チャールズ・チャップリン
テンプレート:ActorActress チャールズ・チャップリン(Charles Spencer Chaplin、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリスの映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。チャーリー・チャップリンとも呼ばれる。左利き。愛称はチャーリー(Charlie)、フランスではシャルロ(Charlot)。
映画黎明期において、数々のコメディ映画を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、バスター・キートンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。依然多くのファンを獲得する不世出の天才であるが、その作品には毒性もあり、ユーモアの陰に鋭い社会諷刺が込められ、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれているため、純粋に笑いのみを追求する他のコメディアンとは一線を画す存在であることは特筆すべきである。各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品に触れることは容易であり、今以て研究が続けられ、作品の修復プロジェクトは進行中である。関連書も随時発売されており、新発見と驚きでファンを魅了しつづける。
目次
生涯
前半生
1889年4月16日、イギリス・ロンドンのケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた[1]。父はチャールズ・チャップリン・シニア、母はハンナ・チャップリンで、ともにミュージック・ホールの俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。
5歳のとき、オルダーショットの劇場での公演で、舞台に立っていた母親が喉の調子を悪くし、舞台出演中に喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャップリンが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャップリンはそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリーの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリンは貧窮生活に陥った。そして1896年頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。
どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄シドニーといくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、1899年に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。1901年、父親がアルコール依存症によって死去。
1903年、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『シャーロック・ホームズ』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。
1908年、兄の勧めで名門フレッド・カーノー劇団に入り[2]、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガールヘティ・ケリーに恋をする。
1909年、パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 アメリカおよびカナダ各地を巡業。 ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて大成功をおさめた。
映画界へ
1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーマック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約で、「キーストン・コップス」で有名なキーストン社(英語版)に入社する。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。セネットに“面白い格好をしろ”と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』に出演。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。
キーストン社のトップスターであるフォード・スターリングやメーベル・ノーマンド、ロスコー・アーバックルらと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『恋の二十分』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編に出演している。
国際的スター
1915年、シカゴのエッサネイ社(英語版)に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気を博した。エッサネイ社第2作の『アルコール夜通し転宅』でエドナ・パーヴァイアンスが起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。
1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金でミューチュアル社(英語版)に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。
この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の高野虎市が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスやフランス、日本など世界各国に配給され、高い人気を得た[3]。
1918年、ハリウッドのラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、ファースト・ナショナル社(英語版、後にワーナー・ブラザーズと合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、第一次世界大戦にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時公債促進キャンペーンに尽力し、プロパガンダ映画『公債』を製作。16歳の新進女優ミルドレッド・ハリスと初めての結婚も果した。
1919年、盟友のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。
1921年、全米で大ヒット中の映画『キッド』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家H.G.ウェルズや各界著名人と親交を結んだ。パリ、ベルリンと、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする[3]。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる[4]。
1923年、初の自身が出演しない監督作品『巴里の女性』をユナイテッド・アーティスツから発表。
1928年、『サーカス』を製作し、同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞する。同年、母親が死去。
1931年、トーキー隆盛の中、サイレントの孤塁を守って3年がかりで撮った『街の灯』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショーと、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘したアインシュタインやマレーネ・ディートリッヒと再会を果たす。
1932年、シンガポールにジャワ、バリ島を経て兄シドニーとともに日本へ。訪日中、たまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である五・一五事件の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの暗殺が画策されていた。
1936年、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』と、1940年にナチスを批判した『独裁者』を発表。このあたりから欧米や日本における鋭進的な左右両派からの突き上げが激しくなっていく。
