阪神タイガース
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阪神タイガース(はんしんタイガース、テンプレート:Lang-en)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。日本に現存する12球団の中で読売ジャイアンツに次いで2番目に歴史が長いプロ野球球団である[1][注釈 1]。運営法人は株式会社阪神タイガース。運営母体(親会社)は阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングス傘下)。
兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場を専用球場(本拠地)としている。埼玉西武ライオンズと同じく、都道府県庁所在地以外の市に本拠地を置く。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は同市にある阪神鳴尾浜球場である。
目次
球団の歴史
戦前
テンプレート:By末に大日本東京野球倶楽部・球団名「東京巨人軍」が創立された。東京巨人軍の親会社である読売新聞社は、数球団で職業野球リーグを結成したいと考えていた。特に東京市・大阪市・名古屋市の三大都市圏で試合を行うことを目指していた。誘いを受けた阪神電気鉄道が、当時日本最大の球場だった甲子園球場を本拠地とした球団を設立することとなった。
テンプレート:By、10月22日の門前眞佐人との入団契約[2]を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった中等野球のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、12月10日に商号「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名「大阪タイガース」(おおさかタイガース、Osaka Tigers)が発足した。
テンプレート:By、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志、2月28日に立教大学の景浦將など有力選手と契約し、4月19日の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。2月5日には日本職業野球連盟が結成された[1][3]。
1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場、宝塚球場にて3大会が行われた[4]。東京巨人軍がアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しておらず、名古屋金鯱軍も途中内外遠征を行ったため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。
夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった大阪タイガース[5]は、テンプレート:要出典範囲。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋に24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京巨人軍と並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した[6]。
テンプレート:By秋、テンプレート:By春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、球団史上初かつ球団史上唯一の2シーズン連続の優勝を達成した。更にこの2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京巨人軍を破り、年間優勝2連覇を達成した[7][8]。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前〜戦中は常に東京巨人軍と優勝争いを繰り広げる強豪チームだった。
テンプレート:By、9月25日、戦況悪化に伴う日本野球連盟の方針により敵性語である英語が使用禁止されたため、球団名を「阪神軍」(はんしんぐん)に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況となる。テンプレート:By、監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた[9]。戦争が激化する中、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
戦後〜1950年代
第二次大戦後、日本のプロ野球はテンプレート:By11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。テンプレート:By3月に球団名を大阪タイガースに戻した。
テンプレート:By、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞 (MVP) を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番・藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「(初代)ミスタータイガース」と称された。テンプレート:By、藤村が対金星戦(甲子園)で日本プロ野球初のサイクル安打を達成。
テンプレート:Byには、チーム順位が6位にも関わらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし、最終的には反対派に回り、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。更に遊撃手・長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。
テンプレート:By、若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。
一方、チーム再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。テンプレート:By・3位→テンプレート:By、テンプレート:By・2位→テンプレート:By、テンプレート:By・3位→テンプレート:By-テンプレート:By・2位(1959年は中日と同率の2位[10]))。
この間、松木は1954年限りで監督を退任。球団は後任にプロでの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。助監督だった藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村の監督退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2ヶ月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。
1955年、2軍チーム(阪神ジャガーズ)結成。ウエスタン・リーグに加盟。
1952年、フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。
テンプレート:By6月25日の対巨人11回戦(後楽園)は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄のサヨナラ本塁打で、4-5で敗戦。
1960年代
テンプレート:By、藤本勝巳が最多本塁打・最多得点の二冠を獲得。チームは3位に終わる。
テンプレート:By4月1日に商号を「株式会社阪神タイガース」、球団名も阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)に変更した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。この年は、4位に終わる。
テンプレート:By、藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分裂後では初、通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果、2勝4敗1分で敗退した[11]。
テンプレート:By、巨人と中日の首位争いに加わる事が出来ず、3位に終わる。テンプレート:Byは、エース小山と毎日大映オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋めた。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という状況で、最後に9連勝し公式戦最終日の9月30日に逆転で6回目の優勝。しかし日本シリーズでは、南海ホークスに先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で敗れている。1966年、藤本は杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年まで監督を務め、同年オフに勇退。後任には後藤次男が就任。
テンプレート:Byからテンプレート:Byまで3年連続の3位。テンプレート:Byとテンプレート:Byは、いずれも巨人と優勝争いを繰り広げるも、結果はいずれも巨人が優勝で、1968年は巨人と5ゲーム差、1969年は巨人と6.5ゲーム差の2年連続2位。
1970年代
テンプレート:By、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一のバッテリー、吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなった藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、巨人が9年連続日本一のV9時代で、1970年・2位→テンプレート:By・5位→テンプレート:By・2位と優勝する事ができなかった。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。
テンプレート:By、金田が復帰して巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日ドラゴンズ戦で、2対4で敗戦、甲子園での最終戦でも0対9と敗れて、巨人が9年連続優勝となった。テンプレート:By、田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。
テンプレート:By、吉田義男が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀・島野育夫らとのトレードで南海へ放出。1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンやマイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。
テンプレート:By、序盤は好調だったが、対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。この年のオフに吉田は監督を辞任、後任に後藤次男が就任。テンプレート:By、球団史上初の最下位に終わり、後藤は責任を取る形で1シーズン限りで辞任した。オフに小津が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵と古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史との交換トレードで放出。更に空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー・金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。
テンプレート:By、ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣の対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に広島東洋カープに離されて4位に終わる。
1980年代
テンプレート:By、新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。後任には中西太が就任したが、5位に終わる。テンプレート:Byは優勝した巨人と8ゲーム差の3位。テンプレート:By、安藤統男が監督に就任。優勝した中日と4.5ゲーム差、2位の巨人と3ゲーム差で2年連続の3位、テンプレート:Byとテンプレート:Byは2年続けての4位。1984年オフ、安藤は監督を辞任、吉田義男が二度目の監督就任。
