中村勝広
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Infobox baseball player 中村 勝広(なかむら かつひろ、1949年6月6日 - )は、千葉県山武郡九十九里町出身の元プロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者、野球評論家。愛称は「カツ」「カッちゃん」[1]。
2012年9月5日より、プロ野球阪神タイガースの取締役ゼネラルマネージャー(GM)を務めている。
目次
来歴・人物
プロ入りまで
成東高校では、テンプレート:By夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗退。1年下のチームメートに藤田康夫投手がいた。早稲田大学教育学部体育専修へ進学。東京六大学リーグでは、谷沢、荒川らのいたテンプレート:By秋季リーグで優勝を経験したが、自身の活躍の機会はなかった。その後は優勝から遠ざかるが、4年生のテンプレート:By秋季リーグでベストナイン(二塁手)に選出されている。早大では主将を務め、プロ入り当時から将来の阪神の指導者として嘱望されていた[2]。リーグ通算52試合出場、172打数51安打、4本塁打、33打点、打率.297[2]。
現役時代
1971年のドラフト2位で阪神タイガースに入団。1年目から頭角を現し、同年のドラフト1位の山本和行、3位の望月充の活躍と合わせて「久々のルーキー豊作年」といわれた[1]。3年目のテンプレート:Byには引退した安藤統男に代わり正二塁手となる。以降テンプレート:Byまでレギュラーの座を確保、堅実な守備で1970年代のチームを支えた。また、1978年に残したシーズン守備率.995は当時の二塁手の日本記録[2][3]である。テンプレート:Byに定位置を榊原良行に譲り、一塁手としても起用されるが、出場機会は大きく減少する。テンプレート:Byには岡田彰布やヒルトンが入団したこともあり、コーチ兼任となった[4]。テンプレート:By限りで現役引退、コーチ退任。
引退後
テンプレート:Byからテンプレート:Byまで阪神二軍監督を務め、テンプレート:Byにはウエスタン・リーグ優勝している。テンプレート:Byは作戦守備走塁コーチ(途中からヘッド格)に就任するも、村山実監督と衝突して1年で辞任。テンプレート:Byに毎日放送(MBS)の解説者、スポーツニッポンの評論家に就任。
1989年に村山が阪神監督を辞任した後、後任の候補に挙げられていた一枝修平が監督指名を辞退する[5]。この時に中村のファーム監督時代のリーダーシップが高く評価され、後任の阪神監督に抜擢された[6]。テンプレート:By、テンプレート:Byのチーム成績は最下位、同一監督指揮下での2年連続の最下位は球団史上初だった[5][7]。テンプレート:ByにAクラスの2位に浮上させるが、テンプレート:By以降Bクラスが続きチームが再び低迷。テンプレート:By7月23日限りで途中休養、藤田平二軍監督が代理監督となった。シーズン終了後、辞任した。
その後、テンプレート:Byからテンプレート:ByまでMBS解説者・スポニチ評論家を務める。そのかたわら、テンプレート:Byからプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに参加。
2003年秋、オリックス・ブルーウェーブの取締役常務兼GMに就任。 球団再編を経て、テンプレート:Byシーズン終了後、仰木彬監督の勇退により、 後任として宮内義彦オーナーの一声によってオリックス・バファローズの監督に就任。11年ぶりの現場復帰となった。同時に常務職を降りる。
テンプレート:By、シーズン5位という成績に終わり、不振の責任を取る形で1年で辞任。その後も球団に残り、シニア・アドバイザー(SA)を経て球団本部長に就任し、テンプレート:Byからは取締役も兼任しテンプレート:Byまで務めた。オリックス球団本部長退任後のテンプレート:ByからMBS解説者・スポニチ評論家に復帰。