1941年にはアメリカが第二次世界大戦に参戦したことで、映画製作の停止を余儀なくされた。
赤狩りとハリウッド追放
1945年に第二次世界大戦が終結し、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで、『モダン・タイムス』以降の一連の作風が「容共的である」とされ、非難の的とされた。特に1947年公開の『殺人狂時代』以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、赤狩りを進める下院非米活動委員会から、他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。しかしそのような中で1948年に、フランス映画批評家協会は彼をノーベル平和賞に推薦した。
1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカのトルーマン政権の法務長官から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還。自らに名声や富、成功をもたらす大きな原動力となったアメリカと決別する[4]。
アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議。決定した国務長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。国務長官は特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と苦し紛れの声明を出さざるを得なくなった。さらに1954年には左派団体の世界平和評議会が「平和国際賞」を贈るなど、この追放劇はチャップリンの名声を利用しようとした世界各国の右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。
アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、スイスのブドウ畑を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻ウーナや8人の子供たちと幸せな晩年を送る。世界的な名士として尊敬され、クララ・ハスキルやパブロ・カザルス、ジャン・コクトー、山口淑子らと交友関係を持った。
1965年にエラスムス賞を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前のベストセラーとなった。1969年、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「ザ・フリーク」(The Freak)の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、バックグラウンドミュージックの作曲を続けた。
1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。
再びアメリカへ
1972年、アカデミー賞名誉賞に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏む(後述)。この授賞はチャップリンの国外退去を阻止できなかったハリウッドからの謝罪を意味した。舞台に登壇したチャップリンに対し、会場にいる全ての者がスタンディングオベーションで迎えた。
1975年、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となった。しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている(後述)。
1976年の秋、地元スイスの「クニー・サーカス」(Circus Knie)の公演に車イス姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。
死去
1977年のクリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で永眠。88歳だった。
生前は隣村に移住していたイギリスの俳優ジェームズ・メイソン(1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村のこじんまりとした墓地に3メートルほどの距離で埋葬された。
死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れたレマン湖畔のトウモロコシ畑で発見された[5]。複数犯かと思われたが、主犯のポーランド人ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、ブルガリア人ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された[6]。
ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立され、世界各国から多くのファンが訪れる観光スポットの一つとなっている。なお、ロンドンのレスター・スクウェアにも同型のチャップリン立像がある。
作品の特徴
役柄
チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=The Little Tramp」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴(ドタ靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたちのちょび髭の人物で、アヒルのように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。ホームレスだが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰とその持ち前の反骨精神でブルジョワを茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。
この独特の扮装と役柄は、映画出演2作目『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)で初めて登場している (チャップリン本人は当初、観客に受け入れられるとは思わなかったという)。以後、このTrampは年代とともに徐々に変化し、滑稽味の中にもペーソス(悲壮感)を湛えたハートフルなキャラクターに成長。貧しくとも人間としての誇りを失わない永遠の“放浪紳士チャーリー”が誕生する。アメリカの反動的なマスコミから、「危険思想をバラ撒き、健全な市民階級に毒素を注入している」などと揶揄されたが、そんな保守的な世論にも果敢に立ち向かい、プロレタリアートの立場から、資本主義社会に対する不平等への“怒り”を表現するに至る。
作風
初期はショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道なドタバタが主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的にはアナーキーでドライな作風が多い(女たらしで喧嘩っ早く、周囲との揉め事は始終絶えない。ラストは偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターンがお決まりである)。
しかし、1917年の『勇敢』・『移民』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自のヒューマニズムとなり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。
1918年の『犬の生活』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『担へ銃』では戦争の愚かさと一兵卒の悲哀をユーモアのなかに描き、『偽牧師(1923)』では、宗教を笠に着る偽善を巧みに暴いてみせた。また『サニーサイド(1919)』では、甘美な夢と痛ましい現実が交錯し、初の長編『キッド(1921)』ではドタバタも控えめに、ドラマ性重視のコメディリリーフを試みた。捨て子と実母との再会までの奇跡を、実の親子以上の絆で結ばれた二人の物語となって、観客の胸を打つ。
さらにリアリズムに徹した意欲作『巴里の女性(1923)』。アラスカ・クロンダイクの金鉱発掘者たちのドラマ『黄金狂時代(1925)』。曲馬団の少女に恋をして奮闘する『サーカス(1928)』などで、高い芸術性が評価されるようになる。
また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『失恋(1915)』で初めて登場して以来の定石であるが、エドナ・パーヴァイアンスとの出会いから生み出されたと言われる。
以降、美しいものへの憧憬と、放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風も大きく変わってゆく。
