東村山音頭
『東村山音頭』(ひがしむらやまおんど)は、1963年(昭和38年)に発表された日本の楽曲である。東京都北多摩郡東村山町の市制施行(東村山市)を記念し東村山町農業協同組合がレコード発売した音頭である。
この項目では志村けんが同曲をアレンジカヴァーした『志村けんの全員集合 東村山音頭』等、カヴァー楽曲についても述べる。
略歴・概要
発祥
1963年(昭和38年)東京都北多摩郡東村山町制定で、東村山町農業協同組合が発売した。作詞の土屋忠司は、当時、東京都武蔵野市水道部長であった。歌はキングレコード専属の歌手三橋美智也・下谷二三子・春日八郎・大津美子を起用し、振り付けは日本舞踊家花柳徳兵衛が担当した。東京郊外の小さな町でこれほどの企画が実現できた背景には、パン食の普及で当時需要が急増していた小麦の出荷により東村山町農協に莫大な収益があったためであるといわれる。現在でもオリジナル版のカセットテープが東京みらい農業協同組合東村山支店で入手できる。
正調(平田版)
その13年後、1976年(昭和51年)6月21日に歌手の平田満(俳優の平田満とは別人)がカヴァーし、原曲と同様にキングレコードより発売した。B面はダニエル・ブーンのヒット曲『ビューティフル・サンデー』であった。明確に「企画盤」であるが、平田の歌唱は「正調」で勝負した。
平田は、当時、前年まで活動していたバンド「原みつるとシャネル・ファイブ」から、同年2月5日にソロデビュー、デビューシングルの『愛の狩人』が10万枚を超えるヒットをしたばかりであったが、路線の違う楽曲、イラストのジャケットで同シングルをリリースしたが、セールス上の記録は残さなかった。
同シングルの演奏は「シャネル・ファイブ」であり、同バンドも平田も、かつてリリースしたアルバム『稚内ブルース』(1971年)以来、カヴァーは得意とするところであり、同年に「平田満+シャネル・ファイブ」名義でリリースしたアルバム『愛の狩人』に同曲は収録された。2009年(平成21年)5月現在、CD化はされていない。
志村版
東村山市出身の志村けんが、ザ・ドリフターズの一員として出演していたTBS系のバラエティ番組「8時だョ!全員集合」での名物コーナー「少年少女合唱隊」にて「東村山音頭」をリメイクし披露、後にレコード化もされた。番組放送当時の視聴者を中心に、オリジナルよりも知名度が高い。
『志村けんの全員集合 東村山音頭』(しむらけんのぜんいんしゅうごう ひがしむらやまおんど)は、志村と同じドリフメンバーの加藤茶が、宮本浩次(後のエレファントカシマシのメンバー)の楽曲(NHKみんなのうたでも放送)である『はじめての僕デス』をカバーした『加藤茶のはじめての僕デス』との両A面シングルとして、1976年に東芝EMIより発売された。編曲は両曲ともたかしまあきひこが担当した。
オリジナルの「東村山音頭」とは歌詞・メロディともに異なり「東村山4丁目」「3丁目」「1丁目」の歌がある。「4丁目」は正調に近い形だが、それ以降が独自に加えられており、「3丁目」はいかりや長介、1丁目は志村けんが作詞・作曲。丁目の数字が小さくなるほど(後のほうほど)メロディ・歌詞ともにいい加減な内容になる。「東村山2丁目」という歌詞がないことについて後年志村は「語呂が悪く、ギャグのテンポがずれるから」と説明している。また自身の著書『変なおじさん』では「作る時間がなかった」とも語っている。
なお、志村はこの曲により「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長から感謝状が授与された。 この時感謝状授与記念と志村への激励の証として植えられたケヤキの木「志村けんの木」が東村山駅前にある。
なお「東村山○丁目」という地名は東村山市には実在しない。当時、多くの小学生が訪れ、交番で「東村山1丁目〜4丁目」の場所を尋ねるといった社会現象が起こった。
2001年にドリフが正式な出場歌手としては最初で最後の紅白出場を果たした際には、メドレー「ドリフのほんとにほんとにご苦労さんスペシャル」の中で歌唱された。
ディスコグラフィ
- 東村山音頭 (1963年発売、キングレコード)
- 東村山音頭 (1976年6月21日発売、キングレコード) - 平田満
- 東村山音頭
- 作詞土屋忠司、作曲細川潤一、編曲土持城夫
- ビューティフル・サンデー
- 作詞・作曲ダニエル・ブーン、ロッド・マックイーン、編曲土持城夫
- 東村山音頭
- はじめての僕デス/志村けんの全員集合 東村山音頭 (1976年9月1日発売、東芝EMI)
関連項目
外部リンク
- 東村山市商工会 - 正調「東村山音頭」歌詞
- 東村山市の紹介 東村山音頭 - 東村山市公式サイト