テンプレート:By、1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が活躍し、4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が巨人の先発の槙原寛巳からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。この年は最終的に本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録し[12]。夏場まで首位を快走していた。8月12日に発生した日航機墜落事故で、球団社長の中埜肇が犠牲となる。この年は、強力打線に加えて中西清起、福間納、山本和行らのリリーフ投手陣も大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)に引き分けて、21年ぶりのリーグ優勝が決定。バ-スが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、球団史上初の日本一達成となる。
テンプレート:By、バースがシーズン打率.389、シーズン長打率.777、7試合連続本塁打、13試合連続打点の日本新記録をマーク、2年連続三冠王を獲得するが、掛布と池田親興の負傷による長期戦線離脱、更に岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島と巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。この年、川藤幸三が引退。テンプレート:By、投手陣崩壊に加え、掛布・岡田の不振で最下位となり、吉田は監督を辞任、村山実が監督就任。勝率.331は球団史上最低勝率である。
テンプレート:By、少年隊トリオと呼ばれた和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど世代交代を進めたが、バースが長男の病気問題で退団、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。
テンプレート:By、セシル・フィルダーが本塁打王争いをするが、シーズン途中に三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。5位に終わり、村山が監督を辞任、中村勝広が監督に就任。
1990年代
テンプレート:By、前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調だったが、エースのマット・キーオが怪我で退団。投手陣で、規定投球回に到達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという結果に終わる。チームは2年ぶりの最下位。
テンプレート:By、開幕5連敗、6月に10連敗(これまで当時の12球団で唯一、二桁連敗がなかった)を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗で、2年連続の最下位となった。しかし、終盤戦で猪俣・葛西稔といった若手投手の台頭で、5連続先発投手完投勝利を収めた。
テンプレート:By、この年は、ヤクルト、巨人、広島との四つ巴の優勝争いとなる。衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績の無い亀山努、新庄剛志の両外野手に加え、和田、八木裕、山田勝彦、入団2年目のトーマス・オマリー、大洋から移籍してきたジム・パチョレック、新人王に輝いた久慈照嘉ら若手・中堅が活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。また、甲子園のラッキーゾーンを撤去して外野が広くなった事が功を奏し、6月にノーヒットノーランを達成した湯舟敏郎の他、中込伸、野田浩司や勝ち頭となった仲田(14勝)の先発陣や、中継ぎのルーキー弓長起浩、抑えの田村勤らこちらも若い投手陣が軸となり、リーグトップ防御率2点台を記録するなど、一時は首位と成るもヤクルトとの優勝争いで競り負け、巨人と同率ながら2位となった。オフ、野田浩司とオリックス・ブルーウェーブの松永浩美が交換トレード。
テンプレート:By、オマリーが首位打者になるが、前年最多安打・最多勝利打点だったパチョレックが怪我と外国人枠を理由に途中退団、前年絶好調だった投手陣も崩壊し4位に終わった。松永浩美がFAで福岡ダイエーホークスへ移籍し、岡田を自由契約でオリックスに放出した。
テンプレート:By、FAでオリックス石嶺和彦を獲得。新人の藪恵市が新人王を獲得、オリックス・ブルーウェーブからトレードで移籍してきた古溝克之が抑えの切り札として活躍。シーズン後半まで首位争いに加わったが、終盤チームを支えていた投手陣が崩壊し7連敗が響き2年連続の4位(ヤクルトと同率の4位タイ)。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇した。
テンプレート:By、FAでオリックスから山沖之彦を獲得。しかし、一軍登板も無くこの年引退。長打不足を解消するため獲得した新外国人のグレン・デービス、スコット・クールボーは及第点の成績を残し、先発陣も防御率3点台中盤を記録する等安定感があったものの、開幕から和田、石嶺、亀山、新庄、八木といった日本人打者の不振があり、先発が好投しても全く勝てず更にそれまで支えていたリリーフ陣が崩壊。極度な成績低迷が続き、中村が7月23日限りで途中休養(その後、辞任)。藤田平に監督を代行させるも球団ワースト記録となる84敗を喫し、4年ぶりの最下位に終わった。同年オフ、真弓が引退した。代行の藤田がそのまま監督に正式就任。
テンプレート:By、怪我の亀山に代わり、前年後半から起用されていた桧山進次郎が飛躍する。2年目の川尻哲郎が13勝、3年目の藪が初の二桁勝利を挙げるがチームは開幕から低迷。5月終了時点で借金15と早々にペナントレースから脱落し、最終的には2年連続最下位となった。新庄をはじめとする主力選手との確執もあって、藤田はシーズン終盤に監督を辞任、後任には、チーフ兼バッテリーコーチの柴田猛が監督を務め、シーズンオフには、吉田義男が3度目の監督に就任。
テンプレート:By、湯舟、中込が先発で復活、リリーフでは葛西、田村、弓長に、横浜からテスト入団した伊藤敦規を加えた投手陣が奮闘、中盤まで上位を狙える位置にいた。だが、打撃陣の主力として期待していた新外国人のマイク・グリーンウェルがわずか数試合で故障・突然退団・帰国。平塚克洋、八木等ベテラン組が一定の成績はあげたものの、新庄・桧山ら他のクリーンナップを務めた選手が不振。和田が開幕戦からの連続安打日本記録を樹立しても打線全体の低迷が響き、結果5位に終わった。オフに久慈照嘉、関川浩一を大豊泰昭、矢野輝弘との交換トレードで中日に放出。
テンプレート:By、新人の坪井智哉と二年目の今岡誠の一番、二番コンビが活躍、更に5月26日に川尻が対中日戦で矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成しシーズンも2年ぶりの二桁勝利を記録する。藪も二桁勝利しプロ入りシーズン初の勝ち越しを達成するも、中日から移籍したアロンゾ・パウエル、大豊ら主力打者が不振。そこへ去年シーズンを支えたリリーフ陣も崩壊。8月には球団ワーストとなる12連敗を記録するなど、2年ぶりの最下位となり、シーズン後に吉田は監督を辞任した。後任はこの年までヤクルトの監督を務めた野村克也が就任。
テンプレート:By、春季キャンプでは野村フィーバーに沸く。西武から佐々木誠を獲得、新人の福原忍がリリーフで活躍、前年テスト入団で復帰した遠山奬志が巨人の松井秀喜キラーとして復活、カムバック賞も受賞した。チームは6月には一時首位に立ったが、先発投手陣の不振から徐々に失速、9月には2年連続で球団ワーストの12連敗を喫し、最下位に終わった。二軍がファーム日本選手権を制し初の日本一。
2000年代
テンプレート:By、オリックスから星野伸之がFAで入団。ヤクルトからカツノリを獲得するなど補強を行い、4月に9連勝して首位に立ち、5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛、西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。吉田が活躍を見せ、新庄剛志が自己最多の28本塁打を放ったが、トニー・タラスコら外国人打者の期待外れや前年に続いて先発投手陣の不振が響き、結果は球団創設以来初となる3年連続の最下位。オフに新庄がFAでメジャーリーグのニューヨーク・メッツに、大豊が中日に移籍した。佐々木誠、フランクリンらが退団した。
テンプレート:By、ルーキーや若手が台頭。井川慶が防御率2位となり、福原も先発、リリーフに奮闘。赤星憲広が盗塁王、新人王を獲得、沖原佳典と藤本敦士も常時レギュラーを張り、濱中治と上坂太一郎らの台頭。ロッテからテスト入団した成本年秀が抑えの切り札として復活カムバック賞を受賞した。更に交換トレードで谷中真二を西武、酒井弘樹を近鉄からそれぞれ獲得。エドワード・ペレスとイバン・クルーズら外国人選手を獲得、中盤にはトム・エバンスを獲得して戦力補強も行うも、外国人打者の期待外れ、中堅、ベテラン選手が軒並み不調。井川、谷中、福原以外の先発陣の不振、酒井も一軍未登板もあって、2年連続で球団ワーストを更新する4年連続最下位。シーズン後に吉田剛が引退、酒井弘樹が退団、塩谷和彦をトレードで放出する。野村監督はチームの柱となる選手の獲得を球団に要請するも金銭的な理由で断られ、12月5日、結局野村は、成績不振に加えて夫人の野村沙知代の脱税容疑での逮捕の責任を取る形で監督辞任。後任はこの年まで中日の監督を務めた星野仙一が就任。オリックスからジョージ・アリアスを獲得、FAで日本ハムから片岡篤史、交換トレードでオリックスから斉藤秀光が加入、更にはデリック・ホワイトらの外国人選手を獲得。
テンプレート:By、開幕7連勝と好スタートを切って首位争いに絡んだが、矢野、赤星がケガで離脱。吉本亮や中谷仁が矢野の代役を果たすも力不足。夏場以降は巨人に圧倒されて順位を下げるも、結果的に4位となり5年ぶりに最下位を脱出(しかしながら10年連続Bクラスとなった)。シーズン中にエバンスと西武の橋本武広の交換トレードを行い、広島からFAで金本知憲、日本ハムから下柳剛、野口寿浩らをトレードで獲得。更にジェフ・ウィリアムス、元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝を加入させた。
テンプレート:By、開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させ、9月15日に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと対戦するが、甲子園でのゲームを全てものにする一方で福岡でのゲームを全て落とし3勝4敗で敗れた[13]。シリーズ終了後、星野は健康問題を理由に監督を退任し、シニアディレクター職に転ずる。また、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一、達川光男、西本聖は退団した。岡田彰布が監督に就任。
テンプレート:By、自由獲得枠で獲得した鳥谷敬を抜擢するなど戦力の増強を図ったものの、主力選手の不振と、マイク・キンケードの期待はずれの不振、ジェロッド・リガンの負傷による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位だった。10月4日、井川慶がノーヒットノーランを達成。シーズン後、藪恵壹がFAで大リーグ・オークランド・アスレチックスへ移籍し、伊良部、アリアス、リガンを戦力外とした。八木裕が現役引退。
テンプレート:By、ウィリアムス、藤川球児、久保田智之のJFK、桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴など救援投手陣の活躍、更に広島から移籍してきたアンディ・シーツ、金本、今岡誠によるクリーンナップが安定した成績を残した。先発投手陣は井川、福原の不振もあってやや不調だったが、JFKを筆頭とする強力中継ぎ・抑え陣で完全にカバーし、チーム防御率はリーグ1位となった。また、優勝を決定付ける本塁打を放った中村豊、5年連続盗塁王を獲得した赤星、レギュラー初年で2番打者を務めた鳥谷敬、下位打線に座ったシェーン・スペンサーの意外性なども打線の中で大きな役割を担った。この年から導入された交流戦で好成績をあげて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなくリーグ優勝を飾った。この時、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝を獲得した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは、第3戦までに30失点と投手陣が崩壊。打線もホームランが全く打てないばかりか1度もリードを奪えず、日本シリーズ史上4チーム目[14]の0勝4敗で敗退。
テンプレート:By、最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝したものの、今岡の不振、久保田の負傷などが響いて2位となった。[15]ファーム日本選手権でロッテに6対0で勝利し、日本一達成。オフに井川がポスティングシステムで大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍したため、大リーグからエステバン・ジャンとライアン・ボーグルソンを獲得するなど、井川の穴を埋めるための補強を進めた。
