毎回のゲストも本物そっくりの人形でその本人がアテレコを担当した。ピンクレディーが主題歌を歌う(エンディングも同じ歌)。すわしんじは馬の役で、そのいななきというべきか、笑い声だけの出演。
- 『ドリフと女優の爆笑劇場』(1977年 - 1989年、テレビ朝日系)
- 『水曜スペシャル』枠で3か月毎に放送。
- 『TVプレイバック』(1985年 - 1989年、フジテレビ系)
- 日曜22:00 - 22:30放送。萩本欽一司会、石田純一と向井亜紀がレギュラー回答者だったが、その他、ゲスト回答者とともに「ドリフターズゲスト」として各人が2週連続で出演のローテーションを組んだ。
他、単発物や特別番組や特集物を含めると多数存在する。
主なCM出演
1980年代前半、永谷園から当時発売されていたふりかけ「鮭っ子」・「味ぶし」・「焼き肉」・「焼たら子」のCMに出演。ただ、上記にもある通り、1981年に仲本・志村の二人がノミ行為の発覚で謹慎した際には、急遽いかりや・加藤・高木の三人のみ出演したバージョンが製作・放映された。
1999年末から2000年新春にかけて、(荒井注の節にもあるが)荒井を含めた6人のメンバーと田中麗奈が七福神に扮した「フジカラー・フィルム」の2000年新春版CMが放映される。
2006年7月1日から、いかりや死去後初めて4人が揃って出演した「ケーズデンキ」のCMが放映され、現在も継続されている。
2009年4月から、ドリフターズをモチーフにしたパチンコ「CRフィーバードリフだよ!全員集合」(SANKYO)のCMが放映された。いかりやの出演シーンは過去の映像を基にした合成である。
この他、メンバー全員が出演しているわけではないが、キリン「淡麗グリーンラベル」のCMはドリフターズへのオマージュである。メンバー間の「イインダヨ!」「グリーンダヨ!!」の掛け合いが印象的。CMに使われている曲は「8時だョ!全員集合」のオープニング曲やその際のメンバー入場時に使われた曲をアレンジしたもので、出演者5人が「全員集合」オープニングの衣装を着て踊るバージョンもあった。また、同CMには志村けん本人が共演しているバージョンもあるが、実は登場する5人にはそれぞれモデルのドリフメンバーにちなんだ英語風の名前やキャラクター設定がなされており、出演者の風貌も5人それぞれのメンバーにそっくりな人(なお全員外人である)を選んである。キャラクターの設定は次の通りで、「ザ・ウリフターズ(瓜二つ)」というグループ名がある。
- アンカー:5人のリーダー。いかりやが元ネタである(碇は英語でアンカー)。
- ブラウン:ムードメーカー。しばしば「へっくし!!」と変なクシャミをする。加藤が元ネタである(茶色が英語でブラウン)。
- ケント:一番の年下だが、態度がでかく失敗ばかりしている。志村けんが元ネタである。
- マット:ひかえめだが、まじめで正義感が強い。メガネを掛けたまま運動するのが得意。仲本が元ネタである(マットは仲本が得意とした体操のマットから)。
- ジェイコブ:食べることが大好きな芸達者。特技は居眠り。高木が元ネタである。
- ケン:ケントにそっくりなおじさん。演ずるのは志村本人である。
補足
前述のCM出演(2000年放送)や、NHKの歌番組(第32回思い出のメロディー)でのコントと歌のコーナー出演(2001年)、同じく2001年のNHK紅白歌合戦への歌手としての出演、「ドリフ大爆笑」の総集編のオープニングとエンディング新収録(2003年放送)など、偶然か意図的にかは不明だが、2000年以降に於いてほぼ一年に一度は、メンバーが全員集合する機会や企画がとられていた。2004年が結成40周年に当たり、様々な番組企画、イベントなどが事務所やTVで予定されていたが、前述のとおり、2000年に初期メンバーの荒井と2004年にリーダーいかりやの死去により、完全な「全員集合」の実現は不可能となってしまった。
ディスコグラフィー
シングル・レコード
- ズッコケちゃん/いい湯だな(ビバノン・ロック) (1968年6月10日リリース)
- ミヨちゃん/のってる音頭 (1969年5月1日リリース)
- ドリフのズンドコ節/大変歌い込み (1969年11月1日リリース)
- ドリフのほんとにほんとにご苦労さん/冗談炭坑節 (1970年4月25日リリース)
- 誰かさんと誰かさん/ドリフのおこさ節 (1970年11月5日リリース)
- ドリフのツンツン節/ドリフ音頭 北海盆歌より (1971年5月5日リリース)
- 「ドリフのツンツン節」 (作詞:なかにし礼、作曲:不詳、編曲:川口真)
- 原曲は各学校で伝承曲として歌われている「ツンツン節」。
- 「ドリフ音頭 北海盆歌より」 (作詞:なかにし礼、日本民謡、編曲:川口真)
- 原曲は北海道民謡「北海盆唄」。
- 「ドリフのツンツン節」 (作詞:なかにし礼、作曲:不詳、編曲:川口真)
- ドリフのツーレロ節/ドリフのラバさん (1971年12月20日リリース)
- ドリフの真赤な封筒/ドリフのピンポンパン (1972年4月25日リリース)
- ~8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合/「にほんのうた」シリーズ"いい湯だな"より ドリフのビバノン音頭 (1973年6月10日リリース)
- ドリフのバイのバイのバイ/ドリフの英語塾 (1976年3月20日リリース)
