川崎宗則
テンプレート:Ambox-mini テンプレート:Infobox baseball player 川﨑 宗則(かわさき むねのり、1981年6月3日 - )は、鹿児島県姶良市出身のプロ野球選手(内野手)。愛称は「ムネリン」。現在はMLB・トロント・ブルージェイズに所属。
目次
経歴
プロ入り前
鹿児島県姶良市出身。実家は父が開業したという電気工務店「川崎電気工事」で、自身も高校時代に電気工事士の資格を取得している。兄の影響で野球を始め、小学生から高校生まで一貫して遊撃手だった。元々右打ちだったが中学時代にイチローの影響で左打ちに変える。鹿児島県立鹿児島工業高等学校では甲子園出場は無く、全国的には無名だったが、50m走5秒8の俊足で左打ち・安打数の多さから「サツロー(薩摩のイチロー)」と呼ばれた。
テンプレート:Byのドラフト会議において、福岡ダイエーホークスに4位指名され、入団。背番号は52。
ダイエー・ソフトバンク時代
テンプレート:Byの新人時代から二軍で遊撃手のレギュラーに定着し、ウエスタン・リーグ5位(チームトップ)の打率.300を記録。
テンプレート:Byはウエスタン・リーグ2位の29盗塁を記録し、同年10月3日に一軍初出場。
テンプレート:Byには規定打席不足ながら打率.367を残し、認定でウエスタン・リーグの首位打者になり、9月には井口資仁の離脱で二塁手として起用された。第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出。
テンプレート:Byは鳥越裕介の故障によって2番・遊撃手で初の開幕スタメン出場。鳥越の復帰後は小久保裕紀の長期離脱で空いた三塁手に回り、1番・村松有人・3番・井口とともに盗塁を量産、足でダイハード打線に貢献した。初の規定打席到達で打率.294・2本塁打・51打点・30盗塁の好成績を残し、チームのリーグ優勝・日本一に貢献。
テンプレート:Byからは遊撃手のレギュラーに定着し、全試合フルイニング出場と打率3割を記録。最多安打(171本、三冠王を達成した松中信彦と同数)・盗塁王(42個)・ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得。同年から盗塁数と同数の車椅子を寄贈する[1]「走れ!川崎プロジェクト」を立ち上げ、2006年末に吉武真太郎・吉本亮・山崎勝己・井手正太郎をメンバーに、自身がオーナーを務めて軟式野球チーム「宗rin's」を作って小・中学生と交流するなど、積極的にメセナ活動も行っている。
テンプレート:Byは2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、遊撃手として優勝に貢献。決勝戦(対キューバ戦)では、1点差に迫られた9回表にイチローの安打で二塁から生還。その際、アリエル・ペスタノのブロックの僅かな隙間から右手をねじ込んで生還し、「神の右手」として話題になったが、このプレーで右肘を負傷。シーズン復帰は4月中旬までずれ込んだ。シーズンでは2年ぶりの打率3割を記録し、2度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得。同年、鹿児島工業高校が全国高等学校野球選手権大会に初出場した際、紫の刺繍で校名を縫い取ったスポーツバックを贈った(同校はベスト4に進出)。同年春、川崎は自主トレーニングでこの母校の野球部の後輩たちと一緒に練習を行なった(公式HPの日記より)。
テンプレート:Byは2度の長期離脱を影響を受けて95試合の出場に留まり、規定打席に到達しなかった。しかし、巧みな打撃技術に磨きがかかって打率.329を記録し、チームの得点源になったほか、満塁時には中軸と肩を並べる活躍を見せた。
テンプレート:Byはセ・パ交流戦で最多安打(37安打)・打率.366を記録。ソフトバンクの交流戦初優勝に貢献し、野手としては初の交流戦MVPに選出された。8月の北京オリンピック野球日本代表に選出されたが、シーズン中から痛めていた左足の怪我を押して出場したため骨膜炎を発症。帰国後、左足第二中足骨の疲労骨折が判明。王貞治の監督最終試合であるシーズン最終戦(対東北楽天ゴールデンイーグルス戦)で復帰した。
テンプレート:Byは2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、三塁手として5試合に出場。準決勝(対アメリカ戦)では9番・三塁手で先発出場し、2安打1打点1盗塁と勝利に貢献した。シーズンではリーグ2位で自己最多の44盗塁、犠打は球団記録を塗り替える43個を決めたが、打率.259(自己最低)に終わった。
