門田博光
テンプレート:Infobox baseball player 門田 博光(かどた ひろみつ、1948年2月26日 - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手(外野手)。
現役時代は南海・ダイエー、オリックスで主に指名打者として活躍した。40歳を超えても活躍した数少ない選手であり、「不惑の大砲」の異名を持つ。
目次
来歴・人物
現役時代
天理高校では、四番打者、中堅手として、外山義明投手を擁し、テンプレート:By夏の県予選決勝に進出。白滝政孝投手のいた郡山高を0-2で破る。続く紀和大会決勝でも県和歌山商を1-3で降し甲子園に出場。1回戦で小山健二投手(日本コロムビア)を擁する丸子実に9回に逆転され1-3で敗退。
卒業後は外山とともに社会人野球チームクラレ岡山に進む。テンプレート:Byから都市対抗野球大会に4年連続出場。テンプレート:Byのドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否。翌テンプレート:Byのドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。
1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目のテンプレート:Byにレギュラー定着。打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王。同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。この頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒットの延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったほどだった[1]。しかし頑固で鳴る門田はこれを一切受け入れず、あくまで長打にこだわった打撃を押し通した。「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。
テンプレート:By2月のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しほぼ1シーズンを棒に振るが、同年9月には代打で登場した。翌テンプレート:Byに復活。以降、「ホームランなら足に負担がかからない。全打席ホームランを狙う」と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと、翌テンプレート:Byには44本塁打で初の本塁打王に輝く。
怪我からの復帰後は脚力が大きく衰え、しばしば「ライトゴロ」を記録するほどで、DHとして出場することがほとんどになった。新人時代に強肩ぶりを誇った肩も著しく衰えた。南海時代末期には加藤英司がDHに入ったり、オリックス時代には石嶺和彦がDHに入ったために門田が守備に就くこともあった。だが、88年の球宴では指名打者部門が設置されておらず秋山幸二・平野謙と共にパリーグ外野手部門でファン投票選出され、ナゴヤ球場での第2戦に3番右翼手で先発出場。門田より22歳下のセリーグ先発2番であった立浪和義が門田より17歳下のパリーグ先発投手阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。
しかし打撃は衰えを見せず、テンプレート:Byも40本塁打で本塁打王。テンプレート:By8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる2000本安打を達成。テンプレート:Byは40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPに輝く。40歳で44本塁打は日本初の快挙。この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。この記録は、2010年42歳を迎える楽天の山崎武司が更新している。
引退時に本塁打を奪った投手の数が184人は王貞治の183人を抑え、2003年に清原和博に抜かれるまで1位だった。現在もパ・リーグ記録や同一リーグでの日本プロ野球記録である。
テンプレート:Byに南海はダイエー本社に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。
テンプレート:By、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と、古巣への愛着から福岡に移転していた古巣のホークスにオリックスを自由契約となる形で復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年のテンプレート:By夏、記者に「オレは老衰」と漏らし、現役引退。引退試合は平和台球場でのプロ野球最終公式戦、3番DHで先発し1回裏近鉄の野茂英雄投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし3球三振だった(広永益隆のソロホームランで挙げた最少得点を若田部健一・吉永幸一郎のバッテリーが守り抜き完封)。
無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂ったことで、現役時代から体調不良に悩まされた。ある日、自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。這いつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。2005年に小脳梗塞を発症し30日間入院したが、幸い後遺症が出ることもなく退院した。
