古田敦也
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox baseball player テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalSilver テンプレート:MedalBottom
古田 敦也(ふるた あつや[1]、1965年8月6日[1] - )は、兵庫県川西市出身の元プロ野球選手(捕手)。現在は野球解説者、タレント、スポーツキャスター。芸能プロダクションは株式会社エーポイント所属。マネジメントは株式会社ビッグベンと業務提携。
ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。また、2005年シーズン終了後から引退年の2007年まで選手兼任監督を務めた。「代打 俺」「ミスタースワローズ」とも呼ばれるほどの東京ヤクルトスワローズの象徴的存在である。
来歴
少年期・アマチュア時代
川西市立加茂小学校[2]3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。地元では宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。
その後関西大学商学部、立命館大学経営学部の一般入試を受験し、どちらも合格した。当時は、関西学生野球リーグにおいては関西大学は立命館大学より強豪だったため、関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命館大学体育会硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされてしまう。また、その夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられてしまい、次の日には気持ちがコロッと変わり、1984年春、立命館大学に入学し、体育会硬式野球部に入部した[3]。
関西学生リーグで通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれた。3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時の1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなど、その実力はプロ各球団からも注目された。11月のドラフト会議当日には会見用のひな壇が設けられたほどだったが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった[4]。当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって[5]、日本ハムは指名を取りやめたとのちに新聞連載に記載している。
1988年3月、立命館大学経営学部卒業、経営学士号取得ののち、同年4月にトヨタ自動車に入社。入部した同社硬式野球部でも1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。同年8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表に選出され、野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組む。決勝戦でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。
1989年、古田のプレーに惚れ込んだヤクルトスカウト部長の片岡宏雄がトヨタを訪れて獲得の意思を本人に伝えた際、古田は「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も聞き直したという。ヤクルトは同年のドラフト会議で古田を2位指名したが、監督に就任したばかりの野村克也は当初「眼鏡をしているが、ホンマに大丈夫なんか?」と不安を隠せなかったと言われている。なお、野村がドラフト会場で直前になって「古田(の指名)はやめよう。捕手はワシが育てる」と発言したことに片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と喰い下がり[6]、「本当は古田を1位で指名したかった」と古田が大成した後語っているが、実際にはドラフト会議終了後「吉岡雄二を2位にして古田を3位にすればよかった」と述べており、真相は定かではない。
プロ入り後
入団当初、野村の古田評は「肩は一流だが、打撃は二流、リードは三流や」というものだったが、最大の武器である強肩を活かそうと、捕手としての技術をマンツーマンで教え続けた。当時ヤクルトの正捕手だった秦真司は課題の弱肩を克服できず、途中から古田がその座を奪い106試合に出場。リーグ1位の盗塁阻止率を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得した。2年目の1991年、オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者の盗塁3度を全て刺し、MVPを受賞。シーズンでは落合博満との競り合いの末、打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。
