日本電信電話

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テンプレート:Infobox 日本電信電話株式会社(にっぽんでんしんでんわ、テンプレート:Lang-en)は、日本通信事業最大手であるNTTグループ持株会社である。持株会社としてグループ会社を統括するほか、規模的にも技術的にも世界屈指の研究所を保有する。

特別法「日本電信電話株式会社等に関する法律」(通称:「NTT法」)による特殊会社で、「東日本電信電話株式会社及び西日本電信電話株式会社がそれぞれ発行する株式の総数を保有し、これらの株式会社による適切かつ安定的な電気通信役務の提供の確保を図ること並びに電気通信の基盤となる電気通信技術に関する研究を行うことを目的とする株式会社」(第1条)と定められている。同法の規定により、日本国政府が発行済株式総数の3分の1以上に当たる株式を保有している。

本項では持株会社である日本電信電話株式会社単独の事項に加えて、NTTグループの概要を述べる。

概要

元々は国内電気通信事業を独占していた国営公社である日本電信電話公社であり、民営化後に誕生した企業がNTTである。しかし完全に民営化したわけではなく、3割以上の株式を政府が所有している特殊会社であり、電話回線の維持などの義務を背負っている。

NTTの主な事業は大きく分けて地域通信事業(固定電話やフレッツ光等のインターネット事業:NTT東日本NTT西日本)、長距離国際通信事業(国際通信や県間通信事業、プロバイダ等:NTTコミュニケーションズ等)、移動体通信事業(携帯電話:NTTドコモ)、データ通信事業(銀行等のデータ通信システム作成の事業:NTTデータディメンションデータ)の4つがある。当時は固定電話による収益に依存していた同社であるが、現在は営業利益の7割が移動体通信事業(携帯電話)に依存している状況である。各事業の詳細については#主なグループ企業を参照。

沿革

歴史

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第二次臨時行政調査会による三公社の民営化論議

第2次オイルショックにより、1981年(昭和56年)3月に鈴木内閣は、日本経済団体連合会の名誉会長土光敏夫を会長とし増税なき財政再建をスローガンとし第二次臨時行政調査会が発足させた[1]

第二次臨調の答申事項のひとつとし、政府公社の民営化が含まれていた。この答申を受け中曽根内閣の民活路線のもと、3公社日本電信電話公社日本専売公社→現「日本たばこ産業」、日本国有鉄道→現「JR各社」)の民営化が論議されていった。

日本電信電話公社の民営化の閣議決定

1984年(昭和59年)7月17日、内閣にて「日本電信電話株式会社法案」、「電気通信事業法案」及び「日本電信電話株式会社法及び電気通信事業法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案」(電電改革三法案)が審議され、施行期日は、1985年(昭和60年)4月1日とされた。その後、数度の審議を経て同年12月20日電電改革三法案が衆参両議員にて可決され、日本電信電話公社の民営化が決定された。

日本電信電話株式会社法、電気通信事業法案及び日本電信電話株式会社、電気通信事業法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律の概要については、次のとおりであった。