テンプレート:By、4月から5月にかけて先発投手陣・打撃陣の不振で9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷して借金は最大で9を抱えたが、リーグ戦再開後は少ない打点をJFKら中継ぎ陣が守る野球で、上位の巨人、中日と戦った7月の13戦を10勝3敗で切り抜け、この月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越し、シーズン終盤には10連勝して一時首位に立った。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、更に先発・打撃陣ともに不振に陥って8連敗を喫するなど失速し、最終的には3位に終わった。中日とのクライマックスシリーズ第1ステージは0勝2敗で敗退。この年は、先発陣の完投が杉山直久、能見篤史、上園啓史による3回だけ(12球団最少)で、2003年のオリックス以来4年ぶりに、規定投球回数に到達した投手がいなかった。更に打率・得点も12球団中最下位だった。その一方で桜井広大、狩野恵輔ら若手選手が一定の活躍を見せたシーズンでもあった。アンディ・シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一、日本ハムから金村曉、MLBからルー・フォードを獲得。
テンプレート:By、シーズン序盤から首位を独走し、5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成し、更に7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させたが、主力の新井、矢野、藤川を北京オリンピック出場によって欠き、藤川の代わりに抑えを務めていた久保田の不振、オリンピック後は新井の腰痛、横浜を含む下位球団との試合を取りこぼすことが多かったこと、今岡の不振によって5番バッターが固定できなかったことや前年から続く先発陣の弱さも重なって、中継ぎエースのJFK3人に過度に依存する試合運びとなり、追い上げを見せた巨人に10月8日の直接対決最終戦で敗れ、巨人に13ゲーム差を逆転されて優勝を逃した。13ゲーム差を逆転されたのはセ・リーグ新記録[注釈 2]だった。リーグ優勝を逃した直後、岡田は責任を取るとして監督辞任の意向を表明。クライマックスシリーズ第1ステージでは京セラドーム大阪[注釈 3]で中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。岡田はクライマックスシリーズ後に正式に監督を辞任し、後任には真弓明信が就任。
テンプレート:By、4月は金本が絶好調だったものの、WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田が故障で開幕に間に合わなかった。新井・鳥谷の打撃不振や新外国人ケビン・メンチの成績不振もあって、巨人や中日に圧倒され前半戦は低迷し、チーム改善の一角として6月にクレイグ・ブラゼルを獲得。後半戦は新井・鳥谷の復調、能見・桜井の躍進、スコット・アッチソンや藤川などリリーフ陣の活躍もあり、徐々に調子を上げる。前半大きく負け越していた巨人戦で、球団新記録となる5カード連続の勝ち越しを記録し対戦成績を五分に戻したこともあり、8カード連続で勝ち越しを決めるなど、最終的には東京ヤクルトスワローズと3位争いとなる。しかし、最終戦でヤクルトに連敗し4位に終わり、初めてCS進出を逃す。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしで、3つとも受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者も2000年以来9年ぶりにいないなど、特に野手陣の不振が目立ったシーズンだった。さらに12球団で唯一5連勝を経験できなかった。オフにシアトル・マリナーズから城島健司、コロラド・ロッキーズからマット・マートンなどを獲得する一方で、9年間チームを支え続けた赤星がこの年限りで引退し、藤本がFAでヤクルトに移籍、今岡、ウィリアムスらが退団した。また駐米スカウトのオマリーを外国人選手の不振の引責で解任し、シーツが後任として就任した。
2010年代
テンプレート:By、城島、マートンなどの新加入選手を加え、新井、鳥谷、平野、ブラゼルなど主力の打棒が威力を発揮。8月には1試合22得点(球団記録更新)挙げるなど、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率.290、3割打者と90打点以上も5人ずつという記録を残している。また若手野手の藤川俊介、上本博紀、大和(前田大和)を起用し、走塁面でも攻撃力につなげた。しかし開幕前に負傷した主砲の金本はフルイニング出場が途切れ、復帰後も攻守での問題点を見せた。一方、投手陣では久保田、藤川などのリリーフ陣、久保康友、ジェイソン・スタンリッジなどの先発陣は好調でも、岩田、能見の怪我離脱や、安藤、下柳、福原の不調が重なった先発陣のコマ不足に見舞われた。鶴直人、西村憲、高卒ルーキーの秋山拓巳などの若手投手を抜擢するも先発・中継ぎは安定感に欠けた。前半戦は巨人との首位争いとなり、後半戦は巨人、中日との首位争いとなり、9月に阪神にも一時的にマジックが点灯したこともあった。しかし、前述の投手陣の不調により最終的には、首位中日と1ゲーム差の2位。初めて甲子園で行われたクライマックスシリーズの第1ステージの対巨人戦は0勝2敗で敗退。オフにはFAで小林宏之と藤井彰人を獲得する一方で、長らく正捕手を務めた矢野が引退し、星野仙一シニアディレクターが、楽天の監督に就任するため退団した。
テンプレート:By、3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕日が当初の3月25日(神宮球場での対ヤクルト戦)から4月12日の甲子園での対広島戦に変更となり、阪神にとって1993年以来18年ぶりの甲子園開幕戦をとなり40年ぶりの甲子園での開幕戦勝利を挙げた。開幕当初は先発陣の安定した活躍で上々の滑り出しをしたものの、打線が不調に陥り、久保田と小林宏の不振もあり、交流戦半ばで最下位に加えて最大11の借金を抱えた。その直後の6月8日から、代打出場が主だった関本をスタメン起用し、負傷した城島に替わり藤井彰人を正捕手として起用し始めたことでチーム状況が好転する。不振だった各打者も復調し、投手では、先発のランディ・メッセンジャーが、能見と並ぶ12勝でチームの勝ち頭になると、中継ぎではベテランの福原、若手の小嶋達也、西村、セットアッパーでは新人の榎田大樹が定着し、徐々に投打が噛み合うようになる。何度か主力選手の離脱もあったが、上本、柴田講平、大和などの若手選手の起用や活躍もあり、月間成績も6月から8月まで連続で勝ち越し、8月終了時には借金を完済し、2位に浮上する。しかし、9月に入るとそれまで好調だった投手陣が安定感を失い、それまでに対戦成績の良かった首位ヤクルト相手に6連敗を喫するなど、球団ワースト記録を更新する6カード連続での勝ち越し無しの記録を作り一気に失速して4位で終わる。真弓明信は監督を辞任、後任の監督には和田豊が就任。この年、下柳、桜井、葛城らが退団。
テンプレート:By[16]、阪神球団設立以来初めてキャプテン制度(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)を導入。野手に鳥谷敬、投手に藤川球児がそれぞれ就任[17]。開幕9試合の4月10日に5勝2敗2分で首位となるなど、4月は勝ち越したものの5月以降はすべての月間で負け越した。交流戦に入り5連敗で勝率5割を切ると、以降は勝率5割以上になる事がなく、前半戦、前半戦を借金10の5位でターン[18]。後半戦直後に7連敗 [19]、8月11日に対広島戦に敗れ8連敗でクライマックスシリーズ自力進出を消滅させ[20]、9月25日の対ヤクルト戦(神宮)で敗れてBクラスが確定[21]、首位巨人と31.5ゲーム差、3位ヤクルトと11.5ゲーム差の5位に終わる[22]。411得点、58本塁打はリーグ最少、24無得点試合はリーグ新記録で、規定打席到達者の最高打率が鳥谷の.262[23]など貧打線に苦しんだシーズンとなった。巨人とは途中9連敗[24]、 東京ドームでは開幕から2分けを挟んで8連敗[25]するなど1勝[26]9敗2分に終わり[27]、シーズン通しては5勝15敗4分に終わる。2位の中日にもナゴヤドームで開幕から1分を挟んで8連敗するなど[28]、シーズン通して7勝15敗2分に終わり、上位2球団とドーム球場の試合で大きく負け越す結果となった。城島健司と金本知憲が現役引退[29]。オフには、藤川球児が海外FA権を行使し、メジャーリーグのシカゴ・カブスへ移籍[30]。元メジャ-リーガーの西岡剛[31]と福留孝介[32]を獲得し、FAでオリックスの日高剛を獲得している[33]。ドラフトでは、大阪桐蔭高校の藤浪晋太郎を1位指名でオリックス、ヤクルト、ロッテとの4球団競合の末に獲得している[34]。
テンプレート:By、藤川のメジャー移籍に伴い、鳥谷敬がチームキャプテンを務める。8月31日に藤浪晋太郎が対広島戦(甲子園)で勝利投手となり、セ・リーグ史上5人目、1967年の江夏豊以来46年ぶりの高卒新人10勝[35]。開幕から巨人と首位争いをしていたが、6月2日に阪神が今季初の首位に立つものの、6月13日に巨人が首位に返り咲くと以降は首位に立つ事が出来ないまま[36]、巨人と5ゲーム差で迎えた8月27日からの3連戦で3連敗した事も響き[37]、9月22日に阪神が対ヤクルト戦(甲子園)に6対7で敗れた事で巨人のリーグ優勝が決定した[38]。翌23日の同戦に2対0で勝利し、3年ぶりにクライマックスシリーズ進出が決定[39]し、10月3日の対DeNA戦(横浜)で7対3で勝利し、3年ぶりのシーズン勝ち越しと、2位を確定させた[40]。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は2連敗で敗退[41]。桧山進次郎が引退[42]。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 9回 但し、2リーグ分裂後は5回(1937年秋 - 1938年春、1944年、1947年、1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
- 日本シリーズ優勝 1回(1985年)
- 年間王者 2回 (1937年 - 1938年)
- Aクラス 49回 但し、2リーグ分裂後は37回(1936年秋 - 1940年、1942年 - 1948年、1950年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年 - 1973年、1975年 - 1976年、1981年 - 1982年、1985年 - 1986年、1992年、2003年、2005年 - 2008年、2010年、2013年)
- Bクラス 30回 但し、2リーグ分裂後は28回(1941年、1949年、1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年 - 1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年、2009年、2011年 - 2012年)
- 連続Aクラス入り最長記録 11年(1950年 - 1960年)
- 連続Bクラス最長記録 10年(1993年 - 2002年)
- 最多勝利 87勝 (2003年、2005年)
- 最多敗戦 84敗 (1995年)
- 最多引分 13分 (1976年)
- 最高勝率 .829 (1938年春)
- 最低勝率 .331 (1987年)
- 最多連勝 14連勝 (1937年秋、1946年)
- 最多連敗 12連敗 (1998年、1999年)
- 最小ゲーム差 0.5ゲーム (1937年春、1973年)
- 最大ゲーム差 37.5ゲーム (1987年)
その他の記録
- シーズン最多安打 1458安打 (2010年) - セ・リーグ記録
- シーズン最多本塁打 219本 (1985年)
- シーズン最少本塁打 1本 (1944年)
- シーズン最多奪三振 1208奪三振 (2005年) - セ・リーグ記録
- シーズン最多完封負け 24回 (1963年、2012年)
- シーズン最高打率 .345 (1936年夏)
- シーズン最低打率 .197 (1941年)
- シーズン最高防御率 1.53 (1944年)
- シーズン最低防御率 4.79 (1978年)
- シーズン連続2ケタ安打 10試合 (2008年)
- シーズン連続完封試合 4試合 (2013年)
- シーズン連続イニング無失点 52 (1942年) - 日本プロ野球記録[43]
- シーズン連続試合無本塁打 15試合 (2012年)
- ゲーム最多得点 22得点 (2010年8月25日対広島東洋カープ)
チームの特徴
球団名称
ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪の姉妹都市・デトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。
このニックネームについては、英語表記「Tigers」の発音は「タイガーズ」のほうが近いが、正式名称は日本語の固有名詞なので、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的だった[注釈 4]。