翌1992年、6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクルヒットを記録し、MVPを受賞した。シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、リーグ2位タイ・自己最多の30本塁打、リーグ5位の86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは西武ライオンズに敗れたが、翌1993年の日本シリーズでは再び対戦した西武を倒して15年ぶりの日本一となった。同年シーズンは2年連続となる全試合出場を果たすなどチーム日本一の原動力となり、シーズンMVPに選ばれた。この年の盗塁阻止率.644は現在も破られていない日本記録である。1994年は4月14日の対広島東洋カープ2回戦で前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱。結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。
1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。1996年はチームが4位に終わり、自身も不調に終わった。翌1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322を記録するなど活躍。再び日本シリーズを制覇し、捕手として初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。
1998年には通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。
若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われたシドニーオリンピックにおける野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出され、15才年下の松坂大輔とバッテリーを組んだ。2000年はヤクルトがAクラス争いに絡んだこともあり、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは五輪期間を境に上位戦線から脱落し、3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。
2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。同年の日本シリーズでは自身2度目のシリーズMVPを受賞した。
2003年6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録。2004年は通算8回目となるシーズン打率3割を残した。39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行と門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。
2005年4月24日(対広島戦、坊ちゃんスタジアム)、捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日には通算1000打点を達成した。
29年ぶりの選手兼任監督
2005年限りで若松が監督を退任、後任として古田に白羽の矢が立つ。10月18日、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで球団と合意した(選手として1年契約、監督としては2年契約)。
ファンサービスの改善策について球団と交渉を続け、球団外部からカカクコム社長(当時)の穐田誉輝らを招聘。「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された(プロジェクトの主な概略については東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウンも併せて参照)。
2006年、メディアや評論家はそれまでの堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷く。同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイだった。一方投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿と五十嵐亮太の不調が原因で固定できなかった。監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績を残したが、選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己最低に終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1億8000万円減(75%減)の6000万円で契約を更改した。
現役引退、監督退任
テンプレート:Seealso 2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスがセ・リーグ最多(プロ野球歴代2位)となる204安打を記録し、タイトルを獲得。一方古田は通算2000試合出場こそ達成したものの、前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ8月までに出場した試合はわずか3試合だった。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。