テンプレート:By8月、阪神が下位に低迷するチームを立て直すため、中村に球団初となるGM就任を要請[8][9]、8月28日に中村本人がGM就任を受諾する意向を明らかにした[10]。同年9月5日、GM就任が正式に発表された[11]。
プレースタイル
現役時代の中村は主に一番打者を務め[3]、榊原良行と合わせた一・二番打者コンビとして売り出されたこともあった[1]。テンプレート:Byには、一番打者として全試合出場を果たした[12]。長打力はそれほど高くは無かったが、打席では粘りを見せた[1]。1975年にはシーズン初回先頭打者本塁打6の球団記録を樹立、1972年に阪急ブレーブスの福本豊が記録した当時の最多記録8に次ぐ数値だった[13]。
また、堅実な守備にも定評があった[2][12][4]。1975年6月4日の対ヤクルト戦では、1試合11捕殺の当時の日本記録[6](2013年9月18日に本多雄一が12補殺記録)を残し、後に木下富雄、岡田彰布、小坂誠、田中浩康が並ぶも現在もセントラルリーグの同記録保持者である。
監督・GMとしての評価
阪神監督
テンプレート:Byから阪神監督に就任。長期政権となることを前提とした起用であり[14]、堅実性を見込まれてのチームの立て直しを期待されていた[15]。同年は2年ぶりの最下位に終わり、オフに実行したトレードで獲得した選手たち(ダイエーから西川佳明、藤本修二ら、ロッテから高橋慶彦)は翌テンプレート:Byに期待に応える成績を残せず、2年連続の最下位に終わる。なお、ダイエーに移籍した大野久は盗塁王に輝き、池田親興も中継ぎで活躍した。
1992年には外野守備走塁コーチ三塁担当兼作戦コーチとして島野育夫が就任。同年から甲子園のラッキーゾーンが撤去されたため、従来の打撃重視の戦術から、投手を中心とする守備重視の戦術に転換する[14]。中村は新庄剛志の素質を早くから見抜き、この年の初スタメンで初本塁打を放って以降ほぼレギュラーとして起用した[16]。この年は仲田幸司、湯舟敏郎、中込伸、野田浩司ら投手陣の活躍と、新庄、亀山努の台頭で優勝争いの輪に入り、9月上旬にそれまで首位を走っていたヤクルトの9連敗、阪神の7連勝で一気に首位に躍り出た。しかし前半戦で活躍したストッパーの田村勤が酷使により故障で離脱した上、これまで快進撃を支えた若手が重圧で不振に陥ったため、九分九厘手にしていた優勝をヤクルトに明け渡す。また、10月7日にヤクルトとの直接対決(対ヤクルト25回戦)で立ち上がりの悪い湯舟を2点リードの9回1死一・二塁という場面で登板させて、逆転サヨナラ負けを喫した采配に非難が集まった。この年のオフに放出した藤本と金森栄治は、それぞれ西武、ヤクルトで復活を果たした。また、若手を積極的に起用する采配に対しても、ベテランの岡田彰布は自身の代打に亀山を起用したことに不満を抱いた[5]。また、2位という順位にもかかわらず、後年に「チーム作りの方向性が見えていなかった」という指摘が出されている[15]。
V逸に関しては「リーグ防御率1位の投手力と、リーグ得点最下位の打撃力」という極端なチーム構成、残り15試合中を4勝11敗、うちビジター13試合で3勝10敗(うち7試合が神宮球場でのヤクルト戦)という日程の影響が大きく、1990年代の阪神は得点力不足と投手力とのバランスに苦慮することとなった。
テンプレート:Byは貯金と借金が逆転し、63勝67敗の4位に終わる。得点力不足を解消するため、野田とのトレードでオリックスから松永浩美を獲得。トレード当初の評価は「前年の4番手の投手で、走攻守に定評があるものの、言動からチーム内で評価が低下していた名三塁手を獲得できた」といったものだったが、野田は新天地で覚醒、最多勝(17勝5敗、防御率リーグ3位)を獲得、以後数年オリックスのエースとして活躍。対して松永は80試合の出場に終わり、さらに阪神ファンのバッシングもあり1年限りでFA宣言しダイエーに移籍した。トレードの成果や打撃力重視の選手起用もあり得点力は相対的に4位に上昇したものの、前年の投手陣が揃って不調、チーム防御率は1点以上悪化(リーグ5位)した。
