デーブ・ジョンソン
テンプレート:Infobox baseball player デーブ・ジョンソン(David Allen "Dave" Johnson , 1943年1月30日 - )は、アメリカ合衆国の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。
アメリカ球界での登録名はデービー・ジョンソン (Davey Johnson)。
目次
経歴・人物
MLB時代
フロリダ州オーランド出身。テキサスA&M大学を経て、テンプレート:Byにボルチモア・オリオールズと契約。テンプレート:By、シーズン終盤に3Aロチェスターからオリオールズへメジャー初昇格。プロ入り5年目の1966年には新人王をとり、当時アメリカンリーグの強豪であったチームで正二塁手として1966年と1970年のワールドシリーズ優勝に貢献。テンプレート:Byとテンプレート:Byにもワールドシリーズに出場。なお、1966年のワールドシリーズでは、この年限りで引退した偉大な左腕投手サンディー・コーファックスに最後の被安打を記録させ、1969年のワールドシリーズでは、1勝3敗で迎えた第5戦の9回2死から打席に入って凡退し、後年監督となるニューヨーク・メッツの初のワールドシリーズ制覇の最後の打者となった。
テンプレート:Byにアトランタ・ブレーブスに移籍し、同年に自身最多でナ・リーグ2位の43本塁打を放つ(うち1本は代打で記録したが、二塁手の記録した本塁打として当時のメジャーリーグ記録)。同年にはカムバック賞も受賞した。
ゴールドグラブ賞はテンプレート:Byから3年連続受賞、オールスターゲームには1968-1970年、1973年と4回選出。
巨人時代
テンプレート:By4月18日に監督就任1年目の長嶋茂雄が「クリーン・ベースボール」をスローガンに掲げる読売ジャイアンツに入団することが決定し、20日午後8時23分に日航機で羽田空港に来日して、22日ナゴヤ球場での中日戦から黒江透修の残した背番号5をつけて34インチ(86.36cm)33オンス(935.44グラム)のバットとブルックス・ロビンソンから譲り受けたグラブでプレイし、球団史上唯一度の最下位を経験した。長嶋の後釜として期待されたものの、前半戦は慣れない三塁守備、6月にはセ・リーグ記録の8打席連続三振を喫するなど日本人投手のコントロールのよい変化球に苦しみ、後半戦は王貞治のアドバイスで傘を持つ位置にグリップを修正し打撃が復調したかにみえたが、8月6日川崎球場での対大洋15回戦で竹内広明が与えた左肩への死球による肩甲骨亀裂骨折で1ヵ月間戦線を離脱して調子を崩し、ワールドシリーズに4回出場して優勝2回の実力を十分に発揮することはできず、ファンから「虚人のジョン損」等と酷評された。
本来の二塁手に戻った翌テンプレート:Byは日本野球にも慣れ、古傷の膝痛や開幕直後の4月7日後楽園球場で平松政次から受けた死球で悪化した右手親指痛を抱え、6月9日に一時帰国して故障の治療をしながらも108試合に出場し、打率.275、打点74、チーム2位の26本塁打を放ってベストナイン・ダイヤモンドグラブ賞を獲得するほどの活躍で長嶋巨人の初優勝に貢献した。なお、26号ソロ本塁打は10月16日広島市民球場でのシーズン最終戦で高橋里志のド真ん中の棒球を捉えた優勝決定弾であった。しかし、言葉の壁や文化の違いから意思の疎通は最後までうまく図れなかった。右手親指の怪我の治療で再度一時帰国を望んでいたが認められず、コーチに打撃練習を強要されトラブルとなった阪急ブレーブスとの日本シリーズでは13打数無安打6三振と不振を極めた。オフには球団からの年俸ダウンの提示や、ジョンソンが長嶋に謝罪を要求するなどの経緯があり、契約更改には至らなかった[1]。その後、日本でのプレー続行を望むジョンソンに対し近鉄バファローズが獲得の意向を見せたが、巨人の横槍で断念したという[2]。
MLB復帰
帰国後の翌テンプレート:Byにフィラデルフィア・フィリーズでメジャーに復帰。テンプレート:Byシーズン途中にシカゴ・カブスに移籍し、同年限りで現役を引退した。
なお、デーブ・ジョンソンはハンク・アーロンと王貞治のチームメイトであった唯一の人物であり、714から716号本塁打を2度目撃している。
引退後
引退後はマイナーリーグの監督を経て、テンプレート:Byにニューヨーク・メッツの監督に就任して、テンプレート:Byにメッツをワールドシリーズ優勝に導いた。のちにシンシナティ・レッズの監督としてもテンプレート:Byに地区優勝。ロサンゼルス・ドジャースやボルチモア・オリオールズの監督も務めた。大リーグでデータ分析および選手起用にコンピューターの利用を開始した時期に、それに参画した人物のひとりである。
テンプレート:Byからは2004年アテネ五輪のオランダ代表チームの監督を務めた。テンプレート:Byには2008年北京五輪アメリカ代表監督に就任。