引退後
1993年から2005年まで朝日放送(ABC)の野球解説者を務めた。1993年、1994年はスポーツニッポン評論家、1995年、1996年は日刊スポーツ評論家も務めた。2006年、野球殿堂入り。7月21日に神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式に、病気療養中ながら姿を見せている。
2009年に大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。2011年6月、田中実監督が解任されたため、新監督に就任。同年9月、契約満了に伴い退任。
エピソード
野村克也との関係
南海時代、野村克也とソリが合わなかったと言われる。
- 野村の南海監督解任に至るチーム内の不協和音には「自分の中に入ってきてもらっては困る」と明言して一切気にしなかったが、野村が「二塁の桜井(輝秀)とライトの門田のふたりは10年間不動のままでいける」と言っていてくれたことが助かったと自著に記している[2]。
- 後日、野村は「江本、江夏、門田の3人を三悪(または映画「隠し砦の三悪人」を模して南海の三悪人)と呼んでいる。指導者には絶対向かん」と自著で述べている。しかし内心では野村は門田の実力を大いに認め(最初に門田を見い出したのも野村である)、門田も従うべきところでは従っていたと言われている(出典:20世紀プロ野球事件簿、ベル・スズカワ、2001年他)。野村が解説者時代に「週刊朝日」に連載した「野村克也の目」(後に単行本化)にも門田を取り上げて諭すように記した回がある。
- 打撃理論において安打の延長線上にホームランがあるとする野村の考え方と、ホームランの打ち損ねが安打なのだという門田の考え方は対照的である。
なお、南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、テンプレート:Byに(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。8月31日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(福岡ヤフオクドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーには、野村と共に南海時代の復刻ユニフォーム姿で登場した。始球式では、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王貞治に見守られながら、同ドームの左打席(野村は右打席)に立った[3]。
選手として
その頃のプロ野球の主力選手には珍しく大きな数字の背番号をつけており、しかも次第に大きくなっていった。1980年から使用した44番はハンク・アーロンなどメジャーリーグの強打者に多いことや、44歳で亡くなった母親の供養の意味で44本の本塁打を目標とする意図からつけられた。1981年に実際に44本塁打を放って本塁打王を獲得すると、次は60本に目標を切り替えて背番号を60とした。
当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日凡退したあとベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した[4]。
本塁打王と打点王を獲得した1988年に、日本テレビ系列で放映された「追跡」の特集では、インタビュアーであった作家の安部譲二に今年ホームラン王を獲得できたことに関して、「ここ7・8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれたこと」と語っていた。
オリックス移籍1年目の1989年9月25日の対ダイエー戦。3回裏に本塁打を打ち、ホームで出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際、右腕を脱臼。この時、登録抹消までには至らなかったが、シーズン終盤での貴重な約1週間を棒に振るアクシデントに見舞われる(ちなみに入団直後のある試合で走者として一塁に帰塁した際に脱臼して以来、持病として脱臼癖を持っていたのだが、この日のスポーツニッポンの取材に対し、「何度もやっているから自分でどうすればいいか分かっている」としながらも落ち込んでいた。また、ハイタッチの当事者ながら悪気はなかったブーマーもひどく落ち込んでいた)この年は近鉄・西武とオリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、この終盤戦での門田の離脱はオリックスにとってダメージとなった。
1990年の西武戦で打席に立った際、投球を捕手の大宮龍男が落球し、1塁ランナーが進塁を試みるという場面があった。ここで門田は、自らの足元にボールが転がっているのを確認していたにも関わらず、まだ必死でボールを探している大宮に向かって、全く別の方向を指差して撹乱するという珍プレーを披露している。大宮は一瞬だがまんまと騙され、結局ランナーの進塁を許してしまい、門田を小突いている。
オリックス移籍で感じたこととして、「強いチームというのは勝つときも負けるときも淡白でさらっとしている」とのこと。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。
