ニューミュージック

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ニューミュージックは、1970年代から1980年代にかけての日本ポピュラー音楽の一部に対して使われた名称。ニュー・ミュージックとも表記される。多くの文献で、範囲、語源とも曖昧と書かれている[1][2][3]

語源

概説

この言葉の由来は明確ではないが、ミュージカル・ステーションの当時の社長・金子洋明による命名であるとか[2]、あるレコード会社が使用を始めたとする説、アルバムの帯に記載されたとする説、音楽評論家富澤一誠が使用を始めたとする説[4][5]ユーミンが使い始めたという説[4]などがある(全て詳細は後述)。

「ニューミュージック」という言葉がどういう経緯で出来たかといえば、1968年頃からグループサウンズよりも、本格的なブルース・ロックを志向するバンドに対して、日本の音楽誌が「ニュー・ロック」と名付けたり[6]1969年に『ニューミュージック・マガジン』が創刊されたり、1970年頃から、反体制色の薄い長谷川きよし吉田拓郎らを「ニュー・フォーク」と音楽誌が呼んだり[7][8]映画界でも1970年前後に「ニューシネマ」が日本でも知られたこともあって、当時「ニュー〇〇」という言い方が流行っていたということがあるかもしれない。「ニューミュージックは吉田拓郎を突破口にした、このニュー・フォークの流れをくむもの」[9]、「ニューミュージックという言葉は、もともとはニュー・フォークからきている」[10]と書かれた文献もある。菊池清麿は「ニューミュージックは、ニュー・フォークから始まった。それは吉田拓郎が、アングラに対してメジャー系に浮上したことをきっかけにしていた」「J-POPの発祥を遡及すれば、ビートルズの影響を受けた日本のフォークポップス化し、これに8ビートのロック・リズムが融合されたことにたどり着く。1970年代のロック、フォークから連綿と流れるポップスの総称として成立した。ニューミュージックの中でも日本を感じさせない楽曲がJ-POPに発展したという見方もできる」などと論じている[11]

誰が言い始めたか?

先のミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1994年に『プロデューサー感覚』という著書を出しているが、この本文の中にはニューミュージックに関する言及がない。巻末の著者略歴に「現在のニューミュージックというカテゴリーの基盤をつくる」と紹介されている[12]。この文面からは1994年にはまだ「ニューミュージック」という言葉が使われ、「J-POP」という言葉はまだ一般的ではなかったものと考えられる。

2013年4月から5月にかけてデイリースポーツで「ニューミュージックを創った男 〜伝説のプロデューサー三浦光紀氏が語る裏話〜」と題する連載があった。この第1回で「1970年代初頭、日本の音楽界で『ニューミュージック』という言葉が使われ始めた。音楽プロデューサー・三浦光紀は『ニューミュージック』を日本で初めて使った人物といわれ、現在のJ-POPの源流を作った」と紹介し、三浦自身、ニューミュージックの説明を「後にJ-POPと呼ばれる日本特有のジャンル名で、1970年代の日本のシンガーソングライターたちが、自作の『うた』を英米のロックを取り入れる手法で、表現した新しいポップスの呼称でした」と説明している[4]。 