テンプレート:Byは前半独走していた巨人が失速したこともあり、8月終了時点で全チームに優勝の可能性があった。阪神は9月14日終了時点で60勝58敗で3位につけていたが、翌日から残り12試合を7連敗を含んで2勝10敗と転げ落ち、最終的にヤクルトと同率の4位に甘んじる。藪恵壹の台頭や、オリックスから移籍した古溝克之のストッパー定着などもありチーム防御率はリーグ2位に盛り返したが、打線はオマリーとFA移籍した石嶺和彦以外に得点源がなく、オフにはオマリーが打点の少なさを理由に解雇される[17]。
1995年もFAで山沖之彦を獲得したが、一軍で登板することなく同年限りで引退した。一方、放出したトーマス・オマリーはヤクルトで大活躍してリーグ優勝、さらには日本一に大きく貢献し、同年のセ・リーグ、日本シリーズのMVPに輝いた。阪神は開幕から5連敗を喫するなどして、中日と最下位を競った。7月の球宴前のヤクルト・巨人・広島を迎えての甲子園9連戦が0勝8敗1中止、うち完封負けが6度という惨状の中、中村は7月23日にシーズン途中での休養を宣言した。
休養に先立って、自力優勝の可能性が消えた同年7月17日に、球団社長・三好一彦と緊急会談したオーナー・久万俊二郎が、記者団に対して「彼の采配はスカタンですな」と発言し、これが中村の辞意につながったとされる[14][15][18][19]。
監督時代の中村に対するファンの反応は決してよいものとはいえず[2]、負けが込むと試合中に「暗黒の使者 不要」というプラカードを掲げるファンが現れたりするなどした[20][21]。
阪神の球団史上、6シーズン連続で指揮を取った監督は2014年時では中村が唯一である。
オリックスGM
中村は村松有人、菊地原毅らチームの中心となる選手の補強に成功し、成果を上げた。また、「夢や憧れだけでプロに入団させるわけにはいかない。本人のためにも、チームのためにもならない」として、2000年から続いていたいわゆる「契約金ゼロ枠」を廃止した(オリックス・バファローズ#契約金ゼロの新人選手参照)。
オリックス監督
2006年のオリックス監督就任にあたっては、春季キャンプでセカンドの平野恵一をセンターに、サードを任されていた後藤光尊を二遊間にコンバートし、清原和博と中村紀洋の加入に備えた。「かつての巨人のようなチームが2つできた」とコメントするも、中村はキャンプ中に故障。シーズンに入っても清原、中村は故障でたびたび戦線離脱した。また、クリフ・ブランボーとカリーム・ガルシアが不調、新外国人のジェイソン・グラボースキーも結果を出せず、ミックスモダン打線と名づけられた強力打線の構想が瓦解した。
交流戦前後までは3位をキープしていたが、上記の選手や谷佳知など主力選手の不振・離脱、先発投手陣の不振、終盤の北川博敏の故障離脱など、チームが不調に陥った。また、「不調のベテランを起用し、好成績を残している若手を主軸で起用しない」などと批判を受けた。8月下旬、故障者の多さを理由に、宮内オーナーは一度は続投を匂わせたが、その後の対楽天3連戦で、パ・リーグチーム初の対楽天戦カード3連敗を受けて「予想以上に弱い」と発言、進退は白紙化される。9月下旬時点で、最下位楽天とのゲーム差が徐々に縮まり、最下位転落の可能性もある危機的状況に陥り、5位の座を死守したが、9月27日のシーズン最終戦後に成績不振の責任を取って監督辞任を発表した。
オリックス球団幹部
2007年に監督就任したテリー・コリンズは常々「足を使った機動力野球をやりたい」と語っていたが、コリンズ在任中にフロントが獲得したのはアレックス・カブレラ、古木克明、濱中治など、機動力野球とはほど遠い長距離打者ばかりであった。しかしタフィ・ローズ、カブレラは3番、4番で結果を残し、2008年に9年ぶりのAクラス入り(2位)に貢献した。
2007年オフに福岡ソフトバンクホークスと二重契約が報じられたジェレミー・パウエルの問題について、中村はパシフィック・リーグ会長の小池唯夫と会談し、「事実上の出場停止処分を3か月から1年間に延長すれば、ソフトバンクとの契約を優先する」という勧告を受け入れる妥協案を受け入れる事を表明した[22]。
球団本部長在任中は、背番号を決める権限を持っており、清原が着けていた「5」とイチローが着けていた「51」を功績を讃えて欠番にする等のこだわりを持っていた。