  • 日本電信電話会社法
    • 日本電信電話株式会社は、国内電気通信事業を経営することを目的とする株式会社とし、国内電気通信事業を営むほか、郵政大臣認可を受けて、これに附帯する業務その他会社の目的を達成するために必要な業務を営むことができる。
    • 会社の責務とし事業を営むに当たって、常に経営が適正かつ効率的に行われるよう配意し、国民生活に不可欠な電話の役務を適切な条件で提供することにより、当該役務のあまねく日本全国における安定的な供給の確保に寄与する。電気通信技術に関する実用化研究、基礎的研究の推進、その成果の普及を通じて我が国電気通信の創意ある向上発展に資するよう努めなければならない。
    • 会社の株式は、政府が常時、発行済み株式総数の三分の一以上の株式を保有していなければならない。また、政府の保有する会社の株式処分は、その年度の予算をもって国会の議決を経た限度数の範囲内でなければならない。なお、外国人及び外国法人等は、会社の株式を保有することができない[2]
    • 新株の発行、取締役及び監査役の選任等の決議、定款の変更等の決議、事業計画、それに重要な設備の譲渡については、郵政大臣の認可を受けなければならない。
    • 郵政大臣は、新株の発行、定款変更等の決議、事業計画、重要な設備譲渡についての認可をしようとするときは、大蔵大臣に協議しなければならない。
    • 政府は、会社の成立の日から5年以内に、この法律の施行の状況及びこの法律の施行後の諸事情の変化等を勘案して会社のあり方について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとすることを定める。
  • 電気通信事業法
    • 電気通信事業者が取り扱う通信の秘密の保護、検閲の禁止、利用の公平及び重要通信の確保。
    • 電気通信事業を、みずから電気通信回線設備を設置して電気通信役務を提供する第一種電気通信事業と、第一種電気通信事業者から電気通信回線設備の提供を受けて電気通信役務を提供する第二種電気通信事業とに区分する。第一種電気通信事業については、電気通信回線設備が著しく過剰とならないこと等、事業の安定性、確実性を確保するため、事業の開始を郵政大臣の許可とする。また、その料金については、国民生活、国民経済に重大な影響を及ぼすため、郵政大臣の認可事項とする。第二種電気通信事業については、多種多様な通信需要に応じた電気通信役務の提供が予想される分野のため、原則として届け出で事業を開始できることとする。ただし、不特定多数を対象とする全国的、基幹的事業及び外国との間の事業は特別第二種電気通信事業とし、事業の開始を郵政大臣の登録事項とする。
    • 第一種電気通信事業、特別第二種電気通信事業については、電気通信設備について、国が一定の技術基準を定め、良質かつ安定的な電気通信役務の提供を確保するとともに、端末設備について、一定の技術基準を定めた上で、利用者が自由に設置できるものとする。
    • 郵政大臣が事業の許可、料金の認可等この法律に基づく重要な処分をしようとする場合には、審議会に諮り、その決定を尊重してこれをしなければならない。
    • 政府は、この法律の施行の日から三年以内に、この法律の施行の状況について検討を加え、必要な措置を講ずる。
  • 日本電信電話株式会社法及び電気通信事業法
    • 日本電信電話公社法の廃止に伴い、同法及び日本電信電話公社の名称を引用している関係法律について、引用部分の削除、名称の変更等所要の改正を行うこと。
    • 日本電信電話公社が改組され日本電信電話株式会社になった後も、共済制度を適用することとし、関係法律について所要の改正を行うこと。
    • 会社の労働関係については、労働三法によることとし、公共企業体等労働関係法は適用しないこととするとともに、調停に関する暫定的な特例措置を定めるため、関係法律について所要の改正を行うこと。

日本電信電話株式会社の設立

1985年(昭和60年)4月1日の「日本電信電話株式会社法」の施行により、日本電信電話が発足した。発行済株式総数は1,560万株、資本金7,800億円(額面5万円)で、持株比率は大蔵大臣100%であった。

政府が所有していた株式が株式公開されることとなった。これに伴い、1986年(昭和61年)2月9日に日本電信電話は証券コード9432が割当てられ、東京証券取引所大阪証券取引所名古屋証券取引所第一部に上場した[3]

1986年(昭和61年)2月9日に政府保有株式186万株が放出されたが、上場初日に買注文が多いため値付けができず。翌2月10日に政府はさらに10万株を放出する事とし、160万円が初値となった。その2ヶ月後の1987年(昭和62年)4月22日には史上最高値の318万円まで株価が高騰した。その後、同年7月に株式市場全体の暴落により、同社の株式も225万円まで下落した後、乱高下を繰り返し、同年秋には株価300万までに回復した[4]

この動向を見守っていた大蔵省は、1987年(昭和62年)11月に政府は保有株式195万株の第2回売り出しを行い、この時は255万円の値がついた。さらに、1988年(昭和63年)10月に政府は、保有株式150万株の第3回売り出しを行い株価は190万円となった。

政府はこの計3回で540万株の保有株式の売り出しを行い売却代金10兆2000億円が国庫に入る事になった。日本電信電話も、株式需給の悪化の株価低迷に対する信頼性回復のために、1990年(平成2年)10月自民党電気通信問題調査会政策小委員会に、外国人の株式所有解禁、政府保有株式の買い入れによる償却等を要望した。

また郵政省は電気通信審議会の答申も受け、「外国人の株式所有を議決権の20%未満まで解禁する」、「外国人の役員就任を禁じる」等を含む「日本電信電話株式会社法等の一部を改正する法律」を1992年(平成4年)5月に成立させ、1992年(平成4年)8月1日施行となった。

日本電信電話は、この改正による外資規制の緩和にもとづき、1994年(平成6年)9月29日にはニューヨーク証券取引所へ、同年10月12日にはロンドン証券取引所に上場した。

グループ企業戦略

1985年(昭和60年)4月11日に日本電信電話の最初の子会社であるNTTリース株式会社が設立された。日本電信電話の民営化と同時にNTTリースを子会社として設立した背景には、電気通信事業法により、電話機等の通信端末の自由化が可能となったことから、日本電信電話も通信機器の売り切りを開始する事が可能となり、販売商品方法として割賦販売やリース販売に対応する必要があったためである。