テンプレート:Byは選手会長に就任。3月27日の対オリックス・バファローズ戦(ヤフードーム)で通算1000安打を達成し、3月31日から4月23日まで22試合連続安打を打って自己記録を更新、プロ入り11年目で初の月間MVPを獲得した。9月25日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で1000試合出場を達成。ダルビッシュ有から内野安打を放って188安打とし、広瀬叔功のシーズン187安打を抜く球団新記録を達成し、190安打まで記録を伸ばした。このシーズンのダルビッシュとの対戦成績は19打数10安打打率.526と相性が良かった。2004年以来6年ぶりの全試合出場を果たし、チームのリーグ優勝に貢献したが、クライマックスシリーズ第2戦以降は21打席連続無安打と不振に陥り、日本シリーズ進出はならなかった[2]。オフでは11月5日に右肘関節遊離軟骨除去手術を受けた[3]ほか、出身地の姶良市から「あいらふるさと大使」に任命された[4]。同年、家畜伝染病・口蹄疫の被害を受けている宮崎県に義援金として100万円を寄付した。[5]。
テンプレート:By8月22日に福岡市内在住の一般女性と婚約したことを発表[6]。シーズンでは本多雄一・松田宣浩と共にフルイニング出場を達成、同一球団から3人がこの記録を達成するのは2リーグ制以後では初の快挙となった[7]。シーズン前半は安打・出塁・盗塁ともに前年までの実績に比べ少なく1番打者として物足りなさも感じさせたが、シーズン後半には出塁・盗塁を増やし巻き返した。2011年レギュラーシーズンにおいてソフトバンクは3番内川聖一が先制打を放った試合は14勝3敗2分け、勝率.824[8]と圧倒的な有利さを示しており、これは内川の勝負強さもさることながら、1番川崎が出塁して2番本多が確実に犠牲バントで送る、あるいは2番本多が出塁して2盗するといった形で、内川の前にランナーとして2塁まで進んでいたことがいかに多かったかも示す。本多がリーグトップの53犠打を記録できたのも、川崎の出塁あってこそであった。クライマックスシリーズの西武戦では初打席で帆足和幸から二塁打を放つなど12打数5安打打率.417と結果を残しチームのCS突破に貢献した[9]。12月1日には海外FA権を行使し、トニー・アタナシオを代理人としてメジャー挑戦を目指すことを表明[10]。
マリナーズ時代
テンプレート:By1月5日、シアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだと明らかにした[11]。日本凱旋試合直前までのスプリングトレーニングには招待選手として参加し打率.387をマーク。3月6日の試合ではイチローと共に先発出場し、試合後には「きょうは僕の記念日。(初めて)イチローさんとバッティング練習から一緒だった。テンション上がります」とコメントした[12]。26日には日本での開幕戦特別規則となるメジャー28人枠に昇格[13]。日本での開幕戦2試合では出場機会がなかったものの、その後のスプリングトレーニングでも好調を維持し、最終的に参加選手中最高となる打率.455、OPS1.012を記録し、本土開幕メジャー入りを果たす[14]。
4月7日のオークランド・アスレチックス戦で9番・遊撃手としてメジャーデビュー。初打席は遊ゴロに終わったものの、2打席目にバートロ・コローンからメジャー初安打初打点を記録。試合後には「今日は絶対忘れられない日になる。(打った直後にベンチにいた)イチローさんから声が聞こえた。はっきり分からなかったが“いいぞ!”だったと思う。それが一番だったかもしれない」とコメントした[15]。30日に正捕手のミゲル・オリボが故障者リスト入りした際には、監督のエリック・ウェッジの「打撃好調なヘスス・モンテロとジョン・ジェイソの2人を常時起用したい」という意向もあり、5月3日には三塁コーチのジェフ・ダッツから緊急時の捕手としての指導を受けた[16]。前半戦は主に代走や守備固めとして出場し、打率.185、出塁率.254の打撃成績で前半戦を折り返し、7月12日にはメジャーリーグOB協会が主催するハート&ハッスル賞の候補に選出される[17]。最終的な受賞は逃したが、記念の盾を贈られた際には「アメリカで賞をもらうなんて思ってもいなかったので。眠れないと思います。抱いて寝ます」とコメントした[18]。後半戦も主に代走や守備固めとして出場し、打撃成績は23試合の出場で打率.205、出塁率.262を記録。守備ではシーズン通算で38試合の出場ながら遊撃守備でUZR0.8、DRS±0を記録し、遊撃手を務めた日本人選手で初めて遊撃守備の守備指標の数値が±0を下回ることなくシーズンを終えた。シーズン終了後には「イチローさんも頑張っていますね。僕ももっともっと頑張ろうと思う」とコメントした[19]。10月24日に40人枠から外れ自由契約となり[20]、オフには代理人をSFX社のマイク・ビーバーに変更し[21]、「代理人に希望は伝えてある。ばたばたと決まるのが米国。イチローさんとまたやりたいという思いはある」と語った[22]。
ブルージェイズ時代
