中島裕之
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox baseball player 中島 裕之(なかじま ひろゆき、1982年7月31日 - )は、兵庫県伊丹市出身のプロ野球選手(内野手)。MLB・オークランド・アスレチックス傘下所属。
目次
経歴
プロ入り前
兵庫県伊丹市出身。出生時は右肩が母体内で引っかかるなどの難産で、担当医からは「右肩に何らかの障害が残る可能性がある」と指摘され、乳児の頃から柔らかいゴム製のボールを半ば強制的に握らされていたという[1]。伊丹市立桜台小学校時代は投手として幼馴染みの山崎勝己とバッテリーを組み、全国大会に出場。伊丹市立天王寺川中学校では宝塚シニアに所属し、高校進学時には県外の強豪校からもスカウトされ、地元の名門である報徳学園高校を受験。しかし不合格となり、野球では無名の伊丹北高校に進学[2][3]。シニアでの厳しい練習から野球に嫌気が差していたこともあり、強豪校とは違う練習環境の中で力を伸ばしていった。後に本人は「報徳に入学していたら野球を続けていなかったと思う」と発言している[2]。
高校では1年時からレギュラーとなり、1年夏は右翼手として兵庫県大会に出場し、2年夏には1番打者として16強入りに貢献。以降は先発投手を務めるようになり、3年夏は「1番・投手」として出場し兵庫大会4回戦敗退。高校通算43本塁打。
テンプレート:Byのドラフト会議において西武ライオンズが5位指名で交渉権を獲得し契約金4000万円、年俸600万円(金額は推定)で入団した[4]。無名校出身ながら高卒で指名された理由について、当時同校の監督だった後藤博雄は「真面目な性格が下積みにも耐えられるとスカウトが評価したのではないか」と語っている[5]。
西武時代
プロ入り後、高校まで経験のなかった遊撃手にコンバートされる[6]。テンプレート:Byはイースタン・リーグで30試合に出場して打率.105、2安打。守備でも7失策を喫した。
テンプレート:Byは二軍のレギュラーとなり、リーグで唯一全試合に出場。安打、得点、犠飛、死球でリーグ最多。リーグ2位の打率.299、チーム2位の11本塁打、リーグ4位の47打点を記録しファームの優秀選手を受賞。一方でリーグワーストの10併殺打、25失策と粗さも目立った。シーズン終盤の10月に一軍初出場、初安打を記録。
テンプレート:Byは前年の4試合から44試合と出場数を増やし、初打点、初本塁打、初盗塁を記録。二軍ではチームトップの打率.306、同2位の13本塁打を放った。同年オフ、チームの大先輩である清原和博の背番号「3」を引き継いだ。
テンプレート:ByはFAでニューヨーク・メッツへ移籍した松井稼頭央の後釜として、「7番・遊撃手」で初の開幕スタメンに抜擢された。その後も「正遊撃手は荷が重過ぎる」との声もある中で監督の伊東勤からスタメンで起用され、オールスターゲームにも監督推薦で初出場した。同年のパシフィック・リーグでは唯一フルイニング出場し、打率.287(リーグ19位)、27本塁打(リーグ8位)、90打点(リーグ7位)、18盗塁(リーグ4位)を記録してリーグ優勝と日本一に貢献した。
テンプレート:Byはイレギュラーバウンドした打球を顔面に受けて頬骨を骨折し、戦線離脱。復帰後はレギュラーに戻り規定打席に到達して打率.274(リーグ19位)、11盗塁(リーグ7位)を記録したが、リーグ3位の17併殺打、遊撃手としてリーグ最多の10失策を記録。
テンプレート:Byは開幕から3番打者を務め、オールスターゲームにも選出され、一時首位打者争いに加わるなどチームの首位争いに貢献した。7月30日の楽天戦で山村宏樹から死球を受け、左第4中手骨を骨折したが予定より早い9月12日に復帰した。初の打率3割となるリーグ4位の打率.306を記録。守備では2年連続で遊撃手部門リーグ最多の16失策を記録し、同年オフの契約更改では球団初となる守備での出来高払いが設定された。
テンプレート:Byも開幕から3番で起用され、オールスターゲームに3度目の出場を果たした。両リーグ通じて唯一の9試合連続打点を記録するなど、リーグ5位の打率.300、同3位の160安打、チーム2位の74打点を記録したが、リーグ3位の134三振とレギュラー定着以降減少していた三振数が倍増した。守備でもリーグ2位、遊撃手としては3年連続リーグ最多の20失策を記録。
