小宮山悟
テンプレート:Infobox baseball player 小宮山 悟(こみやま さとる、 1965年9月15日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球評論家、日本ソックモンキー協会有限事業責任組合理事、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事(非常勤)。
制球力が非常に高いことから「投げる精密機械」、「ミスターコントロール」などと呼ばれた。風避けのアイウェアと独特のセットポジションが特徴。
目次
来歴・人物
柏市立柏第四中学校から芝浦工業大学柏高校へ進学(併願した千葉県立柏南高等学校には不合格。当時の柏南の野球部員は、柏四中から有名なバッテリーが入ると期待していたというが、結局捕手のみの入部となった)。テンプレート:要出典
芝工大柏高校卒業後、二浪して早稲田大学教育学部に入学し、野球部に入部。2年の秋からエースの座に就く。通算52試合に登板し20勝10敗、防御率1.85、165奪三振。慶應義塾大学の大森剛との対決は早慶戦の華と呼ばれた。大森は、3年の春にはリーグ打率の更新、秋には2シーズン連続首位打者が期待されていたが、そのいずれも小宮山によって阻止されている。しかし、その秋の早慶戦ではチームの勝利優先のために大森を敬遠、慶應側スタンドからの野次に思わずマウンドで涙したという逸話も残っている。4年次には主将を務めている。テンプレート:Byのドラフト1位でロッテオリオンズに入団。
ルーキーイヤーのテンプレート:By、勝ち星は6勝ながらいきなりチーム最多先発登板と最多の投球回数達成する。ルーキーながら日米野球の代表選手に選ばれ、後にチームメイトになるフリオ・フランコと対戦する。
テンプレート:By、千葉移転前のロッテオリオンズ最後の開幕投手を務め、シーズン初の二桁10勝を挙げる。以降3年連続して開幕投手を務める。
テンプレート:By、開幕戦の完投勝利を皮切りに、開幕から自身登板時に6試合連続完投勝利というプロ野球史上初の記録を達成(その後6連敗を喫して6勝6敗となるなどして、シーズン成績は12勝14敗で負け越し)。
テンプレート:By、勤続疲労により不調と怪我にあい2完封するものの、プロ四年間で最悪の成績に終わる。
テンプレート:By、前年とは打って変わって、プロ通算でも最高の勝率を記録し、この年のロッテ三本柱の一角を担い90年代唯一のAクラス入りに貢献する。
テンプレート:By、シーズン通して先発は担ったものの、前年とは正反対の成績に終わってしまい、隔年エースが脱却できずにいた。
テンプレート:By、3本柱だった、伊良部秀輝、エリック・ヒルマンの退団もあり、4年ぶりに開幕投手を務め、開幕から自身登板時に6連勝を記録。同年はキャリアハイの防御率2.49で最優秀防御率のタイトルを獲得。翌テンプレート:Byも開幕投手を務めた。
テンプレート:By、FA権を行使する意向を球団に伝えたところ、同一リーグに移籍しないことを条件に、球団からはFA補償のかからない自由契約を提案される(実質戦力外通告だったと言われ、一方的に自由契約としたという意見もある)。紆余曲折あり、様々な憶測を呼んだが、メジャーリーグ移籍を視野に入れ、横浜ベイスターズに移籍。テンプレート:Byは自身7度目の開幕投手を務め、チーム最多のシーズン12勝を挙げる。
テンプレート:By、トニー・アタナシオを代理人としてFA権を行使し、12月1日にニューヨーク・メッツと1年50万ドルで契約(2年目は球団オプション)。『和製マダックス』と地元紙に評価され、メジャー初登板も9球で三者凡退に抑えるが、メジャーの打者のパワーに圧倒されて打ち込まれる事が多くなり、結局メジャーでは1勝もできずに帰国。
テンプレート:Byはメジャーから声がかからず、国内球団にも横浜以外は同年11月30日まで獲得にはFA補償が必要なため復帰できなかった。この年は「現役投手」との珍妙な肩書きで野球解説者を務める傍らトレーニングを続ける。
テンプレート:By、ロッテに復帰。テンプレート:Byは自ら敗戦処理を買って出て、チーム31年ぶりとなるリーグ優勝(シーズン勝率は2位、プレーオフで勝利)・日本一を支える。同年以降は自軍が大量リードされている展開でのロングリリーフがほとんどとなった。これは監督のボビー・バレンタインの「将来性のある若い投手に敗戦処理をさせても意味がない」との持論が反映されたものであった。このような起用法に、自身のプライドから異を唱えるベテラン投手もいる中で、小宮山は自分の役目を淡々と担っていた。敗戦処理だけでなく、延長戦など緊迫した場面を任される事も多かった。これも「若い投手がサヨナラ負けで大きなショックを受けてしまうのは良い事ではない」という監督の持論によるものであった。
