ロサンゼルス・ドジャース
テンプレート:Redirect テンプレート:MLBのチームロサンゼルス・ドジャース(Los Angeles Dodgers、略称:LAD)は、アメリカMLB、ナショナルリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州ロサンゼルスにあるドジャー・スタジアム。チームカラーの青はドジャーブルーとして知られている。
目次
概要
創設はテンプレート:By。1947年にアフリカ系アメリカ人として初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンがデビュー、1995年には史上2番目の日本人メジャーリーガーである野茂英雄がデビューした球団として知られる。創設以来、ニューヨーク(ブルックリン区)を本拠地としていたが、1958年に現在のロサンゼルスに本拠地を移した。同年にはニューヨーク・ジャイアンツも同じく西海岸のサンフランシスコに本拠地を移し、サンフランシスコ・ジャイアンツと名乗っている。
リーグ優勝21回はジャイアンツに次ぐナショナルリーグ2位(MLB全体ではニューヨーク・ヤンキースが1位)、ワールドシリーズ優勝は6回を数える。ワールドシリーズ初優勝を遂げる1955年までに10回のリーグ優勝をしているが、ワールドシリーズではことごとく敗れ続けた。特に当時本拠地を同じとしていたヤンキースとの対戦が多く、1955年に6回目の挑戦で初めてヤンキースを破っている。ロサンゼルス移転後のワールドシリーズ優勝は、ロビンソンが活躍した1950年代、ロサンゼルスに本拠地を移した後サンディ・コーファックス、ドン・サットンら名投手が在籍した1960年代、ウォルター・オルストンの後を継ぎ、20年に渡って監督を務めたトミー・ラソーダの下、1980年代に各2回ずつ成し遂げている。2009年にMLB3球団目となる通算10000勝に到達した。
2012年シーズン終了時点で、優勝決定プレイオフ進出回数が30球団の中で最多である。ナショナルリーグが同率1位の際に2戦先取制のプレーオフを実施していた時代、ドジャースは実施された4回すべてに出場しており、ワンゲームプレーオフ移行後も合わせると計5回出場している。
冒頭にもあったように、ジャイアンツとは前身のニューヨーク時代からの宿敵と言える関係で、現在に至るまで激しい優勝争いを繰り広げている。通算の対戦成績ではほぼ五分だが、ワールドシリーズに関して言えば、1958年に共に西海岸に移転してからは、ジャイアンツが2度しか制覇していないのに対して、ドジャースは5度も達成している。しかし21世紀に入ってからはジャイアンツが3度進出している一方で、ドジャースは1988年の優勝を最後に進出すらない(NLCS進出も1989年以降では3度のみ)。両チームの対戦は、「ニューヨーク・ヤンキース対ボストン・レッドソックス」及び「セントルイス・カージナルス対シカゴ・カブス」と並ぶMLB屈指の人気カードである。
現在本拠地とするドジャー・スタジアム周辺がユダヤ系アメリカ人の多い土地柄で、ユダヤ系アメリカ人選手を好んで獲得する傾向がある。他にも他人種、他地域からの選手の発掘、西海岸への本拠地の移転など、他の球団に先駆けた改革を行い、大きな成功を収めた。これらは長年オーナーを務めたウォルター・オマリー、ピーター・オマリーらオマリー一族の影響が大きく、ドジャースは「働きやすい全米企業ベスト100」に何度も名を連ねるなど、球団経営の質を高めた(その後FOXグループに売却)。
伝統的に名投手を多く擁してきており、初代サイヤング賞受賞者であるドン・ニューカム(1956年)以来、2013年に至るまで、最多の延べ11回(8人)受賞者を出している。スモールボール(スモールベースボール)のパイオニア的存在で、日本のプロ野球にも大きな影響を与えた。
2011年4月、MLBコミッショナーであるバド・セリグは、経営状態悪化の懸念から球団を監視下に置いたドジャースの管理責任者にジョン・トーマス・シーファー(前駐日大使)を選任したが、現オーナーのフランク・マッコート(en)は、「送り込まれた誰かがドジャースを奪うことは明らかに間違っている」と異を唱えている[1]。翌2012年3月、投資グループのグッゲンハイム・ベースボール・マネジメントへの売却が発表された。同投資グループは、NBAの選手だったマジック・ジョンソンが名を連ねている[2]。
日本人選手では野茂をはじめ、石井一久、木田優夫、中村紀洋、斎藤隆、黒田博樹らが在籍していた。