- NHK みんなのうたより 加藤茶のはじめての僕デス/志村ケンの全員集合 東村山音頭 (1976年9月5日リリース)
- TBS系TV「飛べ孫悟空」より ゴー・ウェスト/ドリフのズンドコ節 (1978年4月20日リリース)
- ドリフの早口ことば/カラオケドリフの“早口ことば” (1980年12月21日リリース)
- 「ドリフの早口ことば」(補作詞:いかりや長介、作曲・編曲:たかしまあきひこ)
- 「全員集合」の「ドリフ聖歌隊」でお馴染みのリズムに乗せて早口言葉を言う。
補作詞:いかりや長介となっているが、補作であるのは口伝され続けている早口言葉も歌詞に含まれていることからである。 - Diana Ross & Marvin Gaye の "Don't Knock My Love" (1973年)の替え歌である。
- 本曲のリフは、フレディ・ハバードのアルバム "Windjammer" 中の楽曲 "Windjammer" のリフと酷似している。
- 「全員集合」の「ドリフ聖歌隊」でお馴染みのリズムに乗せて早口言葉を言う。
- 「カラオケドリフの“早口ことば”」
- 文字通り「ドリフの早口ことば」のカラオケバージョンである。
- 「ドリフの早口ことば」(補作詞:いかりや長介、作曲・編曲:たかしまあきひこ)
アルバム
- 『ドリフターズ 全員集合!!』
- 最初の3枚のシングル両面分6曲に「会津磐梯山」「八木節」を加えた計8曲。その間にドリフによるコントが挟まる形となっている。
- 『ドリフターズ 再び全員集合!!』
- 前作に続き、「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」以降のシングル3枚両面分の計6曲をA面に、5人のメンバーがそれぞれソロをとる5曲をB面に収録。
- 『ドリフの軍歌だよ全員集合!!』
- 収録曲のうち「ズンドコ節」や「ほんとにほんとにご苦労さん」はシングル発表曲とタイトルは類似するが、別のものである。後述のベスト盤である「赤盤」には「酋長の娘」以外の9曲のみが収録された。
その他
- 『8時だョ!全員集合』のオープニングテーマ
- 原曲:「北海盆唄」
- ドリフのほろ酔い小唄
- ドリフ大爆笑のテーマ
- 『日曜日だョ!ドリフターズ!!』のオープニングテーマ
- 「月月火水木金金」の替え歌。(上記ドリフ大爆笑のテーマとは歌詞が異なる)
- ヒゲのテーマ(ドゥー・ミー)
- 原曲:テディ・ペンダーグラス の "Do Me"
等々。
CD
2000年に『ドリフだよ!全員集合(赤盤)』『ドリフだよ!全員集合(青盤)』(共に2枚組CD、EMIミュージック・ジャパン)がリリースされ、シングルやLPの音源はもちろん、ソノシートの音源などをも収録し、ドリフのほとんどの曲が網羅されている。赤盤・青盤とも、解説の最後のページに、「荒井注さんのご冥福を謹んでお祈りいたします。」と書かれている。
前期バンド時代のCDとしては、「東芝レコード・アーカイブスVOL.1・ウエスタンカーニバルの時代」に「井上ひろしとドリフターズ」名義で「白い霧のブルース」が収録されている。
書籍
分析本や映画について解説された本、自伝などが様々出版されたが下記以外は近年では古本屋でもほとんど入手不可能。
- いかりや長介『だめだこりゃ』(新潮社)
- 2003年に表紙の写真も一新され、文庫本で再出版されている。また、2004年のいかりやの死去直後に、再出版されているので、入手可能。
- 志村けん『変なおじさん』(新潮社、1998年)
- 続編「変なおじさんリターンズ」(2000年)、文庫版「変なおじさん完全版」(新潮文庫)と出版。現在、「変なおじさんリターンズ」との抱き合わせの文庫本「変なおじさん 完全版」が入手可能。
- 高木ブー『第5の男』(朝日新聞社、2003年)
- ドリフ結成年次がちょうど一年ずれている。一年プラスすれば、他の文献と整合が取れるため、誤植と思われる。大型書店での発注にて入手可能。
- 居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』(双葉文庫、2001年)
- 全員集合のプロデューサーからの視点が記されている。現在入手可能。
※各文献間で、記述の矛盾がある(例えば「高木ブーの中央大学卒業」)。
主演映画作品
主演映画については、「ザ・ドリフターズの映画」を参照のこと。
脚注・出典
関連項目
外部リンク
- イザワオフィス(所属事務所)
- ↑ 『ダカーポ』1999年10月6日号(No.430)、60頁。
- ↑ ただし、『8時だョ!全員集合』の前半コント冒頭で「オイッス!」をしなかった観客に対していかりやがツッコミを入れることはあった。また『ドリフのドパンチ!学園』は視聴者参加番組であり、当然番組コント中にドリフと素人の絡みも見られた。
- ↑ 高木ブー『第5の男』p.100-101
- ↑ 大野義夫ホームページ
- ↑ ウチくる!? 2001年度版
- ↑ ポン青木 公式ホームページより。
- ↑ http://www.ne.jp/asahi/hideto/club/maki1.htm
- ↑ 高木ブー『第5の男』p.99-101
- ↑ 高松秀晴プロフィール
- ↑ 「朝日年鑑1986」p.331。これによると、いかりやが全員集合終了後の活動を個別に行うコメントを出したことで「実質的な解散」としている。