萩本欽一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Pathnav テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox お笑い芸人 萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年5月7日 - )は、日本コメディアンタレント司会者ラジオパーソナリティー演出家である。日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズの初代監督でもある。

東京都台東区出身。浅井企画佐藤企画(業務提携として所属)、萩本企画(個人事務所だが浅井企画の関連会社)所属。身長164cm、体重65kg。血液型A型駒込高等学校卒業。

概要

大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる。その他の愛称は「萩モー」「」「欽坊」「欽様」など。また、彼の番組や舞台から育った欽ちゃんファミリーからは「大将」と呼ばれている(ビートたけしが弟子たちに「殿」と呼ばせているのは、萩本と周囲のこうした関係性への憧憬や敬意によるところが大きい)。ゴールデンゴールズの選手からは「欽督(きんとく)」と呼ばれている。

1970年代1980年代に、「なんでそーなるの!」というギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、さらに素人および素人っぽさを残す才能を開花させたり番組でユニットを作り曲を出すなど現在のバラエティの基本となるものを開発。本人によると「演技のボケは難しいから、素人を連れてくる方が簡単」。

「どっちらけ」「バンザーイなしよ」など、語り継がれるギャグも多い。後に普通に使われるようになった「ウケる」(ややウケ、バカウケなど)という言葉も、最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったとされる(芸人言葉を一般にも広めた)。また、「天然ボケ」(略して天然とも)を初めて使ったのも萩本であるとされている[1])。

来歴・人物

コント55号以前

東京府東京市下谷区稲荷町(現:東京都台東区東上野3丁目)生まれ。両親は香川県小豆島出身[2]。稲荷町で幼少期を過ごすも、父親が稲荷町の長屋で営んでいたカメラ製造販売が成功し埼玉県浦和市に家を建てたため、稲荷町から一家で浦和に転居、裕福な少年時代を送る[3]。しかし萩本が小学校5年の時、父の会社が倒産(低価格カメラを発売するも販売不振)。再び稲荷町の長屋に居を移す。さらに中学校3年の時、文京区丸山町に転居するが極貧生活を余儀なくされ萩本の高校時代に一家で夜逃げ。その後家族は"解散"し両親は香川に帰った[4]

極貧の生活を抜け出したい萩本は、映画で“面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿”を見たことがきっかけで中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られた。高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、寸前で入門することを取り止め、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。

東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼らの大師匠筋である浅草の首領こと深見千三郎からも薫陶を受け、大いに可愛がられる[5]

入団当時、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込み諦めようとした際、池が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と萩本を引き止めた。その後、その演出家から「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」と池が言っていたことを知らされる。さらに、その演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ」と言われ奮起。その後、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すなど才能を努力で補うために必死になった。

その後、父親の家が火災になり、萩本は父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあったが、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を萩本に渡した。これには、萩本も感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した[6]

東洋劇場で上達した頃、同系列の浅草フランス座へ出向。ストリップの幕間コントでさらに腕を磨く。ここで漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の坂上二郎)と知り合う。しかし、当時は共演というよりはむしろ競演で、お互いに自分だけがウケようと衝突していたとのことである。彼の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったという。

その後萩本は東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て浅草松竹演芸場で劇団浅草新喜劇を旗揚げして座長公演を行う。同時期に、放送作家のはかま満緒に師事してお笑い作りに本格的に取り組む。ここで、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。さらに、はかまの伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二(浅井企画代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始。向井の手掛ける公開コメディ番組ジンタカ・パンチ!のコマーシャルに起用される。しかし、ここで緊張したのか気負ったのか、萩本は異例とも言える21回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。

失意の萩本は、テレビ進出を諦め生涯舞台役者で生きていくことを決意。浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。ここでたまたま考案した一人コント「机」が、後年日本中を席捲したコント55号の端緒となるのである。

後に『快獣ブースカ』で脚本家デビューすることになる市川森一と、はかま満緒師事時代に友好を持ち、市川は後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)の、これらのエピソードを描いている。

コント55号

熱海で考案したコント「机」を売り込もうと帰京したところ、たまたま坂上二郎から電話が掛かってきて会うことになり、その際萩本が「机」のあらすじを語ったところ坂上から「そのコントは二人で演じた方がいいのでは」と提案されたのがきっかけとなり、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成[7]

なお萩本は帰京後すぐにそのまま劇場にコントを売り込むつもりでおり、帰京直後というタイミングで坂上からの電話がなければコント55号の結成はなかったと後年語っている。