球団の歴史
球団創設
ブルックリンはプロ球団が登場する以前の1850年代から、いくつかの有名な野球クラブがしのぎを削っていた。1860年代には周囲が塀で囲まれ、入場料の取れる野球場が開かれるなど、野球がプロ化する環境が早くから整っていた。当時強さを誇ったクラブのいくつかは1870年代にプロ球団化したが、優秀な選手が激しい引き抜きにあって弱体化し、ナショナルリーグの発足前に破綻してしまった。
現在のドジャースに繋がる球団は1883年に創設され、翌年のテンプレート:Byに、ニューヨーク・ブルックリン地区(当時はブルックリン市)のワシントン・パークを本拠地としてアメリカン・アソシエーションに加盟した。発足当初から興行的に成功し、チームは個々に選手を集めるだけでなく、破綻した他球団も買収しながらチームを強化していった。1888年には破綻したニューヨーク・メトロポリタンズを吸収し、セントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)の主力投手だったボブ・カルザースを獲得、チームの生え抜きで2度のノーヒットノーランを記録したアドニス・テリーとの強力な二枚看板で、1889年にリーグ優勝を成し遂げた。翌1890年にはプレイヤーズ・リーグ創設の混乱の中ナショナルリーグに鞍替えし、ナショナルリーグ優勝を果たしただけでなく、破綻したプレイヤーズ・リーグのブルックリン・ワンダーズを吸収、リーグの創始者だったジョン・ウォードを監督に招き入れている。
チームが次にリーグ優勝を果たすのはテンプレート:Byとテンプレート:Byのことだが、この時は当時ナショナルリーグの常勝チームだったボルチモア・オリオールズ(現存球団とは別)のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホーストが、ブルックリンの経営に参画してオリオールズと球団経営を掛け持ちし、監督のネッド・ハンロンをはじめ、ジョー・ケリーやウィリー・キーラー、ジェイ・ヒューズといったオリオールズの主力選手たちを、ごっそりブルックリンに移したことで成し遂げられたものである。
アンクル・ロビーの時代~低迷期
20世紀に入ってからは成績が低迷し、チームは1904年から11年連続で負け越しを続けた。1913年に本拠地をワシントン・パークからエベッツ・フィールドへ移し、1914年にチーム名も「ロビンズ」に変え、「アンクル・ロビー」ことウィルバート・ロビンソンが監督に就任したことで、ようやくチームは再建された。ロビンソンは前述のボルチモア・オリオールズの出身者で、世紀の変わり目にチームをリーグ優勝に導いたネッド・ハンロンの愛弟子とでも呼ぶべき人物だった。チームはロビンソンの下で1916年と1920年にリーグ優勝を果たす。当時活躍した選手としては、殿堂入りした外野手のザック・ウィート、1913年と1914年に首位打者となったジェイク・ドーバート、投手では1916年に25勝をあげたジェフ・フェファー、殿堂入り投手となったルーブ・マーカード、バーリー・グライムスらの名前が挙げられる。1920年には初めて1試合当たりの観客動員が1万人を超えた。しかし良い時期は長く続かず、1920年代には再び成績が低迷する。経営陣のチャーリー・エベッツとエド・マッキーバーが1925年に相次いで亡くなり、ロビンソンが経営に参画して試合に集中できなくなったことも一因だった。この頃のチームは"Daffiness Boys"(愚か者たち)と愛情も込めて呼ばれていて、外野手ベーブ・ハーマンは、この頃の低迷するチームの代表的な選手と言えるだろう。またロビンソンの育て上げた選手の一人ダジー・ヴァンスは、1920年代に7年連続のリーグ奪三振王となり、後年野球殿堂入りを果たしている。
次のリーグ優勝は第二次世界大戦下の1941年、レオ・ドローチャーの監督就任を待たねばならなかった。1938年から球団経営に加わったラリー・マクフェイルのチーム作りが3年越しで成果を挙げたものだった。他方でマクフェイルはブルックリンの試合のメディアでの中継放送を積極的に進め、1939年8月26日のドジャース対レッズ戦が、MLB史上初のテレビ中継された試合となった。またドジャースは、1941年に他球団に先駆けてバッティング用ヘルメットを導入している。
「カラーバリヤー」の打破