2009年はローズ、カブレラ、後藤、グレッグ・ラロッカといった主力選手の怪我の多発や、投手陣では前年に新人王を獲得した小松聖や加藤大輔などの不振[23]が原因で再びチームが低迷し、最終的に最下位に沈んだため、その責任を負う形でシーズンの終了を待たずに、同年9月30日をもって球団本部長を退任した(事実上の解任)。
なお、この時期は、濱中、吉野誠、金澤健人、ライアン・ボーグルソンなど阪神の選手を獲得することが多かった。また、阪神監督時代同様に放出選手の移籍先での活躍が目立った。2006年オフにトレードで巨人に放出した谷はセ・リーグ3位の高打率を残し、5年ぶりの巨人優勝に大きく貢献した(2014年に復帰)ほか、ロッテに放出した早川大輔は自身初の規定打席に到達し、不動の2番打者として大活躍した。2007年オフには濱中獲得のためにトレードで平野を阪神へ放出したが、平野は翌年カムバック賞を受賞、2010年にはリーグ2位の高打率.350を記録し、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞するなど大活躍した(のちに復帰)。
この期間にオリックスはドラフト会議で四国・九州アイランドリーグから梶本達哉(2007年育成1位)と西川雅人(2008年5位)を指名し、いずれも入団している。
阪神GM
中村が就任する際のインターネット調査において、チームが「まったく強くならない」と答えたユーザーの数は73.3%にのぼった[24]。作家の山田隆道はファンの反応について、「異常なまでの拒否反応を示している」「多くの阪神ファンにとって中村GMは暗黒時代の象徴的人物に見える」と評している[25]。
2013年は、西岡剛、福留孝介と2人のメジャー経験者を獲得。西岡は1番打者として活躍を見せたものの、福留は故障続きで年間通して試合に出場できなかった。また、前年不振だったクレイグ・ブラゼルを解雇し、その後釜としてブルックス・コンラッドを獲得したが、本塁打・打点共に0のまま1年で退団した。一方、ブラゼルはシーズン途中にロッテが獲得し、62試合で11本塁打を放つ活躍を見せた[26]。この年、阪神は優勝した巨人には12.5ゲーム差をつけられた。
また、オフにはクローザ―候補として、韓国プロ野球・三星ライオンズから呉昇桓を獲得したが、外国人枠の関係で先発陣の一角だったジェイソン・スタンリッジを解雇した。
ドラフト会議でのくじ運
阪神監督時代に1989年のドラフトで8球団競合の野茂英雄、1990年のドラフトで8球団競合の小池秀郎、1992年のドラフトで4球団重複1位の松井秀喜の抽選を外している。なお、1991年のドラフトでは4位指名で三井浩二(この時はダイエーの指名を拒否し、2000年のドラフトで西武に逆指名入団)の抽選を外しているが、その時のいわば「はずれ4位」で獲得したのが桧山進次郎である。
オリックスGM時代の2005年のドラフトにおいて、辻内崇伸の抽選の際、はずれクジを当たりクジと勘違いして話題になった。この年のクジは、はずれにも認印が押してあるデザインだったため、ソフトバンクの王貞治監督も同様の勘違いをし、翌年以降デザインが刷新された。
人物
野球
誠実な性格で[6]、冷静な判断力を持つ人物だと言われている[1]。選手時代の寮生活でも、真面目な優等生として評価が高かったという[4]。現在低迷しているオリックスでもGMとして2位を達成しているが、前述のとおり「暗黒の使者」(1987年から2001年までを暗黒時代とした場合、吉田(第2期)・村山(第2期)・中村・藤田・吉田(第3期)・野村と、5人中3人目の監督である)などと、暗黒時代を呼び込んだ存在のように位置づけられたり、本項でも2013年にチームを2位に引き上げたことなど、成功事例に関しては全く記されていないように、ファンの評価が(憎悪に近いほど)低い。
富裕層出身、早大出身のバイプレーヤー、二軍監督からのたたき上げなどといったイメージが手伝ってか、「実話」「真相」などと題し人間関係を憶測するような雑誌では「典型的なイエスマン」扱いされることが多かったようである。一例をあげると、宝島社『別冊宝島 プロ野球<ウラ読み>読本』(1998年)のp.207には、「久万が彼(中村)には調整能力があると評価した。これは球団とマスコミとの間に軋轢を起こさなかったことを指すという」などといった記述がある。