前述のアキレス腱断裂の際、チームに担架が用意されておらず、門田は戸板に乗せられて搬送された。南海の貧乏ぶりを示す逸話である。
健康管理
南海・オリックス時代、当時住んでいた奈良市の学園前から球場まで電車で通勤していた。理由は右足のアキレス腱断裂後の足のトレーニングを兼ねていたためである。マイカーも持っていたが、運転で集中力を切らさないためにあえて避けていた。
グレープフルーツと共にゆで卵を摂取するデンマーク式ダイエットをオリックス時代に用いた時期があった。その一方で好物は炭酸飲料という一面もある。
人物像
野球用語の使い方に強いこだわりを持つ。打点は「RBI」、犠打は「サクリファイス バント」等々、原語の野球用語を使うことを心がけていた。しかし、ドーム球場に対して屋根の付いていない球場のことを「ナチュラル球場」、「パ・リーグ」を「パアリーグ」と呼ぶなど、長嶋英語に匹敵する単語も解説の際しばしば飛び出した(ちなみに門田は長嶋のファンでもある)。
現役時代はマスコミとの接触をあまり好まなかった。特に、普段は見向きもしないのに記録がかかると大挙して押し寄せて来る東京のマスコミを嫌っていた。またマスコミのみならず、シャイで口下手な性格ゆえに「私は滅多に人を好きになれないようで、今日まで5人くらいしか気の許せる人はいない」ということである。上記の「追跡」のインタビューでは、話す相手に性格が仇となって誤解を招かないかと心配していたこともあったという。
オリックス時代に平和台球場での試合で、福岡のファンからオリックスに移籍し福岡に来なかったことに対して、博多弁で「なんばしょっか」と野次られたが、本人は「難波のショッカー」に聞こえ、また「帰れ!」コールには「ホークスに帰ってこい」の意味と思い込み、福岡のファンは自分を応援してくれているのだと感動したという。
趣味は陶芸、油絵、写経など。引退後は広島市のお好み村に、広島風お好み焼き店を出していたことがある。
現役引退後の1993年1月26日放送のテレビドラマ「ホテルドクター」(ABC制作、テレビ朝日系)の第3話にラーメン屋台の主人役でゲスト出演した。また、ABCのラジオ番組を持っていた時に、「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造の物真似を披露し、コーナーのタイトルを読み上げていた。持ちネタとして他に、山下清の物真似も披露していた。
2006年7月21日、神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式のお礼の挨拶で、「最高のものを頂きました。人生の“終着駅”に着いたかなという感じです」と発言し、終了後にその場にいた名球会の会長である金田正一から「二度とそんなことは言うな!」と叱責され、「これからも後進のために頑張ると約束してくれ」と言われたという。
2007年8月24日、8月31日の「小兵」をテーマとした『ナンだ!?』に、舞の海秀平(相撲)、志村雄彦(バスケットボール)と共に出演。「高校時代の3年間で1本も本塁打を打てなかった」などのエピソードを明かした。
家族
夫人との間に一男一女をもうける。アキレス腱断裂で病院から自宅に戻ったあと、長男(当時小学1年)から職業を聞かれたことがきっかけで、「今度オールスターゲームに出たら、球場に来るか」と口にする。復帰した1980年に門田はそれを子どもとの約束と考えてプレーに励み、パ・リーグの西本幸雄監督の推薦で出場を実現させた。西宮球場の第1戦に家族を招き、その前で本塁打を放つことができた[5]。
ホークスの福岡移転で門田が関西の他球団への移籍を申し出たことについて、門田を知る球団・球界関係者の多くは「子煩悩なカドさんなら仕方ないか」と納得していたようである(当時中学生の娘のためだったと思われる)。その後、娘の高校進学などでダイエーに移籍した。
上記の「追跡」の特集では夫人と娘へのインタビューも紹介された。それによると、
- 家庭での門田について - 娘:普段は「面白いお父さん」、夫人:シーズンオフの家ではとてもリラックスして過ごしているが、シーズンが始まると無口になり、とても近づきづらい。
- 娘は当時、西武に在籍していた工藤公康のファンで、工藤に会いに門田に内緒で大阪球場に行った。夫人によると、その後娘から工藤のファンと聞かされた門田は、ある日の試合で家を出る際、「今日は、工藤やから打つぞ!」や「むちゃくちゃ打ったる!」と言って球場に向かったという[6]。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 南海 | 79 | 246 | 232 | 27 | 58 | 12 | 1 | 8 | 96 | 31 | 2 | 1 | 0 | 2 | 9 | 0 | 3 | 39 | 2 | .250 | .285 | .414 | .698 |
テンプレート:By2 | 129 | 558 | 506 | 70 | 152 | 24 | 1 | 31 | 271 | 120 | 5 | 3 | 1 | 6 | 38 | 2 | 7 | 58 | 8 | .300 | .354 | .536 | .889 | |
テンプレート:By2 | 125 | 529 | 475 | 73 | 147 | 24 | 2 | 14 | 217 | 58 | 4 | 3 | 1 | 5 | 45 | 1 | 3 | 37 | 9 | .309 | .369 | .457 | .826 | |