テンプレート:By4月21日の対楽天戦に5回途中から登板して好リリーフを見せ、3年ぶりとなる白星を挙げた。続く24日の対日本ハム戦(22日は雨天中止、23日は試合なし)では7回2死満塁、同点に追いつかれた場面で登板し、3球でアウトを奪う。8回には自軍が逆転し、わずか3球で2試合連続の勝利投手となった。40代の投手が2試合連続で勝利投手となったのは、59年ぶり2人目(2リーグ制以降では史上初)という珍記録であった。同年は自己最多となる41試合に登板。同年に吉井理人が現役引退した事から、パシフィック・リーグ最年長投手となった。
テンプレート:Byは中日の山本昌が持つ最年長セーブ記録の更新を(半分冗談ながら)目標に掲げ臨む。しかし、早々に1勝を挙げたものの防御率10点台と低迷、5月に二軍落ちとなった。そして9月20日、シーズン終了を以ての引退を表明した[1]。球団はコーチの席を用意して慰留したが“外部から野球界に貢献したい”と辞退し退団を決定。10月6日、千葉マリンスタジアム最終戦の対楽天戦、5-2で迎えた9回表2死走者二塁で登板し、代打セギノールを右飛に打ち取り試合終了。2009年当時としては史上最年長記録(44歳21日)となるセーブ[2]を、たった1球で達成(パ・リーグ史上24人目、26例目)し、現役生活を締めくくった。試合後、雨が降りしきる中でバレンタインの監督退任式に先立っての引退セレモニーが行われた。
11月23日、ザ・プリンスパークタワー東京(コンベンションホール)で開催されたチャリティフォーラム 「ありがとう ボビー・バレンタインさん 小宮山 悟さん 〜We Love Baseball〜」において、史上最年長セーブ記録を達成し2009年最後の登板となった試合で着用した帽子、ユニフォーム上下、グラブに「史上最年長セーブ記録達成、2009年10月6日」と書き加え、チャリティに提供した。
2006年に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学し、投球フォームに関するバイオメカニクスを専攻。学生とプロ選手の二足の草鞋を履いた。2008年に修士号を取得。学位論文は「野球競技におけるゲーム分析結果の試合への活用方法」。
2010年からは野球解説者として活動し、テレビ東京(2011年まで)、J SPORTS(2011年から2012年まで)、 FOX SPORTS ジャパン(2013年から)、NHK BS1のメジャーリーグ中継(2012年から)で解説を務めるほか、日刊スポーツの野球評論家も務めている。
2014年、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事(非常勤)に就任[3]。
プレースタイル
投手としては非常に多彩な球種を持つ部類に入る。ストレートは140km/h以下で決して速くはないが、後述の「シェイク」をはじめ、スライダー、カーブ、スプリッター、チェンジアップ、カットボール、シンカー、シュートなど、ほぼ全球種を使いこなす。「(ナックル以外の球種は)投げようと思えばすぐに投げることができた」と、シェイク開発のエピソードを語る際にコメントを残している。 多様な球種をもちつつ、制球力も非常に優れており、両者が噛み合うときは相手チームがどのような強力打線であっても、緩急巧みに翻弄する鮮やかなピッチングを見せた。制球がたまに混乱し、力押しのピッチングとなると下位打線にも打ち込まれることも少なくなかった。このように、豊富な球種とコントロールで打者を打ち取る投手というイメージが強いが、プロ入りして4~5年ほどは荒れ球を武器としていたタイプで、球速も140km/h半ばから後半まで計測していた。
魔球「シェイク」
2005年に新魔球「シェイク」を開発した。シェイクはボールを人差し指と中指の2本の指ではさみ、通常の投球フォームとは明らかに違う、球を押し出すようなフォームで投げる。フォームが違うことや揺れることはナックルに類似するが、球速が80km/h程度まで抑えられている。当時の監督、ボビー・バレンタインは、「誰もあの球は打てないだろう。スネークのようにシェイクする。左右だけでなく、前後にも動くようだ。振ろうとするとタイミングが違うので腰を痛める」と、ナックルとは違い、独特な変化をすると証言している。
交流戦では古田敦也がこの球を空振りした。2006年には日高剛に対し4球連続でシェイクを投じ空振り三振に仕留め、球場を湧かせた。 このシェイクは、千葉マリンスタジアム特有の浜風で揺れていると言われることがあるが、2005年の2月21日の鹿児島キャンプで、シェイクを原井和也に使用し、捕邪飛に打ち取っている。また、同日、里崎智也からも空振りを奪っている。