テンプレート:Byは北京オリンピック野球日本代表に選出され、オールスターゲームにも4度目の出場。共に同じ遊撃手の川崎宗則、西岡剛が選出されたこともあり、オールスターゲームでは三塁手を務めたが、悪送球による失策を記録した。北京五輪では、川崎の故障によって主に遊撃手を務めた。4年ぶりに20本塁打を記録。前半戦終了時にリーグトップだった打率は後半戦に入って徐々に落ちていったが、楽天のリック・ショートと首位打者を争い、楽天との最終戦までもつれ込んだ。結果は7毛差で及ばなかったが自己最高の打率.331を記録。最終戦後には敬遠されなかった事について「勝負してくれて嬉しかった」と語った[7]。シーズン成績はチームトップの55四球を選び、それぞれ自己最高を更新する出塁率.410、25盗塁で、初タイトルとなる最高出塁率を獲得した。遊撃守備ではリーグ2位の12失策を記録したものの、守備率は遊撃手部門2位を記録して送球ミスも減り、ゴールデングラブ賞とベストナインを初受賞した。同年、かつて西武で背番号「3」を着けていた清原が引退を表明し、オリックス・バファローズとの最終戦の日にユニフォームの交換を行なった。オフの契約更改で年俸2億円に到達。「野球をやっている以上、いろんな国の選手がいる中でやってみたいという夢はあります。メジャーに行けるような選手になりたい」と将来的なメジャーリーグ挑戦志向を明かした[8]。
テンプレート:Byは第2回WBCの日本代表に選出された。1次選考選手発表の際にイチローは片岡易之・岸孝之らと共に「(選ばれれば)日本代表のキーマンになる3人」と語った。大会では2番遊撃手として出場、発熱で一部の試合を欠場したが、2度目のキューバ戦でスタメンに復帰した。チームトップの打率.364、出塁率.516、7打点を記録して日本代表の大会2連覇に貢献した。ペナントレースでは開幕から25試合本塁打がなかったが、6月21日のヤクルト戦で通算100本塁打を達成。オールスターゲームに選手間投票によって選出され5度目の出場。第2戦でファウルボールを観客席に突っ込んで捕球するなどしてベストプレー賞を受賞し、「守備で賞を頂けたことがうれしい」とコメント。主に3番遊撃手としてリーグで唯一全試合フルイニング出場してシーズン後半には故障した中村剛也の代わりに4番打者も経験し、2年連続3割20本塁打20盗塁(史上5人目)、自己最多の92打点、173安打で自身初の最多安打、出塁率.398で2年連続となる最高出塁率のタイトルを獲得し、2年連続でベストナインも受賞した。遊撃守備では初めて守備率.980台をマークした。
テンプレート:Byも3番打者としてチームを牽引した。一時は打率が4割を越えたが、シーズン終盤はチャンスでの併殺打が増えた。同年オフにはポスティングシステムを利用したメジャーリーグ挑戦を球団側に訴えたが、交渉窓口となった球団本部長(当時)の前田康介が「話し合いの結果、残留で決まった」と報道陣に対して一方的に発表したことから[9]、中島は「勝手に発表された。『分かった』としか言われていない」と、事実と異なる説明をされたとして球団に対する不信感を露にした[10]。その後、監督の渡辺久信の仲裁により球団側と再度話し合い、残留することが正式に発表された。
テンプレート:Byはこの年から導入された統一球の影響もあり5月までは打率.266、3本塁打、OPS.771と調子が上向かなかったが、6月から調子を上げ、6月から9月まで打率.312、9本塁打、OPS.819と復調。7月11日のオリックス戦では警告試合を引き起こしている。発端は、6回裏に高宮和也の2球目が中島の背中に直撃。これに中島が激昂してマウンドへ歩み寄ると、両チームがベンチに飛び出し、乱闘寸前の雰囲気となった。試合は9対1で勝ったものの「(オリックスは)しょうもないチーム」、「ことしのうちに、必ず試合中にやり返しますよ」と発言した[11]。最終的にこのシーズンでの対オリックス戦は、打率.383、36安打の18打点と滅法強かった。チームが最下位に沈んでいた7月25日のロッテ戦では決勝本塁打を放ち、ヒーローインタビューではこの試合からキャプテンに任命されて右胸に「C」の文字が入ることを報告した。しかし10月は打率.271、本塁打なし、OPS.612と再び調子を落とし、5年連続で記録していた打率3割が途絶えた。最終的に右投手に対しては打率.316と例年通りの成績を残したが、左投手に対しては打率.237と苦手とした。本塁打も16本と4年ぶりに20本を下回ったが、得点圏打率はリーグ2位の.351を記録し、遊撃手としては史上二人目となるシーズン100打点を達成。中村剛也とともに球団初の100打点コンビとなった。また、21個の盗塁を成功させ失敗はわずか2個で、盗塁成功率は.913であった。オフには球団よりポスティングシステムを利用したメジャー移籍を容認されたことを受け、11月22日にメジャー挑戦を正式表明した[12]。同月28日に申請書類を提出し[13]、12月8日には入札額250万ドルでニューヨーク・ヤンキースが交渉権を獲得したことが発表された[14][15]。その後グレグ・ゲンスキーを代理人として入団交渉を行ったが契約合意には至らなかった[16]。