前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』(1968年1971年)で人気に火がついた。以降、『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『コント55号のなんでそうなるの?』(ともに日本テレビ)、『チータ55号』『みんなで出よう55号決定版!→55号決定版!』(TBS)、『ウォー!コント55号!!』『コント55号!!笑ってたまるか!?』(いずれもNETテレビ・現:テレビ朝日)など数多くのレギュラー番組を抱え、テレビを席巻した。その後もコンビとしての活動は続いたが、1975年に始まり、久米宏の司会で大人気となった『ぴったし カン・カン』(TBS)では双方がチームリーダー役になるなど、70年代後半以降はコンビでのコントやテレビ出演の機会が減少し、次第に個々の活動を中心とするスタンスに変わっていった。

視聴率100%男

コント55号で人気絶頂期の頃の1971年、日本テレビスター誕生!』の初代司会者(司会は初めての経験)としてソロ活動を始める。ソロでも人気は安定であり、それ以降の主演のレギュラーにも結びついていく。翌1972年にはニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が上昇、1975年にニッポン放送と同じフジサンケイグループフジテレビにて『欽ちゃんのドンとやってみよう!』として公開テレビ番組となる。当時同局で司会を担当していた『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年1986年、ただし萩本は1984年6月限りで司会を降板)で編み出したともいわれる、ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶり(いわゆる「素人いじり」)は、「欽ドン!」では素人主体で結成された「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々をも巻き込み大きく開花し、後の番組においても一連の素人扱いぶりは天才的な至芸を極めた。

オファーがあった際に「僕は司会ができないから、ちゃんと司会ができる女の子をつけてほしい」と希望、これが後のアシスタントの走りとされる。

以降、間を置いて1981年には月曜9時にフジテレビ『欽ドン!良い子悪い子普通の子』シリーズが開始。(最高視聴率38.8%)1976年から始まっていたホームコメディのテレビ朝日(当初はNET)『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(欽どこ)は、最高視聴率42%を記録する。1982年に始まったTBS欽ちゃんの週刊欽曜日』(最高視聴率31.7%)、さらにはTBS『ぴったしカン・カン』(最高視聴率37.6%)、フジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』(最高視聴率28.5%)と高視聴率番組が続き、各番組の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取る。これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「欽ちゃんファミリー」として巣立った。

番組の顔

一連の企画・主演バラエティ番組以外でも、先述の『スター誕生!』、『オールスター家族対抗歌合戦』の司会者以外にも、1978年から現在も続いている『24時間テレビ』(日本テレビ系)と1975年に始まった『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』(ニッポン放送)では初期にメインパーソナリティを務め、番組の顔ともなった。

番組降板・休養

1985年3月、充電と称して当時のレギュラー番組を全て降板(並びに全番組が打ち切り)、半年間程休養する(ただし『欽ちゃんの仮装大賞』の司会だけは例外として続行している)。理由について本人は「『100%男』と言われるまでに至った人気を維持していくことに自信が持てなくなった」と説明、また当時人気のあった『オレたちひょうきん族』などの一連のアドリブ主導(出演者の技量、機転に依存、丸投げにする番組作り)のテレビ番組が嫌になったとも言われる。また視聴率が下降気味であることを指摘されるようになり嫌気が差したとも本人は後に述べている。

休養後

休養後テレビに復帰するも、次々と番組打ち切りの憂き目に遭い、1980年代前半にはタモリビートたけしらと共に「お笑いBIG3」とされてきたが、その「BIG3」の座も明石家さんまに明け渡すなど人気においても以前程の勢いはなくなった。しかしながら2010年代に入っても『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』(日本テレビ)の司会などでテレビに登場している。

萩本の番組や舞台をきっかけに活動の域を広げた関根勤小堺一機はしのえみ柳葉敏郎勝俣州和らはその後もテレビやラジオ、舞台で活動を続け、また君塚良一大岩賞介といった脚本家を育成させるなど、芸能界、放送界における萩本の影響力は強く、東京では無名に近かったダウンタウンを自らの番組に出演させて、東京進出のきっかけを作っている。笑いの方向性では対極とも言えるダウンタウンだが、彼らは義理を非常に重んじる面もあり、萩本には他の先輩芸人とは別格の念を持っておりラジオ番組のネタで萩本を揶揄するネタが来たときも、浜田が「萩本さんの悪口言わんといてくれよ」と述べている。松本は著書で、「あの時期のダウンタウンに好き勝手やらせて(他のタレントには細かくダメ出しをしていたのに)OKを出していた大将はやっぱりすごい」と評している。