テンプレート:By3月13日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約で合意したことが報じられ[23][24]、18日に契約。ホセ・レイエスの故障者リスト入りに伴い、4月13日にメジャー昇格。同日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でスタメン出場し、第1打席で先制点となる犠飛を打ち、チームの勝利に貢献[25]。20日のニューヨーク・ヤンキース戦では黒田博樹と対戦し[26]、翌21日のヤンキース戦ではメジャーで初となる1番でのスタメン出場を果たす[27]。5月26日のボルチモア・オリオールズ戦ではメジャー初のサヨナラ打を放った[28]。6月21日のオリオールズ戦ではトミー・ハンターからメジャー初本塁打となる2点本塁打を打った。32歳でのメジャー初本塁打はブルージェイズの選手としては最高齢であった[29]。25日にはホセ・レイエスの復帰に伴いAAA級バッファローに降格したが[30][31]、メルキー・カブレラの故障者リスト入りに伴い27日に再昇格[32]。前半戦は67試合の出場で打率.213、出塁率.319の成績だった。6月から7月にかけては後頭部に円形脱毛症を発症していたと言う[33]。7月13日にブレット・ロウリーの復帰に伴い再降格し、エミリオ・ボニファシオの移籍に伴い8月14日に再昇格。16日には育休リスト入りし長男の誕生に立ち会う[34][35]。9月21日のボストン・レッドソックス戦では内野ゴロの判定を受けてヘルメットを地面にたたきつけるポーズを示し、初の退場処分を受ける[36]。後半戦は26試合の出場で打率.274、出塁率.348の成績を残しシーズンを終える。年俸100万ドルの翌年の契約オプションを球団が持っていたが行使されず、10月31日に自由契約となり、12月24日にマイナー契約で再契約した[37][38]。
テンプレート:ByはAAA級バッファローで開幕を迎えた。マイサー・イズトゥリスの外側側副靱帯損傷による故障者リスト入りに伴い、4月15日にブルージェイズとメジャー契約を結んだ[39]が、故障者リスト入りしていたホセ・レイエスの復帰に伴い、4月18日に25人枠から外れバッファローに降格[40]。6月17日にメジャーに昇格し[41]、当日のヤンキース戦で先発出場し、田中将大とメジャー移籍後初めて対戦し3打数無安打を喫した。
選手としての特徴
溌剌としたプレーと明るい性格でチームに貢献するムードメーカー[42]。投手が打ち込まれた際などには自らタイムを取って声をかけに行く光景がよく見られる[43]。
打撃面では、日本時代からバットスピードとコンタクト能力はメジャーのスカウトからも高い評価を得ており[44]、2010年には両リーグトップとなる546個のファウルを記録した[45]。ホークス時代は典型的な早打ちで、三振が少ない一方で四球も少なく、日本での通算IsoD.051と打率と出塁率の差が小さい。しかしブルージェイズ移籍後の2013年には「ランナーがいない時は何とか塁に出ることを考えながらピッチャーに球数を投げさせることが今年の目標」として投手の球数を多くすることや出塁を強く意識するようになり[46]、この年はIsoD.097を記録した。
走塁では力を抜いて走ることがほとんどなく[47]、一塁到達3.83秒[48]、バント時には3.74秒をマークする脚力を誇る[49]。2006年にはベースボール・アメリカ誌で「最高の走者」に選ばれるなど、走塁面は海外からも高い評価を得ている[50]。
守備では主に遊撃手として起用されるが、二塁手・三塁手としても出場経験がある。遊撃守備では超一流と評されるグラブ捌きを持ち味とし[47]、ホークス時代は本多雄一と共に強力な二遊間を形成していた。一方で、2010年には守備イニング1000以上の遊撃手でワーストとなるRF4.21をマークしたほか[51]、UZRで両リーグワースト4位の-1.4[52]、得点換算でもリーグの遊撃手中ワースト2位をマークするなど守備範囲はやや狭かった[53]。メジャー移籍後も2013年まででRngR(範囲)でマイナスを記録しているが、DPR(併殺)、ErrR(失策)でプラスを記録しUZR0.9、DRSは2を記録している他、二塁手としては同年まで165回2/3の出場ながらRngR、DPRでプラスを記録しUZR1.8、DRSは±0を記録している。
人物
好きな言葉は薩摩示現流の掛け声『チェスト』。子供の頃から父親に「ムネ、チェスト行けよ!」と声をかけられていたという[54]。
子供の頃からホークスファンで、当時の好きな選手は内之倉隆志[54]。
ホークス時代には月刊ホークスなどで彼の自動車運転技術の酷さが度々自虐ネタにされていた。例えば、同期や後輩を車庫入れ係にする為に(そのことを伏せて)食事に連れて行く、右折ではなく左折が苦手、といったものであった。ちなみに最初の愛車は赤いチェロキーだった。
