洲崎球場

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洲崎球場(すさききゅうじょう)は、かつて東京都江東区新砂一丁目付近(当時の東京府東京市城東区)に所在した木造の[1]野球場で、1936年に開場。

概要

日本プロ野球草創期、上井草球場と共に東京地区のプロ野球常打ち球場の一つとなっていた。一応は大東京軍の本拠地球場として建設されたが[2]、実際は当時フランチャイズ制が敷かれていなかったこともあり、東京巨人軍もよく試合をしていた。

大東京軍の球団常務だった鈴木龍二(戦後、セントラル・リーグ会長)の回顧録によると、もとは東京瓦斯の所有地であったという[3]

1936年10月13日[4] に3ヶ月の突貫工事で完成し、翌1937年には92試合もの試合が開催された。しかし、側にありカニが這いずり回っていたといわれ、満潮時にはグラウンドが海水につかってコールドゲームになることもしばしばあり[5]、環境的に良くなかったため、水道橋に後楽園球場ができると翌年1938年には僅か3試合の開催に激減した。結局、1943年頃解体された。

1945年第二次世界大戦終戦年)の地図には既に記載は無く材木置場となっていたといわれ、その後敷地の一部が帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄)に譲渡された。

洲崎球場で行われた試合の中では、1936年の巨人対タイガース沢村栄治景浦将が出場した優勝決定戦は語り草になっている。また、1937年7月17日イーグルス金鯱戦は観客僅か90人だったといわれ、ワースト記録として今なおプロ野球史に残るとされる。ただし、この日付で開催されたプロ野球はイーグルス対大東京戦(ダブルヘッダー)であり、今ひとつ信ぴょう性のある話とは言えない。 川上哲治のプロデビュー戦もこの球場であった。 近くに洲崎遊郭(洲崎パラダイス)があり、プロ野球選手も試合後などに良く通っていたと言われる。

所在地

プロ野球草創期を記録・回想する多くの文章に登場する球場であるが、あまりにも周囲が変貌したためか、正確な所在地の特定は長らく困難とされていた。雑誌『野球小僧』の企画によって文献などの調査が行われ、大体の位置が判明した。2005年2月に、江東区役所江東区新砂一丁目2番8号付近に記念碑を建てた。

  • 当時書かれたいくつかの文章で、市電(都電)に乗って見に行ったとの記述が見られる。判明した所在地から推測すると、最寄り停留所は市電と城東電軌の東陽公園前電停(現在の東京メトロ東西線東陽町駅の位置)であり、市電と城東電軌の洲崎電停からは若干距離があった。
  • 鈴木龍二によると、大東京軍は深川不動尊の脇に合宿所を借りており、本球場で試合が終わると洲崎電停からユニフォームのまま市電に乗って帰っていたという[6]
  • 野球評論家の越智正典は著筆の中で「門前仲町から現在の東西線木場駅の先まで歩き、左手に汽車工場平岡工場東京製作所)が見え始めるとその手前を右に折れ、運河に架かる橋を渡ると、ようやくそこが洲崎球場であった」と記している。平岡工場は1901年に汽車製造と合併してその東京支店となり、場所も1931年に当初の地から洲崎近くに移転していたが、「平岡工場」の名前が通称として残っていたものと思われる。
  • 近所に洲崎遊廓があったことが有名であり、隣接地にあったと誤解されがちであるが、実際には幾分離れた場所にあった。なお、大下弘への追悼文で「選手達が球場入りするとき、彼が遊廓の二階から手を振っているのが見えた。洲崎球場は便利であった」との記述がされているが、大下のプロ入りは戦後であり、時代考証からいっても追悼文の筆者の勘違いと思われる。
  • 多くの記述で、埋め立て地にあったとされている。

参考文献

脚注

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関連項目

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※球団消滅時の本拠地は衣笠球場
  1. 巨人が初V決めた幻の球場、会社員が模型で再現 YOMIURI ONLINE(読売新聞 2013年12月2日 夕刊14面)
  2. 20世紀遺跡:近現代史をめぐる/32止 東京・洲崎球場跡 毎日新聞 2013年3月20日 東京朝刊
  3. 鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』恒文社、1984年、P39 - 40。
  4. 大修館書店刊「近代体育スポ-ツ年表1800-1907」164
  5. 一例として、1938年3月15日の巨人対名古屋金鯱軍ダブルヘッダー第二試合が満潮のためにコールドゲームとなっている。出典:大修館書店刊「近代体育スポ-ツ年表1800-1907」164ページ
  6. 『プロ野球と共に五十年(上)』P43。