街角で出会った盲目の花売り娘に、無償の愛を注ぐ『街の灯(1931)』。大不況のさ中に苦悶する労働者の実態を通し、幸福とはなにかを問い掛ける『モダン・タイムス(1936)』。ナチス・ドイツが台頭するヨーロッパで、ヒトラーをこてんぱんにカリカチュアした『独裁者(1940)』。“チャーリー”スタイルから脱却し、反戦メッセージを含ます異色のブラック・コメディ『殺人狂時代(1947)』。落ちぶれた老芸人が、足の不自由なバレリーナと再起を賭ける『ライムライト(1952)』。現代アメリカの矛盾点を鋭くえぐった『ニューヨークの王様(1957)』など。
フランスの映画監督ジャン・ルノワールは「チャップリンはただ一つの作品をつくったのだ」と言っている。
専属のキャメラマンに、エッサネイ時代から『殺人狂時代』までの長きにわたりローランド・H・トザローが務めた。
出演者には同じ俳優を起用することが多く、ヒロイン役にはエドナ・パーヴァイアンスが1915年から1923年までの全35本の作品に出演している。そのほかのヒロイン役としてはジョージア・ヘイル(『黄金狂時代』)、ヴァージニア・チェリル(『街の灯』)、ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムス』『独裁者』)、クレア・ブルーム(『ライムライト』)などが挙げられる。助演者にはチャップリンの右腕で良き親友でもあったヘンリー・バーグマン(全20本に出演)をはじめ、アルバート・オースチン、アラン・ガルシア、エリック・キャンベル、ジョン・ランド、レオ・ホワイトなどが常連出演した。またマック・スウェイン、フィリス・アレン、チェスター・コンクリン、ハンク・マンといったキーストン・スタジオ出身の喜劇俳優たちも長くチャップリン映画で活躍した。
ペーソス
チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た食肉処理場から逃げ出した羊の話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、彼は「きっと、あの羊は泣いているんだ……」と感じたというテンプレート:要出典。
“永遠の放浪者チャーリー”のモデルとされる人物は、足を引きずりながら荷車を押す男だった。
チャップリンの母ハンナは、通りをゆく人々をパントマイムで表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。
映画の中で笑いの起爆剤となるドタ靴、これにも一つエピソードがある。
年の暮れ、食べるものがない中、慈善鍋のスープを配りに教会の人が鐘を鳴らしてやってきた。病気の母が「チャーリー!早く鍋を持って取りに行って」と彼を促す。彼は自分の靴がないので裸足で行くしかなかった。すると、「私の靴を履いておいき」と母がつけ加えて言った。小さな足に大きなボロ靴を引きずって、彼はスープをもらいに、寒い雪の中を駆け出した。
これら幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。
劇団の巡業で渡米する際、母親の入国許可は下りなかったが、ハリウッドで成功してからは母を呼び寄せることができた。彼女を風光明媚な海岸の一軒家に住まわせ、面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦を雇った。しかし彼女は最後まで息子の成功を理解できぬまま、1928年に亡くなった。もう生活の気苦労はなかったはずなのに、この先何か問題が起こるのではないかと心配していた、と後年チャップリンは回想している。
反ナチズム
チャップリンは、ドイツのナチス党の指導者で、選挙を経て同国の総統となり、その後独裁体制を敷いたアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に発表した『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判している。
ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。ファシズム色を濃くし、ユダヤ人への弾圧強化、オーストリアやチェコスロバキアを併合していった上に第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーに対してさえ、「共産主義の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していたF・D・ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。
なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない[5]。チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にするギャグを使っている(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)。また、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」と語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の原因になったのかもしれない。
完璧主義者
監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、1918年からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら劇伴を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回ものNGを出した(チャップリンが主演のヴァージニア・チェリルを根本的に好かなかったという理由がある)。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さでスタントなしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。
また、自身唯一のシリアスメロドラマ『巴里の女性(1923)』においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『伯爵夫人(1967)』同様監督にのみ徹し主演はしていないが、後者はソフィア・ローレン、マーロン・ブランドという二大ビッグスターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「時代おくれ」 「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。一方『巴里の女性』は、永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、それまでのハリウッド製娯楽映画にはみられなかったソフィスティケートされた演出が話題をさらい、当時の批評家やインテリ層を唸らせた。しかし一般受けせず、興行成績も芳しくなかったため、長らくのお蔵入りとなる。この「幻の名作」が再び世に出たのは1976年、彼の死の前年のことであった。
技術的・音楽的な特徴
出演した作品はサイレント映画がほとんどで、こういったことから「チャップリンはトーキーを軽蔑し、サイレントに固執していた」という印象が強いが、軽蔑していたのではなく放浪者のイメージが声で崩れることを恐れたとされる。
1929年には、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「パントマイム芸こそが世界共通語」だと疑わぬチャップリンには信念があった。 実際1931年の『街の灯』では、サイレント形式にこだわりつつも、全編にわたって初めて音響効果を伴うサウンドを付けた[6]。続く1936年の『モダン・タイムス』では、ストーリー上必要な部分にだけトーキーを使い[7]、1940年公開の『独裁者』で初めて、完全なトーキーに踏みきった。全編カラーのシネマスコープ作品は『伯爵夫人』のみである。
音楽家になる夢を捨てきれず、1916年にチャーリー・チャップリン音楽会社を設立し、自作の曲3曲を出版した(「Peace Patrol」、「Oh!That Cello」、「There's Always One You Can't Forget」)。しかし2000部刷った楽譜は3部しか売れず、すぐに頓挫してしまったらしい。1925年には、エイブ・ライマン・オーケストラ(Abe Lyman)をバックに2曲(「Sing A Song」、「With You Dear In Bombay」[7])をレコーディング。ゲスト・コンダクターとして指揮をとり、ヴァイオリンのソロパートも自ら演奏した。
