コマーシャルソング

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テンプレート:国際化 テンプレート:独自研究 コマーシャルソング和製英語:Commercial song、英語Music in advertisingAdvertising Jingle)は、広告・宣伝のための楽曲のことで、コマソンCMソングとも呼ばれる[※ 1]小節の短いものは、サウンドロゴとして分類されることもある。

主に、テレビ・ラジオ民間放送におけるコマーシャル (CM) で使用されるものを指すという定義もある[※ 2]

歌詞のないインストゥルメンタルの場合は、テンプレート:要出典範囲。また、TVCMやWebCMなどの動画広告は「コマーシャルフィルム (Commercial Film)」ともいうため、その場合は、「CFソング」「CF曲」と呼ぶこともある。

概要

現在のコマーシャルソング(以下、CMソングと表記)は、次の2つに大分される。

CMソングを新たに作成するだけでなく、既存楽曲のメロディを用いることもある(CMを既存楽曲のイメージで作成する場合や、歌詞のワンフレーズを駄洒落的に用いる場合など)。

1. 歌詞に企業名・商品名・商品の特徴などを織り込んだ楽曲

  • 楽曲そのものが宣伝媒体の一つといえるため、NHK(民間企業の宣伝行為を行わない公共放送)で流れることはほとんどない(公共広告でのケースを除く)。また、テンプレート:要出典範囲
  • オムニバス盤以外でレコード・CD化されることは少なく、されたとしても商品名が出てくる歌詞は別なフレーズに置き換えられることが多い。

2. 歌詞に商品名が無く、商品やCM映像を想起させるイメージを持つ楽曲 (イメージソング

  • NHK(NHK紅白歌合戦など)を含めた各種音楽番組でも歌われる(ただしCMについて詳しく触れられることは皆無)[注 1]
  • 音楽業界はCMでの宣伝効果に注目し、1980年代以降、タイアップ曲(楽曲提供側のレコード会社とCM企業側とがタイアップして作る)が増えたが、商品のイメージと曲とが乖離している場合もある。また、CM用に作った15 - 30秒程度の曲が、放映後の反響を受けて一つの作品となり、後から発売に至る場合もある。

なお、アメリカ合衆国におけるCMソングは、1966年の『No Matter What Shape (Your Stomach's In、邦題:ビートでO.K.)』(The T-Bones;胃腸薬)、1971年の『I'd Like to Teach the World to Sing (in Perfect Harmony、邦題:愛するハーモニー)』(The New Seekersコカ・コーラ)のようなヒット例は稀で、基本的にはジングルやBGMのような扱いにすぎないという[1]

日本における歴史

民間ラジオ放送開始まで

テンプレート:要出典範囲1880年代のイタリアの登山鉄道のための宣伝曲『フニクリ・フニクラ』、明治時代の『オイチニの薬屋さん』[※ 3]1901年頃の岩谷松平(「東雲節」の替え歌で「天狗煙草当世流行節」)と村井吉兵衛(さのさ節」の替え歌による)たばこ販売CMソング合戦、1929年(1927年説も)の狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド)のためのPRソング『ちゃっきり節』などがあった[※ 4]

1951 - 1958年

1951年(昭和26年)9月1日民間ラジオ放送が開始。

9月7日「CMソングの日」としている例がある[※ 5]が、これは日本初のCMソングの定説とされる『僕はアマチュアカメラマン』(作詞・作曲:三木鶏郎小西六写真工業)が初オンエアされた日(1951年)ということに基づいている。

しかし、9月3日に『ペンギンの歌』(作詞:重園よし雄・作曲:平岡照章;塩野義製薬)が流れており、また、9月1日のコマーシャル第1号となる精工舎のCMでも、時報メロディが電波に乗ったという資料があり、これこそが厳密には日本初のCMソングであるという指摘もある[田家 1]

1953年(昭和28年)8月28日、民間テレビ放送が開始。当時は「シンギング・コマーシャル」という呼び方もされていた[小川 1]

1950年代半ばにはCMソングの強い宣伝効果が認識され、『ミツワ石鹸テーマソング』に代表される企業名・商品名を連呼するタイプが続出した[小川 2]

1957年(昭和32年)8月28日、『有楽町で逢いましょう』(歌:フランク永井)が発売。同フレーズが当時の流行語となる。

三木鶏郎の他にCMソングの作曲家には、いずみたく、作詞家には野坂昭如が活動し始めていた。歌手では楠トシエも多くのCMソングを歌った。

創生期の代表的な楽曲

1959 - 1966年

1959年(昭和34年)4月皇太子成婚を機に、テレビが急速に普及。高度経済成長と今までに無い新商品の発売に関連し、CMソングも多様化し始めた。その一つとして、「インフォマティブ・ソング」(作曲者の嵐野英彦が命名した商品説明型CMソング)が登場した[小川 3]