マクフェイルは1942年に徴兵され、球団経営の実権はマクフェイルの友人だったブランチ・リッキーに移っていたが、リッキーは戦争終結後、それまで誰も手を出そうとしなかったアフリカ系アメリカ人選手の獲得によるチームの強化へ向けて動き始めていた。後述のロビンソン獲得の前から、自身の傘下にマイナーリーグを組織し、有望なアフリカ系アメリカ人選手を入団させその力量を見極めていた。
そして1947年に、スカウトのジョージ・シスラーから推薦を受けたジャッキー・ロビンソンとメジャー契約を結び、その後に続く黒人選手の道を開いていった。ロビンソンはこの年に制定された新人王を受賞し、その成功に倣う球団が次々と現れ、19世紀末から続いたMLBの「カラーライン」は崩れ去った。リッキーの思惑は当たり、ロビンソンの登場以降チームは躍進、1947年から1956年の10年間でリーグ優勝6度、2位が3度という常勝チームに生まれ変わる。投手ではドン・ニューカムやプリーチャー・ロー、野手はロビンソンをはじめロイ・キャンパネラ、ピー・ウィー・リース、デューク・スナイダーらが中心となった。しかしワールドシリーズにおいては、アメリカンリーグのニューヨーク・ヤンキースに、1941年以降5度もの敗退を繰り返し、ファンの間では、"Wait 'til next year"(次の年こそ)という言葉が暗黙のスローガンになっていたほどだった[3]。
ドジャースの監督契約は伝統的に1年だったが、チャック・ドレッセンは複数年契約を申し入れたためウォルター・オマリーに解任され、ウォルター・オルストンが就任[3]。「ドジャースの監督が務まるのか?」という声もあったが[3]、チームは1955年のワールドシリーズで、ヤンキースへの6度目挑戦で悲願のワールドチャンピオンとなる。優勝決定後のニューヨーク・デイリー・ニューズ誌には、前述のスローガンにあてて、"This is Next Year!"(「次の年」がついにきた)という見だしが立った。翌1956年のワールドシリーズもヤンキースとの対戦となったが、第5戦でドン・ラーセンに完全試合で敗れ、第7戦までもつれたが敗れた。
西海岸へ
1950年代にブルックリン地区では黒人とプエルトリコ系の住民が増え、白人の富裕層の流出が進み、治安が悪化していった。球場は街中にあるため改装や駐車場の増設が思うようにできず、観客動員も1947年の1,807,526人をピークにその後は100万人前後で推移した。球団はブルックリン地区内に新球場を建設することを希望していたが、ニューヨーク市側はフラッシング・メドウズへの移転を勧め(その土地には最終的にはメッツの本拠地、シェイ・スタジアムが建設された)、球団がブルックリンで新たな土地を取得することを認めなかった。このため球団は1957年5月、ナリーグのオーナー会議で移転の了承を得て、1958年に西海岸のロサンゼルスへ移転した。因みに同じニューヨーク(マンハッタン)に本拠を構えていたジャイアンツが、ドジャースと同時にサンフランシスコへ移転している。
移転当初はドジャー・スタジアムが完成するまでの間、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを本拠地とした。スタジアムはその卵形の形状ゆえ野球場に適さず、本塁から左翼席までの距離も250フィート(約76.2m)しか取れなかった。このためレフト方向に高さ40フィート(約12.2m)にもなるスクリーンを立てて本塁打の量産を防ごうとしていた。このような悪い環境にもかかわらず、ドジャースは多くの観客を動員した。こんな極端な球場の形に上手く適応した選手の一人が、ドジャースの外野手だったウォーリー・ムーンであろう。彼は1959年シーズンにリーグ最多の三塁打を記録したが、その多くはこのスタジアムでレフト方向にふらふらとあがった打球で、それが左翼の高いスクリーンに当たって三塁打になったものだった。ファンの間ではこのムーンの三塁打が、彼の名前に引っ掛けて「ムーン・ショット」(月ロケット発射の意)と呼ばれていた。ドジャースは移転2年目の1959年にリーグを制覇し、1959年のワールドシリーズを"ゴーゴー・ソックス"と呼ばれたシカゴ・ホワイトソックスとこのスタジアムで戦い優勝した。シリーズの第5戦ではMLB最多記録となる92706人の観客を動員している[4]。
ドジャー・スタジアムは1962年に完成。メジャーで最も美しい球場の一つと言われ[3]、1978年にはMLB史上初めて年間観客動員300万人を達成している。
オルストンのスモールボール
