日本SF作家クラブ
日本SF作家クラブ(にほんエスエフさっかクラブ、SFWJ : Science Fiction and Fantasy Writers of Japan)は、1963年発足の日本のSF作家・翻訳者や評論家、編集者による親睦団体である。
小松左京、星新一、筒井康隆ら日本SF界の重鎮はほとんど所属し、また物故者テンプレート:Whoも生前に所属していた。
1963年の設立時の英名は、Japan SF Writers Association (略称JSFWA)で[1]SF作家や科学ライターのための親睦会だったが、1999年の総会でアメリカSFファンタジー作家協会(略称SFWA)に倣って、英語表記に「Fantasy」を入れることを決定[2]。以後、SF作家のみならず、ファンタジーや推理小説を主な活躍の舞台とする小説家も入会するようになった。その初期から手塚治虫など漫画家にも門戸を開いており、いしかわじゅんや京極夏彦や神坂一らもメンバーに名を連ねている。
1980年より「日本SF大賞」を主催している。かつて主催していた「日本SF新人賞」「日本SF評論賞」の2賞は休止。
設立の経緯
1963年3月5日、新宿の台湾料理屋山珍居において、石川喬司・小松左京・川村哲郎(筆名、中上守)・斎藤守弘・斎藤伯好・半村良・福島正実・星新一・森優・光瀬龍・矢野徹の11人のSF関係者によって発足した。「日本SF作家クラブ」という名称は、江戸川乱歩が創設した推理作家による「日本探偵作家クラブ」(現・日本推理作家協会)がヒントになったものとみられる[3]。この時の会合の様子は福島正実によってオープンリールに録音されている[4]。
当時『SFマガジン』編集長だった福島正実の音頭取りによる設立で、福島が意図していたのは、純文学への対抗意識とプロによるSF界のリードだったと言われる[5][6][7]。
発足当時の連絡事務所は『SFマガジン』を発行する早川書房に置き[8]、実質的な会長は福島正実だったが、公的な代表として設置されていたのは事務局長で、初代事務局長は半村良、次いで大伴昌司、高斎正が歴任した[3] 。一説には、会員であるSF作家を国家に見立て、事務局長は国際連合事務総長を擬制したものであったという[9]。福島死去後の1977年から会長の地位が設立され、初代会長には星新一が就任した[3]。
酔っ払うと珍妙な言動をする星新一により、入会資格に「死んだ人はダメ」「宇宙人はダメ」「馬はダメ」[10]「星新一(178cm)より背の高い人はダメ」[11]「筒井康隆よりハンサムな人(定義不明)はダメ」「小松左京(自称85kg)より重い人はダメ」などの珍妙な条文が盛り込まれた[12]。一方で、「女性はOK」「小説家以外もOK」と門戸が広く、後に、漫画家や映像関係などヴィジュアル関連の人物が入会するのを見越した先見性があった。
活動内容
新幹線がなかった頃、関西方面に住んでいる会員を考慮して彼らの生活に支障がないように会合が開かれ、初期には毎月のように旅行した。宿泊先の雄琴温泉の旅館が作家とサッカーを聞き間違え、「歓迎!日本SFサッカークラブ御一行様」と歓迎の札が掲げてあった笑い話は有名である[13][14]。
見学旅行には東海村の原子力研究所へ行ったり、三鷹の国立天文台や、砧のNHK放送技術研究所を見学したり等[15]、さまざまなところへよく出かけたため、初期の頃は「メダカの群れ」「金魚のフン」などと言われた[16]。1970年には、日本SFファングループ連合会議と共同で、米英ソから作家を招き、東京・名古屋・京都で「国際SFシンポジウム」を主催[3]。
1980年から日本SF大賞、1999年から日本SF新人賞(2009年をもって終了)、2006年から日本SF評論賞を主催。
その他の活動には、1970年には、会員の手塚治虫がアニメ映画『クレオパトラ』を製作した際に群集のシーンの声で参加[17]。2000年にクラブが編者となった初単行本のアンソロジー『2001』を、2001年に早川書房から『SF入門』という共著書を出すなどの活動をしている[3]。