イチローの大ファンとして知られおり、イチロー本人から「(川崎は)イチローマニアですね」と言われるほど。「イチロー(51)の一つ後の番号」という思い入れから[54]、背番号52には強いこだわりを持っており、ホークス時代は背番号変更を打診されても断り続け、WBCでも52を付けた。2011年オフに海外FA権を行使してのメジャー挑戦を表明した際にも「イチロー選手と同じチームを希望しています」と語り[55]、念願かなってマリナーズと契約した。背番号52は既にジョージ・シェリルが使用していたため61をつけることになったが、「逆から読めばイチロー。素晴らしい番号をいただいた」とコメントした[56]。
2012年7月23日にイチローがニューヨーク・ヤンキースに移籍した際には、当日こそコメントを避けた[57]が、翌日に「ショックではないです。イチローさんが元気にプレーしているのが一番うれしい。イチローさんが覚悟を決めてのこと。すごく応援したい。この6カ月間は貴重な経験ができました」とコメント[58][59]。一方のイチローは移籍についての会見で、川﨑を始めとしたマリナーズの選手たちについて「そのことも迷った中の要素です。ただ、ムネ(川﨑)とはスプリングトレーニングからずっと一緒にやってきて、いい時間を共有できたと認識している。一緒の場所にいることが必ずしも一緒にやっているということではない。違う場所にいても一緒にやることはできる」と語った[60]。イチローが日米通算4000安打を達成した際には対戦相手として二塁手で出場しており、川﨑のもとに左翼から記念ボールが返球され「ボールを盗もうと思ったんですよね。隠そうとしたけど、審判にダメだといわれた。僕は『アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ』といってごまかそうとしたんですけど、やっぱりダメでしたね」と語っている[61]。
また、ダルビッシュ有とはプライベートでも親交があり[62]、川﨑の主催するホークス選手が中心の軟式野球チーム『宗rinズ』に緊急参戦したこともある[63]。
渡米後2年を経ても英語はあまり話せないが、「彼には語学の壁はない。なぜなら笑いとジェスチャーと片言でコミュニケーションをとるから」と評され、旺盛なサービス精神もあってチームメイトや現地のファンから愛されている[64]。特に2年目のシーズンとなったトロントの地では高い人気を得ており、地元総合ウェブサイト「The Score」には『川崎が愛される7つの理由』というコラム記事が掲載され[65]、ヒーローインタビューでの立ち振る舞いが「Greatest postgame interview ever?(史上最高のポストゲームインタビューか)」とMLB公式サイトを含む全米のスポーツニュースで取り上げられ[66]、3A降格後の8月13日にも、出場試合で「川崎Tシャツデー」というプロモーションが行われた[67][68]。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | ダイエー ソフトバンク |
1 | 5 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .200 | .000 | .200 |
テンプレート:By2 | 36 | 122 | 112 | 13 | 26 | 4 | 5 | 0 | 40 | 8 | 3 | 2 | 6 | 0 | 4 | 0 | 0 | 21 | 1 | .232 | .259 | .357 | .616 | |
テンプレート:By2 | 133 | 568 | 493 | 78 | 145 | 17 | 9 | 2 | 186 | 51 | 30 | 16 | 28 | 2 | 41 | 0 | 4 | 74 | 8 | .294 | .352 | .377 | .729 | |
テンプレート:By2 | 133 | 633 | 564 | 87 | 171 | 19 | 8 | 4 | 218 | 45 | 42 | 14 | 15 | 3 | 48 | 0 | 3 | 63 | 8 | .303 | .359 | .387 | .746 | |
テンプレート:By2 | 102 | 458 | 399 | 53 | 108 | 12 | 3 | 4 | 138 | 36 | 21 | 10 | 22 | 3 | 26 | 0 | 8 | 52 | 4 | .271 | .326 | .346 | .672 | |
テンプレート:By2 | 115 | 513 | 449 | 69 | 140 | 21 | 7 | 3 | 184 | 27 | 24 | 9 | 27 | 0 | 32 | 0 | 5 | 54 | 2 | .312 | .364 | .410 | .774 | |
テンプレート:By2 | 95 | 427 | 383 | 57 | 126 | 12 | 7 | 4 | 164 | 43 | 23 | 8 | 10 | 1 | 29 | 1 | 4 | 46 | 3 | .329 | .381 | .428 | .809 | |