三浦光紀は1972年春にメジャーレーベル・キングレコードの中に、フォーク系のレーベル「ベルウッド」を立ち上げた人物であるが、デイリースポーツが三浦光紀を「ニューミュージック」を日本で初めて使った人物とする根拠について、音楽評論家の山田順一は「ベルウッド発足時に配布された『ベルウッドレコード発売記念 特別ダイジェスト』というプロモーションレコードに、三浦は『ニューミュージックの宝庫 Bellwoodの出発(たびたち)』と題した文章を寄せている。日本でニューミュージックという言葉が初めて出たのはここである」と述べています。さらにキングレコードの上司だった長田暁二(音楽文化研究家)も、雑誌「kamzine」の中でこう書いています。「ある日、ポップス担当の某ディレクターが町尻量光社長に直訴、『フォークやロックはオレの守備範囲、教養課で制作するのは越権行為だから止めてほしい』とクレームをつけた。このとき三浦は『いや我々がやっているのはニューミュージックだよ』といって、社長室に呼ばれた関係者全員を煙にまいた。これが日本で"ニューミュージック"という言葉が使われた最初である」などと書いている[4]。この連載の第2回で三浦は、1971年大瀧詠一のソロアルバムの準備に入っていたころ、キングレコードのマーケティング担当者から「君の制作している作品のレコード店仕切り板を作りたいから、ジャンル名を決めてくれ」と言われ、僕が集めようとしていたアーティストの音楽は、それまでの日本のフォーク、ロックとは明らかに違っていたので、適当な言葉が浮かばず苦労して、たまたま愛読書だった『ニューミュージック・マガジン』が会社の机の上に置いてあったので、軽い気持ちで"ニューミュージック"とマーケティング担当の方に言ってしましました。『ニューミュージック・マガジン』から勝手に借用したこともあって、公には使わず"新しい歌"とか"ニューポップミュージック"とあいまいな言い方をしていました。そうした中、1973年ごろ、CBSソニーでフォークを担当していた早大グリークラブで一年後輩だった前田仁から連絡があり、『ニューミュージック』をキングで商標登録してないんだったら、CBSソニーで使用させてくれという話だったので、快諾し、一緒に『ニューミュージック』を盛り上げようということになりました。彼は吉田拓郎、山本コウタローバンバンなどを次々とヒットさせ、CBSソニーの強力な影響力もあり、わたしが対抗文化的な意味合いで使った『ニューミュージック』が1970年代の音楽シーンの中核になってしまいました。もちろん、ユーミンの存在も大きかったと思います。『ニューミュージック・マガジン』はその後『ミュージック・マガジン』にタイトルを変えたこともあって、創刊者である中村とうようさんには謝罪しました。彼は「三浦くんがやったんだから仕方ないよ」と笑いながら許してくれました」などと述べている[13]。三浦が1972年春ベルウッドを設立した時、「ニューミュージック」という言葉も生まれたとする見方も多い[14][15]

三浦の話に出てきた前田仁は、CBSソニーのプロデューサーで、2010年1月に亡くなったが[16]、それまで『jinz bar - 前田仁の「歌たちよ、どうもありがとう」』というブログを配信していた。現在はもう見ることはできないが、この第1回に「僕の机がなくなって?『ニューミュージック』という音楽カテゴリーが生まれた」というタイトルで「ニューミュージック」に関する言及がありそれは以下のような内容であった。1973年に会社のN部長から「アメリカで面白いムーブメントが起こっているんだ..音楽シーンでね。ビルボードの記事にあったんだけど、それを『ニューミュージック』と呼んでいるらしいんだ。お前がやろうとしている音楽、アーティストを日本じゃフォークってカテゴリィーでくくっているだろう?ちょっとチガウと思うんだよ。カレッジ・フォーク?キャンパス・ポップ?、どれもチガウと思うんだ。だから、今後お前が作る音楽、アーティストを『ニューミュージック』って呼ぼうと考えているんだ。」と言われ、その日を境に、自分の机を部長の側に移し、N部長直轄の新しい試み、プロジェクトを始めた、前社的にコンセンサスを取り付け、営業のセールスの人達がお店に届ける注文書にも『ニューミュージック』というカテゴリーを設け、レコード店の方々にも意図を説明し、ご理解をいただくことになったのです」「セールスマンの皆さんとの会議で、N部長がフォークもロックも違うジャンルの音楽なのに、日本ではフォークと言うカテゴリーに押し込めているんだ、おかいしだろ? だから、これからの日本の新しい音楽のウェーブを、前田の作る音楽、アーティストを『ニューミュージック』と呼ぶんだよと言った。まさしく『ニューミュージック』と言う、新しい音楽ジャンル、カテゴリーの誕生の瞬間でした」などと書いていた。このN部長のいうビルボードの記事『ニューミュージック』というのが本当なのかは分からないが、この前田の言及では「ニューミュージック」という言葉を最初に使ったのは、CBSソニーの当時の前田の上司・N部長ということになる。前田はさらに「1972年5月21日発売の『The Best Of "Folk-Jack"』と言うオムニバス・レコードが手元にあるのですが、この時の発売企画書には、「我がCBS・SONYは今や新しい音楽の宝庫的存在になって居ります..」と僕の字で書き残されている。しかし、1973年6月27日付けで書かれた友部正人君の移籍に際しての発売企画書には、「今度当社より発売が決定した事は、当社のNEW MUSICに非常に大きな財産が増えた事になります。」とも記述があり、ちょうどこの頃からCBSソニーの、否、その後延々と多くの音楽ファンを虜にしてきた『ニュー・ミュージック』と呼ばれるカテゴリーが産声を上げたのでした」などと書いていた。つまり、先の三浦光紀の話とは完全に食い違っている。