9月17日、ヤクルトのBクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表した。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声がヤクルトファンのみならず、他球団のファンからも飛び交った。
神宮球場における最後の出場となった10月7日の対広島24回戦、古田の引退試合が行われた。8回裏の第4打席では、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの佐々岡真司が登板し(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた。これが現役最後の登板となった)、遊ゴロに終わった。8回には石井一、また9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。この翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの代打として最後のバッターボックスに立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。
10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀澄也オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、快諾した。また球団からは功労金として5000万円が贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津に対し突如戦力外を通告した件について、球団からの事前通告や話し合いの機会が一切なかった事などに言及するなど、最後までフロントとの間にしこりが残った。
ヤクルト退団後
2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団。11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰した。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演し、その後はコメンテーターとしてテレビ出演。解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会・野球日本代表の試合(テレビ朝日)。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演した(なお、プロ野球中継解説者としてはテレビ朝日だけ所属契約しているが特定局との専属契約はせず、フリーでの出演)。
特筆
人物
趣味は将棋、ゴルフ、読書、映画鑑賞など。音楽ではU2の大ファンである。書道は有段者。特に将棋では日本将棋連盟から1995年8月に初段、2004年11月には三段の免状を受けている。NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」にも「棋将」のタイトル保持者・毛利元彦役でスポット出演した。また、妻の中井美穂もNHKの「将棋講座」でアシスタントを務めたことがある。
従兄にタレントの大木凡人がいる。また血縁ではないが、ヤクルトコーチの城石憲之とは縁戚関係(互いの従兄弟同士が夫婦)にある。城石の現夫人大橋未歩に城石との交際を薦めた。
大学時代には家庭教師などのアルバイトをしていた。4回生のゼミ(テーマは現代日本の中小企業問題)では、そのドラフト直前、当時の担当教授に進路を聞かれた際、「ドラフト待ってます」と答えている。
トヨタ自動車在社時代、社内では人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた。新人研修ではディーラーで営業の仕事もしたが、さぼって喫茶店にいたという。プロ入り後も愛車は一貫してトヨタ車を愛用している(クラウン→アリスト→セルシオ→レクサス・LS)。
1993年には母校立命館大学のイメージキャラクターに選ばれた。その際のキャッチコピーは「うちのチームも大したもんだが、うちの母校も大したもんだ」。2008年には、京都の龍安寺にて同学の川口清史総長と語り合う、という内容の同学の広告に再登場した。
1994年にシングルCD「Xeno 〜見知らぬ人〜」を発売している(現在は廃盤)。なおPVにはレコーディングの模様が使用されている。
2001年のリーグ優勝の時、ウイニングボールをキャッチし、高津臣吾を抱擁し、喜びを分かち合うはずだったが、石井一久に先を越され、結果、古田はマウンド上で独りになってしまった。日本シリーズでも同様のことが繰り返され、オフシーズンに出演した番組でネタにされた。高津と石井とは仲が良いことで有名である。
2005年1月5日、故郷である兵庫県川西市から同市第1号の「名誉市民」に選ばれ、同日の記念講演で「子どもたちが大きな夢を持って育てるような環境づくりに貢献していきたい」と語った。
2005年から、公式ブログを開設。トラックバック数1位を誇る「ブログの女王」眞鍋かをりのブログを意識しており、「打倒眞鍋かをり」を宣言している。眞鍋がブログを書籍化した際には、古田が宣伝用の帯を担当し、古田が書籍化した際には、眞鍋が宣伝用の帯を書いている。公式ブログを開設する以前、試験的に「吉田淳也」という偽名でブログを数回書いていた。写真を載せていたのにも関わらず閲覧数はとても少なかったが、古田敦也の公式ブログで紹介すると一気に閲覧数が増えたという。