また同時期にジミー大西の才能を見いだし、10年に1度の天才芸人を発見した!と喜ぶが、2人きりで楽屋に入り出て来た後「天然だったんだね…」と一言残し落胆するが、この言葉が天然ボケの言葉を定着させることとなる。1998年には長野オリンピックの閉会式司会を担当。また、1990年代以降、前川清や自らが主催する欽ちゃん劇団の舞台などで演出家としても活動している。

「欽ドン!」「良い子、悪い子、普通の子」「欽ちゃん劇団」など、萩本の発案による冗談やネタは数多い。音曲に合わせ踊りながらじゃんけんをして、負けた者が服を脱いでいく野球拳は、『裏番組をブッ飛ばせ!』で使ってから世間に広まった。ただし汚れ役であることと、野球拳が主体となり自分たちのコントが2次的な存在になることへの嫌悪感から、当時はこの役を相当嫌っていた部分がある。ただし2005年の野球拳発祥の地松山での祭りでは、野球拳(本来の野球拳は服を脱がない)で出演した。この際野球拳について35年ぶりに謝罪し話題を呼んだ。また、じゃんけんの「あっち向いてホイ」は『スター誕生!』の欽ちゃんコーナーで放送されたのをきっかけに全国に広まったものである。

野球

テンプレート:Anchor

高校時代は野球部に籍を置くいわゆる高校球児だった。

1975年頃には「欽ちゃんず」というチームを持ち、雑誌社などのチームと交流試合も行ったこともある。当時は背番号の代わりに女優の名前を入れたりしていた。

「欽ちゃんのドンとやってみよう!」では、元プロ野球選手の尾崎行雄や“ヒゲ辻”こと辻佳紀らの3人チームがアマチュアチームと対決する「欽ドン!野球」のコーナーもあった。

テンプレート:Anchor

そのためか、2004年12月26日に、近年の野球人気の凋落を危ぶみ『野球はもっと楽しいスポーツ』だと、2005年度からの日本野球連盟加盟を目指し、関東を本拠(後に茨城県桜川村〔2005年3月22日に平成の大合併に伴い稲敷市になる〕を本拠地に制定)とした社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ(以下、茨城GG)」(愛称:欽ちゃん球団)を結成。萩本は、独自のマイクパフォーマンス[8]や女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人などの参入など、前例のないチーム作りを推進し、茨城GGをアマチュア野球随一の人気チームへと成長させた。また、宮崎県においても、姉妹チームの宮崎ゴールデンゴールズを結成。

これにより、森田健作山本譲二森口博子ら著名人が監督となってクラブチームを設立する事例が続出し、野球人気の回復に大きな功績を残した。

テンプレート:Anchor

しかし、2006年7月19日に遠征先の北海道にて所属選手の山本圭一極楽とんぼ・当時)の17歳女性への性的暴行疑惑および吉本興業契約解除という一連の事件が起こった翌朝、集まった報道陣の前で『ことがことだけに山本だけが責められる問題ではない。野球を始めたのは僕なので、大好きな野球だけど辞めることにしました。ごめんなさい』と涙ながらにゴールデンゴールズ球団を解散することを発表したが、事件について言及されても一切語らず、コメントの締めに『野球、大好きだった』と自身のことだけを語り、その場にいた記者団から失笑されてしまった。

しかしこの解散発表が様々な波及を呼び、地元市民による存続署名活動が展開されたことや各メディアのアンケートなどで存続要望が高かったことなどもあり、7月22日新潟県でのセガサミーとの試合の前に球場で解散の撤回を発表。撤回は各メディアやアンケートでも支持を集めたが、自分の感情に任せて安易な解散宣言をしたり、球団存続の要望が出るとすぐに撤回するなど事件にかかわっていない所属選手を振り回すことになり、一部の現役スポーツ選手などから苦言を呈された。さらに、この騒動のため萩本自身が監督責任を自ら取るということはなく指導者としての資質を問われるという面もあった。さらに、山本以外の選手も事件に関わっていたことに対する謝罪は一切なかった。