作家の山田隆道は「多くの阪神ファンにとって、中村GMは暗黒時代の象徴的人物に見える」「ドラフトや補強で当たり外れが多い」ものの、「他の監督が最下位、たまに6位だったことを考えれば、はるかにマシな監督である」「阪神時代・オリックス時代ともに課題の世代交替も促進している」と評し、異常なまでの拒否反応の原因としては「6年という長期政権だった」「かえって諦めの境地に至れなかった」「他の監督が大選手なので、ファンもマスコミも批判しづらい」ことなどをあげている。「一番怖いのは批判の矛先がGMと監督に集中すること」としながらも、自らも「阪神ファンとしての自分の正直な本音を言えば、縁起の悪い人がトップにいることに不安を感じる」と語っている[27]。
契約金ゼロ枠の否定など、シビアな野球観を持っている。関西独立リーグの神戸9クルーズに所属していた吉田えりについて、2009年のリーグ開幕戦で登板した際に「万が一のことを考えると怖いし、バッターもやりにくい。話題をつくる狙いは分からないではないが、いかがなものか」と述べた[28]。
私人として
実家は裕福な網元で当時の河西俊雄スカウトが指名挨拶に向かおうとした際に駅で外車で出迎えをされたという[29]。
好物はシュークリームでインタビューでも認めていた。また仁丹も愛好しており、阪神監督時代、広告に起用されたことがある。
オリックス在籍中、チーム愛称を「バファローズ」と発音せず、ずっと「バッファローズ」と言っていた。
タレントの小倉優子は遠戚にあたるが(祖父同士が従兄弟)、タレント活動をしていることを知らなかった(さんまのSUPERからくりTV2008年3月8日放送分より)。対面したのは2009年6月が初めてであり、普段はまったく交流がなかったようである[30]。また、元プロサッカー選手の関隆倫も遠縁の親戚にあたる(小倉のいとこ)。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 阪神 | 81 | 209 | 177 | 17 | 31 | 6 | 0 | 3 | 46 | 9 | 4 | 3 | 8 | 0 | 24 | 0 | 0 | 37 | 5 | .175 | .274 | .260 | .534 |
テンプレート:By2 | 74 | 200 | 162 | 18 | 33 | 7 | 1 | 2 | 48 | 9 | 3 | 3 | 7 | 0 | 30 | 0 | 1 | 39 | 3 | .204 | .332 | .296 | .628 | |
テンプレート:By2 | 112 | 362 | 307 | 41 | 71 | 11 | 3 | 11 | 121 | 34 | 8 | 3 | 4 | 1 | 47 | 3 | 3 | 65 | 1 | .231 | .338 | .394 | .732 | |
テンプレート:By2 | 130 | 577 | 475 | 79 | 133 | 19 | 2 | 16 | 204 | 43 | 12 | 8 | 8 | 0 | 91 | 1 | 3 | 72 | 3 | .280 | .399 | .429 | .828 | |
テンプレート:By2 | 128 | 558 | 469 | 85 | 123 | 28 | 5 | 13 | 200 | 35 | 17 | 7 | 11 | 1 | 74 | 0 | 3 | 83 | 7 | .262 | .366 | .426 | .792 | |
テンプレート:By2 | 119 | 468 | 388 | 65 | 94 | 15 | 2 | 12 | 149 | 27 | 15 | 7 | 13 | 2 | 59 | 0 | 6 | 67 | 9 | .242 | .349 | .384 | .733 | |
テンプレート:By2 | 103 | 384 | 320 | 53 | 80 | 13 | 0 | 11 | 126 | 30 | 15 | 6 | 5 | 3 | 54 | 1 | 2 | 48 | 3 | .250 | .359 | .394 | .753 | |
