手塚治虫
テンプレート:統合文字 テンプレート:Infobox 漫画家テンプレート:Sidebar with collapsible lists 手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治(読み同じ)、1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。 医学博士。血液型A型。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った。兵庫県宝塚市名誉市民。
大阪帝国大学附属医学専門部[1]在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。
1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。[2]
藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝などをはじめ数多くの人間が彼に影響を受け、接触し漫画家を志した。
長男に映像作家の手塚眞、長女にプランニングプロデューサーの手塚るみ子、次女に女優の手塚千以子がいる。また、姪は声優の松山薫。
目次
生涯
出自
手塚治虫(本名・治)は1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日[3])と母・文子の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた[4]。祖父・手塚太郎は司法官で、1886年(明治19年)に創立された関西法律学校(現在の関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任している。曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現在の東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』でフィクションを交えつつ描かれており、福澤諭吉の自伝(『福翁自伝』)にも記録が残っている。遠祖は平安時代の武将・手塚光盛とされる。家系図[5]
父・粲は住友金属に勤める会社員であり、カメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回し映写機(パティベイビー)を所有しており、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた[6]。そのため治虫は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという[7]。なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、手塚の家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・繪叢書」など、200冊を超える漫画本があったという[8]。また、後に治虫が父が母に向けて書いたラブレターを発見した際、ラブレターに漫画が描かれてあるのを発見し、「やっぱり自分は父の息子だ」と思ったという[9]。
母・文子は陸軍中将服部英男の娘で厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が召集された際は、生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで務める働き振りを示す[10]一方で、幼少期の治虫に子守唄代わりに絵本や漫画を登場人物ごとに声音を使い分けて読み聞かせていた。母もまた漫画好きであり、後に治虫の長男・手塚眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅にパラパラ漫画を発見し、てっきり治虫によるものだと思っていたが、後になって治虫の母・文子が描いたものだったと判明したというエピソードもある[11]。
治虫は初期の自伝などで父を悪く書き、母を持ち上げるというエディプスコンプレックス丸出し[12]の行動を取っている。父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白として、あるいは治虫自身に害のある行動を取ったと回想しているものであり、そのうちの一部は後にエッセイなどで事実上の撤回をしている(初期の自伝などで父は漫画を買ってくれず主に母が漫画を買ってくれたとしていたが、後年のエッセイではむしろ父親が買ってくれていたと変わっている)。実妹である宇都美奈子は治虫没後のインタビューで、父親について決して強権的ではなく家庭サービスにも熱心であったと述べている[13]。
幼少期
1933年、治虫が5歳の時に、一家は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)に移った。戦前の寶塚(宝塚)は田園風景の中に新興の住宅地が散在し、その中心に宝塚歌劇団の本拠地の宝塚大劇場、宝塚ファミリーランドの前身の宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽地が立ち並び、一種の異空間を形作っていた[14]。このような人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる[15]。父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治虫は父に連れられてホテルのレストランで食事をし、母には宝塚歌劇団に連れて行ってもらっていた[16]。また手塚家の隣家は宝塚歌劇団のトップスターである天津乙女と雲野かよ子姉妹の家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、歌劇団の女性と接する機会も多かった[17]。 のちに手塚は、初恋の相手が宝塚の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚に通ったこと、月丘夢路や淡島千景のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている[18]。
1935年、池田師範附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)に入学。母が東京出身だったこともあり、近畿方言を話せず、浮いていた存在だったため、小学校2年の時に「ガヂャボイ」というあだ名を付けられ、からかいの対象になった。囃し歌を歌われる度に泣いていたという。しかし、幼い頃から見様見真似で描いていた漫画絵が治虫を救うことになる。小学校3年の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み[19]、小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという[20]。漫画を描くことでクラスからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなり、誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた[21][22]。友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶と菓子でもてなされ、治虫の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しが振舞われた[23]。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている[24]。
この時期に、同級生の石原実(大阪淀屋橋石原時計店・現社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる[25]。手塚家の広い庭は昆虫の宝庫であり[26]、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた[27]。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなみ、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた[28]。
青年期と戦争体験
1941年、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学。時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、手塚は漫画を描いているのを軍事教練の教官に見つかり殴られるなどしている[29]。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。
1944年夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられ、9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され[30]、ここで格納庫の屋根にするスレートを作っていた[31]。
1945年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。6月、勤労奉仕中に監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る[32]。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている[33]。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった[34]。
1945年3月に旧制浪速高等学校を受験し落ちたものの[35]、同年7月、手塚は試験を受けて大阪帝国大学附属医学専門部[1]に入学した。医学専門部は戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に付設されたもので、1951年に廃止されている。学制上は旧制医学専門学校と同じであったため、旧制中学校からの入学が可能であった[36]。
デビュー、赤本の世界へ
終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った[37]。これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い[38]、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている[39]。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド(後述するものとは別物)』なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近い形で終わっている[40]。
1946年、手塚は酒井七馬が後見役を務める同人誌『まんがマン』の例会を通じて酒井と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる[41]。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった[42]。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作され[43]、1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている[44][45](後段#新寶島(新宝島)の革新性も参照)。
ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった[46]。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった[47]。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている[48]。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描いており[49]、1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者よりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める[50]。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得している[51]。このため、後に手塚は自伝『僕はマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている[52]。
雑誌連載開始
手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった[53]。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになった[54]。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった[55]。1954年には『ジャングル大帝』の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。
雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった[56]。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と平行して付録冊子の形で描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、この形で単行本時代の作品も続々とリメイクされていった[57]。
私生活の面では、1952年に上京しており、翌1953年に『漫画少年』からの紹介で豊島区のトキワ荘に入居[58]、その後手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄が入居。手塚は自分の部屋である14号室を藤子不二雄の二人に譲り転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫らが続々と入居し、トキワ荘は漫画家の一大メッカとなった。
なお、1953年に手塚は関西の長者番付の画家の部でトップとなっているが、仕事場が木造2階建て建築のトキワ荘であったため、取材に来た記者に驚かれ、以後手塚は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている[59]。この時、トキワ荘の漫画家には映画をたくさん観るように薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという[60]。
『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作の連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている[61]。1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており[62]、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。この他にも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており[63]、1958年には東映動画の嘱託となってアニメーション映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受け持っている[64]。
劇画との闘い
1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝といった売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気の面ではそうした漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた[65]。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新たに登場した劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした[66]。
当初は劇画の雑誌にも連載を持つなどしていたが、手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたという[67]。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、次第に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる[68]。
1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、以後月刊少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし『少年サンデー』初代編集長の豊田亀市は、契約料200 - 300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している[69])が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている[70]。同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と宝塚ホテルにて華燭の典を挙げる。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず[71]、しかも結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという[72]。悦子は梅花高女(現在の梅花中学校・高等学校)出身であり、この学校が当時「大阪のひどい方で一流の、つまりすごい学校」だったため、手塚は「鉄火肌のおもしろい子」を期待して悦子と結婚したが、実際に結婚してみるとそうではないことがわかったという[73]。
アニメーション
前述のとおり、幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、アニメーションの制作は念願の仕事であった。特に影響を受けた作品は『バンビ』。日中戦争中の1942年(昭和17年)に日本でも公開されたアジア初の長編動画作品『西遊記 鉄扇公主の巻』(中国、1941年、73分、モノクロ)を観て感動する。プロの漫画家になる前の敗戦の年1945年に、手塚は焼け残った大阪の松竹座で海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このとき将来自分の手で必ず漫画映画を作ることを決意したという[74]。戦後1946年(昭和21年)に上京した際には漫画映画製作会社「芦田漫画製作所」(芦田巌)に出向いて採用を志願したが断られている。漫画は手塚にとってアニメ-ション制作の資金を得るための手段だった[75]。評論家の大宅壮一から(華僑のように出身地の大阪を離れて東京で稼ぐという意味で)「阪僑」と嘲評されるほど漫画を描いて稼ぎまくった。また自らを「ディズニー狂い」と称した。また前述のとおり、東映動画から請われて嘱託の仕事を受けてもいる。
1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立。当初は6人のスタッフから始まった[76]。スタッフの給料から制作費まですべてを手塚の描いた漫画の原稿料で賄い、1年をかけて40分のカラー長編アニメーション作品『ある街角の物語』を制作。この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する[77]。動画部は1962年から「虫プロダクション」と改名し、日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。しかし総勢10名にも満たないスタッフでは毎週テレビ放送用にディズニーのようなフルアニメーション番組を制作することは作業の量から不可能であり、絵の枚数を大幅に削減するリミテッドアニメの手法を必要に迫られて編み出すに至った。毎週放送のアニメーション番組を実現するために(既にアメリカのハンナ・バーバラプロダクションなどでも工数を減らしたリミッテッド・アニメーションの制作は行われていたがそれらも参考にして)試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることとなる。虫プロの鉄腕アトムは、当時の日本のテレビアニメーションを代表する大人気作品になった。1967年には自身の漫画が原作である『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞している。1969年から「アニメラマ三部作」(二作目『クレオパトラ』を監督)が制作される(注:アニメラマの第一作目「千夜一夜物語」と第二作目のクレオパトラの企画と制作には手塚は強く関わっているが、三作目のアニメラマ「哀しみのベラドンナ」は手塚が虫プロダクションを辞した後に作られた作品で手塚は全く関与をしていない)。これは従来の子供向けアニメ映画とは逆の位置にあり、成人向けに作られた劇場用アニメーション映画であった。また虫プロダクションはアニメーション監督としては杉井ギサブロー、りんたろう、山本暎一、出崎統、高橋良輔、富野由悠季、吉川惣司など、アニメーターとしては中村和子、月岡貞夫、川尻善昭、芦田豊雄、安彦良和、杉野昭夫、荒木伸吾、北野英明、村野守美、金山明博など、制作者としては丸山正雄、鈴木良武、岸本吉功、田代敦巳、清水達正、若尾博司、八田陽子、明田川進、酒井明雄、布川ゆうじなど後に日本を代表するアニメーション制作者となる人材を多く輩出した
たとえリミテッド・アニメの手法を用いるにしてもテレビ放送の30分枠用に(最低レベルで)1本2、000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げる[78]という苛酷な労働状況が作られることとなった。また作品を1本55万円[79]という破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればテレビアニメが普及させやすいのと、他の会社と差を付けるためだったと語るが[80]、後に手塚自身が「大失敗だった」[81]と認めたように、これは大きな誤算であった。『鉄腕アトム』の成功を見て他社が次々と新規参入して低予算でテレビアニメが続々と制作され放映されることになった[82]。しかし当初は経営が苦しかった虫プロも『鉄腕アトム』が世界的に大ヒットすると版権(マーチャンダイジング)収入で莫大な利益が上がるようになり急速に規模が拡大してゆき(最盛期には社員総数が一時は400名から最大550名の規模となり)、「鉄腕アトム」は虫プロダクションを黒字にさせた。[83]。その後『鉄腕アトム』は4年間の放映期間の最初の1年半で手塚の漫画原作をほぼ使い切ってしまい、その後に虫プロ文芸部のスタッフが作ったエピソードは人気を得るための戦闘が描かれる傾向が強まり、「鉄腕アトム」から手塚の好んだアニメーションらしいユーモアが失われていった[84][85]。
また手塚の存命中からアニメーターの給料が安いのは手塚のせいと雑誌で非難されることがあったが、手塚はこう反論している「しかしね、ぼく個人我慢ならんのはね、こういう声があるんだよ。手塚があのアトムを売る時、べらぼうな安値できめてしまったから、現在までテレビアニメは制作費が安くて苦労するんだと。冗談じゃないよ。」「あの時点での制作費はあれが常識なんで、あの倍もふっかけようもんなら、まちがってもスポンサーはアトムを買わなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代なんて夢物語だったろうね。」「たしか四十何万が制作費で、ぼくの持ち出しは二十万くらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組はあたるということで、それから半年ほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作費は、なんと百万ですよ!つまりそれだけ出してもモトがとれてお釣りがくると企業は踏んだんだ。それから先はご覧の通りですよ。現在制作費は五百万円が下限で、六、七百万円ぐらいはスポンサーが出しますよ」[86]。 また杉井ギサブローは、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。
一方で、手塚はアート・アニメーションの分野にも功績を残している。虫プロで『おす』、『しずく』、『タバコと灰』、『創世紀』、『めもりい』といった短編の非商業作品を制作し、第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリに『おんぼろフィルム』が選ばれている(名誉会長ポール・グリモー、審査委員長はラウル・セルヴェ、選考委員長アントワネット・モゼス)。虫プロ社内には社長であった手塚の発案により、実験作品の製作資金に対して20万円の助成制度まで設けられていた(手塚によれば、虫プロを設立したのは本来は実験アニメ-ションの制作を行うためであったと語っている)。
低迷と復活
アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと平行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年 - 1965年にかけて行なわれている[87]。他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件も1965年の出来事である。
1966年、手塚は実験漫画雑誌『COM』を創刊する。先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので[88]、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品であった[89]。1968年には青年誌『ビッグコミック』(小学館)、『プレイコミック』(秋田書店)などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった[90]。
一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け[91]、「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』(週刊少年チャンピオン)、『アポロの歌』(週刊少年キング)などを発表しているが、この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた[92]。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション(すでに1971年には経営者を退いていた)が倒産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負うことになった[93]。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している[94]。
1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものであった[95]。しかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は逆に新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった[96]。さらに1974年、『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げることになる[97]。
1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』(朝日ソノラマ)の創刊によって再開。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた。また、同時期の漫画文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった[98]。
晩年
1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』(週刊文春)など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる[99]。「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞を受賞し、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。
1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。同年5月に退院するものの以前とまったく変わらない多作振りを見せた。しかし同年11月、中国上海でのアニメーションフェスティバル終了後に倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。医師の診断ではスキルス性胃癌であった(しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人にはそのことは告知されなかった)。
翌1989年1月21日に手塚プロ社長がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという[100]。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は[101]、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。
同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る[102]。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった[103][104]。手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。
そして半蔵門病院の病室で、1989年(平成元年)2月9日午前10時50分死去。通夜は2月11日、東久留米市の自宅で[105]、葬儀は3月2日、東京都港区の青山葬儀所で手塚プロダクションの社葬として[106]、それぞれ営まれた。
その死によって『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』などの作品が未完のまま遺された[107][108]。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる[102]。
しかし、手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。
作風と功績
手塚が影響を受けたもの
手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクちゃん』の模写をするようになったが、7歳の頃に出た謝花凡太郎によるミッキーマウスの海賊版単行本に夢中になり、この本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)。手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年頃まではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で、「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年正月に大阪の朝日会館で行なわれる「漫画映画大会」で上演されたものであった。父が家庭用映写機を購入した時には、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『白雪姫』が封切られた時には映画館で50回、次の『バンビ』は80回以上観たという。手塚は「尊敬する映画人」として、チャールズ・チャップリンとウォルト・ディズニーを挙げている[109]。なお、竹熊健太郎は手塚が得意とした「楽屋落ち的なメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、フライシャー兄弟のアニメーションからも影響を受けていることを指摘している[110]。
また、夏目房之介は、「手塚が漫画に持ち込んだ外部性・異質な文化」として、ディズニーとともに文学、演劇、宝塚文化を挙げている。幼少期の手塚の家には世界文学全集があり、よく外国文学を読み漁っていたという。後に漫画化したドストエフスキー『罪と罰』やゲーテの『ファウスト』は何十回も読み返しており、特に『ファウスト』は日本を舞台にした翻案作品『百物語』『ネオ・ファウスト』を含めると3度にわたり手塚によって漫画化されている。また宝塚演劇に惹かれたことで手塚は演劇青年となり、大学で演劇部に所属していたほか、在学中の1950年頃には関西民衆劇場に所属し、ドストエフスキー『罪と罰』の公演にペンキ屋の役で出演するなどしている[111]。夏目は初期の手塚作品の大げさな表情やポーズ、舞台セットのような背景に宝塚演劇の影響を見ており、また手塚漫画の特徴である牧歌的な風景と未来的な風景の同居を、当時の宝塚の人工的な風景に由来するものと見ている[112]。
新寶島(新宝島)の革新性
手塚治虫の最初期の作品である酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は戦後ストーリー漫画の原点とされ、本作を読んで影響を受けたり、漫画家を志した読者も多い。藤子不二雄[113]、石ノ森章太郎[114]、ちばてつや[115]、望月三起也[116]、楳図かずお、中沢啓治など。劇画を始めた辰巳ヨシヒロ[117]、桜井昌一[118]、佐藤まさあき[119]も衝撃を語っている。
