サンディー・コーファックス
テンプレート:Infobox baseball player サンフォード・ブラウン・コーファックス(Sanford Braun Koufax, 1935年12月30日 - )は、MLBの元選手。ポジションは投手。アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン出身。ニックネームは「The Left Arm of God」。現在はロサンゼルス・ドジャースのスペシャルアドバイザーを務めている。
経歴
ニューヨーク州ブルックリンで、ユダヤ教徒の家庭に生まれる。出生時の名前はサンフォード・ブラウンだったが[1]、3歳の時に両親が離婚し、母親が弁護士のアール・コーファックスと再婚したため「コーファックス」の姓を名乗るようになった[2]。彼は現役引退直後に出版した自伝の中で「私が父と呼ぶのは、アール・コーファックスのみである」と明言している。
少年時代から抜群の運動神経に恵まれ、当時はバスケットボールが得意であった。シンシナティ大学からバスケットボールで奨学金を得て進学する[2]。大学ではバスケット、野球の両方をプレイしていたが[3]、「君の投げる球は物凄く速い。野球に将来を賭けてみないか」と地元のブルックリン・ドジャースに口説かれ[2]、テンプレート:By12月13日に契約する[1]。当時の規定により、契約から2年間はメジャーに登録されなければならなかったため、マイナーリーグで腕を磨く機会を失う[3]。テンプレート:By6月8日に故障者リストからロースター入りし、代わりに外されたのは、後の名将トミー・ラソーダだった[4]。6月24日のミルウォーキー・ブレーブス戦でメジャーデビュー。8月27日のシンシナティ・レッドレッグス戦では2安打14奪三振でメジャー初完投・初完封勝利を挙げた。チームがロサンゼルスに移転したテンプレート:Byは11勝11敗を記録したが、防御率4.48、リーグワースト2位の105四球、リーグワーストの17暴投だった。テンプレート:Byは8月31日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で当時のMLBタイ記録となる1試合18奪三振を記録[3]するなどリーグ3位の173奪三振。チームはブレーブスと同率で並び、プレーオフを制して移転後初のリーグ優勝。シカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズでは第5戦に先発し、1失点完投と好投するが援護がなく敗戦投手。チームは4勝2敗で4年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。テンプレート:Byは開幕から1勝8敗と出足でつまづき、チームメイトのドン・ドライスデイルに次ぐリーグ2位の197奪三振を記録したものの8勝13敗、リーグワースト3位タイの100四球と制球難は相変わらずだった。
テンプレート:Byは大学への復学を考えていたが、スプリングトレーニングの際に捕手のノーム・シェリーから「なあ、今日は楽に投げてみないか。速い球で押しまくるんじゃなくて、カーヴやチェンジアップを増やしたりしてさ」というアドバイス[2]を受け、それをきっかけに制球難を克服し大きく成長する[3]。同年は自身初のオールスターゲームに選出されるなど18勝13敗・防御率3.52・269奪三振を記録し、クリスティ・マシューソンがテンプレート:Byにマークした267奪三振のリーグ記録(20世紀以降)を更新[4]して最多奪三振を獲得。投手有利とされる新球場ドジャー・スタジアムが開場したテンプレート:Byに一気に開花する。4月24日のシカゴ・カブス戦で2度目の18奪三振。6月30日のニューヨーク・メッツ戦で自身初のノーヒッターを達成するなど前半戦で13勝4敗・防御率2.15・202奪三振を記録。その後故障で離脱するが、9月に復帰。チームはジャイアンツと熾烈な優勝争いを演じ、残り7試合の時点で4ゲーム差を付けるが、その後1勝6敗と失速して同率で並ばれ、3試合制のプレーオフにもつれ込む。初戦の先発を任されるが、ウィリー・メイズに本塁打を浴びるなど2回途中3失点で降板し敗戦投手。結局1勝2敗で敗れてリーグ優勝を逃した。同年は14勝7敗・防御率2.54・216奪三振の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得した。
テンプレート:By5月11日の宿敵ジャイアンツ戦で自身2度目のノーヒットノーランを達成。フアン・マリシャルと並んでリーグトップの25勝(5敗)・防御率1.88、自身のリーグ記録を更新する306奪三振、リーグトップの11完封を記録し、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠を達成し、チームのリーグ優勝の原動力となる。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、当時のシリーズ記録を更新する15奪三振で2失点完投勝利。第4戦でも無四球1失点完投勝利を挙げ、4連勝で4年ぶりのワールドチャンピオンとなり、シリーズMVPを獲得。オフにサイ・ヤング賞、MVPをダブル受賞した。テンプレート:Byのシーズン前にドライスデイルと共に大幅な年俸増をオーナーのウォルター・オマリーに要求し、初の代理人交渉を行う。5月31日から11連勝を記録し、6月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で3年連続となるノーヒッターを達成。肘の故障で8月16日の登板を最後に故障者リスト入りするものの、19勝5敗・防御率1.74・223奪三振、リーグトップの7完封を記録し、3年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得した。