デイリースポーツの三浦の連載や前田のブログの説明で出された文献なりが、販促品などで、市販された書籍などでないため、1972年に「ニュー・ミュージック」と書かれた現物を確認することが出来ない。現在でも確認できる市販された書籍では、ブロンズ社という出版社が1973年1月に『ニッポン若者紳士録』という本を出しているが、この189頁の広告に『爆発するロック』という本の紹介があり、ここに「ブロンズ社のニューミュージック選書」と書かれている。つまりこの頃、ブロンズ社が同社のロック関係の書籍を既に"ニューミュージック"というカテゴリーに入れていたということになり興味深い。この本が1973年1月の発売なので「ニュー・ミュージック」という言葉は遅くとも1972年末までには使われ始めていたということになるが、市販された書籍文献で1972年に「ニュー・ミュージック」と書かれた物を探すのは難しい。

アルバムの帯に「ニューミュージック」「NEW MUSIC」と記載されたのがニュー・ミュージックの語源という説があるが、いつ発売された猫のレコードの帯なのかが重要になる。1972年なのか、1973年以降なのか、1972年であれば、或いは確認出来る文献等では最初になるかもしれない。1973年以降なら前述したようにブロンズ社の書籍の方が早く猫が一番にはならない。それはおそらくCBSソニーにニュー・ミュージックのセクションが出来たという1973年以降の猫のアルバムについてと推測する。

定義

広辞苑』では、1983年の第三版までは「ニューミュージック」の記載はなく、1991年の第四版から「ニューミュージック」という言葉が記載された[17]。ここには「わが国で、1970年代から盛んになった、シンガー-ソング-ライターによる新しいポピュラー音楽の総称。欧米のフォーク-ソングやロック・ポップスの影響下に成立」と書かれており[17]、その後の1998年第五版以降、2014年現在の最新版第六版(2008年発行)まで同じ記述がされている。

1970年代に唯一の"ニューミュージック評論家"と称していた富沢一誠は、単純に「ニューミュージックは日本のフォークとロックの総称」と論じている[18]。詳しく説明した物では「ニューミュージックという言葉が使われ始めた頃、この言葉にはふたつの意味があった。ひとつは荒井由実、ティン・パン・アレイなど新しいタイプのアーティストが出現したことで、それまでのフォーク、ロックという言葉ではくくりきれなくなったので、それらに対して"新しい音楽"ということで"ニューミュージック"という言葉が使われ始めたこと。そしてもうひとつは吉田拓郎、井上陽水のフォークから、新しく出現した荒井由実、ティン・パン・アレイまでの全部をひっくるめて便宜的に言う"ニューミュージック"。(中略)日本のフォークとロック(ロックの一部を除く)を総称して"ニューミュージック"と呼ぶ後者の意味での使い方をしたのはぼくが最初」などと述べている[19][20]

「ニューミュージック」という言葉をタイトルの使用した書籍では、1977年の『ニューミュージック白書 日本のフォーク&ロック20年のあゆみ』(エイプリル・ミュージック)の中で「ニューミュージック試論オリジナリティー創出の旅」という節があって、ここで吉田拓郎、井上陽水、南こうせつ泉谷しげるの5組が紹介され、「彼らがライブ・ステージの比重を重くして、その試みの中から、2つの重要な落し子が生み出された。ひとつは、フォークにリズムを強調して行く上で作り出された、フォークにもロックにも、またポップスにも属し得ない微妙なサウンド。またもうひとつは、フォークにハードな音を重ねた結果、その対極点から突如現れた、従来の歌謡フォークとは趣を異にしたポップ・バラードとも言うべき美しいサウンドである。この2つの落し子こそ、今あえてニュー・ミュージックと呼ぶのに相応しいものである」と論じている[21]

小川博司は「ニュー・ミュージック」を歌謡曲でも、プロテストソングでも、私生活フォークでもない日本製のポピュラー音楽のこと。歌謡曲のように企業ベースで作られる音楽でもなく、かといってプロテストソングのように反商業主義に立つ音楽でもなく、プロテストソングのように社会問題についてのメッセージを持つ音楽でもなく、私生活フォークのように過去をじめじめと追憶する音楽でもないような音楽を指す名称」と論じている[22]