しかし、独特の握りをすることから、投げ損じることもしばしばあり、2005年のシーズン中、投げ損じたシェイクがど真ん中のスローボールとなり、西武の中村剛也に痛烈に本塁打された。小宮山は後に「揺れなかったのでアレはシェイクではない」と語っている。
2006年、シェイクと同じフォームからおよそ110km/hの速球を投げ込む「フェイク」を開発している。これは、ゆったりとした独特の投球動作で打者にはシェイクを投げることを予感させながら、異なる球種で投げるという投法である。メディアに「フェイク」と取り上げられる前に、この投法で西武の和田一浩から三振を奪っている。
2007年シーズンは投球練習では披露することは多々あったものの、実戦では6月14日に一度使用したのみ。シェイクは大差が付いた試合でファンに披露するいわゆるサービスボールであり、2007年の小宮山は緊迫した場面で登板する場面が多かったからだと言われている。
2008年8月27日の対日本ハム戦、9回表0-1ビハインドの場面において飯山裕志に、流れを変えようと2球連続で使用したが、スローボールとなってしまい、二塁打を打たれている。飯山は、自分にスローボールを投げられたからか、二塁打を打った後の塁上で怒りの表情を見せていた。この場面は2008年の珍プレーとして取り上げられた。
エピソード
- 打者心理をついた変化球中心の投球をする。早大在学中、時代小説に凝ってしまい、電車通学の行き帰りで車内で文庫本を読む癖がつき、そのせいで視力を落としてしまったと述べている。
- 現役投手でありながらも若手時代から度々テレビ中継で解説を行っている。特に2003年は所属球団がなく、「現役投手」の肩書きの浪人状態で、プロ野球やメジャーリーグのゲスト解説や、テレビ番組の出演や講演などでそれなりの収入を得ることができたが、それでもプロ野球選手の一軍最低保障額(1,500万)には届かず、あらためてプロ野球選手のすごさや、現役でいられるありがたみを痛感するようになったという。
- バレンタインの後継監督と噂されており、2007年度シーズンの投手部門のコーチを兼任するという声も囁かれたが本人は選手一本でやっていくと表明。
- イチローが「最も打ち崩したい頭脳派投手として小宮山さん」と高く評価していた。
- 2009年に田中将大が開幕から4登板完投勝利を挙げた際、次の登板を翌日に控え、野村克也監督の会見中にその記録について話題が及んで記録保持者である小宮山の名前が出たが、「なんだ。金田、稲尾とかならまだしも小宮山か」と拍子抜けされてしまった[4]。
- 同級生のプロ野球選手・コーチ・スタッフで構成する「プロ野球昭和40年会」のメンバー。オフには古田敦也、吉井理人、仲田幸司、山本昌、香田勲男、星野伸之ら40年会メンバーと、中村紀洋、小笠原道大、三浦大輔らをメンバーとする「プロ野球昭和48年会」と合同でイベントを行っている。メンバーは小宮山の人となりについて「何かにつけて説教するのが好き」などと評している。
- 二浪して大学進学したため、本来二級下の佐々木主浩(当時東北福祉大学)らからは、日米大学野球代表などで同じチームになった際には「小宮山」と呼び捨てにされていた(早稲田の入学同期で共著もあるほど親交の深いラグビーの清宮克幸からは現在も「小宮山」と呼ばれている)。ただ、プロ野球界では学年ではなく年齢で序列が決まるためか、プロ入り以降は「小宮山さん」と呼ばれている。
- Jリーグ・柏レイソルの熱狂的なサポーターであり、よく自主トレーニングを柏レイソルの選手と一緒に行っていた。以下は柏レイソルにまつわるエピソード。
- 横浜ベイスターズに在籍時、同じ横浜に本拠地を置く横浜F・マリノスから応援コメントを求められ、柏レイソルファンであることを理由に断ったという逸話はサポーターの間では有名。2005年のリーグ優勝時のビールかけの席でも、かぶっていた水泳帽に「がんばれ柏レイソル」と書かれていた(奇しくもこの時、柏がJ2降格の危機に瀕していた時期でもあった。しかし、柏はヴァンフォーレ甲府との入れ替え戦に敗れてJ2へ降格)。
- J2に降格した柏が横浜FC、ヴィッセル神戸とJ1昇格を争っていた2006年シーズン終盤の11月26日、対コンサドーレ札幌戦では、イレブンに混じって試合前の写真撮影に参加していた。
- 柏がJ1に復帰した2007年5月6日第10節、フクダ電子アリーナでの千葉ダービーにチームメイトの小林宏之とともにスペシャルゲストとして招待された際も、ジェフ千葉ホームゲームにもかかわらず、柏のニット帽とアウェー用レプリカユニフォームを着用し登場した[5]。