正式な音楽教育は受けておらず、譜面の読み書きは出来なかったが(これについては後述)、サイレント映画における伴奏音楽の重要性を早くから認識し、『キッド』を上映の際には全ての劇場にキューシートを配付するなど、遺漏がなかった。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたり口ずさんだりしたものを、専属のアレンジャーが写譜する形を取った。撮影の合間を縫っては、かけだしの頃に独学で習得したチェロやヴァイオリン(左利きだったため特注品を愛用)を奏で、アイディアに行き詰まると自宅に備え付けられたハーモニウムを何時間でも鳴らしたという。 しかし、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ハーモニウムを自在に演奏し、音楽会社まで設立した人間が、「譜面の読み書きは出来ない」というのは流石に無理があり(当時のハーモニウムは鍵盤の演奏以上の指示をこなす必要がある)、チャップリンが全く出来なかったことはオーケストレーションとアレンジであったと考えるのが妥当である。 ただ、多くのチャップリンについての伝記には依然として、「譜面の読み書きは出来ない」と書かれている。
チャップリンは後期ロマン派の爛熟した時代に生まれ、現代音楽の黎明期をリアルタイムで接し、「前衛の時代の終焉」の時代に没したため、特に音楽的な語彙の豊富な映画監督になった。ロンドンの街角で辻楽士が弾く「スイカズラと蜂[8]」という流行り唄に魅せられた幼少期から、ミュージック・ホールに根ざした大衆音楽(ポピュラーソング)に慣れ親しんだ彼だからこそ書けるメロディーラインが、そこにはあった。アメリカの風刺画家ラルフ・バートン(Ralph Barton)を通じて知り合ったタイユフェール、ナチス政権を逃れてハリウッドに定住していたストラヴィンスキーやシェーンベルク、ハンス・アイスラーと分け隔てなく交流したことも、彼にインスピレーションを与えた。またレオポルド・ゴドフスキーとは友人であり、一緒に写った写真が残されている。チャップリンの作曲は「ずぶの素人」にでも分かりやすい同じフレーズの反復を多用したが、これはゴドフスキーが「古きウィーン」でみせた作曲法と全く同一である。この点、プロの作曲や難解な和声イディオムを前面に押し出したヒッチコックとは対照的である。 『独裁者』及び『黄金狂時代』のサウンド版で、ワーグナー、ブラームスといったクラシックの既成曲を大胆なアレンジで聞かせているのも、センスの良さが窺える。『ニューヨークの王様』の出だしからアメリカ国歌を直裁に引用したのも、最後まで反骨精神を失わなかった証である。
チャップリンの作曲した楽曲としては、“スマイル”(Smile)(『モダン・タイムス』)や“エターナリー”(Eternally)(『ライムライト』)が有名。プッチーニのアリアにも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、1954年に歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌により大ヒットした。その後はマイケル・ジャクソンやエルヴィス・コステロらによってカヴァーされ、今日でもスタンダード・ナンバーとして多くのアーティストにより歌い継がれている。
また、『モダン・タイムス』の劇中においてチャップリンが歌ったデタラメ語による“ティティーナ”(Titina)は、ロサンゼルスのラッパー、J-Fiveによってサンプリングされ、ラップでも歌われた。同曲はトヨタ・istのCMソングとなり、大きな話題を呼んだ。
近年、生のオーケストラをバックに、チャップリンの色褪せぬフィルム・ミュージックをスクリーンとともに愉しむ機会が世界的に増えてきた。指揮者のカール・デイヴィス(Carl Davis)やティモシー・ブロック(Timothy Brock)が基あるオリジナル・スコアを忠実に復元したものが、劇場で新たな命を吹き込まれ、「ライブ・シネマ」という形で甦っている。
家族
- 父:チャールズ・チャップリン・シニア
- 母:ハンナ・チャップリン
- 異父兄:シドニー・チャップリン
- 異父弟:ウィーラー・ドライデン
チャップリンは生涯に4度の結婚を行ったとされる。〈〉は妻との間に生まれた子。()内は結婚期間
- 最初の妻:ミルドレッド・ハリス(Mildred Harris(英語版))(1918年 - 1920年)※当時16歳で結婚
- 長男〈長男〉:ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年生、生後3日で死去)
- 『キッド』制作中の1920年3月、ミルドレッドは精神上の虐待を理由に離婚申し立ての訴訟を起こし、『キッド』のフィルムを差し押さえようとした。それを逃れるため、チャップリンは州を越えたソルトレイクシティへ逃避し、ホテルの一室を借りて編集作業を行った。同年8月に裁判が開始し、11月にミルドレッドに10万ドルの慰謝料と共有財産折半の条件を飲んで離婚が成立した。
- 2人目の妻:リタ・グレイ(Lita Grey(英語版))(1924年 - 1928年)
- 次男〈長男〉:チャールズ・チャップリンJr(1925年生 - 1968年没)
- 三男〈次男〉:シドニー・アール・チャップリン(1926年生 - 2009年没、俳優で『ライムライト』、『伯爵夫人』などに出演)
- リタとは『キッド』などで共演しており、『黄金狂時代』のヒロインに起用したことで、関係が始まった。1924年にリタの妊娠が発覚し、リタの両親が激怒。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと強姦罪に問われ、最高30年の刑になるため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要し、11月にメキシコで密かに挙式を挙げた。これにより、リタは『黄金狂時代』のヒロインを降板し、代わりにジョージア・ヘイルが務めることとなった。
- 3人目の妻:ポーレット・ゴダード(Paulette Goddard(英語版))(1936年 - 1942年)
- ただし法的な籍はいれておらず、内縁関係であったという[8]。
- 4人目の妻:ウーナ・オニール(Oona O'Neill(英語版))(1943年 - 1977年)
- 長女〈長女〉:ジェラルディン・チャップリン(1944生 - 、女優で『ドクトル・ジバゴ』、『チャーリー』などに出演。女優としては最も有名)
- 四男〈長男〉:マイケル・チャップリン(1946生 - 、『ニューヨークの王様』に出演)
- 孫:ドロレス・チャップリン(女優、J-FIVE Modern Times のミュージックビデオに出演)
- 孫:カルメン・チャップリン(女優)
- 次女〈次女〉:ジョゼフィン・チャップリン(1949生 - 、女優で『カンタベリー物語』に出演。日本チャップリン協会最高顧問)
- 三女〈三女〉:ヴィクトリア・チャップリン(1951 - 、女優、『独裁者』のメイキングフィルム(カラー)を発見した)
- 五男〈次男〉:ユージーン・チャップリン(1953 - 、レコーディングエンジニア、ノック・サーカス(Circus Nock)芸術監督)
- 孫:キエラ・チャップリン(モデル、実業家でもある)
- 四女〈四女〉:ジェーン・チャップリン(1957 - )
- 五女〈五女〉:アネット・チャップリン(1959 - 、モーリス・ベジャール振付によるバレエ「Mr.C」(1994年)に主演)
- 六男〈三男〉:クリストファー・チャップリン(1962 - )
スキャンダル
チャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々あるが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」という。3度の結婚が未成年者であることから、ロリータ嗜好があったというのは後の人間による憶測に過ぎない。
1922年に婚約説が流れたポーラ・ネグリ。『黄金狂時代』のヒロインジョージア・ヘイル。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの妾のマリオン・デイヴィスといった女優との浮名も流している。
『サーカス』制作中の1927年、リタ・グレイに離婚訴訟を起こされ、自身の私生活を公表される。示談金62万5000ドルを支払うことで終結し、離婚が成立するが、この騒動は当時38歳のチャップリンを心労で白髪させるほどのものであった。後年に執筆した自伝では彼女についてほとんど触れられていない。後にリタは「じゃあ私が書きます。」と自分で赤裸々な暴露本を書いた。また、撮影スタジオの火災や、1928年には最愛の母の死もあり、チャップリンにとってあまりいい時期ではないようだ。
18年間チャップリンの元で秘書として仕え、身の回りの世話を任されていた日本人高野虎市であったが、3番目の妻(事実婚)とされるポーレット・ゴダードのあまりの浪費癖に辟易し、1934年には彼のもとを去っている。