眼鏡を掛け、飄々とした風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。2006年・2007年には前述の「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに務め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けた。ちなみに、あだ名の由来である「野比のび太」とは誕生日が1日違いである(古田8月6日、のび太8月7日)。
2006年11月21日、男性誌GQ JAPANの読者投票により「GQ JAPAN Men of the Year 2006」のスポーツ部門で選出された[7]。
プロ野球の現場退任後、数多くのマラソン大会に出場しているためマラソンランナーとしての知名度も上げている。2009年3月22日、東京マラソンを完走。2010年5月16日、ホノルルトライアスロンを完走。2011年9月18日には、アイアンマン70.3 セントレア常滑ジャパンを完走した。
2011年12月4日、西オーストラリアでアイアンマンレースを完走。
野球
野村克也監督の下での現役時代、ベンチではルーキー時から常に監督の傍にいた。野村はこの事について「お前はキャッチングとスローイングは出来上がっとるから、あとは配球を覚えろ。試合が始まったらずっと俺の傍にいろ。俺がブツブツ言うのを聞いとれ、と言ったんです。彼は忠実に(私の傍に)いましたよ」と述べている[8]。
福田功は「古田は足裏全面を地面に付けたまま同じ足の膝を地面に付くことが出来た」と古田の足首の関節の驚異的な柔軟さについて述べ、それが送球へと移行する動作の素早さに影響していると語っている[9]。
現役時代に行われたインタビューで、「これまでバッテリーを組んだ投手の中で、最も印象に残る投手は?」という質問に対し「伊藤智仁です」と即答。古田は伊藤について「全盛期は直球が速く、高速スライダーも持っていた。あれ以上の投手はなかなか現れないでしょう」と語っている。
チームの3者連続本塁打にからむことが多く、通算6回を数える。2001年に東京ドームで打ったのは自身の通算1500安打目だったり、2003年は広島市民球場で打ったのは4打数連続本塁打を打った時の2本目だったり、2004年の横浜スタジアムで打ったのは抑えの佐々木主浩から土橋勝征・岩村明憲に続き打った決勝本塁打だったりと、特にインパクトがあるものが多い。
2005年に2000本安打を達成した際、報道ステーションでのインタビュー内で「最も印象に残るヒットは?」という栗山英樹の質問に対し、「荒木大輔の復活を劇的に演出したサヨナラホームラン」と答えている(1992年9月24日広島東洋カープ22回戦(神宮)望月から打った逆転2ラン、実際はサヨナラではない)。
2000本安打を達成した記念ボールは、ヒット直後のセレモニー中に自らサインを加えてスタンドに投げ入れた。「たくさんのファンに支えられてきたので、僕がリビングに飾って見るより、喜んでくれるんじゃないかな」「自分で保管する気はなかったですね。お客さんに喜んでもらえれば、それでいいです」と試合後にその理由を述べている。ボールを手に入れた男性は、試合後に古田と対面した際、「ボールをあげたい人がいるなら」と古田に返そうとしたが、結局そのままプレゼントされた。
選手兼任監督時代、代打出場する際に球審とアイコンタクトを取って自らを指差す「代打・オレ」のポーズは話題となった。プロ入り後一貫してスワローズに在籍し、また古田自身とともにチームも隆盛したことから、「ミスタースワローズ」と呼ばれるようになった(若松勉、池山隆寛に次ぐ3代目)。
ヤクルトに入団する投手の中には「古田さんに受けてもらいたい」と発言する選手が少なくなかった。石川雅規も、大学時にシドニーオリンピックで古田とバッテリーを組んだことがきっかけでヤクルト入団を決意したひとりである。また古田の活躍に憧れて捕手になった若手選手も多く、他球団でも入団時に古田を目標として挙げる若い捕手が多い。
ヤクルト球団はフジサンケイグループ傘下にもかかわらず、同グループの夕刊フジから批判される事が多く、なかでも労組選手会の会長を務めていた古田は槍玉に挙げられる事が多かった。一方スポーツ報知、日刊スポーツなどは2007年頃からヤクルト球団幹部の手際の悪さを度々指摘し、古田を擁護する姿勢をとっていた。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | ヤクルト | 106 | 334 | 280 | 32 | 70 | 12 | 1 | 3 | 93 | 26 | 1 | 1 | 3 | 4 | 43 | 3 | 4 | 44 | 11 | .250 | .353 | .332 | .686 |
テンプレート:By2 | 128 | 485 | 412 | 58 | 140 | 23 | 5 | 11 | 206 | 50 | 4 | 5 | 4 | 3 | 62 | 7 | 4 | 59 | 10 | .340 | .428 | .500 | .928 | |
テンプレート:By2 | 131 | 568 | 474 | 87 | 150 | 27 | 3 | 30 | 273 | 86 | 3 | 2 | 1 | 4 | 78 | 10 | 11 | 87 | 12 | .316 | .422 | .576 | .997 | |