『音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)』(音楽出版社、2007年)には、「"洋楽的なアプローチでファッショナブルに時代に浸透" シンガーソングライターによる60~70年代フォークは、生活感を漂わせるものか、政治色の強いメッセージソングであった。70年代半ばに生まれたニューミュージックは、それらの対極にある新しい音楽ジャンル。例としては、かぐや姫の一員だった伊勢正三が結成した""が挙げられる。"風"の音楽はウエストコーストサウンドの影響下にあるもので、そんな洋楽志向アーティストたちのラヴソングがチャートを賑わすことになる。75年に『あの日にかえりたい』のヒットを放った荒井由実はその象徴的な存在で、洗練されたサウンドとディテールに凝った歌詞はファッショナブル。まさにニューミュージックと呼ぶにふさわしいものだった」と論じている[23]

『新譜ジャーナル』(自由国民社)1979年11月号には「(1970年代後半)ニューミュージックとは、女性ミュージシャンがファッショナブルな衣装とステージで、ボサノバレゲエのリズムで唄う都会ふうの歌というイメージが、ジャーナリズムではできてきた頃、若い女性たちの目は、さだまさしアリス松山千春といったアコースティック・ギターを中心にした男性に注がれていた」と紹介されている[24]

この他、"ニューミュージック"とは「フォークソングはロックやポップミュージックなど様々なジャンルと結びつき、1970年代半ばになると、もはやフォークソングという呼び方ではおさまりきれなくなり、こうした音楽を総称してニューミュージックと呼ぶようになった」[25]、「従来の歌謡曲なかった非歌謡曲的な要素の全てに対してつけられたもの」[26]、「フォークにリズム・パターンとしてロックを導入し、歌詞に演歌風のものを取り入れて歌わせることによってヒットソングを作ってゆく。曰く吉田拓郎の『旅の宿』、森進一の『襟裳岬』などがその例である。そしてこれらの作品に対しての批判をおそれてニューフォークソングに代わる新しい日本語ネーミング、すなわち『ニューミュージック』という不思議な言葉が生まれた」[27]などの論調がある。

範囲

どこからが始まりか?

言葉の発祥がいつからかはっきりしないため、本来どの曲を最初にするのかは不明なのだが、実際は文献にどこからかは色々書かれている。その始まりは1972年の吉田拓郎『結婚しようよ』を、始まりとすることが多い[28][29][30][31]1980年立風書房発行『ニューミュージック′80 すばらしき仲間たち』では「ニューミュージックの原点を支えるアーティスト12」という節で冒頭に吉田拓郎を紹介している[32]1980年学習研究社発行『NEW MUSIC'81 ニューミュージック事典』では「今日のニューミュージックに関するすべての状況は『結婚しようよ』のヒットから始まった」[33]1993年シンコーミュージック発行『日本のフォーク&ロック・ヒストリーー② ニューミュージックの時代』では「1972年1月の吉田拓郎『結婚しようよ』のヒット」からニューミュージック年表が始まっている[34]相倉久人は「ニューミュージックというのがプログラムに上がり始めたが『結婚しようよ』あたりからでした」と述べている[35]。2007年青弓社発行『テレビだョ!全員集合』では「"ニューミュージック"という胡椒がどこからきたものかは諸説あって判然としないが、その前提にフォークソングの浸透があったことは確かである。1972年の吉田拓郎の『結婚しようよ』のヒットは、フォークを世間に認知させるきっかけになると同時に、メッセージ性を柱とするフォークを支持するそれまでの立場からは批判の的になった。だがさらに翌年のかぐや姫神田川』のヒットによって、その流れはいっそうはっきりしたものになる。そして同時期に活躍を始める井上陽水や荒井由実とともにこれらのミュージシャンの音楽が"ニューミュージック"と呼ばれるようになっていくのである」と論じている[1]。『日経エンタテインメント!』は、2000年2月号の特集「J-POPの歴史をつくった100人」の中で、"ニューミュージック"どころか、"J-POP"の起源を吉田拓郎と井上陽水に決めて"J-POP"の歴史を論じている[36]

松任谷由実は著書『ルージュの伝言』(1984年、角川書店)の中で「ニューミュージックって言葉は嫌いなんだけど、まあこういう音楽は私がはじめたわけでしょう。私、ゼロからはじめたんだもの。だから過去のものとは較べようがない」などと述べている[37]。また、この後続く松任谷の話は「"四畳半フォーク"、"有閑階級サウンド"、"中産階級サウンド"も私の命名。それを富澤一誠とかが使い出して、そのうち浸透した。坂本龍一にそういったらテクノポップって言葉はぼくがつくったんだと言ってた。インパクトのある言葉なら、すぐに浸透する。吉田拓郎は名前しか知らなかった、だんだん騒がれ出して(自身が) "女拓郎" とかいわれるようになったから聴いたが、私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにないまったく新しいもの」などと述べている[37]

どこからどこまでがニューミュージックか?