日本電信電話公社時代は、「日本電信電話公社法」の下で、法的制約が厳しく、事業運営上、必要最小限の範囲で委託会社への出資しか認められていなかった。

日本電信電話は、民営化により電気通信事業の自由化に伴う新規参入業者との競争に対抗できるように、組織のスリム化の推進を進めるとともに、事業の多角化と事業領域の拡大をめざし、新たな分野への参入を図る事とした。

日本電信電話グループ企業は、「事業領域の拡大を目指した新規事業会社」、「従来より事業部として事業を分離した企業」、「同社が保有していた専門機能を集約・特化して分社化する企業」の3形態に分類される。

この戦略のひとつとして、1988年(昭和63年)5月23日に事業分離型企業としてソフトウェア開発の株式会社NTTデータが分社化された。

このような動向については、民営化後もその事業範囲の広大さと経済への影響力の大きさから、米国の圧力により国鉄分割(JR7社)のような地域分割論が噴出し政治問題化したため、日本電信電話は地域分割を回避すべく、子会社化することで分割をかわしてきたとする見方もある。

会社成立5年後の再検討

「日本電信電話株式会社法」の附則で会社の成立の日から5年以内に、同社設立後の諸事情の変化等を勘案して会社のあり方について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとすることを定めていた。

1989年(平成元年)10月、電気通信審議会は「今後の通信産業の在り方に」に関する答申を提出した。答申では、現行の組織形態での改善には自ずと限界がある、電気通信市場のさらなる競争、経営効率化等の観点から「組織の再編成が検討されるべきだ」と指摘し、具体案とし3案が提示された。

  1. 地域別再編成
  2. 市内市外分離で市内全国1社
  3. 市内市外分離で市内複数社

この中間答申について、日本電信電話は反対、公正取引委員会、日本経済団体連合会、電気通信産業連盟等が「時期尚早」という結論を公表、郵政省や新電電各社が支持の姿勢を打ち出した。このような状況の下、1990年(平成2年)3月、電気通信審議会は最終答申とし「日本電信電話株式会社法附則第2条に基づき講ずるべき措置、方策等の在り方―公正有効競争の創出と技術革新―」を郵政大臣に提出した。最終答申では、再編については 「市内市外分離で市内全国1社」方式に絞り込み、実施時期を1995年度(平成7年度)を目途にするとした。また、移動体通信業務を同社から分離したうえで完全民営化するとし1両年内に速やかに実施するよう提言するものであった。

郵政省は電気通信審議会最終答申に提示された市内・市外分離案の実現に向け調整を図ったが、答申後、株主の不安を招いて同社株の株価が低迷し、大蔵省も株主、国民の利益が保証されなければ分離分割を承服できないと強く反発の意を表明した。最終的に自民党は当面分割は、実施しない事とし、公正有効競争の促進等の措置の実施状況を踏まえた上で、必要と認められる場合には1995年度(平成7年度)において再度検討を行い、結論を得るとの方針を決定した。

再編成の検討

1995年(平成7年)4月、政府方針によって5年間後に再検討とされた経営形態に関する議論が、郵政大臣による電気通信審議会への諮問によって開始された。電気通信審議会は諮問を受けてNTTの在り方に関する特別部会を設け検討を開始した。同年7月に行政改革委員会の規制緩和小委員会が40項目について規制緩和に関する論点を公開した。まず、新事業者がサービスを提供するためには、競争相手でもある日本電信電話の地域通信網に依存せざるをえない市場構造になっており、それに起因する公正競争上の問題が発生していると指摘した。また、電話料金の低廉化のためには、日本電信電話の地域網の効率化が不可欠であるものとした。1995年(平成7年)12月、規制緩和小委員会は、「光り輝く国を目指して」と題した規制緩和最終報告をまとめ、情報通信分野に関しては、構造改革の大きな柱として、電気通信事業の規制緩和と日本電信電話のあり方をあげたが、その最終判断は電気通信審議会へと委ねるとした。1996年(平成8年) 2月に、電気通信審議会は「日本電信電話株式会社の在り方について―情報通信産業のダイナミズムの創出に向けて―」とする答申を提出し、1998年(平成10年)を目途に、日本電信電話を長距離通信会社と2社の地域通信会社に再編成するとの提言を公表した。

政府は、この電気通信審議会の答申を受けて、1996年(平成8年)3月に、自民党・社民党・さきがけの連立与党3党による「NTTの経営形態に関するワーキングチーム」を設置して検討したが、連立与党内にも、基本的には電気通信審議会答申を尊重すべきとする意見と分離・分割に反対する意見の対立があり、意見調整がつかず、結論を次の通常国会まで先送りする事とした。