テンプレート:By2 | 132 | 595 | 522 | 90 | 161 | 29 | 0 | 17 | 241 | 75 | 11 | 4 | 9 | 2 | 59 | 0 | 3 | 83 | 15 | .308 | .381 | .462 | .842 | |
テンプレート:By2 | 76 | 287 | 260 | 24 | 62 | 9 | 0 | 3 | 80 | 19 | 3 | 0 | 1 | 3 | 20 | 2 | 3 | 40 | 11 | .238 | .297 | .308 | .605 | |
テンプレート:By2 | 130 | 551 | 487 | 88 | 143 | 18 | 1 | 21 | 226 | 76 | 6 | 0 | 5 | 7 | 46 | 0 | 6 | 51 | 24 | .294 | .357 | .464 | .821 | |
テンプレート:By2 | 119 | 492 | 437 | 57 | 112 | 24 | 2 | 11 | 173 | 72 | 5 | 1 | 4 | 1 | 46 | 1 | 4 | 68 | 22 | .256 | .332 | .396 | .728 | |
テンプレート:By2 | 137 | 598 | 509 | 74 | 164 | 32 | 2 | 9 | 227 | 86 | 9 | 4 | 3 | 4 | 69 | 4 | 13 | 64 | 11 | .322 | .413 | .446 | .859 | |
テンプレート:By2 | 132 | 552 | 491 | 58 | 135 | 19 | 1 | 9 | 183 | 63 | 5 | 4 | 3 | 4 | 46 | 4 | 8 | 62 | 14 | .275 | .344 | .373 | .717 | |
テンプレート:By2 | 128 | 548 | 483 | 79 | 146 | 26 | 2 | 13 | 215 | 71 | 10 | 3 | 4 | 7 | 51 | 4 | 3 | 41 | 8 | .302 | .368 | .445 | .813 | |
テンプレート:By2 | 134 | 562 | 496 | 65 | 138 | 31 | 0 | 14 | 211 | 64 | 5 | 5 | 6 | 4 | 45 | 5 | 11 | 54 | 15 | .278 | .349 | .425 | .774 | |
テンプレート:By2 | 121 | 503 | 441 | 59 | 143 | 23 | 0 | 15 | 211 | 66 | 1 | 0 | 3 | 7 | 43 | 2 | 9 | 41 | 17 | .324 | .390 | .478 | .868 | |
テンプレート:By2 | 120 | 458 | 420 | 49 | 126 | 24 | 1 | 9 | 179 | 60 | 3 | 0 | 3 | 1 | 28 | 3 | 6 | 47 | 15 | .300 | .352 | .426 | .778 | |
テンプレート:By2 | 139 | 576 | 509 | 69 | 146 | 27 | 1 | 23 | 244 | 75 | 2 | 0 | 4 | 3 | 49 | 6 | 11 | 77 | 14 | .287 | .360 | .479 | .840 | |
テンプレート:By2 | 133 | 532 | 483 | 72 | 148 | 23 | 0 | 24 | 243 | 79 | 1 | 2 | 0 | 3 | 36 | 2 | 10 | 66 | 11 | .306 | .365 | .503 | .868 | |
テンプレート:By2 | 96 | 357 | 329 | 29 | 85 | 15 | 0 | 5 | 115 | 33 | 1 | 0 | 1 | 3 | 19 | 0 | 5 | 54 | 8 | .258 | .306 | .350 | .656 | |
テンプレート:By2 | 36 | 98 | 90 | 11 | 22 | 5 | 0 | 0 | 27 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | 2 | 0 | 13 | 4 | .244 | .299 | .300 | .599 | |
テンプレート:By2 | 10 | 19 | 18 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | .333 | .368 | .389 | .757 | |
通算:18年 | 2008 | 8115 | 7141 | 1003 | 2097 | 368 | 19 | 217 | 3154 | 1009 | 70 | 31 | 55 | 60 | 748 | 56 | 111 | 951 | 223 | .294 | .367 | .442 | .808 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年度 | 試合数 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 同順位 | 捕逸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | 106 | 55 | 26 | 29 | .527 | 1 | 5 |
1991 | 127 | 83 | 35 | 48 | .578 | 1 | 12 |