1978年の国民的番組『NHK紅白歌合戦』では「ニューミュージック・コーナー」というあたかも隔離された一つのコーナーがあり、庄野真代ツイストサーカスさとう宗幸渡辺真知子原田真二の6組が続けて歌唱した後、ステージの上で一列に整列し、審査員の講評を受けるという前例のない非常に混沌としたステージをやった[38]。この中で、庄野真代はシンガーソングライターではあるが、歌唱曲『飛んでイスタンブール』は、職業作家による提供曲であり、サーカスはソングライティングをしないコーラス・グループであるため、当時のニューミュージックの解釈は、かなり広く、歌謡曲ぽくない楽曲全てと見られていたといえるかもしれない[5]1977年刊行の『ニューミュージック白書 日本のフォーク&ロック20年のあゆみ』の中に「最近ではロックのミュージシャンを含めてニューミュージックという呼び名さえ使われるようになってきた」[39]、「GSからシティ・ミュージックまで、ニューミュージック界はこの10年余の間に、多くのディスクを生み出してきた」という言及が見られる[40]

「ニューミュージック〇〇」とタイトルの付く書籍では『NEW MUSIC'81 ニューミュージック事典』(学習研究社、1980年)の86-127頁に「ニュー・ミュージック・アーティスト名鑑」が載っており、この中にはこれまで名前の出たフォーク系、ロック系のシンガーソングライター、女性シンガーソングライター以外にも、あのねのねYMO石黒ケイ上田正樹内田裕也太田裕美大橋純子岡林信康上条恒彦加藤登紀子加山雄三北山修キャロルクールスサーカスダウン・タウン・ブギウギ・バンドチェリッシュ近田春夫ティン・パン・アレイトワ・エ・モアなぎらけんいち豊島たづみハイ・ファイ・セットBOWWOW萩原健一はっぴいえんどはちみつぱいパンタばんばひろふみヒカシューフォーク・クルセダーズファニー・カンパニーフラワー・トラベリン・バンド細野晴臣マイク真木町田義人松原みき柳ジョージ&レイニーウッド山内テツ憂歌団らも記載されている。

ホットドッグ・プレス』(講談社)1980年2月号の「決定!79ニュー・ミュージック・ベスト・シングル100」という企画[3]では、以下のような言及がある。「ニュー・ミュージックという言葉が、マスコミにおいて定着し始めたのは1970年代中期のことである。その時点においての定義は、歌謡曲に対して"ニュー"な音楽ということだった。もっとも1977年末の集計でニュー・ミュージックと歌謡曲の売り上げ比がほぼ半々になるまでは、ニュー・ミュージックの定義は、さほど問題にはされなかった。しかし10万枚を越すニュー・ミュージックのヒット・レコードが次から次に登場し、歌謡曲の内部で演歌の人気が下降し始めた1977年の時点で、ニュー・ミュージックの定義見直しの声は起こっていたのである。明らかに歌謡曲らしい演歌がヒット・チャートから消失しはじめた時、歌謡曲っぽいニュー・ミュージック、ニュー・ミュージックっぽい歌謡曲があふれ始めた。森進一が歌いレコード大賞曲となった『襟裳岬』は吉田拓郎の曲だった。これを機に、歌謡曲側が、曲作りをニュー・ミュージックに依頼するパターンも定着した。このこともニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつだろう。筒美京平のように従来は歌謡曲側の作者が、桑名正博のようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった。『ホットドッグ・プレス』は、この「ニュー・ミュージック・ベスト・シングル」を選定するにあたり、次の様に、このあいまいなニュー・ミュージックを再規定することにした。①作詞・作曲が歌唱している本人の場合。②シングルにおいて作詞・作曲が本人でなくとも、アルバムの中で本人の作詞・作曲の多いもの。③あくまで歌手(バンド)を本業とするもの。そして、この3点においても区別しかねるものは、発売レコード会社の制作及び宣伝セクションが、ニュー・ミュージック・セクションであるかどうか、あるいは、プロデューサーがニュー・ミュージックの制作者であるかどうかを基準、とした。本来なら、このチャートのベスト3に入るはずだった水谷豊の『カリフォルニア・コネクション』は、③の理由で除外した。また、桑江知子も問題になったが、レコード会社の宣伝・制作態勢が、ニュー・ミュージック・セクションによって行なわれ、本人も近々、アルバムに自作曲を入れたいとのことなので、今回はニュー・ミュージックとして取り扱った」[3]