- 柏がJ1で初優勝した2011年には優勝報告会に登場し、「自分が優勝したときよりうれしい」と発言した。
- 前述の2005年のビールかけの際にかぶっていた水泳帽には、ベイスターズについてのメッセージ「横浜Aクラスおめでとう」も書かれていた。
- トレードマークであるサングラスは、音楽が聴けるようになっている。
- 早稲田では教職課程を取り、保健体育の教員免許を持っている。
- 教育実習時は慢性的な睡眠不足が続いたことから些細なことで怒りやすくなり、実習先の中学校の生徒と連日つかみ合いのケンカをしていたという(BAY LINE 7300出演時の本人の発言)。
- 上記成績表の通り、主に所属している千葉ロッテ自体長く低迷していた事もあって、シーズンで負け数が勝ち数を上回る年が多い。
- 1995年も最優秀防御率のタイトルに手が掛かる位置にいた(最終戦の時点で当時チームメイトだった伊良部秀輝が2位、小宮山は3位。1位は西武の郭泰源であったが西武は日程終了)。バレンタインは最終戦で小宮山を先発させタイトルを狙わせたが、打たれて自責点が付き降板。タイトル獲得はならなかった。小宮山が降板した後には伊良部が登板しリリーフを成功させ、この年の最優秀防御率を獲得している。
- 1990 - 99年の10年間にプロ野球で最もアウトを取った投手である[6]。
- 1998年6月13日から7月8日まで続いた、いわゆる『悪夢の18連敗』を翌7月9日のオリックス戦(GS神戸)でストップさせたのは小宮山である(自身の完投勝利による連敗阻止)。奇しくもこの試合の最後の打者となったのは、去年までのチームメイトでトレードによりこの年からオリックスに移籍してきた五十嵐章人であった。なお連敗の始まりとなった6月13日の試合の敗戦投手も小宮山であり、対戦相手も同じくオリックスであった(球場は千葉マリンスタジアム)。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | ロッテ | 30 | 22 | 6 | 2 | 0 | 6 | 10 | 2 | -- | .375 | 714 | 170.2 | 159 | 22 | 63 | 3 | 4 | 126 | 5 | 0 | 70 | 62 | 3.27 | 1.30 |
テンプレート:By2 | 29 | 28 | 15 | 1 | 0 | 10 | 16 | 0 | -- | .385 | 918 | 212.0 | 219 | 28 | 80 | 1 | 5 | 130 | 3 | 0 | 104 | 93 | 3.95 | 1.41 | |
テンプレート:By2 | 29 | 25 | 9 | 1 | 0 | 8 | 15 | 0 | -- | .348 | 755 | 172.2 | 187 | 11 | 64 | 0 | 6 | 124 | 3 | 0 | 86 | 76 | 3.96 | 1.45 | |
テンプレート:By2 | 27 | 27 | 14 | 0 | 0 | 12 | 14 | 0 | -- | .462 | 864 | 204.1 | 193 | 14 | 71 | 3 | 12 | 160 | 6 | 0 | 90 | 78 | 3.44 | 1.29 | |
テンプレート:By2 | 14 | 14 | 3 | 2 | 0 | 3 | 9 | 0 | -- | .250 | 359 | 85.0 | 81 | 10 | 28 | 2 | 3 | 67 | 3 | 0 | 48 | 40 | 4.24 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 25 | 25 | 6 | 1 | 0 | 11 | 4 | 0 | -- | .733 | 753 | 187.0 | 150 | 11 | 53 | 2 | 5 | 169 | 2 | 0 | 60 | 54 | 2.60 | 1.09 | |
テンプレート:By2 | 25 | 25 | 2 | 0 | 1 | 8 | 13 | 0 | -- | .381 | 680 | 154.2 | 192 | 17 | 39 | 2 | 5 | 90 | 4 | 0 | 86 | 78 | 4.54 | 1.49 | |
テンプレート:By2 | 27 | 27 | 3 | 2 | 1 | 11 | 9 | 0 | -- | .550 | 766 | 187.2 | 186 | 8 | 30 | 2 | 2 | 130 | 7 | 0 | 62 | 52 | 2.49 | 1.15 | |