その一方で、この作品で手塚が「新寶島」で映画から学んだ革命的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような話題も生んだ[120]。これは一部正しいが、全てが正しいと言うわけではない。呉智英は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新寶島』の1ページ3段のコマ割りはむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である『スピード太郎』(宍戸左行)と比べても革新的なものとは言えないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」が見られるとしている[121]。米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている[122]。また、中野晴行は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れて、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。一方、野口文雄は中野の説を批判し、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物のセリフによる説明に頼っていた時間や状況の進行を、セリフによらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする[123]。
上記のような話題が生まれた背景には、1938年に内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書の表現規制が10年近くなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのような中で『新寶島』に触れた衝撃や影響を、藤子不二雄Ⓐなど後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった[124][125]。
夏目房之介は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった[126]。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし[127]、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった[128]。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などを始めとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった[129]。
上記の絵柄の記号化、体系化は漫画制作の平行作業化分業化を容易とするもので、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした[130]。漫画の制作に対して(アニメーション制作と類似の)アシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由による。それまで漫画では丸ペンの使用が一般的だった)、スクリーントーンの採用などがある[131](注:日本で漫画制作にスクリーントーンを導入したのは手塚治虫が最初ではない)。
手塚作品のテーマ
手塚は作品の中で天使と悪魔の二面性や、異民族間、異文化間の対立や抗争などを繰り返しテーマにしている。手塚は戦後間もない頃、酔っ払ったアメリカ兵にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている[132]。もっとも、『ジャングル大帝』などにおける「分厚い唇、攻撃的なイメージ」といった類型的な黒人観は批判されており、手塚の死後の1990年には「黒人差別をなくす会」により糾弾を受けている。これ以後、手塚の単行本には差別と受け取られる表現について弁明する但し書きが付けられるようになった[133]。
手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「生命の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げている[134]。これらのテーマから手塚作品のヒューマニズム的な側面がしばしば強調されることになったが、インタビューではそのことを嫌い、「はっきりいえばヒューマニストの振りをしていれば儲かるからそうしているだけで、経済的な要請がなければやめる」と皮肉を込めた発言も残している[135]。別のインタビューではヒューマニズムという側面からの制約がある自身の作風と比べ「(自分が本音で描くと非難の声がたくさん上がることについて)つげ(義春)君とか、それから水木(しげる)氏、滝田ゆう、このへんなんか、ほんとに本音だけで描いてるんで、羨ましくてしょうがない」と述べている[136]。
また、漫画を描く際にプロ・アマ、更には処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、“基本的人権を茶化さない事”を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいが、「戦争や災害の犠牲者をからかう」「特定の職業を見下す」「民族、国民、そして大衆を馬鹿にする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べている[137]。
夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生の頃によく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、エロス、世界との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている[138]。
子供のときの僕の夢は空飛ぶ夢とかそういうのはあまりなくて、やたらに見ているものがどんどん変わっていくような、また変わるものがセクシャルで僕の興奮につながるような……。[略]常に形が一定しないで、いろいろなものに変わる。たとえば僕と一緒に歩いている相手がいるんだけど、それは何かわからないが常に形が変わっている。僕に対して仕掛けることが常に違う。その恐怖感と同時にセックスアピールを感じる。[略]本当に異次元的なものですね。宇宙人なのか女どもなのかわからないが、僕の周りにとにかくそれがいるんです。それが常に変わる。
僕は宝塚に住んでいたんですが、学校の帰り道にちょっと寂しい沼があって、そこを通って家に帰るんです。小学生とか中学生のころそこを通る夢をよく見ました。沼地の横で得体の知れないものがブルブルふるえながら僕を待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、僕と物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう。その間も僕がそいつを見つけ、そいつが僕のところに寄ってきて、つかまえて家に帰るまでに、何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです。[略]だから女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる。[略]つまり、常に動いている楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです。つまり、しょっちゅう変化していることによって、変化しながら進化しているとか、何かに働きかけようとしているとか、つまり、一つのアクティブな感じを受けるんです。で自分はどうかというと常にパッシブでそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです。[139]
夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという[140]。
鳴海丈が書いた書籍『萌えの起源』(PHP新書 2009年)によると「萌え」文化が日本に誕生した理由を手塚によるものが大きいとし、その理由を「ボクっ娘」「萌え擬人化(擬人化)」「ケモノ」「ロリ系」等といったジャンルを日本漫画黎明期から"意図的に"漫画の中で使用してそれが広がったことを上げている[141]。
人物
年齢と経歴と血液型
手塚治虫は、1928年生まれでデビュー時は1946年1月4日で17歳であったが、1946年1月1日付の少年国民新聞(現在の毎日小学生新聞)にデビュー作の「マァチャンの日記帳」が紹介された際には、19歳として以下のように紹介されていた。
『新しく明日(原文ママ)から連載する漫画「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲(原文ママ)さんはみなさんと同じクリクリ坊主で十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大医学専門部に通学して、お医者さんになる勉強をしていられますが、小さい頃から漫画が大好きで国民学校2年生の時からいろいろの漫画をかいて、たのしんでいられました。あんまり上手なのでみなさんのために連載することにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがって上げて下さい[142]。』
関係の有無は不明だがこの時手塚は当時日常的に使われていた数え年ではこの記事が掲載された1946年元日で19歳になる。
また、手塚は大阪帝国大学医学専門部の卒業生であり上記のようにデビュー当時の新聞には「大阪帝大医学専門部(ママ)」と事実通りに紹介されていたが、1980年代には[143][144]、1944年に旧制「浪華高校理乙」入学後、1945年に「大阪大学医学部予科入学」として紹介されることもあった。しかし「浪華高校」も「大阪大学予科」も存在しない学校であり、手塚の没後に出版された小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によってこのことが指摘された[145]。(ただし書籍によっては事実通りに紹介されているものもあり、1978年に手塚が書いた雑誌の寄稿文では自分のことを帝国大学医学専門部の学生だったと振り返っている[146][147]。)
1989年の手塚と石ノ森章太郎との対談では「自分は20歳でデビューした」という体で話を進め、17歳でデビューした石ノ森を叱責している[148]。(なおデビュー作のマァチャンの日記帳に手塚の紹介文が載ったのは1月1日のため数え年では前日では18歳、当日では19歳になる )
晩年では生年月日は大正15年(1926年)で定着していた。世間一般に本当の生年が明らかにされたのは死去直後のことであり、訃報を伝える新聞でも新聞の種類によって生年が異なるという不思議な事態が起きた。親しい立場にあった漫画家でさえ本当の年齢を知って驚いたほどであった[149]。手塚の年齢や経歴が違って紹介されていた理由については出版社が取り違えたものか手塚の勘違いなどによるものか意図的なものなのかは不明のままである。
血液型はプロフィールにおいてB型と紹介されることもあったが、現在ではA型ということで落ち着いている[150]。手塚本人の著書では「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、1980年代頃に精密検査を受けてA型と知らされた」とも記している[151]。なお、息子である手塚眞もA型である。
才能と仕事法
ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。飯沢匡がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった[152]。
手塚のアシスタントであったわたべ淳は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことを証言している[153]。フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができ、揺れるタクシーや飛行機の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、乗り物の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている[154]。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対する負い目があったとも言われている[155]。
上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。
漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。
速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという[156]。喫茶店などで打ち合わせの前に本屋に立寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。
漫画の製作に取り掛かりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。
また手塚は極度の激務家だったことで知られる。手塚自身、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったと言われる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。
医学者として
前述のとおり、手塚は医師免許を持っていたが、インターン時代を除き、医師として患者を診たことはない。興味本位で診察を受けに来た人間はすべて追い返していたという[157]。息子の眞によれば、手塚は血を見るのが嫌いで医師の道を断念したとのこと。漫画家になるか医師になるか迷ったとき、母に自分の好きな方をやりなさいと言われて決心したとも伝えられている。また医学校の恩師に、医師になるよりは漫画家になるように説かれたとも。
医師としての専門は外科。担当教授の紹介で奈良県立医科大学の研究生となり、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究。タニシの精子の研究を通じて人間の精子の発生のメカニズムを考えるというもの)で医学博士を取得。同論文は『奈良医学雑誌』第11巻第5号、1960年10月1日、pp.719-735.に所収されている。
手塚はプロの漫画家になった後も正規の医師の免許証を保持し続けていた(医師の免許証は取得後は基本的には終身有効である)。没後の2003年11月20日に宝塚手塚治虫記念館の企画展「『ブラック・ジャック』のDNA」にその現物が公開陳列されたときにある識者から、免許を有する医師が死亡の際には免許証は国に返納せねばならないと定めた法令に違反している、という指摘があって問題があることが判明した。そのため厚生労働省と協議した結果、いったん規定どおりに返納手続きを行った後に同省が改めて遺族に譲渡するという特例の措置を取ることで済ませられることになった(厚生労働省医政局医事課試験免許室では「こういった例は過去にあまりない」としている)[158]。
プロ野球との関わり
手塚治虫はプロ野球と関係が深く、特に「アトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)」と「埼玉西武ライオンズ」に繋がりがある。
現在の東京ヤクルトスワローズは「国鉄スワローズ」という名前で誕生し、1965年に運営団体がフジサンケイグループに移り、「サンケイスワローズ」と変わった。 1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことと、サンケイ新聞に鉄腕アトムを連載していたことから、名前を変え鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。「サンケイアトムズ」は1969年に「アトムズ」に変わり、経営権がヤクルト本社に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。「ヤクルトアトムズ」は現在の「ヤクルトスワローズ」の直接の前身である。
また、「埼玉西武ライオンズ」も手塚と繋がりがある。 1978年、クラウンライターライオンズが西武グループに買収され西武ライオンズ(2008年、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には、『ジャングル大帝』の主人公・レオがマスコットに採用され[159]、2008年までユニフォームの帽子もレオをデザインしたものが使われていた。また、オリジナルキャラクターでレオの妹・ライナも1981年より登場している。
2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。日本生命セ・パ交流戦、西武ドームで開催された西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。
また2013年4月には、「読売ジャイアンツ」と「鉄腕アトム」のコラボレーション企画「GIANTS×ATOM」が発表された。この企画では鉄腕アトムの登場人物達が読売巨人軍のユニフォームを着たキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品化され東京ドーム内グッズ売店等で売りだされることになった。
なお、手塚自身は阪神タイガースファンであった。1950年の年賀状では、「野球ものも考えていますが近頃の阪神の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム[160]を着た虎が素振りをしているイラストに添えてコメントしており[161]、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。 1985年に阪神が優勝し日本シリーズで西武と対戦した時は「どちらも勝て」と大弱りだったという[162]。
関係のある漫画家
- 藤子不二雄
- 藤子不二雄の二人は手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受け漫画家を志した。彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出しその返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と直筆のハガキを受け取った。そのハガキは手塚のキャラクターの絵と一緒に、文字が角度を変えながら中心に近づくように書かれており、ハガキをぐるぐる回しながら文字を読むという手塚らしい実にユニークなものであった。このハガキがますます彼らを漫画家に志すことに拍車をかける。藤子不二雄は彼にちなんで初めは「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」名義にした。高校生の頃は二人で手塚の実家に訪れた。その後藤子不二雄としてデビューし手塚の住んでいたトキワ荘14号室に入れ替わりで入居して暮らす。手塚はお金のない二人のために敷金の肩代わりと、漫画を描くための机を残している。そのため、藤子不二雄の初期作品は手塚の机で描かれたものである。手塚が住んでいた憧れのトキワ荘14号室に住めたことについて藤子・F・不二雄は「四畳半というものがこんなに広いものかと感動しました[163]」と語る。藤子不二雄Aも自身の漫画でトキワ荘14号室を宇宙のような壮大な情景で描いている。その後、たびたび手塚治虫の緊急アシスタントとして手塚の仕事を手伝っていた。藤子・F・不二雄は生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。藤子不二雄Aも同様に手塚を尊敬し、自伝漫画「まんが道」では手塚を最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとっても神であった」と頻繁に手塚を「神」と表現した。 現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響が大きい(それ以前は漫画の王様といわれてもいた)。藤子不二雄が漫画家25周年を迎えた際には手塚タッチのドラえもんとドラえもん風のヒョウタンツギを描いた色紙をプレゼントしている。その25週年記念パーティーは手塚が仕切り、二人を二次会まで連れて行っている[164]。手塚は藤子不二雄Aのスタジオに突然ひょっこり現れて「ハハハ、来たよ」と特に用事もないのにふらっと訪れることもあった[165]。また藤子不二雄Aが新宿の焼き鳥屋で飲んでいると、そのことを聞きつけた手塚がやってくることもあったという。手塚は藤子・F・不二雄と二人で映画を見ることもありその時の映画は「惑星ソラリス」である。手塚は藤子の本の寄稿で「オバケのQ太郎」のことを「おばけという概念をこれほどまでにキュートに、子どもの世界にひきずりおろして描いた作品は以前にないでしょう。アメリカには幽霊の子どもを主人公にしたキャスパーという例がありますが、これよりもずっととぼけていて性格づけがみごとです。」「キャラクターの描きやすさの点でも、まず、オバQ君にかなうものはありますまい。(日本に現在のようなキャラクター漫画が流行する前の発言)」と語っている[166]。手塚治虫の漫画「七色いんこ」では藤子のドラえもんが登場したり、「黄金のトランク」では主人公の名前が不二雄である。「どろろ」と「バンパイヤ」には「オバケのQ太郎」が登場。「ガチャボイ一代記」では藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aが手塚のアシスタントをする様子を手塚自身が描いている。手塚治虫漫画全集の「ジャングル大帝」のあとがきには藤子不二雄の二人へアシスタントしてくれたことに対する激励と感謝の言葉が書かれている。藤子の二人の結婚式の仲人は手塚が務めた。藤子・F・不二雄は手塚が亡くなった時の追悼文に「高校生になっても先生のまんがを読み続け・・・、気がついてみると自分もまんが家になっていた」と語っている[167]。
- ちなみに、手塚、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Aの3人が住んでいたトキワ荘14号室の天井はトキワ荘解体時に手塚が持ち帰っている。その理由は「室内にこんろを持ち込んでご飯を炊いたり、煮炊きをした。あの時の煙は天井にしみ込んでいるはず。大家さんに頼んで天井板を記念に譲ってもらいます」とのこと[168]。
- 石ノ森章太郎
- 石ノ森(旧:石森章太郎)も手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受けた[169]。中学生の頃、手塚に分厚いファンレターを出したところ、手塚からさらに分厚い封筒の返事が届き、ますます手塚のファンになったという[170]
- 石ノ森は高校在学時、手塚が連載していた『漫画少年』の投稿欄に投稿をするようになる。手塚は漫画少年に送ってきた石ノ森のことを「天才的な少年の絵」と褒めている[171]。そして「鉄腕アトム」執筆中の手塚に依頼され、石ノ森は学業を中断して手塚のアシスタントを務めた。手塚は回を追うごとに上手くなる石ノ森の絵を見て舌を巻き仕事を手伝ってもらったと語る。アシスタント経験中は手塚は激務だったはずが石ノ森を映画に連れ出している。その時の様子を石ノ森は「ギリギリの仕事のなかで、ある日、夜になると編集者の目を盗んでこっそりぼくを映画館に連れて行ってくれた。ぼくだって当時のご多分にもれぬ映画少年である。編集者には申しわけないが、ちゃっかり便乗していた」と語る。そして、手塚が編集者に紹介したことにより石ノ森は漫画家としてデビューすることになった。その後石ノ森は手塚が住んでいたトキワ荘に住んだ。手塚は自身の漫画に石ノ森を度々登場させている。石ノ森章太郎の結婚式の仲人は遅刻するも手塚が務めた。テレビ映画「快傑ハリマオ」の漫画版では手塚が原作、作画が石ノ森で共作をした。1959年、石ノ森は手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚治虫の身代わりとして東映動画の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。後にこの体験が石ノ森が東映グループでゴレンジャー(スーパー戦隊シリーズ)等を代表とする特撮作品の原作を担当するきっかけに繋がる。
- また石ノ森は手塚が亡くなる少し前にも対談をしており、石ノ森は手塚のことを「面白おかしく事象を表現するだけと思われていた漫画というメディアで、ペーソスのみならず悲劇や深い哲学的な思索まで持ち込んで、ドラマを描くという試みは前人未到の事だった。」と彼の業績を評価している[172]。手塚は対談で石ノ森の漫画「仮面ライダー」のことを「繰り返し、繰り返し読まれてもちっとも見劣りしない作品」と褒めている[173]。
- 石ノ森はデビュー後のお金のない19歳の頃、手塚に内緒で「火の鳥風太郎」という手塚の代表作のアイデアを使った作品を描いている。本作で得られた原稿料は全てオーディオ機器を購入するために当てられた。
- 赤塚不二夫
- 赤塚不二夫も手塚治虫の漫画「新寶島」「ロストワールド」に出会ったことで漫画家になることを決意した[174]。彼が18歳の時は長谷邦夫、石ノ森章太郎と一緒に『墨汁一滴』を描く仲間として手塚の家を訪問した[175]。その時、手塚は締め切りに追われ忙しいにもかかわらず赤塚達の似顔絵を描いたり、ピアノを披露したりして彼らは感銘を受ける。赤塚が新人漫画家としてデビューした頃、手塚は「赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい」と助言した。手塚の言葉に従い赤塚はレコード店に行き店員に「一流の音楽が聞きたいんです。一流のレコードをください」と言い店員は何を渡したらいいのか分からず困ったという[176]。その後赤塚も手塚が住んでいたトキワ荘で暮らした。手塚はトキワ荘のメンバーに同様に「マンガからマンガを勉強するんじゃないよ。」「一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい」などと言っており、赤塚は「だから僕たち(トキワ荘メンバー)はあの頃、ほとんど酒なんて飲まなかった。そのかわり、映画を見に行こう、音楽を聴こう、ジャズのコンサートに行こう、小説を読もう。手塚先生がそうしろって言ったから。」「その時はわからなかった。それで後になってからその意味がわかってくる。手塚先生のおっしゃってたことは、やっぱりすごく大きいのだ。いい音楽を聴きなさい。いい映画を見なさい。いい芝居をみなさい。本当に大事な教えだったんだと今にして改めて思うのだ」と語っている[177]。手塚は赤塚をたびたび自身の漫画に登場させている。それと同時に手塚は赤塚のギャグである「シェー」など気に入っていたのか「W3」「火の鳥」など複数の作品に使っている。手塚の「ブラック・ジャック」の『アヴィナの島』の回では赤塚の「天才バカボン」のパパが登場する。
- 赤塚はトキワ荘時代に手塚のアシスタントを務めたことがある。また赤塚は雑誌の企画で「赤塚不二虫」のペンネームで『鉄腕アトムなのだ!』という手塚作品のパロディ漫画を描いている[178]。その中には火の鳥やヒョウタンツギなどが登場。その時の表紙は「わたしにこのマンガをかかせた手塚治虫先生にこの1編をささげます」と書かれている。
- 水野英子
- 水野英子も小学3年の時に手塚治虫の漫画に衝撃を受けて漫画家を志す。水野は16歳の頃に手塚に会いたいと伝えて東京に行き手塚と出会った。数年後、水野は上京して手塚が住んでいたトキワ荘の住人となる。水野は女性少女漫画家の草分け的先駆けになった(それまでの少女漫画はほとんどの場合男性が描いていた。)
- 水野は手塚を振り返って次のように語っている。「私が初めて先生の漫画に出会った時のショックをどう言い表したら良いでしょう。そこには絢爛たるファンタスティック・ワールドが広がっていたのです!SF・西部劇・ミステリー、おとぎ話…次々と繰り広げられる見も知らぬ魅惑的な世界!街中の本屋さんを駆け巡り、一冊とも見逃すまいとするのがあの頃の私の日課でした。やっと買い求めた本を、家に持ち帰るのももどかしく、読みながら歩いているうちに夢中になって家の前を通りすぎてしまった事。親が死んでも泣かなかった私がジャングル大帝のラストシーンではもう何も見えなくなるぐらいショックで泣いてしまった事…」「私は、ついに自分も漫画を描こうと決心し、漫画家への道を歩み始めました。十七歳で上京し、とうとう本物の先生にお会いできた時の感激!銀座の喫茶店でにこやかに優しく私を迎えて下さった先生のまぶしさ!手塚先生が最初に入居なさったというアパートトキワ荘に、当時の新人実力者たちといっしょに住むことができた嬉しさ![179]」手塚は水野のことを自著で「天才児水野英子」と書いている[180]。
- 横山光輝
- 横山光輝も手塚治虫の「メトロポリス」に感銘を受け漫画家を志す。しかし、高校卒業後は一旦就職した。
- 手塚はある日、大阪東光堂の社長に連れられたスマートな青年と出会う。社長はその青年は神戸銀行に務めていると言い、社長は「うちでデビューさせようと思いますが、どうでっしゃろ?」と聞いた。手塚は彼の作品を読み「売れるかも知れませんな」と褒め、その青年は漫画家としてデビューすることになった。その青年こそが横山光輝である[181]。横山はその後、手塚と「黄金都市」「ターザンの洞窟」で共作をした。手塚は横山を「かれほど"彗星のように"という形容のあてはまる男はいない」と絶賛している。[181]「鉄人28号」は『少年』誌上で手塚の「鉄腕アトム」と人気を二分する大ヒット作となった。サンケイ新聞記者として工業関係の取材経験のあった横山は、「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『鉄腕アトム』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた。またプライベートでも手塚と横山は付き合いがあったようで横山が東京に来たばかりの頃は手塚がいろいろアドバイスしていた[182]。横山は手塚のアシスタントも経験している。
- 手塚が亡くなった際に横山は「いつも僕は手塚さんの作品を参考にしてものを考えてきましたから、すべての作品から影響は受けています。技法の点で言えばアングルの取り方がとても上手だった。影を後ろにのばしたり、壁に大きく写したり。若いころはよく食事をごちそうになったりしたものです。やさしくて、とても他人に気を使う人でしたよ。」と語った[183]。
- 手塚は生前に「横山さんはいろんなジャンルの仕事をされましたが、この『鉄人28号』と『伊賀の影丸』それに『三国志』の三つは、エポックメーキングなものでしょう。娯楽マンガの功労賞があれば横山さんにぜひ一番にさし上げるべきではないかと思います」と発言している[184]。
- 松本零士
- 松本零士も小学二・三年の頃に学級文庫で手塚治虫の描いた本を読んで漫画家を志した[185]。それは手塚の「新宝島」「キングコング」「火星博士」「月世界紳士」であった。
- 松本は「手塚さんの漫画がそれまでのどんな漫画よりもスピーディでかっこよかった。おそらく、当時、全国の漫画少年たちが度肝を抜かれたのではないか」と語る[186]。 松本は手塚が連載していた『漫画少年』の投稿欄の常連になる。そして高校生の頃にはそれを見た手塚から「テツタイコウ テツカ(手伝い請う。手塚)」の電報を受け取る。松本は最初はイタズラかと思ったが、それはイタズラではなく本当に手塚が緊急のアシスタントを求めた電報であった。そこで松本は緊急アシスタントとして出向いて手塚を手伝いながら、漫画家について根掘り葉掘り質問した。これは松本がプロ漫画家になる思いを強めた[187]。松本がプロの漫画家になり上京してからも手塚とは親交があり、手塚が一人で突然に松本の下宿に行くこともあったという。その時は窓の外から「おーい松本君。メシ食わせるから、出てこーい。」と誘った。
- 松本が手塚と気が合ったのはお互いがあけっぴろげのことだと語る[188]。
- 手塚の漫画「ばるぼら」には松本零士をモデルにした「松本麗児」という登場人物が登場し、漫画家で本の収集家という設定で物語に重要な場面で関わってくる。
- また松本は日本初の連続テレビのアニメである「鉄腕アトム第一話」にも縁があり松本は「鉄腕アトムですが、実は私も関係しているんです。試写会前日の夜中に手塚さんから私の下宿に『助けてくれ!』と電話があり、『映写機が壊れて編集ができない』というので、私の映写機を持って行ったんです。アトム第一話の後半は私の映写機で編集して試写会を行っているんですよ[189]。」と語る。また「私と手塚さん、それと石ノ森章太郎氏の3人は自称アニメマニアという仲。将来はアニメ映画を作ろうという夢を持っていて、お互いにいろいろな機材や資料を貸合っていたんですがお二人とも亡くなってしまって。お二人から借りた機材もまだ持っているんですが、今では遺品になってしまいましたね。」とも語る。
- 松本は熱心な手塚治虫作品のコレクターでもあり、手塚自身も持っていなかった初期作品も全て所有し、1冊数百万の値段を付けた「新宝島」の初版本も持っている。2013年には手塚治虫の未発表原稿を個人的に発見したことでニュースにもなった。
- 永井豪
- 永井豪も手塚治虫に影響を受け漫画家を志したと語る[190]。「僕の人生は手塚先生の作品から始まった。」[191]とも言い彼は子供の頃に手塚治虫の漫画をよく読みいつも衝撃を受けていた。永井は初め手塚治虫のアシスタントになるために手塚プロダクションに出向いたが、あいにく手塚と連絡が付かず、代わりに知人に紹介された石ノ森章太郎の下で仕事を手伝うことになった[192]。
- 永井は自身の半生を振り返り「私の少年時代、手塚作品と過ごす時間が最も幸せな時間だった。学校でイヤなことがあった時も手塚漫画が私の心をいやしてくれた。自分も手塚先生のように漫画家になりたいと考えたのは自然の成り行き。そして私は漫画家になった。しかし手塚先生にはなれなかった・・・永井豪になってしまった」と語る[193]。またアンソロジーコミック『ブラック・ジャックALIVE』で永井豪がブラック・ジャックを描いた時はブラック・ジャックと永井豪自身と学生時代の手塚をいっしょに登場させ、学生時代の手塚にブラック・ジャックが「お前は漫画家より医者に向いている」と発言すると、手塚治虫キャラ全員と永井豪も存在が消えかかった(もしも手塚治虫が漫画家になっていなかったら永井豪も漫画家になっていなかったという表現)。
