阿部勇樹
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 阿部 勇樹(あべ ゆうき、1981年9月6日 - )は、千葉県市川市出身のプロサッカー選手。ミッドフィールダー、ディフェンダーとさまざまなポジションをこなせるユーティリティープレイヤー。
目次
来歴
プロ入り前
1981年、2男1女の第3子として出生。兄の影響で幼少の頃からサッカーに親しみ、休日で寝ている父親の枕を蹴り飛ばして起床させ父兄共にボールを蹴り合って遊んでいた。父親の感情豊かな感激屋の影響を受け、(5歳上の)兄からボールが取れないといっては泣き、試合内容が悪かったといっては涙し、勝利に貢献して褒められては目に涙を浮かべている何かと涙もろい子だった。
通っていた幼稚園の縁と父の勧めで柏イーグルス入団。小学4年生時に富美浜FCへ加入、小学5年生時、市川FCの選抜、2チームを掛け持ちする。小学校6年生時、ジェフのユースセレクションに合格する。
ジェフユナイテッド千葉
船橋市立船橋高校からの誘いもあったが、本人は大半の時間をジェフ市原ユースでのサッカーに注ごうとすべく通信制の高校に進学を希望するも、両親が反対した上に姉が激怒。高校進学に向けて塾に入れられ、受験勉強を猛スピードで行い、一般入試で東京学館浦安高校普通科に進学。
Jリーグ初出場は、1998年8月5日、Jリーグ1stステージ第16節 ガンバ大阪戦(万博)。当時、チームメイトだった山口智の記録を破り、16歳と333日というJ1の最年少記録を打ち立てた[1]。Jリーグ初得点は、1999年4月10日 1stステージ第6節ヴィッセル神戸戦(神戸総合運動公園ユニバー記念競技場)。
ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出されてきた。小野伸二、稲本潤一、遠藤保仁といった、いわゆる黄金世代が準優勝した1999 FIFAワールドユース選手権では、フィリップ・トルシエ監督の下、一つ下の世代から代表候補入りを果たしている[2]。2004年のアテネオリンピックには、キャプテンとして田中マルクス闘莉王、松井大輔、大久保嘉人、駒野友一らと共に出場。山本昌邦監督に本職だったボランチから右サイドバックやリベロに起用され、これを機に、ユーティリティプレーヤーとして活躍することが多くなった。
2003年、東アジアサッカー選手権でA代表初選出、2005年1月29日のカザフスタンとの親善試合(横浜国際競技場)でA代表初出場を果たす[3]。A代表初ゴールは2006年8月16日のアジアカップ予選、イエメン戦[3]。ジーコ、イビチャ・オシム、岡田武史、いずれの代表監督の下でも、代表に選出されて試合出場の機会を得ている[3]。
2003年にイビチャ・オシムがジェフユナイテッド市原の監督に就任すると、国際経験や実力を備えながら前面に出ようとしない若きサッカーエリートを21歳でキャプテンに抜擢。オシム就任当時、ベテラン選手のプレーに頼り切っている後輩という当時のチーム事情を憂慮、プレーも消極的で性格も大人しいがチーム内では人当たりの良い阿部を先輩後輩の垣根を取り除く役目も(本人には黙って)与える。後にジェフは看板選手を次々と放出、監督の命で任を務めるのが嫌で仕方なかったが試合を重ねるごとに阿部はキャプテンとしての頭角を現すことになる。
この起用は周囲に譲りがちだったFKを自ら蹴り、積極的に攻撃に参加する成長をもたらす。2005年のJリーグ戦では守備的MFながら12得点(うち1回はハットトリック)を挙げ、常にJ2降格ラインにいたチームを2005年、2006年のナビスコ杯2連覇に導いた立役者の1人になった。後にイビチャ・オシム監督との出会いによって、戦う姿勢が変わったことと、複数のポジションをこなせることを「ポリバレント」と称され、それが自分の強みと自覚できるようになったと語っている。
浦和レッズ
2007年1月12日、ジュニアユース時代から在籍したジェフユナイテッド千葉から浦和レッドダイヤモンズへの移籍を発表。国内最高額といわれる移籍金(推定3億5千万円)で1月22日に正式契約を結ぶ[4][5]。2010年、浦和との3年契約が満了したため、海外移籍の噂もあったが1月31日、浦和と1年間契約延長をすることで合意[6]。
千葉在籍時の2005年と2006年、浦和在籍時の2007年と3年連続でJリーグベストイレブンに選出。サポーターからの人気も高く、2003年~2007年までJリーグオールスターサッカーに5年連続でサポーター投票で選出され、特に、2004年と2005年は最高得票数を獲得。2008年からJOMO CUPに替わっても、メンバーに選ばれ続けていた。
FIFAクラブワールドカップ2007では、浦和からただ1人、大会のMVP候補8人の1人に選ばれた。(この時MVPを獲得したのは当時ACミランの選手であったブラジル代表のカカ)。
2006 FIFAワールドカップではメンバーから漏れるが、2010年5月10日、2010 FIFAワールドカップで初選出 [7]。大会では背番号「2」を背負い、全試合(カメルーン戦、オランダ戦、デンマーク戦、パラグアイ戦)にスタメン出場、パラグアイ戦にて中村憲剛と交代するまで、フル出場していた。それまで岡田武史監督の下、CBで起用され、巧く機能しないことが多かったが、W杯本戦では終始、アンカーとして出場し、堅固な守備陣の一角として日本のグループリーグ突破に大きく貢献し、元日本代表中田英寿や、内田篤人からは今代表のMVPに挙げられた[8]。
2010年7月7日 市川市が市民栄誉賞を授与すると発表した。[9]
レスター・シティ
2010年W杯終了後、オランダ・エールディビジのフェイエノールト、VVVフェンローから高い関心を示されており、阿部の関係者もオランダリーグへの移籍が近づいているとコメントするなどオランダ移籍が有力視されていたが、移籍期限の直前にイングランド2部・フットボールリーグ・チャンピオンシップのレスター・シティFCが3年契約での正式オファーを出し、基本合意。最大の障害だった就労ビザの問題も解決し、2010年8月31日に移籍が正式に決定した[10][11]。レスターシティでの初得点は、2011年5月7日 チャンピオンシップ最終節イプスウィッチ・タウンFC戦(ウォーカーズ・スタジアム)。