テンプレート:By2 | 61 | 218 | 189 | 18 | 53 | 10 | 0 | 5 | 78 | 21 | 0 | 1 | 6 | 4 | 19 | 1 | 0 | 19 | 2 | .280 | .340 | .413 | .752 | |
テンプレート:By2 | 71 | 126 | 108 | 9 | 25 | 6 | 1 | 3 | 42 | 9 | 0 | 1 | 1 | 0 | 17 | 2 | 0 | 17 | 4 | .231 | .336 | .389 | .725 | |
テンプレート:By2 | 30 | 18 | 15 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | .067 | .118 | .067 | .184 | |
テンプレート:By2 | 30 | 28 | 25 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .160 | .250 | .160 | .410 | |
通算:11年 | 939 | 3148 | 2635 | 386 | 648 | 115 | 14 | 76 | 1019 | 219 | 74 | 39 | 64 | 12 | 419 | 8 | 18 | 456 | 38 | .246 | .352 | .387 | .739 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By | 阪神 | 6位 | 130 | 52 | 78 | 0 | .400 | 36.0 | 135 | .252 | 4.58 | 41歳 | ||
テンプレート:By | 6位 | 130 | 48 | 82 | 0 | .369 | 26.0 | 111 | .237 | 4.37 | 42歳 | |||
テンプレート:By | 2位 | 132 | 67 | 63 | 2 | .515 | 2.0 | 86 | .250 | 2.90 | 43歳 | |||
テンプレート:By | 4位 | 132 | 63 | 67 | 2 | .485 | 17.0 | 86 | .253 | 3.88 | 44歳 | |||
テンプレート:By | 4位 | 130 | 62 | 68 | 0 | .477 | 8.0 | 92 | .256 | 3.43 | 45歳 | |||
テンプレート:By | 6位 | 130 | 46 | 84 | 0 | .354 | 36.0 | 88 | .244 | 3.83 | 46歳 | |||
テンプレート:By | オリックス | 5位 | 136 | 52 | 81 | 3 | .391 | 28.5 | 106 | .253 | 3.84 | 57歳 | ||
通算:7年 | 867 | 373 | 487 | 7 | .434 | Aクラス1回、Bクラス6回 |
- 1990年から1996年までは130試合制
- 2004年から136試合制
- 1995年はシーズン途中から休養。以降の監督代行は藤田平
- 通算成績は、休養した53試合を含めない
表彰
記録
- 初出場・初先発出場:1972年4月9日、対中日ドラゴンズ1回戦(中日スタヂアム)、1番・二塁手として先発出場
- 初安打:同上、8回表に水谷寿伸から左前安打
- 初打点:1972年4月19日、対ヤクルトアトムズ2回戦(明治神宮野球場)、4回表に渡辺孝博から適時打
- 初本塁打:1972年4月27日、対中日ドラゴンズ4回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に水谷寿伸からソロ
- 初盗塁:同上、8回裏に二盗(投手:三沢淳、捕手:木俣達彦)
- オールスターゲーム出場:3回 (1972年、1975年、1977年)
背番号
- 14 (1972年 - 1982年)
- 70 (1983年 - 1987年)
- 77 (1988年)
- 71 (1990年 - 1995年、2006年)
関連情報
出演番組