- 永井のデビュー後は手塚とプライベートでも親交があった。 手塚と永井は複数回一緒に旅行しており、SF作家クラブのメンバーと旅行したり、サンディエゴのコミックコンベンションに出かけたことがある。ロスでは二人っきりで映画「シャイニング」を見た。手塚は永井に対して「豪ちゃん、短編をたくさん描きなさい。短編は大事ですよ」といつもアドバイスを送っていた[194]。
- 永井の結婚式では手塚がスピーチをおこなっている(『コミックボックス』1989年5月号に当時の写真が掲載されている)。
- 古谷三敏
- 古谷も手塚の漫画『新宝島』を読んで漫画家を志した[195]。彼はその時の様子を次のように語っている「ぼくも子供の頃に手塚先生の『新宝島』を読んで衝撃を受けたひとりです。それまでの漫画と比べてスピード感があって、ストーリーも絵も、今までの日本にない。ディズニー映画のようなアメリカナイズされた文化を垣間見た感じがしました。何百回読んだかわかりませんし、『新宝島』を読んで漫画家になろうと決めたんです。ぼくのデビュー作『みかんの花咲く丘』も手塚先生の漫画をずいぶんと参考にしています。」その後、古谷は手塚のアシスタントを経験した。手塚はアシスタントに給料を渡す際に「かならず映画を観るんだぞ」と言いながら笑顔で1000円を渡していた。(その頃はレストラン定食が50円で食べられる時代であり、映画を見てもお釣りが来る。)古谷はいつも喜んで映画を見ていた[196]。アシスタント中、徹夜明けで手塚とホテルから出てきた時に「おれは手塚治虫と一緒に歩いているんだ」と嬉しくなったという。
- さいとう・たかを
- さいとう・たかをも手塚治虫に憧れて漫画家を目指した。手塚治虫の「新宝島」を読み、「紙で映画が作れる!」と興奮したという[197]。昭和30年頃の学生時代には漫画家志望者として手塚治虫の自宅を尋ねた。しかし、運が悪く手塚は既に東京に上京していたためにさいとうは手塚に会うことはできず、手塚の母と二・三言話しただけで帰ることになった[198][199]。この初期の頃のさいとうの漫画は手塚のような絵柄を描く漫画家であった。
- その後、さいとうは「手塚に憧れて漫画家を目指したが手塚調の丸っこいタッチの絵が描けず現在の絵になった」と証言している。後に「劇画」と呼ばれる分野の開拓に貢献し手塚の大きなライバルとして彼の漫画家生命を大きく揺るがした。
- さいとうが辰巳ヨシヒロ達と工房を立ち上げた時に「打倒手塚だ!」と言った時は、実はさいとう以外は全員熱心な手塚ファンであったため「お前なに身の程知らずなことを言っているんだ」と言われたという[200]。
- さいとうは後に手塚と漫画「過去からの声」で共作をしており、その時は原作が手塚で作画がさいとうであった。『ビッグコミック』では、四大作家競作として石ノ森章太郎、藤子不二雄A、さいとう・たかを、手塚治虫の4人で競作をしている。
- さいとうは手塚が亡くなった時に「今まで目標とし、登っていた大きな山が突然なくなったような気がします」と語った[201]。
- 辰巳ヨシヒロ
- 辰巳ヨシヒロも手塚の「新宝島」に衝撃を受けて漫画家を志す[202]。辰巳は当時を振り返り「手塚治虫という初めて目にする作者の作品はこれまでの漫画の常識を根本から覆す画期的な世界を構築していた」、「ぼくにとって手塚治虫は神様にも匹敵する存在になっていた」とも語っている[203]。少年時代辰巳は宝塚の手塚の家を訪問したこともある[204]。そして辰巳は漫画家としてデビューするが、敢えて手塚治虫とは別の「まんがではないまんが」を模索するようになる[205]。その結果、辰巳は劇画の開拓者になった。「劇画」という呼び名も辰巳が考案したものである。
- 手塚は辰巳が『劇画宣言』を出し手塚ら漫画家達に送った時、彼が言う劇画の要旨に対して否定的な憤慨をしていたという[206]。しかしその後に辰巳に対して商業主義的になっていく劇画の風潮に対して忠告した[207]。また手塚が文藝春秋漫画賞を受賞した時さいとう・たかを・佐藤まさあきと共に辰巳を授賞式に招待し[208]、1982年には辰巳のフランス旅行に途中から同行したこともあった[209]。
- つげ義春
- 小学校4年生のころに手塚治虫のマンガに熱中しはじめる。新刊が出ると本屋へ走る日々であった。貧しさのため母に買ってもらうことはできず、3ヶ月に一度くらい帰ってくる泥棒の義祖父を待ちわび、買っていたが、その間に本が売切れてしまうのを案じ手持ちのおもちゃをおもちゃ屋に売ってお金を工面した。それでも手に入らないときは万引きをしようと本屋の前をうろうろするほどであった。16歳の時に一人で部屋で空想したり好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す。当時、トキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強める[210]。
- 白土三平
- 白土は貸本時代は手塚に似た絵の漫画を描いていた。白土の初期作品「嵐の忍者」では手塚のスターシステムのキャラクターが登場するなどその影響を見ることができる[211]。手塚もそのことに言及しており「たとえば白土三平氏やつげ義春氏のかつての作品が、円熟した時代のものにくらべて、きわめて手塚的であるのは、おそらくはぼくの漫画を教科書として使ったのであった。イミテーションを望んていたわけではないはずだ」と語っている[212]。白土は徐々に手塚的な作風を止め、劇画作家へと転向し手塚の最大のライバルとして立ちはだかった。劇画ブームが起きると白土が率いる「ガロ」に対抗して手塚は「COM」を立ち上げた。手塚は「白土三平氏が登場してから子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになった」と語っている[213]。手塚の漫画「ネオ・ファウスト」では登場人物が白土の漫画を読み内容から教訓を得ようとするシーンが登場する。白土は手塚が亡くなった際にこう発言している「気がついてみたら、私もいつかこの世界で飯を食っていたのだが、手塚さんは我々の偉大な先輩であると共に、多くの日本人にとっても忘れえぬ人でありつづけるだろう。人の運命とはいえ、実に残念である[214]。」「紙芝居をやっていたころ。いわゆるユーモアマンガで手塚さんを勉強した[215]。」
- 大友克洋
- 幼い頃から手塚作品を読んで育った大友は手塚に高い敬意を払っており、自身の代表作「AKIRA」を手塚に捧げるとし、同作品の末尾部分に「手塚治虫先生、ありがとう」という感慨深いメッセージを織り込んでいる。また、手塚の作品を原作とする劇場用アニメーション映画『メトロポリス』で脚本を担当している。2005年の監督作品『スチームボーイ』のタイトルも、「鉄腕アトム」の英語版タイトル「アストロボーイ」を意識したものである。大友がデビューする前は手塚の雑誌「COM」の投稿者でもあった。
- 雑誌『ユリイカ』の大友特集号で手塚は「僕はデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参する」と大友の画力を賞賛している[216]。
- また手塚は「大友克洋さんの出現によって、劇画はトドメをさされてしまいました。少ないけれど確かな線によって、白っぽい画面のままで、劇画以上のリアリティが出せることが証明されてしまったのです」と劇画の衰退は大友に一因があるとその功績を高く評価している[217]。
- 手塚が大友をパーティーに招待した際は「ボクはあなたの絵見ました。マンガをね虫メガネで見たけどそれでもデッサンが狂っていませんね。スゴイですよ!」と大友のことを絶賛している[218]。大友はそれに対して「でも僕は手塚先生のようなデフォルメされた絵はかけないんですよね」と語ると手塚は「僕は描こうと思えば誰の絵でも描けるけど諸星大二郎のような絵と星野之宣のような絵は描けない」ということも大友に洩らしている。[219]
- 大友が一番好きな手塚キャラは屈折して影のあるロック・ホームと語り[220]、大友がメトロポリスの脚本を手がけた時は手塚の原作には登場しないはずのロック・ホームが重要な役柄で映画全編に登場する。
- 大友が1993年のNHKラジオ「日曜喫茶室 鉄腕アトムの贈り物」に出演した際に、大友の作風が生まれたことについて以下のように語っている「僕は高校の頃から映画が好きで映画ばっかり見てましたけど、手塚さんが作った漫画っていうのは非常に映画的な漫画なんですよね、昔の漫画に比べると。のらくろだったり、その、昔の古い漫画がありますけど、それに比べると非常に映画的にカメラングルをこったり、カット割りみたいなのが素晴らしい。それをやっぱり、もう一度やってみたいなっていうのが、昔みたいなイマジネーションで漫画を描いてみたり、映画のカット割りに非常に近い、まあ手塚さんがそう作ったから当たり前なんですけど、それはありましたね、それを自分でもやってみたくなっちゃう。」「僕は手塚さんみたいに枚数が描けないんで線の数で勝負している。」また手塚が大友のことを『降参する』と言ったことについては「俺なんかをそんな風に言っていいのかなと思った」という。大友が手塚から漫画のパーティーに誘われた時のことは「女房が電話に出て『手塚治虫から電話が来たよ』って言われて非常にビックリした」と語っている[221]。
- 萩尾望都
- 萩尾は高校二年の頃に手塚の漫画「新撰組」に出会い、強い衝撃を受け漫画家を志した。その強い衝撃の様子を彼女はこう語る「『新撰組』のクライマックスシーンは、言うまでもなく花火のあがる河原での決闘シーンだ。このシーンが重要なのは、それまで丘十郎を支え育んできた彼の正義の情けが、熱意が、信頼が、ガラガラと崩壊していく様が描かれているからだ。親友大作は実は長州のスパイだった。敵を斬れと土方歳三に命じられた丘十郎が苦しみつつ歩く大きなコマがある。そのコマには大きなふきだしが三、四個あり、新撰組という集団の利益、忠誠と、個人の意志友情との間に引き裂かれてゆく、まさにダブルバインドに落ちた丘十郎の苦しみがめんめんとつづられているハズであった。しかしそれは私の思い込みであった。実際はセリフは二行しかない。"大作・・ 許してくれ"。この二行は私にとって二百行にも価した。このシーンはぐっさりと私の心にくいこみ、いまだにその衝撃を忘れることができない[222]。」「実のところ、私はそのショックで、十七の時に漫画家になる決心をしてしまった。」萩尾はこれを読んだ後、一週間ぐらいボーっとしたという。
- その後、萩尾は漫画家になり手塚と雑誌で対談をしたことも何度かある。手塚は萩尾の作品「11人いる!」に対して「11人いる!なんてのはスペース・オペラとしての傑作だと思っているんです」と評価している[223]。萩尾は手塚の全作品を所有しているほどの大の手塚ファンであり、手塚が亡くなった時には次の様に語った。「私は手塚先生の写真を持っている。サイン本も持ってる。直筆の絵も持ってる。でももう何もいらないから手塚先生に長生きしてほしかった。悲しい。一体、どうしたらいいの。手塚先生、返事して下さい[224]。」
- 里中満智子
- 里中は小学校入学直後に創刊されたばかりの『なかよし』で手塚作品に夢中になり愛読していた。しかし、彼女はそれだけでは物足りず、貸本屋に通い詰め手塚作品をむさぼるように読んでいたという[225]。貸本に置いてないものは必死でお小遣いをためて買い、友人の兄から借りたりした。その中でも『鉄腕アトム』に特に夢中になった。悪いことをしようとした時にも「アトムならこんなことをしない」と自分に言い聞かせた。里中は「グレたりしないで生きてきたのはアトムのおかげ。アトムを生み出した手塚先生のおかげ」と語る。しかし、彼女が小学校5年生頃に悪書追放運動が起こり「鉄腕アトム」も悪書として批判されることがあった。里中は「こんなことでは漫画が滅ぼされてしまう!守りたい!」と思い漫画家を目指す。里中は16歳の若さで漫画家になった。その後1972年には、イベントの移動のため手塚と二人きりで新幹線に乗ることもあった。その時、大阪までの道のり3時間手塚と一緒に語り合った。その時の様子を里中は「酸欠状態で心臓バクバクだったが、手塚先生は優しかった」と語る。その中で手塚は「今後何を描きたいか」という質問で「究極のエロティシズムを描きたい!エロティシズムって素晴らしいですよ!」などと語り、当時若い女性であった里中はどう受け答えしていいかわからず困ったという。しかし「聞いているだけで幸せでした」とも語る。その他に手塚は電車の中で妻との新婚時代のことや、息子のことについてなどを語った。
- 南部正太郎
- 手塚が「マァチャンの日記帳」などの新聞連載を始めた頃、同時期に長谷川町子の「サザエさん」(『夕刊フクニチ』)、南部正太郎の「ヤネウラ3ちゃん」(『大阪新聞』)などの新聞連載漫画が始まっていた。手塚は『大阪新聞』を介して南部と知り合い、もう一人武田将美を加えて「スリー・メンズ・クラブ」というグループを結成、たびたび3人で映画や漫画について話し合うなどしていた。当時は南部の『ヤネウラ3ちゃん』の人気が圧倒的で、3人組を意味する「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだと思う人も多かったという[226]。
- 馬場のぼる
- 馬場のその穏やかな人柄もあり手塚の親しい友人の一人として交際。手塚の葬儀では加藤芳郎とともに、弔辞を読んだ。手塚の作品の一つ「七色いんこ」では馬場のぼるの絵本作品「11ぴきのねこ」を馬場のぼるの作品として物語の鍵に使っている[227]。また、手塚は早くから馬場をキャラクターとして自作に登場させており、中には「フィルムは生きている」の宍戸梅軒や「W3」の馬場先生のように重要な役柄で起用されるケースもある。「W3」で重要な役柄に抜擢された理由は馬場が手塚に対して「ねえ、たまにはルンペンよりいい役にしなさいよ」と言ったことによる。馬場は自分がモデルの馬場先生が「たいやきはしっぽの中のアンコでねうちがわかるんだぞ」という場面に関心を寄せている。手塚が馬場と九州へ旅行に行く際に飛行機内で手塚が「鳥人大系」を描いていると「よくペンが走るなあ」と馬場が呆れたという[228]。馬場は手塚のことを「手塚さんが現れて、どんどん人気が上がっていったんですね。そうして人気が上がるにつれ雑誌に手塚調の絵が氾濫するわけです。」と語り、手塚の訃報の際には「言うべき言葉も見つかりません。40年の付き合いでした。開拓者精神の旺盛な人で、鉄腕アトムのアニメをテレビで初めてやったのが手塚さんでした。今月の1日(手塚が亡くなったのは9日)にお見舞いに行きましたが、眠っておられてお話をすることはできませんでした。だいぶ痩せられて、危ないとは思っていましたが・・・。本当に偉大な方をなくしました」と語った[229]。
- やなせたかし
- 1960年代から晩年まで親交があった。手塚は劇場アニメ『千夜一夜物語』(1969年)に当時まだ大人漫画家として活動し現在ほど有名でなかったやなせを美術監督として起用し、キャラクターデザインもやなせに依頼している。そのお礼として手塚はポケットマネーを出して、やなせの原案によるアニメ映画『やさしいライオン』を制作した(大藤信郎賞を受賞)。
- やなせは手塚のことを自著「アンパンマンの遺書」にて次のように記している「当時の小学生で漫画がうまいというのは、手塚治虫のマネがいかにうまくできるかということだった。」「手塚治虫という名前は、ぼくも風のたよりに聞いてはいたが、それはまったく別世界のできごとで、ぼくには無関係だった。」「ある日、電話が鳴った『もしもし、やなせさん、手塚治虫です』『あ、どうも』『実はね、今度虫プロで長篇アニメをつくることになったんですよ』『はあ、大変ですね』『それで、やなせさんにキャラクターデザインをお願いしたいんです。ひきうけていただけますか』『いいですよ』『それじゃね』だいたいこんな風な会話だった。手塚治虫はその頃は既に漫画の神様に近く、名声も確立して収入は僕のX倍もあったが、ぼくとはまったく世界がちがったから、ほとんど関心はなかった。」「それなのに何故ぼくに電話してきたのか。わけが分からない。漫画家は冗談が多い。これは手塚治虫の冗談だと思って、すっかり忘れていた。ところがある日、また虫プロから電話がかかってきた。」「手塚治虫はもう遠くの国へ逝ってしまったが、ぼくは改めて聞きたい『手塚さん、なぜぼくに依頼したんですか?』」「ところが千夜一夜は興行的に大ヒットするのである。そして手塚さんはぼくに言った『ヒットのお礼に、何かアニメーションの短編を自由につくってください』『え、ほんとですか』『制作費はぼくのポケットマネーから出します。』ということで、ぼくは、はじめてアニメーションを手がけることになった。とにかく自分でつくれる作品ということで、既にラジオでやっていて、脚本も音楽もできているやさしいライオンを選んだ。千夜一夜で山本暎一のやり方を見ていたので、大体のことは解ったし、絵コンテも手塚治虫と机を並べて描いたので要領はつかめていた」[230]。
- やなせは「千夜一夜物語」前後を境に、子供向け作品を描いていた手塚が大人向け作品を作ることが増え、逆に大人向け作品を描いていたやなせが子供向け作品を作ることが増えたことを『運命の交錯』と表現している[231]。
- 2009年に江戸東京博物館で開催された「手塚治虫展」では、「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」というやなせのコメントが紹介された(やなせは手塚より9歳年長である)。
- 寺田ヒロオ
- 寺田と手塚はトキワ荘で一緒に暮らしていた。トキワ荘に漫画家が続々と集まってくるのは、手塚が藤子不二雄の二人に14号室を譲ってからであるため、手塚は寺田と二人で住んでいた期間を「トキワ荘前史」と表している[232]。寺田と手塚の部屋は向かい合わせだった。手塚と寺田は年が3つほどしか違わず、手塚は寺田を「テラさん」と呼んでいた。寺田は手塚のことをこう語る「今のようにアシスタントを使って漫画を描くというスタイルは、手塚治虫さんが最初でしょう。手塚さんの登場で少年漫画の世界は革命的に変わりました。それまでは、どちらかと言えば舞台的な作り方だったのが、彼以来、映画的なものに変わってしまったんです。背景も細かく書き込むようになったし。かなり複雑なストーリーのものが漫画の世界に現れたものも手塚さん以降でしょう[233]。」手塚は自著で寺田のことを「寺田ヒロオ氏は児童漫画にかける情熱はすさまじく、高邁な信念をもって作品を描き、『スポーツマン金太郎』や『背番号0』などの名作を出した。その信念は終始一貫変わらなかった。ぼくの尊敬する漫画家のタイプの人である」と語っている[234]。手塚は劇画ブームの際、自身も劇画を描くなど対抗し乗り切ったが、寺田はそれができず児童漫画を貫くも全く面識のない劇画作家(さいとう・たかを)に自分の描いた原稿を送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。寺田の漫画は打ち切られ、寺田は自宅に引きこもりがちになる。1981年のNHK特集『現代マンガ家立志伝』で、トキワ荘メンバーが同荘会を開くという内容の番組が放送されたが寺田はこなかった。その時手塚は「テラさんは?」と語り寺田がこないことを知ると「ああ、惜しい・・」と残念がる姿が放映された。寺田はその後、トキワ荘メンバーとは殆ど会わなかったものの、90年に自宅に旧知の仲間を呼び宴会をした後、自室に引きこもる生活を続け、92年に死亡している。
- 福井英一
- 福井の柔道漫画『イガグリくん』(『冒険王』1952年 - 1954年連載)[235]は連載時絶大な人気を誇っており、当時手塚は福井を最大のライバルと見なしていた。ライバルとしてだけではなく手塚の描いた「38度線上の怪物」には福井が登場し、福井が描いた『イガグリくん』には手塚が登場するコマがあるなど交流もあった。しかし、酔った福井が手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」「稼ぐばかりが能じゃねえ、ちっとは子供たちのことを考えろ、その態度がおれには腹が立ってならねえ、この贅六め!」とふっかけて口論となったこともある。1954年頃、手塚は『漫画少年』連載の「漫画教室」の中で、良くないストーリー漫画の例として『イガグリくん』を模した作品を登場させて福井の怒りを買い、福井の抗議を受けて馬場のぼるの仲裁で謝罪している。手塚は翌月の「漫画教室」に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描いて謝罪の意を表した。その1か月後に福井は過労で急逝しており、手塚は死去の報を受けて競争相手がいなくなったことに「ホッとした」という感情を覚え、そのことで自己嫌悪に陥ったと記している[236]。手塚は直後アシスタントしてもらっていた高校生時代の石ノ森章太郎にハガキを出している。「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知らせるから…」その手紙を受け取った石ノ森は手塚の悲しみが行間からにじみ出てるようだったと語っている。[237]その後手塚は漫画「世界を滅ぼす男」で空に浮かぶ雲を福井の形にして自身の追悼の気持ちを漫画の中であらわした[238]。その雲は穏やかな生前の福井の顔の形をしており頭の上部には天使の輪の形をした雲も付いていた。手塚は福井が亡くなったことによりショックで手塚と福井が連載していた「漫画少年」に『あと2年で漫画家を辞める』とまで発表し、漫画家を辞め医者を目指すつもりであった[239]。
- 水木しげる
- 『週刊少年マガジン』の編集長だった内田勝によると、1965年から同紙で連載開始された水木の妖怪漫画「墓場の鬼太郎」を目にした手塚は、その内容から受けたあまりの衝撃に、自宅で階段から転げ落ちたという[240]。やがて「ゲゲゲの鬼太郎」と改題された同作品によって「妖怪ブーム」が起こると、手塚はこれを意識して「どろろ」を発表している[241]。手塚はある出版社パーティーの席で全く面識のなかった水木に話しかけ否定的な発言をした。水木はその場では全く反論せず、後にこの体験をもとにして手塚によく似た棺桶職人を主人公にした短編「一番病」[242]を描いた。手塚によく似た主人公が一番になろうとばかりし酷い目に会うという物語である。また水木が宝塚ファミリーランドで「ゲゲゲの鬼太郎」のアトラクションを開催していた事に対し、手塚は難癖と取られても仕方がない発言を行ったという[243]。
- 水木は雑誌のインタビューで手塚のことを直接名指ししたわけではないが、「水木サン(水木の一人称)はいつでも自分がオモチロイと思ったものだけを描くんです。誰かにウケるものを描こうなんて考えたこともない。そんなことを考えて描く人は三流ですよ」と語っている[244]。
- ちなみに手塚の息子の眞は幼少期は『ゲゲゲの鬼太郎』のファンで父親の漫画よりも好んでおり、後に眞が制作した映画『妖怪天国』は水木の影響を受けており、手塚治虫・水木しげる両人ともゲスト出演している。手塚によると、この映画への出演は眞から「水木に特別出演してほしいが、個人的に知っているか?」という相談を受けたところから始まった[245]。手塚はこれに対して「ああ、いろいろつき合って貰ってるよ」と返答したと記しており、手塚と水木は漫画家としての交友は持っていたことがうかがえる。逆に水木の娘は父の妖怪漫画より、かわいい絵をした手塚の漫画を好んでいたという。
- 手塚の漫画「I.L」には主人公のI.Lの顔がモンスターになるシーンで水木が登場する。その時、水木はI.Lに関心を寄せた台詞を語っている。同じく手塚の漫画「三つ目がとおる」の「ガイコツ・ショー」の話ではテレビ局に乗り込んだ写楽達の場面で水木が登場し、三つ目小僧に付いて語っている。受け手であるタレントは「水木センセイのお話はこわかったですねー」と返答。「火の鳥 鳳凰編」では茜丸が様々な生き物に生まれ変わった夢を見る場面で、夢から目覚めた時の吉備真備が水木の登場人物「ねずみ男」の姿に変わっている。手塚は水木を自分の漫画に登場させる時は水木に電話で許可を取るようにしていた。雑誌の企画で漫画家とその妻の集合写真を撮った時は手塚と水木は二人仲良くならんで撮影している。
- 上記のように「手塚と水木は不仲である」ということが語られることもあるが、水木本人も後年の書籍で手塚との不仲を否定している[246]。
- 諸星大二郎
- 手塚賞応募作である「生物都市」を手塚は筒井康隆とともに絶賛し、この作品は満場一致で手塚から手塚賞が送られた。諸星および星野之宣と鼎談した際、手塚は「僕は諸星さんの絵だけは描けない」と発言している。手塚の漫画「ルードウィヒ・B」では、諸星のことをみなもと太郎や坂口尚などと共に「天才」と評価し、「自分を大事にして自分の個性を出していく者が結局強いんですよ。どこでも通用するんすよ。こういうのが自分の個性で勝つんすよ」と主人公のルードウィヒに語らせている。
- いしかわじゅん
- イベントでいしかわが吾妻ひでおと一緒に手塚と同席した際「この2人は若手の間では神様みたいな人」と手塚に紹介されたことがある。その時、いしかわは「神様に神様といわれるのは妙な気分であった」と語る[247]。またその時、手塚は「いしかわ氏はぼくの影響を全然うけてないからなー」と語り、いしかわは「(そんなことないですよ。あなたの影響を受けていない漫画家なんていませんよ)」と心の中で語った。またいしかわは「七色いんこ」中のキャラとして登場させたいとのことで手塚から電話をもらったことがある。「七色いんこ」に登場した際のいしかわは、吾妻ひでおとキスをするという役柄であった。手塚はいしかわの作品「憂国」に対して「いしかわ氏の憂国なんかおもしろいよね[248]」と発言もしている。
- いしかわは手塚が亡くなった際に「今朝起きたら手塚治虫が死んでいた」「歴史上の人は死なないと思っていた。生死を超越した存在だとばっかり思っていたのだ」とそのショックを語った[249]。
- 寺沢武一
- 寺沢は特に手塚のファンという訳ではなかったが、たまたま週刊少年チャンピオンで連載していた「ブラック・ジャック」内のアシスタント募集の広告を見て手塚プロダクションに作品を投稿する。その時は手塚プロダクションの採用担当者の判断により不採用となったが、後日、手塚治虫が直々に寺沢の絵を見たところ寺沢の絵を気に入り、手塚のアシスタントに採用された[250]。ジャンプコミックスで寺沢の『コブラ』第1巻が発売された時は手塚があとがきに寄稿している。手塚はその中で「じつは、助手を募集したとき、どういうわけか寺沢くんは選にこぼれてしまっていた。あとから気づいたぼくは、大慌てで彼を採用しなおした。こんなすごい絵がかける人をなんで見落とすんだ!こうして四人の採用者に彼が一人加わり、それが結果的に、彼がトップにプロの道へ進むきっかけをつくったのだった。」「彼の絵は緻密で、丹念で、しかも美しかった。ことに背景を描かせると抜群だった。」「ジャンプにプロ第一作を載せたということは寺沢くんにとって大成功だと思う。」と寺沢のことを絶賛している。当時、寺沢は手塚の専属アシスタントをしていたにも拘らず 一人だけ残業をせず、「これから自分の創作活動するんで帰ります」と 早めに帰宅するが手塚は寛容に扱っていた。理由は「彼はとても才能のある子だから、一日でも早くアシスタントを卒業してデビューして欲しかった」 とのこと。寺沢は手塚が火の鳥の原稿をカッターで切り構図を変えているのを見て「うわっこんな風に発想するのか!」と驚いたという。また寺沢は手塚のことを「僕の思いつきを先生は面白がってくれた。きっとそういう新しい血が欲しかったんだと思う」「手とり足とり教えてくれたわけじゃないがすごくいい時間をもらった。僕にとって金に換算できない貴重な経験だった[251]」と語る。
- あだち充
- あだちは、高校在学中に手塚の雑誌『COM』に投稿していた。そしてCOMの新人賞に「虫と少年」が手塚によって佳作2位に選ばれた。以後『COM』の読者コーナーにしばしば登場。あだちは手塚が死去した際に『週刊少年サンデー』上で次のような追悼文を寄せた「亡くなられた2月9日は僕の誕生日でした。鉄腕アトムの誕生の年に生まれた僕としては、手塚先生の影響は計り知れません。虫プロ主催の雑誌『COM』がなかったら、漫画の作品めいたものも描かなかったでしょう。心からご冥福をお祈りいたします[252]。」
- 夏目房之介
- 夏目は小さな出版社に勤めながら自分の漫画をいろんな人に送っていた。そうすることによって仕事がくるかと思ったがこれは彼曰く全然当て外れであった。しかし、手塚治虫から夏目へと直筆のハガキが届き、その中には「24Pのものが一番面白かったと存じます」とわざわざ夏目の作品を褒めるものであった。このことに夏目は「信じられない」と語る[253]。1977年に夏目が実際に手塚と出会った時には「ああ自費出版を送っていただいて。あの本ね、面白いから編集者に貸したらそれきり返してくれないんです。週刊朝日やヤングコミックの仕事も拝見してますよ」と手塚は語り夏目は感銘を受けている。
- 手塚が亡くなった時に夏目は次のように語る。「亡くなったことを知ってから、あちこちの連載に片っ端から追悼文を書いた。書いているうちは比較的冷静なのに、書き終えてみると、みぞおちのあたりから痙攣が馳せのぼってきて泣く。『うぉっうぉっうぉっおっおっ』と、まるでオットセイである。幼いころからのいろんなことが、いちどに手塚さんにむかってほとばしったみたいな泣き方で、これを書くたんびにくりかえすのである」「手塚さんの死を知ってから、表層的には平静だった私が月刊コミックトム(遺作ルードウィヒ・Bの掲載誌)に追悼文を書き、最後に『手塚さん、さようなら』と記した途端に泣いた」「手塚治虫さんは、私などにとって好きとか嫌いとか、影響を受けたとか受けないとか、そういう表層的な存在ではなかった。だから、作品ひとつだけあげろと言われると『そんなことができるもんか!』と、どなりかえしたくなる[254]」
関係のあるアニメーション監督
- 富野由悠季
- 富野は小学生の頃、一年先輩の友達の家で雑誌「少年」に連載されていた「アトム大使」で始めて手塚作品と触れ合う[255]。そして小学校5年生の4月から両親に「少年」を毎月買って貰うようにお願いした。その時のことを富野は「漫画が掲載されているような雑誌は買ってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それを拝み倒して4月から買ってもらった時に偶然『鉄腕アトム』の連載が始まった月だったんです。本当に衝撃的でした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげても若い人は分からないかも知れませんが『のらくろ』の漫画がつまり戦前の漫画がちらちら残ってるんですよ。家の中に。そういうものを読んでお茶を濁していたという気分のところに、これが来ましたんで、要するに昔の軍隊話でないまったく新しい漫画が来た。ということで本当にびっくりしたし、何よりも物語を読まなければならない、つまり、絵だけを見ていたらすまないぞという物語を手塚先生がお描きになったというのが、やはり、いや、これは低俗な漫画ではないという断定を子供心にしてくれたという意味ではとてもすごい作品だったという風に思っています[256]。」また、富野は手塚の「来るべき世界」にさらにそれを超える衝撃を受けたということも語っている。富野は小学校6年生の時には「僕は漫画で始めて女の子を知った」と来るべき世界のポポーニャが覆面を外すコマを上げた。
- 富野は日本大卒業後の昭和39年、手塚治虫が設立したアニメ制作会社の虫プロダクションに入社した。富野は手塚から直々に鉄腕アトムの演出に抜擢されアニメ後半の演出の多くは富野が手がけている。富野の初監督作品は手塚の漫画を原作とした「海のトリトン」である。富野は手塚治虫を振り返りこう語っている「アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった[257]。」「週ペースでものを作ることにすでに現場は慣れていましたが、とにかく忙しく、演出論などを議論をしている時間はなかった」「虫プロでマンガ家でアニメーターの真似事をしている人が社長であるわけがない。早く演出にならないと給料安くてやってられないと思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきた時、ああやはりこの人はマンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思った。オレの映画観と手塚先生の映画観が違ったから。手塚先生の映画観は甘いんじゃないかと思ってた。手塚先生が満足した作品はないと思う。」「映画は好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わないで下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さと学識を持ってほしい。僕もその1億分の1くらいになれるように頑張ります。」「(「ジャングル大帝」のシナリオの社内募集にコンテを持ち込みした際)それが採用されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテを読める奴はいないのだから、ぼくのコンテだって採用される。虫プロのコンテの基準は、マンガ絵がはっきりしていればいいのであって、映像的な評価を意識したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚先生がコンテを読めないことをあげつらうつもりはない」「手塚先生だって、若い連中が描いたコンテはなおすし、短編アニメのコンテをきらせたら天下一品であるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手でいらっしゃったというのが、ぼくの評価である。こんなエピソードを書いたからといって、TVアニメのパイオニアである事実を貶めることにはならないし、マンガ家として天才であることを汚すことにもならない[258]」
- 手塚は富野の監督作品『機動戦士ガンダム』について「機動戦士ガンダム以降では子供向けアニメが受けにくくなった」と語っている。手塚は虫プロ時代は富野のことをいつも「富野くん」と呼んでいた。
- 手塚が死去した時のことを富野は次のように振り返っている「先生が亡くなられたと聞いた翌朝、失礼をかえりみず先生のお宅にあがりこんで、死に顔を拝見できなくとも近くにいたいと願った。その行為は今も恥じていない。師のエキスの一万分の一も真似することはできないだろうけど、ここに従うものがいると知ってほしいと思うのは、生きている者の欲である[259]。」
- りんたろう