歴史

「ニューミュージック」という言葉が一気に広まったのは1975年小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるの4人のアーティストが集まってフォーライフ・レコードを設立してからである[5]。若者を主導とした音楽市場の拡大を実感させる事件であり、業界全体売上が184億円だったこの年のフォーライフ・レコードの売上高は31億円に達した[41]。フォーライフは1970年前後に出来たエレックレコードURCレコードベルウッドレコードといったフォークレーベルが持っていた既存勢力の対抗文化というフォーク精神を維持しながら、商品性も持ち合わせており[42]、フォークがアンダーグラウンドでも対抗文化でもなく、ニューミュージックと呼ばれる商品としての音楽へ変容する際にフォーライフは、その牽引的な役割を果たしたといわれる[42]

また、ニューミュージックが影響力を増した要因として1970年代半ばからの企業のイメ・ソン(CMソング)にニューミュージック系歌手の楽曲が盛んに採用されたことが挙げられる[43][44]。その後もニューミュージックは巨大化の一途を辿り、1978年には全レコード市場の過半数を超えるまでになった[5]

ニューミュージックが台頭した1970年代の日本の音楽産業の特色として挙げられるのが、既成の歌謡曲生産の体制(外)から、多くのヒット曲が生まれるようになったこと、レコード会社専属の作詞家・作曲家・歌手の分業体制から、シンガーソングライターへの移行、レコード売上げの主力がEP(シングル)からLP(アルバム)へと移行したこと、ニューミュージック系歌手の多くがテレビ出演を拒否したことなどがある[45]

1980年前後に「ニューミュージック」の主流が、ポップ・ロック方向にシフトしたことで「ニューミュージック」という言葉が段々使われなくなった[46]。1990年代に「J-POP」という言葉に飛びついたのがCDショップだった[36]。それまでCDショップでは、「歌謡曲」「フォーク/ニューミュージック」などと分類していたが、1980年代のロック系アーティストの台頭、さらにバンドブームと、どうもニューミュージックの棚には似合わないアーティストが増えてきた。そこにうまくはまったのが「J-POP」だった。ロックもフォークもポップスも全部まとめて「J-POP」。歌謡曲だって、演歌を切り離して「J-POP」。とにかく売れるものは全部「J-POP」。これで店員さんも頭を悩ませることがなくなった[36]。「ニューミュージック」が「J-POP」に取って変わられたのは1994年、1995年頃[36]

網羅的なニューミュージックのアーティストガイド・ディスクガイドは、2014年現在出版されていないが、タイトルに「ニューミュージック」を付けた書籍は、1970年代の後半から1990年代にかけて、『ニューミュージック白書 日本のフォーク&ロック20年のあゆみ』(エイプリル・ミュージック、1977年)、『ニューミュージック白書』(エイプリル・ミュージック、1977年)、富澤一誠『ニューミュージックの衝撃』(共同通信社、1979年)、『すばらしき仲間たち ニューミュージック′80』(立風書房、1980年)、『NEW MUSIC'81 ニューミュージック事典』(学習研究社、1980年)、富沢一誠『ぼくらの祭りは終わったのかーニューミュージックの栄光と崩壊ー』(飛鳥新社、1984年)、『日本のフォーク&ロック・ヒストリーー② ニューミュージックの時代』(シンコーミュージック、1993年)など多数刊行されている。

出典

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参考文献

関連項目

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  14. 大瀧さん 並外れた音楽知識と多芸多才 - デイリースポーツ
  15. 40年の時を越えて蘇った「放送禁止歌」 熱い志が結実 - ZAKZAK
  16. ユーミン「『いちご白書』をもう一度」の題材を提供した音楽プロデューサー前田仁さん死去!
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