シェーン・スペンサー
テンプレート:Infobox baseball player シェーン・スペンサー(Michael Shane Spencer, 1972年2月20日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州出身の元プロ野球選手(外野手)。テンプレート:By・テンプレート:Byに阪神タイガースに所属した。
経歴
アメリカ時代
テンプレート:By、ニューヨーク・ヤンキースでメジャー昇格。リーグ終盤からの出番だったが、スコット・ブローシャスらと組んだ下位打線は相手にとって脅威であり、高い打率に加え、本塁打を10本放つ。同年のディビジョン・シリーズでは9番打者ながら打率.500, 2本塁打と大暴れしてチームを勢いに乗せ、この年ヤンキースをワールドシリーズ制覇に導いた立役者の一人となった。
翌テンプレート:Byは不整脈により故障者リスト入り。成績も落とし飛躍の年にはならなかった。テンプレート:Byは開幕から好調を維持していたが、怪我に見舞われまたも故障者リスト入り。テンプレート:Byも成績は横ばい。左投手には滅法強かったが右投手を苦手としていた。守備は多少評価されていたが控えからは抜け出せなかった。
テンプレート:Byは最多の94試合に出場するも成績を落とす。シーズン途中にロサンゼルス・ドジャースからラウル・モンデシーが加入。さらにオフには松井秀喜が加入したこともあり、クリーブランド・インディアンスにトレードされる。テンプレート:Byはインディアンス、テキサス・レンジャーズでプレー。119試合に出場し、自己最多の12本塁打を放った。
テンプレート:Byはニューヨーク・メッツに移籍。チームメートには西武ライオンズから移籍した松井稼頭央がいた。7月22日深夜、ニューヨーク市内のバーで割れたガラスを踏んで右かかとを裂傷し故障者リスト入り。さらに同月末には飲酒運転で逮捕され、無期限の出場停止処分を受け、メッツを解雇される。ウェーバーでヤンキースとマイナー契約を結ぶがメジャー昇格することなくオフに退団。日本に働き場所を求めた。
なお、テンプレート:By8月からテンプレート:By4月にかけてMLB史上最長のストライキが実施された影響で、オーナー側の命令で1995年のスプリングトレーニングに代替選手として参加していたため、スト破りを行った制裁措置としてメジャー昇格後も選手会への加入を認められなかった。
阪神時代
2004年12月23日に、阪神と年俸6,000万円の1年契約を結んだ[1]。監督の岡田彰布からは、同年に広島東洋カープから移籍したアンディ・シーツと共に、退団したジョージ・アリアスの穴埋めとして期待された。
テンプレート:Byはオープン戦前半は不調だったものの後半で調子を上げ、6番・右翼手として開幕スタメンを任された。その後は桧山進次郎との併用で主に相手チームで左投手が先発する試合に起用され、当時絶好調だった金本知憲・今岡誠の後を任されていた。シーズンを通しての成績を見れば打率.243・本塁打9・打点33と、助っ人しては物足りない成績ではあったが、打線が沈黙している時に一人で気を吐くなど、意外性は評価されていた。チームのリーグ優勝に貢献し、日本の野球にも慣れたことから、翌年も契約を結ぶことになった。国内他球団を経ずに阪神に入団した助っ人外国人野手が優勝に貢献したのはランディ・バース以来、また同じく国内他球団を経ずに阪神に入団した外国人選手が1年以上在籍することになったのは、 1995年のグレン・デービスとスコット・クールボー以来であった。
メジャー時代同様に左投手に強く、同年に放った本塁打9本中3本がヤクルトスワローズの藤井秀悟からのものだった。7月22日の対ヤクルト戦(阪神甲子園球場)では藤井-五十嵐亮太-石井弘寿の投手リレーに対し、チームがわずか3安打1得点と抑え込まれる中で、その1得点はスペンサーの本塁打によるものであった。8月21日の同カード(明治神宮野球場)にはチームが藤井に5回まで1点に抑えられる中、6回まで好投していた安藤優也の代打で出場してレフトスタンドへ値千金の8号2ラン本塁打を放った。試合後に藤井との相性を尋ねられた際には「たまたまだよ」と謙虚に答えている。また、9月4日の対横浜ベイスターズ戦(札幌ドーム)では相手先発の土肥義弘相手に2安打1得点と攻めあぐねていたが、この2安打1得点はすべてスペンサーのバットから生まれたもので、延長10回に入ってからも犠牲バントを試みるなど、チームの勝利に対する熱意を見せた。
テンプレート:Byは、春季キャンプ終盤に車から降りる際、足を踏み外して右足首を捻挫、全治6週間と診断された。開幕後4月に復帰するが、濱中治の活躍で出場機会は代打に限られた。セ・パ交流戦からは、相手の先発が左投手の時に限って1番・指名打者もしくは右翼手で起用されるようになった。また、ある試合ではスペンサーが一塁手、シーツが三塁手で起用された。交流戦の後半からは調子を上げ、相手が右投手の時でも5番や7番に起用され、満塁弾を放つなど存在感を示した。また右翼手だけでなく、中堅手や一塁手で先発出場して好守を見せることもあった。しかし、9月17日に故障から戻ってきた今岡と入れ替わりに二軍落ち。濱中の復活もあり、出場機会が大幅に減少し成績も振るわず、クリス・オクスプリングと共に同年限りで自由契約となった。本人は日本での現役続行を希望し、ウェーバー公示がされたが獲得に乗り出す球団はなく、そのまま帰国。
引退後
テンプレート:Byからサンディエゴ・パドレス傘下のマイナーリーグ、レイクエルシノア・ストームの打撃コーチを務めた。テンプレート:Byには独立リーグ・アトランティックリーグ所属のサマセット・パトリオッツの打撃コーチに就任している[2]。
人物
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 まじめな性格で、コーチから積極的にアドバイスを聞くなど日本野球に溶け込もうとする姿勢が見られた。しかし、首脳陣から減量を指示されると不満をあらわにし、守ろうとしなかった。
2005年9月10日の対広島戦では、矢野輝弘への頭部死球に激怒し、直後の本塁突入時に相手捕手の倉義和に痛烈なタックルをし、倉は病院直行となった。同年に江草仁貴がナックルボールに挑戦中とデイリースポーツが報じた際、その記事の中で江草は「ナックルボールはスペンサーに教わったものだ」と発言していた。