テンプレート:By1月10日に契約更改を行い、このシーズンも残留することが決定[17][18]。シーズンでは6月に入ってから調子が上がり、6月の月間MVPを獲得。12年目で初の受賞となった。故障で離脱した中村の代わりに4番を打つこともあった。首位打者を牽引していたが、8月に腰の状態が悪化、9月に左脇腹痛を発症してからは打率が下がり、ロッテの角中勝也と首位打者を競うことになる。ロッテとの最終戦では1打席は四球。2打席目も敬遠気味にボールを投げられ、その際2球わざと空振りしたことが潔いと報道された[19](結局四球を選んで出塁)。最終戦では2打席凡退し、打率.311。1厘差で首位打者を逃した。オフには海外FA権を行使する。
アスレチックス時代
12月17日にオークランド・アスレチックスと総額650万ドルの2年契約+出来高(3年目は年俸550万ドルの球団オプション)で合意したことが報じられ[20]、18日に契約[21][22][23]。会見ではアスレチックスとの契約の理由についての問いに対しての「まぁ、(GMの)ビリー・ビーンが格好いいと…」という答えを通訳が「Billy Beane is extremely sexy and cool(ビリー・ビーンがセクシー&クールだから)」と英訳し、Twitterやアメリカのメディアで話題となった[24]。
テンプレート:Byのスプリングトレーニングでは無安打が続いて、バッティングフォームをオープンスタンスに変更するなど深刻なスランプに陥った[25]。さらに、9試合ぶりの安打である一塁内野安打を打った直後に左太もも裏を損傷[26]。その後の試合は全て欠場し[27]、結局17試合の出場で打率.167、出塁率.286、本塁打なし、2盗塁、遊撃守備で4失策を喫してスプリングトレーニングが終わり、3月30日に15日間の故障者リスト入りして開幕を迎えた[28]。5月3日にはAAA級サクラメント・リバーキャッツの公式戦に出場したが、翌日に左太ももの痛みが再発し再検査を受けることが発表され[29]、23日に25人枠から外れる[30]。サクラメントでは遊撃手の他に三塁手と二塁手でも起用され、6月7日のツーソン戦まで10試合連続安打を記録し、前半戦は52試合の出場で打率.279、4本塁打、OPS.729、2盗塁の成績を記録したが、8月16日に40人枠から外れる。後半戦は38試合の出場で打率.289、本塁打なし、OPS.652、1盗塁の成績を喫しシーズンを終えた。最終的な2013年のシーズン成績は、打率.283、4本塁打、OPS.698で、チーム平均OPS.776を大きく下回る結果となった。
テンプレート:Byは招待選手としてのスプリングトレーニング参加もなく、当初はAA級ミッドランド・ロックハウンズで開幕を迎える予定だったが、アディソン・ラッセルの故障に伴いスプリングトレーニングに参加し、6試合に出場。3月28日に40人枠入りし、3月29日にAAA級サクラメントへ異動した[31]。4月3日に再び40人枠から外れ、AAA級サクラメントへ降格した。サクラメントでも打率.128、0本塁打の成績で、4月30日にはAA級ミッドランドへ降格した。
ビーンGMは、「ナカジマの獲得は大失敗だった。大金を積めばいい選手が獲れるという考えは、やはり浅はかだったということが図らずも証明された」[32]というコメントを怒りの口調で残した[32]。それに関して地元記者は、中島の獲得が日本での宣伝効果を見込んだものであり、「多少期待外れでもナカジマをメジャーに昇格させるつもりだったが、あまりに酷すぎて使い物にならず、結局目をつぶることができなくなった」[32]との経緯を述べている[32]。
選手としての特徴
打撃
剣道の上段構えのようにバットを高く掲げた特徴的な構えからスイングする。相手の呼吸に合わせて間合いをとるため逆に自分の呼吸を読ませないように考えた結果、左腕が上がって口元を隠すフォームに行き着いたという[33]。
早いボールカウントから積極的に踏み込んで打ちに行く傾向があり、ファーストストライク時の打率が高く広角に長打を放つことができる[34]。これは高校時代に練習で打球が左翼後方のテニスコートやプールに飛び込むことが多く、他の部から苦情が頻出したことから監督に「危ないから右に打て」と指示されて取り組んだという[35]。本人曰く「ゴルフのピッチング・ウェッジを打つ感覚」で右手を押し込む強さを加減して打球の飛距離を調節できると言い、宮本慎也からは「天才」と評された[36]。
基準違反統一球が導入されていた2011年から2012年までの通算対左打率.255と左投手に弱いが、同対右打率.321と右投手に強い。同得点圏打率.318と勝負強さも備え、10打席に1つ近い割合で四球を選ぶ選球眼も兼ね備える。一方でバントは苦手としており、犠牲バントのサインが出ると「(投手が)楽なところに投げてこないかなぁ」と毎回思うという[37]。また、狙った場面で犠牲フライを打つ技術も持ち合わせている[38]。
守備・走塁