1943年、女優ジョーン・バリー(英語版)には子供の父権認知訴訟を起こされる。血液判定ではチャップリンの子ではないと判定されたが、血液検査を無視した滅茶苦茶な裁判の結果、1対11の陪審員評決で扶養義務を負うことになった。バリーは、これ以前に銃を携行してチャップリン邸に押し入るなど奇行がみられた。
また戦争への出兵拒否、ソ連を助けるための第二戦線開始のアジ演説をしたことでFBIから牽制を受けるなど、チャップリンをめぐるゴシップはマスコミの餌食となり、第二次世界大戦から冷戦期のアメリカでは、その平和思想もあいまってネガティブ・キャンペーンの的となった。
フリーメイソンリー
テンプレート:External media テンプレート:See also チャップリンの関係者・接触者の中で著名なフリーメイソンは、チャップリンとユナイテッド・アーティスツ社を共同設立したダグラス・フェアバンクス(1925年フリーメイソンリー入会)[9]とD・W・グリフィス[10]、チャップリン映画の俳優チェスター・コンクリン(1916年フリーメイソンの階級を昇級)[11]、チャップリンを厚遇したF・D・ルーズベルト(1911年入会)[12]など。チャップリンが米国から追放された当時の大統領ハリー・S・トルーマンもフリーメイソンである(1909年入会)[12]。
チャップリンと日本
- 大正時代から日本では「変凹君」「アルコール先生」という愛称で親しまれた。これは当時の日本人にはチャップリンの名が発音しにくかったため、配給会社があだ名での紹介をしたためで、酔いどれ役も多かったことからそのように呼ばれた。
- 正月興行として恒例だったニコニコ大会。ロスコー・アーバックル(通称デブ君)、メーベル・ノーマンド、チェスター・コンクリン、マック・スウェイン、ベン・ターピンなど花形の喜劇役者がお目見えする中、ひと際子供たちに人気があったのがチャップリンだった。
- チャップリン喜劇を得意とした映画説明者(活動弁士)に大蔵貢、杉浦市郎、松竹で活躍した俳優・小倉繁は“和製チャップリン”といわれた。
- 戦前に日本で公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年/昭和13年封切)までで、太平洋戦争による空白期間を経て、戦後初のチャップリン作品は『黄金狂時代』サウンド版だった(1946年/昭和21年)。1940年製作の『独裁者』は1960年(昭和35年)に封切られた。
- チャップリンが映画の中で使用した有名な根鞭ステッキは、滋賀県草津市の特産品で、地元の竹(寒竹)で作られており、しなりが強い。ただし最初からステッキを使っていたわけではなく、当初は雨傘を用いていた。
- 運転手(後に秘書)として採用した高野虎市の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の使用人がすべて日本人で占められていた。2番目の夫人リタ・グレイは、「まるで日本人の中で暮らしているかのよう」と評した。ただ、その次にチャップリンに身を寄せていたポーレット・ゴダードは高野を嫌っていたため衝突し、高野は辞任した(高野解雇説は『チャップリンの影』のなかで大野裕之が資料を元に否定)。
- 『サーカス』の製作中、映画監督の牛原虚彦が高野の紹介で弟子入りしていた。撮影されたシーンの出来をチャップリンが試写室で確認する際、彼も見学することができたという。非常に勉強になったと後に淀川長治との対談などで振り返っている。
- プロレタリア作家・小林多喜二は小樽映画鑑賞会の会員としてその機関誌「シネマ」に次々と映画批評を執筆した。中でもチャップリンが大好きで何度も見ているが、チャップリンのセンチメンタルなヒューマニズムの限界を指摘し、高収入を上げすぎたゆえ、自らとは全く違う立場の人間であると批判した。
- 文豪・芥川龍之介はその随筆で、「あのチャーリー・チャップリンもやはり社会主義者の一人である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければなるまい」と述べている。
- 1932年(昭和7年)5月14日に初来日。東京駅には推定4万人の群衆が押し寄せた。当時の新聞記事は「何のことはない、震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いていた」と伝えた。翌日には首相官邸で歓迎会に出席する予定であったが、ただならぬ五・一五事件に遭遇して[13]、多大な衝撃を受けた。歌舞伎座や明治座で念願だった伝統芸能を鑑賞。初代中村吉右衛門や六代目尾上菊五郎、二代目市川左團次の楽屋を訪ね、所感を述べた。また喜劇役者の曾我廼家五郎とは、互いに富士山を色紙に描いて交換しあう。 記者会見で「各国の文化水準は監獄を見れば解る」との持論から、小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察。「恐らく設備、明るさの点からいって世界一」と絶賛した。帝国ホテルに定宿し、和牛ステーキをえらく気に入った。また箱根の富士屋ホテル、横浜のホテルニューグランドに逗留。日本橋の「花長」では海老の天ぷらを36尾も平らげ、その後の来日でも好んでエビ天を食べたことから、「天ぷら男」のあだ名がついた。さらに「花長」で修行した調理師が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの時だった。
- 5月19日に五・一五事件で殺害された犬養首相の葬儀が総理官邸の大ホールでとり行われた。その際にチャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電を寄せた。この事に驚く参列者も多かった。
- その1932年の初来日の際、通訳を務めたのは当時読売新聞文芸部長を務め、後に小説家に転身した小野金次郎で、小野金次郎がチャップリンから戴いたサイン入りポートレートが孫である俳優の小野武彦が自身の自宅に保存していることを明かしている[14]。
- 1936年(昭和11年)3月に再来日。ユナイト映画の大阪支社に勤務していた淀川長治が、神戸港に停泊するクーリッジ号で、45分の単独インタビューに成功。同年5月には、当時の愛人ポーレット・ゴダードとの新婚旅行を兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。船上でジャン・コクトーと合流する。京都に足を運び、最高級の老舗旅館「柊家」に宿泊。名所旧跡を訪ね、西陣で絹のガウンを購入した。銀ブラ、浅草、相撲見物と愉しみ、足早に離日。チャップリンは船のタラップを駆け上り、やおら振り向くと、帽子をつぶして、セントヘレナ島へ流されるナポレオンのポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせたという。
- 戦後は1961年(昭和36年)7月にウーナ夫人、長女のジェラルディン、長男のマイケルを連れて4度目の来日。通訳を務めたのは山口淑子。渋谷の東横ホールで、五代目中村富十郎の『義経千本桜』を鑑賞。日光東照宮では靴下に草履ばきで、指が入らず突っ掛けて、お参り。藁ぶき屋根の農家や、風情ある銭湯を見つけるとふらり立ち寄り、お茶をご馳走になったり、脱衣場に居合わせた人々にビールやアイスクリームを振る舞ったという。高度成長期で変貌著しい東京の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て、「古き良き日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。
- 日本映画は黒澤明の『羅生門』しか見ていなかったが、「非常に高い水準の作品」と褒め称えている。
- 1970年(昭和45年)の大阪万博の時に、日本側が招聘を試みたが実現しなかった。1972年(昭和47年)のリバイバル上映時も来日が企画されたが実現せず、代わりに次女ジョゼフィンが来日した。
- 3度目の来日で岐阜を訪れ、鵜飼を鑑賞した。鵜匠山下幹司の絶妙な手縄さばきに「ワンダフル」を連発。幻想的な篝火にも魅了され、「鵜飼は一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残した。その後、4度目の来日の際にも再び岐阜を訪れたが、すっかり変わり果てた鵜飼の姿に「戦前はこんなのではなかった……」と落胆した。なお、現在岐阜市内での鵜飼のポスターには、チャップリンと鵜が共にいるデザインのものが用いられている。下呂温泉の白鷺橋には記念のブロンズ像が2001年に設置された。
- 晩年マスコミから遠ざかり、スイスに隠棲していたチャップリンに、幸運にも接する機会を得たタレントに萩本欽一、ヴァイオリニストの前橋汀子がいる。
- 1972年、世界中でチャップリン回顧ブームとなる中、日本では東宝東和が「ビバ! チャップリン」と銘打ち、『モダン・タイムス』を皮切りに代表作10本(併映小品あり)を順次公開すると、異例の大ヒットを記録した。ロングランは続き、1986年(昭和61年)に国内での上映権が一旦切れた後は、衛星放送や市販ビデオ、レーザーディスクなどで楽しむ他はなかった。しかし2003年(平成15年)、日本ヘラルド映画が『犬の生活』以降の国内上映権を再購入し、同年5月から朝日新聞と日本ヘラルド映画の主催で「Love Chaplin! チャップリン映画祭」が全国各地の映画館で行われ、後にDVDソフトとしてデジタルリマスターされた版が日本ヘラルド映画(発売元)、ジェネオンエンタテインメント(販売元)からリリースされた[15]。