当初解散発言の際『山本氏に何か一言』と求められ、山本に対しカメラの前で『球団なくなっちゃったよ!』と厳しい発言をしていたが、解散を撤回した際には『背番号をとったユニフォームを着てお客さんのいない夜に普通の山本で遊びにおいでよ!』と温かい言葉を送った。なお、アマチュア野球の連盟に解散の意思を伝えたのは『野球やめます』発言の8時間前である。

ワイド!スクランブル』(テレビ朝日系)のインタビューでは問題が解決したら、背番号0のボール拾いからやり直しさせる、と更生を兼ねてチームに復帰させることを示唆している。その一方で、チームの大幅なリストラを提示し、山本の復帰は無いと発言するなど、流動的である。山本が2007年1月に日向のキャンプに訪れた時に萩本に謝罪し、見学していたファンからは山本に対して『山本がんばれよ!』等の声が上がった。しかし、彼は山本を未だに許さない態度を示すコメントを述べた(その際に、山本に対しアドバイスもした[9])。

テンプレート:Anchor

2010年12月12日に監督を勇退し、後任に片岡安祐美を指名した。
なお、茨城GGの監督としての最後の試合は同日平塚球場にて、松坂大輔(MLB・レッドソックス)率いるチーム「サムライ」とのチャリティーマッチ「欽ちゃん・松坂大輔のドンとやるの!」として行われ、約12,000人の大観衆が見守る中、茨城GGは15-12で勝利して有終の美を飾った。萩本は試合後『本当に幸せでした。野球がこんなに楽しいということを、改めて気づきました。いろんな経験ができました。そして今日、この平塚で、みなさんとさよならできたことも、深く深く思い出に残ります。本当にみなさん、ありがとうございました』と涙ながらに挨拶し、茨城GGナインから胴上げをされた後、平塚球場に集まったファンと触れ合いながら、グラウンドを一周し6年間にわたる監督生活に別れを告げた[10]

テンプレート:Anchor

茨城GG監督勇退後の2011年4月12日[11]に行われたプロ野球開幕戦「横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)対中日ドラゴンズ」戦(横浜スタジアム)にて、横浜市長林文子とともに始球式に登場。萩本は横浜のユニフォーム(背番号55[12])を着用し、おなじみの欽ちゃん走りで登場するなり、集まったファンの爆笑と拍手喝采を誘った。
また同日、横浜の応援団長就任を宣言した[13]こちらも参照)。

2011年4月より、横浜球団と萩本の共同による『欽ちゃん!!横浜ベイスターズ応援プロジェクト』が立ち上げられた。まず、4月の横浜公式戦で特別観戦チケット『欽ちゃんチケット』を販売。始球式を務めた4月12日の対中日戦で勝利して以降横浜が健闘、これに感銘した萩本が自ら販売を申し出たという[14][15]。なお、対象試合は1カード3連戦のうち1試合を選択し、価格は販売時に萩本との交渉で決めるという前代未聞の試みであった。これまでに4月19日21日の対広島東洋カープ戦などのチケットが販売された。また5月以降の横浜主催試合では萩本と一緒に試合観戦できる特別席『欽ちゃんシート』を販売。これも横浜市内で行われるイベントの特設ブースにて萩本自ら販売を行った。

公益活動

NHKで「ワースト脱出大作戦」シリーズに出演したこともあり、公共キャンペーンCMに出演することも増えた。テンプレート:See also

  • NHKではあき竹城と振り込め詐欺防止キャンペーン「みんなで防ごう!振り込め詐欺」のスポットに出演。
  • 2010年6月、総務省から「地デジ化応援隊」隊員に任命された。アナログ放送終了のキャンペーンCMにボランティアの形で出演した。
  • また、三重県の「みえの国観光大使」も務めている。これが縁で、2010年11月、三重県の独立系テレビ局三重テレビ放送の「報道制作局名誉局長」に“就任”した。茨城ゴールデンゴールズの三重県で行われた試合がきっかけで三重テレビの社長と親交が深まり、同局で「キンさばっ!! -近所の裁き-」(2011年3月終了)という番組をプロデュースしたのに続き、2011年4月からスタートした「欽ちゃんのニッポン元気化計画」の司会を務めている。さらに、「はなまるマーケット」(TBS)のはなまるカフェに出演した際、三重県伊賀市の特産品である漬物養肝漬」を紹介した。
  • 上述の三重県観光大使の活動の一つとして、2011年6月22日三重県知事鈴木英敬に、四日市市産の陶磁器万古焼東日本大震災の被災地に寄付することを報告。その後、万古焼を気仙沼市などへ届けた。
  • 2012年12月20日付で、日本テレビホールディングス傘下のビデオ制作・販売事業で、元日本テレビプロデューサーであり萩本とも親交がある土屋敏男が代表取締役を務める「ライフビデオ」の取締役に就任。同社のビデオ制作と販売事業に助言・協力していくほか、依頼主の要望によっては萩本自らビデオ出演することもあるという[16]