- りんたろうは1963年に東映動画から手塚治虫の虫プロダクションに移籍した。これは東映動画ではやりたかった演出ができなかったためである。りんたろうは念願がかなって「鉄腕アトム」の演出を努めた。彼は手塚のことを「偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ。覚えているのは、動画机を並べて仕事をしていた時のこと。地震みたいにガタガタガタガタ揺れ出した。先生は調子に乗ってくると貧乏揺すりをするクセがあった。あとは音楽に造詣が深かったこと。朝からコンテをかきつつベートーベンの第5(運命交響曲)をかけていた。商業主義でアニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生は悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルムを作ってバランスを取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。」と語る。
- 杉井ギサブロー
- 杉井は幼少の頃より手塚作品を読んで育った。彼はこう語る「手塚先生の『新宝島』に出会ったのは7歳の時。その紙のザラザラした感触も覚えている。手塚先生のマンガはほかのマンガと違って、読むというより映画を見ているという印象だった。」「僕は手塚マンガから映画の作り方を教わった。 」「手塚先生と初めて会ったのは20代初め。小学生の頃からファンで雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代。30代の若者が20代の若者を集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、エンターテインメントというのはチャレンジだということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。先生はホントにマンガが好きだったんだろうか、マンガではなく映画が好きで、映画を書いていたんじゃないかと思う。」
- 手塚は杉井のことを「ギッちゃん」と呼んでいた。
- 出崎統
- 出崎は小学4・5年生の頃より手塚治虫に憧れて漫画を描いて育った。その後、虫プロに入社する。彼は次のように語る「僕は手塚治虫にあこがれ、マンガ家を目指して挫折して、偶然虫プロに入ることができた。先生を目の前にしてもこちらからアクションを起こすことなんてできなくて。何か思い出を作っておけばよかったと後悔してる。一度、アトムのコンテを見せた時「出崎君、エンターテインメントを忘れないで」と言われた。僕は暗い話が好きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何だろう、と考えて、今日まで来てしまった。 マンガでもアニメでも手塚作品の主人公はいつも悩んでる。そこにひかれたから、僕も「ロボットとは?」「人間とは?」とアトムをいつも悩ませた。それで「エンターテインメントを忘れないで」と言われちゃったけど、反権力で心の中に葛藤を抱えている、そういう主人公にあこがれ、僕もそういう作品を目指している。」
- 高橋良輔
- 高橋も幼少の頃より手塚治虫に憧れて育ち1964年に虫プロへ入社した。「私も手塚先生のファンで、別世界の人と思ってた。虫プロの試験でお会いして「ホンモノだーっ!」って思った。神様みたいな存在だったのが、一緒に働いているとどんどん「ちょっと年上のただのオジサン」になっていった。徹夜して机の下に寝ていると何か圧迫感があって、見たら隣で先生が寝ている。手塚先生と添い寝しちゃった。後になって自分のスタジオを高田馬場に持った時、手塚プロも高田馬場にあったので、たまに坂道なんかで会うと声をかけていただき、ますますオジサン度が強まった。亡くなってからは、今度は偉大さが強まってきた。自分が生きて出会った、いちばん偉大な人、という思いを強くしている。「アトム」の後、30分のテレビアニメが増え、手塚アニメの人気が一時下がった。すると先生は大人向けの長編を作って大ヒットさせた。業界がまたそういう方向を食いつぶしていると、2時間という枠のアニメを今度はテレビでやった。開拓者、挑戦者だった。その遺志を継いで何とか新しいものを作っていこうと頑張っている。」「今仕事してみると、『先生が生きていたらどういう風に言ってくれるのかな』とか、先生のチェックがないということがね、あらためて『先生が亡くなっちゃったんだなあ』と。そういう意識の仕方ですね。」
- ちなみに、高橋の監督作品「装甲騎兵ボトムズ」の主人公キリコは手塚の作品「ブラック・ジャック」の登場人物から取られている[260]。
- 宮崎駿
- 宮崎は手塚のアニメーション制作に対し批判的であった。手塚の訃報に際し、宮崎は手塚の漫画史における重要性を強調しつつも「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」「アニメーションに関しては(略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べた[261]。
- 一方、漫画作品に関しては後の2009年のインタビューにおいて7歳の時に読んだ『新宝島』に「言い難いほどの衝撃」を受けたことを明かしている。また「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです。その衝撃の大きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画の影響とかで片づけられないものだったと思います」とも語っている。その後の「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」のSF3部作にも虜になった。当初漫画家を目指して活動していた宮崎がアニメーターに転じたのは、絵が手塚治虫の亜流に見えてしまうからであった。また、手塚のアニメについて、従来の評価は変わらないとした上で「僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べている。[262]
- 雑誌の寄稿文では「十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。 ぼくは全然真似した覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥の引き出しにいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて・・[263]。」と語り、その後のインタビューでは「僕は、手塚さんとはずっと格闘してきましたから。それは『恩義』だけれど、そんな言葉で語れるほど簡単なものじゃありません」とも語る。
- 宮崎は東映動画に入社した年である1963年に手塚治虫が原案を務めた「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加している。1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。
- 手塚は宮崎の『ルパン三世 カリオストロの城』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『ぱふ』のインタビューで語っている[264]
その他
トレードマークは、ベレー帽と分厚い黒縁眼鏡。人前で帽子を外すことは滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っている[265]。しかし、街中を歩く時、仕事中、タクシーの中などはベレー帽を脱いでいることが多かった。(もっともベレー帽を脱いでいれば街中を歩いていても手塚治虫であることを気づかれにくいという利点もあったようである。)ベレー帽は、もともと横山隆一を模倣してかぶり始め、横山はやがてベレー帽の使用をやめたが、手塚は自身の漫画の中でも自分自身をベレー帽と黒縁眼鏡と鼻が大きい人物として特徴付けており、生涯これを変えることをしなかった。このベレー帽をかぶる風習はトキワ荘のメンバーにも伝わり、石ノ森章太郎や藤子・F・不二雄を中心にベレー帽をかぶっていた。
視力は度の強い近視であった。甘いものが好きであったために歯を悪くした。
年表
- 1928年11月3日 - 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。※岡町相生通りに生誕から2歳まで、引っ越して岡町曽根 (萩の寺の付近)に2歳から5歳まで。
- 1933年 - 兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)に引っ越す。この頃から母と共に宝塚歌劇に親しむ。
- 1935年 - 池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)入学。
- 1939年 - 自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。
- 1941年 - 大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。
- 1945年3月 - 北野中学を卒業。勤労動員中6月の大阪大空襲に遭遇。7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。
- 1946年1月4日 - プロデビュー作の四コマ漫画『マァチャンの日記帳』(少國民新聞(後の毎日小学生新聞)大阪版)の連載開始。
- 1947年 - 酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本(赤本)『新寳島』が刊行された(初版1月30日、4月20日、6月1日、7月25日と版を重ねて累積40万部が売れたとされる)。
- 1950年 - 上京中に学童社に立ち寄って加藤謙一と出会い、持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり「漫画少年」誌で「ジャングル大帝」の連載開始。
- 1951年 - 1年留年し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『あどりぶランド』で語っている。光文社の月刊誌「少年」に「アトム大使」(当初の予定はアトム大陸)を連載開始。
- 1952年 - 医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『鉄腕アトム』(連載予告では鉄人アトム)を『少年』 に引き続いて連載。東京都新宿区四谷に約1年半下宿する(四谷交差点(北西角。メトロ2番入り口前)「成木屋青物店」の2階。後の漫画作品「四谷快談」の舞台。『鉄腕アトム』などの執筆場所)。
- 1953年 - 東京都豊島区椎名町5丁目(現:豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。「リボンの騎士」を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。
- 1954年 - 10月に豊島区雑司が谷の並木ハウスに下宿。
- 1957年 - 東京都渋谷区代々木初台に借家。
- 1958年 - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。練馬区東大泉町(現:東大泉)の東映動画から漫画「ぼくのそんごくう」を元にした劇場用長編総天然色漫画映画「西遊記」の制作を持ちかけられて嘱託社員となる。
- 1959年 - 10月に岡田悦子と結婚。『週刊少年サンデー』創刊号から『スリル博士』を連載する。
- 1960年 - 練馬区谷原町(現:練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てる。
- 1961年 - 奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し(12月には株式会社虫プロダクションとして登記)、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品「ある街角の物語」の制作を開始。長男・眞(本名:真)が誕生。
- 1963年 - 自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の日本初毎週30分枠のテレビアニメ(テレビ漫画)シリーズ『鉄腕アトム』(モノクロ作品)がフジテレビにて1月1日から放送を開始する(丸4年間放送)。「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。
- 1965年 - 日本初の1時間枠テレビアニメ「新宝島」を1月3日に放送(これは本来は手塚治虫原作の漫画を毎月1回1時間の枠で毎回完結の独立したアニメ番組化していく構想「虫プロ・ランド」の第1作目であったが、経営的な面から製作継続は無理と判断され、これ一作だけが作られて中止となった)。日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』がフジテレビで10月6日から放送。長女・るみ子が誕生。毎日新聞社の特派員記者としてニューヨーク世界博覧会を取材するために渡米した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前に於いて生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす。W3事件。虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。
- 1967年 - 虫プロ商事は月刊誌『COM』を刊行開始し、同誌に「火の鳥」の連載を開始。
- 1968年 - 虫プロ商事制作のテレビ番組「バンパイヤ」がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立。
- 1969年 - 大人のための劇場用長編アニメーション「千夜一夜物語」を公開。
- 1970年 - 『火の鳥』で第1回講談社出版文化賞の児童まんが部門で受賞。日本万国博覧会(大阪万博)にて「フジパンロボット館[266]」をプロデュース。少年画報社の「週刊少年キング」誌連載の『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する発売禁止を受ける。
- 1971年 - 虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作し、朝日放送(TBS系列)で放送。
- 1973年 - 虫プロ商事とそれに続いて虫プロダクションが倒産。虫プロダクションの経営から手を退いた後も、手塚は個人で多額の債務保証を行っていたため債権者に追われる身となるが、知人の葛西健蔵(現・アップリカ・チルドレンズプロダクツ会長)が後見人となり、版権の散逸は免れた。『週刊少年チャンピオン』に『ブラック・ジャック』の連載開始。
- 1974年 - 練馬区から杉並区下井草に引っ越す。
- 1975年 - 漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
- 1977年 - 漫画作品『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』(当初は第1 - 第3期の全300巻を予定)刊行開始。
- 1978年 - 日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長となった。
- 1978年 - 日本テレビ系の夏の「24時間テレビ」の中で、日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組「100万年地球の旅 バンダーブック」を放送。
- 1979年 – 児童漫画の開拓と業績により巌谷小波(いわやさざなみ)文芸賞受賞。
- 1980年 - 東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。
- 1983年 - 漫画作品『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞。
- 1984年 - 実験アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリおよびユネスコ賞を受賞。
- 1985年 - 実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。東京都民栄誉賞受賞。漫画家生活40周年、『講談社 手塚治虫漫画全集』(当初予定した3期分全300冊)の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」(朝日新聞社、フランス文化省、コミュニケーション国際広場CICOM主催、日仏両国外務省後援)に参加。
- 1986年 - 漫画作品『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
- 1987年 - 愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務める。
- 1988年2月13日 - 朝日賞受賞記念講演(東京・有楽町朝日ホール)、講演題「アニメーションと私」。
- 1988年 - 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞。体調悪化により急遽入院(スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず)。11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。
- 1989年2月9日 - 胃癌により入院中の半蔵門病院にて逝去(享年60)。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。没後に日本政府から勲三等瑞宝章叙勲。日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。
- 1990年 - 東京国立近代美術館で回顧展。権威ある美術館で、没後1年足らずで回顧展が開かれた。国立美術館での漫画家の回顧展は空前のことであるという。同年、全業績に対して第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
- 1993年 - 第4期講談社手塚治虫全集の刊行を開始(その後1997年12月に第4期の刊行は完了し、全部で400冊の全集が完結した)。
- 1994年 - 兵庫県宝塚市に、宝塚市立手塚治虫記念館が開館した。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初の舞台公演として『ブラック・ジャック 危険な賭け』『火の鳥』を上演。
- 2002年 - 米アイズナー賞の「漫画家の殿堂」入り。同年に日本漫画家協会と出版社5社は手塚治虫の誕生日である11月3日を「漫画の日」とすることを提唱。
- 2004年 - 漫画『ブッダ』の英訳版がアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞。
- 2007年 - 2008年に生誕80周年を迎えることを記念して、手塚治虫作品を読者の手で選んで発行する『手塚治虫O(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始される。
- 2008年 - 生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、純金製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、アメリカ合衆国サンフランシスコでの手塚治虫展、広島国際アニメーションフェスティバル、東京国際映画祭で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映。
- 2009年 - 江戸東京博物館で特別展「手塚治虫展」開催。
- 2012年 - 世田谷文学館にて「地上最大の手塚治虫展」開催。
- 2013年 - 練馬区立石神井公園ふるさと文化館にて特別展「鉄腕アトム放送50周年記念 - 鉄腕アトムが飛んだ日」(開催期間:2013年1月19日-3月24日)。
- 2013年 - 愛知県岡崎市「おかざき世界子ども美術博物館」で「手塚治虫展」。原稿や愛用品など約170点を展示(開催期間:2013年4月27日-?)。
- 2013年 - 東京都現代美術館で特別展「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」(2013年6月29日-9月8日)。以降、広島県立歴史博物館(2013年11月15日-2014年1月5日)、大阪歴史博物館(2014年1月15日-3月10日)、山梨県立博物館(2014年3月21日-5月19日)、宮城県美術館(2014年5月31日-7月27日)、長野県信濃美術館(2014年10月4日-12月7日・予定)を巡回。
- 2014年 - 大学入試センター試験二日目(1月19日、日曜日)の日本史Bの設問に手塚が取り上げられ、著書や漫画が使われた。※注:学校用教科書に手塚治虫の文章が掲載された例は在命中にも何度かある。
- 2014年4月7日 - 米グーグルのWebサイト「歴史アーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画やアニメ作品でたどる手塚治虫の生涯が公開。
- 2014年5月16日(?) - スペイン、バルセロナのコミックサロンで、手塚治虫作「人間昆虫記」が外国作品部門で受賞 ※日本漫画作品では初の受賞。
- 2014年7月12日から8月31日 - 滋賀県立近代美術館で「手塚治虫展」(2014年7月12日-8月31日)。
- 2014年7月19日から10月5日 - 湯前まんが美術館(熊本県球磨郡湯前町中央公民館(那須良輔記念館))で「火の鳥連載60周年記念 阿蘇と手塚治虫」展(2014年7月19日 - 10月5日)。
作品
漫画作品
監修者として
- 「おとなの絵本 千夜一夜物語」手塚治虫監修・筑摩書房、(1969年12月5日)※ 劇場アニメ「千夜一夜」に関連本。
- 手塚治虫(監修):「世界の歴史」(全15巻)、中公コミックス、中央公論社(1983年11月 - 1985年2月)。
- 永井道雄・手塚治虫(監修):「伝記世界の偉人」(全17巻)、中公コミックス、中央公論社(1985年1月 - 10月)。
- 「世界の四大聖人―孔子・シャカ・キリスト・マホメット」、中央公論社、ジュニア愛蔵版、ISBN 978-4120017230(1988年9月)。
- 陳舜臣・手塚治虫(監修):「中国の歴史」(全12巻)、中公コミックス、中央公論社(1986年5月 - 1987年4月)。
- 中公文庫版「マンガ中国の歴史」(全6巻)、中央公論新社
- 第1巻:項羽と劉邦(2006年4月)
- 第2巻:諸葛孔明と三国志(2006年5月)
- 第3巻:三蔵法師と『大唐西域記』(2006年6月)
- 第4巻:玄宗皇帝と楊貴妃(2006年7月)
- 第5巻:チンギス・ハンの世界帝国(2006年8月)
- 第6巻:西太后と義和団事件(2006年9月)。
- 中公文庫版「マンガ中国の歴史」(全6巻)、中央公論新社
- 猿谷要・手塚治虫(監修):「アメリカの歴史」(全12巻)、中公コミックス、中央公論社(1987年11月 - 1988年10月)。
アニメ作品
実験アニメーション(非商用作品)
- ある街角の物語(1962年11月5日、39分、カラー)
- おす(1962年11月5日、2分53秒、カラー)
- めもりい(1964年9月21日、5分13秒、カラー)
- 人魚(1964年9月21日、8分18秒、カラー)
- タバコと灰(1965年10月1日、3分50秒、モノクロ)
- しずく(1965年10月1日、4分17秒、カラー)
- 展覧会の絵(1966年11月11日、約33分、カラー)※ 公開当初のもの(約39分)からは改訂され、短縮されている。
- 創世記(1968年10月、3分42秒、モノクロ)
- ジャンピング(1984年6月、6分20秒、カラー)
- おんぼろフィルム(1985年8月17日、5分37秒、パートカラー)
- プッシュ(1987年8月21日、4分16秒、カラー)
- 村正(1987年8月21日、8分44秒、パートカラー)
- 森の伝説(1987年12月18日、29分20秒、パートカラー)
- 自画像(1988年6月、13秒、カラー)
※ 上記の14作品中「タバコと灰」以外の13作品の全てを収録したDVDが出ている。ただし、「展覧会の絵」のように制作公開時から編集と変更が加えられていたりもする。
- 「手塚治虫 実験アニメーション作品集」DVD、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン、品番:GNBA-3036(2007年1月25日)。 テンプレート:独自研究範囲。
監督
- リボンの騎士(テレビアニメ、虫プロ)(全エピソードを通しての完全な関与ではない)
- クレオパトラ(成人向け劇場用アニメ、アニメラマ)(手塚治虫、山本暎一)
- 火の鳥2772 愛のコスモゾーン(劇場用アニメ)
原案
- 「鉄腕アトム」(紙芝居版、TBSのTV放送番組、2クール?)。※ 年代要調査。
- 「ピロンの秘密」(1960年に放送のテレビ実写冒険活劇)- 原作漫画の実写化。
- 「ごめんねママ」(1961年:東京テレビ・テレビドラマ)- 原作漫画の実写化。
- 「西遊記」(劇場用アニメ、総天然色、東映動画) - 漫画『ぼくのそんごくう』を元にして関与がある。※ VHS、 DVD収録あり。
- 「シンドバッドの冒険」(劇場用アニメ、総天然色、東映動画)※ VHS、 DVD収録あり。
- 「ふしぎな少年」(実写でフィルム+生放送、白黒、NHK、1961年4月3日-1962年3月31日の月曜から金曜日)※ 辻真先が手塚治虫作品と最初に関わった作品。※ 作品映像は残存せずとされている。
- 「わんわん忠臣蔵」(劇場用アニメ、総天然色、東映動画、公開:1963年12月21日)※ VHS、 LD、DVD収録あり。
- 「鉄腕アトム」(実写版、白黒、松崎プロダクション、放送フジテレビ系列、放送:1959年3月7日 - 1960年5月28日)※DVD-BOXあり(一部エピソード欠落)。
- 「ある街角の物語」(実験アニメ、カラー、ワイド、劇場用、38分、虫プロダクション、1962年11月5日公開)※ VHS、 DVD収録あり。※ 1963年第17回毎日映画コンクール第1回大藤信郎賞、1963年第17回芸術祭奨励賞、1963年第13回ブルーリボン教育文化映画賞。
- 「鉄腕アトム」(TVアニメ、白黒、虫プロダクション、フジテレビ、1963年)※ 国産初の30分枠毎週放送のテレビアニメシリーズ。※ DVD-BOXあり(一部エピソード欠落)。
- 「銀河少年隊」(人形劇、白黒、NHK+竹田人形座、1963年4月7日 - 1965年4月1日)
- 「新宝島」(TVアニメ、白黒、日本初の1時間枠テレビアニメ、単発)(TVアニメ、虫プロダクション)※ DVDへの収録あり ※赤本漫画の「新寶島」ではなく、ロバート・ルイス・スティーヴンソン原作の「宝島」を元にした翻案作品。
- 「ビッグX」(TVアニメ、白黒、製作:最初はTBSのちに東京ムービー) ※DVD-BOXあり。ただし、完全収録ではない。
- 「ジャングル大帝」(TVアニメ、カラー、製作:虫プロダクション、1965年) ※DVD-BOXあり。
- 「マグマ大使」(TV実写特撮、カラー、製作:Pプロダクション) ※DVD-BOXあり。
- 「新ジャングル大帝 進めレオ!」(TVアニメ、カラー、製作:虫プロダクション、フジテレビ系列) ※DVD-BOXあり
- 「W3(ワンダースリー)」(TVアニメ、白黒、製作:虫プロダクション、フジテレビ系列) ※DVD-BOXあり
- 「リボンの騎士」(TVアニメ、カラー、製作:虫プロダクション、フジテレビ系列) ※DVD-BOXあり
- 「バンパイヤ」(実写+アニメ合成、白黒、製作:虫プロ商事、フジテレビ系列、1968年10月5日 - 1969年3月29日)※ DVD-BOXあり
- 「どろろ(どろろと百鬼丸)」(TVアニメ、白黒、製作:虫プロダクション) ※DVD-BOXあり
- 「アラビアンナイト 千夜一夜」(劇場用長編アニメ、カラー、虫プロダクション) ※DVD収録あり
- 「クレオパトラ」(劇場用長編アニメ、カラー、虫プロダクション) ※DVD収録あり
- 「プルルくん」(テレビ人形劇、NHK教育、1973年4月9日から1976年3月15日まで)
- 「不思議なメルモ」(TVアニメ、カラー、製作:手塚プロダクション、TBS系列、1971年10月3日 - 1972年3月26日)※ DVD-BOXあり(ただしリニュアル版として声優やBGMが差し替えられている)
- 「ジェッターマルス」(TVアニメ、カラー、製作:東映動画) ※DVD-BOXあり。
- 「サンダーマスク」(実写TV特撮、カラー) ※諸般の事情により、未だビデオ商品化なし。
- 「ミクロイドS」(TVアニメ、カラー、東映動画) ※DVD収録あり。
- 「火の鳥2772」(劇場用アニメ、カラー、東宝系) ※DVD収録あり。
- 連続ラジオ小説「火の鳥乱世編」(NHKラジオ第1放送、1980年3月3日 - 3月21日、全15回)。
- 「鉄腕アトム」(TVアニメ、カラー、製作:手塚プロダクション、日本テレビ) ※DVD-BOX・BD-BOXあり。
- 「ユニコ」シリーズ(劇場用アニメ、カラー、サンリオ動画) ※DVD収録あり。
- 「火の鳥 黎明編」(劇場用実写+アニメ合成)
- 「火の鳥 鳳凰編」(劇場用アニメ) ※DVD収録あり。
- 「ワンダービートS-スクランブル」(テレビアニメ、制作:虫プロダクション、TBS系列、本放送は24話で打ち切られ、放送:1986年4月16日から11月19日) ※企画と監修が手塚治虫 ※DVD収録あり(全26話)
- 「ラブ・ポジション ハレー伝説」(OVA)
- 「青いブリンク」 ※『せむしの仔馬』の翻案 ※手塚治虫の遺作の一つ。※ DVD-BOXあり。
- NTV系『24時間テレビ アニメスペシャル』より ※ DVD収録あり
- 100万年地球の旅 バンダーブック (24時間テレビ第1回目の1978年8月27日に放送)※ 世界初の2時間枠のオリジナルなテレビ放送用アニメ(実質の作品長は94分)。
- 海底超特急マリンエクスプレス (24時間テレビ第2回目の1979年8月26日に放送)
- フウムーン (24時間テレビ第3回目の1980年8月31日に放送)作品長91分。
- ブレーメン4 地獄の中の天使たち (24時間テレビ第4回目に1981年8月23日に放送)作品長90分。
- タイムスリップ10000年プライム・ローズ (24時間テレビ第6回目の1983年8月21日)作品長90分。
- 大自然の魔獣バギ (24時間テレビ第7回目の1984年8月19日放送)※ 初放送時は作品の完成度が低かったので、後に手直しを加えて現在の完全版が作られた。※ 漫画の「大自然の顔役バギ」(連載未完の作品)とは内容がかなり異なる。
- 悪魔島のプリンス 三つ目がとおる (24時間テレビ第8回目の1985年8月に放送)(注:テレビ東京で放映された作品とは無関係)※ DVD(2011年5月21日発売)はある事情により内容が一部編集されている。
- 銀河探査2100年 ボーダープラネット(24時間テレビ第9回目の1986年8月24日に放送)※ 手塚在命中に完成した最後の24時間テレビ用の作品 ※フィルム完成が放映の5分前だったという。
- 手塚治虫物語 ぼくは孫悟空 (24時間テレビ第12回目の1989年8月27日に放送)※ 1988年秋に手塚治虫がシノプシスを提供、完成を見ずに1989年2月に手塚は病没した(手塚治虫の遺作の一つ)。
- 「火の鳥 宇宙編」(OVA)※ DVD収録あり。
- 「火の鳥 ヤマト編」(OVA)※ DVD収録あり。
- 「火の鳥 黎明編」(テレビアニメ、NHK)※ DVD収録あり
- 「火の鳥 復活編」(テレビアニメ、NHK)※ DVD収録あり
- 「火の鳥 異形編」(テレビアニメ、NHK)※ DVD収録あり
- 「火の鳥 太陽編」(テレビアニメ、NHK)※ DVD収録あり
- 「火の鳥 未来編」(テレビアニメ、NHK)※ DVD収録あり
- 「(加山雄三の)ブラックジャック」(実写テレビドラマ、主演:加山雄三、制作:松竹、テレビ朝日系列、全13話、1981年1月8日-1981年4月9日)※ DVD-BOXあり(但し第8話は事情により封印され未収録)。
- ブラックジャックの実写OVA(媒体:VHS)主演:隆大介、制作:手塚プロダクション・バンダイビジュアル、1996年。
- 1)「ブラック・ジャック」(1996年4月25日発売)
- 2)「ブラック・ジャック2 ピノコ愛してる」(1996年5月発売)
- 3)「ブラック・ジャック3 ふたりの黒い医者」(1996年6月発売)
- 実写テレビドラマ「ブラックジャック」(TBSの2時間スペシャルドラマ)主演:本木雅弘 ※DVD収録あり。
- 1)「ブラックジャック、臓器農場行き幽霊バス」(オリジナルストーリー)(TBS、 2000年3月31日、単発)
- 2)「ブラック・ジャックII、天才女医のウェディングドレス」(TBS、2000年9月29日、単発)
- 3)「ブラック・ジャックIII、悲劇の天才料理人」(TBS、2001年9月29日、単発)
- 実写テレビドラマ「ヤング ブラック・ジャック」、主演:岡田将生(日本テレビ系列、2011年4月23日、単発)
- 「ブラック・ジャック」(OVA)、監督:出崎統、全10話(1993年 - 2000年) ※DVD-BOXあり、英語音声も並録。
- 「ブラック・ジャックFINAL」(OVA)、監督:桑原智 / 西田正義、2話収録、2011年12月16日にDVDで発売。 ※出崎版OVAを継承する作りになっている。
- 「ブラック・ジャック/平安遷都」(京都手塚治虫ワールド(現在は閉館)上映用アニメ)、監督:西田正義、1話単独(1996年)
- 「ブラック・ジャック」(劇場用長編アニメ)、監督:出崎統(1996年11月30日) ※DVD収録あり。
- 「ブラック・ジャック ふたりの黒い医者」(劇場版長編アニメ)、監督:手塚眞(2005年12月17日) ※音楽:冨田勲; ※DVD収録あり。