テンプレート:By2 | 99 | 457 | 424 | 55 | 136 | 16 | 6 | 1 | 167 | 34 | 19 | 9 | 6 | 5 | 16 | 3 | 6 | 40 | 5 | .321 | .350 | .394 | .744 | |
テンプレート:By2 | 143 | 640 | 540 | 73 | 140 | 26 | 8 | 4 | 194 | 34 | 44 | 17 | 43 | 3 | 47 | 1 | 7 | 90 | 8 | .259 | .325 | .359 | .684 | |
テンプレート:By2 | 144 | 662 | 602 | 74 | 190 | 27 | 5 | 4 | 239 | 53 | 30 | 11 | 10 | 0 | 43 | 1 | 7 | 86 | 6 | .316 | .350 | .397 | .765 | |
テンプレート:By2 | 144 | 655 | 603 | 71 | 161 | 19 | 7 | 1 | 197 | 37 | 31 | 10 | 9 | 4 | 36 | 0 | 3 | 84 | 5 | .267 | .310 | .327 | .637 | |
テンプレート:By2 | SEA | 61 | 115 | 104 | 13 | 20 | 1 | 0 | 0 | 21 | 7 | 2 | 2 | 2 | 0 | 8 | 0 | 1 | 18 | 2 | .192 | .257 | .202 | .459 |
テンプレート:By2 | TOR | 96 | 289 | 240 | 27 | 55 | 6 | 5 | 1 | 74 | 24 | 7 | 1 | 10 | 3 | 32 | 0 | 4 | 41 | 5 | .229 | .326 | .308 | .634 |
NPB:11年 | 1145 | 5140 | 4573 | 631 | 1343 | 173 | 65 | 27 | 1727 | 369 | 267 | 106 | 176 | 21 | 323 | 5 | 47 | 610 | 50 | .294 | .345 | .378 | .723 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
MLB:2年 | 157 | 404 | 344 | 40 | 75 | 7 | 5 | 1 | 95 | 31 | 9 | 3 | 12 | 3 | 40 | 0 | 5 | 59 | 7 | .218 | .306 | .276 | .582 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
一塁(1B) | 二塁(2B) | 三塁(3B) | 遊撃(SS) | ||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
2001 | ダイエー ソフトバンク |
- | - | - | 1 | 3 | 4 | 0 | 1 | 1.000 | |||||||||||||||
2002 | 1 | 16 | 0 | 0 | 2 | 1.000 | 24 | 45 | 77 | 1 | 10 | .992 | - | 10 | 15 | 17 | 2 | 1 | .941 | ||||||
2003 | - | 1 | 1 | 4 | 0 | 0 | 1.000 | 75 | 38 | 114 | 8 | 11 | .950 | 85 | 89 | 182 | 6 | 47 | .978 | ||||||
2004 | - | - | 8 | 2 | 6 | 1 | 1 | .889 | 132 | 227 | 376 | 10 | 87 | .984 | |||||||||||
2005 | - | - | - | 102 | 170 | 283 | 6 | 61 | .987 | ||||||||||||||||
2006 | - | - | - | 115 | 164 | 356 | 12 | 65 | .977 | ||||||||||||||||
2007 | - | - | - | 94 | 121 | 294 | 6 | 40 | .986 | ||||||||||||||||
2008 | - | - | - | 99 | 113 | 309 | 11 | 51 | .975 | ||||||||||||||||
2009 | - | - | - | 143 | 209 | 442 | 9 | 78 | .986 | ||||||||||||||||
2010 | - | - | - | 144 | 193 | 412 | 14 | 72 | .977 | ||||||||||||||||
2011 | - | - | - | 144 | 209 | 396 | 12 | 62 | .981 | ||||||||||||||||