- 1977年(昭和52年)のクリスマス、折しも有楽町で上映されていた、彼の半生を綴るドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』(1975)。上映終了後、館内に訃報のアナウンスが流れると、客席からはすすり泣きや感動の拍手が沸き起こった。
- ビデオテープが普及する前、権利なしのチャップリンの映画は家庭用8㎜フィルムや16mmでよく見られていた(中でも人気だったのが『チャップリンの冒険』や『キッド』※但しサイレント版。サウンド版には著作権が存在する)。アメリカのブラックホーク社が大量のクラシック映画を一般家庭用に分売しており、輸入業者を通じて手軽に入手できた。マツダ映画社や図書館などの弁士付き上映会でも頻繁にかかっていた。
- テレビでもチャップリン映画は盛んに放映されており、古くはフランキー堺(「チャップリン小劇場〔NHK〕」)や愛川欽也(『キッド』)によるナレーション入りで、90年代は永井一郎や小松政夫が吹き替えた短編コメディーの放送があった。長編作品では宝田明(『殺人狂時代』のヴェルドゥ役)や、高橋昌也(『ライムライト』のカルヴェロ役)、春風亭小朝(『黄金狂時代』) などの吹き替え版もあった。 最近ではオリジナルを尊重し、そのままの形で放送されることが多い。
- 1986年に国内での上映権が切れたのは前述の通りだが、1988年からVHSでまとめて購入することが可能になった。この期間の終了は日本でも大きく報じられ、購買広告が1988年ごろにどこの新聞でも掲載されていた。さらに、NHKがチャップリンの放映権を独占しており、初期短編から『街の灯』、『独裁者』などの名作を中心に、プライムタイム(「世界名画劇場」や「衛星映画劇場」)でよく放映していた。
- 1977年の11月、「チャップリンと私」という作文を募った雑誌ロードショーの企画で、優秀賞に選ばれた読者がスイスのチャップリン邸を訪問するツアーが敢行された。喜劇俳優の伴淳三郎も参加し、一行はウーナ夫人に温かく迎えられたものの、チャップリン本人には会えなかった。置土産に持参した市松人形は、永くチャップリンの自室に飾られたという。
- 三谷幸喜は小学生の頃、「ビバ! チャップリン」シリーズを見てファンになり、自分の描いた似顔絵を持って会いに行ったが会うことはできず、秘書に手渡したら1ヵ月後にサイン付きで送り返してくれたと語っている[16]。
- 日本におけるチャップリンの評論家としては長く淀川長治が代表的な存在だったが、淀川の死後は劇団とっても便利の大野裕之がチャップリン評論家の第一人者となった。まだ20歳代の大野は「Love Chaplin! チャップリン映画祭」(劇場パンフレット執筆)、「Love Chaplin! DVDコレクターズ・エディション」(ライナーノーツ執筆)の監修を行い、2005年7月にロンドンで行われたチャップリン国際会議にも、日本を代表して出席した。
- 2006年に日本チャップリン協会が設立された。名誉会長は黒柳徹子、最高顧問にジョゼフィン・チャップリン、名誉顧問に山口淑子、会長に大野裕之が就任、本部は京都大学にある。2006年3月25日から4月2日まで、「チャップリンの日本」と題して、高野虎市遺品展と国際シンポジウムが京都市で開催され、大きな話題を呼んだ。国際シンポジウムではジョゼフィン・チャップリン、黒柳徹子、チャップリン研究の権威デイヴィッド・ロビンソン、大野裕之、ハリウッドの日系人俳優クライド・クサツらが講演した。2007年3月には、京都市で日本チャップリン協会の主催で、「チャップリンと戦争」と題して、第二回チャップリン国際シンポジウムが開催され、チャップリンの孫のチャーリー・シストヴァリス、市川染五郎、大野裕之らが講演した。第三回にあたる2009年3月には、次男のユージーンが招かれ、父親との思い出を語った。
- 手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えている。また「私の漫画の手法はチャップリンなしに考えられない」と語っており、ヒゲオヤジのキャラクターの足の先が太くしゃんと立てないのはチャップリンの真似であったと明かし、さらに画面のコマを斜めにして、それまでの漫画の常識を壊したのも『黄金狂時代』のラストの真似だったと明かした。自著においても、ウォルト・ディズニーと同等チャップリンを敬愛している旨を述べている。
フィルモグラフィー
キーストン時代
- 1914年『成功争ひ』Making a Living
- 1914年『ヴェニスの子供自動車競走』Kid Auto Races at Venice
- 1914年『メーベルの窮境』Mabel's Strange Predicament
- 1914年『泥棒を捕まえる人』A Thief Catcher
- 1914年『夕立』Between Showers
- 1914年『新米活動屋』A Film Johnnie
- 1914年『もつれタンゴ』Tango Tangles
- 1914年『彼がお好みの娯楽』His Favorite Pastime
- 1914年『痛ましの恋』Cruel,Cruel Love
- 1914年『幻燈会』The Star Boarder
- 1914年『メーベルの身替り運転』Mabel at the Wheel
- 1914年『恋の二十分』Twenty Minutes of Love(初監督作)
- 1914年『キャバレー御難の巻』Caught in a Cabaret
- 1914年『とんだ災難』Caught in the Rain
- 1914年『つらあて』A Busy Day
- 1914年『チャップリンの衝突』The Fatal Mallet
- 1914年『彼女の友人である追いはぎ』Her Friend the Bandit
- 1914年『ノックアウト』The Knockout
- 1914年『メーベルの多忙な一日』Mabel's Busy Day
- 1914年『メーベルの結婚生活』Mabel's Married Life
- 1914年『笑ひのガス』Laughing Gas
- 1914年『小道具係』The Property Man
- 1914年『チャップリンの画工』The Face on the Bar Room Floor
- 1914年『レクリエーション』Recreation
- 1914年『男か女か』The Masquerader
- 1914年『チャップリンの独身』His New Profession
- 1914年『両夫婦』The Rounders
- 1914年『新米雑役夫』The New Janitor
- 1914年『髭のあと』Those Love Pangs
- 1914年『チャップリンのパン屋』Dough and Dynamite
- 1914年『アルコール自動車競争の巻』Gentlemen of Nerve
- 1914年『アルコール先生ピアノの巻』His Musical Career
- 1914年『逢引きの場所』His Trysting Place
- 1914年『醜女の深情』Tillie's Punctured Romance(監督=マック・セネット、主演=マリー・ドレスラー、アメリカ映画史上初の長編コメディ)
- 1914年『夫婦交換騒動』Getting Acquainted
- 1914年『アルコール先生原始時代の巻』His Prehistoric Past
エッサネイ時代
- 1915年『チャップリンの役者』His New Job
- 1915年『アルコール夜通し転宅』A Night Out
- 1915年『チャップリンの拳闘』The Champion
- 1915年『アルコール先生公園の巻』In the Park
- 1915年『チャップリンの駈落』A Jitney Elopement
- 1915年『チャップリンの失恋』The Tramp
- 1915年『アルコール先生海水浴の巻』By the Sea
- 1915年『チャップリンのお仕事』Work
- 1915年『チャップリンの女装』A Woman
- 1915年『チャップリンの掃除番』The Bank
- 1915年『チャップリンの船乗り生活』Shanghaied
- 1915年『チャップリンの寄席見物』A Night in the Show
- 1915年『チャップリンのカルメン』Burlesque on Carmen
- 1916年『チャップリンの悔悟』Police
ミューチュアル時代[17]
- 1916年『チャップリンの替玉』The Floorwalker
- 1916年『チャップリンの消防夫』The Fireman
- 1916年『チャップリンの放浪者』The Vagabond
- 1916年『午前一時』One A.M.