その他

才能を見抜く眼力

萩本は一般の素人や、芸人以外の著名人などを積極的に番組に起用し、コメディーの才能を見抜いて引き出すことに長けていた。志穂美悦子(女優でスタントもこなす)、前川清(歌手、元々はクールな二枚目キャラクター)、内山田洋とクール・ファイブ(ムード歌謡グループ)、中原理恵(若手歌謡曲歌手)、真屋順子(元は正統派の舞台女優)、志賀勝(悪役俳優)など、それまでお笑いに縁がなかった面々を自分の世界に引き込み、世間に新たな側面を見出させた。さらに「欽どこ」で若原一郎を、「オールスター家族対抗歌合戦」で近江俊郎を人気復活に導き、タレントとしての才能を発揮させ、歌手時代を知らない若い世代にも知名度を広げた。また萩本はおしゃれカンケイに出演した際かつて司会を務めたスター誕生!の裏話として山口百恵が実は不合格だったが他の出演者がオーディションを行っている間、山口百恵は後ろの席に座ったまま身動き1つせずじっと他の出演者のオーディションを見ていた。その姿勢を見た萩本が『彼女(百恵)は必ず大物になる』とプロダクション側に訴えた結果不合格が合格になったと話した。その後山口百恵は1970年代を代表するアイドルへ成長することになる。

弟子筋にあたる勝俣州和が「人志松本のすべらない話 ザ・ゴールデン」で披露したところによると、自身のデビュー当時に萩本から「お笑いは、ネタを振る・ボケる・ツッコむの繰り返しなんだ。ネタを振ってウケたらもっとネタを振れ、ぼけてウケたらもっとぼけろ、突っ込みがウケたらもっと突っ込め。それがどんどん回りだして大きな波になったら、お前はスターだよ」と教わったという。しかし、それを真に受けた勝俣はその後ある番組で、萩本に対してフラフラになるまで激しく叩きツッコミをしてしまい、番組の収録が一時中断するハプニングに至ったとも語っている。

他方、萩本は自番組で人気と知名度が高まった面々について、ファミリーよろしく他の番組でも無条件に使い続けるということはなかった。

萩本自身が芸に対しては細やかかつ厳しく、萩本の番組に出演したことで強い色が付いてしまった結果、その後の俳優やタレントとしての活動に制約が生じ、完全に低迷してしまう例も多く見られた。彼らが人気と知名度を獲得したのは、多くは萩本の力によるものであるにもかかわらず、自分の実力を過信してしまう例もあったと言われる。

  • 実際、長江健次は自身の過信から、一時期、萩本と険悪な関係になったことを後に認めている。
  • 真屋順子も「欽どこ」終了直前に、「欽どこが終了したら他に仕事がないから、欽ちゃんに相談しようと思っている」とテレビで語っている。

チャップリンとの面会

萩本が「尊敬するコメディアン」としてチャップリンの名を挙げていたことから、1971年1月にフジテレビの番組企画で、当時スイスに隠棲していたチャップリンに面会している。実のところ、萩本は「世界で一番有名な人だから」という程度の意識で彼の名を出していたに過ぎず、このときはチャップリン映画も2本しか見たことがなかったという[17]

その頃、チャップリンは誰にも面会しないと言われており、企画した側も実現するかどうか危ぶんでいたが、萩本はむしろそういう相手だからこそ会ってくれるだろうとスイスに出かけていった。萩本に与えられたスケジュールは4日間。初日は、予想通り警護の人間から「チャップリンはいないから会えない」と謝絶を受ける。翌日、車で帰宅するチャップリンと窓越しの対面を果たすが、邸内にはやはり入れなかった。3日目には、かつてチャップリンのマネージャーを務めた高野虎市の「日本人、特に女性が好きなので女性を連れて行けば会えるだろう」とのアドバイスに基づき、土産の博多人形を携えていくが、マネージャーから「預かりはするが、日本からの客人が置いていったとだけ伝える」という冷たい対応を受ける。そして最終日、せめて敬意を持っているという気持ちだけでも伝えたいと粘ったものの、マネージャーはやはり会わせないという返答であった。萩本が怒りと失望から、日本語で「あの(ヒューマニズムにあふれた)映画は嘘だ」などと大声で叫んでいると、それを聞いたチャップリン本人が「何事か」と出てきて暖かく迎え入れた(萩本によると、いろいろとたかりに来るような訪問者がいたため、マネージャーが来客を会わせないようにしていたという)。