1992 | 130 | 60 | 31 | 29 | .483 | 1 | 2 |
1993 | 132 | 45 | 16 | 29 | .644 | 1 | 7 |
1994 | 76 | 24 | 12 | 12 | .500 | 1 | 2 |
1995 | 130 | 67 | 35 | 32 | .478 | 2 | 6 |
1996 | 118 | 60 | 36 | 24 | .400 | 3 | 7 |
1997 | 137 | 61 | 33 | 28 | .459 | 1 | 7 |
1998 | 132 | 68 | 38 | 30 | .441 | 1 | 10 |
1999 | 127 | 59 | 32 | 27 | .458 | 1 | 13 |
2000 | 134 | 73 | 27 | 46 | .630 | 1 | 7 |
2001 | 116 | 43 | 22 | 21 | .488 | 2 | 2 |
2002 | 113 | 52 | 30 | 22 | .423 | 3 | 8 |
2003 | 139 | 71 | 44 | 27 | .380 | 1 | 5 |
2004 | 130 | 58 | 43 | 15 | .259 | 6 | 8 |
2005 | 87 | 32 | 24 | 8 | .250 | 6 | 1 |
2006 | 21 | 10 | 9 | 1 | .100 | 1 | |
2007 | 6 | 5 | 5 | 0 | .000 | 1 | |
通算 | 1959 | 926 | 498 | 428 | .462 | 104 |
- 各年度の太字はリーグ最高(試合数は捕手として全試合出場)
- 盗塁阻止率順位が空欄となっている年度は捕手としての出場試合数が規定試合数に到達せず
年度別監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | ヤクルト | 3位 | 146 | 70 | 73 | 3 | .490 | 18 | 161 | .269 | 3.91 | 41歳 | |
2007年 | 6位 | 144 | 60 | 84 | 0 | .417 | 20.5 | 139 | .269 | 4.07 | 42歳 | ||
通算:2年 | 290 | 130 | 157 | 3 | .448 | Aクラス1回、Bクラス1回 |
タイトル
表彰
- MVP:2回 (1993年、1997年)
- ベストナイン:9回 (1991年 - 1993年、1995年、1997年、1999年 - 2001年、2004年)
- ゴールデングラブ賞:10回 (1990年 - 1993年、1995年、1997年、1999年 - 2001年、2004年)
- 正力松太郎賞:1回 (1997年)
- 日本シリーズMVP:2回 (1997年、2001年)
- オールスターゲームMVP:2回 (1991年 第1戦、1992年 第2戦)
- 月間MVP:4回 (1991年5月、1993年8月、1997年5月、1997年9月)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (1993年)
- 最優秀バッテリー賞:6回 ※6回選出は歴代最多タイ記録
- 最優秀バッテリー賞(特別賞):1回 (1993年)
- JA全農Go・Go賞:2回 (強肩賞:1993年9月、最多二・三塁打賞:2000年8月)
- 日本プロスポーツ大賞殊勲賞:1回 (1993年)
- セ・リーグ会長特別賞:1回 (2003年)
- セ・リーグ特別功労賞:1回 (2007年)
記録
- 初記録
- 初出場:1990年4月11日、対中日ドラゴンズ2回戦(明治神宮野球場)、6回表に秦真司に代わり捕手として出場
- 初先発出場:1990年4月28日、対読売ジャイアンツ3回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として出場
- 初安打・初打点:1990年4月30日、対読売ジャイアンツ5回戦(明治神宮野球場)、2回裏に木田優夫から左中間へ2点適時二塁打
- 初本塁打:1990年6月6日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、6回表に北別府学から3ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1997年5月7日、対読売ジャイアンツ4回戦(明治神宮野球場)、7回裏に入来祐作から左越ソロ ※史上190人目
- 1000本安打:1997年10月3日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、3回表に黒田博樹から中前適時打 ※史上186人目
- 1000試合出場:1998年6月2日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、4番・捕手として先発出場 ※史上343人目
- 150本塁打:2001年7月10日、対読売ジャイアンツ13回戦(東京ドーム)、6回表にダレル・メイから左越逆転2ラン ※史上118人目
- 1500本安打:2001年7月11日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、1回表に上原浩治から右越ソロ ※史上82人目