その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中で英語が使えなかった時期(「阪神軍」)を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球球団では現在でも使われている後述の2球団を除けば、「セネタース」や「イーグルス」の愛称はあったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているのは、2005年に復活した「イーグルス」を除けば、「ジャイアンツ」と「タイガース」の両球団だけである。
球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が兵庫県が定める地域区分の一つで、同県南東部の神戸市と大阪府に挟まれた一帯(尼崎市、西宮市、芦屋市、伊丹市、川西市、宝塚市、川辺郡猪名川町、三田市の7市1町)を指す「阪神」地区に位置していることとの2つの意味をあわせもった球団名である。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急、南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、1961年に改称した。ただし、正式な改称以前にも「阪神タイガース」が通称として使われていた。[注釈 5]。
改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。
現在の略称について英字は「T」、漢字で略す場合頭文字の「阪」ではなく「神」になる。これは阪急ブレーブスとの重複を避けるため(阪急は「急」)であったが、阪急が球団を手放した後も「神」を継続している。
六甲颪
テンプレート:Main 球団歌は「阪神タイガースの歌」(旧:大阪タイガースの歌)である。歌詞の冒頭をとって六甲颪と呼ばれる。
「阪神タイガースの歌」は球団結成と同時に「大阪タイガースの歌」として作られたもので、戦前から現在まで使われている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり球団が消滅するなどして、どれも現在は使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは歌詞中の大阪という単語を阪神に変えただけで現在も使われている。なお、歌詞中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大(おお)」と韻を合わせたものだが、球団名を改めた後もそのまま残っている。
試合開催地について
本拠地
テンプレート:Main 設立当初から親会社所有の阪神甲子園球場を使っており、現在の日本プロ野球で本拠地となっている球場の中では最古である。元々は高校野球開催など、多目的にスポーツ行事で使うことを目的として造られた球場だった。ただし、アメリカ軍に接収されていた1946年のみ使えなかった。1948年のフランチャイズ制仮導入以来、一貫して専用球場にしており、専用球場を変更していないのは阪神の他に、東北楽天ゴールデンイーグルスのこの両球団だけである。なお、フランチャイズ制仮導入まではホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園・後楽園球場・阪急西宮スタジアムなどの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。
甲子園は高校野球が先に使っていたこともあり、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会の日程が優先される。特に後者の大会は2週間以上にわたるため、この時期の長期遠征を「死のロード」と呼ぶようになった。ただし、1990年代あたりから京セラドーム大阪の完成などでその時期も近畿地方での試合が増えているため、死語になりつつある。
二軍の本拠地は、1950年代は神戸市民運動場野球場を、1979年から1993年までは阪神浜田球場を使っていたが、現在は阪神鳴尾浜球場を使っている。甲子園と鳴尾浜は互いに徒歩圏内にあり、12球団の中でも一軍の本拠地と二軍の本拠地に於ける間の距離は埼玉西武ライオンズに次いで近い。
2005年以降、最新の2012年まででは2008年と2011年・2012年を除く毎年、公式戦での年間観客動員数が300万人以上動員している[44]。
地方開催
テンプレート:See also テンプレート:See also 主に近畿地方を中心とした西日本で開催されることが特徴である。球団の方針として、年間144試合制の現状では主催試合72試合のうち、甲子園で60試合・京セラドーム大阪を含む地方開催で12試合を行うことを前提としている(2014年は10試合)。地方開催の内訳については、京セラドーム大阪での3カード・8 - 9試合と倉敷マスカットスタジアム(それ以前は岡山県野球場)での1試合の計9 - 10試合は毎年必ず開催され、それ以外に年次によりほっともっとフィールド神戸を含む他の地方球場で1 - 2試合が開催されている(2014年はなし)。
以前は京都市西京極総合運動公園野球場でも毎年1 - 6試合を行っていたが、2005年の対西武ライオンズ戦を最後に主催試合がない(2006年も1試合を予定していたが甲子園に振り替えとなり、2007年以降はオープン戦すら行っていない)。また、1999年には香川県営野球場で、2005・2006・2012年にはそれぞれ2試合ずつを松山坊っちゃんスタジアムで行っている。2013年は沖縄セルラースタジアム那覇にて初めて公式戦2試合を開催した。また2014年にはアメリカで公式戦を開催する計画があったものの、その後断念した。
京セラドームについては1997年の開場以来使用しているが、2005 - 2007年の3年間は兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併したことによる暫定処置で兵庫県・大阪府のダブルフランチャイズとなったため、京セラドーム大阪を準本拠地として使うことが認められていた。開催時期は甲子園での春・夏の高校野球が行われる時期で、開幕カードあるいはその直後の1カード・3試合と夏の長期ロードの間の2カード・6試合の計9試合が基本であるが、梅雨時などにも行われることがある(交流戦が開催されている2005年以後は梅雨時の開催は行っていなかったが、2009年は交流戦2試合を開催した)。また、2007年より3期に渡って行われた10月以降の甲子園の改修工事の影響から、2008年には雨天中止分の1試合がスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージが京セラドーム大阪で開催されている。2011年は当初予定されていた試合(京セラの中日3連戦と甲子園のヤクルト3連戦)が東日本大震災による日程延期によって、その日程の補填として10月にヤクルト3連戦が京セラドームで行われた。
ほっともっとフィールド神戸では後述する夏の長期ロードの時に開催していた時期もあったが、当時オリックスがフランチャイズとしていた関係もあって1994年を最後に暫く途絶えた。ただ、その後は地元自治体からの要望もあり、オープン戦ながら2007年に開催が復活し、以降公式戦では2008年には雨天中止による代替試合1試合を、2010年には2試合を、2012年には1試合をそれぞれ開催した(2011年も1試合を開催予定であったが、雨天中止となり甲子園での開催に振り替えられた)。
夏の高校野球の開催期間中で甲子園が使えない期間の主催球場は1997年より大阪ドームを使っているが、それ以前は京都市西京極総合運動公園野球場(1965年 - 1979年)、岡山県野球場(1973年 - 1979年)、平和台野球場(1980年 - 1988年)、グリーンスタジアム神戸(1988年 - 1994年)、阪急西宮スタジアム(1991年 - 1996年)を使っていた。また過去には、甲子園にナイター設備が導入されるまでの1953年 - 1955年には大阪球場でナイターを行うことがあった。その他、岩手県営野球場、郡山市営開成山野球場、県営宮城球場、藤崎台県営野球場(いずれも1975年)でも試合を行っている。
主催ゲームの開幕戦
前述のように甲子園での選抜高等学校野球大会の開催のため、阪神は前々年(2001年以前は前年)にAクラスに入って本拠地開幕権を得ても甲子園で開幕戦を迎えられないケースが多い。選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セ・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。
開幕戦が選抜の時期とかぶらなかったため、選抜開幕前もしくは終了後に甲子園で開幕戦が設定されたというケースがあった。しかし、2007年にクライマックスシリーズ導入後は日程面から終了後に開幕を設定される可能性は少ない。なお、甲子園で開催できない場合の対処として以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年から大阪ドームで開幕戦を行った2005年の前年である2004年までに絞る。)。
- 前年Bクラス球団の本拠地で開幕を迎える
- 前年Aクラス球団の本拠地で開幕を迎える
- 地方球場での主催ゲームで開幕を迎える
- 地方球場でのロードゲームで開幕を迎える
なお、選抜開幕前に開幕戦を甲子園で行われた年は1956、1964年の2回であり、選抜終了後に開幕戦を甲子園で行われた年は1952、1959、1961、1963、1969、1973、1983、1987、1993、2011年の10回である。
本拠地に準ずる扱いの大阪ドームの完成後は、パシフィック・リーグの開幕と重なって、かつ大阪ドームを本拠地とする球団が本拠地開幕権を持っていなければ、地元開幕を大阪ドームで迎えられるようになり、2005、2007 - 2010、2012年は大阪ドームでの開催となった。
- 2010年の場合、阪神と大阪ドームを本拠地とするオリックスの両球団が本拠地開幕権を持っており、同時開幕を前提にしていたため他球場での開催も検討されたが、両リーグの折衝の結果、パ・リーグの日程を変則的にして開幕日をずらすことで決着している。もし同時開催であれば、かつてオリックスが本拠地としていた保護地域の兵庫県内にあるスカイマークスタジアムの利用も示唆されていた。
プロ野球の試合数については2000年以後140試合以上と増えたこと、また選抜も1997年に雨天中止が頻発したことなどから、プロ野球の日程に支障をきたすこともあるため、現在は何れも開幕時期を大幅に繰り上げている(選抜が概ね春分の日(3月20日か3月21日)前後、プロ野球は3月最終金曜日に制定されていることが多い。選抜は2003年以後現在の時期で開催)。そのため、現在では阪神が開幕戦主催権を獲得した場合は大阪ドームでの開催が常となっている。また2年前のシーズン(2003年以後)Bクラスにより開幕戦主催権を逃した場合であっても、大阪ドーム完成後は開幕2カード目、ないしは3カード目のいわゆる「ホーム開幕シリーズ」を同球場に割り当てることが多い(大阪ドーム完成前までは、選抜の大会日程が終了するまではビジターでの遠征が続いていた)。
2011年は当初日程であれば明治神宮野球場での対ヤクルト戦だったが、東日本大震災の影響で開幕日が4月12日に順延されたことから、甲子園での対広島戦が開幕戦となった[45]。
マスコット
球団マスコットは次の3体である。詳しくは、それぞれの項目を参照。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。
ちなみに、マスコットガールは1978年を除き2013年まで保有していなかったが、2014年から新たに「タイガースガールズ」として保有することとなった。(詳細は当該項目を参照)
デザイン
シンボルマーク
- 球団創立当時から、球団旗・ユニフォーム・ペットマークなどに、虎の似顔絵(虎マーク)が使われている。デザインを手掛けたのは阪神電気鉄道デザイン室勤務の早川源一(1906年 - 1976年)。
- 1980年代前半頃[注釈 6]より、虎の絵が入った赤円に黒の輪で囲んだデザイン(黒の輪の上部に「HANSHIN」、下部に「Tigers」のロゴがそれぞれ白文字で入っていた)のペットマーク(丸虎マーク)が採用され、出版物や映像作品などで使われている[46]。
- 2005年に創立70周年記念マークを採用して以降は、毎年年度別のペットマークも別途使っている。
- 70周年記念マークには、赤の筆記体による「Tigers」ロゴ(赤に白縁取り)や、若干アレンジされた虎の絵が使われた。
- 2007年の交流戦用ユニフォームには、上記「Tigers」ロゴ(黄色に黒縁取り)が胸マークに使われた。
- 75周年記念マークは、中央に虎の絵、その周りに「anniversary SINCE1935」、虎の絵の上に大きく「75」。下に金色のリボン、中央に「Tigers」のロゴ、左に「1935」、右に「2010」。
- 70周年記念マークには、赤の筆記体による「Tigers」ロゴ(赤に白縁取り)や、若干アレンジされた虎の絵が使われた。
- 2010年度からはトラッキーのイラスト(シーズンごとにデザインを変更)を虎マークの代わりにペットマークに採用。
球団旗の変遷