この面会以後萩本はチャップリンに対して心からの敬意を抱くようになり、作品も全てきちんと見ることとなった。1977年12月、ニッポン放送『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の生出演中にチャップリンの訃報を伝えられると、萩本は思わず泣き出した。

結婚報道と家族

テレビの「欽ドン!」のヒットで時代の寵児となっていた頃に結婚を発表したが、相手が浅草での駆け出し芸人時代に知り合ったストリッパーだったことから名前などの詳しい情報は伏せるようマスコミに要望を出している。妻との間に3人の息子がおり、一般人という理由で長らく公表されなかったが、2007年に刊行された自伝『なんでそーなるの!』(日本文芸社 ISBN 978-4537254686)において実名入りで紹介された[18]

親族

芸に対して

  • 師匠の東と同様に芸には厳しく、さらに萩本自身が細かいことにもこだわるため、変わった芸名を極度に嫌いラビット関根を名乗っていた関根勤に本名に改名させたことがある。後に関根の芸名の名付け親が桂三枝だったと言うことを聞き「言ってくれよー。(三枝に)怒られちゃうよ」と萩本はコメントしていた。
  • 弟子入りを志願する者が来ると、「正しい箸の持ち方をしていることは親の躾(しつけ)を素直に受け入れている証拠であり、その素直さが成長には不可欠である」という信念からの持ち方を見るためにまずは食事に連れて行く。
  • 自身の共演者には下ネタを言わないように注意する[24]。ただし、下ネタが嫌いと言う訳ではない。師匠の一人東八郎が、「笑いやってて芸人疲れてくると下ネタに行く。下ネタはよくウケる。だから、それが出たら疲れて(安易に笑いを取りに行こうとして)ると思え」と教えたのを守っているからである。これについて萩本は「(師匠の東に対して、元気で)やってるよっていう意味でも(下ネタをしなかった)。(師匠への)恩返しみたいな。だから全然、相手が(下ネタを)やるのは気にしてない」と語っている。いわゆる東の教えを守り、恩を忘れないと言うことである。[25]
  • 自身の著書の中で「ミニスカートが嫌いだ」と記しており、番組の女性レギュラー出演者には「ミニスカートをはかないでほしい」と要請していた。

坂上二郎の死と東日本大震災

2011年3月10日にコント55号の相方だった坂上二郎の死、そして翌3月11日に日本を襲った東北地方太平洋沖地震東日本大震災)と、萩本は2日連続で大きな出来事に見舞われた。その際において、以下のようなエピソードがある。 テンプレート:See also