- 「Dr.ピノコの森の冒険」(劇場用短編アニメ、上記との並映用)、監督:桑原智(2005年12月17日) ※音楽:冨田勲 ※上記DVD附録の特典ディスクに収録。
- 「ブラック・ジャック 空からきた子ども」(OVA)、監督:瀬谷新二(2000年)
- 「ブラック・ジャック」(インターネット、Web、フラッシュアニメ)、監督:本田ちさと(全12話、2001年8月1日公開)
- 「ブラック・ジャック2時間スペシャル〜命をめぐる4つの奇跡〜」(TVアニメ)、監督:手塚眞(2003年12月22日、この日に30分枠の計4話分を連続放送)※DVD収録あり。
- 「ブラック・ジャック」(テレビアニメシリーズ)、監督:手塚眞、読売テレビ系(全63話、2004年10月11日-2006年3月6日) ※DVD収録あり。
- 「ブラック・ジャック21」(テレビアニメシリーズ)、監督:手塚眞、読売テレビ系(全17話、2006年4月10日-2006年9月4日) ※DVD-BOXあり。
- 「ブラック・ジャック 危険な賭け」(舞台劇、宝塚歌劇団、1994年上演)。
- 「ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌」(舞台劇、宝塚歌劇団、2013年2月上演)。
- 「瞳の中の訪問者」(劇場用実写)(製作:ホリ企画、配給:東宝系列、1977年11月26日公開) ※漫画ブラックジャックの原作「春一番」の実写映画化、BJ役:宍戸錠、監督:大林宣彦。※DVD収録あり
- 「青いブリンク」(NHK、1989年4月7日 - 1990年3月16日、制作:NHKエンタープライズ、手塚プロダクション、全39話)※DVD-BOXあり
- 「三つ目がとおる」(テレビ東京系列、1990年10月18日 - 1991年9月26日、手塚プロダクション制作、全48話)※DVD-BOXあり。
- 「ジャングル大帝」(テレビ東京系列、1989年10月12日 - 1990年10月11日、手塚プロダクション制作、全52話)※(途中からタイトル表記が「手塚治虫の新作アニメ ジャングル大帝」に変更)。※DVD-BOXあり。
- 「マグマ大使」(OVA版)、全13話、制作:手塚プロダクション、DVD発売:バンダイビジュアル(各話25分、1993年(2月21日に4話入り、4月22日に4話入り、6月21日に5話入りのDVDを計3枚発売))
- 「手塚治虫の旧約聖書物語」(テレビアニメシリーズ)、全26話(制作:手塚プロダクション、原作:手塚治虫、監督:出崎統、放送WOWOW、1997年4月1日 - 5月9日) ※もともとイタリア国営放送協会RAIからの依頼で制作された。DVD収録(全9巻)あり。
- 「ジャングル大帝 劇場版」(劇場用長編アニメ)(配給:松竹系、1997年) ※これはテレビ放送の再編集版ではない全くのオリジナル作品。VHS、DVD収録あり。
- 「陽だまりの樹」(テレビアニメシリーズ)(日本テレビ系、全25話、2000年4月4日 - 9月19日) ※第4回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞受賞 ※DVD収録あり。
- 「ガラスの脳」(劇場用実写)(配給:日活系、2000年1月29日)。 ※VHSテープ収録あり。
- 「手塚治虫劇場」(実写テレビドラマ)(テレビ朝日系列、2000年4月13日、単発放送)で原作漫画の「るんは風の中」「カノン」「ふしぎなメルモ」の3つを実写ドラマ化 ※VHS収録あり。
- 「メトロポリス」(劇場用長編アニメ)(配給:東宝系、2001年5月26日) ※DVD収録あり。
- 「アストロボーイ・鉄腕アトム」(テレビアニメシリーズ)(フジテレビ、2003年4月6日 - 2004年3月28日、全50話)※DVD収録あり。
- 「ぼくの孫悟空」(劇場用長編アニメ)(配給:松竹系、2003年7月12日)※ DVD収録あり。
- 「影武者」テレビ番組シリーズ「世にも奇妙な物語」の秋の特別編(2005年10月4日)※ テレビ放映用であるためか、結末は原作漫画とは大きく異なる。
- 「ATOM」(米国原題:"Astro Boy")(劇場用長編3D-CGアニメーション)(製作:イマジ・スタジオ(外国)、日本配給:角川エンタテインメント、2009年10月10日)。※DVD、BD収録あり。
- 「MW-ムウ-」(劇場用実写)(配給:ギャガ、2009年7月4日、監督:岩本仁志)※ DVD収録あり(2009年11月6日発売)、ノベライズ版(小学館、2009年6月5日)。
- 「手塚治虫のブッダ」、第一部「赤い砂漠よ!美しく」(劇場用長編アニメ)(製作:東映アニメーション、2011年5月28日)※ 全3部作予定。※DVD/BD化あり。
- 「人間昆虫記」(実写テレビドラマシリーズ)(放送:WOWOW、2011年7月31日-9月11日の毎週日曜、全7話)※ DVD化あり。
- 「陽だまりの樹」舞台劇版
- 「陽だまりの樹」(実写テレビドラマシリーズ)(NHK BSプレミアム、全12話、金曜、2012年4月6日-6月22日)。※DVD収録あり
- フジテレビのオムニバス形式の実写テレビドラマシリーズ「世にも奇妙な物語」の中で、手塚治虫原作の漫画から、いくつかが翻案されて短編実写ドラマ化された。※ 要:エピソード列挙。
- 「ライオンズブックス シリーズ」(OVA)※ 要:個別エピソード列挙。
- 「ガロン」(大学でのアニメ制作の実験作品)、大阪芸術大学と手塚プロダクションの制作(2013年4月18日、22分、大阪芸術大学ほたるまちキャンパスで発表、宝塚市立手塚治虫記念館で4月27日から5月14日まで公開)。
- 「BUDDHA 2 手塚治虫のブッダ -終わりなき旅-」(劇場用長編アニメ)(製作:東映アニメーション、2014年2月8日公開)※ 全3部作予定の第2部。
その他
- 石森章太郎による漫画版の「怪傑ハリマオ」(少年マガジン1960年4月17号から)連載開始からしばらくの期間は原作(表記は山田克郎)のゴーストライターとして構成から下書きまでを担当。
- 劇場用アニメーション「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」(1962年、東映動画)の脚本を北杜夫と共に。
- 劇場用アニメーション 「千夜一夜物語」(1969年、虫プロダクション)の製作総指揮、および三名の構成脚本のうちの一人として。
- テレビシリーズ用アニメーション 「ワンダービートS(スクランブル)」(企画・監修として)
- 「ゴジラvsビオランテ」(選考委員として)
- アニメ版「やさしいライオン」(原作、演出、美術:やなせたかし)のプロデュース(製作費を手塚が私費で提供)(1970年3月21日、東宝系封切、製作:虫プロダクション、24分41秒) ※1970年 第24回毎日映画コンクール・第8回大藤信郎賞、1970年 第12回児童福祉文化奨励賞を受賞。受賞後にテレビ放映もされた。
- 劇場用アニメーション「世界名作童話 おやゆび姫」(1978年、製作:東映動画)のキャラクターデザインとして。
- 「過去からの声」(シナリオ:手塚治虫、漫画:さいとうたかを)、ビッグゴールド創刊号(1978年6月8日)掲載、小学館。※読み切り作品。極めて珍しい連名の漫画作品。
- 劇場用アニメーション「北極のムーシカ ミーシカ」(1979年、80分、製作:(新)虫プロダクション、原作:いぬいとみこ、監督:勝井千賀雄、監修:手塚治虫)
漫画以外の著書
- 手塚治虫:「目でみる少年少女入門百科 漫画のかきかた」(秋田書店、1956年4月30日)
- 冒険王編集部編:「ぼくらの入門百科 マンガのかきかた」(秋田書店、1962年10月15日) ※制作協力者の一人として強く関与あり。
- 手塚治虫:「手塚治虫のマンガ大学 基礎編」(集英社、少年ブック新年特大号ふろく、1968年1月1日)
- 手塚治虫:「手塚治虫のマンガ大学 応用編」(集英社、少年ブック2月号ふろく、1968年2月1日)
- 手塚治虫:「まんが専科 初級編」(虫プロ商事、1969年12月25日)
- 手塚治虫:「ぼくはマンガ家」(毎日新聞社、1969年)※ 発行年月日の要調査
- 手塚治虫:「ボクをいためつけた『ガジャボーイ』のアダ名」、高木健夫編:「おれも落第生だった - 人生、学問だけではない」(青春出版社(青春新書)、1971年)に収録。※ このエッセイの初出は要調査
- 手塚治虫:「マンガの描き方 似顔絵から長編まで」(光文社、1977年5月30日)
- リチャード・マッギン(原著)、手塚治虫(翻訳):「原作スーパーマン」(講談社、1979年) ※ アメリカ映画「スーパーマン」の小説化の日本語翻訳。訳者あとがきには、「ほとんどの部分、浅倉久志氏のご援助をいただいた」とある。
- 手塚治虫、赤塚不二夫、ちばてつや:「まんが劇画ゼミ(1)手塚治虫/赤塚不二夫/ちばてつや」(集英社、1979年10月25日)
- 手塚治虫:「虫られっ話」(潮文庫、1986年) ※ 1981年の潮出版社の同題の本の文庫本化再刊
- 手塚治虫:「未来人へのメッセージ」、岩波書店、岩波ブックレットNo.63、1986年6月20日。※第31回子供を守る文化会議(1986年3月1日)の記念講演の内容に対して加筆をしたもの。
- 手塚治虫:「観たり撮ったり映したり」(キネマ旬報社、1987年)
- 手塚治虫:「ガラスの地球を救え」(光文社:新書判、1989年)
- 手塚治虫:「手塚治虫とっておきの話」(新日本出版社、ISBN 978-4406018142、1990年2月)※(大和書房、1988年)(日本図書センター、1999年)(角川文庫、2000年)で各再刊あり。
- 手塚治虫:「虫られっ話」(潮出版社、1981年) - 対談集、1995年に続篇刊行
- 手塚治虫:「マンガの描き方―似顔絵から長編まで」(光文社、1996年7月1日)
- 手塚治虫:「ぼくのマンガ人生」(岩波新書、1997年5月20日)
- 手塚治虫:「中学生のマナー」(開隆館出版販売、ISBN 978-4304040641、2000年) ※初出は要調査だが自著であり、2000年よりもずっと古いと思われる。
- 手塚治虫:「漫画の奥義 作り手からの漫画論」(光文社、2007年) - 石子順との対談集
- 手塚治虫:「手塚治虫 ぼくのマンガ道」(新日本出版社、ISBN 978-4-406-05115-6、2008年2月25日)
- 手塚治虫:「ボクのまんが記」(朝日新聞出版、ISBN 978-4022140005、2008年5月20日)。
- 手塚治虫:「ぼくはマンガ家」(毎日ワンズ、ISBN 9784901622370、2009年2月25日)
- 手塚治虫:「別巻1 手塚治虫エッセイ集(1)」、 講談社、手塚治虫漫画全集、MT-383、ISBN 978-4061759831(1996年2月14日)
- 手塚治虫:「別巻5 手塚治虫エッセイ集(2)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-387、ISBN 978-4061759879(1996年9月13日)
- 手塚治虫他:「別巻6 手塚治虫対談集(1)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-388、ISBN 978-4061759886(1996年11月13日)
- 手塚治虫:「別巻7 手塚治虫エッセイ集(3)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-389、ISBN 978-4061759893(1997年1月14日)
- 手塚治虫他:「別巻8 手塚治虫対談集(2)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-390、ISBN 978-4061759909(1997年2月14日)
- 手塚治虫:「別巻9 手塚治虫漫画の奥義」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-391、ISBN 978-4061759916(1997年3月14日)
- 手塚治虫:「別巻10 手塚治虫エッセイ集(4)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-392、ISBN 978-4061759923(1997年4月15日)
- 手塚治虫他:「別巻11 手塚治虫対談集(3)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-393、ISBN 978-4061759930(1997年5月14日)
- 手塚治虫:「別巻12 手塚治虫エッセイ集(5)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-394、ISBN 978-4061759947(1997年6月13日)
- 手塚治虫:「別巻13 手塚治虫エッセイ集(6)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-395、ISBN 978-4061759954(1997年7月15日)
- 手塚治虫他:「別巻14 手塚治虫対談集(4)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-396、ISBN 978-4061759961(1997年8月9日)
- 手塚治虫:「別巻15 手塚治虫エッセイ集(7)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-397、ISBN 978-4061759978(1997年9月13日)
- 手塚治虫:「別巻16 手塚治虫エッセイ集(8)」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-398、ISBN 978-4061759985(1997年10月15日)
- 手塚治虫:「別巻17 手塚治虫のマンガの描き方」、講談社、手塚治虫漫画全集、TM-399、ISBN 978-4061759992(1997年11月14日)
- 手塚治虫:「別巻18 手塚治虫講演集」、講談社、手塚治虫漫画全集、MT-400、ISBN 978-4061759008(1997年12月13日)
新聞や雑誌への寄稿、インタビュー記事など
- 1966年11月号:PHP誌、「にせ物の創作」※ 講談社手塚治虫漫画全集397「別巻15手塚治虫エッセイ集(7)に再録」。
- 1968年1月号:PHP誌、「たいくつな祝辞」
- 1970年1月号:PHP誌、「十万人との話」※ 講談社手塚治虫漫画全集397「別巻15手塚治虫エッセイ集(7)に再録」。
- 1973年2月10日増刊号、PHP誌、「マスコミと別次元で」
- 1973年9月号:PHP誌、「「かっこいい」選挙」※講談社手塚治虫漫画全集397「別巻15手塚治虫エッセイ集(7)に再録」。
- 1974年6月号:PHP誌、「あなた 超能力の幼児開発はもうやめましょうよ」※ 一コマ漫画。(単行本「手塚治虫のすべて」に再録)
- 1975年9月号:PHP誌、「こころにひびくことば」※ (PHP研究所「贈ることば 心にひびく二○一の名言」、1983年3月30日発行に再録)※(「PHPアーカイブス特別保存版前向きに生きる一○○の言葉」、2014年5月17日発行に再録)
- 1976年4月1日春季増刊号、PHP誌、「頑固で、なおかつ欲張りで」※ 後に「僕の青春論」と改題して単行本「手塚治虫ランド2」に再録。
- 1977年7月号:PHP誌、「アンケート 私が幸せを感じるとき」
- 1978年2月号:PHP誌、「麻薬と漫画」
- 1978年10月号:PHP誌、「小さな原始人たち」
- 1979年3月号:Voice誌、「オオムラサキのことなど」
- 1983年3月1日臨時増刊号:PHP誌、「若い女性へのメッセージ リボンの騎士・サファイアの魅力」※講談社手塚治虫漫画全集397「別巻15手塚治虫エッセイ集(7)に再録」。
- 1985年7月7日:朝日新聞紙面、「『銀河鉄道の夜』を読む」※ 第2回日仏文化サミット'85 に参加のためにフランス滞在中に書かれた記事。
- 1985年8月号:PHP誌、「若さの証明」※ 講談社手塚治虫漫画全集「手塚治虫エッセイ集(6)に再録」。
- 1986年4月30日発行:「どん底の季節」、(PHP研究所発行の書籍「くじけそうになった時に読む本」に収録。)※ 講談社手塚治虫全集「手塚治虫エッセイ集(6)に再録」。
- 1987年8月号:PHP誌、「息子への手紙 映像バカの先輩から後輩へ」※ 講談社手塚治虫漫画全集「手塚治虫エッセイ集(6)に再録」。
- 1988年9月31日発行(9月31日は存在しないから誤記?):「故郷(ふるさと)」(PHP研究所発行の書籍「わが心の詩」に収録。)※ 講談社手塚治虫漫画全集397「別巻15手塚治虫エッセイ集(7)に再録」。
手塚治虫関連のファン情報誌、Webページ等
各誌等の発行開始時期や終了時期、発行間隔などは要調査。
- 「虫ニュース」※ 1958年(昭和33年)8月1日から刊行開始(発行所:虫ニュース社、発行人:手塚治虫)url=<http://ameblo.jp/retro-illustration/entry-11094391211.html>。途中から今井義章方手塚治虫後援会発行になったらしい(?)、1962年3月30日号で休刊したとみられている。
- 「まんがのむし」(発行:全日本マンガファン連合、会報。1960年代後半から1970年代にかけて全国規模で活動していたマンガファンの同人グループ)※ 手塚治虫に限定されず。
- 「虫のとも」(発行:虫プロファンクラブ、会報)
- 「虫のしらせ」(発行:手塚治虫ファンクラブ)
- 「東版 虫のしらせ」(発行:手塚治虫ファンクラブ)
- 「虫のしらせ NAGOYA LETTER」(発行:手塚治虫ファンクラブ・名古屋支部)
- 「鉄腕アトムクラブ」(鉄腕アトムファンクラブ、会報(虫プロ商事?))
- 「COM」(商業誌、発行:虫プロ商事)
- 「蟲の森」(発行:手塚治虫ファンクラブ・東北、会報)
- 「虫の仲間通信」、「楽描帳」(発行:手塚治虫ファンクラブ・東北)
- 「ヒョウタンツギタイムス」(発行:手塚治虫ファンクラブ・京都、会報)
- 「虫ん坊」(手塚プロダクション公式Webページ上のコミュニケーション誌)
- 「手塚ファンMagazine」(発行:手塚治虫ファンクラブ、会誌。毎月発行。最初紙媒体、途中から電子化)
マスコットキャラクターのデザイン
- 西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)マスコットキャラクター「レオ」(1978年)・「ライナ」(1981年)
- 多摩テック・鈴鹿サーキット・ツインリンクもてぎ マスコットキャラクター「コチラ」(1979年(ツインリンクもてぎは2006年より)、ホンダランド(現・モビリティランド)、多摩テックは既に廃園)
- 1985年夏季ユニバーシアード(神戸)マスコットキャラクター「ユニタン」
- 「世界マンガ博」、於大阪(1986年7月 - 8月)マスコットキャラクター「マーくん」
- 岡崎市市政70周年記念「葵博」、於岡崎市(1987年)マスコットキャラクター「ピー子」
- 瀬戸大橋開通記念「瀬戸大橋博'88」(1988年)マスコットキャラクター「桃太郎」
- 横浜博覧会(1989年開催)マスコットキャラクター「ブルアちゃん」
- アジア太平洋博覧会(福岡)(1989年開催)マスコットキャラクター「太平君」・「洋子ちゃん」
- 極東・南太平方身体障害者スポーツ大会「フェスピック神戸'89」、於神戸(1989年)マスコットキャラクター「モー太」
- 福田珈琲株式会社のマスコットキャラクター「マコちゃん」[267]
医学博士論文
- 手塚治:「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」、奈良県立医科大学 解剖学教室 電子顕微鏡研究室(主任、安澄教授)
【ELECTRON MICROSCOPE STUDY ON MEMBRANE STRUCTURE OF ATYPICAL SPERMATIDS】、掲載誌:「奈良医学雑誌」、第11巻、第5号、719-735頁(1960年10月1日)。
(学位記は昭和36年1月19日、奈良県立医科大学、第88号)
メディア出演
テレビへの単発出演
注:出演日と放映日は(録画収録によって)異なっている可能性がある。
- テレビに初出演(放送局や内容など不明)(1955年10月5日)。
- 東京テレビ:「僕も私も会いたい人」に出演(1957年11月24日)。
- NETテレビ:「焦点ゼロ 0マン出現」に出演(1960年5月5日)。
- NETテレビ:「東京のこだま マンガ作家の眼から」(1960年5月29日)※武内つなよし、堀江卓、上田とし子の各漫画家との共出演。
- NETテレビ:「早朝放送 まんがのおじさん」に週1回のレギュラー出演(1961年4月3日から1962年3月末まで)。
- フジテレビ:スター千一夜(1965年10月16日)[268]
- フジテレビ:虫プロ版TVアニメ「鉄腕アトム」200回記念に特別出演(1966年10月22日)、英語版も放送。
- 日本テレビ:「すてきな夫婦」に出演(1966年10月22日)。
- TBSテレビ:「おはようニッポン 会いたい人見たい人」に出演(1967年7月29日)。
- 朝日放送:「日本この100年 明治・大正・昭和」(第15回放送分)「パパ“のらくろ” ぼく“アトム”」(1967年8月13日)※ 田河水泡、島田啓三、手塚治虫の3人がスタジオに会し、戦前からの漫画史を語る(公益財団法人放送番組センターの登録番組ID:002866)※別の資料によると、TBSで1967年8月5日出演。
- NHK総合(NHK教育?):「教養特集 アニメーション映画の将来」(1967年9月30日)※ 詳細調査要。
- TBS:実写「チャコちゃん(?)」※1エピソードで主人公チャコちゃんが大好きで毎月本屋で立ち読みしている漫画(なかよし版リボンの騎士)を描いている「近所に住んでいる漫画家の先生」の役で本人が登場した。要調査。
- フジテレビ:「バンパイヤ」(1968年)※ドラマ中の虫プロダクションの社長として本人が登場(但し漫画原作とは異なり虫プロ社長として登場するのは最初だけである。)
- 東京12チャンネル:「人に歴史あり 手塚治虫 -明日を描きつづけて-」放映(1970年10月9日)。
- NHK総合:「新春こどもショー ふしぎな世界」(1972年1月3日)
- 日本テレビ:「水と大気と土と 汚れる星・地球」(1972年1月3日)
- NHK総合:「文化展望 日本アニメーション史」(1973年6月27日)
- NHK総合:「テレビ討論 -マンガブームをどう見る-」(1973年9月29日)
- NHK総合:「お笑いオンステージ 減点パパ」(1974年5月5日)
- NHK総合:「スタジオL 宇宙は輝く音楽だ」(1976年2月27日)
- 日本テレビ:「木曜スペシャル 謎の怪奇人間オリバー!」(1976年7月22日) ※このテレビ番組の討論会の一員として出演していた(らしい)。
- 東京12チャンネル:「われらの主役 手塚治虫 vs. 西河克巳」(1976年9月21日)
- TBS:「オーケストラがやってきた -有名人指揮者大会-」(1976年9月26日) ※1分間指揮者コーナー(収録日1976年9月2日?、於神奈川県民ホール) ※ドボルザ-クのチェロ協奏曲第一楽章から、を指揮。
- NHK総合:「この人と語ろう」(1977年9月19日)
- 日本テレビ:「11PM ケッ作集中!! 手塚治虫マンガ大全集」(1977年10月31日)
- テレビ朝日:「水曜スペシャル - ロボット特集」(1979年2月21日)
- NHK総合:「私の自叙伝 手塚治虫〜こども漫画33年〜」(1979年5月10日)※2012年8月6日に、音声がオーディオブックとしてダウンロード販売される。
- TBS:「オーケストラがやって来た-手塚治虫の語るモーツァルト」(1979年11月18日) ※「オーケストラがやって来た」放送第371回「手塚治虫のモーツァルトへの手紙」(収録日1979年10月1日?、於福生市民会館) ※トルコ行進曲をピアノ演奏するシーンを含む。
- TBS:「少女探偵スーパーW」(1979年)[269]
- テレビ朝日:「朝のテラス」(1980年1月28日)※ゲスト出演
- NHK総合:「女性手帳 - 漫画に託す」(1980年5月20日)
- サンテレビ:「ふるさと人間記」(宝塚訪ねる)(1981年)
- NHK総合:「わが青春のトキワ荘」(1981年5月25日)
- 鉄腕アトム 最終回「アトムの初恋」(1981年12月23日)[270]
- テレビ東京:「ポップス倶楽部 手塚治虫ディズニ-賛歌」(1982年1月29日)
- NHK教育:「ジュニア大全科 -手塚治虫探検隊思春期を行く」(1982年5月3日)
- フジテレビ:「それ行け!まん博'82 手塚治虫」(1982年7月21日)。※ まん博とは漫画博覧会。
- NHK放送、文化講演会「失われたロマンを求めて 手塚治虫」(1982年8月15日)※ CD化あり。
- NHK教育:日曜美術館 -私と鳥獣戯画(1982年11月21日)
- NHK教育:YOU -映像はぼくらのホビーだ-ヤング・アニメ・フェスティバル― 「青春プレイバック」(1982年8月14日、再21日)※ 富野由悠季、藤原新也、高樹澪、糸井重里、手塚治虫がゲスト出演。
- NHK総合:この人「手塚治虫ショー」 - わが夢はるか アトムと飛んだマンガの青春(1983年10月6日)※ 番組の締めに手塚治虫が子供たちと鉄腕アトムマーチを歌う。
- テレビ朝日:「スーパーマンスペシャル」(1983年10月6日)
- TBS:「少女探偵スーパーW」(1984年4月19日)※ 大場久美子、 榊原郁恵主演のドラマ。 1979年のものとの相違は?再放送か?詳細不明。
- NHK総合:この人「藤子不二雄ショー」 - ふたりで一人のまんがランド(1985年3月14日)
- 読売テレビ:「11PM 手塚治虫 NANIWAグラフィティー」(1985年3月21日)※ 宝塚の実家跡、宝塚歌劇場への道、宝塚ホテル、四ツ橋電気科学館、昭和20年4月12日封切りの国産初の劇場用長編アニメ「桃太郎海の神兵」(74分、白黒)を観た大阪松竹座の5箇所を手塚治虫本人が案内。
- TBS:「ぴったしカンカン」(1985年10月29日)
- NHK教育: ETV8「広島国際アニメ映画祭」グランプリ「おんぼろフイルム」(1985年9月25日-26日)
- NHK特集:手塚治虫 創作の秘密(1986年1月10日放送、45分)※ 手塚治虫の仕事部屋に録画カメラを入れて、創作作業の様子を密着記録したもの(後にVTR、DVD化されている)。放送はNHK総合か?
- NHK教育:ETV8 文化ジャーナル「『アドルフに告ぐ』に関して」(1986年1月17日)
- NHK総合:「クイズ面白ゼミナール」(1986年1月24日)
- テレビ朝日:「徹子の部屋」(1986年3月20日)※ 1996年9月25日にVHSテープ発売。
- MBSテレビ:「あどりぶランド」(1986年)※(手塚治虫が関西弁でコメント)「世界まんが博大阪」関連
- 日本テレビ:「時の人」(1986年12月13日)
- ニッポン放送:「手塚治虫のオールナイトニッポンスペシャル」(1987年1月1日)※ これはラジオ放送番組である。
- NHK総合:「スタジオL - 漫画の主人公は超人だった」(1987年2月27日と3月3日)※ 2回あるのは本放送と再放送か?
- NHKテレビ、大型歌謡番組「思い出のメロディー」(第19回放送分、放送1987年8月8日)※ 手塚治虫がステージ出演(公益財団法人放送番組センターの登録番組ID:003802)
- TBS::「テレビ探偵団(第47回) - 手塚治虫特集」(1988年1月10日)
- NHK総合:「加山雄三ショー」(1988年3月19日)
- 手塚治虫が(1989年2月9日)亡くなり、テレビニュース、テレビ番組、新聞、週刊誌、漫画雑誌、ネットニュースなどが一斉に報じ、取り上げた。 ※ これ以降のテレビ番組への出演は、記録映像か他人が演じている。
- NHKスペシャル「いのち・わが父 手塚治虫」(放送:1989年4月16日)、60分 ※ 没後の追憶番組(公益財団法人放送番組センターの登録番組ID:002106)
- NHK教育:西田ひかるの痛快人間伝(第1回放送分)「手塚治虫」(放送:1991年10月6日)※ 没後の番組(公益財団法人放送番組センターに登録の番組ID:006116)
- 毎日放送:毎日放送開局45周年番組「心の残像 関西戦後50年の風景 手塚ワールドの故郷・宝塚」(1995年5月14日)
- NHK土曜ドラマ「天空に夢輝き 手塚治虫の夏休み」(放送:1995年8月19日、90分) ※(公益財団法人放送番組センターに登録の番組ID:008962)※ DVD化媒体もあり。
- テレビ東京:テレビ東京開局35周年記念番組「永遠のアトム 手塚治虫物語」、テレビ東京(1999年4月15日、143分)※(公益財団法人放送番組センターに登録の番組ID:010056)
- NHK-BS: BSまるごと大全集 永遠のヒーロー 鉄腕アトム 第2夜 治虫とアニメ(2002年4月2日) ※詳細不明。
- NHK番組 あの人に会いたい 第22回「手塚治虫」(放送:2004年11月14日) ※没後の番組で、過去のアーカイブ映像を元に構成されたもの。
- NHK番組 あの人に会いたい 第100回「藤子・F・不二雄」(放送:2006年7月30日) ※没後の番組で、藤子不二雄と共に語る過去の映像が含まれる。
- 関西テレビ・フジテレビ系列 全国ネット放送:関西テレビ放送開局55周年記念ドラマ「神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜」(2013年9月24日(火)21時)※主演:草なぎ剛(手塚治虫役)
- NHK総合:NHKアーカイブス:“日本アニメの開拓者 手塚治虫〜「鉄腕アトム」放送から50年〜”(2013年9月29日 13:30 - 15:00放送、70分) ※解説:杉井ギザブロー
テレビ出演等は、まだ他にも多数あり、番組データベースや新聞の記事、テレビ欄、ラジオ欄などの調査が必要である。
テレビへのレギュラー出演
- ワンダービートS(スクランブル) 手塚治虫のミニミニトーク(1986年)※番組エンディングの前に実写で本人が出演。
講演
以下のリストは極めて不完全で部分的なものであります。
- 1973年10月9日:大阪府北野高等学校での講演 ※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc1に収録。
- 1985年:(第2回)日仏文化サミット'85(フランス政府と朝日新聞社の共同主催、開催地:フランス)に出席 ※詳細要調査。
- 1985年11月29日:愛知県岡崎市での講演 ※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc4に収録。
- 1986年:「未来人に託す私のファンタジー」※ 録音カセットテープが1990年8月21日に発売。
- 1986年3月1日:第31回子供を守る文化会議で講演。※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc4に収録。
- 1986年8月9日:講演「手塚治虫・創作のすべて」(芦屋市ルナ・ホール)。
- 1986年7月22日:富山県富山市での講演 ※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc5に収録。(上記「未来人に託す私のファンタジー」との異同は要調査)
- 1987年1月15日:品川文化会館公会堂での講演 ※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc1に収録。
- 1987年4月4日:大阪市立電気科学館プラネタリウム50周年記念講演会 ※約一時間にわたり、プラネタリウムの思い出、電気科学館で売っていたお菓子の話、宇宙人が居るか、ナスカの地上絵の話、イースター島のモアイのこと、戦争と地球の未来のことなどを、人間性豊かな哲学と科学的な考え方とに裏打ちされた話を熱心に語る(講演録なし)。
- 1987年6月2日:阿波銀行本店での講演 ※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc3に収録。
- 1987年7月30日:会場等の詳細不明 ※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc2に収録。
- 1988年9月27日:朝日カルチャーセンター講演、「ネオ・ファウストについて」。
- 1988年10月31日:大阪府豊中市立第三中学校で講演「生い立ち・戦争・生命」 ※「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言〜」(全CD6枚組)のDisc6に収録。
- 1988年11月1日:大阪教育大学附属池田小学校で講演 ※(この講演が手塚治虫の生涯最期の講演となった)。
以下は、講演原稿から活字化された書籍や販売された録音媒体。
- 手塚治虫:「未来人に託す私のファンタジー」、新潮社 (新潮カセット講演) 、ISBN 978-4108028012(1990月8月21日)。
- 手塚治虫:「ガラスの地球を救え―二十一世紀の君たちへ」、光文社(知恵の森文庫)、ISBN 978-4334722883(1996年9月)。
- 講談社手塚治虫漫画全集MT-400「別巻18 手塚治虫講演集」、講談社、ISBN 978-4061759008(1997年12月13日)。
- 手塚治虫:「児童マンガの現状と将来」、ぱろる 11号、[特集:子どもとマンガ]、エフ企画(パロル舎)、ISBN 9784894192164(1999年12月10日)、頁50 - 51。 ※備考:1967年に法政大学で行われた児童文学セミナー'67での講演。
- 手塚治虫:「手塚治虫講演CD集-未来への遺言-」(CD全6枚セット)、出版:エニー、ISBN 978-4901708203(発売:2003年3月)。
映画への出演
ラジオへの出演
- 文化放送の「キャスター」に毎月曜レギュラー出演(開始1965年1月10日)。※いつまでレギュラー出演であったか要調査。
- 手塚治虫のオールナイトニッポンスペシャル(1987年)※ 大晦日-正月の単発の放送分か?要調査。
テレビCMへの出演
- クリープ(コーヒー用粉ミルク)
- 日本デジタル研究所 文作くん(ワープロ専用機)(1983年)
- 瀧本 スクールタイガー学生服(? - 1986年頃?)
- 協和発酵「カラダワンダーランド」シリーズ(1986年 - 死去前?)