- 阪神監督退任後数年間は専属出演。その後オリックス球団本部長時代にゲスト解説という形で数試合担当したことがあったが、2010年から2012年8月まで専属出演に戻っていた。同年9月以降は阪神GM就任に伴い再びゲスト解説としての出演のみとなる。
アニメ作品
「新巨人の星」にて右投手として再起した星飛雄馬の最初の対戦相手として描かれている。
脚注
関連項目
テンプレート:阪神タイガース1971年ドラフト指名選手- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『阪神タイガース70年史』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、p.60
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 道頓堀野球倶楽部編『阪神タイガース猛虎列伝』(双葉社, 2008年9月)、pp.214-215
- ↑ 3.0 3.1 『阪神タイガース栄光の75年』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、p.61
- ↑ 4.0 4.1 4.2 『猛虎の70年』(ぴあ, 2005年9月)、p.181
- ↑ 5.0 5.1 5.2 『阪神タイガース70年史』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、p.76
- ↑ 6.0 6.1 6.2 『猛虎大鑑』(ベースボール・マガジン社, 2002年5月)、p.51
- ↑ 『阪神タイガース栄光の75年』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、p.74
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 12.0 12.1 『阪神タイガースクラシック vol.2 虎豪打列伝』(ベースボール・マガジン社, 2009年9月)、p.52
- ↑ 阪神タイガース編『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(阪神タイガース, 1991年3月)、pp.431-432
- ↑ 14.0 14.1 14.2 『実録猛虎伝説』(歴史群像シリーズ, 学習研究社, 2003年10月)、pp.51-52
- ↑ 15.0 15.1 15.2 『猛虎の70年』(ぴあ, 2005年9月)、pp.68-69
- ↑ 新庄カウントダウン 日刊スポーツ 2006年09月05日付紙面から
- ↑ 実際には「優良外人」であるあまりに年俸が青天井で上がってしまったため、と推測されている。
- ↑ オーナー「スカタンな采配や」衝撃的発言で辞任した中村監督
- ↑ 『阪神タイガース栄光の75年』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、p.77
- ↑ 虎党が金返せ!甲子園4万6千人怒り心頭(2/2ページ) サンケイスポーツ 2012年9月2日
- ↑ 「暗黒の使者 不要」のプラカードが掲げられた甲子園のスタンド サンケイスポーツ 2012年9月2日
- ↑ 実際にはパ・リーグ側が両球団の契約を無効にし、パウエルはソフトバンクに移籍が決定した。
- ↑ 一時期チーム防御率5点台だったこともあり、当時一軍投手チーフコーチだった佐々木修を二軍投手コーチに降格させている。
- ↑ 中村GMの就任で阪神は強くなる? Yahoo!意識調査
- ↑ 中村GM誕生で阪神ファンが抱える不安(1/2)Yahoo!スポーツ
- ↑ 阪神のギャンブル補強に感じる不安 思い出す中村GMの「勝ち運」の無さ スポーツナビ コラム 2013年12月4日
- ↑ 中村GM誕生で阪神ファンが抱える不安(1/2)Yahoo!スポーツ
- ↑ スポーツニッポン2009年3月28日
- ↑ 由倉利広『甲子゛園 阪神タイガース大事典』(中央公論新社, 1999年5月)、p.184
- ↑ ゆうこりんがオリックスの強力援軍に 日刊スポーツ 2009年6月22日
- ↑ 1990年からの阪神監督就任を記念して受賞され、九十九里町の町民栄誉賞第1号でもある[1]