守備では下半身と地肩を活かしたプレーを特徴とする[39][40]。レギュラーに定着した頃は失策数も多かったが、ゴールデングラブ賞を受賞した2008年から守備練習を増やして徐々に堅実さが加わり[41][42]、2010年にはリーグ2位の守備率を記録するなど例年守備率を向上させている。一方で遊撃手としては守備範囲が狭く、2010年には守備イニング1000以上の同ポジション中で両リーグワーストのUZR-19.4を記録し[43]、2012年にも両リーグワーストのUZR-23.2を記録した[44]。
走塁では右打者ということもあり一塁到達タイムは5秒台が多く、良くて4.25秒と足が速いほうではないが[39]ベースランニングは上手い。三塁打時には12秒台前半を記録し[39]、盗塁成功率も日本での通算約75パーセントを誇る。このためメジャーリーグのスカウトからは「スピードのあるマイケル・ヤング」「頭脳的なベースランニングのラン(得点)・プロデューサー」と評価された[45]。
人物
愛称は「ナカジ」。
西武の後輩野手たちからは「打撃のアドバイスを求めても、返答は擬音が多くてわかりにくい」「時々何を言っているのか理解できないことがある」と言われている[37]。球場に来た長嶋茂雄から打撃指導を受けた際、長嶋独特の擬音を交えた指導にほかの西武の選手が首をかしげる中、中島のみ「長嶋さんの理論がわかりました」と語ったという[46]。
女性人気が高く、2010年のバレンタインデーにはチームNo.1となる120個のチョコレートが届いた[47]。一方でファン感謝デーなどの際にいきなり女性に尻を揉まれるといったことも頻発しており、試合だけでなくこれらの行事などでもファウルカップを着用している[37]。
シーズンオフにはチームメイトの伝を頼って海外に一人旅に出ることが多く、2008年にはアレックス・カブレラの出身国であるベネズエラ、2009年は同じくヒラム・ボカチカのプエルトリコに旅に出ている[41]。特にスペイン語ができるわけでもないのに物怖じせずに旅に出る姿勢から、金村義明から「絶対メジャーリーグ向きだ」と評された[37]。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 西武 | 4 | 7 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .143 | .143 | .143 | .286 |
テンプレート:By2 | 44 | 98 | 89 | 12 | 23 | 3 | 1 | 4 | 40 | 11 | 1 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | 4 | 22 | 0 | .258 | .327 | .449 | .776 | |
テンプレート:By2 | 133 | 559 | 502 | 70 | 144 | 22 | 3 | 27 | 253 | 90 | 18 | 2 | 3 | 4 | 39 | 7 | 11 | 108 | 7 | .287 | .349 | .504 | .853 | |
テンプレート:By2 | 118 | 444 | 405 | 56 | 111 | 21 | 2 | 11 | 169 | 60 | 11 | 3 | 3 | 3 | 22 | 3 | 11 | 67 | 17 | .274 | .327 | .417 | .744 | |
テンプレート:By2 | 105 | 459 | 412 | 76 | 126 | 22 | 1 | 16 | 198 | 63 | 14 | 4 | 0 | 4 | 30 | 3 | 13 | 66 | 12 | .306 | .368 | .481 | .849 | |
テンプレート:By2 | 143 | 593 | 533 | 68 | 160 | 28 | 5 | 12 | 234 | 74 | 9 | 4 | 1 | 5 | 41 | 0 | 13 | 134 | 15 | .300 | .361 | .439 | .801 | |
テンプレート:By2 | 124 | 556 | 486 | 75 | 161 | 32 | 0 | 21 | 256 | 81 | 25 | 5 | 0 | 3 | 55 | 3 | 12 | 96 | 15 | .331 | .410 | .527 | .937 | |
テンプレート:By2 | 144 | 648 | 560 | 100 | 173 | 31 | 3 | 22 | 276 | 92 | 20 | 12 | 0 | 3 | 75 | 4 | 10 | 113 | 17 | .309 | .398 | .493 | .891 | |