- 球団旗は球団創立当時から、黒と黄色の横じま(上から、黒四本・黄色三本交互に構成)をバックに、左上にペットマークにも使用されている赤円に右向きの虎の似顔絵が入ったデザインを基本としている。
- 初期の赤円は若干薄い色。その後、1950年代〜1960年代辺りには、虎の絵の囲み円が褐色に染められたものや、黄色に黒線で囲まれた円形に正面に向いた虎の絵(ペットマークのデザインとは異なる。)が描かれたマークの入ったデザインが存在した(選手名鑑に掲載されたり、1966年のオールスターゲームのポスターにも描かれた)。その後、1970年代後半頃には、虎マークなどが現在の形にまで整い[48]、1978年の小林繁の入団発表でバックに掛けられた旗もこのデザインである〔このときの写真が『阪神タイガース70年史』57ページに掲載されている〕)、1984年10月には、一番下の黄色ラインの右寄り部分に黒色で「HANSHIN Tigers」のロゴが入ったデザインが正式採用された[49]。ただし、正式採用より数年前から使われている[50]。
ロゴ
先述の球団旗やホーム用ユニフォームの胸などに描かれる「Tigers」ロゴの書体は1960年に細部が変更されたのみで、創設以来一貫して使われ続けている。
また「Tigers」ロゴは、「HANSHIN」ロゴと合わせて、1962年6月15日には商標登録されている[51][注釈 7]。1982年には、ユニフォームのマークと同じように、整ったロゴが登録されている[52]。日本語表記の「阪神タイガース」ロゴは、1981年4月25日に商標登録出願、1983年10月27日に登録されている[53]。
ユニフォームの変遷
- 1936年 - 1940年
- 球団創設時は「Tigers」2種類(地色は白色と灰色)、「OSAKA」1種類(地色は灰色)のユニフォームを使用。キャップのマークは「O」。縞帽子はこの頃から登場している。
- 「Tigers」ロゴのものは縦縞のデザインを使用。なお、縦縞のデザインを使用した理由は諸説あるが、当時のデトロイト・タイガースのデザインを参考にしたのが有力とされる。
- 「OSAKA」ロゴのものは無地(縦縞なし)で、ロゴの縁取りとラインに黄色を取り入れ、左袖に猛虎マークのワッペン。
- 1940年 - 1944年
- 1945年 - 1948年
- 再び「大阪タイガース」に改称し、戦前期の縦縞ユニフォームを復活。しかし、耐用期間が短くわずか3年間で廃止された。
- 1947年 - 1951年
- 縦縞なしの無地で前立て線付きのユニフォームを採用。2リーグ分裂後も使われたが、1951年夏で廃止。
- 帽子マークが「T」のものが登場。
- 1948年 - 1949年
- ユニフォームの生地に濃紺を採用。
- このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったことや21世紀に入ってから復刻版ユニフォーム(詳しくは後述。)として使われたこともあって、老若男女問わずファンの認知度は高い。
- 1950年 - 1951年オールスター前
- 胸マークにOSAKAを採用し、左袖には虎の袖章が入ったグレーのユニフォーム。帽子はグレー地に白で「T」。
- 1951年オールスター後 - 1953年
- オールスターを境にグレー地に前立て線の無いユニフォームに変更。ホーム・ビジター共に同一スタイル。
- 1952年のみ、白地にラインなしのホーム用を使用。
- 1953年 - 1960年
- 伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活。
- 1954年
- ビジター用のロゴが「OSAKA」となる。
- 1958年
- ロゴの黄色の縁取りがなくなる。ホーム用の白地の帽子とストッキングを廃止し、ビジター用と同じものに統一。
- 1960年
- ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体が変更になり、胸番号を採用。創設から使われてきた帽子のマークを「O」から「To」に変更。
- 1961年 - 1965年
- 球団名が「阪神タイガース」になり、ビジター用の胸ロゴを「HANSHIN」に変更。チームの象徴ともいえる帽子の「HT」マークが登場する。
- 1962年後期
- ビジター用の胸番号が背番号と同じ丸い書体になる。
- 1965年 - 1973年
- 襟・袖・パンツに太い線がつく。背番号書体がホーム用はゴシックに近い書体、ビジター用は角書体、胸番号がホーム、ビジター共角書体になる。ただし、ホーム用は背番号と書体が異なる。ホーム用の左袖に「OSAKA」が復活、ビジター用は猛虎マーク。
- 1974年 - 1975年
- ニット素材のユニフォームを採用し、帽子のツバ、胸ロゴ、背番号、袖・首・パンツの線に、それまでの黒に加えてチームカラーの黄色が入る。また、ホーム用の縦縞の色がグレーから黒になる。
- 1975年 - 1978年
- まず1975年にビジター用のユニフォームのみ変更され、地色がグレーからスカイブルー地になり、袖、パンツの線がギザギザ模様のラインになる。このギザギザラインは永井一正がデザインしたもので、「輝流ライン」と呼ばれた。由来には「虎の牙」と「赤穂浪士の法被」の2つの説がある。
- 首のライン上に第1ボタンがついている珍しい様式で、ホーム用とビジター用でボタンの素材が異なり、ホーム用は地色と同じプラスチック製、ビジター用は半透明のプラスチック製ボタンだった。
- 1976年
- ホーム用もギザギザラインになり、左袖の「OSAKA」のロゴが消え、猛虎マークになる。
- 1979年 - 1981年
- ブレイザー監督就任と同時にギザギザラインを廃止し、従来の黒と黄色のラインに変更、ボタン式からプルオーバー式になる。また、ストッキングの黄色の2本線も廃止されて黒一色になる。ホーム用からパンツの線が消え、縦縞が若干太くなる。
- ビジター用は左袖の猛虎マークが「Tigers」のロゴに変わり、1983年には左袖の「Tigers」ロゴが右上がりになる。
- 1982年 - 2006年
- 安藤統夫監督就任により、ホーム用が大幅にモデルチェンジする。チームカラーの黄色が消え、モノトーンスタイルと縞帽子(ツバ、THマークは黒)が復活し、ホーム用のスパイクが白地に黒線になる。途中マイナーチェンジを重ねつつ、基本デザインは2006年の25年間に渡って使った。この間1985年・2003年・2005年の3度のリーグ優勝を果たした。
- 1984年 - 2000年
- ホーム用の背番号の書体がゴシックに近い書体からビジター用と同様の角型となる。
- 1988年 - 1991年
- ボタン型のユニフォームになる。
- 1992年 - 2000年
- 1985年の日本一にあやかり、プルオーバータイプが復活する。
- 2000年 - 2006年
- 当時の野村監督の提案でホーム用に使われていた縞帽子が廃止となり、ビジター用の黒い帽子をホーム・ゲームでも使用するようになる。
- 2000年
- スパイクが黒地に銀のラインとなる。
- 2001年 - 2006年
- ボタン付きプルオーバータイプ(ボタンが外れるのは上から数個まで、残りは飾り)が復活し、背番号、胸番号の書体が高校野球型になる。
- 1984年 - 2000年
- ホーム用に2年遅れて、ビジター用を大幅にモデルチェンジする。ホーム用同様黄色が消えてグレーの縦縞となり、首と袖の線が消える。また、帽子が黒地に白のHTマークとなり、ビジター用の胸番号がホーム用と同じ書体になる。
- 1988年 - 1990年
- ホーム用同様、ボタン型のユニフォームになる。
- 1988年
- HTマークが白から銀に変更され、ビジター時に着ていた黒地に白線のスパイクが、ホーム同様白地に黒線となる。
- 2000年
- 当時の野村監督の提案でホーム用に使われていた縞帽子が廃止となり、ビジター用の黒い帽子をホーム・ゲームでも使用するようになる。
- 2001年 - 2006年
- ビジター用デザインを大きく一新する。縦縞が消え、黒白のラケットラインと袖ラインが入る。また、「HANSHIN」の胸ロゴがピッツバーグ・パイレーツ型のものになり、ホーム用同様に背番号と胸番号の書体が高校野球型になる。
- 2001年
- この年のみ左袖の虎のマークをモノトーンに変更。翌年から従来のものに戻っている。
- 2001 - 2002年
- 背ネームが入らなかった。翌2003年より復活。
- 2005年
- 左袖の虎のマークが、ホーム用とビジター用ともに球団創立70周年記念のロゴマークに置き換わった。ただし、ホーム用とビジター用で若干配色が違う。
- 2007年
- 大幅モデルチェンジ。ホーム用は25年ぶりの大幅変更となった。チームカラーの黄色が1981年以来久々に取り入れられ、Tigersロゴや背番号等が黄色で縁取られる。わき腹の部分には黒色を配したデザインとなった。ビジター用は縦縞のないグレー地は同様だがラケットラインを廃し、「HANSHIN」の胸ロゴが若干違うタイプの書体になって復活。ホーム用と同じく、わき腹部分に黒色のカッティングを配したデザインとなる。また、背番号と胸番号の書体が1962年夏 - 1965年まで使われた欧州系の書体を彷彿させるデザインとなった。帽子も1974年 - 1981年(ビジター用は1983年まで)に使われたもの(帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白)に変わる。ビジター用は従来の黒帽子のツバのふちに白線が入り、HTマークが銀から白へ戻る。
- 2012年
- ミズノと契約し大幅モデルチェンジ。コンセプトは「伝統と改革の融合」。白、黒、黄色と縦縞の伝統は守りながらも、昨季のデザインと比べて黄色の部分が少なく、よりたくましいイメージとなっている。ホーム、ビジターともに、帽子のつばは黄色から黒に変更。ホーム用は白地に黒の縦縞というおなじみのスタイルながら縦縞は昨季のデザインより太くし「力強さ」を。ビジター用は、昨季までの上下グレーから、シャツは黒、ズボンは白が基調のツートンカラーに一新。(ツートンカラーは、唯一阪神だけ採用されなかったが、2012年から採用しこれで12球団すべて導入した。)新たにシャドーストライプを配し、伝統の縦縞を継承。『牙』をイメージした肩から脇の部分のシャープな切り返しのデザインは、虎の「勇猛さ」をアピール。背番号の角のある字体は、力強さと同時に「優美さ」を表現。(因みに胸番号、背番号は中日ドラゴンズが1996年~2011年まで使用したユニフォームと同じブロック体である。)
- 今季からのキャプテン制導入(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)に伴い、藤川球児と鳥谷敬の左胸にはキャプテンのCマーク(黒地に「C」の白文字のワッペン)が入った。
交流戦専用ユニフォーム
2005年からセ・パ交流戦が開始されたことを受けて、タイガースでは交流戦期間中に限り、専用ユニフォームを着てゲームを行っている。これは交流戦が開始された2005年が球団創立70周年という記念の年に当たること、また、綱島理友が1999年から2004年まで週刊ベースボールで連載していた「ユニフォーム物語」で歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。なお、選手が実際に使った交流戦専用ユニフォームは、毎年交流戦終了後に行われるチャリティー・オークションで落札者にプレゼントされ、その収益金は福祉団体などに寄付されることになっている。
2005年はホーム用のみ過去のデザインを復刻させた“復刻版ユニフォーム”を専用ユニフォームとして使用。縦縞に黄色と黒色の縁取りを施した、1979年 - 1981年までのモデルを採用した。ビジターでは復刻版ユニフォームは着ず、通常のビジター用ユニフォームで試合を行っている。この復刻版ユニフォームは好評で、その後他球団へも波及していった。
2006年は「縦縞をビジターでも見てみたい」というファンからの要望が多かったため、2005年度に使った復刻版ユニフォームをビジターの試合で着た。ホームでは逆に、同時期(1979年 - 1983年)にビジターで着ていた水色地のモデルを使用。従って、東北楽天ゴールデンイーグルスの協力でホームゲームでは結果的に「ビジター対ビジター」、ビジターゲームでは「ホーム対ホーム」という趣で行われた[54]。
2007年の交流戦用ユニフォームは復刻版ではなく、服飾デザイナーのコシノヒロコがユニフォームをデザイン。70年以上一度も変更されることのなかった胸のロゴデザインが改められ筆記体となり、背番号はかつてコシノが手がけた近鉄のユニフォームと同じ書体になった。どちらも文字は黄色で、ホーム用・ビジター用共に同じものを用いている。藤井寺球場時代の近鉄と同じラグランスタイルが採用されており、ホーム用は白地に黒の縦縞、ビジター用は黒地に黄色の縦縞が入っている。ラグランスリーブは共に黒で、黄色の線が配されていた。
2008年は“リアルタイガー”をコンセプトに、プロ野球界で初めて従来はアップリケだった胸のロゴや袖のマーク・背番号を生地に印字することで、これまでよりも100グラム軽い約400グラムに軽量化。より“虎”をイメージしたデザイン面は、伝統のタテジマの幅を倍の5ミリにしてグラデーション加工を施し、場所によってシマの濃さが変わる。さらに「流線形」でスピード感を表すように、すそや胸のロゴに向かって色が薄くなっている。帽子はホーム用は空気穴とトップのボタンを黄色にした交流戦限定型で、ビジター用はホーム用の黄色の部分全てにグレーが用いられた。なお、このユニフォームはキャンプ中に岡田監督が自ら提案した。