1960年(昭和35年)6月29日ビートルズが来日し、公演を行う。既に、ロカビリーなどの洋楽が日本に入り、リズムはCMソングにも導入され始めていたが、まだ音階は、全音階長音階が中心のままだった[小川 4]

同年9月10日、テレビのカラー本放送開始。

この頃、CMソングばかりを流す番組『歌うコマーシャル』が、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で放送されていた[2]

1962年(昭和37年)、第2回ACC全日本CMフェスティバルから、CMソングを対象とする「シンギング部門」がラジオ部門の中に創設される[3]

1963年(昭和38年)、5秒CMが解禁[田家 2][注 2]。CMソング受難の時期となる一方で、サウンドロゴが発展したという見解もある。

1966年までの代表的な楽曲

1967 - 1974年

この頃は、戦後の流行歌のようなヨナ抜き長音階自然短音階が、ようやくCMソングに用いられた時期でもあった。これは、創生期ラジオ歌謡をベースとしたホームソング調・童謡調にはなかったものだった[小川 5](初期のテレビCMに関しては多様で、オペラ風、シャンソン風、音頭風などもあったという[小川(考古学) 1])。

1967年(昭和42年)4月レナウンの『イエイエ』(作曲:小林亜星)がオンエアー。斬新なもので、広告界では「イエイエ以後」という言葉が生まれた[小川 6]

同年、『世界は二人のために』(佐良直美)が発売される。元々は明治製菓「アルファチョコレート」のCMソングだったものである。 初期のCMソングの歌詞は、訴える対象が不明確な三人称がほとんどだったが、この曲以降、一人称・二人称が増えたという[※ 6]

1968年(昭和43年)1月4日付から、オリコンチャートレコード等の売上ランキング)が正式スタート。

1970年(昭和45年)には、公害問題などを踏まえた商品宣伝を一切しないCMも登場した。 テンプレート:Seealso

1972年(昭和47年)、フォーク界から吉田拓郎が『Have A Nice Day』(富士フイルム)を(前年に中外製薬「新グロンサン」でも歌唱)、翌1973年(昭和48年)には、ロック界から大瀧詠一(元・はっぴいえんど)が『Cider '73』(三ツ矢サイダー)を手がけ、若者を中心に人気を博した[田家 3]

1973年(昭和48年)、第13回ACC全日本CMフェスティバルから、「シンギング部門」がテレビ・ラジオ部門から独立して扱われる[4]

1974年(昭和49年)、サミー・デイヴィスJr.本人出演によるスキャットのCM(サントリーホワイト)が、カンヌ国際広告祭グランプリを受賞(日本の作品としては初受賞)[※ 7]

代表的な楽曲

1975 - 1979年

シンガーソングライターによるニューミュージックが人気に。第一次バンドブームも発生。それらを「イメージソング」として用いた資生堂カネボウによる化粧品キャンペーンソング合戦が勃発[※ 8][5]。その背景には「ザ・ベストテン」(1978年1月19日 - 1989年9月28日)に代表されるランキング形式の音楽番組の存在もあった[小川 7]

なお、1978年(昭和53年)から、テレビCMのステレオ放送が開始された。

代表的な楽曲

1980年代

クラシック音楽民族音楽現代音楽ミニマル・ミュージックラップ[※ 9]など、CMに使われる音楽のジャンルの多様化が一層進んだという指摘がある[小川 8]

1984年11月から、雑誌「オリコン・ウィークリー」のシングルHOT100に、タイアップ情報が付記される[※ 10]

1985年 - 1986年頃から、力関係が逆転し、楽曲提供側からの売り込みの傾向が出てきたという指摘がある[小川 9]

代表的な楽曲

1990年代

第二次バンドブームを経て、カラオケボックスの普及、従来型の生放送音楽番組の縮小化などにより、日本の音楽シーンは変化していた。

この頃、イメージソングは「タイアップソング」と呼ばれるようになり、長戸大幸吉江一男らが仕掛けたビーイングブームがその中核だったといわれている[小川 10]。1992-1995年にかけて大塚製薬ポカリスエット」では、ビーイング所属歌手を連続起用した。

また、三貴グループ(「銀座じゅわいよ・くちゅーるマキ」「ブティックJOY」など)は、自作自演アーティストの楽曲を起用したスポットCMを、深夜帯を中心に大量出稿(特にテレビ東京系列局)した[※ 11]