テンプレート:By2 | 130 | 579 | 503 | 80 | 158 | 33 | 3 | 20 | 257 | 93 | 15 | 5 | 0 | 11 | 52 | 2 | 13 | 97 | 20 | .314 | .385 | .511 | .896 | |
テンプレート:By2 | 144 | 633 | 566 | 82 | 168 | 27 | 1 | 16 | 245 | 100 | 21 | 2 | 0 | 11 | 44 | 0 | 12 | 93 | 11 | .297 | .354 | .433 | .787 | |
テンプレート:By2 | 136 | 567 | 499 | 69 | 155 | 29 | 1 | 13 | 225 | 74 | 7 | 6 | 1 | 6 | 52 | 3 | 9 | 76 | 10 | .311 | .382 | .451 | .833 | |
通算:11年 | 1225 | 5143 | 4562 | 688 | 1380 | 248 | 20 | 162 | 2154 | 738 | 141 | 45 | 8 | 50 | 415 | 25 | 108 | 874 | 125 | .302 | .371 | .472 | .846 |
---|
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績所属リーグ内順位
年度 | 年齢 | 所属リーグ | 打率 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | 20 | パ・リーグ | - | - | - | - | - | - | - | - |
2003 | 21 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
2004 | 22 | - | 10位 | - | 7位 | 7位 | 8位 | 4位 | - | |
2005 | 23 | - | - | - | - | - | - | 7位 | - | |
2006 | 24 | 8位 | - | - | - | - | - | 8位 | 9位 | |
2007 | 25 | 5位 | 3位 | 6位 | 4位 | - | 9位 | - | - | |
2008 | 26 | 2位 | 5位 | 4位 | - | 8位 | 9位 | 4位 | 3位 | |
2009 | 27 | 6位 | 1位 | 9位 | - | 9位 | 4位 | 8位 | 5位 | |
2010 | 28 | 9位 | ‐ | 6位 | 10位 | 9位 | 4位 | 10位 | 5位 | |
2011 | 29 | 6位 | 3位 | 8位 | - | 6位 | 2位 | - | 5位 | |
2012 | 30 | 2位 | 2位 | 5位 | - | 6位 | 5位 | - | 2位 |
- -は10位未満(打率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)
年度別守備成績
年度 | 三塁 | 遊撃 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
2002 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
2003 | 20 | 8 | 20 | 3 | 2 | .903 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1.000 |
2004 | - | 133 | 235 | 363 | 17 | 73 | .972 | |||||
2005 | - | 112 | 158 | 267 | 10 | 45 | .977 | |||||
2006 | - | 99 | 162 | 241 | 16 | 44 | .962 | |||||
2007 | - | 140 | 209 | 393 | 20 | 73 | .968 | |||||
2008 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 122 | 204 | 359 | 12 | 79 | .979 |
2009 | - | 144 | 212 | 446 | 12 | 89 | .982 | |||||
2010 | - | 129 | 182 | 365 | 11 | 72 | .980 | |||||
2011 | - | 144 | 222 | 444 | 10 | 99 | .985 | |||||
2012 | - | 134 | 236 | 357 | 18 | 69 | .971 | |||||