2009年は3年ぶりに復刻版ユニフォームを使うことになり、1985年にタイガースが日本一になった当時のユニフォームが選ばれた。デザインは「ユニフォーム」の1984年-を参照の事。なお、2009年の復刻版ユニフォームは当時と同じくプルオーバータイプとなっている(2005年・2006年はプルオーバーではなくボタンありのもので、当時のものとは微妙に異なる)。一方、ホーム用のスパイクは当時は白だったが、2009年は通常のユニフォーム同様、黒だった。
2010年は「輝流ライン」入りの復刻版ユニフォームを採用する。デザインは「ユニフォーム」の1975年-1978年を参照の事。
2011年は前年夏に開催された「オールド・ユニフォーム・シリーズ」でも使った「濃紺」の復刻版ユニフォームを採用する。なおストッキングは「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では「紺色・灰色」だったものを今回は「黄色・紺色」とした。デザインは「ユニフォーム」の1948年-1949年を参照の事。着用は主催ゲームのみである(なお、ビジターゲームでは通常のリーグ戦のビジター用を着用した。)。
なお、2012年・2013年は交流戦専用ユニフォームは使われず、通常のユニフォームを着用した。
交流戦以外の専用ユニフォーム
2010年8月にセ・リーグの球団の主催で行われた「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では1リーグ時代の「濃紺ユニフォーム」が復刻され、デザインは「ユニフォーム」の1948〜1949年を参照のこと。
2012年8〜9月にセ・リーグの球団の主催で行われた「レジェンド・ユニフォーム・シリーズ」において大阪タイガース時代の1937年の秋に球団史上初の優勝を飾った当時のユニフォームを復刻し、ホーム用とビジター用の2種類を用意した[55]。
2013年度は「ウル虎の夏2013」と題し、5月3-5日のヤクルト戦のお披露目試合を含む全18試合(イベントそのものは7月26日-9月1日に開催される阪神主管試合<うち甲子園9、京セラドーム6。甲子園はお披露目試合を含めると12>が対象)で交流戦、およびセ・リーグ主管のオールドユニフォームシリーズ以外では初となる季節限定特別ユニフォームを採用する。これは左胸にタイガースのHTマークのロゴ、袖と胸の部分に黄色と黒の縁取りを入れたものである[56]
2014年度も「ウル虎の夏2014」[57]の特別ユニフォームの着用を発表。今回は甲子園球場90周年を記念し、蔦など、甲子園を象徴する緑地と、躍動感ある猛虎をイメージしたデザインで作られた。イベント自体は7月29日から8月3日の6連戦であるが、これに先駆け5月9-11日の試合でも使用され、何れも甲子園で行われる主管9試合で着用される。
関西代表球団への過程
阪神タイガースは、セントラル・リーグでは唯一近畿地方に本拠地をおく球団であり、関西では圧倒的な人気を誇る。しかし昭和30年代までは、南海ホークスも関西の人気チームだった[注釈 8]。
関西の球団中継数減少
関西の球団のテレビ放送中継は、南海ホークスは毎日放送、近鉄バファローズは朝日放送、阪急ブレーブスは関西テレビ放送との間で優先的な放送契約を結んでいた。しかし東京キー局との関係で、関西でも読売ジャイアンツの試合の中継数が優位だった。
関西テレビは巨人中心の方針が強く、阪急が好調でも「阪急のカードを押し出すことは容易な業ではなかった」[58][59]。そのため関西テレビの場合は以前は30試合あった阪急戦の中継は1966年には8試合にまで減った。
一方、毎日放送も1960年代こそ南海戦が事業として欠かせない存在だったが、1970年代には阪神・巨人戦の中継確保に必死となっていた[注釈 9][注釈 10]。
この結果、関西のテレビ局でも巨人戦が恒常的に中継されるようになり、同一リーグに所属するチームとして巨人と年間を通して対戦するタイガースも、マスコミへの露出が関西の他球団に比較して多くなった。
さらに1969年開局のサンテレビ(神戸市)が、開局直後から編成の目玉としてタイガース戦の完全中継『サンテレビボックス席』の放送を開始した。同局の視聴可能エリアは大阪府下の相当な地域を含む阪神地区全域を含んでおり、またその後関西圏の独立UHF各局へのネットも開始され、テレビで身近に観戦できる環境が整ったことが関西でのタイガース人気に大きく貢献した[60]。
タイガース人気向上に伴い、従来は阪神の試合は対巨人戦しか放送していなかった関西大手テレビ局も積極的に阪神の他の試合も放送するようになり、関西でのプロ野球放送は阪神への一極集中化が進んだ[注釈 11]。
このような人気が背景にあるため、タイガース関連の記事はスポーツ新聞の関西版の1面を飾り、1面以外のページでも3面まで大きく扱われることも多い[注釈 12]。
1985年10月16日、関西テレビ放送が中継し、21年ぶりに阪神の優勝が決まった明治神宮野球場での対ヤクルトスワローズ戦の関西地区での視聴率は56.7%(ビデオリサーチ調べ)だった。これは関西地区のプロ野球中継の最高視聴率である。
球団の伝統
プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームというのは、世界的にも極めて少ない。テレビ中継などでは阪神対巨人は「伝統の一戦」と紹介される。
幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である[61]。また、現在では開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。
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ユニフォームスポンサー
テンプレート:出典の明記 セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。
- ユニフォーム袖 Joshin(2003年 - )
- ヘルメット Joshin(2003年 - )
- ※2002年には、あしなが育英会のマークが入っていたが、これはスポンサーではなく、球団がボランティアで掲載したものである。
オフィシャルスポンサー
2013年から上新電機株式会社と、ユニフォームサプライを担当するミズノの2社が阪神球団史上初となる「球団オフィシャルスポンサー」として正式に締結[62]された。(2014年度からはこの2社に株式会社ローソン[63]も加わり3社となる)
球団オフィシャルスポンサーは、タイガースの球団経営の趣旨に賛同する企業・公益法人などの各種団体を対象として、球団と各団体が相互に成長していくことを目指すとしており、それらを象徴するシンボルとして、協賛スポンサー団体と球団のそれぞれのロゴマークが並列して描かれた「球団公認コンポジットロゴマーク」を広告やホームページなどに掲出できる。[62]
その他
そのほか、甲子園・大阪ドームなど近畿圏でのホームゲームで阪神が勝った場合に「ヒーロー賞(マン・オブ・ザ・マッチ相当)」が阪神百貨店協賛で表彰され、当該選手全員に阪神百貨店の商品券(インタビュー中はスポンサーパネルボードの代わりにトラッキー・ラッキーの着ぐるみが目録のプレートをバックに掲げ、そのインタビュー後に目録のプレートを選手に手渡す)が贈呈されている。なお目録パネルは2枚しかないため2名以下なら全員に直接手渡すが、3名以上の場合は複数名で1枚のパネルをもって表彰する。
歴代監督
- 1936年春 - 1936年夏 : 森茂雄
- 1936年秋 - 1939年 : 石本秀一
- 1940年 - 1941年 : 松木謙治郎(第1次)※1
- 1942年 - 1944年 : 若林忠志(第1次)
- 1946年 : 藤村富美男(第1次)※2
- 1947年 - 1949年 : 若林忠志(第2次)
- 1950年 - 1954年 : 松木謙治郎(第2次)
- 1955年 : 岸一郎
- 1955年 - 1957年 : 藤村富美男(第2次)
- 1958年 - 1959年 : 田中義雄
- 1960年 - 1961年 : 金田正泰(第1次)※3
- 1961年 - 1965年 : 藤本定義(第1次)
- 1966年 : 杉下茂
- 1966年 - 1968年 : 藤本定義(第2次)
- 1969年 : 後藤次男(第1次)
- 1970年 - 1972年4月21日 : 村山実(第1次)
- 1972年4月22日 - 1974年 : 金田正泰(第2次)
- 1975年 - 1977年 : 吉田義男(第1次)
- 1978年 : 後藤次男(第2次)
- 1979年 - 1980年 : ドン・ブレイザー
- 1980年 - 1981年 : 中西太
- 1982年 - 1984年 : 安藤統男※4
- 1985年 - 1987年 : 吉田義男(第2次)
- 1988年 - 1989年 : 村山実(第2次)
- 1990年 - 1995年7月23日 : 中村勝広
- 1995年7月24日 - 1996年9月11日 : 藤田平
- 1996年9月12日 - 1996年末 : 柴田猛
- 1997年 - 1998年 : 吉田義男(第3次)
- 1999年 - 2001年 : 野村克也
- 2002年 - 2003年 : 星野仙一
- 2004年 - 2008年 : 岡田彰布
- 2009年 - 2011年 : 真弓明信
- 2012年 - :和田豊
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここから阪神軍
- ※2 ここから大阪タイガース(第2次)
- ※3 ここから阪神タイガース
- ※4 1984年6月13日 - 6月15日は佐藤孝夫が監督代行
永久欠番
永久欠番は以下の3つとなる。実績・功績はそれぞれの項目を参照のこと。
欠番扱い
- 6 金本知憲
- 2003年に広島から阪神にFA移籍。球団への功績を称え、引退翌年の2013年より欠番扱いとなっている。
ノーヒットノーラン達成投手
阪神ではこれまでに球団史上9人の投手がノーヒットノーランを達成している。
年月日 | 投手名 | スコア | 対戦相手 | 野球場 |
---|---|---|---|---|
1940年8月3日 | 三輪八郎 | 1-0 | 東京巨人軍 | 大連 |
1946年6月16日 | 呉昌征 | 11-0 | セネタース | 西宮 |
1948年8月24日 | 梶岡忠義 | 3-0 | 南海ホークス | 神宮 |
1952年5月7日 | 真田重男 | 12-0 | 広島カープ | 甲子園 |
1965年6月28日 | ジーン・バッキー | 7-0 | 読売ジャイアンツ | 甲子園 |
1973年8月30日 | 江夏豊 | 1-0 | 中日ドラゴンズ | 甲子園 |
1992年6月14日 | 湯舟敏郎 | 6-0 | 広島東洋カープ | 甲子園 |
1998年5月26日 | 川尻哲郎 | 2-0 | 中日ドラゴンズ | 倉敷 |
2004年10月4日 | 井川慶 | 1-0 | 広島東洋カープ | 広島 |
特に江夏のケースは、延長11回裏に自らサヨナラ本塁打を放ってノーヒットノーランを達成するという名勝負となり、延長戦でのノーヒットノーラン達成はこれが日本プロ野球で史上唯一の記録である。なお、完全試合達成者は球団創立から現在に至るまで一切いないが、参考記録として1950年に田宮謙次郎が国鉄スワローズ戦で9回2死までを完全、1956年に小山正明が大洋ホエールズ戦で先頭打者に安打を許しその後の打者を完全に抑えた準完全試合がある。
主な歴代の球団歌・応援歌
公式の球団歌はこの「タイガースの歌」(通称:六甲颪[注釈 13])だけだが、その他に球団応援歌も多数ある。
- タイガース音頭/進め!タイガース(歌:中村鋭一=ABC朝日放送アナウンサー)
- トラトラマーチ(歌:植草貞夫=ABC朝日放送アナウンサー)
- 阪神タイガース数え歌(歌:道上洋三=ABC朝日放送アナウンサー)
- トラトラ阪神応援歌(同上)
- タイガースよ永遠に/今日も勝ったよタイガース(歌:平田勝男、吉竹春樹、池田親興=1985年タイガース所属選手)
- 阪神タイガースの優勝を知らない子供たち(戦争を知らない子供たちのパロディー替え歌。歌:リリアン、板東英二、やしきたかじん、桂雀々)
- WIN!WIN!タイガース(歌:JK21)
- 負ける気せんね/ハイハイ敗 (歌:辛坊治郎・森たけし=YTV読売テレビアナウンサー)
- 他多数
主なキャンプ地
キーワード
ミスタータイガース
テンプレート:Main 元は、球団創設時から在籍し、1940年代後半に不動の4番打者となった藤村富美男が初代。藤村の引退後は村山実、田淵幸一、掛布雅之が称された。
ダイナマイト打線
テンプレート:Main タイガース打線の代名詞。
バックスクリーン3連発
いろは順背番号とポジション順背番号
1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号だった18、19にそれぞれ変更している。エースの若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。
1950年、リーグが分裂し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。
11は不吉な背番号?