その後、不況による制作費縮小などによりCM作りの傾向が変化し、例えば「引越のサカイ」「湖池屋 ドンタコス」「サントリー C.C.レモン」など、初期のような連呼型CMソング[※ 12]が復興した。楽曲提供側との力関係が再逆転し、大物アーティストの起用が難しくなったという点もあった。遅くとも1995年には、イメージソングの衰退・限界が指摘されていた[※ 13]

1999年には、『energy flow』(坂本龍一第一三共ヘルスケア「リゲインEB錠」)が、インストゥルメンタルのシングルとして初めて、週間オリコンチャート1位になった。

代表的な楽曲

2000年代

2000年代初頭には、『愛のうた』(友妻タケシ)、『NOVAうさぎのうた』(松村祐治)、『サントリー燃焼系アミノ式』(本間絹子) といった、電通のCMプランナーによるCMソングが相次いで注目を集めた[注 4]

2001年著作権等管理事業法が施行。JASRAC以外も、音楽著作権管理に参入可能となった。

2003年、『はつ恋』(小島麻由美)が、任天堂USAのCM「who are you?」に起用され、北南米で1年間に渡り放映される[※ 14]

2006年頃からは、洋楽カバーのCMソングが増えたという指摘がある。要因としては、オリジナルを使用するよりも著作権使用料が多少安かったり、権利関係が複雑でないなどが考えられている[6]

代表的な楽曲

2010年代

CM総合研究所は2010年のCM動向として、替え歌を用いたテレビCMの使用を指摘した[※ 15]

代表的な楽曲

著作権と業界

JASRACに登録されている(既発売の)楽曲をCMに用いる場合、オンエアー数に応じて、放送使用料が発生する(1998年時点)[7]

1971年(昭和46年)4月、広告音楽制作に携わる法人有志により、日本広告音楽制作者連盟(JAM)が発足[※ 16]。後に「広告音楽ハンドブック」を作成するなど、著作権問題に取り組んでいる。

CM用にカバーされた楽曲の例

ダンダン娘』(西田ひかる三菱電機「霧ケ峰」)、『亜麻色の髪の乙女』(島谷ひとみ花王「エッセンシャルダメージケア」)、『明日があるさ〜ジョージアで行きましょう編〜』(ウルフルズ;日本コカ・コーラ「ジョージア」)、『エイトマン』(SMAPNTT東日本FLET'S光」)、『待つわ』(市原悦子他;トヨタ自動車「デュエット」)など、懐メロのリメイク・アレンジ起用は多数ある。『スッキリが止まらない』(相田翔子アサヒ飲料WONDA ショット&ショット」)や『挽きたての歌』(大泉洋キリンビバレッジ「FIRE」)、『太麺レボリューション21』(モーニング娘。日清食品「太麺堂々」)、『ジンジャーリングの歌』(スマイレージミスタードーナツ「ジンジャーリング」)、『拭くレボリューションいい感じ』(保田圭ソフト99コーポレーション「フクピカ」)などのように、替え歌を伴うものも決して少なくない。

また、『ウイスキーが、お好きでしょ』(サントリー角瓶)のようにアーティストを変えつつ歌い継がれるものがある。

ガーナ民謡『チェッチェッコリ』(ゆみ&ゆかサッポロ飲料「まる福茶」)は、CM起用によって、楽曲の知名度が上がった。

シリーズ物

長寿CMソングの例

2011年現在もCMにて使用されているもの(放送開始当初からアレンジされているケースも含む)。

脚注

注釈

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出典(雑誌・事典・Web等)

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出典(書籍)

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電通 (1960) 広告読本シリーズNo.3『CM(企画・制作)』 電通
藤本倫夫ほか (1977) 『コマソン繁昌記』 日本工業新聞社
須藤公明 (1995) 『ヒットCM半世紀』 日経BP
近藤浩章 (1998) 『CM音楽ア・ラ・カルト』 興陽館
小川博司ほか (2005) 『メディア時代の広告と音楽』 新曜社
田家秀樹 (2007) 『みんなCM音楽を歌っていた』 徳間書店
小川博司ほか (2010) 『テレビ・コマーシャルの考古学 -昭和30年代のメディアと文化』 世界思想社
かまち潤 (2010) 『TVコマーシャルと洋楽コマソン40年史』 清流出版

外部リンク

関連項目

作曲家
作詞家
歌手
その他
集団
  • ジモうた - 東海地区を中心多くのCMソングを制作。
作品

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  1. かまち PP..33-34
  2. 電通 P.76
  3. 藤本 P.66
  4. 藤本 P.66
  5. 須藤 PP..133-135
  6. かまち PP..118-120
  7. 近藤 P.83


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