テンプレート:Byは5月30日から再び11連勝。9月9日のシカゴ・カブス戦で14三振を奪って完全試合を達成し、史上初の4年連続ノーヒッターを達成。26勝8敗・防御率2.04、テンプレート:Byにルーブ・ワッデルが記録した当時のメジャー記録349を更新する382奪三振[3]、共にリーグトップの335.2イニング・27完投を記録し、2度目の投手三冠を達成。チームもジャイアンツとの熾烈な優勝争いを制しリーグ優勝。ミネソタ・ツインズとのワールドシリーズでは第1戦の10月6日がユダヤ教最大の祭日であるヨム・キプルと重なったため先発を拒否し、ユダヤ人コミュニティから称賛を浴びる。代わりにドライスデイルが先発するがノックアウト。第2戦に先発するが中盤に打ち込まれて敗戦投手となる。第5戦では4安打10奪三振完封勝利。シリーズは第7戦にもつれ込み、ローテーション通りならば先発はドライスデイルの順番だったが、ウォルター・オルストン監督はコーファックスを中2日でマウンドに送る。見事に期待に応えて3安打10奪三振で完封、2年ぶりのワールドチャンピオンをもたらし2度目のシリーズMVPを獲得した。オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票でも2位に入った。テンプレート:Byは前半戦で8連勝を記録するなど15勝4敗・防御率1.60の成績で、6年連続の選出となったオールスターゲームでは先発投手を務めた。27勝9敗・防御率1.73・317奪三振、いずれもリーグトップの323.0イニング・27完投・5完封を記録し2年連続の投手三冠を達成、リーグ連覇に貢献する。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは前年に続き第2戦に先発するが、6回4失点(自責点1)で降板、打線もジム・パーマーに完封され敗戦投手。チームは第3戦・第4戦も完封負けで4連敗と一蹴され、敗退した。シリーズ終了後、登板過多による左肘の故障を理由に30歳の若さで突如引退を発表する。引退の理由を「お金よりも大事なものがある」「野球を辞めた後も続く長い人生を健康な身体で送りたい」と語った[2]。
テンプレート:Byに史上最年少の36歳で野球殿堂入りを果たす[4]。同年6月4日には背番号「32」が、ロイ・キャンパネラの『39』と共にドジャースの永久欠番に指定された[5]。
引退後の5年間はNBCで解説者を務め、その後現在までドジャースの特別アドバイザーとして後進の指導を行っている。毎年ドジャースのスプリングトレーニングを訪れ、過去には野茂英雄や石井一久を指導したこともある。2013年現在も健在ではあるが、メディアへの露出を極端に嫌い、彼の伝記 "A Lefty's Legacy" がユダヤ系アメリカ人ライターのジェーン・リーヴィーによって書かれた時も、本人は取材を拒否している。なおこの伝記は彼の友人・知人が『本人の許可のもと』著者のインタビューに応じて完成されたものである。
テンプレート:By1月22日にドジャースのスペシャルアドバイザーに就任し、スプリングトレーニングでドジャースの投手たちにアドバイスを送った[6]他、4月1日にはドジャー・スタジアムで始球式に招待されている。
選手としての特徴
足を高く上げるオーバースローからのフォーシーム、カーヴを武器とした。1963年のワールドシリーズで敗れたヤンキースの主砲ミッキー・マントルは「人々が彼について言っていたのが本当だったことが分かった。速球は胸元で浮き上がるし、カーヴは見えなくなるほど落ちる」と語り、ヨギ・ベラは「何故あの男が25勝できたのかは理解できた。理解できないのはなぜ5敗もしたのかだ」と評した[7]。他にも当時のピッツバーグ・パイレーツの主砲、ウィリー・スタージェルも「コーファックスの球を打つのはコーヒーをフォークですくって飲むようなものだ」と攻略の難しさを語っている[2]。
通算投球回数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手4人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率9.28は、ランディ・ジョンソン、ペドロ・マルチネス、ノーラン・ライアンに次ぐMLB史上4位である[8]。
登板過多から肘の故障に苦しむようになり、登板前には痛み止めの注射、登板後には現在では当たり前となった肩・肘のアイシングを行っていた。それでも医師からは「このまま投げ続ければ、日常生活にも支障が出る」とまで言われたという。
獲得タイトル・表彰・記録
- MVP 1回:1963年
- ワールドシリーズMVP 2回:1963年, 1965年
- 投手三冠 3回:1963年, 1965年, 1966年
- 最優秀防御率 5回:1962年 - 1966年
- 最多勝 3回:1963年, 1965年, 1966年
- 最多奪三振 4回:1961年, 1963年, 1965年, 1966年
- サイ・ヤング賞 3回:1963年, 1965年, 1966年
- ベーブ・ルース賞 2回:1963年, 1965年
- MLBオールスターゲーム選出 6回:1961年 - 1966年
- ハッチ賞1回:1966年
- 完全試合 1回:1965年9月9日
- ノーヒッター 3回:1962年6月30日, 1963年5月11日, 1964年6月4日
- 4シーズン連続ノーヒットノーラン達成:1962年 - 1965年
- アメリカ野球殿堂入り:1972年
- MLBオールセンチュリーチーム選出(左投手):1999年
年度別投手成績
テンプレート:By2 | BRO LAD |