ドジャー・スタジアム完成の頃、ドジャースは長打力がないためウォルター・オルストン監督の下で、投手力・守備力・機動力を重視したチームを作り上げていた[3]。攻撃力は今ひとつだったが、チームの中心にはサンディ・コーファックスとドン・ドライスデールの絶対的な投手の二枚看板がいた。コーファックスは1960年代にサイ・ヤング賞を3度獲得し、ドライスデールも1962年のサイ・ヤング賞をはじめオールスターゲームに8度出場、1968年には当時のMLB記録となる58回2/3イニング無失点記録を樹立するなど輝かしい実績を残している。当時のドジャースは、「足の速いモーリー・ウィリスが出塁して盗塁、内野ゴロと犠牲フライで彼を迎え入れた後は、コーファックスかドライスデールが相手を完封して1-0で勝利」という勝ちパターンがまことしやかに語られていた程だった。
特にコーファックスは1963年のワールドシリーズで、ヤンキースを相手に1試合15奪三振を記録するなど、1960年代のドジャースのワールドシリーズ制覇に幾度も貢献したが、左肘の故障を理由に1966年に30歳の若さでユニフォームを脱いだ。オルストンは1976年まで通算23年間ドジャースを率い、通算7度のリーグ制覇をドジャースにもたらした。
ラソーダ監督以降
1977年にトミー・ラソーダが監督に就任し、以後1996年途中まで指揮をとった。1981年にメキシコ人のフェルナンド・バレンズエラがデビュー。 "フェルナンドマニア"を生み出し、 新人投手としては初のサイ・ヤング賞を獲得、同年のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。
テンプレート:Byには"ブルドッグ"ことオーレル・ハーシュハイザーが59イニング連続無失点の記録を達成する。リーグ優勝しワールドシリーズに進んだドジャースには、もう一つ大きなドラマが待っていた。この年FAで獲得した主砲カーク・ギブソンはリーグチャンピオンシップで足を怪我し、ワールドシリーズへの出場は絶望と思われていた。しかし1988年のワールドシリーズ第1戦、1点リードされた9回裏に、出場できないはずのギブソンが足を引きずりながら代打で登場する。ギブソンはアスレチックスの守護神デニス・エカーズリーから7球目をライトスタンドに放り込み、この劇的なサヨナラ勝ちで勢いづいたドジャースが、NBCのボブ・コスタスから「これほどの貧打線がシリーズに出てきたのは見たことがない」と言われるなど下馬評を覆し、このシリーズを4勝1敗で制した[3]。
テンプレート:Byには朴賛浩が韓国人として初のメジャーデビューを果たし、テンプレート:Byに野茂英雄投手と契約。 NOMO旋風を巻き起こし、日本人のメジャー進出の先鞭をつけた。テンプレート:Byからテンプレート:Byまでエリック・キャロス、マイク・ピアッツァ、ラウル・モンデシー、野茂英雄、トッド・ホランズワースと5年連続で新人王を輩出した。テンプレート:Byには日本出身の野茂を含め、ドミニカ共和国出身のラモン・マルティネス、ペドロ・アスタシオ、韓国出身の朴賛浩、メキシコ出身のイスマエル・バルデスと先発ローテーションからアメリカ人が消えた[3]。
ラソーダは1996年シーズン途中で辞任し、翌1997年にはオマリー会長が球団をフォックスグループへ売却した。テンプレート:Byにはピアザや野茂を放出し、テンプレート:By開幕前にはケビン・ブラウンと1億ドルを越える大型契約を結び、デーブ・ジョンソンが監督に就任したが、77勝85敗と負け越した。
テンプレート:Byはワイルドカードでプレーオフに進出し、テンプレート:Byは開幕前にジェイソン・シュミットやフアン・ピエールの獲得など的確な補強や若手選手が多く地区優勝候補筆頭だった[5]。7月までは地区優勝を争っていたが、8月に6連敗と4連敗、9月に7連敗を喫し地区4位に終わった。チーム本塁打数が前年と同じリーグ15位だったが、153本から129本へ減少し、この長打力不足が得点力不足となり後半の失速となった[5]。
2007年11月1日にジョー・トーリが3年契約で監督に就任。テンプレート:Byは前半戦はノマー・ガルシアパーラ、ラファエル・ファーカルの故障やアンドリュー・ジョーンズの不振などでアリゾナ・ダイヤモンドバックスに次ぐ地区2位だったが、7月31日にトレードでマニー・ラミレスを獲得。ラミレスは移籍後53試合で打率.396、17本塁打、53打点を記録。打線の中心的役割を担い、若手に好影響を与え、補強は大成功[6]。4年ぶりに地区優勝を果たしたが、リーグチャンピオンシップシリーズでフィラデルフィア・フィリーズに敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。