2005年に阪神がリーグ優勝した際のビールかけに「スケベ代表」のたすきをつけて登場したり、「馬鹿外人」と書かれたTシャツを着て打撃練習するなど茶目っ気のある性格であった。阪神時代にはチームメイトで同級生のアンディ・シーツと仲が良く、日本の野球についていろいろと教わった。夫人同士も仲がいいと報じられている。
一方で野球以外のトラブルが多く、前述のようにニューヨークで右足を怪我、リハビリ中に交通違反で検挙された。さらに、同年の春季キャンプ中には、チームメイトのカリーム・ガルシアとともにピザ屋の配達員に暴行を働くという事件を起こしている。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | NYY | 27 | 73 | 67 | 18 | 25 | 6 | 0 | 10 | 61 | 27 | 0 | 1 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 12 | 0 | .373 | .411 | .910 | 1.321 |
テンプレート:By2 | 71 | 226 | 205 | 25 | 48 | 8 | 0 | 8 | 80 | 20 | 0 | 4 | 0 | 1 | 18 | 0 | 2 | 51 | 1 | .234 | .301 | .390 | .691 | |
テンプレート:By2 | 73 | 276 | 248 | 33 | 70 | 11 | 3 | 9 | 114 | 40 | 1 | 2 | 0 | 7 | 19 | 0 | 2 | 45 | 4 | .282 | .330 | .460 | .789 | |
テンプレート:By2 | 80 | 311 | 283 | 40 | 73 | 14 | 2 | 10 | 121 | 46 | 4 | 1 | 0 | 3 | 21 | 0 | 4 | 58 | 4 | .258 | .315 | .428 | .743 | |
テンプレート:By2 | 94 | 329 | 288 | 32 | 71 | 15 | 2 | 6 | 108 | 34 | 0 | 3 | 2 | 4 | 31 | 4 | 4 | 62 | 5 | .247 | .324 | .375 | .699 | |
テンプレート:By2 | CLE | 64 | 232 | 210 | 23 | 57 | 10 | 0 | 8 | 91 | 26 | 2 | 0 | 0 | 3 | 18 | 0 | 1 | 52 | 6 | .271 | .328 | .433 | .761 |
TEX | 55 | 216 | 185 | 16 | 42 | 10 | 0 | 4 | 64 | 23 | 0 | 0 | 0 | 2 | 27 | 0 | 2 | 40 | 2 | .227 | .329 | .346 | .675 | |
'03計 | 119 | 448 | 395 | 39 | 99 | 20 | 0 | 12 | 155 | 49 | 2 | 0 | 0 | 5 | 45 | 0 | 3 | 92 | 8 | .251 | .328 | .392 | .721 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By2 | NYM | 74 | 204 | 185 | 21 | 52 | 10 | 1 | 4 | 76 | 26 | 6 | 0 | 2 | 2 | 13 | 0 | 2 | 37 | 1 | .281 | .332 | .411 | .742 |
テンプレート:By2 | 阪神 | 108 | 313 | 276 | 27 | 67 | 16 | 0 | 9 | 110 | 33 | 0 | 1 | 0 | 2 | 34 | 0 | 1 | 70 | 8 | .243 | .326 | .399 | .724 |
テンプレート:By2 | 59 | 115 | 108 | 12 | 24 | 5 | 0 | 6 | 47 | 17 | 1 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 33 | 0 | .222 | .261 | .435 | .696 | |
MLB:7年 | 538 | 1867 | 1671 | 208 | 438 | 84 | 8 | 59 | 715 | 242 | 13 | 11 | 4 | 23 | 152 | 4 | 17 | 357 | 23 | .262 | .326 | .428 | .754 | |
NPB:2年 | 167 | 428 | 384 | 39 | 91 | 21 | 0 | 15 | 157 | 50 | 1 | 1 | 0 | 3 | 40 | 0 | 1 | 103 | 8 | .237 | .308 | .409 | .717 |
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:2005年4月1日、対ヤクルトスワローズ1回戦(大阪ドーム)、6番・右翼手で先発出場
- 初打席・初安打:同上、2回裏に石川雅規から左前安打
- 初打点:2005年4月2日、対ヤクルトスワローズ2回戦(大阪ドーム)、1回裏に坂元弥太郎から左前適時打
- 初本塁打:2005年4月3日、対ヤクルトスワローズ3回戦(大阪ドーム)、4回裏に高井雄平から左越ソロ
- 初盗塁:2006年5月14日、対福岡ソフトバンクホークス3回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、3回表に二盗(投手:杉内俊哉、捕手:山崎勝己)
背番号
- 26 (1998年)
- 47 (1998年 - 2002年)
- 48 (2003年)
- 47 (2003年)
- 43 (2004年)
- 41 (2005年 - 2006年)
脚注
外部リンク
テンプレート:1998 ニューヨーク・ヤンキース- ↑ シェーン・スペンサー選手との契約締結について 阪神タイガース公式サイト、2004年12月24日。
- ↑ Shane Spencer new Somerset hitting coach