小池秀郎
テンプレート:Infobox baseball player 小池 秀郎(こいけ ひでお、1969年3月18日 - )は、岐阜県羽島市出身の元プロ野球選手(投手)。
目次
来歴・人物
プロ入り前
長野県の武蔵工業大学付属信州工業高等学校(現東京都市大学塩尻高等学校)に野球留学したが、甲子園には出場できなかった。亜細亜大学ではテンプレート:By春季に東都大学記録となるシーズン111奪三振を記録し(テンプレート:Byに東洋大の大場翔太が115個を記録し更新)、大学選手権でも優勝。大学通算63試合登板28勝14敗、防御率1.45。最高殊勲選手に2度、最優秀投手に1度、ベストナインに2度選ばれ大学ナンバー1投手として注目された。また、大場が従来のリーグ記録とされていた松沼雅之(東洋大)の通算376奪三振を更新した時点で、小池が通算394奪三振を挙げていたことが判明し、訂正された。
同年のドラフトではドラフト前から在京志向と球団フロントの充実を理由として「西武、ヤクルト、巨人以外ならプロ拒否」を表明していた(学校関係者には「ロッテと阪神以外なら交渉に応じるつもり」と話している)。ドラフトでは巨人は元木大介を1位指名。西武とヤクルトは小池を1位指名し、更に阪神、ロッテ、中日、広島、日本ハム、近鉄の6球団も小池を1位で強行指名した。その結果、1989年の野茂英雄と並ぶ8球団競合指名となった。抽選によりロッテが交渉権を得たが、小池は入団を拒否。松下電器に入社し、野球部でプレーすることになった。またドラフト当日ロッテは当初湯舟敏郎を指名する意向だったが、監督だった金田正一がチーフスカウトが書いた提出用の用紙を取り上げて小池を指名したという逸話がある(金田は前年のドラフトでも小宮山悟を指名する意向だったフロントに反して野茂英雄を指名している。この時は結局野茂の抽選を外して小宮山を指名している)。
社会人時代は、故障をしてしまいプロからの評価を下げてしまった。2年後のテンプレート:Byのドラフトでは、小池はどの球団の指名でも入団する姿勢をとり、近鉄バファローズが1位指名。
近鉄時代
近鉄に入団後、テンプレート:Byにパ・リーグの最多勝投手となる。テンプレート:Byにはシドニー五輪の予選に日本代表選手として参加。
中日時代
テンプレート:Byに佐野重樹、善村一仁とともに門倉健、古池拓一、東瀬耕太郎との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍したが活躍はできず、テンプレート:Byに古巣・近鉄に復帰した。
近鉄復帰
以降、投球フォームをサイドスローにしたり、先発から中継ぎに転向するなど貴重なワンポイントとして活躍した。
楽天時代
テンプレート:Byからは分配ドラフトにより東北楽天ゴールデンイーグルスの所属となったが、目立った成績を残すことが出来ず、同年限りで戦力外通告された。
NOMOベースボールクラブ時代
2005年シーズンオフに楽天を解雇されて去就が注目されていたが、テンプレート:By3月、社会人野球のNOMOベースボールクラブにコーチ兼任投手として入団することが突如発表された。同年は古巣近鉄の本拠地大阪ドームでの第77回都市対抗野球大会阪和2次予選では対NTT西日本戦でリリーフで登板するものの、打ち込まれ敗戦投手になっている。また、関西ローカルの深夜のTV番組の企画で、ジャニーズの若手タレントに野球をコーチをする姿が放映された。
引退後
その後テンプレート:Byからは関西メディカルスポーツ学院でコーチを務めていた。
現在は近鉄時代に監督だった梨田昌孝が代表を務める芸能事務所トゥルーマサに所属。またNOMOベースボールクラブの理事も務める傍ら、プライベートトレーナーとして活動。大阪府内のトレーニング施設に専属トレーナーとして勤務している。
人物
1997年の最多勝獲得の影に、当時近鉄の投手コーチであった小林繁からの助言があり「投球時の左足踵を上げるフォームは意味をなさない様なので、止めた方がよい」という矯正の成果がある。
サイドスロー転向後のフォームは、右足を上げる際に両腕を斜め下方向に下げながら伸ばすため、お笑いコンビTIMの「命」というギャグのジェスチャーに似ていたので、このフォームを「命投法」と呼ぶアナウンサーもいた。このフォームについて本人は「かっこ悪いからいやなんですけどね」と語っていた。
ロッテ指名拒否
ロッテに指名された際には、学内に設けられた会場に集まっていた一般学生から落胆の声が上がり、その模様がテレビのスポーツニュースなどでそのまま放送された。同年のドラフトでヤクルトに3位指名された高津臣吾が「小池のことを考えると素直に喜べない」、同じくヤクルトに外れ1位で指名された岡林洋一(専大)が「僕は別にどの球団でも良かったので(小池の希望していたヤクルトに決まってしまって)小池に悪いな、と…」というコメントを残している。また小池は「同じ野球部で、高津君がヤクルトに指名(3位)されましたが、今は僕の分も亜細亜大学の名前をけがさぬよう頑張ってもらいたいと思います」とコメントしている。なお、小池のロッテ指名拒否以降、亜細亜大学からロッテにドラフト指名された選手は2012年現在までおらず、トレードでも与田剛と川本良平が入団したのみである。ただ、2012年3月と8月にロッテと亜細亜大学とのオープン戦が行われている。
ロッテを拒否した理由については後のインタビューで「ドラフト前に西武、ヤクルト、巨人以外ならプロ拒否と表明していて、それに理解を示したロッテがドラフト直前にうちは指名しませんと伝えてきたにも関わらず、いざ当日になってみると強行指名したからで、ロッテだけはどうしても嫌だった」と語っている。また後年には、プロ入りに傾いた時期もあったが、当時の新聞に「小池は金を積めば落ちる」という関係者のコメントが掲載されたことによって「金で動いたと思われる」ということでプライドが許さなかったと報道されている[1]。
また当時、亜細亜大学の矢野祐弘総監督はドラフト前に「ロッテは最も入れたくない球団」と発言していた。
千葉マリンスタジアムの登板でブーイングが起きることもあった(近鉄入団当初は、登板時に球場でロッテファンによる過激な横断幕が掲げられていたこともある)。小池のロッテ戦の通算戦績は8勝7敗。
社会人に進んでからは大学時よりも評価を落とす(高津はプロ入り後の小池に関して大学のときはもっと凄い投手だったと評している)。小池は「ドラフト後のごたごたで、いつでも、どこに行ってもマスコミがつきまとって数ヶ月間にわたり全く練習ができなくなってしまった」と主張した。近鉄入団時には「松下では誰にも世話にならなかった」と発言したとされる[1]。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 近鉄 | 27 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 2 | -- | .429 | 295 | 68.1 | 51 | 9 | 45 | 1 | 0 | 67 | 6 | 0 | 32 | 30 | 3.95 | 1.40 |