2012 | SEA | - | 10 | 6 | 13 | 0 | 3 | 1.000 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 38 | 50 | 65 | 0 | 13 | 1.000 | |||||
2013 | TOR | - | 18 | 26 | 45 | 1 | 6 | .986 | - | 60 | 79 | 136 | 5 | 39 | .977 | ||||||||||
NPB:11年 | 1 | 16 | 0 | 0 | 2 | 1.000 | 25 | 46 | 81 | 1 | 10 | .992 | 83 | 40 | 120 | 9 | 12 | .947 | 1069 | 1513 | 3071 | 88 | 565 | .981 | |
MLB:2年 | - | 28 | 32 | 58 | 1 | 9 | .989 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 98 | 129 | 201 | 5 | 52 | .985 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
タイトル
表彰
- ベストナイン:2回 (2004年、2006年)
- ゴールデングラブ賞:2回 (2004年、2006年)
- セ・パ交流戦MVP:1回 (2008年)
- 月間MIP賞:1回 (2008年6月)
- 月間MVP:1回 (2010年3・4月)
記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:2001年10月3日、対オリックス・ブルーウェーブ28回戦(グリーンスタジアム神戸)、2番・遊撃手として先発出場
- 初打点:同上、6回表にエド・ヤーナルから遊撃ゴロの間に記録
- 初安打:2002年6月15日、対大阪近鉄バファローズ11回戦(大阪ドーム)、6回表にジェレミー・パウエルから左前適時打
- 初盗塁:2002年6月19日、対西武ライオンズ11回戦(西武ドーム)、5回表に二盗(投手:土肥義弘、捕手:伊東勤)
- 初本塁打:2003年7月28日、対大阪近鉄バファローズ17回戦(福岡ドーム)、3回裏に門倉健から右越2ラン
- NPB節目の記録
- 200盗塁:2009年9月6日、対埼玉西武ライオンズ21回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、1回裏に二盗(投手:野上亮磨、捕手:銀仁朗) ※史上67人目
- 1000本安打:2010年3月27日、対オリックス・バファローズ2回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、7回裏に金子千尋から右翼線へ2点適時二塁打 ※史上255人目
- 1000試合出場:2010年9月25日、対北海道日本ハムファイターズ24回戦(札幌ドーム)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上438人目
- 250盗塁:2011年7月9日、対千葉ロッテマリーンズ7回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏に二盗(投手:大谷智久、捕手:里崎智也) ※史上42人目
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:8回(2004年 - 2011年)
- 年間安打:190(2010年) ※球団記録
背番号
- 52 (2000年 - 2011年)
- 61 (2012年)
- 66 (2013年 - )
登場曲
- 『夏の思い出』 / ケツメイシ(2005年夏場まで)
- 『Big Mama』 / Soul Camp(2005年夏以降)
- 『バンザイ 〜好きでよかった〜』 / ウルフルズ(2006年開幕~5月頭頃)
- 『Catch The Wave』 / Def Tech(2006年5月のみ)
- 『サンライズ』 / BENNIE K(2006年6月~7月頃)
- 『サルビアのつぼみ』 / HOME MADE 家族(2006年9月以降)
- 『サヨナラ』 / MCU(2007年オープン戦のみ)
- 『止まらないHa~Ha』 / 矢沢永吉(2007年開幕以降、6月下旬より第1打席目に使用)
- 『道』 / GReeeeN(2007年6月下旬より第2打席目以降に使用)
- 『福岡WALKER』 / Natural Radio Station (2008年開幕~)
- 『LIFE STYLE』 / Natural Radio Station(2008年4月~、第2打席のみ使用)
- 『Like That』 / Memphis Bleek(2008年6月3日のみ?)