2009年、5月6日に対ワシントン・ナショナルズ戦に10−3で快勝し、シーズン開幕からのホーム戦連勝を13に伸ばし、近代MLBの新記録を樹立した。この試合までドジャースは1911年にデトロイト・タイガースが記録した12連勝に並んでいた。しかし翌日の対ナショナルズ戦で敗北し、開幕からのホーム試合の連勝は、近代MLB新記録の13で止まった。 この年も地区優勝したものの、リーグチャンピオンシップシリーズで前年同様フィリーズに1勝4敗で敗れ、1988年以来となるワールドシリーズ進出を逃した。
2010年3月13日・14日、スプリングトレーニング期間中を利用し、台湾プロ野球のファン投票で選ばれた選手らと2日間試合を行った。[7][8]
チーム名
チーム名の由来は、ニューヨークのブルックリン地区に本拠地を置いていた時代に、路面電車が極めて多かったブルックリンの住人の呼び名 「路面電車をよける (dodge) 人たち」 を表す 「トローリー・ドジャース」 から名付けられたといわれている。
なお、地元 L.A. の通なファンは日常や大声で応援する時など、親しみを込めてチームを 「ダーヤーズ 【ˈdɒyíərz】/Doyers」 と呼ぶ[1]。
選手名鑑
現役選手
テンプレート:Los Angeles Dodgers roster
監督・コーチ
背番号 | 国籍 | 役職 | 選手名 |
テンプレート:Flagicon | 監督 | ドン・マッティングリー (Don Mattingly) | |
テンプレート:Flagicon | 打撃コーチ | マーク・マグワイア (Mark McGwire) | |
テンプレート:Flagicon | 打撃コーチ補佐 | ジョン・バレンティン (John Valentin) | |
テンプレート:Flagicon | 投手コーチ | リック・ハニカット (Rick Honeycutt) | |
テンプレート:Flagicon | 投手コーチ補佐 | ケン・ハウエル (Ken Howell) | |
テンプレート:Flagicon | 一塁コーチ | デイビー・ロープス (Davey Lopes) | |
テンプレート:Flagicon | 三塁コーチ | ロレンゾ・バンディ (Lorenzo Bundy) | |
テンプレート:Flagicon | ベンチコーチ | ティム・ウォーラック (Tim Wallach) | |
テンプレート:Flagicon | ブルペンコーチ | チャック・クリム (Chuck Crim) | |
テンプレート:Flagicon | ブルペン捕手 | ロブ・フリッポ (Rob Flippo) | |
テンプレート:Flagicon | ブルペン捕手 | スティーブ・シラディ (Steve Cilladi) | |
テンプレート:Flagicon | 捕手コーチ | スティーブ・イェーガー (Steve Yeager) | |
テンプレート:Flagicon | コーチ | マニー・モタ (Manny Mota) | |
テンプレート:Flagicon | スペシャルアドバイザー | サンディー・コーファックス (Sandy Koufax) |
殿堂入り選手
- デイブ・バンクロフト (Dave Bancroft)
- ダン・ブローザース (Dan Brouthers)
- ジム・バニング (Jim Bunning)
- ロイ・キャンパネラ (Roy Campanella)
- マックス・キャリー (Max Carey)
- ドン・ドライスデール (Don Drysdale)
- レオ・ドローチャー (Leo Durocher)
- バーリー・グライムス (Burleigh Grimes)
- ビリー・ハーマン (Billy Herman)
- ウェイト・ホイト (Waite Hoyt)
- ヒューイー・ジェニングス (Hughie Jennings)
- ウィリー・キーラー (Willie Keeler)
- ジョー・ケリー (Joe Kelley)
- ジョージ・ケリー (George Kelly)
- サンディ・コーファックス (Sandy Koufax)
- トミー・ラソーダ (Tommy Lasorda)
- トニー・ラゼリ (Tony Lazzeri)
- フレディ・リンドストロム (Freddie Lindstrom)