- 1500試合出場:2002年5月4日、対中日ドラゴンズ6回戦(明治神宮野球場)、5番・捕手として先発出場 ※史上135人目
- 300二塁打:2003年4月4日、対阪神タイガース1回戦(大阪ドーム)、9回表にジェフ・ウィリアムスから右中間二塁打 ※史上40人目
- 200本塁打:2004年6月29日、対横浜ベイスターズ14回戦(宮城球場)、9回表に土居龍太郎から左越場外ソロ ※史上80人目
- 3000塁打:2004年9月25日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、6回表に小山田保裕から左中間へソロ ※史上38人目
- 350二塁打:2005年4月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(明治神宮野球場)、3回裏に吉川輝昭から左翼線二塁打 ※史上24人目
- 2000本安打:2005年4月24日、対広島東洋カープ5回戦(坊っちゃんスタジアム)、6回裏に大竹寛から三塁強襲二塁打 ※史上32人目(捕手としては野村克也に次いで歴代2人目、大学卒・社会人野球出身選手として初)
- 1000打点:2005年10月5日、対中日ドラゴンズ21回戦(明治神宮野球場)、8回裏に真中満の代打として出場、高橋聡文から左前適時打 ※史上27人目(大学卒・社会人野球出身選手として初)
- 1000得点:2006年6月4日、対オリックス・バファローズ6回戦(明治神宮野球場)、7回裏にアダム・リグスの左越3ランで記録 ※史上33人目
- 2000試合出場:2007年4月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上37人目(捕手登録の選手史上5人目、大学卒・社会人出身選手初。なお、古田はこの試合で退場処分を受けている)
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:17回(1990年 - 2006年)※現役最終年の2007年はコーチとして出場
- 1試合本塁打:4本(2003年6月28日)※日本タイ記録
- シーズン盗塁阻止率.644 (1993年)※日本記録
背番号
- 27 (1990年 - 2007年)
スポーツマンNo.1決定戦
- スポーツマンNo.1決定戦の第4回プロスポーツマン大会に参戦。大会出場を「年に1度の自己確認」とし、特にMONSTER BOXの自己記録更新に毎回、執念を見せていた。第6回プロスポーツマン大会では14段から自己記録を2段更新する2段更新する16段を成功。また、頭脳系のTHIRTYでは毎回種目別No.1を目指すも準決勝で敗退とNo.1を掴めなかったが、最後の出場となった第11回プロスポーツマン大会で、ついにTHIRTYで種目別No.1を獲得し、悲願を成し遂げた。またその大会ではSPIN OFFで木元邦之と相川亮二のプロ野球選手相手に勝利し準決勝進出する活躍もあり、総合8位で自身初の総合上位入賞を果たした。インタビューで明るい一面を見せることが多く、大会の盛り上げ役も買って出ていた。
- プロスポーツマン大会
大会 | 放送日 | 総合順位 |
---|---|---|
第4回大会 | 1998年1月1日 | 11位 |
第5回大会 | 1999年月1日 | 11位 |
第6回大会 | 2000年1月1日 | 15位 |
第7回大会 | 2001年1月1日 | 9位 |
第9回大会 | 2003年1月1日 | 12位 |
第10回大会 | 2004年1月1日 | 13位 |
第11回大会 | 2005年1月1日 | 8位 |
関連情報
主な著書
- 「古田のびのびID野球」(1993年、学研/単著)ISBN 4054001181
- 「古田式」(2001年、太田出版/共著 古田敦也・周防正行)ISBN 4872335813
- 「心を読み、かけひきに勝つ思考法」(2002年、PHP研究所/共著 古田敦也・谷川浩司)ISBN 4569622313
- 「勝利のチームメイク」(2003年、日本経済新聞社/共著 古田敦也・岡田武史・平尾誠二)ISBN 4532164389
- 「「勝負脳」を鍛える」(2004年、PHP研究所/共著 古田敦也・谷川浩司)ISBN 4569662307
- 「古田のブログ」(2005年、アスキー/単著)ISBN 4756146937 (公式ブログを書籍化)
- 「優柔決断のすすめ」(2009年、PHP新書/単著)ISBN 4569774210
- 「フルタの方程式」DVD付(2009年、朝日新聞出版/単著)ISBN 4022506318
- 「フルタの方程式 バッターズ・バイブル」 (2010年、朝日新聞出版/単著) ISBN 4022507381
情報・報道番組
バラエティ番組
- 関口宏の東京フレンドパークII (TBS)
- 1992年、1993年、1994年(以上「1」の時)、1997年、2001年に出演。
- スポーツマンNo.1決定戦(1998年~2001年、2003年~2005年、TBS)
- とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ)
- 食わず嫌い王決定戦に2回出演。
- ダウンタウンDX(読売テレビ)
- スペシャルにて、高津臣吾とゲスト出演。
- SMAP×SMAP(関西テレビ・フジテレビ)
- コーナー「BISTRO SMAP」にゲスト出演(1回目は中井美穂と、2回目は五十嵐亮太と出演)。
- トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜(フジテレビ)