再編成の再検討

1996年(平成8年)12月6日、郵政省は純粋持株会社の下に長距離通信会社1社と地域通信会社2社に再編成するという内容としてまとめた「NTTの再編成についての方針」を発表した。「持株会社に関する関連法案」の改正や「事業譲渡益課税の特例」等のこの発表と関連する事項について併せて検討が行なわれ、第140回通常国会に独占禁止法改正法案が提出され、1997年(平成9年)6月に「独占禁止法改正法」が成立した。この成立により、日本電信電話株の再編成の前提条件である純粋持株会社の解禁が確定した。

日本電信電話法の改正

1997年(平成9年)6月に「日本電信電話株式会社法の一部を改正する法律」が成立し日本電信電話の再編成が決定した。この改正法では、持株会社と地域会社2社は特殊会社となり、長距離会社は完全な民間会社とされた。

持株会社としての日本電信電話の目的は「地域会社が発行する株式の総数を保有し、地域会社による適切かつ安定的な電気通信役務の提供の確保と電気通信の基盤となる電気通信技術に関する研究を行う」とした。持株会社の取締役や監査役の選任・解任の決議は、郵政大臣の認可を必要とするとされた。

地域会社は「地域電気通信事業(同一都道府県の区域内における電気通信業務)を経営することを目的とする」とし、東日本電信電話株式会社(NTT東日本)、西日本電信電話株式会社(NTT西日本)、それぞれの業務区域を定めた。地域会社は特殊法人としての政府規制が残るが、役員の選任・解任、利益処分について郵政省の認可が不要とされた。

日本電信電話の再編成

1999年(平成11年)1月、日本電信電話は再編成後の組織づくりのため、「持株会社移行本部」、「東日本会社移行本部」、「西日本会社移行本部」、「長距離国際会社移行本部」の4移行本部に改組した。1999年(平成11年)7月1日、地域会社として東日本電信電話株式会社(NTT東日本)、西日本電信電話株式会社(NTT西日本)、長距離会社としてNTTコミュニケーションズ(NTTコム)が設立された。

日本電信電話は、既に分社化されたNTTデータ(1988年設立)とNTTドコモ(1992年設立)等をグループ会社とする持株会社となった。

現在NTTという呼称は、NTT東日本、NTT西日本、NTTコミュニケーションズを抱合する固定電話事業(分割前の日本電信電話自身が行っていた電気通信事業)を指すことが多い。

「日本電信電話株式会社等に関する法律」第3条により、「会社及び地域会社は、それぞれその事業を営むに当たつては、常に経営が適正かつ効率的に行われるように配意し、国民生活に不可欠な電話の役務のあまねく日本全国における適切、公平かつ安定的な提供の確保に寄与するとともに、今後の社会経済の進展に果たすべき電気通信の役割の重要性にかんがみ、電気通信技術に関する研究の推進及びその成果の普及を通じて我が国の電気通信の創意ある向上発展に寄与し、もつて公共の福祉の増進に資するよう努めなければならない」とされているが、具体的且つ個別・直接的な義務は負っていない。同法第2条第4項により、県境を越える通信サービスを開始する場合は総務省の認可が必要であったが、2011年(平成23年)の同法改正により事前届出制に変更された。

現在も、基礎研究を手掛ける研究部門は分割されず持株会社内部に残っている。持株会社の事務部門は基本的には子会社からの出向という形を取っているが、研究職は持株会社が独自に採用している。また、独自に研究セクションを設けた子会社もある。

再編成にあたって、「日本電信電話株式会社法」による規制の有無と業態によりグループ会社を第1類 - 第4類に分類し、事業・サービスの整理・統合を進めている。なお、第1分類は規制会社でNTT東日本、NTT西日本が、第2分類は競争会社でNTTコミュニケーションズ、NTTデータ、NTTドコモ、第3分類は経営資源活用会社でNTTコムウェア、NTTファシリティーズ等が、第4分類は新事業開拓会社でNTTファイナンス、NTT都市開発等が該当する。

歴代社長

代数 氏名 在任期間 出身校
初代 真藤恒 1985 - 1988 九州帝國大学工学部
第2代 山口開生 1988 - 1990 東京大学・工学部
第3代 児島仁 1990 - 1996 北海道大学法経学部
第4代 宮津純一郎 1996 - 2002 東京大学・工学部
第5代 和田紀夫 2002 - 2007 京都大学経済学部
第6代 三浦惺 2007 - 2012 東京大学・法学部
第7代 鵜浦博夫 2012 -