  • 坂上二郎の訃報を受け、3月10日、仕事先の富山から飛行機で帰京した萩本は羽田空港にて報道陣に「悲しい。さびしい。二郎さんのばか」[26]と語り、また「コント55号は最高だった。二郎さんのおかげで楽しい笑い人生になった。坂上二郎を忘れません」と、長年の相方を偲ぶコメントも発表した[27]。坂上の死の翌日、東日本大震災が発生したが、萩本は「死んだ日が二郎さんらしかったよね。ちゃんと報道してもらうためには、ギリギリのタイミングだったんだもん」と述懐した[26]
  • 坂上の家族葬3月13日栃木県那須塩原市で営まれた際には、震災の影響でストップした東北新幹線を使わずにJR宇都宮線タクシーのみで東京から4時間かけて斎場に駆け付け、坂上に最後の別れをした[28]
  • さらに、かつて『欽ドン!』で共演した気仙沼ちゃん宮城県気仙沼市民宿を経営)と震災発生直後から連絡が取れず、安否を心配していたが、一家で無事だったことがわかり、ホッと胸をなでおろした[29]。また7月6日には万古焼を被災地に届けるため仙台へ出向き、気仙沼ちゃんに再会した[30]
  • 3月20日より日本テレビにて、震災の被災者にエールを送る3秒スポットCM「がんばろう!ニッポン」に堀尾正明らと出演し、同局系列で5月上旬まで放送された。
  • 4月12日プロ野球開幕戦「横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)中日ドラゴンズ」(横浜スタジアム)の始球式に登板。横浜球団が萩本に開幕戦の始球式を依頼するにあたり、萩本によると「横浜のことは気になっていたんだよ。夢が実現しちゃった。震災のこともあるし、野球人として何かでこういう時に、日本を元気にしなきゃと思ってたんだ」と、二つ返事で快諾したという[31]。投球前に「東北の皆さんに届くように」とスタンドに集まったファンらに呼び掛け、投球を終えると「ジーンときた」と感激。そして「悲しすぎる時はお笑いの出番はないが、一生懸命にプレーする姿はきっと届く」と語った[32]。また同日、横浜の応援団長就任を自ら宣言。始球式後に就任を直訴し、当時横浜球団社長の加地隆雄(現:横浜DeNA球団会長)も熱意に即断した[13]。さらに、横浜の森本稀哲とコンビを結成することまで宣言している。横浜から被災地を励まそうと、萩本が自ら思案。当時漂っていた自粛ムードによりパフォーマンスを封印していた森本に試合前に電話を入れ「うんと喜ばせて、お客さんに来てもらわないと』と諭し『きょうからモリキンだから」とコンビ名も即興で決定、森本も快諾し、パフォーマンス解禁を決意したという[33]。同日試合後には森本と即興で掛け合い漫才を披露し「ハマの東北心配監督…いや欽督がいいな。でも"欽"という字が良くないから金督でいこう」と、場内を爆笑に誘った[13]。また始球式の翌日(4月13日)に横浜スタジアム前のYYパークにて、義援金募金活動を行う[34]。など、その後も精力的に募金活動や被災地訪問等を行った。
  • 2012年1月下旬にはテレビ番組の収録で被災地を訪問し、気仙沼漁港など7か所の漁港を訪れた。このうちの1本は東日本大震災から1年となる3月11日にテレビ東京系で放送された『会いたい人がいる!田舎に泊まろう!3・11スペシャル』である[35]
  • 坂上二郎の一周忌を経た2012年5月19日、坂上の縁の地を萩本が訪ねる特別番組『欽ちゃんのありがとう二郎さんツアー』が日本テレビで放送された[36]。なお東日本大震災の関係により、坂上没後すぐ追悼番組の編成がなかったことから、一周忌を経てようやく実現する形となった。

出演作品

テレビ(単独での出演番組)

ラジオ

アニメ

映画

CM

ゲーム

著書

  • 欽ちゃんつんのめり
  • 欽ちゃんのはにかみ人間学―どうしてオレってばかなんだろう
  • 欽ちゃんどこまで書くの
  • 欽ちゃんの愛の世界45―一日一語で幸せづくり
  • とっておき十話
  • テレビに恋して20年
  • 「笑」ほど素敵な商売はない
  • まだ運はあるか
  • 快話術―誰とでも心が通う日本語のしゃべり方
  • 欽ちゃんの人生コントだよ!!
  • 人生にはチャンスが三度ある―成功する人の演出力
  • ユーモアで行こう!(男のVシリーズ)
  • なんでそーなるの!―萩本欽一自伝
  • 欽言力
  • 人生が楽しくなる気持ちのいい日本語
  • 野球愛
  • ダメなときほど運はたまる 〜だれでも「運のいい人」になれる50のヒント〜(ISBN 978-4-331515150)
  • 欽ドン(欽ちゃんのドンといってみよう!の番組で紹介されたネタを収録した本)1巻〜6巻

連載

レコード

  • 何処かにお前が/手のテーマ(1970年2月)‐映画「手」サウンドトラックより
  • あーねむいなあー(深夜放送の為のボサ・ノバ/君は小さな恋人(1970年9月)‐映画「俺は眠たかった」より
  • 山に登れば/今がチャンス(1972年9月)
  • 拝啓おかあさん/あんちくしょうの唄(1975年7月)
  • 妻は夫をいたわりつ/欽一・順子の子守唄(1978年5月)共演真屋順子‐テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの」より
  • 「欽ちゃんの」渡り鳥だよ/同カラオケ(1978年11月)‐フジテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう」より

CD

  • コント55号黄金時代(キング、KICS2183)