- 『YOU ARE MY STAR』 / AI (2009年)
- 『To Be with YOU』 / MR.BIG (2010年)
- 『チェスト』 / ORANGE RANGE (2011年)
- 『ULTIMATE WHEELS』 / KAT-TUN (2011年7月20日のみ)
関連情報
出演
- ラジオ
- 川崎宗則の今日もヨロシコ(2004年-2009年、1月から3月の期間限定放送、CROSS FM)川崎のナビゲーターで、近況報告や裏話、ファンからの質問などに答える人気企画。
- 川崎宗則のオールナイトニッポンGOLD(2014年1月30日)
- CM、広告
- ヨドバシカメラマルチメディア博多(2004年ごろ)
- ヨドバシカメラマルチメディア川崎ルフロン(2004年ごろ)「ホークスの川崎も応援します」
- 株式会社アトラックス パルテノンマンション(2004年12月 - 2005年3月頃まで)
- タカミヤ - 釣具のポイント(釣り用品チェーン)
- 西日本鉄道(かつては、ライバル球団・埼玉西武ライオンズの前身・西鉄ライオンズの親会社だった)
- ゲータレード(朝青龍明徳、阿部勇樹、澤野大地、平光清などと共演)
- ソフトバンクモバイル
- 株式会社THINC ホワイトスリー(体臭、口臭、便臭対策用健康食品)
- 財団法人日本防炎協会(2008年10月、防炎品普及啓発用ポスター)
- 公共広告機構 「川崎選手、キーパーになる」(2008年、九州地域限定。松田宣浩、山崎勝己、大場翔太と共演。なお現役のホークスの選手では和田毅以来のCM起用である)
- ポカリスエット(2009年、中島裕之と共演)
書籍
- 橋本清著『52(fifty two)川崎宗則:オフィシャルbook』(徳間書店、2010年3月、ISBN 978-4198629229)
脚注
関連項目
外部リンク
- テンプレート:MLBstats
- 川崎宗則公式サイト※2012年以降更新停止
- 川崎宗則MLB公式代理人事務所-SFXベースボールグループ
- 公式Twitter ムネリン通信〜川﨑宗則〜
- 本人のtwitter※更新停止中[1]
- 個人年度別成績 【川崎宗則 (福岡ソフトバンクホークス)】 - 日本野球機構オフィシャルサイト
テンプレート:トロント・ブルージェイズ テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes
テンプレート:福岡ダイエーホークス1999年ドラフト指名選手- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite web ホークスは毎年春季キャンプを宮崎県で行っている。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2リーグ制移行初!本多、川崎、松田がフルイニング出場スポニチ(2011年10月23日)
- ↑ 内川ワクワク「早い回から僕が打点を」 スポニチ 2011年11月12日
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ 川崎興奮!初めてイチローと2、3番で並ぶ「きょうは僕の記念日」スポニチ、2012年3月7日
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- ↑ 川崎 イチローの声が一番嬉しかった!「今日は絶対忘れられない日」スポニチ、2012年4月8日
- ↑ 川崎捕手 正妻オリボDLで3番手 - スポーツニッポン 2012年5月4日
- ↑ 川崎「ハッピー」ハート&ハッスル賞候補日刊スポーツ、2012年7月14日。
- ↑ 川崎ハッスル!「眠れない。抱いて寝る」日刊スポーツ、2012年9月23日
- ↑ 川崎「イチローさん頑張っている。僕も」日刊スポーツ、2012年10月4日
- ↑ 川崎、斎藤が40人枠外れる日刊スポーツ、2012年10月25日
- ↑ 川崎が代理人変更でメジャー再挑戦へデイリースポーツ、2012年12月8日。
- ↑ ムネリン「イチローさんとまたやりたい」日刊スポーツ、2013年1月29日。
- ↑ 川崎がBジェイズ イチと敵味方日刊スポーツ、2013年3月15日。
- ↑ ムネリン、イチ対戦が「モチベーション」日刊スポーツ、2013年3月17日。
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- ↑ ムネリン 黒田から安打「チェスト!」日刊スポーツ、2013年4月21日。