- アーニー・ロンバルディ (Ernie Lombardi)
- アル・ロペス (Al Lopez)
- ヘイニー・マナシュ (Heinie Manush)
- ラビット・モランビル (Rabbit Maranville)
- ホワン・マリシャル (Juan Marichal)
- ルーブ・マーカード (Rube Marquard)
- トミー・マッカーシー (Tommy McCarthy)
- ジョー・マクギニティ (Joe McGinnity)
- ジョー・メドウィック (Joe Medwick)
- ピー・ウィー・リース (Pee Wee Reese)
- ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson)
- フランク・ロビンソン (Frank Robinson)
- デューク・スナイダー (Duke Snider)
- ケーシー・ステンゲル (Casey Stengel)
- ドン・サットン (Don Sutton)
- ダジー・ヴァンス (Dazzy Vance)
- アーキー・ヴォーン (Arky Vaughan)
- ポール・ウェイナー (Paul Waner)
- ロイド・ウェイナー (Lloyd Waner)
- モンテ・ウォード (Monte Ward)
- ザック・ウィート (Zack Wheat)
- ホイト・ウィルヘルム (Hoyt Wilhelm)
- ハック・ウィルソン (Hack Wilson)
永久欠番
ドジャースには永久欠番の制定に関する基準が存在する。
- 米国野球殿堂入り
例外として、コーチ在籍中に逝去したジム・ギリアムの19番が存在する。
- 1 ピー・ウィー・リース (Pee Wee Reese)
- 2 トミー・ラソーダ (Tommy Lasorda)
- 4 デューク・スナイダー (Duke Snider)
- 19 ジム・ギリアム (Jim Gilliam)
- 20 ドン・サットン (Don Sutton)
- 24 ウォルター・オルストン (Walter Alston)
- 32 サンディー・コーファックス (Sandy Koufax)
- 39 ロイ・キャンパネラ (Roy Campanella)
- 42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson)
- 53 ドン・ドライスデール (Don Drysdale)
傘下マイナーチーム
脚注
外部リンク
ワールドシリーズチャンピオン ロースター |
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テンプレート:1955 ブルックリン・ドジャース テンプレート:1959 ロサンゼルス・ドジャース テンプレート:1963 ロサンゼルス・ドジャース テンプレート:1965 ロサンゼルス・ドジャース テンプレート:1981 ロサンゼルス・ドジャース テンプレート:1988 ロサンゼルス・ドジャース |
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 伊東一雄「大リーグ球団史1 ロサンゼルス・ドジャース」『月刊メジャー・リーグ』1997年8月号、ベースボールマガジン社、1997年、雑誌 08625-8、64項 - 68項
- ↑ 非公式戦ではあるが、1959年5月7日に行われたヤンキースとのエキシビジョン・ゲーム(我が国で言うオープン戦、交通事故での負傷で引退を余儀なくされたロイ・キャンパネラのセレモニーが行なわれた)には93,103人もの観客が来場した。
- ↑ 5.0 5.1 「ロサンゼルス・ドジャース [的確な補強で優勝街道進むも得点力不足響きこうはんせんに大失速]」『月刊メジャー・リーグ』2007年11月号、ベースボールマガジン社、2007年、雑誌 08625-11、29項。
- ↑ 「ロサンゼルス・ドジャース [ラミレス獲得が起爆剤に。トーリ監督は13年連続のプレーオフ]」『メジャー・リーグ記録集計号 ザ・スタッツブック 2008』、ベースボールマガジン社、2008年、雑誌 20449-11/20、57項。
- ↑ 3月13、14日 中華職棒與美國職棒道奇隊友誼賽CPBL公式HP 2010年1月22日付
- ↑ Dodgers to play pair of exhibitions in Taiwan ロサンゼルス・ドジャース公式HP 2010年1月23日付