テンプレート:Byの第1回WBCではアメリカ代表のコーチを務めた。
テンプレート:Byの第2回WBCではアメリカ代表の監督を務めた。
テンプレート:Byの北京五輪本戦では3位決定戦で日本と対決。同点で全く同じような状況で米国は続投、日本は投手交代という決断を下し明暗が分かれ、日本に勝利し銅メダル獲得。これにつき「交代のタイミングは非常に難しいものだ。星野はいい監督だと思う」と述べた[3]。
テンプレート:By6月26日、ワシントン・ナショナルズの監督に就任した[4]。
テンプレート:By、チームを31年ぶり、ワシントン移転後では初の地区優勝へと導いた。オフの11月10日に1年契約で続投をなった。13日には、この年のナショナルリーグ最優秀監督に選ばれた。[5]
エピソード
巨人在籍時は折り合いが良くなかったと言われる長嶋だが、文春Numberビデオ「巧守好走列伝」では守備の印象的な外国人選手としてジョンソンの名を挙げ、守備技術を高く評価している[7]。例えば、王貞治が通算715号を記録した1976年10月11日対阪神23回戦(後楽園)では、2回一死二塁に東田正義の場面で池辺巌の中前の飛球を裁きダブルプレイ、7回二死二塁に藤田平の場面で片岡新之介の一二塁間のヒット性のゴロを一塁封殺にするなど好プレイでピンチを救い、堀内恒夫の151球完投とチームのスコア9対3での勝利に貢献した。堀内はジョンソンを「人格者だった」「バットなしでいい。グラブを持って二塁にいるだけで助かった」と評している[8]。張本勲の移籍により塀際の魔術師と呼ばれた左翼手から三塁手にコンバートされた高田繁も「併殺場面の三塁ゴロは捕ったら二塁ベースあたりに投げれば悪送球でもOK、デービーが簡単に一塁に転送してゲッツーが成立した。おかげで新人三塁手の僕までうまく見せてくれた」と評している[9]。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | BAL | 20 | 53 | 47 | 5 | 8 | 3 | 0 | 0 | 11 | 1 | 3 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 6 | 3 | .170 | .245 | .234 | .479 |
テンプレート:By2 | 131 | 541 | 501 | 47 | 129 | 20 | 3 | 7 | 176 | 56 | 3 | 4 | 1 | 7 | 31 | 3 | 1 | 64 | 8 | .257 | .298 | .351 | .649 | |
テンプレート:By2 | 148 | 586 | 510 | 62 | 126 | 30 | 3 | 10 | 192 | 64 | 4 | 5 | 5 | 8 | 59 | 10 | 4 | 82 | 12 | .247 | .325 | .376 | .702 | |
テンプレート:By2 | 145 | 559 | 504 | 50 | 122 | 24 | 4 | 9 | 181 | 56 | 7 | 3 | 3 | 3 | 44 | 5 | 5 | 80 | 18 | .242 | .308 | .359 | .667 | |
テンプレート:By2 | 142 | 580 | 511 | 52 | 143 | 34 | 1 | 7 | 200 | 57 | 3 | 4 | 2 | 7 | 57 | 2 | 3 | 52 | 16 | .280 | .351 | .391 | .743 | |
テンプレート:By2 | 149 | 600 | 530 | 68 | 149 | 27 | 1 | 10 | 208 | 53 | 2 | 1 | 3 | 1 | 66 | 8 | 0 | 68 | 11 | .281 | .360 | .392 | .753 | |
テンプレート:By2 | 142 | 574 | 510 | 67 | 144 | 26 | 1 | 18 | 226 | 72 | 3 | 1 | 4 | 4 | 51 | 5 | 5 | 55 | 15 | .282 | .351 | .443 | .794 | |
テンプレート:By2 | 118 | 436 | 376 | 31 | 83 | 22 | 3 | 5 | 126 | 32 | 1 | 1 | 2 | 2 | 52 | 8 | 4 | 68 | 10 | .221 | .320 | .335 | .655 | |
テンプレート:By2 | ATL | 157 | 651 | 559 | 84 | 151 | 25 | 0 | 43 | 305 | 99 | 5 | 3 | 0 | 2 | 81 | 9 | 9 | 93 | 8 | .270 | .370 | .546 | .916 |