テンプレート:By2 | 27 | 27 | 10 | 2 | 3 | 11 | 12 | 0 | -- | .478 | 836 | 201.2 | 224 | 20 | 27 | 1 | 5 | 126 | 2 | 1 | 101 | 80 | 3.57 | 1.24 | |
テンプレート:By2 | 21 | 21 | 4 | 0 | 2 | 7 | 10 | 0 | -- | .412 | 593 | 141.2 | 158 | 19 | 15 | 2 | 1 | 96 | 3 | 0 | 74 | 64 | 4.07 | 1.22 | |
テンプレート:By2 | 横浜 | 26 | 24 | 5 | 3 | 3 | 8 | 11 | 0 | -- | .421 | 672 | 161.1 | 166 | 24 | 37 | 2 | 0 | 108 | 3 | 0 | 72 | 71 | 3.96 | 1.26 |
テンプレート:By2 | 24 | 24 | 6 | 3 | 1 | 12 | 9 | 0 | -- | .571 | 612 | 148.2 | 150 | 9 | 30 | 1 | 8 | 74 | 2 | 0 | 55 | 50 | 3.03 | 1.21 | |
テンプレート:By2 | NYM | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | .000 | 194 | 43.1 | 53 | 7 | 12 | 4 | 3 | 33 | 1 | 0 | 29 | 27 | 5.61 | 1.50 |
テンプレート:By2 | ロッテ | 18 | 14 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | -- | .429 | 349 | 81.0 | 95 | 15 | 21 | 2 | 4 | 47 | 1 | 1 | 49 | 47 | 5.22 | 1.43 |
テンプレート:By2 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | ---- | 176 | 40.1 | 52 | 5 | 5 | 0 | 0 | 22 | 0 | 0 | 20 | 17 | 3.79 | 1.41 | |
テンプレート:By2 | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 144 | 35.0 | 40 | 2 | 6 | 1 | 0 | 15 | 0 | 0 | 18 | 18 | 4.63 | 1.31 | |
テンプレート:By2 | 41 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 3 | .750 | 241 | 56.1 | 65 | 2 | 12 | 3 | 2 | 24 | 1 | 0 | 29 | 25 | 3.99 | 1.37 | |
テンプレート:By2 | 33 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 2 | .600 | 174 | 39.1 | 48 | 5 | 9 | 2 | 2 | 18 | 0 | 0 | 29 | 25 | 5.72 | 1.45 | |
テンプレート:By2 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 1.000 | 67 | 13.2 | 24 | 2 | 1 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | 15 | 15 | 9.88 | 1.83 | |
NPB:18年 | 455 | 304 | 83 | 17 | 11 | 117 | 141 | 4 | 7 | .453 | 9673 | 2293.0 | 2389 | 224 | 591 | 29 | 66 | 1533 | 45 | 2 | 1068 | 945 | 3.71 | 1.30 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
MLB:1年 | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | .000 | 194 | 43.1 | 53 | 7 | 12 | 4 | 3 | 33 | 1 | 0 | 29 | 27 | 5.61 | 1.50 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀防御率:1回 (1997年)
表彰
記録
- 初記録(投手記録)