- トヨタ・プリウス(初代プリウス。本人没後に遺影を使って作られたもので、本人自身は全く関与していない)
CD
- 「立川談志ひとり会」特典CD「とっておきの二大対談」 ※1985年国立劇場における、談志との対談が収録されている。
- オーディオドラマ火の鳥(CD12枚組)(日本音声保存)
- 手塚治虫:「手塚治虫講演CD集〜未来への遺言(音声CD6枚組)」、株式会社日本音声保存、ISBN 4-901708-20-1(2002年10月1日)。 ※講演内容についての別冊解説書が附属。
DVD
- 「誰も知らなかった手塚治虫」(DVD)、越前屋電視社、2001年5月 ※没後に過去の映像を元にDVD化したもの。
関連人物
係累
妻は手塚悦子(えつこ)、映像作家の手塚眞(本名は「真」、悦子夫人が真実一路という言葉を好んでいたので命名)は長男(第1子)、プランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子(少女雑誌の懸賞の当選者に「るみ子」という名前があったので命名)は長女(第2子)、舞台女優の手塚千以子(ちいこ・『千夜一夜物語』にちなんで命名)は次女(第3子)。長男・眞の妻は漫画家の岡野玲子。妻、長男、長女の3人が手塚治虫に関する本を刊行している。下記の参考文献を参照。
手塚治は長男で、弟妹には2歳下の弟・手塚浩。4歳下の妹・宇都美奈子(旧姓:手塚)がいる。浩は「子供の頃昆虫の事が元でああじゃね、こうじゃねと話していたら取っ組み合いのケンカになった。殴り合いでね、こっちは軽く勝つと思っていたら兄貴強かったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとか言ってたけどあれはまるで嘘ですよ。」というコメントを残している。2009年2月9日放送の「BS20周年企画 手塚治虫2009」では手塚の同級生とともに宝塚市の手塚治虫記念館に訪れている。美奈子は「戦争が始まって兄はどこか変わった。それまでは天国のような生活だったけど、戦争が始まって軍事教練などさせられて兄のプライドは傷付いた」と話している。美奈子は手塚のキャラクター・ヒョウタンツギの創作者でもある[271]。
アシスタント経験者
日本での漫画の専業アシスタント制度(プロダクション制作システム)を始めたのは手塚治虫が最初であるといわれている。
- 笹川ひろし - 竜の子プロダクションの創業メンバーの一人で、アニメ演出家である。
- 古谷三敏
- 月岡貞夫
- しのだひでお
- 久松文雄
- 高須れいじ
- 小室孝太郎
- 北野英明
- 三浦みつる
- 寺沢武一
- 成田アキラ
- 小谷憲一
- 岩田廉太郎
- 池原しげと
- 石坂啓
- 高見まこ
- わたべ淳
- 吉住純
- 大和田夏希
- みやぞえ郁雄
- 井上智
- 馬場秀夫
- 林ひさお
- 井上大助
- きりえれいこ
- 大野豊
- 堀田あきお
- 高井研一郎
- 宮腰義勝
- 鈴木光明
- 村野守美
- はらだ蘭(原田千代子)
- 阿部高明
- 上野義幸
- きよみずあや
- 小杉あきら
- すみちあき
- 坪田文太
- 杜町かなえ
- 七瀬カイ
- 成田マキホ
- 平田昭吾
- 平松修
- 広井てつお
- やまだ三平
- 福元一義
- 斉藤あきら
- はっとりかずお
- 甲斐謙二
- 福永ヒロ
- 伴俊男
- あべこうじ
- 森晴路 - 講談社手塚治虫全集の製作作業、後に手塚プロダクション資料室長。
トキワ荘・初台時代
- 藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄) - 「漫画少年」連載の『ジャングル大帝』の最終回等をアシスト
- 藤子・F・不二雄(藤本弘) - トキワ荘メンバーと共に雑誌未掲載の「ぼくのそんごくう」をアシスト
- 石森章太郎(石ノ森章太郎) - 高校時代に光文社「少年」連載の『鉄腕アトム』「電光人間の巻」など複数をアシスト
- 赤塚不二夫 - 石森と共に「少女クラブ」掲載の『火の鳥(ギリシャ編)』をアシスト(ペン入れ)
- 横山光輝 - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト
- 桑田二郎 - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト
- 永島慎二 - 『丹下左膳』をアシスト
- 松本零士 - 『複眼魔人』をアシスト
アニメーション制作のスタッフ
- 中村和子(穴見和子) - 虫プロ立ち上げ時から多くの商業・実験作品にアニメーターとして
- 杉井儀三郎
- 坂本雄作
- 紺野修司
- 北野英明
- 勝井千賀雄
- 出崎統 - 虫プロ
- 山本暎一 - 動画、演出、監督
- 林重行(りんたろう)
- 坂口尚 - アニメ関係で手塚治虫の片腕として活躍
- 西崎義展(虫プロ商事にも在籍していた事もある。また『海のトリトン』『ワンサくん』のプロデューサー)
- 富野由悠季(『鉄腕アトム』で多数の脚本と演出。また『海のトリトン』の監督)
- 宮本貞雄
- 赤堀幹治
- 石郷岡豪
- 柴山達雄
- 高橋良輔
- 安東穂夫
- 五味明
- 永島慎二
- 平田敏夫
- 杉野昭夫
- 川尻善昭
- 正延宏三
- 瀬山義文
- 石井元明
- 山本繁
- 片岡忠三
- 渡辺恒光
- 永樹凡人
- 香西隆男
- 宇田八郎
- 青木茂
- 岡迫亘弘
- 田中英二
- 大島やすいち
- 河井竜
- 古川雅士
- 尾形治敏
- 小林準治 - 後期の実験アニメの作画を担当
- 豊田有恒(虫プロ文芸部)
- 石津嵐(虫プロ文芸部)。盤紀一郎と同一人物
- 下崎闊(別名:下崎潤、真佐美ジュン、正佐美ジュン)
- 雪室俊一 - 脚本
- 鈴木伸一 - テレビシリーズや劇場作品など
- 星新一 - 文芸部
- 辻真先(桂真佐喜名義で多くのアニメ作品に脚本家として参加)
- やなせたかし - 虫プロ「千夜一夜物語」の美術担当、自絵本作品の劇場アニメ化版「やさしいライオン」の製作。
- 高井達雄 - 作曲家(ある街角の物語、虫プロ鉄腕アトム)
- 冨田勲 - 作曲家(東映動画『シンドバットの冒険』、虫プロ『新宝島』、虫プロ『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』、『どろろ』、『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』、『展覧会の絵』など)
- 宇野誠一郎 - 作曲家(『W3』、『悟空の大冒険』、『不思議なメルモ』(オリジナル版)、虫プロ『アンデルセン物語』)
- 大野雄二 - 作曲家(『バンダーブック』、『海底超特急マリン・エクスプレス』、『フウムーン』、『プライム・ローズ』)
- 大野松雄 - 『虫プロアトム』の音響効果、音楽監督
- 鈴木清司 - 手塚プロ作品の選曲、音楽監督
- 倉橋静男 - 手塚プロ作品の音響効果
- 田代敦巳 - 音響ディレクター
- 明田川進 - 音響ディレクター
手塚治虫を演じた俳優
- 手塚治虫 - 『バンパイヤ』等、多数。
- 江守徹 - 『まんが道』(1987年)『まんが道 青春編』(1988年)
- 手塚眞 - 『NHKスペシャル いのち わが父・手塚治虫』(1989年)
- 古谷一行・工藤彰吾 - 『水曜グランドロマン 手塚治虫物語 いとしき生命のために』(1990年)
- 中井貴一 - 『陽だまりの樹』(舞台)(1992年、1995年、1998年)
- ? - 『アドルフに告ぐ』劇団俳優座創立50周年記念公演(1994年)テンプレート:要出典
- 北村想 - 映画『トキワ荘の青春』(1996年)
- 吉澤拓真 - 『天空に夢輝き 手塚治虫の夏休み』(1996年)
- 奥田瑛二 - 『永遠のアトム 手塚治虫物語』(1999年)
- 久野雅弘・立澤真明 - 『愛と青春の宝塚』(2002年)
- 春風亭昇太 - 『超大型歴史アカデミー100人の 偉人・天才編』(2007年1月5日)
- 上地雄輔 - 未来創造堂『シアター創造堂 日本漫画 加藤謙一』(2007年1月26日)
- 藤原竜也 - 『わが家の歴史』(2010年)
- 田中れいな - 『リボーン〜命のオーディション〜』(2011年)
- 草なぎ剛 - 『神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜』(2013年9月24日)
掲載誌の編集者
- 新井善久(講談社「少女クラブ」担当編集者)
- 青木和夫(秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者)
- 阿久津邦彦(秋田書店「少年チャンピオン」編集者)
- 井岡秀次(講談社「週刊少年マガジン」)
- 伊藤嘉彦(秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者、現・幻冬舎コミックス代表取締役社長)
- 内田勝(講談社「週刊少年マガジン」)※ 少年マガジン編集長。W3事件参照。
- 大浦静雄(潮出版社)
- 大塚公平(秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長、映画評論家)
- 大和田俊司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)
- 岡本三司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)※「ブラック・ジャック」初代担当
- 加藤謙一(学童社「漫画少年」)※ 戦前に小学校教師から講談社に転職して「少年倶楽部」編集長になる。敗戦で公職追放を受けて個人で学童社を興していた。偶然そこを訪問した手塚が携行していた赤本用原稿を見て掲載を決めた結果が長編連載漫画「ジャングル大帝」となった。
- 壁村耐三(秋田書店「少年チャンピオン」)※ 「ぼくのそんごくう」(秋田書店「冒険王」)連載時の編集部員で、後に「ブラックジャック」連載開始時の少年チャンピオンの編集長。
- 刈谷政則(大和書房)
- 河野安廣(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)
- 小林鉦明(かねあき)(少年画報社、秋田書店)
- 熊藤男(秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長)
- 桑田裕(光文社「少年」担当編集者)
- 志波秀宇(小学館「ビッグコミック」)
- 戸田利吉郎(少年画報社)
- 松岡博治(朝日ソノラマ「マンガ少年」担当編集者)※ 現・メディアファクトリーコミック出版事業部エグゼクティブプロデューサー。
- 松谷孝征(実業之日本社)※ 後に手塚治虫のマネージャーを経て、手塚プロダクション代表取締役となる。
- 丸山昭(講談社「少女クラブ」担当編集者)
- 峯島正行(実業之日本社の編集者)- 『週刊漫画サンデー』の初代編集長
- 宮原照夫(講談社「週刊少年マガジン」編集長(4代目))
- 西村繁男(集英社「週刊少年ジャンプ」)
- 野口勲(虫プロ商事の編集者)
- 福島健夫(編集長、実業之日本社「漫画サンデー」の編集者)
海外の作者
- テンプレート:仮リンク
- ブラジルの漫画家。かねてから手塚と親交を持ち、手塚がブラジルに行く際には必ず彼と会い、その逆もまた然りであった。ソウザによると、手塚は暴力を作品に導入したことを大変後悔していたらしく、比較的平和的なソウザの作風を「漫画はこうあるべきだ」と称していた[272]。お互いのキャラを一つの作品にクロスオーバーとして登場させようとの計画があったが、手塚の死で一時断念。しかし、ブラジルでも日本の漫画が出版され、ソウザのキャラも日本の漫画風にアレンジされた本も出されたことによって、計画が再度発動、そして実現する運びとなった[273]。パロディやオマージュ、リメイクなどではなく、手塚のキャラが公式として他人の作品に登場するのは史上初だといわれる。アマゾンの保護を巡るストーリーは2012年2月に発行される予定であり、手塚側のキャラは「リボンの騎士」のサファイア、「ジャングル大帝」のレオ、そして「鉄腕アトム」のアトムである。
参照文献
執筆の参考にしたもの。
手塚治虫の自著
(詳細な書誌情報は、既述のため省略)
- 『ぼくはマンガ家』(1999年)。
- 『ぼくのマンガ人生』(1997年)。
- 『観たり撮ったり映したり』(1987年)。
それ以外(主な著作のみ)
- 桜井哲夫:『手塚治虫―時代と切り結ぶ表現者』、講談社現代新書 (1990年)。
- 夏目房之介:『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』、筑摩書房(1995年)。
- 米澤嘉博:『手塚治虫マンガ論』、河出書房新社(2007年)。
- 石津嵐:「秘密の手塚治虫」、太陽企画出版、新書判(1980年3月20日)。
関連書籍
上記以外の関連文献。
近親者の回想録
- 手塚るみ子:「オサムシに伝えて」、太田出版、ISBN 978-4872331493(1994年)※ 2003年に光文社知恵の森文庫。
- 手塚悦子:「夫・手塚治虫とともに―木洩れ日に生きる」、講談社、ISBN 978-4062073301(1995年1月)。
- 手塚るみ子:「こころにアトム」、カタログハウス、ISBN 978-4905943198(1995年)。
- 手塚悦子:「手塚治虫の知られざる天才人生」、講談社、1995年。 ※1999年に講談社+α文庫に。
- 手塚悦子:「手塚治虫の知られざる天才人生」、講談社プラスアルファ文庫、ISBN 978-4062563314(1999年3月)。 ※1995年に出た本の文庫化
- 手塚治虫:「マコとルミとチイ―The best 2 stories by Osamu Tezuka」、秋田文庫、ISBN 978-4253175098(2001年11月)。
- 手塚眞:「天才の息子 ベレー帽をとった手塚治虫」、ソニー・マガジンズ、ISBN 978-4789720298(2003年4月)。
- 手塚るみ子:「オサムシに伝えて」光文社(知恵の森文庫)、ISBN 978-4334782085(2003年3月)。 ※太田出版から出た本の文庫化。
- 手塚眞:「手塚治虫 知られざる天才の苦悩」、アスキー・メディアワークス、ISBN 978-4048677998(2009年6月9日)。
- 水木悦子、 手塚るみ子、 赤塚りえ子:「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」、文藝春秋、ISBN 978-4163720500(2010年2月)
- 手塚眞:「『父』手塚治虫の素顔」、あいうえお館、ISBN 978-4416909232(2009年5月)。 ※(「天才の息子 ベレー帽をとった手塚治虫」の拡張版);新潮文庫版、2012年。
- 手塚眞:「父・手塚治虫の素顔」、新潮文庫、ISBN 978-4101365213(2012年3月28日)。 ※あいうえお館から出た本の文庫化。
没後10年以降の参考文献
このタイトル分類では、没年から没年9年までの参考文献(あるいは没前のもの)を載せる場所がないが、没後10年間に出た書物は自著も含めて追憶のものばかりとは限らないので、ここに没後10年以前のものも含めることにした。 資料の列挙はなるべく発行の年月日順に並べることにした。なるべく年以外に月や日も入れるようにし、月や日が不明なものは、わかるものよりも前側に置くことにする。 年月日はなるべく現物の奥付の記載を採用するが、現物が手元にない場合には検索による(その場合には実際の発売日になっていることが多い)。 同一内容の書籍であっても、装丁や出版元が異なる復刻や再版についても(資料入手や閲覧への便宜等を考えて)年月日順に載せることにしたい。
- 石津嵐:「秘密の手塚治虫」、太陽企画出版、新書判(1980年3月20日)。
- 寺田ヒロオ編:「『漫画少年』史」、湘南出版社(1981年4月)。
- 手塚治虫:「未来人へのメッセージ」(岩波ブックレット)、岩波書店、ISBN 978-4000030038(1986年6月20日)。 ※没前の著書。
- 手塚治虫:「手塚治虫 漫画40年 - 不滅の年輪」、秋田書店、ISBN 978-4253007764(1984年6月25日)。 ※没前の著書。
- 「子どもの昭和史〈1〉昭和十年-昭和二十年 (2)」、平凡社(別冊太陽)、ISBN 978-4582942156(1986年8月)。
- 「子どもの昭和史II」、平凡社(別冊太陽)、ISBN 978-4582942248(1987年1月)。
- 斎藤次郎:「手塚治虫がねがったこと」、岩波ジュニア新書、ISBN 4-00-500163-7(1989年8月21日)。
- 清水勲:「「漫画少年」と赤本マンガ 戦後マンガの誕生」、刀水書房、ISBN 978-4887081475(1989年11月)。
- 長谷川つとむ:「手塚治虫氏に関する八つの誤解」(新装版)、柏書房、ISBN 978-4760105649(1990年3月)。
- 桜井哲夫:「手塚治虫 - 時代と切り結ぶ表現者」、講談社現代新書、ISBN 978-4061490048(1990年6月)。
- 石子順:「漫画詩人・手塚治虫」 新日本新書、ISBN 4-406-01926-X(1991年2月)。
- 清水勲:「漫画の歴史」、岩波新書、ISBN 978-4004301721(1991年5月20日)。
- 「少女マンガの世界 1 昭和20年〜37年」、平凡社(別冊太陽)、ISBN 978-4582942392(1991年7月)。
- 「少女マンガの世界 2 昭和38年〜64年」、平凡社(別冊太陽)、ISBN 978-4582942408(1991年10月)。
- 手塚治虫:「手塚治虫大全1」、マガジンハウス(1992年) ※全2巻
- 手塚治虫:「手塚治虫大全2」、マガジンハウス(1992年) ※全2巻
- 竹内オサム:「手塚治虫論」、平凡社、ISBN 978-4582663112(1992年2月)。
- 手塚治虫、石子 順:「手塚治虫 漫画の奥義」、講談社、ISBN 978-4062051552(1992年12月)。
- テヅカニアン博物館(館長:宗史陽)監修、「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」、ISBN 4-8470-3094-X、発行:山河社、ワニブックス(1993年8月20日)。
- 西村繁男:「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」、飛鳥新社、ISBN 978-4870311725(1994年)。
- 手塚治虫:「マンガの心 - 発想とテクニック」、光文社、ISBN 978-4334970895(1994年6月)。 ※没前の著書。
- 夏目房之介:「手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々」、筑摩書房、ISBN 978-4-480813800(1995年6月25日)。
- 大下英治:「手塚治虫」、潮出版社(1995年) ※講談社文庫版(2002年)に再録。
- やなせたかし:「アンパンマンの遺書」、岩波書店、ISBN 978-4000000642(1995年2月)。 ※岩波現代文庫版、ISBN 978-4006022334(2013年12月)。
- 手塚治虫:「観たり撮ったり映したり」、キネマ旬報社(増補・改訂愛蔵版)、ISBN 978-4873761466(1995年10月30日)。 ※没前の著書。
- 石坂啓:「男嫌い」、新潮文庫、ISBN 978-4101450117(1996年2月)。 ※石坂啓は漫画部のアシスタント。
- 「少年マンガの世界―子どもの昭和史 (1)」、平凡社(別冊太陽)、ISBN 978-4582942743(1996年3月)。
- 佐藤まさあき:「『劇画の星』をめざして - 誰も書かなかった『劇画内幕史』」、文藝春秋、ISBN 978-4163523200(1996年10月)。
- 河内厚郎:「手塚治虫のふるさと・宝塚」、のじぎく文庫、神戸新聞総合出版センター、ISBN 978-4875214892(1996年12月)。
- 西村繁男:「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」、幻冬舎文庫、ISBN 978-4877285258(1997年11月)。 ※1994年の飛鳥新社からの本に加筆を行って文庫本化。
- フレデリック・L・ショット、樋口あやこ(訳):「ニッポンマンガ論 - 日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論」、マール社、ISBN 978-4837307334(1998年3月)。※フレデリック・L・ショットは手塚治虫と親交があった。
- 斎藤環、荷宮和子、村瀬ひろみ、アライヒロユキ、織原ジン:「少女たちの戦歴 - 『リボンの騎士』から『少女革命ウテナ』まで」、青弓社 (ポップ・カルチャー・クリティーク)、ISBN 978-4787270924(1998年5月)。
- 内田勝:「「奇」の発想 - みんな『少年マガジン』が教えてくれた」、三五館、ISBN 978-4883201464(1998年5月)。 ※著者は元講談社少年マガジン編集部。
- 夏目房之介:「手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々」、小学館 (小学館文庫)、ISBN 978-4094025217(1998年6月)。 ※筑摩書房からの本の文庫本化。
- 霜月たかなか(編):「誕生!『手塚治虫』- マンガの神様を育てたバックグラウンド」、朝日ソノラマ、ISBN 978-4257035404(1998年7月)。
- 村上知彦:「まんが解体新書 - 手塚治虫のいない日々のために」、青弓社(PCCブックス)、ISBN 978-4787270986(1998年8月)。
- 石坂啓:「お金の思い出」、新潮文庫、ISBN 978-4101450124(1998年11月)。※石坂啓は漫画部のアシスタント。
- 長谷川つとむ:「手塚治虫氏に関する八つの誤解」、中公文庫(1999年)。 ※初版は柏書房
- 小学館文庫編集部編:「神様手塚を読む」、小学館文庫(1999年)。
- 丸山昭:「トキワ荘実録―手塚治虫と漫画家たちの青春」、文庫版(1999年)。 ※ハードカバー版はそれ以前。
- 文藝別冊 「総特集 手塚治虫」、河出書房新社、ISBN 978-4-309-97571-9(1999年5月25日)。
- 豊田有恒:「日本SFアニメ創世記 虫プロ、そしてTBS漫画ルーム」、TBSブリタニカ(2000年)。
- 深瀬泰旦:「大河の血脈 - ファミリー・ツリー『漫画の神様 手塚治虫とその一族』」、「歴史と旅」、秋田書店(2000年2月号)。
- 笹川ひろし:「ぶたもおだてりゃ木にのぼる - 私のマンガ道とアニメ道」、ワニブックス、ISBN 978-4847013584(2000年9月)。 ※手塚治虫の専属アシスタント第1号だった。
- 大塚英志、西島 大介(イラスト):「定本 物語消費論」、角川文庫、ISBN 978-4044191108(2001年10月25日)。 ※短い終章 「手塚治虫と物語の終わり」。
- 手塚治虫:「マコとルミとチイ - The best 2 stories by Osamu Tezuka」、秋田文庫、ISBN 978-4253175098(2001年11月)。 ※注:手塚一家を描いた生前の作品。
- 手塚プロダクション:「鉄腕アトムの軌跡展」、朝日新聞社(2002年)。
- 池田啓晶、手塚プロダクション(監修):「手塚治虫完全解体新書 THE KING O.T.」、集英社、ISBN 978-4087803495(2002年4月26日)。
- 野口文雄:「手塚治虫の奇妙な資料」、実業之日本社、ISBN 978-4408394992(2002年8月)。
- 水野雅士:「手塚治虫とコナン・ドイル」、青弓社、ISBN 9784787291592(2002年8月)。
- 高橋一郎(大阪教育大学教育学部):「手塚治虫と池田師範附属小学校〜天才漫画家を育てた家庭・地域・学校〜」、「大阪教育大学紀要、第IV部門」、51巻第1号(2002年9月)。※タイトルで検索すると大阪教育大学リポジトリより論文のPDFファイルが入手できる。
- 長谷川つとむ:「鉄腕アトムのタイムカプセル」、PHPエディターズ・グループ、ISBN 4-569-62420-0(2002年10月2日)。
- 富野由悠季:「だから僕は… ガンダムへの道」、角川スニーカー文庫、ISBN 978-4044101657(2002年11月30日)。 ※初出は角川書店から1981年に出版。文庫版で加筆増補された。
- 加藤丈夫:「『漫画少年』物語 - 編集者・加藤謙一伝」、都市出版、ISBN 978-4901783040(2002年12月)。 ※漫画少年の成立からその終わりまでが書かれている。
- 森晴路:「図説鉄腕アトム」(ふくろうの本)、河出書房新社(2003年)。
- 石上三登志:「定本 手塚治虫の世界」(Key library)、東京創元社(2003年)。
- 大塚英志:「アトムの命題」(アニメージュ叢書)、徳間書店(2003年)。
- 沖光正:「鉄腕アトム大事典」、光文社知恵の森文庫、光文社(2003年)。
- 布施英利:「鉄腕アトム55の謎」(生活人新書)、日本放送出版協会(2003年)。
- 神戸新聞阪神総局:「アトムの世紀はじまる」、神戸新聞総合出版センター、ISBN 978-4343002310(2003年4月)。
- 手塚治虫、小林準治:「手塚治虫博物館」、講談社プラスアルファ文庫、ISBN 978-4062567701(2003年8月発売)。
- 竹熊健太郎:「マンガ原稿料はなぜ安いのか? - 竹熊漫談」、イースト・プレス、ISBN 978-4872574203(2004年2月1日)。
- 津堅信之:「日本アニメーションの力 - 85年の歴史を貫く2つの軸」、NTT出版、ISBN 978-4757101234(2004年3月)。
- 山口康男:「日本のアニメ全史 - 世界を制した日本アニメの奇跡」、テンブックス、ISBN 978-4886960115(2004年5月)。
- 長谷邦夫:「漫画に愛を叫んだ男たち」、清流出版、ISBN 978-4860290757(2004年5月)。
- 巽尚之:「鉄腕アトムを救った男 - 手塚治虫と大阪商人『どついたれ』友情物語」、実業之日本社 、ISBN 978-4408395616(2004年11月)。
- 中野晴行:「そうだったのか手塚治虫 — 天才が見抜いていた日本人の本質」、祥伝社新書、ISBN 9784396110093(2005年5月5日)。
- 宮原照夫:「実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記」、講談社、ISBN 978-4063646542(2005年12月1日)。
- 竹内一郎:「手塚治虫 ストーリーマンガの起源」、講談社選書メチエ(2006年)。
- 斎藤環:「戦闘美少女の精神分析」、ちくま文庫、ISBN 978-4480422163(2006年5月)。
- 谷川健司:「占領期の手塚治虫」、所収「占領期文化をひらく-雑誌の諸相」(早稲田大学現代政治経済研究所研究叢書26)、早稲田大学出版部(2006年8月).