テンプレート:By2 | 19 | 12 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 0 | -- | .714 | 318 | 71.1 | 76 | 13 | 33 | 2 | 0 | 46 | 5 | 0 | 44 | 42 | 5.30 | 1.57 | |
テンプレート:By2 | 22 | 20 | 3 | 0 | 0 | 4 | 8 | 0 | -- | .333 | 551 | 130.0 | 126 | 16 | 51 | 1 | 1 | 99 | 7 | 0 | 55 | 51 | 3.53 | 1.36 | |
テンプレート:By2 | 21 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 300 | 69.2 | 69 | 17 | 30 | 1 | 1 | 54 | 5 | 1 | 48 | 46 | 5.94 | 1.42 | |
テンプレート:By2 | 27 | 27 | 6 | 3 | 0 | 15 | 6 | 0 | -- | .714 | 767 | 182.2 | 137 | 14 | 96 | 0 | 7 | 136 | 6 | 0 | 68 | 60 | 2.96 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 18 | 17 | 1 | 1 | 0 | 7 | 3 | 0 | -- | .700 | 374 | 78.0 | 99 | 21 | 51 | 0 | 2 | 54 | 2 | 0 | 60 | 59 | 6.81 | 1.92 | |
テンプレート:By2 | 23 | 23 | 2 | 0 | 0 | 6 | 11 | 0 | -- | .353 | 638 | 149.0 | 135 | 19 | 69 | 0 | 3 | 96 | 7 | 0 | 69 | 67 | 4.05 | 1.37 | |
テンプレート:By2 | 中日 | 13 | 12 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 259 | 58.0 | 52 | 5 | 36 | 2 | 1 | 47 | 4 | 0 | 32 | 27 | 4.19 | 1.52 |
テンプレート:By2 | 近鉄 | 14 | 8 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | -- | .600 | 225 | 50.0 | 61 | 9 | 17 | 2 | 0 | 42 | 1 | 0 | 36 | 33 | 5.94 | 1.39 |
テンプレート:By2 | 65 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 212 | 52.1 | 33 | 3 | 27 | 2 | 3 | 57 | 0 | 0 | 23 | 22 | 3.78 | 1.15 | |
テンプレート:By2 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 132 | 27.0 | 39 | 3 | 12 | 1 | 3 | 13 | 1 | 0 | 20 | 19 | 6.33 | 1.89 | |
テンプレート:By2 | 楽天 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 42 | 7.2 | 12 | 0 | 4 | 0 | 1 | 4 | 2 | 0 | 7 | 6 | 7.04 | 2.09 |
通算:12年 | 309 | 131 | 13 | 4 | 0 | 51 | 47 | 2 | 0 | .520 | 4113 | 944.0 | 890 | 129 | 471 | 12 | 22 | 715 | 46 | 1 | 494 | 462 | 4.40 | 1.44 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最多勝:1回 (1997年)
表彰
- 月間MVP:1回 (1997年9月)
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1999年)
- 投手記録
- 初登板:1993年4月11日、対日本ハムファイターズ2回戦(藤井寺球場)、7回表に2番手として救援登板、1回1/3を2失点
- 初奪三振:同上、7回表に大島康徳から
- 初セーブ:1993年4月20日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(日生球場)、7回表1死に2番手として救援登板・完了、2回2/3を無失点
- 初先発:1993年5月4日、対西武ライオンズ4回戦(西武ライオンズ球場)、6回1/3を3失点で敗戦投手
- 初勝利:1993年6月20日、対日本ハムファイターズ12回戦(藤井寺球場)、3回表に2番手として救援登板、5回無失点
- 初先発勝利:1994年7月13日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(石川県立野球場)、7回2失点
- 初完投:1995年7月6日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(千葉マリンスタジアム)、8回2失点で敗戦投手
- 初完投勝利・初完封勝利:1997年4月10日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(大阪ドーム)
- 打撃記録
- 初安打:2000年4月22日、対横浜ベイスターズ4回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に野村弘樹から左前安打
- 初打点:2000年8月9日、対広島東洋カープ18回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に山内泰幸から中前適時打
背番号
- 23 (1993年 - 1999年)
- 25 (2000年 - 2001年)
- 34 (2002年 - 2005年)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:パシフィック・リーグ最多勝投手 テンプレート:近鉄バファローズ1992年ドラフト指名選手 テンプレート:ロッテオリオンズ1990年ドラフト指名選手