- 初登板:1990年4月12日、対日本ハムファイターズ3回戦(東京ドーム)、5回裏に2番手で救援登板・完了、4回無失点
- 初奪三振:同上、6回裏に中島輝士から
- 初先発:1990年4月19日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、3回1/3を3失点
- 初セーブ:1990年4月24日、対福岡ダイエーホークス1回戦(川崎球場)、6回表2死に2番手で救援登板・完了、3回1/3を1失点
- 初勝利:1990年5月2日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、7回裏2死に2番手で救援登板・完了、2回1/3を無失点
- 初先発勝利:1990年5月22日、対オリックス・ブレーブス5回戦(阪急西宮球場)、8回2/3を2失点
- 初完投勝利:1990年7月5日、対日本ハムファイターズ14回戦(東京ドーム)、9回3失点
- 初完封勝利:1990年9月29日、対西武ライオンズ22回戦(川崎球場)
- 初ホールド:2005年6月11日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に3番手で救援登板、2回1失点
- 初記録(打撃記録)
- 節目の記録
- 1000投球回数:1995年9月4日、対オリックス・ブルーウェーブ23回戦(千葉マリンスタジアム) ※史上265人目
- 1000奪三振:1998年4月4日、対近鉄バファローズ1回戦(大阪ドーム)、4回裏に山本和範から ※史上101人目
- 1500投球回数:1998年7月15日、対福岡ダイエーホークス14回戦(千葉マリンスタジアム) ※史上144人目
- 100勝:2001年7月8日、対読売ジャイアンツ18回戦(横浜スタジアム)、先発で8回2失点 ※史上116人目
- 2000投球回数:2001年9月15日、対阪神タイガース23回戦(阪神甲子園球場)、4回裏3死目に矢野輝弘を左飛で達成 ※史上81人目
- 1500奪三振:2007年8月29日、対西武ライオンズ19回戦(グッドウィルドーム)、7回裏に中島裕之から ※史上49人目
- その他の記録
- 1球セーブ:同上、9回表2死2塁でフェルナンド・セギノールを右飛 ※パ・リーグ史上24人目
- オールスターゲーム出場:7回 (1991年、1993年、1995年、1997年 - 2000年)
背番号
- 14(1990年 - 1999年、2004年 - 2009年 )
- 27(2000年 - 2001年)
- 17(2002年)
関連情報
出演番組
- NHKプロ野球(2003年にゲスト解説として出演)
- NHKメジャーリーグ中継(2012年から)
- ワールドスポーツMLB(2013年 大リーグコメンテーター)
- neo sports(テレビ東京・TXN系列他)(2010年1月30日 - 2011年12月24日)
- S☆1(TBSテレビ 2010年4月4日 大リーグ解説担当 「S☆1ファミリー」会員No.14)
- メジャーリーグ中継 (J SPORTS)(J SPORTSのメジャーリーグベースボール中継、2010年から)
- 東京六大学野球(スカイ・A sports+ 春季、秋季リーグ戦)(2010年から)
- 全力闘球(テレビ東京系列のプロ野球中継 2010年6月1日の千葉ロッテvs巨人戦)
- BS12 プロ野球中継(2011年 - )
- FOX SPORTS ジャパンBASEBALL CENTER(2013年 - )
- J SPORTS STADIUM(ロッテ戦)(2011年 - 2012年)
- スーパーベースボール(BS朝日のプロ野球中継)
- 2011年8月5日 広島東洋カープvs読売ジャイアンツ戦
- 2011年8月7日 広島東洋カープvs読売ジャイアンツ戦(この試合は地上波・広島ホームテレビでも同時放送された。)
出演ゲーム
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 小宮山悟 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- ↑ 小宮山投手引退のお知らせ(球団公式サイト)
- ↑ 2014年7月2日に楽天の斉藤隆が44歳4ヶ月のセーブを記録するまで、史上最年長のセーブであった。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 【ノムさんトーク】4月22日~5月16日(朝日新聞、マイタウン宮城)リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web