- 手塚プロダクション:「手塚治虫劇場 - 手塚治虫のフィルモグラフィー」、第3版(2006年8月25日)。
- 手塚プロダクション:「手塚治虫原画の秘密」(とんぼの本)、新潮社、ISBN 978-4106021473(2006年9月)。
- 二階堂黎人:「僕らが愛した手塚治虫」、小学館、ISBN 978-4093876933(2006年11月)。
- 昭和館、手塚プロダクション:(昭和館特別企画展資料)「手塚治虫の漫画の原点 - 戦争体験と描かれた戦争」、昭和館(2007年)。
- 中野晴行:「謎の漫画家・酒井七馬伝 -「新宝島」伝説の光と影」、筑摩書房、ISBN 978-4480888051(2007年2月)。
- 押山美知子:「少女マンガジェンダー表象論」、彩流社、ISBN 4779112443(2007年3月)。
- 津堅信之:「アニメ作家としての手塚治虫 - その軌跡と本質」、NTT出版、ISBN 978-4757141520(2007年3月)。
- 安藤健二:「封印作品の謎 - ウルトラセブンからブラック・ジャックまで」、だいわ文庫、大和書房、ISBN 978-4479300991(2007年5月)。
- 清水勲:「年表日本漫画史」、臨川書店(ビジュアル文化シリーズ)、ISBN 978-4653040101(2007年6月)。
- 増田弘道:「アニメビジネスがわかる」、NTT出版、ISBN 978-4757122000(2007年7月)。
- 米沢嘉博:「手塚治虫マンガ論」、河出書房新社、ISBN 978-4309269597(2007年7月)。
- 手塚治虫:「手塚治虫 未来へのことば」、こう書房、ISBN 978-4769609490(2007年8月)。※手塚治虫が様々な文脈で語りまたは記した言葉を抜き出して集めたもの。
- 米沢嘉博:「戦後少女マンガ史」、筑摩書房(ちくま文庫)、ISBN 978-4480423580(2007年8月)。
- 石子順:「平和の探求 手塚治虫の原点」、新日本出版社、ISBN 978-4-406-05064-7(2007年9月30日)。
- 手塚治虫:「ぜんぶ手塚治虫!」、朝日文庫、朝日新聞社、ISBN 978-4-02-264413-8(2007年10月30日)。※ エッセイ、シナリオ、小説、マンガ、講演録、対談録、および他者からの評論などを収集。劇場版「ネオ・ファウスト」のシナリオ初収録。
- 野口文雄:「手塚治虫の『新宝島』その伝説と真実」、小学館クリエイティブ、ISBN 978-4778030520(2007年11月)。
- 手塚治虫、石子順:「漫画の奥義 作り手からの漫画論」、光文社、ISBN 978-4334784959(2007年12月6日)。
- 清水勲:「戦後漫画のトップランナー横井福次郎 - 手塚治虫もひれ伏した天才漫画家の軌跡」、臨川書店、ISBN 978-4-653-04015-6(2007年12月25日)。
- 小野卓司:「描きかえられた『鉄腕アトム』」、NTT出版(2008年)。
- 滝田誠一郎:「ビッグコミック創刊物語 - ナマズの意地」、プレジデント社(2008年)。
- 辻真先:「ぼくたちのアニメ史」、岩波ジュニア新書、ISBN 978-4-00-500587-1(2008年2月20日)。※ 辻はTVアニメ黎明期からの脚本家。
- 鈴木伸一:「アニメが世界をつなぐ」、岩波書店、ISBN 978-4-00-500591-8(2008年3月19日)。
- 長谷邦夫:「マンガ編集者狂笑録」、水声社(水声文庫)、ISBN 978-4891766764(2008年4月)。
- 米沢嘉博:「戦後SFマンガ史」、筑摩書房、ISBN 978-4480424198(2008年8月06日)。
- 竹内オサム:「手塚治虫 アーチストになるな」(ミネルヴァ日本評伝選)、ミネルヴァ書房、ISBN 978-4623052516(2008年9月)。
- 「手塚治虫大全(第1巻)」、光文社(知恵の森文庫)(2008年9月20日) ※全3巻で各巻末に:”本書は「手塚治虫大全1、2」(1992年、マガジンハウス刊)に未収録原稿を加え三冊に文庫化したものです”と記載。
- 雑誌「ストレンジ・デイズ」109号(特集「アトムと音楽」)、有限会社ストレンジ・デイズ(2008年10月20日)。
- 「手塚治虫大全(第2巻)」、光文社(知恵の森文庫)(2008年10月20日) ※全3巻
- 雑誌「フィギュア王」(特集「少女たちの手塚ワールド」)、発売元:ワールドフォトプレス(2008年10月24日)。
- 雑誌「芸術新潮」 2008年11月号(特集「生誕80周年記念 手塚治虫を知るためのQ&A100」)、発売元:新潮社(2008年10月25日)。
- 「NHK特集手塚治虫・創作の秘密」、発行:NHKエンタープライズ、発売元:TCエンタテインメント、DVD、品番:TCED-0362(2008年11月3日)。
- 「天空に夢輝き 〜手塚治虫の夏休み〜」、発行:NHKエンタープライズ、発売元:TCエンタテインメント、DVD、品番:TCED-0363(2008年11月3日)。
- (音楽CDアルバム、企画:手塚るみ子)「手塚治虫、その愛した音楽」、レーベル:commmons/エイベックスマーケッティング、品番:RZCM-46040(2008年11月5日)。 ※同封のライナーノーツの情報や証言は貴重。
- 雑誌「メンズノンノ」12月号(特集人物研究「手塚治虫」)、集英社(2008年11月10日)。
- 手塚治虫、小林準治:「手塚治虫クラシック音楽館」、平凡社、ISBN 978-4582834147(2008年11月15日)。
- 「手塚治虫大全(第3巻)」、光文社(知恵の森文庫)(2008年11月20日) ※全3巻
- 辰巳ヨシヒロ:「劇画漂流」(上巻)、辰巳ヨシヒロ、青林工藝舎、ISBN 978-4883792733(2008年11月20日)。
- Fred Ladd、Harvey Deneroff:"Astro Boy and Anime Come to the Americas: An Insider's View of the Birth of a Pop Culture Phenomenon"、Mcfarland & Co Inc Pub、ISBN 978-0786438662(2008年11月30日)。 ※英語。米NBCテレビへ鉄腕アトムやジャングル大帝を輸出に関わった人物の回想録。内容の一部の記述には日本側の事情に対する誤解が散発している。
- 辰巳ヨシヒロ:「劇画漂流」(下巻)、辰巳ヨシヒロ、青林工藝舎、ISBN 978-4883792764(2008年12月)。
- 滝田誠一郎:「ビッグコミック創刊物語」、プレジデント社、ISBN 978-4-8334-1898-0(2008年12月)。 ※青年誌ビッグコミック立ち上げの過程を記している。
- 二階堂黎人:「僕らが愛した手塚治虫2」、小学館、ISBN 978-4093878258(2008年12月)。
- 雑誌「東京人」2008年12月号(特集:「生誕80年 手塚治虫への冒険」)、都市出版株式会社(2008年11月?)。
- 福元一義:「手塚先生、締め切り過ぎてます!」、集英社新書、ISBN 978-4087204902(2009年)。
- 古田尚輝:「『鉄腕アトム』の時代 映像産業の攻防」、世界思想社、ISBN 978-4-7907-1390-6(2009年2月25日)。 ※1960年代の映像産業史。
- 伴俊男・手塚プロダクション:「手塚治虫物語 オサムシ登場 1928〜1945」、金の星社、ISBN 978-4-323-07148-0(2009年2月)。 ※単行本初出は朝日新聞社刊(1992年)。雑誌連載は週刊アサヒグラフ「ベレー帽奮闘記 手塚治虫物語」1989年8月25日号から開始。
- 伴俊男・手塚プロダクション:「手塚治虫物語 漫画の夢 1945〜1959」、金の星社、ISBN 978-4-323-07149-7(2009年2月)。
- 伴俊男・手塚プロダクション:「手塚治虫物語 アニメの夢 1960〜1989」、金の星社、ISBN 978-4-323-07150-3(2009年2月)。
- 伝記:「手塚治虫」、ポプラ社(この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 4)、ISBN 978-4591107263(2009年3月)。
- 清水正:「手塚治虫版『罪と罰』を読む」、清水正・ドストエフスキー論全集第4巻、D文学研究会、ISBN 978-4434130403(2009年3月)。
- 平岡正明:「昭和マンガ家伝説」、平凡社新書 、ISBN 978-4582854572(2009年3月)。
- 大野茂:「サンデーとマガジン」、光文社新書、ISBN 978-4334035037(2009年4月17日)。 ※週刊漫画誌の創設時の記録。
- 淡島千景他:「淡島千景 - 女優というプリズム」,青弓社、ISBN 978-4-7872-7263-8(2009年4月17日)。※頁28-38に収録されている鷲谷花:「宝塚娘役スターとしての淡島千景と手塚治虫「リボンの騎士」」など。
- 松本正彦:「劇画バカたち!!」、青林工藝舎、ISBN 978-4883792849(2009年4月21日)。
- 天野ミチヒロ:「放送禁止映像大全」、文春文庫、ISBN 978-4167753764(2009年5月8日)。 ※テレビ放送用の基準の変化で封印された作品多数についての解説。
- 柴山達雄、小林 準治:「誰も知らない手塚治虫 - 虫プロてんやわんや」、創樹社美術出版、ISBN 978-4787600646(2009年6月)。
- 皆河有伽:「日本動画興亡史 小説手塚学校 1 〜テレビアニメ誕生〜」、講談社、ISBN 978-4062155557(2009年6月)。
- 山本武利 他編集:「占領期雑誌資料体系 大衆文化編<第5巻>占領から戦後へ」、岩波書店、ISBN 978-4-00-028245-1(2009年7月29日)。※ 第4章 漫画―赤本漫画と手塚治虫 ※占領期にGHQが検閲用に収集した資料について。
- 鳴海丈:「『萌え』の起源 - 時代小説家が読み解くマンガ・アニメの本質」、PHP研究所(PHP新書 628)、ISBN 978-4569709864(2009年9月16日)。 ※漫画における「萌え」の起源を手塚作品群に求めて論じている。
- 大塚英志:「アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題」、角川文庫、ISBN 978-4044191276(2009年9月25日)。
- 辻真先:「『鉄腕アトム』から『電脳コイル』へ - アニメとはなにか」、松籟社、ISBN 978-4879842732(2009年10月)。
- 皆河有伽:「日本動画興亡史 小説手塚学校 2 〜ソロバン片手の理想家〜」、講談社、ISBN 978-4062155564(2009年7月22日)。
- 「東映動画アーカイブス」、ワールドフォトプレス、ISBN 978-4846527952(2010年1月)。 ※東映動画で手塚治虫が製作に加わっていた作品ももちろん記載されている。
- 藤子不二雄A、藤子・F・不二雄:「二人で少年漫画ばかり描いてきた」、日本図書センター(人間の記録 第171巻)(2010年1月)。※手塚治虫との出会いとあこがれ、没後の感想などを含む。
- 水木悦子、手塚るみ子、赤塚りえ子:「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」、文藝春秋、ISBN 978-4163720500(2010年2月)。
- 国松俊英:「手塚治虫」(ポプラポケット文庫 伝記)、ポプラ社、ISBN 978-4591116999(2010年3月6日)。
- フレッド・ラッド著、ハーヴィ・デネロフ(編)、久美 薫(訳):「アニメが『ANIME』になるまで -鉄腕アトムアメリカを行く」、エヌティティ出版、ISBN 978-4757142299(2010年3月16日)。※ 著者は虫プロアニメ輸出時のNBC側交渉の担当者だった。2008年の英語本の日本語訳。原著の日本側事情の誤解の大部分はこの翻訳版では直されている。
- 大塚英志:「映画式まんが家入門」、アスキー・メディアワークス(新書)、ISBN 978-4048685627(2010年5月7日)。
- さいとう・たかを:「俺の後ろに立つな さいとう・たかを劇画一代 」、新潮社、ISBN 978-4-10-325731-8(2010年6月25日)。※ さいとう・たかをの自伝回想録。
- 古谷三敏:「ボクの手塚治虫せんせい」、双葉社、ISBN 978-4575302240(2010年6月30日)。 ※アシスタント当時の回想を漫画のスタイルで描いた。
- 本浜秀彦:「手塚治虫のオキナワ」、春秋社、ISBN 978-4393342022(2010年7月20日)。 ※手塚治虫と沖縄との関わりについて。
- 手塚治虫他:「トキワ荘パワー!」、祥伝社、ISBN 9784396781187(2010年8月31日)。
- ビッグコミック編集部(編)、佐藤 敏章:「神様の伴走者 手塚番13+2」、小学館、ISBN 978-4093881494(2010年9月30日)。
- 幸森軍也:「マンガ大戦争 1945-1980」、講談社、ISBN 978-4062164955(2010年11月15日)。
- 山中恒:「戦時児童文学論 小川未明、浜田広介、坪田譲治に沿って」、大月書店、ISBN 978-4272520831(2010年11月)。
- 長岡義幸:「マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防」、平凡社新書、ISBN 978-4582855562(2010年11月16日)。
- 梶原一騎:「梶原一騎自伝 劇画一代」、小学館クリエイティブ、ISBN 978-4-7780-3160-2(2011年2月07日)。
- 大塚英志:「手塚治虫が生きていたら 電子コミックをどう描いていただろう - 大塚教授の漫画講座」、徳間書店、ISBN 978-4198631635(2011年4月23日)。
- 山内ジョージ:「トキワ荘最後の住人の記録: 若きマンガ家たちの青春物語」、東京書籍、ISBN 978-4487805631(2011年6月20日)。
- 宮崎克(原作)、吉本浩二(画):「ブラック・ジャック創作秘話 〜 手塚治虫の仕事場から」、秋田書店、ISBN 978-4253132398(2011年7月8日)。 ※別冊月刊少年チャンピオン連載漫画の単行本化。
- 霜月たかなか:「COM 40年目の終刊号」、朝日新聞出版、ISBN 978-4022140746(2011年7月20日)。
- 増田弘道:「もっとわかるアニメビジネス」、エヌティティ出版、ISBN 978-4757122796(2011年8月31日)。
- 野口勲:「タネが危ない」、日本経済新聞出版社、ISBN 978-4532168087(2011年9月6日)。 ※著者は元虫プロ商事の雑誌編集者。
- 「完全読本 さよなら小松左京」、徳間書店、ISBN 978-4198633035(2011年11月17日)。
- 滝田誠一郎:「ビッグコミック創刊物語」、祥伝社、ISBN 978-4396315818(2012年6月13日)。※2008年のプレジデント社の本の再録。
- PHP研究所編:「やなせたかし 明日をひらく言葉」、PHP文庫、ISBN 978-4569678313(2012年7月4日)。
- 杉井ギサブロー:「アニメと生命と放浪と」、ワニブックスPLUS新書、ISBN 978-4847060540(2012年7月7日)。※ 手塚アニメーション作品の多くに関わったアニメーター著者の自伝回顧録。
- 手塚治虫、赤塚不二夫、森安なおや、寺田ヒロオ、つのだじろう、水野英子、よこたとくお、鈴木伸一、永田竹丸、長谷邦夫、藤子不二雄A:「まんが トキワ荘物語」、祥伝社新書288、ISBN 978-4396112882(2012年8月1日)。
- 二階堂黎人:「僕らが愛した手塚治虫≪激動編≫」、原書房、ISBN 978-4562047550(2012年1月24日)。
- 久里洋二:「ぼくのつぶやき自伝:@yojikuri」、新潮社、ISBN 9784103519034(2012年2月)。 ※実験アニメの先駆者久里と手塚の交流の記述あり。
- デヴィッド・ハジュー、小野耕世(訳)、中山ゆかり(訳):「有害コミック撲滅! - アメリカを変えた50年代『悪書』狩り」、岩波書店、ISBN 978-4000254151(2012年3月24日)。 ※日本にも飛び火しかけたアメリカの悪書狩りの実態。
- 小林準治、手塚治虫(原著):「マンガ 手塚治虫の昆虫つれづれ草」、講談社、ISBN 978-4063648881(2012年5月10日)。
- 津堅信之:「テレビアニメ夜明け前 知られざる関西圏アニメーション興亡史」、ナカニシヤ出版、ISBN 978-4779506529(2012年5月10日)。 ※リミティッドアニメの起源を関西のTVCMとするなどの新説を提唱。杉井ギザブロー推薦。
- 藤子不二雄A:「78歳いまだまんが道を…」、中央公論新社、ISBN 978-4120043918(2012年8月24日)。
- 瀬戸川宗太:「懐かしのテレビ黄金時代」、平凡社新書、ISBN 978-4582856590(2012年10月17日)。
- 幸森軍也、鈴木伸一(監修):「ゼロの肖像 「トキワ荘」から生まれたアニメ会社の物語」、講談社、ISBN 978-4062175906(2012年10月23日)。 ※アニメ製作のスタジオ「ゼロ」の記録。テレビアニメ勃興期の様子を良く伝える。
- 手塚プロダクション:「ブラック・ジャック大解剖」(サンエイムック)、三栄書房、ISBN 978-4779616464(2012年11月17日)。
- 宮崎克(原作)、吉本浩二(漫画):「ブラック・ジャック創作秘話 Vol.2 〜 手塚治虫の仕事場から」、秋田書店、ISBN 978-4253132404(2013年1月8日)。
- 但馬オサム:「世界の子供たちに夢を タツノコプロ創始者 天才・吉田竜夫の軌跡」、メディアックス、ISBN 978-4-86201-653-9(2013年1月13日)。
- 宮崎克(原作)、吉本浩二(漫画):「ブラック・ジャック創作秘話 Vol.3 〜 手塚治虫の仕事場から」、秋田書店、ISBN 978-4253132411(2013年4月8日)。
- 岩下朋世:「少女マンガの表現機構 - ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」」、NTT出版、ISBN 978-4757143142(2013年7月11日)。
- 手塚プロダクション監修:「手塚治虫とキャラクターの世界」(サンエイムック)、三栄書房、ISBN 978-4-7796-1837-6(2013年7月28日)。※(実際の販売日は2013年6月14日)。戦中の未発表作『南方基地』を初公開掲載。
- 宮崎克(原作)、吉本浩二(漫画):「ブラック・ジャック創作秘話 Vol.4 〜 手塚治虫の仕事場から」、秋田書店、ISBN 978-4-253-13242-8(2013年9月20日)。
- やなせたかし:「わたしが正義について語るなら」、ポプラ社(ポプラ新書)、ISBN 978-4591137352(2013年11月6日発売)※ 第2章中の節「やってみると面白い - 天才、手塚治虫と必死に取り組んだ仕事」でやなせがアニメ制作に始めて関わった経緯が述べられている。
- やなせたかし:「アンパンマンの遺書」、岩波現代文庫、ISBN 978-4006022334(2013年12月)。
- ドラえもんルーム (編):「藤子・F・不二雄の発想術」、小学館(小学館新書)、ISBN 978-4098252022(2014年2月3日)。※藤子・F・不二雄のエッセイやインタビューの抜粋集。
- 津堅信之:「日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由」、祥伝社新書、ISBN 978-4396113599(2014年3月3日)。
- 河出書房新社(編):「文藝別冊 総特集 手塚治虫 増補新版 - 地上最大の漫画家」、河出書房新社(KAWADE夢ムック)、ISBN 978-4-309-97831-4(2014年5月15日)。
- 秋山高廣 (編):「再び大阪が まんが大国に甦る日」、ブレーンセンター (新なにわ塾叢書)、ISBN 978-4833907064(2014年4月14日)。
- 宮崎克(原作)、吉本浩二(漫画):「ブラック・ジャック創作秘話 Vol.5 〜 手塚治虫の仕事場から」、秋田書店、ISBN 978-4-253-13244-2(2014年8月8日)。
追悼出版ほか
なるべく初出の発行年月日順に並べている。
- 「COMIC BOX 1989年5月号」(ふゅーじょんぷろだくと、手塚治虫への追悼総特集号)※ 特筆記事に、宮崎駿「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した」がある(宮崎駿「出発点 1979〜1996」(スタジオジブリ編、徳間書店、1996年)に再録)。
- 「朝日ジャーナル臨時増刊号 手塚治虫の世界」、朝日新聞社(1989年)。
- 「一億人の手塚治虫」、〈宝島collection〉、JICC出版局(宝島社)(1989年)。
- 竹内オサム、村上 知彦 編:「手塚治虫の宇宙」、<マンガ批評大系別巻>、平凡社(1989年)。
- 山本暎一:「虫プロ興亡記 安仁明太の青春」、新潮社(1989年)
- 石上三登志:「手塚治虫の時代」、大陸書房(1989年)。
- 秋山満:「COMの青春―知られざる手塚治虫」、平凡社、ISBN 978-4582651225(1990年2月)。COMの副編集長として虫プロ商事に2年間在職した期間の「小説」。著名人物以外は仮名となっているなど内部事情を知らない者にとっては資料性に難点。
- 矢口高雄:「ボクの手塚治虫」、朝日新聞社、ISBN 978-4620770406(1989年9月)。 ※講談社文庫版はISBN 978-4061855823(1994年1月)。
- 手塚治虫一周忌に関係者に向けて発行され配布されたアルバム「手塚治虫の自画像」(1990年、非売品、全83頁に多くのスナップ写真からの図版を収録)。
- 東京国立近代美術館編 :「手塚治虫展」(1990年)。
- 手塚プロダクション:「手塚治虫劇場 手塚治虫のアニメーションフィルモグラフィー」(1991年) ※第2版〈求龍堂グラフィックス〉エスクァイアマガジンジャパン、1997年。
- 中尾明:「手塚治虫」(講談社 火の鳥伝記文庫)、講談社、ISBN 978-4061475755(1991年9月20日)。
- 竹内オサム:「手塚治虫論」、平凡社(1992年)。
- 夏目房之介:「手塚治虫はどこにいる」、筑摩書房(1992年) ※ちくま文庫版は1995年。
- 中野晴行:「手塚治虫と路地裏のマンガたち」、筑摩書房(1993年)。
- 中野晴行:「手塚治虫のタカラヅカ」、筑摩書房(1994年)。
- 夏目房之介:「手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々」、筑摩書房(1995年)。 ※小学館文庫(1998年)。
- 手塚プロダクション 村上 知彦共編 :「手塚治虫がいなくなった日」、潮出版社(1995年)。
- 鈴木光明:「マンガの神様! 追想の手塚治虫先生」、白泉社(1995年)。
- 今川清史:「空を越えて 手塚治虫伝」、創元社、ISBN 978-4422930305(1996年11月)。
- 米沢嘉博編:「手塚治虫マンガ大全-子どもの昭和史」<別冊太陽>、平凡社、ISBN 978-4582942910(1997年11月)。
- 「もっと知りたい手塚治虫」、<別冊家庭画報>、世界文化社(1997年)。 ※手塚ファン26人が案内する手塚ワールド探検の手引き。
- 手塚プロダクション、秋田書店共編:「手塚治虫全史 その素顔と業績」(1998年)。
- 国松俊英:「手塚治虫」(おもしろくてやくにたつ子どもの伝記)、ポプラ社、ISBN 978-4591058763(1998年12月)。
- 「ある日の手塚治虫: 56人が描き語るとっておきのあの日」、別冊COMIC BOX vol.4、ふゅーじょんぷろだくと(1999年2月9日)。
- わたべ淳:「手塚治虫」(講談社学習コミック―アトムポケット人物館)、講談社、ISBN 978-4062718035(2000年11月20日)。 ※漫画形式による手塚治虫の伝記。
- 渋谷陽一責任編集:特集「何故、手塚治虫はアトムが嫌いだったのか 誤解された天才の闇に迫る」(SIGHT, vol.15 SPRING 2003)ロッキング・オン・ジャパン増刊号 サイト、第17巻第7号通巻243号(2003年4月19日)。 ※NHK-FMの番組FMホットラインで1984年に渋谷陽一による手塚治虫へのインタビュー内容の再録。
- 手塚プロダクション、司田武己:「手塚治虫バカ一代 「幻のジャングル大帝」を覆刻した男・石川栄基の物語」、集英社インターナショナル、ISBN 978-4797670967(2004年2月26日)。
- 巽尚之:「鉄腕アトムを救った男―手塚治虫と大阪商人『どついたれ』友情物語」、実業之日本社、ISBN 978-4408395616(2004年11月)。
- 中野晴行:「そうだったのか手塚治虫―天才が見抜いていた日本人の本質」、祥伝社新書、ISBN 978-4396110093(2005年4月)。
- 立川談志:「私のこだわり人物伝 2005年10 - 11月」(NHK知るを楽しむ/火)、NHK出版、ISBN 978-4141891321(2005年9月)。
- 伊藤剛:「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」、NTT出版、ISBN 978-4757141292(2005年9月27日)。
- うしおそうじ:「手塚治虫とボク」、草思社、ISBN 978-4794215673(2007年3月21日)。
- 藤本明男:「愛よ命よ、永遠に-手塚治虫少年ものがたり」、ISBN 978-4-286-02692-3、文芸社(2007年4月15日).
- 「NHK特集 手塚治虫・創作の秘密」、手塚の没後にVHSで出された。DVDは2008年にTCエンタテインメントで再発売。
- 手塚るみ子(企画):「手塚治虫、その愛した音楽」、レーベル:commmons/エイベックス・マーケティング、CD:品番:RZCM-46040(2008年11月5日) ※同封のライナーノーツに資料的価値がある。
- Natsu Onoda Power:"God of comics: Osamu Tezuka and the creation of post-World War II manga", (Great comics artists series), University Press of Mississippi, ISBN 978-1-60473-220-7 (cloth), ISBN 978-1-60473-221-4 (paper back), (2009)。
- Helen McCarthy: "The art of Osamu Tezuka: god of manga", Abrams ComicArts, New York, ISBN 978-0-8109-8249-9 (2009)。
- 「生誕80周年記念特別展 手塚治虫展 未来へのメッセージ」、江戸東京博物館(2009年)。
- ”プロジェクト新・偉人伝”( 編纂):「手塚治虫」、この人を見よ!歴史をつくった人びと伝4、ポプラ社、ISBN 978-4591107263(2009年3月)。
- 手塚治虫 生誕80周年記念刊行「手塚治虫 文庫全集」(全200巻予定)、講談社(刊行開始2009年10月9日)。
- 国松俊英:「手塚治虫」(ポプラポケット文庫 伝記)、ポプラ社、ISBN 978-4591116999(2010年3月6日)。 ※手塚治虫の伝記。
- 宮崎克(原作)、 吉本浩二(漫画):「ブラックジャック創作秘話」、秋田書店(2012年)(月刊:別冊少年チャンピオン連載)
- 「鉄腕アトムが飛んだ日」、石神井公園ふるさと文化館特別展(開催期間:2013年1月19日 - 3月24日)の展示目録、発行:練馬区立石神井公園ふるさと文化館、発行日:2013年1月19日。
- 「哲学と技法『父・治虫が求めたもの』(ラララの時代-テレビアニメ50年)手塚眞さんに聞く」、朝日新聞記事(2013年3月26日)。 ※手塚眞へのインタビュー。
- 「ハッピーエンドは時超えて(ラララの時代-テレビアニメ50年) 1:ガロンの産声」、朝日新聞記事(2013年3月26日)。 ※高橋 良輔、吉川 惣司。
- 「アニメの新手法、次々(ラララの時代-テレビアニメ50年) 2:練馬完徹所」、朝日新聞記事(2013年3月27日)。 ※杉井 ギザブローへのインタビュー。
- 「先頭を手塚が走った(ラララの時代-テレビアニメ50年) 3:若者の交差点」、朝日新聞記事(2013年3月29日)。 ※河井竜、山本暎一、柴山達雄へのインタビュー。
- 「東映参入、新たな展開(ラララの時代-テレビアニメ50年) 4:走れ狼少年ケン」、朝日新聞記事(2013年3月30日)。 ※月岡貞夫、勝間田具治へのインタビュー。
- 「ガンダムへの出発点(ラララの時代-テレビアニメ50年) 5:アトムの子たち」、朝日新聞記事(2013年4月2日)。 ※富野由悠季、伊藤叡、高橋良輔。
- 「大人向け制作、息長く(ラララの時代-テレビアニメ50年) 6:アニメの国)」、朝日新聞記事(2013年4月3日)。 ※丸山政雄、片渕須直。
- 「日本版CGに存在感(ラララの時代-テレビアニメ50年) 7:手描きを目指せ)」、朝日新聞記事(連載終)(2013年4月4日)。 ※鈴木大介、松浦裕暁。
- 『テレビアニメ放送50周年展-Vol.1 〜はじまりの「鉄腕アトム」とスタジオゼロの足跡〜』、杉並アニメーションミュージアム(開催期間:2013年4月17日から7月15日)。
- 「小池一夫対談集 キャラクター60年」、小池書院、ISBN 978-4-86225-865-6(2013年9月20日) ※頁7-21:”1985「僕は神様じゃないんです」手塚治虫”、初出は漫画アクション(双葉社)1985年7月31日号。
- コージィ 城倉:「チェイサー 1」、小学館、ISBN 978-4091854179(2013年10月5日) ※手塚治虫の模倣を試みる漫画作家を描いたフィクション漫画、ビッグコミックスペリオールに連載中で続刊予定、解説:中野晴行。
- 松本零士:「手塚治虫 逃亡先から呼び出し電報」、文藝春秋、2014年1月号、頁334 - 336(特別企画「世界が驚愕した日本人54人」の中の1つとして掲載)。※手塚治虫との遭遇から始まり、没前に手塚が胃がんであることを自覚していたエピソードなどが語られている。
- 「ブラック・ジャックが問うた未来」(手塚治虫没後25年特別対談、渡邊剛×手塚眞)、日経ビジネスオンライン、2014年2月7日(金)、url=<http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140204/259308/>。
- 「会津を愛した僕らの手塚治虫先生」,JR東日本のPR雑誌「トランヴェール」,2014年5月号特集記事(頁6-29)。url=<http://www.jreast.co.jp/tabidoki/trainvert/digitalbook/tr1405/catalog.html>。
- ヘレン・マッカーシー, 手塚プロダクション, 大友克洋:「手塚治虫の芸術」, ゆまに書房, ISBN 978-4843345795(2014年10月24日予定)。 ※Helen McCarthy: "The art of Osamu Tezuka: god of manga", Abrams ComicArts, New York, ISBN 978-0-8109-8249-9 (2009) の翻訳。
追悼企画の番組、映画、映像など
媒体と初出の年月日を確定することが望ましい:
- 日本テレビ:「驚きももの木20世紀」。
- 日本テレビ:「11PM」特別追悼企画「ジャンピング」他の実験アニメの放送。
- 日本テレビ:「水曜ロードショー」特別追悼企画、火の鳥鳳凰編、ヤマト編の放送。
- テレビ朝日:「徹子の部屋」の生前の再放送を中心にした追悼番組。
- NBS:「イカにもスミにも」手塚治虫追悼企画。
- TBS:「テレビ探偵団」(1989年2月12日)※ 前年正月出演時の手塚治虫特集の再放送を中心にした追悼企画。
- NHK総合:追悼番組、NHK特集「いのち・わが父 手塚治虫」(1989年4月16日、2010年3月20日にも放送、60分)(制作:手塚眞)※ 公益財団法人放送番組センターの登録番組ID:002106)。
- 日本テレビ:24時間テレビ内の追悼企画アニメ「ぼくは孫悟空」(1989年8月27日放送、70分作品)製作:手塚プロダクション。
- 日本テレビ:「知ってるつもり?! 手塚治虫」(1990年2月4日)。
- 日本テレビ:追悼特別企画、水曜グランドロマン(ドラマ)「手塚治虫物語、いとしき生命のために」』(1990年2月07日放送)。※ DVD媒体化商品あり。
- NHK教育:「NHKセミナー・20世紀の群像 手塚治虫-現在の表現者」(1991年2月11日-2月14日(四夜連続))。
- NHK教育:西田ひかるの痛快人間伝(第1回放送分)「手塚治虫」(1991年10月6日)※ 没後の番組(公益財団法人放送番組センターに登録の番組ID:006116)。
- TBS:「日立 世界・ふしぎ発見! 手塚治虫」(1994年4月23日)。
- 宝塚市立手塚治虫記念館内のアトムビジョン映像ホール用OVA「手塚治虫伝」 (写真とアニメ、ハイビジョン、25分、カラー、1994年8月4日公開)。
- NHK衛星第2:「未来へのメッセージ 手塚治虫の世界」(1994年8月5日)。
- MBS:毎日放送開局45周年番組、心の残像 関西戦後50年の風景、「手塚ワールドの故郷、宝塚」(1995年5月14日放送)。
- NHK教育: ETV特集 「手塚治虫の遺産(1)父の背中」(1995年7月10日放送)。
- NHK教育: ETV特集 「手塚治虫の遺産(2)アトムとAKIRA〜大友克洋が語る手塚治虫〜」(1995年7月11日放送)。
- NHK:ドラマ「天空に夢輝き〜手塚治虫の夏休み〜」(1995年8月19日放送)※ 第10回ハイビジョン国際映像祭グランプリ・アストロラビウム賞受賞作品 ※(公益財団法人放送番組センターに登録の番組ID:008962)※ DVD化媒体商品あり。
- フジテレビ・東宝製作のテレビ映画:「手塚治虫・愛の物語」(原作:手塚悦子著「夫・手塚治虫とともに」、沢口靖子主演)※製作は1996年5月だが、事情により放送も公開もされずに今日に至る(いわゆるお蔵入り状態)。
- TBS:「所さんの20世紀解体新書」手塚治虫特集(1997年8月27日)。
- WOWOW: 手塚治虫生誕70年記念特番「オサムシを訪ねて」(放送:1998年5月5日)。
- NHK総合:「手塚治虫・世紀末へのメッセージ」(1999年1月)。
- テレビ東京 開局35周年記念番組「永遠のアトム 手塚治虫物語」(1999年4月15日放送、143分)※ 音楽:冨田勲 ※(公益財団法人放送番組センターに登録の番組ID:010056)。
- 紀伊国屋書店がビデオ「手塚治虫の世界」全3巻を発売(1999年4月15日)。
- テレビ朝日:「手塚治虫が消えた!?20世紀最後の怪事件鉄腕アトムの名推理」(2000年12月5日)※これは追憶番組とは言えない内容。
- TBS:「ニュース23」『手塚治虫が描いた20世紀』 筑紫哲也、永六輔の対談など(2000年12月25日)。
- NHKFM:『ガラスの地球を救え〜手塚治虫のラストメッセージ』(2000年12月28日)※中井貴一をナビゲーターに生前の肉声で構成。
- NHKFM:ラジオドラマ『ネオ・ファウスト』(2000年12月29日)。
- スカイパーフェクトTV 707ch:「48時間まるごと手塚治虫」、特別インタビュー「息子・手塚眞が語る手塚治虫のアニメーション世界」など(2001年5月5日)。
- NHK-BS:「BSマンガ夜話」シリーズ第22弾(2002年4月1日 - 4月3日の3夜連続放送で「メトロポリス 手塚治虫」、「W3(ワンダースリー)手塚治虫」、「ブラック・ジャック 手塚治虫」の順)※作品についての討論をする番組。
- 手塚治虫講演CD「未来への遺言」発売(2002年10月1日)。
- NHK総合:関西想い出シアター(関西ローカル番組)で「この人 手塚治虫ショー」(2003年11月15日)。
- NHK総合:土曜特集 「火の鳥からのメッセージ〜手塚治虫・いのちの物語」(2004年4月3日)。
- NHK番組 あの人に会いたい 第22回「手塚治虫」(放送2004年11月14日)※ 没後の番組で、過去のアーカイブ映像(1979年放送の「私の自叙伝」)を元に構成されたもの。
- NHK教育:「知るを楽しむ・私のこだわり人物伝」で「談志が語る手塚治虫』(全4回、2005年10月4日、11日、18日、25日に放送)。
- NHK番組 あの人に会いたい 第100回「藤子・F・不二雄」(放送2006年7月30日)※ 没後の番組で、藤子不二雄と共に語る過去の映像が含まれる。
- NHK総合:「ラストメッセージ」第1集「こどもたちへ 漫画家・手塚治虫」(2006年11月5日)。
- 日本テレビ:「未来創造堂」にて「手塚治虫を育てた男、加藤謙一」(2007年1月25日)。
- TBSラジオ:爆笑問題の日曜サンデー 手塚治虫特集 27人の証言(2008年4月6日)。
- 第12回広島国際アニメーションフェスティバル(開催期間2008年8月7日-11日)の特別プログラム「手塚治虫回顧上映 アニメーションより愛をこめて/手塚治虫の仕事」中のトークショウ、「オサムとアトムとアニメの日々」(2008年8月10日)。※ 出演:虫プロ出身の5人の著名アニメーション監督、杉井ギサブロー、りんたろう、出崎統、高橋良輔、富野由悠季。url=<http://ascii.jp/elem/000/000/166/166784/>。
- CSファミリー劇場:(「ブラック・ジャック」連載40周年記念特別番組) 「漫画の神様は不死鳥の如く蘇る」(2013年2月17日放送)。
- CSファミリー劇場:(「鉄腕アトム」放送開始50周年記念特別番組)「漫画の神様 日本テレビアニメ創造史」(2013年3月10日放送) ※インタビュー:白川大作、山本暎一、津堅信之。
- TBS系、バラエティ番組「もてもてナイティナイン テレビの人気者たちに学んでほしい 萩本欽一&手塚治虫SP」(2013年4月9日放送) ※手塚るみ子が出演し、手塚治虫のエピソードを暴露。
- テレビ東京:番組『解禁!暴露ナイト』に”今だから話せる”手塚治虫の知られざる素顔(2013年4月11日) ※出演:手塚るみ子。
- 連載40周年記念「手塚治虫 ブラック・ジャックを語り尽くす」、週刊朝日(2013年4月26日号、38 - 43頁記事) ※海堂尊、岩平佳子、藤田勉、久坂部羊、南淵明宏ほか有名医師の談話。
- NHK-BSプレミアム:『手塚治虫編「神様 最期の一日」』、2013年7月6日 22:00 - 23:00。
- NHK-BSプレミアム:『石ノ森章太郎編「神様への鎮魂歌」』、2013年7月13日 22:00 - 23:00。
- 「OSAMU TEZUKA / AVEND of GOD」千葉・幕張メッセで2013年7月13日に開催のチャリティライブイベント「FREEDOMMUNE 0<ZERO> ONE THOUSAND 2013」に遺品等の展示。
- NHK-BSプレミアム:『「手塚x石ノ森 ニッポン漫画創世記」』、2013年7月15日 21:00-23:00。
- 関西テレビ・フジテレビ系列:関西テレビ放送開局55周年記念ドラマ「神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜」、2013年9月24日(火曜日) 21:00 - 22:48。
- NHK Eテレ:ETV特集「手塚治虫の遺産」(1995年)、2014年2月9日(日曜日) 00:00 - 01:31。※ 内容は1995年7月10-11日放送のETV特集「手塚治虫の遺産(1)父の背中〜手塚治虫日記を読む〜」と「手塚治虫の遺産(2)アトムとAKIRA〜大友克洋が語る手塚治虫」。
- 米グーグルのサイト「歴史アーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画やアニメ作品でたどる手塚治虫の生涯が公開される(2014年4月7日)。url=<http://www.google.com/culturalinstitute/browse/Osamu%20Tezuka>。
関連項目
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- 宝塚市立手塚治虫記念館
- 手塚賞
- 手塚治虫文化賞
- Earth Dreaming〜ガラスの地球を救え!