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- ↑ JAYS SCORE FOUR IN THE NINTH FOR WALK-OFF WIN OVER ORIOLESTSN、21013年5月26日。
- ↑ 川崎、32歳メジャー1号はブ軍最高齢日刊スポーツ、2013年6月23日。
- ↑ 川崎マイナー降格「必死にやりたい」日刊スポーツ、2013年6月26日。
- ↑ 降格川崎、異例のあいさつ 球団が敬意日刊スポーツ、2013年6月27日。
- ↑ 川崎 わずか1日でメジャー再昇格決定日刊スポーツ、2013年6月28日。
- ↑ 川崎が円形脱毛症と引き換えに得たものデイリースポーツ、2013年10月5日。
- ↑ パパムネリンがチーム合流「最高ですね」日刊スポーツ、2013年8月21日。
- ↑ ムネ、父親なった喜び語る「最高です」デイリースポーツ、2013年8月21日。
- ↑ 川崎退場に監督「サムライウォリアーだ」日刊スポーツ、2013年9月22日。
- ↑ Blue Jays sign Kawasaki MLB.com
- ↑ 川崎、ブルージェイズと再契約 スポーツ報知 2013年12月25日閲覧
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- ↑ ムネリン「最高。下に行っても打ちます」日刊スポーツ、2014年4月19日。
- ↑ ムネリン昇格「ちょっくら行って来ます」日刊スポーツ、2014年6月18日。
- ↑ イチも仰天“ムネリン旋風” nikkansports.com 2013年4月21日
- ↑ テンプレート:Cite web出典の記事はあくまで一例であり、実際の試合でのこのような姿は枚挙に暇がない。
- ↑ 現役スカウト部長が見た日本チーム『月刊スラッガー』2009年6月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-6、52項
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- ↑ 川崎宗則、青木宣親が高評価の理由。“Quality At Bat”という新潮流。Number Web、2013年9月27日。
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- ↑ 『野球小僧』2010年6月号、白夜書房、雑誌18801-6、127頁。
- ↑ 川﨑宗則はくし型『野球小僧』2007年2月号、白夜書房、雑誌18801-2、174頁。
- ↑ 2006日米野球ガイドブック『月刊スラッガー』2006年12月号付録、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、9頁。
- ↑ 守備「選手別」遊撃手データSMR Baseball Lab
- ↑ 『月刊スラッガー』2011年5月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-5、45頁。
- ↑ 守備を得点換算で評価するSMR Baseball Lab、2010年12月6日。
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- ↑ 川崎マリナーズ一本「イチローさんと」日刊スポーツ、2011年12月2日。
- ↑ 川崎、背番は61「逆から読めばイチロー」SANSPO.COM、2012年2月13日
- ↑ 川崎、兄貴分イチローの移籍に元気なしサンスポ、2012年7月24日。
- ↑ 川崎 ようやくコメント イチローの新番号は「逆から読んだらイチサン!」スポニチ、2012年7月25日
- ↑ 川崎「イチローさん元気にプレーが一番」日刊スポーツ、2012年7月25日
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- ↑ ムネリン、イチロー4000安打記念ボール「盗もうと思った」 ゲスト解説で“秘話”zakzak、2013年10月16日
- ↑ 川崎、ダルから安打も「今日はやられました」サンケイスポーツ、2012年4月10日。
- ↑ 『週刊プロ野球データファイル』2012年46号、ベースボール・マガジン社、雑誌27741-3/7、5-6頁。
- ↑ 16 Reasons to Treasure Blue Jays Shortstop Munenori Kawasaki, the Jewel of MLB SI.com 2013年5月18日
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