2012年から、日本SF作家クラブ会員有志により運営されるネット・マガジン「SF Prologue Wave」が開始された。
2013年の「創立50周年」で記念プロジェクトを実施中。
歴代会長・事務局長
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入会資格
当初は親睦団体という性格が強く、新規入会は全会一致で承認された場合のみという会則が設けられていた[18]。そのため、後に会員となった荒俣宏は当初入りたくても入れなかったという[19]。
山田正紀会長時代の2005年に会則が改定され、3名以上の会員の推薦が有る場合に推薦文が事務局通信に掲載され、そこで異議申立てがなければ総会に諮られ、総会参加者の2/3以上の賛成で入会が認められる、という形になった[9]。また日本SF大賞受賞者には推薦不要で、いきなり総会で入会の可否が諮られる権利が与えられる[9]。ただ入会資格については、長年の運営の間に「プロとして一冊以上の単独著書がある」などの不文律が作られており、その経緯についても過去の議事録等が十分に整備されていないことから不透明な部分があるという[9]。
入会拒否者・退会者
- 柴野拓美
- クラブ発足時、同人誌『宇宙塵』を主宰しており、『SFマガジン』とともに当時の日本SFを牽引していたが、上述のような福島正実の意図により外されていた[20][21][22]。福島が死去した翌年の1977年に日本SF作家クラブが「宇宙塵創刊20周年を祝う会」を主催して功績を称え[3]、後に柴野は入会している。
- 山野浩一
- 日本のニュー・ウェーブSF運動を先導していたが思想の違いから再三の誘いを拒んだ[23]。のち2007年の世界SF大会の「speculative japan」パネルに出席し、翻訳家増田まもるが創設したサイト「speculative japan」の理念に賛同したことから、2008年1月に入会した[24]。
- 荒巻義雄
- 外部からSFの評論をしたいとして1985年から退会していたことがあった[25]。
- 眉村卓
- 1992年から2008年まで退会していたことがあったという[26]。
- 若桜木虔
- 1997年ごろ推薦を受けたが、入会を拒否された[27]。
- 野尻抱介
- SFファンが選ぶ星雲賞の常連作家であるが、2011年10月にツイッター上で「何年か前の日本SF大賞があまりにくだらなかったので、私はSF作家クラブを退会した」と発言、同時にその年の日本SF大賞の最終選考に『魔法少女まどか☆マギカ』が残った事も批判している[28]。
- 平井和正
- テンプレート:Whenテンプレート:How
- 瀬名秀明
- 2011年10月から16代会長だったが、2年の任期途中の2013年3月1日、日本SF作家クラブ会長職を辞任し、同時に日本SF作家クラブを退会した[29]。在任中にはSF作家クラブは「沈没」の運命にあると発言[30]、また後には日本のSFコミュニティに「いじめ」や「嫌がらせ」があり、自らの推薦による賞の受賞者がその被害にあう可能性があると発言した[31]。
- 大森望
- 2014年4月に日本SF大賞特別賞を受賞、その結果無推薦入会動議がクラブ総会にかけられたが、1/3の反対票により入会が認められなかった。これによりクラブ選考による賞は与えられたが入会を拒否されたという立場となった。大森は1992年にも同様に入会が却下されており、これらの経緯はすべて小谷真理および巽孝之との確執が原因とされた[9][32]。さらに論争は、このような事が起こる一方で声優の池澤春菜を「ファン代表」のような形で入会させているのはおかしいという議論へと飛び火した[33]。これらの過程で「排他的体質」(東浩紀)、「サークルの雰囲気優先」(我孫子武丸)などと批判が続出し[34]、牧野修・菅浩江・図子慧・福田和代・小川一水らが一斉退会するという事態に発展した[35]。