- 1916年『チャップリンの伯爵』The Count
- 1916年『チャップリンの番頭』The Pawnshop
- 1916年『チャップリンの舞台裏』Behind the Screen
- 1916年『チャップリンのスケート』The Rink
- 1917年『チャップリンの勇敢』Easy Street
- 1917年『チャップリンの霊泉』The Cure
- 1917年『チャップリンの移民』The Immigrant
- 1917年『チャップリンの冒険』The Adventurer
ファースト・ナショナル時代
- 1918年『犬の生活』A Dog's Life
- 1918年『公債』The Bond
- 1918年『担へ銃』Shoulder Arms
- 1919年『サニーサイド』Sunnyside
- 1919年『一日の行楽』A Day's Pleasure
- 1921年『キッド』The Kid
- 1921年『のらくら』The Idle Class
- 1922年『給料日』Pay Day
- 1923年『偽牧師』The Pilgrim
- ↑ここまでは全作品米国ではパブリックドメイン(音楽を除く)(米国以外では許諾が必要)↑
ユナイテッド・アーティスツ時代
- ※:米国ではパブリックドメイン(米国以外では許諾が必要)
- 1923年『巴里の女性』A Woman of Paris(監督のみ、主演=エドナ・パーヴァイアンス)
- 1925年『黄金狂時代』※The Gold Rush
- 1928年『サーカス』The Circus
- 1931年『街の灯』City Lights
- 1936年『モダン・タイムス』Modern Times
- 1940年『独裁者』The Great Dictator
- 1942年『黄金狂時代』サウンド版(1925年の『黄金狂時代』にチャップリン自身の作曲とナレーションを施したもの)
- 1947年『殺人狂時代』Monsieur Verdoux
- 1952年『ライムライト』Limelight
イギリスでの作品他
- 1957年『ニューヨークの王様』A King in New York
- 1959年『チャップリン・レヴュー』The Chaplin Revue(『犬の生活』、『担へ銃』、『偽牧師』の3本をまとめ、チャップリン自身の作曲とナレーションを施して再編集した映画)
- 1967年『伯爵夫人』A Countess from Hong Kong(監督のみ、唯一のカラー作品、主演=ソフィア・ローレン、マーロン・ブランド)
受賞歴
アカデミー賞
- 受賞
- 1929年 アカデミー特別賞:『サーカス』
- 1972年 アカデミー名誉賞
- 1973年 アカデミー作曲賞:『ライムライト』
- ノミネート
- 1941年 アカデミー主演男優賞、アカデミー脚本賞:『独裁者』
- 1948年 アカデミー脚本賞:『殺人狂時代』
1929年、『サーカス』で第1回アカデミー賞の特別賞を受賞した。「『サーカス』での脚本、演技、監督、製作で示した非凡な才能」に対しての受賞だった。だがチャップリンは授賞式には欠席し、後日、賞の授与の際も、「わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私の欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ」と語り、もらったオスカー像はドアのつっかいにされていた、と息子のチャールズJrは回想する[18]。なお、この受賞に伴い、ノミネートされていた喜劇監督賞[19]と主演男優賞が取り消された。
1972年、アメリカから追放されて20年後、第44回アカデミー賞で2度目の特別名誉賞を受賞した[9]。これは、彼を守り切れなかったアメリカ映画界からの事実上の謝罪の意と、「映画を20世紀の芸術たらしめたチャップリンへの計り知れない功績」に対しての受賞だった。
この授賞式では、スタンディングオベーションが5分以上にもわたって続くという、現在でも他に例のない最大の祝福を受け取っている。自身作曲による“スマイル”(『モダン・タイムス』)も会場のゲスト全員で歌われ、「チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである」とアカデミーの会長ダニエル・タラダッシュ(Daniel Taradash)は述べた。余談だが、この授賞式に先立って行われたニューヨークでの歓迎会では黒柳徹子と面会している。彼女と対面した時、チャップリンは大変感激して「キョウト、フジヤマ、ウカイ・・」と感涙した。
その後、ロサンゼルスで『ライムライト』(1952年アメリカ製作)が初めて劇場公開され、第45回アカデミー作曲賞を受賞した。本作は1952年にニューヨークで先に公開されたが、アカデミー賞の選考基準であるロサンゼルスでの公開はされていなかったので、本年度の受賞対象作品となった。
また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームから名前が消されていた事実も、この20年ぶりの帰国によって、ロサンゼルス市議会が11対3で星印を残すことに可決したのである。これらのことはアメリカとの事実上の和解となった。
ニューヨーク映画批評家協会賞
- 受賞
- ノミネート
その他
栄典・勲章・称号
著作権問題
上記の主要な作品の内、1952年までの作品は著作権の保護期間(公開後50年)が終了したと考えられたことから、幾つかの作品が激安DVDで発売された。これに対し、製作者(版権継承者)のリヒテンシュタインの法人は、米国でパブリックドメインとなった作品を含む全作品の著作権が2015年(監督没後38年)まで日本で存続すると主張して発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年8月29日に東京地裁で原告全面勝訴の判決が下った。このうち、『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとされた[20]。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。2009年10月8日に最高裁判所第一小法廷は発売業者の上告を棄却、判決が確定した。
トピックス
- チャップリンが晩年を過ごしたスイスの自宅「マノワール・ド・バン」が、チャップリンの記念博物館になることが、明らかになった[21]。開館予定は2016年。
- チャップリンが生前に出版した自伝を基に、リチャード・アッテンボロー監督によってチャップリンの生涯を描いた伝記映画『チャーリー』が1992年に公開されている。
- 1999年、アメリカ『タイム』誌は、「20世紀の最も影響力のある100人」から“アーティストとエンターテイナー”を20人選出した。絵画の世界ではパブロ・ピカソ、服飾ではココ・シャネル、音楽ではビートルズと、時代を変えた世界的なアーティストたちが名を連ねる中、映画界からスティーヴン・スピルバーグと並び選出されている。
- 既に世界的な存在になっていたチャップリンが、ある記者に『あなたが関わった作品の中で最高傑作は何ですか?』と聞かれ、"Next One (次作だよ)"と即答し、以降、あらゆる場面で同じように答えていたという逸話がある[22]。多少なりとも脚色が伴っているものの、現状に甘んじることなく、向上心を持ち続けたチャップリンを端的に表している非常に有名なエピソードである。
- 没後30年にあたる2007年12月、名場面と豪華出演者へのインタビューで構成されたドキュメンタリー『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』(2003)が劇場公開され、DVDも同時発売された。
- 2009年、未公開映画 "Charlie Chaplin in Zepped" のフィルムが発見との報道がされたが、実際は編集版の作品だった。[23]
- 2010年、デビュー直後に出演した "A Thief Catcher(泥棒を捕まえる人)"という作品が、アメリカ・ミシガン州の骨董市で某フィルム・コレクターによって発見され、デイヴィッド・ロビンソン、大野裕之ら、世界のチャップリン研究の権威が鑑定し、正式にチャップリン作品と認められた。主演は当時のキーストン社のスター、フォード・スターリングである。
- 周防正行監督による映画『ダンシング・チャップリン』が、2011年に公開された。 公式サイトhttp://www.dancing-chaplin.jp/