通算 | 25 | 9 | 22 | 3 | 2 | .912 | 1159 | 1822 | 3237 | 126 | 543 | .975 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- ベストナイン:4回(遊撃手部門・2008年 - 2009年、2011年 - 2012年)
- ゴールデングラブ賞:3回(遊撃手部門・2008年、2011年 - 2012年)
- 月間MVP:1回(2012年6月)
- オールスターゲーム新人賞:1回(2004年)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2004年第2戦)
- オールスターゲームベストプレー賞:1回(2009年第2戦)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (2008年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:2002年10月6日、対日本ハムファイターズ28回戦(東京ドーム)、 5番・指名打者で先発出場
- 初打席・初安打:同上、2回表に金村曉から右前安打
- 初打点:2003年8月3日、対日本ハムファイターズ21回戦(西武ドーム)、4回裏に関根裕之から中前適時打
- 初本塁打:2003年8月5日、対福岡ダイエーホークス21回戦(福岡ドーム)、2回表に寺原隼人から左越ソロ
- 初盗塁:2003年8月12日、対大阪近鉄バファローズ22回戦(西武ドーム)、9回裏に二盗(投手:高村祐、捕手:藤井彰人)
- 初死球:2003年8月19日、対千葉ロッテマリーンズ22回戦(宮城球場)、9回表に戸部浩から
- 節目の記録
- 100本塁打:2009年6月21日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、1回表に石川雅規から左越2ラン ※史上255人目
- 1000本安打:2010年7月20日、対福岡ソフトバンクホークス14回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、7回表に杉内俊哉から右前安打 ※史上259人目
- 1000試合出場:2011年6月30日、対オリックス・バファローズ6回戦(京セラドーム大阪)、3番・遊撃手として先発出場 ※史上444人目
- 150本塁打:2012年4月7日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(西武ドーム)、4回裏に岩嵜翔から左越ソロ ※史上157人目
- 100死球:2012年5月3日、対東北楽天ゴールデンイーグルス4回戦(西武ドーム)、6回裏に美馬学から ※史上17人目
- その他の記録
- 9試合連続打点:2007年
- 1イニング2盗塁死:2012年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(札幌ドーム)、3回表に記録(田中賢介の悪送球で一塁に残った) ※史上初[48]
- 2年連続2桁犠飛 ※史上初
- 4試合連続猛打賞:2012年7月15 - 17日、25日 ※球団新記録
- オールスターゲーム出場:8回(2004年、2006年 - 2012年)
- 2年連続3割20本塁打20盗塁(2008年、2009年) ※史上5人目
背番号
- 56 (2001年 - 2003年)
- 3 (2004年 - 2013年)
- 6 (2009年 WBC)
関連情報
CM
DVD
- 中島裕之 進化する若獅子、背番号3(PCBE-53174 2010年4月21日発売、販売元:ポニーキャニオン、発売元:ジェイ・スポーツ・ブロードキャスティング)
ラジオ
- 中島裕之の今日も一発やったるで!(文化放送ライオンズナイター内、イニング間のコーナー。主に中島選手へのインタビュー)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 中島裕之 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- テンプレート:MLBstats
- Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com
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- ↑ 将来はミスター!? “天然系強打者”中島裕之の素顔 (2/2) - 西武の先輩で交流のある大塚光二がインタビューに答えている。
- ↑ 雄星チョコ70個も…フォーム固まらず息切れ状態に - ZAKZAK・2010年2月15日
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