テンプレート:By2 | 136 | 540 | 454 | 56 | 114 | 18 | 0 | 15 | 177 | 62 | 1 | 2 | 4 | 4 | 75 | 6 | 3 | 59 | 17 | .251 | .358 | .390 | .748 | |
テンプレート:By2 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1.000 | 2.000 | 3.000 | |
巨人 | 91 | 324 | 289 | 29 | 57 | 7 | 0 | 13 | 103 | 38 | 1 | 0 | 0 | 3 | 21 | 0 | 11 | 71 | 6 | .197 | .275 | .356 | .631 | |
テンプレート:By2 | 108 | 431 | 371 | 48 | 102 | 16 | 2 | 26 | 200 | 74 | 1 | 1 | 1 | 4 | 46 | 0 | 9 | 62 | 6 | .275 | .365 | .539 | .904 | |
テンプレート:By2 | PHI | 78 | 186 | 156 | 23 | 50 | 9 | 1 | 8 | 85 | 36 | 1 | 1 | 2 | 3 | 23 | 1 | 2 | 20 | 5 | .321 | .408 | .545 | .952 |
テンプレート:By2 | 44 | 102 | 89 | 14 | 17 | 2 | 0 | 2 | 25 | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 0 | 2 | 19 | 2 | .191 | .284 | .281 | .565 | |
CHC | 24 | 56 | 49 | 5 | 15 | 1 | 1 | 2 | 24 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | 9 | 1 | .306 | .393 | .490 | .883 | |
'78計 | 68 | 158 | 138 | 19 | 32 | 3 | 1 | 4 | 49 | 20 | 0 | 0 | 0 | 1 | 15 | 0 | 4 | 28 | 3 | .232 | .323 | .355 | .678 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
MLB:13年 | 1435 | 5465 | 4797 | 564 | 1252 | 242 | 18 | 136 | 1938 | 609 | 33 | 25 | 26 | 43 | 559 | 57 | 40 | 675 | 126 | .261 | .340 | .404 | .744 | |
NPB:2年 | 199 | 755 | 660 | 77 | 159 | 23 | 2 | 39 | 303 | 112 | 2 | 1 | 1 | 7 | 67 | 0 | 20 | 133 | 12 | .241 | .326 | .459 | .785 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督戦績
年度 | チーム | 地区 | 年齢 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位/チーム数 | 備考 | ポストシーズン</br>勝敗 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | NYM | NL 東 | 41 | 162 | 90 | 72 | .556 | 2 / 6 | ||
1985 | 42 | 162 | 98 | 64 | .605 | 2 / 6 | ||||
1986 | 43 | 162 | 108 | 54 | .667 | 1 / 6 | WS優勝 | 8勝5敗 | ||
1987 | 44 | 162 | 92 | 70 | .568 | 2 / 6 | ||||
1988 | 45 | 160 | 100 | 60 | .625 | 1 / 6 | NLCS敗退 | 3勝4敗 | ||
1989 | 46 | 162 | 87 | 75 | .537 | 2 / 6 | ||||
1990 | 47 | 42 | 20 | 22 | .476 | 2 / 6 | 途中解任 | |||
1993 | CIN | NL 西 | 50 | 118 | 53 | 65 | .449 | 5 / 7 | 途中就任 | |
1994 | NL 中 | 51 | 115 | 66 | 48 | .579 | 1 / 5 | |||