村山実は入団した際に「背番号11はやめておけ」と周囲から言われたというエピソードがある。村山以前に11を付けた選手は、故障を含めて何らかの形で必ず不幸な目に遭い、11は不吉な番号といわれていたからである。
11を最初につけたのは藤井勇(1935年 - 1939年、1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度も召集され、戦後はパシフィックに移籍したためにタイガースへ復帰出来ずに野球人生を終えた。2代目の野崎泰一(1946年 - 1949年)は満足な成績を残せないところに肩痛が襲い、最後の年に3へ変更する。3代目の御園生崇男(1950年)は15からの変更だったが、前年に悪化していた体調がさらに悪化したため翌年元に戻す。4代目の三船正俊(1952年 - 1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖が仇となって東映フライヤーズにトレード移籍。5代目の山中雅博(1955年)は50から変更した途端に体力不足に見舞われて退団、6代目の内司正弘(1957年)も40から変更した途端に退団している。
大学で村山の先輩にあたる御園生は「自分がつけていた背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。結果的に自身の活躍でジンクスを跳ねのけた村山は、自らの手で背番号11を永久欠番にした。
伝統の一戦
主にマスコミなどで、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。「西の景浦、東の沢村」「(職業野球は)沢村が投げて、景浦が打って始まった」とも呼ばれ、戦前の野球ファンの注目の的となった。
1936年にプロ野球が始まって以降、11シーズン中8度の優勝を果たしていた巨人に対して、阪神は残り3シーズンで優勝を果たすなど、プロ野球を代表する強豪同士だったといえる。実際、1949年までの1リーグ時代の対戦成績は阪神の85勝84敗3分と拮抗していた。しかし2リーグ分裂時に阪神の主力選手が大量に引き抜かれたせいで巨人との戦力格差が生じてしまい、阪神の長い低迷もあり、2012年までの通算成績は阪神の755勝974敗66分で、78シーズン中の7割に当たる54シーズンで巨人に負け越している。阪神は2リーグ初年度の1950年から1961年までは1度も巨人に勝ち越すことができず(1958年はタイ)、1986年から2002年までは17年連続で巨人に負け越した。1950年から2002年までの53シーズンで阪神が巨人に勝ち越したのはわずか6シーズン、タイが1シーズンと一方的な展開となっていた。
それでもこのカードが「伝統の一戦」と表現されるのは単純な勝敗を超えて、戦前の野球ファンの注目の的となった「沢村 vs 景浦」に始まり、「ミスタータイガース・村山実 vs ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄」「奪三振王・江夏豊 vs 本塁打王・王貞治」「ミスタータイガース・掛布雅之 vs 巨人のエース・江川卓」といった人気選手同士の真剣勝負など、日本を代表する人気球団同士のライバル関係も同時に示しているからである。
なお、2003年に阪神が18シーズンぶりに巨人に勝ち越してリーグ優勝を果たして以降は阪神の巻き返しが目立ち、この年以降の阪神-巨人戦は2008年と2012年を除き、全て阪神が勝ち越すか、タイという成績になっている(2003年-2012年の10シーズンに限れば、阪神が122勝111敗11分と勝ち越している)。2003年から2005年までは2リーグ分裂後初めて阪神が3年連続で巨人に勝ち越し、2009年から2011年までは3年連続でタイとなっている。
年度優勝決定戦と太平洋ホームラン
テンプレート:出典の明記 1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。大阪タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位・東京巨人軍の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急ブレーブスが1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。
12月に洲崎球場での年度優勝決定戦では1勝2敗で惜敗したものの、景浦が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。、テンプレート:要出典範囲当時のボールは本塁打さえ滅多に出ないほど飛びにくいものである上、魔球として知られる沢村の三段ドロップを打ったものだった。
1936年秋の優勝決定戦では破れたものの、1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チームの巨人との年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗り4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。
なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。
世紀の落球とV9
1973年、8連覇中の巨人と激しい優勝争いをしていた。8月5日の対巨人戦で、9回2死から池田純一が平凡な中飛を落球して逆転負けを喫した[64]。その後、8月30日に江夏がノーヒットノーランで勝利し、中日ドラゴンズの優勝を消滅させたが、翌日には巨人が首位に立った。10月10日の対巨人戦(後楽園)では、田淵幸一が倉田誠から逆転満塁本塁打を放ち、江夏が抑えて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えたが、翌日は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。
残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまで迫っていた10月20日の対中日戦(中日球場)では、中日キラー・上田の先発が予想されたが、金田正泰は裏をかいて先発に守護神・江夏を指名[65]。しかし、これが裏目に出て木俣達彦に本塁打を打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一に抑え込まれて2-4で敗戦した[注釈 14]。一方、江夏は自伝『左腕の誇り』(構成:波多野勝、草思社、2001年)の中で、「フロントから19日に球団事務所に呼び出され、『残りの2試合には勝ってくれるな』と言われた」と述べている。
この対中日戦の終了間際、球場近くを通る東海道新幹線を巨人選手を乗せた列車が通過したという逸話があり、実際にこの時の試合映像が現存している。選手の1人は車内からスコアボードを見ようとしたが果たせず、名古屋駅到着時にファンが試合経過を知らせ、それを聞いた選手達はムードが明るくなったと伝えられている[注釈 15]。
こうして、10月22日(本来は21日だったが雨天で順延)の対巨人戦(最終戦、デーゲーム)で、その試合に勝ったチームが優勝ということになった[注釈 16]。しかし、約48,000人の大観衆を集めたこの試合も0-9で大敗し、巨人のV9をあっさり許した。16時19分、最終打者のウィリー・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦とV9を許した不甲斐ない阪神に怒ったファン約1500人が暴徒と化し、一塁側スタンドやアルプススタンドからグラウンドに乱入、両軍ベンチに向かった。阪神の選手・スタッフは試合終了とともにロッカールームに引き上げて難を逃れたが、巨人の選手はすぐにベンチに退散したものの、王は殴られてベンチ前で倒れ、森はキャッチャーマスクをとられるなど選手・コーチを含む七人に、殴る蹴るの暴行が加えられた。巨人の関係者はベンチ裏から脱出して、胴上げもせずに芦屋市の宿舎「竹園」に引き上げた。選手の退出を知った阪神ファンは、三塁側スタンドの巨人ファンに「帰れ、帰れ」と怒声をあげながらグラウンドの土や座布団、空き缶などを投げ合って応酬。「やめとけ」とグラウンドに降りた巨人ファンを阪神ファンが取り囲んで乱闘になり、兵庫県警機動隊員や甲子園警察署員の約180人が出動する事態となった[66][67]。
また、場外でも16時40分頃に阪神球団関係者の乗った車をファン約500人が取り囲み、「あの試合は何だ!」と車体を揺さぶるなどした[注釈 17]。甲子園警察署が設置した警備本部も投石された[68]。
この試合は、よみうりテレビ(解説:村山実)が日本テレビ系列の全国ネットで中継しており、近畿広域圏ローカルでは朝日放送(実況:植草貞夫、解説:根本陸夫)やサンテレビ(実況:西澤あきら、解説:後藤次男)も含めた3局が同時にテレビ中継。ラジオも数局がそれぞれ中継していたが、途中から放送席にも危険物などが投げ込まれ、選手の退出後には200人ほどの暴徒が襲い掛かってきた[67]。植草、根本らは「放送をやめろ」と怒鳴りつけられたり、空き缶を投げつけられたりした。植草はファンの一人が頭の上にかざしてくれた座布団で防ぎながら放送を続けたが、放送終了(16時38分30秒)までの30秒間は音声が途絶え、画面だけが流された[67]。暴徒はよみうりテレビの放送席も襲撃して「巨人の肩ばかり持つな」とテレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材を破壊するなど大暴れ。止めに入った解説の村山にも「阪神選手やったのによみうりテレビの解説をしやがって」と殴りかかった。機動隊員約30人が3局の放送席を取り囲んで暴徒を遠ざけるが、甲子園警察署の調べではよみうりテレビの損害は約1千万円にも及んでいた[69]。テンプレート:要出典範囲。この暴挙のため、優勝の瞬間は鮮明なVTR映像がなく、映画フィルムに転写したもの(キネコ)が残っているのみである。その一方でサンテレビの機材は「サンテレビは俺たちの味方や」とファンに守られたことで難を逃れた。
通常の試合だと警察官100人、球場職員30人の警備態勢だが、この日の試合では警察官200人、阪神電鉄社員80人、アルバイト120人、ガードマン50人の計450人が待機させる特別態勢を敷いていたものの、この騒ぎを鎮めることができなかった。このため兵庫県警の機動隊70人が16時50分に出動[67]。追い散らされたファンは機動隊を遠巻きにして「帰れ!」コールを浴びせた。ファンの殆どは17時過ぎに球場外へ出たが、それでも興奮が収まらない阪神ファンと群集約800人は甲子園球場の指定席券売場前に集まって「阪神の責任者にわびをさせろ」と騒ぎ、「阪神タイガースの歌」を合唱して気勢を挙げた。県警からの要請で18時過ぎに阪神監督の金田がユニホーム姿で場外に現れ、携帯マイクを使って「私は涙こそ流していないが、気持ちの中は皆さんと同じく残念でたまらない。来年こそ一層がんばるので、ファンの皆さんも理解してほしい」とファンへのお詫びとお礼を呼びかけた[70]。これを受けて、19時にファンは引き上げたが、警備本部への投石で警官1名が負傷、ファン6名がケガをした[67][注釈 18]ほか、よみうりテレビの放送機器を壊した疑いなどで数名が警察に検挙されている[71]。
阪神は優勝を想定して、田淵幸一を起用した日本シリーズ用のポスター[注釈 19]と「優勝記念」と書かれたマッチを製作したが、両方ともお蔵入りとなり、マッチ[72]は阪神電鉄の保養所で使われていた[注釈 20]。
史上最短試合と史上最長試合
1946年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間が僅か55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝ちし、パシフィック先発の湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。
逆に、1992年9月11日に行われた、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長の6時間26分という試合時間を記録した。この試合では3 - 3の同点で迎えた9回裏、八木裕の打球がレフトフェンスの水平ラバー部、その上の金網フェンスへと当たりスタンドに入ったため一旦はサヨナラ本塁打と判定されたが、ヤクルト側の抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正された。だが阪神側もこの判定に抗議して(既にロッカーへ引き上げていた選手、コーチがいたため)、37分間試合が中断した。結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)を戦いそのまま3 - 3で引き分けた。なお、サンテレビがこの試合の中継を試合終了まで行っており、試合終了時刻となった「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。当時日本にて視聴率調査を行っていたニールセンによると、試合当日の平均視聴率は28.0%、瞬間最高視聴率は50.0%を記録した。また、試合が中断したことでサンテレビの技術スタッフが熱くなりすぎて中継時に掲示するボールカウント表示器のスイッチを壊してしまい、その後は試合終了まで手動に切り替えて凌いだというエピソードも残っている[73]。
投手の偵察メンバー第1号
偵察メンバーとは、相手チームの先発投手が左腕か右腕か判らない時などに、スターティングオーダーの一つの守備位置にその試合で先発しない自軍の投手をダミーとして起用し、相手投手が判った際に別の野手と交代させる作戦。この作戦をプロ野球で初めて使用したのは松木謙治郎で、1950年4月22日に熊本の水前寺で行われたvs中日ドラゴンズ戦では、中日の先発が左腕の清水秀雄か、右腕の服部受弘か迷ったため、メンバー表の1番に「左翼手・干場一夫」と書いて提出。服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制したが、試合は7-9で敗れた。
2度の放棄試合
1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪球場)と、1967年9月23日の対大洋ホエールズ戦(甲子園)で行われている。いずれも阪神の負け試合となっている。 テンプレート:Main
村上ファンドと阪神電鉄の阪急との経営統合
村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が2005年に阪神電鉄の株式を買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、更に牧田俊洋球団社長も「株式上場の計画はない」とコメント。2005年10月11日に村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。
2006年6月19日、阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBで、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングスは阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。
経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議で、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急阪神ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側は阪急阪神ホールディングとしては球団にかかわらないことになったことを主張し、この対応を不服として再検討を要求した。この主張はほぼ認められ、同年末に加入手数料として1億円のみの支払いとなることが決定された。
2002年以降のチームスローガン
- 2002年〜2005年 - NEVER NEVER NEVER SURRENDER
- 2006年〜2008年 - Be the Best For the Fans
- 2009年〜2011年 - Focus on this play,this moment!!