- osamu moet moso
- 手塚 (小惑星) - 手塚治虫に因んで命名された。
- 手塚光盛 - 木曾義仲の家臣、信濃国諏訪手塚城主。光盛の後裔を自称している者に、手塚良仙や手塚治虫を始めとした手塚家の一族がいる[274]。
- 手塚良運 - 手塚良庵の従兄弟で、墓が曹洞宗興国山"清凉寺"(茨城県石岡市)にある(黒沢哲哉「虫ん坊」2014年2月号のコラム虫さんぽより)。
- 山吹御前 - 手塚光盛の兄・盛澄の娘であるという説がある。詳細は当該項目参照。
- Google Cultural Institute 「Osamu Tezuka」(米グーグル歴史アーカイブ「手塚治虫」)[275]。
出典・脚注
外部リンク
テンプレート:手塚治虫- ↑ 1.0 1.1 大阪帝国大学附属医学専門部は、手塚が在学中の1947年10月に大阪帝国大学が大阪大学へ改称されたことに伴い大阪大学附属医学専門部と改称した。
- ↑ 起源は開高健「マンガの神様・手塚治虫」(週刊朝日1964年2月21日号)。生前手塚治虫は著書『ぼくはマンガ家』のように、「漫画」より「マンガ」という表記を好んで使っており、それに習う。
- ↑ 1980代:年譜:手塚治虫について:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト
- ↑ 桜井、22p
- ↑ 手塚治虫の家系図
- ↑ 手塚 (1997)、17-19p
- ↑ アニメ雑学おもしろ事典(1984年、白泉社)手塚インタビュー
- ↑ 手塚 (1997)、10-12p
- ↑ テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.12
- ↑ 桜井、37p
- ↑ 桜井、40p
- ↑ なお、治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている。(桜井、34p)
- ↑ 『手塚治虫完全解体新書』所収
- ↑ 桜井、24-28p
- ↑ 夏目、70-71p
- ↑ 桜井、31p
- ↑ 手塚 (1999)、20p
- ↑ 『北杜夫マンボウぱじゃま対談 男性かいぼう編』p.20(集英社、1978年)
- ↑ 手塚 (1997)、20p
- ↑ 手塚 (1997)、20-22p
- ↑ 手塚 (1997)、13p
- ↑ ただし、上記の石原実は手塚没後のインタビューで「手塚がいじめっ子を自宅に呼んで漫画で懐柔・籠絡した」とされる点に疑問を呈している。石原によると、同窓会のたびに皆で「おかしいなー」と言っていたが、手塚本人に言うと「『すまん、すまん』とケロッとして」いたという。(池田啓晶他 『手塚治虫完全解体新書』 集英社、2002年、p238)
- ↑ 手塚 (1997)、13p
- ↑ 手塚治虫2009
- ↑ 手塚 (1997)、6-9p
- ↑ 桜井、32p
- ↑ 手塚 (1999)、29p
- ↑ 手塚 (1999)、274p
- ↑ 桜井、45p
- ↑ 桜井、45p
- ↑ 手塚 (1997)、52p
- ↑ 手塚 (1997)、52-59p
- ↑ 桜井、48-50p
- ↑ 手塚 (1997)、62p
- ↑ 桜井、58p
- ↑ 桜井、59p
- ↑ 手塚 (1999)、57-60p
- ↑ 手塚 (1999)、61-65p
- ↑ 米澤、13p
- ↑ 米澤、13p
- ↑ 手塚 (1999)、89-90p
- ↑ 手塚 (1999)、90p
- ↑ 手塚 (1999)、91p
- ↑ 米澤、82p
- ↑ 呉智英『現代マンガの全体像』情報センター出版局、1986年、128p
- ↑ 米澤、14-15p
- ↑ 手塚 (1999)、96p
- ↑ 米澤、15-16p
- ↑ 米澤、16p
- ↑ 手塚 (1999)、98-99p
- ↑ 桜井、72p
- ↑ 手塚 (1999)、100p
- ↑ 桜井、72-73p
- ↑ 米澤、21p
- ↑ 米澤、27p
- ↑ 米澤、23p
- ↑ 米澤、23-24p
- ↑ 手塚 (1999)、183p
- ↑ 手塚 (1999)、184-185p
- ↑ 徹夜明けであっても映画館に駆け込んだという。『観たり撮ったり映したり』(手塚治虫著)
- ↑ 米澤、31p
- ↑ 米澤、31p
- ↑ 米澤、32-33p
- ↑ 桜井、118p
- ↑ 米澤、85-86p
- ↑ 桜井、119p
- ↑ 手塚 (1999)、216-217p
- ↑ 桜井、121p
- ↑ 豊田亀市「神様独占を志した男」、佐藤敏章『神様の伴走者 手塚番13+2』(小学館)、p59-63、2010。
- ↑ 桜井、118p
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- ↑ 桜井、122p
- ↑ 『北杜夫マンボウぱじゃま対談 男性かいぼう編』p.25(集英社、1978年)
- ↑ 手塚 (1999)、33-34p
- ↑ 『虫プロ興亡記』
- ↑ 手塚 (1999)、237p
- ↑ 手塚 (1999)、237p
- ↑ 桜井、136p
- ↑ ただし、アニメーション『鉄腕アトム』関係者への聞き取りと資料の再調査を行った津堅信之は実際には「当初は1本155万円が代理店より制作費として支払われていた」としている。津堅によると、その後も制作料は少しずつ引き上げられており、「虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。『『アトム』を55万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった』という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。」としている(津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年)。
- ↑ 手塚 (1999)、242p
- ↑ 手塚 (1999)、242p
- ↑ 桜井、142p
- ↑ 手塚 (1999)、249p
- ↑ 手塚 (1999)、249p
- ↑ アニメーターの大塚康生は、手塚が一方で理想のアニメに憧れながらも、遂にそれを成し遂げられなかった原因を、商業主義のためではなくて、手塚がアニメの技術について無知だったからだとしている。「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになる筈がなかったように思います。実際、手塚氏はフル・アニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」(大塚『作画汗まみれ 増補改訂版』P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)
- ↑ 「話の特集」1979年7月号 瀕死のアニメーション
- ↑ 米澤、50p
- ↑ 米澤、55p
- ↑ 米澤、54p。なお『どろろ』作中の妖怪は水木の影響を受けたと思われる点描が用いられている(夏目、151-152p)。
- ↑ 米澤、56-57p
- ↑ 米澤、59p
- ↑ 米澤、59-62p
- ↑ 桜井、166-167p
- ↑ 夏目、169-170p
- ↑ 夏目、170p(脚注部)
- ↑ 米澤、65p
- ↑ 米澤、67p
- ↑ 米澤、72p
- ↑ 米澤、93p
- ↑ 1989年2月10日放送『おはよう!ナイスデイ』
- ↑ NHK特集『手塚治虫 創作の秘密』(1986年1月10日放送)
- ↑ 102.0 102.1 手塚眞「わが父 手塚治虫」朝日ジャーナル臨時増刊1989年4月20日号『手塚治虫の世界』所収
- ↑ NHK「手塚治虫 世紀末へのメッセージ」1999年1月15日 22:00 - 22:50放送
- ↑ 集英社新書「手塚先生、締め切り過ぎてます!」福元一義 2009年
- ↑ 東京読売新聞朝刊「いま永遠の"火の鳥"となる 手塚治虫さんの葬儀にファン1万人」(1989年3月3日)
- ↑ 東京読売新聞朝刊「手塚治虫さんの通夜 2000人がお別れ / 東京・東久留米」(1989年2月12日)
- ↑ 米澤、80p
- ↑ NHKスペシャル「いのち〜わが父・手塚治虫」(1989年4月16日)
- ↑ 渡辺泰「アニメーションに魅せられた神様」、霜月たけなか編『誕生!「手塚治虫」』所収、朝日ソノラマ、1998年、101-102p
- ↑ 「手塚治虫の引き裂かれた夢(2)」
- ↑ 手塚 (1999)、21-22p
- ↑ 夏目、67-92p
- ↑ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』p.20
- ↑ 石森章太郎『少年のためのマンガ家入門』秋田書店、1965年。
- ↑ 日本漫画学院(木村忠夫)編『漫画家名鑑1 漫画家訪問記』草の根出版会、1989年、p.84。ちばてつやインタビュー。
- ↑ 瀬戸龍哉編『コミックを創った10人の男 巨星たちの春秋』ワニブックス、2002年、p.107。望月三起也インタビュー
- ↑ 辰巳ヨシヒロ『劇画暮らし』本の雑誌社、2010年、p.18
- ↑ 桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版、1978年、p.32
- ↑ 佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった「劇画内幕史」』文藝春秋、1996年、p.11
- ↑ 竹内オサム『手塚治虫論』平凡社、1992年、224-232p
- ↑ 呉智英『現代マンガの全体像』情報センター出版局、1986年、128p
- ↑ 米澤、97p
- ↑ 野口文雄『手塚治虫の「新宝島」』小学館、2007年
- ↑ 「霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」マンガの神様を育てたバックグラウンド』(1998年、朝日ソノラマ)
- ↑ 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房、1992年、48p
- ↑ 夏目、44-46p
- ↑ 夏目、47-66p
- ↑ 米澤、161-162p
- ↑ 米澤、162-163
- ↑ 米澤、181p
- ↑ 桜井、116p
- ↑ 手塚 (1999)、53p
- ↑ 竹内オサム『戦後マンガ50年史』(1995年、筑摩書房)
- ↑ 手塚 (1997)
- ↑ 渋谷陽一のインタビューでの発言、『風の帰る場所』P73
- ↑ 『SIGHT』vol.15、pring、2003年、p22(インタビューと撮影は渋谷陽一による)
- ↑ 光文社刊『漫画の描き方』より
- ↑ 夏目、188-189p
- ↑ 「ヒゲオヤジ氏の生と性?」石上三登志『定本 手塚治虫の世界』所収、東京創元社、2003年
- ↑ 夏目、189p
- ↑ 鳴海丈『萌えの起源』PHP新書 2009年
- ↑ 手塚治虫デビュー作品集 毎日新聞社 1991年
- ↑ 「論集 手塚漫画のはじまり」(1980年名著刊行会)
- ↑ 「ユリイカ」手塚治虫特集号(1983年2月号)
- ↑ 桜井、59p
- ↑ 1978年『20歳への提言』オーシャンプランニング所収
- ↑ 1992年『手塚治虫大全1』マガジンハウス社
- ↑ 石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)
- ↑ 1989年2月10日金曜日放送 テレビ朝日『こんにちは2時 マンガ界の神様手塚治虫さん逝く!!』「「若く見られてはいけない」という事で、先生公称は大正15年生まれとして手塚さんは通していらしていたという事ですね」
- ↑ 『漫画家・アニメ作家人名辞典』(日外アソーシエーツ)
- ↑ 手塚(1987)、6 - 7p。原文には精密検査を受けたのは「四年前」とあるが、もとは1982年から『キネマ旬報』に連載されたもので、この箇所の掲載号が明示されていないため、具体的に何年を指すのかは不明確である。手塚自身は自分がA型ということに納得がいかず「断じてぼくは(引用者注:血液型性格分類でいうところの)B型だと思う」とも書いている。
- ↑ 石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)
- ↑ 『ブラックジャック創作秘話』第2巻 p9 秋田書店
- ↑ 同テレビ番組でも「若い頃に比べて丸が正確に描けなくなってきた」と手塚本人が語っている)
- ↑ 大塚英志、ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社現代新書、2001年、19p
- ↑ TBS系「輝く日本の星! 手塚治虫を作る」より
- ↑ テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.72
- ↑ 医師法施行令(医師法第八条の規定に基づき内閣が制定)の第四条第二項には「医師が死亡し、又は失そうの宣告を受けたときは、戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)による死亡又は失そうの届出義務者は、三十日以内に、医籍の登録のまつ消を申請しなければならない。」とあり、また同七条第一項には「医師は、医籍の登録のまつ消を申請するときは、住所地の都道府県知事を経由して、免許証を厚生労働大臣に返納しなければならない。第四条第二項の規定により医籍の登録のまつ消を申請する者についても、同様とする。」となっている。このため本来は死亡後三十日以内に遺族が医師の免許証の返納手続きをとるべきなのであったが、厳重に保管されているため悪用される恐れがないこと、医師免許証に文化財としての価値があるという理由で、法令の本来の規定を超えた特例の措置がなされた。
- ↑ 手塚は、球団の堤義明オーナーから「大人になった姿のレオ」と指定されたことから父親の「パンジャ」がモデルであると説明している。
- ↑ トレードマークの縦縞がなく、胸の部分に「OSAKA」と描かれているデザイン。
- ↑ 手塚治虫もトラファンだった 60年前の文通に素顔残す(朝日新聞・2008年9月25日)。なお、1950年当時の球団名は「大阪タイガース」であったが、この当時から通称としては「阪神」と呼ばれていた。
- ↑ 週刊少年マガジン1989年3月15日「思い出の手塚先生」
- ↑ 藤子不二雄「トキワ荘青春日記」光文社
- ↑ 「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号
- ↑ 「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号
- ↑ 小学館「藤子不二雄自選集8」1981年 -藤子さんは凸凹コンビです 手塚治虫-
- ↑ 小学館「コロコロコミック」1989年2月27日号
- ↑ 朝日新聞「漫画家の梁山泊『トキワ荘』解体」1982年12月1日
- ↑ 石ノ森章太郎のマンガ教室
- ↑ 。石ノ森章太郎のマンガ教室
- ↑ 手塚治虫『ぼくは漫画家』
- ↑ 石ノ森章太郎『ことばの記憶』2008年 P.132
- ↑ 秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年
- ↑ 日本漫画学院 赤塚不二夫インタビュー参考。
- ↑ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、44-46頁。
- ↑ 古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.55
- ↑ 赤塚不二雄120% 小学館文庫 1999年
- ↑ 自由国民社「赤塚不二夫の特集」1997年
- ↑ 秋田文庫「鉄の旋律」手塚治虫 水野による巻末のあとがきより
- ↑ 1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫-
- ↑ 181.0 181.1 手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、175p 引用エラー: 無効な
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タグ; name "boku"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社《集英社新書》、2009年 P.44
- ↑ 1989年2月23日 SPA!
- ↑ 横山光輝さんのこと「復刻版鉄人28号」第三巻 大都社 1979年
- ↑ 松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111
- ↑ 松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111
- ↑ 松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.129
- ↑ 松本零士『未来創造-夢の発想法』2010年 p.133
- ↑ 三栄書房「手塚治虫プロダクション監修 手塚治虫とキャラクターの世界」2013年 P.136
- ↑ アンソロジー『ブラック・ジャックALIVE』(2005年、秋田書店)
- ↑ 産経ニュースwest 2012.10.26 『永井豪「手塚先生とコラボ、夢が実現」アトム〜マジンガーZ…特別展で系譜も披露』より
- ↑ 永井豪『漫画家』p。35(1992年、実業之日本社)
- ↑ 三栄書房「手塚治虫プロダクション監修 手塚治虫とキャラクターの世界」2013年 P.140
- ↑ 三栄書房「手塚治虫プロダクション監修 手塚治虫とキャラクターの世界」2013年 P.142
- ↑ 三栄書房「手塚治虫プロダクション監修 手塚治虫とキャラクターの世界」2013年 P.150
- ↑ 古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.45
- ↑ 『探検バクモン』2013年1月23日付放送分
- ↑ 株式会社金の星社「手塚治虫物語―漫画の夢1945〜1959」2009年、P.151
- ↑ 別の対談ではこのとき手塚は家にいたが母親に「留守です」と帰されたとも語っている
- ↑ 三栄書房「手塚治虫プロダクション監修 手塚治虫とキャラクターの世界」2013年 P.148
- ↑ 小学館「ビッグコミック」1989年3月10日
- ↑ 辰巳ヨシヒロ「劇画暮らし」 2010年 本の雑誌社 p18
- ↑ 辰巳ヨシヒロ「劇画暮らし」 2010年 本の雑誌社 p11
- ↑ 辰巳ヨシヒロ「劇画暮らし」 2010年 本の雑誌社 p6
- ↑ 辰巳ヨシヒロ「劇画暮らし」 2010年 本の雑誌社 p145
- ↑ 古谷三敏「ボクの手塚治虫せんせい」 2010年 双葉社 978-4575302240
- ↑ 辰巳ヨシヒロ「劇画暮らし」 2010年 本の雑誌社 p292
- ↑ 辰巳ヨシヒロ「劇画暮らし」 2010年 本の雑誌社 p304
- ↑ 辰巳ヨシヒロ「劇画暮らし」 2010年 本の雑誌社 p320
- ↑ 「つげ義春自分史」『つげ義春全集・別巻 苦節十年記/旅籠の思い出』筑摩書房 1994年 ISBN 4-480-70169-9
- ↑ 白土三平「嵐の忍者」小学館クリエイティブ
- ↑ 漫画の教科書「思想の科学」1982年3月号
- ↑ 手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、178p
- ↑ 小学館「ビッグコミック」1989年3月10日
- ↑ 草森紳一「マンガ考」
- ↑ ユリイカ臨時増刊号『総特集大友克洋「カミソリ感覚」』1988年8月
- ↑ COMIX BOX「特集ぼくらの手塚治虫」89年
- ↑ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
- ↑ 石坂啓のインタビューによる
- ↑ 映画メトロポリス公式サイト
- ↑ NHK-FMラジオ 「日曜喫茶室 鉄腕アトムの贈り物」1993年5月30日
- ↑ 手塚治虫名作集11「新撰組」あとがきの萩尾による寄稿より。
- ↑ 秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年
- ↑ 1989年「SFマガジン」4月号
- ↑ 三栄書房「手塚治虫プロダクション監修 手塚治虫とキャラクターの世界」2013年 P.144
- ↑ 手塚 (1999)、87p
- ↑ 但し作中で説明されるのは井上ひさしが1971年に執筆した戯曲版のストーリーである。
- ↑ 手塚治虫漫画全集「鳥人体系」あとがきより
- ↑ 報知新聞 1989年2月10日
- ↑ やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P146
- ↑ やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P154
- ↑ 1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫-
- ↑ 平凡パンチ 1984年5月 私の少年漫画誌
- ↑ 手塚治虫「僕はマンガ家」大和書房、1988年、144p
- ↑ テンプレート:絶版マンガ図書館2(外部リンク)
- ↑ 手塚 (1999)、171-176p
- ↑ 石ノ森章太郎のマンガ家入門 秋田文庫
- ↑ 株式会社金の星社「手塚治虫物語―漫画の夢1945~1959 」2009年、P.183
- ↑ ヨシトミヤスオ「マンガ漫画の魅力」1978年。手塚とヨシトミとの対談による手塚本人談
- ↑ 『日本ヒーローは世界を制す』(角川書店)
- ↑ 米澤、54p
- ↑ 初出は小学館の『ビッグコミック』1969年10月25日号、角川文庫『畏悦録』収録
- ↑ 足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』(1994年、文藝春秋)
- ↑ 講談社「ゲゲゲの鬼太郎 TVアニメDVDマガジン」第一巻 水木へのインタビューより
- ↑ 手塚(1987)、17p
- ↑ 『水木サンの幸福論』174ページ
- ↑ いしかわじゅん「フロムK」(双葉社『週刊漫画アクション』1989年3月7日号掲載分)
- ↑ いしかわじゅん「フロムK」(双葉社『週刊漫画アクション』1989年3月7日号掲載分)
- ↑ まんが情報誌「ぱふ」1989年4月
- ↑ 秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話1」
- ↑ 秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話」1巻
- ↑ 小学館『週刊少年サンデー』1989年3月1日「まんがの神様手塚治虫ご逝去を掉む」
- ↑ 1989年3月10日号「週刊朝日」夏目房之介のコラムより
- ↑ 夏目房之介「手塚治虫はどこにいる」筑摩書房 1992年
- ↑ NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季
- ↑ NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季
- ↑ 産経新聞ニュース「ガンダムの富野監督の語った鉄腕アトムと手塚治虫」(2013年6月)
- ↑ 富野由悠季「∀の癒し」
- ↑ 河出書房新社「文藝別冊 総特集 手塚治虫」1999年 P.18
- ↑ 虫ん坊「新作アニメーション火の鳥 高橋良輔監督インタビュー」(2004年4月号)
- ↑ 「手塚治虫に「神の手」を見たとき、ぼくは彼と訣別した」『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと)1989年5月号
- ↑ 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」(2009年4月)
- ↑ 1989年「COMIC BOX」5月号『手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した』
- ↑ 1980年5月 ぱふ
- ↑ NHK特集『手塚治虫 創作の秘密』(1986年1月10日放送)
- ↑ フジパンロボット館は閉幕後に愛知青少年公園(現・愛・地球博記念公園)に移設され、2005年に愛・地球博でも展示された。
- ↑ マコちゃんについて| 福田珈琲株式会社
- ↑ 番組中、司会の三木鶏郎とともにアニメのアトムと手塚治虫が「対話」する場面があった。このアトムは虫プロで独自に5か月をかけて制作されたフィルムである。
- ↑ 榊原郁恵・大場久美子主演のコメディードラマに本人役でゲスト出演。「トレードマークのベレー帽を盗まれた」と言う設定で、帽子が犯人(演:江藤博利)の住むアパートの押入れから見つかるまで手拭で頭を覆っていた。
- ↑ 冒頭に実写で本人が出演。
- ↑ 2009年2月9日放送「BS20周年企画 手塚治虫2009」
- ↑ E o projeto continua!:Henshin! (ポルトガル語)参照。
- ↑ Panini lança edição especial que reúne Turma da Mônica Jovem com personagens do japonês Osamu Tezuka、 o pai do mangá、 em aventura na Amazônia (ポルトガル語)参照。
- ↑ Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:SUWA及びTezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:DALI参照。
- ↑ [1]