1995 | 52 | 144 | 85 | 59 | .590 | 1 / 5 | NLCS敗退 | 3勝4敗 | ||
1996 | BAL | AL 東 | 53 | 163 | 88 | 74 | .543 | 2 / 5 | ALCS敗退 | 4勝5敗 |
1997 | 54 | 162 | 98 | 64 | .605 | 1 / 5 | ALCS敗退 | 5勝5敗 | ||
1999 | LAD | NL 西 | 56 | 162 | 77 | 85 | .475 | 3 / 5 | ||
2000 | 57 | 162 | 86 | 76 | .531 | 2 / 5 | ||||
2011 | WSN | NL 東 | 68 | 83 | 40 | 43 | .482 | 3 / 5 | 途中就任 | |
2012 | 69 | 162 | 98 | 64 | .605 | 1 / 5 | NLDS敗退 | 2勝3敗 | ||
2013 | 70 | 162 | 86 | 76 | .531 | 2 / 5 | ||||
通算 | 17年 | 2445 | 1372 | 1071 | .562 | 25勝26敗 |
- WS…ワールドシリーズ、LCS…リーグチャンピオンシップシリーズ、DS…ディビジョンシリーズ。
- 途中解任、途中就任の年度の順位はいずれも最終順位。
表彰
- MLB
- NPB
- ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1976年)
- ベストナイン:1回 (1976年)
記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:4回 (1968年 - 1970年、1973年)
- NPB
- 初出場:1975年4月22日、対中日ドラゴンズ1回戦(中日スタヂアム)、スコア4-4の6回表2死1,2塁で小川邦和の代打で出場
- 初打席:同上、6回表に星野仙一のカウント2ストライク1ボールでの4球目外角のフォークボールで見逃し三振(この打席では1回もスイングせず)
- 初先発出場:1975年4月26日、対ヤクルトスワローズ1回戦(後楽園球場)、3番・三塁手として先発出場
- 初安打:1975年4月27日、対ヤクルトスワローズ2回戦(後楽園球場)、6回裏の来日10打席目に松岡弘から左翼フェンス直撃二塁打
- 初本塁打・初打点:同上、9回裏に石岡康三から左越サヨナラソロ
背番号
- 6 (1965年、1973年 - 1975年途中)
- 15 (1966年 - 1972年、1977年 - 1978年途中、1993年 - 1997年、1999年)
- 5 (1975年途中 - 1976年、1984年 - 1990年、2000年、2011年途中 - )
- 31 (1978年途中 - 同年終了)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Baseball-reference manager テンプレート:MLBstats
テンプレート:Navboxes テンプレート:1966 ボルチモア・オリオールズ テンプレート:1970 ボルチモア・オリオールズ テンプレート:1986 ニューヨーク・メッツ テンプレート:北京オリンピック野球アメリカ合衆国代表 テンプレート:ワールド・ベースボール・クラシックアメリカ合衆国代表監督
テンプレート:2009 ワールド・ベースボール・クラシックアメリカ合衆国代表- ↑ 『ベースボールマガジン』2013年3月19日号、ベースボール・マガジン社、43頁
- ↑ ロバート・ホワイティング/玉木正之『和をもって日本となす』角川文庫、1992年
- ↑ 「ジョンソン監督「星野はいい監督」」 日刊スポーツ(2008年8月23日)、2011年11月27日閲覧
- ↑ 「Johnson to manage Nats through this season」 ワシントン・ナショナルズ(2011年6月16日)、2011年11月27日閲覧。
- ↑ Davey runs away with NL Manager of Year honors
- ↑ Davey's confidence in players a hallmark of his legacy
- ↑ 蓮實重彦 「デイヴ・ジョンソンは美しかった」(『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』所収)
- ↑ 堀内恒夫 「多事正論」『週刊ベースボール』2011年11月28日号、ベースボール・マガジン社、雑誌20444-11/28、79頁。『ベースボールマガジン』2013年3月19日号、ベースボール・マガジン社、43頁
- ↑ 『ベースボールマガジン』2013年3月19日号、ベースボール・マガジン社、43-44頁