2012年1月22日、日本に残していた家族を最優先したいとの理由でチームと双方合意の上で契約を解除した。
浦和レッズ復帰
1月24日に浦和に復帰。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督からチームキャプテンに指名された。
2012年はボランチとして全試合出場。退場となったJ1第4節川崎フロンターレ戦を除いてフル出場を果たした。チームも3位となり、AFCチャンピオンズリーグの出場権を獲得した。なお、阿部はJリーグ優秀選手賞も受賞した。
評価
評論家の後藤健生は阿部について、ディフェンダーとして、所属クラブでも日本代表でも起用され結果を残している事を認めつつ、「彼はやはり本来はMF」[12]だという見方を示している。
エピソード
- 2001年5月、右脛骨疲労骨折による髄内釘固定術を受け、8月復帰。本人談「ボクの右足にはチタンが入っている」。
- テレビ朝日の『やべっちFC』に出演した際、「YABEっち」の「Y」を取ると「ABEっち」になるとアピール、これから「あべっちと呼んでください」と笑いを誘った。
- 精度の高いFKを蹴ることができることから、和製ベッカムと呼ばれたり、「アベッカム」ともじられることもあった。しかし、オシム就任後は、セットプレーでの競り合いに強さもあったことから、代わりに水野晃樹が蹴ることが多くなった。浦和移籍後もポンテが、日本代表でも中村俊輔、遠藤保仁等が蹴ることが多く、FK、CKを蹴る機会はほとんど見られなくなった。
- 3人兄姉の末っ子。実姉は八雲学園中学校・高等学校バスケットボール部の現職アシスタントコーチ。2009年に同校がウィンターカップに初出場を果たした際には激励に訪れ、選手一人一人のシューズにサインした[13]。
- 2004年7月7日入籍。2007年7月19日、第一子となる長男が誕生。
所属クラブ
- ユース経歴 (出身校)
- 富美浜FC
- 1988年 - 1993年 市川FC (市川市立富美浜小学校)
- 1994年 - 1996年 ジェフユナイテッド市原ジュニアユース (市川市立福栄中学校)
- 1997年 - 1999年 ジェフユナイテッド市原ユース (東京学館浦安高校)
- プロ経歴
- 2000年 - 2006年 テンプレート:Flagicon ジェフユナイテッド市原 / ジェフユナイテッド市原・千葉
- 2007年 - 2010年8月 テンプレート:Flagicon 浦和レッズ
- 2010年8月 - 2012年1月 テンプレート:Flagicon レスター・シティFC
- 2012年1月 - テンプレート:Flagicon 浦和レッズ
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1998||rowspan="7"|市原||31||J||1||0||0||0||0||0||1||0 |- |1999||29||rowspan="12"|J1||30||1||2||0||1||0||33||1 |- |2000||8||25||0||3||0||3||2||31||2 |- |2001||rowspan="6"|6||17||3||2||0||2||0||21||3 |- |2002||24||1||3||0||2||0||29||1 |- |2003||27||3||3||0||4||0||34||3 |- |2004||24||5||5||1||1||0||30||6 |- |2005||rowspan="2"|千葉||33||12||10||5||1||0||44||17 |- |2006||33||11||8||2||1||0||42||13 |- |2007||rowspan="4"|浦和||rowspan="4"|22||33||3||0||0||1||0||34||3 |- |2008||33||6||1||0||1||0||35||6 |- |2009||34||2||4||0||0||0||38||2 |- |2010||20||3||2||1||colspan="2"|-||22||4 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2010-11||rowspan="2"|レスター||rowspan="2"|22||rowspan="2"|FLC||36||1||2||0||2||0||40||1 |- |2011-12||16||1||2||0||1||0||19||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2012||rowspan="3"|浦和||rowspan="3"|22||rowspan="3"|J1||33||4||4||0||3||0||40||7 |- |2013||33||6||5||0||0||0||38||6 |- |2014|||||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始400||60||52||9||20||2||472||74 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行52||2||4||0||3||0||59||2 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終452||62||56||9||23||2||531||76 |}
- 1998年と1999年はユース所属
その他の公式戦
- 2007年
- スーパーカップ 1試合0得点
テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2007||rowspan="3"|浦和||rowspan="3"|22||12||3||3||0 |- |2008||4||0||colspan="2"|- |- |2013||6||1|||| |- !通算!!colspan="2"|AFC |22||4||3||0 |} その他の国際公式戦
- 2006年
- A3チャンピオンズカップ 3試合1得点
- 2007年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
チームタイトル
ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ
個人タイトル
- 2005年 - ナビスコカップニューヒーロー賞[14]、Jリーグ ベストイレブン
- 2006年 - Jリーグ ベストイレブン
- 2007年 - Jリーグ ベストイレブン
- 2012年 - Jリーグ優秀選手賞
代表歴
出場大会
- U-23
- A代表
- 2005年 東アジアサッカー選手権2005 (準優勝)
- 2007年 アジアカップ タイ・マレーシア・ベトナム・インドネシア大会 (4位)
- 2010年 FIFAワールドカップ 南アフリカ大会 (ベスト16)
試合数
- 国際Aマッチ 53試合 3得点 (2005年 - 2011年)[3]
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2005||5||0 |- |2006||8||1 |- |2007||11||1 |- |2008||9||0 |- |2009||8||1 |- |2010||9||0 |- |2011||3||0 |- !通算 |53||3 |}
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2006年8月16日 | 日本、新潟市 | テンプレート:YEMf | ○2-0 | AFCアジアカップ2007 (予選) |
2. | 2007年7月25日 | ベトナム、ハノイ | テンプレート:KSAf | ●2-3 | AFCアジアカップ2007準決勝 |
3. | 2009年5月27日 | 日本、大阪市 | テンプレート:CHIf | ○4-0 | キリンカップ |
書籍
- 2011年6月 『泣いた日』 (ベストセラーズ) ISBN 978-4584133217
関連項目
脚注
外部リンク
テンプレート:浦和レッドダイヤモンズのメンバー テンプレート:浦和レッドダイヤモンズ歴代主将 テンプレート:Jリーグ主将 テンプレート:Jリーグベストイレブン (MF) テンプレート:Jリーグカップニューヒーロー賞
テンプレート:Navboxes- ↑ このJリーグ記録は2002年にFC東京の呉章銀によって破られるまで保持。Jリーグ最年少日本人選手に限定すれば2003年、サンフレッチェ広島の高萩洋次郎に、J1最年少日本人選手に限定すれば2004年、東京ヴェルディ1969の森本貴幸に破られるまで記録を保持
- ↑ 選出が間際だったため、渡航に必要な予防接種が間に合わず、直前で参加を見送った(http://www.j-leaguers.net/special/nigeria/file012.html Jリーグサッカー協会の高田保則のインタビューでこのエピソードが語られている。同様の理由で池田学(浦和)、林丈統(市原)も参加が見送られた)。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「daihyo
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 移籍理由は「レッズは(2006年Jリーグ優勝、及び2007年天皇杯優勝により)ACLに2年連続で出場することが確定している。海外の強いクラブと対戦し、自分自身を高めていける環境を、浦和レッズは備えていた」とインタビューで話している
- ↑ 移籍が決定後、浦和側が阿部に対して、筆頭株主である三菱自動車製の車に乗り換えなくても良いと認めていたのだが、気持ちを一新させたいという阿部本人の意向で、千葉時代から所有する愛車ベンツを売却して三菱製のパジェロに乗り換えた。(http://www.nikkansports.com/soccer/p-sc-tp0-20070127-147703.html 浦和阿部、愛車も三菱に変更(日刊スポーツ))
- ↑ 阿部の全力プレーがレッズに“勇気”を与える|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
- ↑ 前回は落選…阿部、4年分の思いをぶつける
- ↑ 文藝春秋 2010年8月号(http://bunshun.jp/bungeishunju/special/nakata.html)、デイリースポーツ 2010年6月29日(http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/headlines/20100629-00000015-dal-socc.html)
- ↑ 朝日新聞2010年7月8日付 31面 ちば東葛欄 読売新聞2010年7月8日付 29面 東葛欄
- ↑ 阿部勇樹、イングランドへ|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
- ↑ レスター・シティFC公式サイト (英語)
- ↑ 後藤健生コラム アンカーとしてフル出場の阿部勇樹に「おめでとう」新システムが機能したイングランド戦 J SPORTS 2010.5.31付
- ↑ “阿部靴”で八雲学園が快勝/高校バスケ
- ↑ 受賞時は24歳2ヵ月程であったが、受賞条件が大会開幕時点で満23歳以下の選手であったため、受賞の対象となった。