- 2012年に、『チャップリン・ザ・ルーツ』と題して、初期作の完全デジタルリマスター版が大野裕之監修のもと世界初劇場公開された。うち16本に羽佐間道夫、野沢雅子、山寺宏一らの声優・弁士が声を充てた吹替え版も同時公開された。これらはDVD-BOXとして発売中である。 http://elevenarts-japan.net/chaplin.html
- チャップリンがもし現代にいたら・・・!?という設定のもと制作されたCGアニメーションシリーズ『チャップリン&CO』が、カートゥーン ネットワークで放送中。番組紹介サイト http://www.cartoon.co.jp/cn_programs/view/00515
脚注
日本語の関連書籍
- 『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』 中野好夫訳 新潮文庫、1981年、改版2005年
- 『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』 中野好夫訳 新潮文庫、1992年
- 元版『チャップリン自伝』 新潮社、初版1966年 ※絶版
- 大野裕之 『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』 日本放送出版協会、2007年、ISBN 978-4-14-081183-2
- 大野裕之 『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 チャップリン-なぜ世界中が笑えるのか』 日本放送出版協会、2006年、ISBN 4-14-189148-7
- 大野裕之 『チャップリン再入門』 日本放送出版協会〈生活人新書〉、2005年、ISBN 4-14-088141-0
- 大野裕之 『チャップリンの日本』 日本チャップリン協会、2006年
- 大野裕之 『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』 メディアファクトリー、2007年、ISBN 978-4-8401-2090-6
- 大野裕之 『チャップリンの影〜日本人秘書・高野虎市』
- 講談社、2009年(講談社100周年記念出版)、ISBN 978-4063397598
- 大野裕之編 『チャップリンのために』 とっても便利出版部、2000年
品切中・絶版書籍
- 松田十刻 『チャップリン謀殺指令』 新人物文庫、2010年
- 川田武 『五月十五日のチャップリン』 光文社文庫、2005年
- 日下圭介 『チャップリンを撃て』 講談社ノベルス、1986年/光文社文庫、1993年
- デイヴィッド・ロビンソン 宮本高晴、高田恵子訳、1993年
- ジョルジュ・サドゥール 鈴木力衛、清水馨訳
- 『チャップリン その映画とその時代』 岩波書店、1966年
- 『わが父チャップリン - 息子が見た喜劇王の素顔』 恒文社、1975年
- 淀川長治 『私のチャップリン』 ちくま文庫、1995年、※初版はPHP
- 『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』 キネマ旬報社、1973年
- 『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』 キネマ旬報社、1975年
- 杜こなて 『チャップリンと音楽狂時代 - クラシックとポピュラーをめぐる近・現代史』 春秋社、1995年
関連項目
- 大野裕之
- 高野虎市
- シドニー・チャップリン (1885年生)
- エドナ・パーヴァイアンス
- カンティンフラス
- クライド・クサツ
- Mr.ビーン
- 茶風林
- チョップリン
- 日本チャップリン・梅廼家ウグイス
- 杖
- ロマ
外部リンク
- 日本語
- 日本チャップリン協会Web - 日本チャップリン協会公式twitter
- デビュー100周年 チャップリン・ザ・ワールド オフィシャルサイト
- 大野裕之のブログ-チャップリンの著作権のまとめ
- チャップリン名言集 (世界傑作格言集)
- 外国語
テンプレート:チャールズ・チャップリン テンプレート:Normdaten
テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA
ml:ചാര്ളി ചാപ്ലിന്- ↑ 「近年発見されたチャップリン宛の手紙では、彼がバーミンガム郊外のジプシー集落で生まれたとある[10]」などと報道されたが、チャップリン研究の大野裕之によるとテンプレート:信頼性要検証、この手紙の存在は以前から研究者の間で知られており、「薄気味悪い話の好きなチャップリンは頭のおかしな人からの手紙をとっておいただけ」とのことである。
- ↑ この劇団には後にローレル&ハーディとして有名になるスタン・ローレルが在籍していた。
- ↑ チャップリンはその当時驚異的な人気ゆえに、扮装から軽妙な動作に至る模倣者が多く出現した。ビリー・ウェストやハロルド・ロイドもその一人で、1917年に、チャップリン側は物まね芸人を相手取って訴訟を起こした。無論勝訴したのだが、権利概念の乏しかった時代に、後のミッキーマウスなどに代表される「キャラクター商標権」をこのとき初めて導入したのが兄シドニーであった。
- ↑ この書物は1922年に欧米で刊行され、日本では『僕の旅』(高瀬毅訳)として1930年(昭和5年)に中央公論社より出版された。
- ↑ 兄のシドニー・チャップリンがユダヤ人のクォーターであると主張しており、それが関連している可能性がある。詳しくは英語版Wikipedia ‐ Sydney Chaplinを参照のこと。
- ↑ 作品の重要なモチーフとなっている「La Violetera(すみれの花売り娘)」は、スペインの歌手ラケル・メレエによって広く歌われたシャンソンで、チャップリンはこの曲をこよなく愛した。
- ↑ 当初はトーキー映画として構想されたが、撮影初期段階でできばえに満足せず、サイレントに切り替えられた。
- ↑ 大野裕之著『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』p.8。また、チャップリンの従兄弟も二人は結婚していなかったと回想している。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 12.0 12.1 テンプレート:Cite book
- ↑ チャップリンは犬養毅首相との面会予定をキャンセルし、犬養の息子健と国技館で相撲を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかった。しかし狙われている可能性があると、高野と親しかった元陸軍少将・櫻井忠温からの情報により助けられた。陸軍青年将校らの不穏な動きを知らされた高野は東京駅から帝国ホテルに向かう車中、チャップリンに車から降りて皇居に遥拝してほしいと頼む。6月2日の帰国当日の朝、斎藤実首相を官邸に訪問した後、犬養毅が暗殺された現場に案内されたチャップリンは、板戸に残る弾痕を見て、思わず「テリブル、テリブル」と呟いたという。
- ↑ 『ウチくる!?』(フジテレビ 2013年3月10日放送)にて小野武彦自身の述懐。
- ↑ このコレクターズ・ボックスは廃盤となり、現在メモリアル・エディションとして紀伊國屋書店から再リリースされている。特典映像を含め、内容は同一のものである。しかしPALマスター(ヨーロッパ仕様の規格)を流用しているため、再生速度の問題(4%の早回しで国内の既発盤より音声ピッチが高いこと)、『チャップリン・レヴュー』の原版違いによるカットなどが指摘されている。
- ↑ 『スタジオパークからこんにちは』(NHK 2011年10月26日放送)、『新堂本兄弟』(フジテレビ 2013年11月3日放送)にゲスト出演した際、現物を披露した。
- ↑ この期に製作された短編のアウトテイクスが奇跡的に残されており、『知られざるチャップリン(チャップリン・その素顔と未公開映像)』(Unknown Chaplin)というドキュメンタリーの中で見ることができる。NHKでも一部放映された。
- ↑ C.チャップリンJr著『わが父チャップリン』p.41
- ↑ この賞はこれ以降廃止された。
- ↑ 何れも監督没後38年と、公開後70年の長い現行法を適用。
- ↑ 2007年12月21日付 AFP通信[11]
- ↑ いつのインタビューで答えたのかについては諸説ある。
- ↑ Collector finds unseen Charlie Chaplin film in tin sold for £3.20 on eBay