NTTグループが手がける主なサービス

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有線での通話・通信事業

事業者識別番号

  • 0033、0034、0035(NTTコミュニケーションズ)…マイラインで用いるのは0033となる。
  • 0036(NTT東日本)
  • 0039(NTT西日本)

移動体通信事業

公衆無線LAN

インターネット・サービス・プロバイダ

金融・リース

その他事業

災害対策基本法関連

NTTグループのうち、以下の企業は災害対策基本法内閣総理大臣の指定を受けており、災害発生時に他の指定公共機関相互の通信を確保する義務を負っている。

  • 当社…グループ全体における通信業務の調整
  • NTT東日本・NTT西日本
  • NTTコミュニケーションズ
  • NTTドコモ

ライバル企業のKDDIも、1社で上記サービスや携帯電話サービスを行っていることから同法に基づく指定を受けている。

主なグループ企業

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研究拠点

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医療機関

テンプレート:Vertical images list 旧逓信病院を引継ぎ運営を実施している。企業立病院であるが、NTTグループ関係者以外も利用が可能である。NTT東日本が運営する医療機関としては以下の4病院がある。

NTT西日本においても同様に以下の6病院が運営されている。

CI

ロゴ

シンボルロゴはダイナミックループと呼ばれる。NTT誕生の際、グラフィックデザイナー亀倉雄策がCIデザイン会社パオスから発注を受けて制作担当した。

ドメイン名

NTTはインターネットドメイン名として、JPccTLDの運用初期から『ntt.jp』を有していた。

JPNICがセカンドレベルドメインを導入した際、NTTはドメイン名が広く認知されていることを理由に特別に『ntt.jp』の継続使用を許されていたが、後にco.jpドメインへと移行 (ntt.co.jp) した。

高エネルギー物理学研究所(KEK、当時『kek.jp』を保持)にも同様の措置がなされたが、こちらはセカンドレベルドメイン導入後、汎用JPドメインが誕生するまでの間も『kek.jp』を使い続けていた。

キャッチフレーズ

CMのアイキャッチにおいてシンボルロゴの上にキャッチフレーズが添えられていた。

  • 1985年-1986年:未来を考える人間企業。
  • 1995年-1996年:電話の先へ。
  • 1996年-1997年:ひろがるマルチメディア
  • 1997年-1998年:マルチメディアは世界をむすぶ

俗称

1990年代前半のパソコン通信の全盛期、キーボードの「N」「T」「T」に刻印されたカナ文字から、ニフティサーブ等のパソコン通信のコミュニティを中心に、隠語的に「みかか」とも呼ばれ、パソコン通信やインターネットダイヤルアップ接続にかかる高額な電話料金は「みかか代」と表現することも多かった(詳細はみかかの項参照)。

各年度業績

米国会計基準による各年度業績(単位:百万円) [5] [6] [7] [8] [9]

決算期 営業収益 営業利益 税引前
当期純利益
当期純利益
平成16年3月 11,095,537 1,560,321 1,527,348 643,862
平成17年3月 10,805,868 1,211,201 1,723,312 710,184
平成18年3月 10,741,136 1,190,700 1,305,863 498,685
平成19年3月 10,760,550 1,107,015 1,132,702 481,368
平成20年3月 10,680,891 1,304,609 1,322,291 635,156
平成21年3月 10,416,305 1,109,752 1,105,163 538,679
平成22年3月 10,181,376 1,117,693 1,120,071 492,266
平成23年3月 10,305,003 1,214,909 1,175,797 509,629
平成24年3月 10,507,362 1,222,966 1,239,330 467,701

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

テンプレート:Navbox テンプレート:TOPIX 100

テンプレート:特殊法人
  1. 1973年(昭和43年)の中東戦争勃発に端を発した第1次オイルショック後の不況克服に際し、当時の経団連(会長土光敏夫)は大規模な財政出動を迫った。政府はこれを受け税収不足のため、赤字国債の発行を認める公債特例法が制定し、財政に占める国債依存度が急速に増加することになった。
  2. 政府保有株の名義人は大蔵大臣であった。2001年の中央省庁再編により現在の政府保有株名義人は財務大臣である。
  3. 1986年(昭和61年)2月16日、札幌証券取引所新潟証券取引所京都証券取引所広島証券取引所福岡証券取引所にも上場された。
  4. このエピソードは、バブル景気の象徴として語り継がれている。
  5. 2005年(平成17年)3月期(pdf)
  6. 2006年(平成18年)3月期(pdf)
  7. 2008年(平成20年)3月期(pdf)
  8. 2010年(平成22年)3月期(pdf)
  9. 2012年(平成24年)3月期(pdf)