12 | 5 | 4 | 2 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | .500 | 183 | 41.2 | 33 | 2 | 28 | 1 | 1 | 30 | 2 | 1 | 15 | 14 | 3.02 | 1.46 |
テンプレート:By2 | 16 | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | -- | .333 | 261 | 58.2 | 66 | 10 | 29 | 0 | 0 | 30 | 1 | 2 | 37 | 32 | 4.91 | 1.62 | |
テンプレート:By2 | 34 | 13 | 2 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | -- | .556 | 444 | 104.1 | 83 | 14 | 51 | 1 | 2 | 122 | 5 | 0 | 49 | 45 | 3.88 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 40 | 26 | 5 | 0 | 0 | 11 | 11 | 1 | -- | .500 | 714 | 158.2 | 132 | 19 | 105 | 6 | 1 | 131 | 17 | 0 | 89 | 79 | 4.48 | 1.49 | |
テンプレート:By2 | 35 | 23 | 6 | 1 | 0 | 8 | 6 | 2 | -- | .571 | 679 | 153.1 | 136 | 23 | 92 | 4 | 0 | 173 | 5 | 1 | 74 | 69 | 4.05 | 1.49 | |
テンプレート:By2 | 37 | 26 | 7 | 2 | 0 | 8 | 13 | 1 | -- | .381 | 753 | 175.0 | 133 | 20 | 100 | 6 | 1 | 197 | 9 | 0 | 83 | 76 | 3.91 | 1.33 | |
テンプレート:By2 | 42 | 35 | 15 | 2 | 0 | 18 | 13 | 1 | -- | .581 | 1068 | 255.2 | 212 | 27 | 96 | 6 | 3 | 269 | 12 | 2 | 117 | 100 | 3.52 | 1.20 | |
テンプレート:By2 | 28 | 26 | 11 | 2 | 1 | 14 | 7 | 1 | -- | .667 | 744 | 184.1 | 134 | 13 | 57 | 4 | 2 | 216 | 3 | 0 | 61 | 52 | 2.54 | 1.04 | |
テンプレート:By2 | 40 | 40 | 20 | 11 | 6 | 25 | 5 | 0 | -- | .833 | 1210 | 311.0 | 214 | 18 | 58 | 7 | 3 | 306 | 6 | 1 | 68 | 65 | 1.88 | 0.87 | |
テンプレート:By2 | 29 | 28 | 15 | 7 | 3 | 19 | 5 | 1 | -- | .792 | 870 | 223.0 | 154 | 13 | 53 | 5 | 0 | 223 | 9 | 0 | 49 | 43 | 1.74 | 0.93 | |
テンプレート:By2 | 43 | 41 | 27 | 8 | 4 | 26 | 8 | 2 | -- | .765 | 1297 | 335.2 | 216 | 26 | 71 | 4 | 5 | 382 | 11 | 0 | 90 | 76 | 2.04 | 0.86 | |
テンプレート:By2 | 41 | 41 | 27 | 5 | 2 | 27 | 9 | 0 | -- | .750 | 1274 | 323.0 | 241 | 19 | 77 | 4 | 0 | 317 | 7 | 0 | 74 | 62 | 1.73 | 0.98 | |
通算:12年 | 397 | 314 | 137 | 40 | 16 | 165 | 87 | 9 | -- | .655 | 9497 | 2324.1 | 1754 | 204 | 817 | 48 | 18 | 2396 | 87 | 7 | 806 | 713 | 2.76 | 1.11 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
- BRO(ブルックリン・ドジャース)は、1958年にLAD(ロサンゼルス・ドジャース)に球団名を変更
脚注
外部リンク
テンプレート:ロサンゼルス・ドジャース テンプレート:アメリカ野球殿堂表彰者 (投手) テンプレート:Navboxes テンプレート:MLBACT テンプレート:Los Angeles Dodgers テンプレート:Navboxes
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 芝山幹郎 「誇り高き歴史を築いた男たち サンディ・コーファックス THE HALL of FAME SUPERSATRS」『月刊メジャー・リーグ』1997年2月号、ベースボールマガジン社、1997年、雑誌 08625-12、56 - 57項。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 テンプレート:Cite web
- ↑ 4.0 4.1 4.2 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ MLB>Stats>All-Time Totals>MLB>Pitching>9_K