- 秋のスペシャルでゲスト出演
- ネプリーグ(フジテレビ)
- 2008年8月4日放送分で、オリンピックチームのキャプテンとして出演。「ファイブツアーズバギー」では最終問題を正解し、ゲストチームとして初めて同ゲームをクリアした。
- 鶴瓶の家族に乾杯(2009年1月1日、NHK)
- スタジオパークからこんにちは(2010年5月31日、NHK)
- くりぃむクイズ ミラクル9 (テレビ朝日系列)
教養・ドキュメンタリー番組
- アインシュタインの眼(2010年4月 - 2012年3月、BSプレミアム)
- メインキャスターとしてレギュラー出演。
- 古田敦也のスポーツトライアングル(2012年3月-2012年9月、NHK BS1)
- メインプレゼンテーターとして出演、題字など達筆も披露
- 仲村トオル・古田敦也が追う維新の・ぼーる(2012年10月27日、愛媛朝日テレビ)
- 古田敦也のプロ野球ベストゲーム(2013年5月3日・11月7日- NHK BS1)
- 司会(プレゼンター)担当
- 野球魂(2014年8月12日、NHK BS1)
- ナビゲーター
スポーツ番組
- フルタの方程式(テレビ朝日)
- 初の冠番組、月1回の放送。
- F1グランプリ(フジテレビ)
- 2009年のイギリスGPにてゲスト出演。
- 速報!スポーツLIVE(テレビ朝日)
- レギュラーコメンテーターとして出演。
- SPORTS X(2012年4月14日 - 、BS朝日)
コマーシャル
- アイメトリクス・ジャパン(1992年 - 2007年)
- 古田は1992年7月に同社と契約し、以来同社の眼鏡を愛用し続けている。2006年・2007年にはF-Projectのデーイベント「メガネDay」の協賛も行った。
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)(1993年・踏切事故撲滅キャンペーン)
- 東京デジタルホン(現ソフトバンクモバイル)(1994年)
- ヤクルト本社(1996年、2006年3月ほか)
- 現役時代はヤクルトのCMにも数回出演。1996年のCMでは夫人の中井美穂と共演した。また2006年のCMはブロックサインを交えたユニークなものであった。
- トヨタホーム(1996年)
- 古田がトヨタOBであることから出演が実現。こちらも夫人と共演した(夫人は1998年まで出演)。
- サッポロ黒ラベル(2002年)
- ゼット(2003年)
- ・企業イメージCM「もっとうまくなりたい。」編に登場し、古田は現役時代、同社とアドバイザリー契約を結び、同社のバット、ミット、プロテクターなどを使用していた。
- 富士写真フイルム(2005年4月)
- 企業イメージCM「あしたにつづく写真」第4編に登場し、古田は“思い出の一枚”として立命館大4年時に撮影した写真を選び、当時の思い出を語った。
- 三井ダイレクト損害保険(2005年4月 - )
- ホワイトバンドプロジェクト(2005年)
- ユニデン(2006年 - 2007年)
- 任天堂「Wii Fit」(2007年 - )
- これを機に、Miiコンテストチャンネルの題材にされた。
- サッポロビールビアファイン(2008年)
- パナソニック4枚刃電気シェーバー「ラムダッシュ」(2008年)
- 日本航空(2008年 - 、JALカード編、クラスJ編)
- クラスJ編では、古田の現役引退試合の1シーンや少年野球チームを指導するシーンがある。
ドラマ
- 連続テレビ小説ふたりっ子(1996年10月 - 1997年3月、NHK総合)
- 第129話・130話に棋士・毛利元彦役で出演。
- アストロ球団(2005年8月 - 10月、テレビ朝日)
- 第1話(第一球)と最終話(第九球)に本人役で出演。
- 役者魂!(2006年10月 - 12月、フジテレビ)
- 第6話(2006年11月21日放送)に桜子の担任教諭・森役で出演。ドラマ企画担当の高井一郎と美穂夫人はフジテレビの同期入社という縁で普段から親交があり、高井の出演依頼を受けての出演だった。
- ガリレオ 第2シーズン 第四章「曲球る」(2013年5月6日、フジテレビ)
- 田辺誠一扮する元プロ野球投手柳沢のピッチングパートナー宗田祐輔役で出演。
ラジオ番組
- 古田敦也 ラジオもやってます(2008年4月 - 2010年3月、ニッポン放送)
ゲーム
- 古田敦也のシミュレーションプロ野球2:1996年8月24日発売。ヘクト (ゲーム会社)より販売。スーパーファミコン用ソフト。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:東京ヤクルトスワローズ歴代監督 テンプレート:Navboxes テンプレート:ソウルオリンピック野球日本代表
テンプレート:ヤクルトスワローズ1989年ドラフト指名選手- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 同じ小学校の卒業生に屋鋪要がいる。古田の方が6歳年下になる。
- ↑ 東京ヤクルトスワローズ 選手兼監督 古田敦也 前編1ドリームゲート
- ↑ http://www.5-life.net/magazine/article-345.html 木村政雄編集長との対談
- ↑ 大沢啓二『球道無頼』(集英社、1996年)P215。
- ↑ TBSで放送されたZONEにて告白
- ↑ 参照
- ↑ 「ジャンクSPORTS」内での発言
- ↑ スターキャットチャンネルの番組内での発言より。