パジャマ党

パジャマ党は、萩本欽一の番組に関わる構成作家集団で、「欽ドン!」などのヒットにも貢献したブレーンでもある。構成員のうち、鶴間・大倉・益子・君塚の4名は「サラダ党」と称していたこともある。萩本自身も「秋 房子(あき ふさし)」の筆名で番組構成にも関わっていた。

秋 房子(あき ふさし)というペンネームについて「番組を女性が書いているものと思わせたかった」とテレビ朝日開局記念番組である『超大ヒット人気番組ぜ〜んぶ見せます!スペシャル』内で語っていた。実際に視聴者から届いたハガキは女性と思っていた人が多かった。

関連項目

テンプレート:Sister

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:コント55号 テンプレート:欽ちゃんの仮装大賞 テンプレート:24時間テレビ総合司会 テンプレート:24時間テレビ チャリティーマラソンランナー

テンプレート:24時間テレビメインパーソナリティー
  1. 2007年10月24日「明石家さんちゃんねる」にてジミー大西に対しての発言であることが語られる
  2. 家業はカメラ屋。『あの日あの時母の顔―私の母語り』 小学館 1996年 104頁
  3. 『「家」の履歴書』 光進社 2001年、166-173頁
  4. 『「家」の履歴書』、166-173頁
  5. もっとも、テレビ進出後に世間へイメージが良くないと判断し、浅草ストリップ劇場の過去を隠蔽し、全く浅草を避けるような行動に走る萩本を見て、深見は『萩本の野郎、恩を忘れやがって』と怒りをぶつけていた
  6. ただし、萩本の著書『テレビに恋して20年』では、渡してくれた相手は池ではなく東八郎となっている。
  7. 当初はその都度の契約だったが、気づいたらコンビになっていたという
  8. 練習試合では自らハンドマイクを片手に試合の解説や選手の激励を行っている。
  9. ただし、山本にどのようなアドバイスをしていたかについては明らかにされていない。
  10. テンプレート:Cite news
  11. 当初3月25日同時開幕予定が東日本大震災の影響で延期されていたため。
  12. 横浜では2011年は喜田剛(内野手)が実際に着用(同年シーズン終了時に戦力外通告)。2012年現在、DeNAでは後藤武敏(内野手)が着用している。
  13. 13.0 13.1 13.2 テンプレート:Cite news
  14. テンプレート:Cite news
  15. テンプレート:Cite news
  16. 萩本欽一:日テレグループ・ライフビデオ社の取締役に就任 土屋敏男代表と固い握手 毎日新聞デジタル、2012年12月20日
  17. 糸井重里のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」2004年9月6日付による[1]
  18. 自伝によると、報道自粛を伝えた際にはマスコミ関係者からは抗議されることもなく、皆事情を知っていたため拍手を受けたとのこと
  19. がんばる人 第28回より
  20. 『萩本家・母は100歳のお嬢さま』萩本悦久・著(第三文明社)より。なお、萩本の母は2008年6月2日に101歳の天寿を全うした。
  21. 『全国ライター・講師ガイド 2005』マスコミ駆け込みクラブ・編(生活情報センター)より
  22. 銀座カツミ堂写真機店より
  23. 萩本愛里
  24. 松本人志放送室で語る。2004年5月27日放送より
  25. 2011年7月9日放送、フジテレビテレビを輝かせた100人より
  26. 26.0 26.1 朝日新聞別刷り「Be on Saturday」2011年6月18日付、b9面「順風満帆―萩本欽一(中)」より
  27. 欽ちゃん、二郎さんに「ありがとうしかない」 サンケイスポーツ 2011年3月10日閲覧
  28. テンプレート:Cite news
  29. テンプレート:Cite news
  30. テンプレート:Cite news
  31. テンプレート:Cite news
  32. テンプレート:Cite news
  33. 「欽ちゃん、ひちょりと"コンビ結成"宣言」デイリースポーツ、2011年4月13日
  34. テンプレート:Cite news
  35. テンプレート:Cite news
  36. テンプレート:Cite news
  37. 萩本欽一にとっては、芸能生活で唯一の悪役(犯罪者を演じた)での出演であった。
  38. [2]
  39. テンプレート:Cite news
  40. 欽ちゃん!30%番組をもう一度作りましょう(仮)番組ホームページ
  41. 常田久仁子さん死去 「欽ドン」など制作 - サンケイスポーツ、2010年11月9日
  42. 萩本欽一“母”に感謝の涙「別の人間にしてくれた」 - スポーツニッポン、2010年11月27日