- 2012年〜 - Go for the Top 熱くなれ!!
注釈
出典
参考文献
- 松木謙治郎「大阪タイガース球団史1985年度版」恒文社、1985年、ISBN 4-7704-0634-7
関連項目
- 阪神タイガースの選手一覧
- 阪神タイガース主催試合の地方球場一覧
- 阪神ファン
- 月刊タイガース:月刊の球団情報誌。
- 阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝
- タイガース検定:12球団初の球団公認の検定試験。
- 尼崎中央・三和・出屋敷商店街:タイガースの応援で知られる尼崎市の商店街。
- 阪神タイガース (小惑星):阪神タイガースにちなみ命名された小惑星
- 県民百貨店:熊本県熊本市中央区にある百貨店。旧「くまもと阪神」(阪神百貨店と提携していた)。九州で唯一、阪神タイガースショップがある。
阪神タイガース私設応援団関係
放送
関連番組
- 終了
主催ゲーム・ロードゲームの中継制作局・番組
主催ゲームのみの中継制作メディア
- GAORA(毎日放送)
- sky・A sports+(朝日放送)
- フジテレビONE(関西テレビ 巨人戦のみ)※ヤクルトのホームゲームと重なる場合はフジテレビTWOに移して中継している。
- 日テレG+(読売テレビ 巨人戦のみ)
- Tigers-ai(阪神コンテンツリンクが衛星放送向けに制作している阪神戦の中継)
地元ケーブルテレビ局
- ベイ・コミュニケーションズ(オリジナル番組制作)
阪神タイガースをテーマとした作品
阪神タイガースに所属する(していた)野球漫画の登場人物
- 花形満 - 巨人の星に登場する阪神の選手。
- 浪花球太 - リトル巨人くんに登場する阪神の選手。
- 通天閣虎夫 - ミラクルジャイアンツ童夢くんに登場する阪神の選手。
- 藤村甲子園 - 男どアホウ甲子園の主人公。1974年入団、1976年に故障で現役引退。
外部リンク
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- ↑ 1.0 1.1 球団史1985年度版、9頁。
- ↑ 球団史1985年度版、43頁。
- ↑ 日本職業野球連盟は現在の日本野球機構の源流に当る組織である。
- ↑ 球団史1985年度版、79-85頁。
- ↑ 球団史1985年度版、97-101頁。
- ↑ 球団史1985年度版、142-149頁。
- ↑ 球団史1985年度版、195-198頁。
- ↑ 球団史1985年度版、208-212頁。
- ↑ 球団史1985年度版、261-262頁。
- ↑ なお、この年は引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていたため、引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていなければ、大阪は勝率.5123、中日は勝率.5120となり、両球団の勝率が3毛差となり大阪は2位、中日は3位となる。
- ↑ 球団史1985年度版、383頁。
- ↑ 2004年に巨人が更新
- ↑ この対戦は互いにホームグラウンドで全勝したため、内弁慶シリーズと呼ばれた。
- ↑ 1959年、1990年の巨人、1960年の大毎、2002年の西武
- ↑ この年、1985・1986年以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団初の2年連続80勝を達成し、2005年から実施された実数での観客動員数は2年連続で300万人を超え、1試合平均観客動員数は12球団一の4万3,000人だった。
- ↑ この年の記述の出典は特記無い場合、週刊ベースボール2012年12月10日号70ページとする
- ↑ 左胸に輝くキャプテンマークの重み産経ニュース 2012年2月3日
- ↑ 前半戦5位でも…坂井オーナー、和田監督に信頼感スポーツニッポン 2012年7月19日
- ↑ 阪神 弱っ7連敗…中畑監督も同情「暗いなあ」スポーツニッポン 2012年7月29日
- ↑ エルドレッドが逆転2ラン!阪神8連敗で自力CS消滅スポーツニッポン 2012年8月11日
- ↑ 阪神 今季22度目の零敗で2年連続Bクラス決定スポーツニッポン 2012年9月25日
- ↑ 2012年度公式戦順位表NPB公式サイト
- ↑ 最高打率が.270以下だったのはチームでは44年ぶり
- ↑ 新井弟 出血も実らず 阪神 対巨人9連敗に「やる気あるんか」スポーツニッポン 2012年9月5日
- ↑ 前シーズンから10連敗
- ↑ 10月15日の試合
- ↑ 阪神 東京ドーム10連敗 好機に併殺、直後に逆転許すスポーツニッポン 2012年9月15日
- ↑ 阪神 鬼門ナゴヤドーム8連敗「あと一本がね…」スポーツニッポン 2012年9月8日
- ↑ 阪神:金本外野手、今季限りで引退 毎日.jp、2012年9月12日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 西岡剛選手入団記者会見阪神球団公式サイト 2012年11月20日
- ↑ 福留孝介選手入団会見阪神球団公式サイト 2013年1月5日
- ↑ 日高剛選手の入団について阪神球団公式サイト 2012年11月27日
- ↑ 2013年度新人選手入団発表会阪神球団公式サイト 2012年12月3日
- ↑ 阪神・藤浪、江夏以来の高卒新人10勝目!スSANSPO.COM2013年8月31日配信
- ↑ 読売新聞2013年9月23日スポーツ面
- ↑ 朝日新聞2013年9月23日スポーツ面
- ↑ 巨人、2年連続リーグ優勝!阪神敗れ、昨季より1日遅く決定スポーツニッポン2013年9月22日配信
- ↑ メッセ3安打完封で12勝目!阪神のCS進出決定スポーツニッポン2013年9月23日配信
- ↑ 阪神快勝!鳥谷逆転弾 3年ぶりのシーズン勝ち越し、2位確定スポーツニッポン2013年10月3日配信
- ↑ 3位広島が下剋上!阪神に2連勝、巨人とのファイナルS進出スポーツニッポン2013年10月13日配信
- ↑ “代打の神様”桧山が引退表明「ほっとしている気持ちある」スポーツニッポン2013年9月7日配信
- ↑ 2011年の北海道日本ハムファイターズと並ぶ。
- ↑ 参照:『げんまつWEBタイガース歴史研究室』内「阪神タイガース観客動員数」/『プロ野球Freak』内「阪神タイガース」(2011年観客動員数)
- ↑ セ4.12! 阪神18年ぶり甲子園開幕 デイリースポーツ 2011年3月25日閲覧。なお、その次の主催ゲーム開幕シリーズ扱いとなる京セラドームの中日戦も中止となったため、延期日程補填の観点から10月にヤクルト3連戦を京セラドームで開催している。
- ↑ 登録番号第1543155号、1978年4月24日出願、1982年10月27日登録。
- ↑ タイガースショップバイヤー・トッシーのとら日記 丸虎マーク天井照明について(2006年4月29日更新分)。
- ↑ 登録番号第1482910号、1976年11月10日出願、1981年10月30日登録。
- ↑ 登録番号第1727154号、出願日1981年4月25日、商標登録10月31日。
- ↑ 綱島理友・著、綿谷寛・絵『プロ野球ユニフォーム物語』及び、『阪神タイガース70年史』内記事「綱島理友のタイガース意匠学」(P105)。
- ↑ 登録番号:第589835号、出願日:1961年5月25日。
- ↑ 登録番号:第1553794号、1978年4月19日出願、1982年12月24日登録。
- ↑ 登録番号:第1621729号)。
- ↑ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月28日号11-13ページ復刻ユニフォーム物語」
- ↑ ホーム用は、ソックスのストッキングが黒・黄色・赤のラインが入ったもの。ビジター用は、ストッキングが黒一色のもの
- ↑ ウル虎の夏2013公式サイト・7/26(金)~9/1(日)はウル虎の夏2013
- ↑ 「ウル虎の夏2014限定ユニホーム」発表(2014年1月31日デイリースポーツ 同2月1日閲覧)、【阪神】ウル虎グリーン・ユニホーム披露(2014年1月31日日刊スポーツ 同2月1日閲覧)
- ↑ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P156〜157
- ↑ 『関西テレビ放送10年史』(1968年)
- ↑ 『阪神タイガースの正体』P329。
- ↑ 球団史1985年度版、44頁。
- ↑ 62.0 62.1 オフィシャルスポンサー制度を初導入
- ↑ 株式会社ローソンとのオフィシャルスポンサー契約締結に合意
- ↑ これは、池田が足もとの悪いセンター付近の芝に足を取られて転倒し捕球出来なかったためとされたが、この年は阪神が僅差で優勝を逃したことから、これを「世紀の落球」と呼ぶようになり、池田は戦犯扱いされた。
- ↑ この時、オーダー表提出係を担っていた岡本伊三美は、先発投手に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田に念押ししている。
- ↑ 毎日新聞大阪本社 1973年10月23日朝刊
- ↑ 67.0 67.1 67.2 67.3 67.4 読売新聞1973年10月23日23頁
- ↑ 四国新聞1973年10月23日11頁
- ↑ 毎日新聞大阪本社 1973年10月23日朝刊
- ↑ 毎日新聞東京本社 1973年10月23日朝刊
- ↑ 毎日新聞大阪本社 1973年10月23日朝刊
- ↑ 朝日新聞大阪本社社会部編『関西の私鉄』(清文堂、1981年)P178。
- ↑ 連載コラム『伝説』野球放送の裏側〜名勝負の演出者たち(10) - 日刊スポーツ大阪版2010年9月25日付
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