テンプレート:By2 | 127 | 530 | 484 | 66 | 150 | 26 | 1 | 18 | 232 | 65 | 3 | 5 | 0 | 2 | 40 | 1 | 4 | 43 | 10 | .310 | .366 | .479 | .845 | |
テンプレート:By2 | 124 | 487 | 432 | 62 | 116 | 23 | 4 | 27 | 228 | 76 | 1 | 2 | 0 | 7 | 47 | 6 | 1 | 59 | 10 | .269 | .337 | .528 | .865 | |
テンプレート:By2 | 129 | 550 | 485 | 72 | 136 | 29 | 2 | 19 | 226 | 85 | 6 | 1 | 1 | 5 | 55 | 5 | 4 | 49 | 8 | .280 | .355 | .466 | .821 | |
テンプレート:By2 | 125 | 522 | 456 | 64 | 137 | 25 | 4 | 22 | 236 | 77 | 2 | 1 | 0 | 10 | 54 | 7 | 2 | 51 | 8 | .300 | .370 | .518 | .887 | |
テンプレート:By2 | 128 | 543 | 479 | 71 | 150 | 22 | 0 | 25 | 247 | 91 | 5 | 5 | 0 | 8 | 52 | 5 | 4 | 72 | 3 | .313 | .379 | .516 | .895 | |
テンプレート:By2 | 106 | 406 | 360 | 37 | 90 | 13 | 0 | 15 | 148 | 44 | 3 | 2 | 1 | 4 | 37 | 3 | 4 | 59 | 4 | .250 | .323 | .411 | .735 | |
テンプレート:By2 | 19 | 63 | 54 | 5 | 15 | 2 | 0 | 2 | 23 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 0 | 0 | 15 | 0 | .278 | .365 | .426 | .791 | |
テンプレート:By2 | 111 | 430 | 377 | 60 | 110 | 10 | 0 | 41 | 243 | 84 | 0 | 0 | 0 | 2 | 48 | 9 | 3 | 72 | 7 | .292 | .374 | .645 | 1.019 | |
テンプレート:By2 | 127 | 537 | 438 | 83 | 137 | 18 | 0 | 44 | 287 | 105 | 4 | 1 | 1 | 4 | 92 | 8 | 2 | 70 | 10 | .313 | .431 | .655 | 1.086 | |
テンプレート:By2 | 107 | 392 | 333 | 42 | 91 | 17 | 0 | 19 | 165 | 45 | 6 | 1 | 0 | 4 | 52 | 11 | 3 | 63 | 6 | .273 | .372 | .495 | .868 | |
テンプレート:By2 | 122 | 487 | 396 | 68 | 116 | 14 | 1 | 40 | 252 | 96 | 1 | 1 | 0 | 2 | 85 | 20 | 4 | 86 | 6 | .293 | .421 | .636 | 1.057 | |
テンプレート:By2 | 108 | 444 | 362 | 60 | 103 | 11 | 0 | 30 | 204 | 78 | 3 | 1 | 0 | 5 | 75 | 20 | 2 | 75 | 1 | .285 | .405 | .564 | .969 | |
テンプレート:By2 | 114 | 466 | 383 | 63 | 104 | 12 | 2 | 23 | 189 | 62 | 0 | 0 | 0 | 4 | 78 | 8 | 1 | 88 | 9 | .272 | .393 | .493 | .886 | |
テンプレート:By2 | 123 | 479 | 416 | 51 | 109 | 14 | 0 | 25 | 198 | 77 | 2 | 3 | 1 | 0 | 57 | 12 | 5 | 101 | 7 | .262 | .358 | .476 | .834 | |
テンプレート:By2 | 126 | 458 | 379 | 63 | 120 | 16 | 0 | 31 | 229 | 69 | 1 | 1 | 0 | 3 | 74 | 24 | 2 | 66 | 5 | .317 | .428 | .604 | 1.032 | |
テンプレート:By2 | 130 | 557 | 447 | 82 | 139 | 12 | 0 | 44 | 283 | 125 | 2 | 1 | 0 | 10 | 98 | 20 | 2 | 82 | 13 | .311 | .429 | .633 | 1.062 | |
テンプレート:By2 | オリックス | 116 | 489 | 406 | 70 | 124 | 17 | 1 | 33 | 242 | 93 | 0 | 2 | 0 | 3 | 78 | 3 | 2 | 103 | 12 | .305 | .417 | .596 | 1.013 |
テンプレート:By2 | 119 | 527 | 446 | 77 | 125 | 21 | 0 | 31 | 239 | 91 | 0 | 1 | 0 | 2 | 78 | 7 | 1 | 118 | 11 | .280 | .387 | .536 | .923 | |
テンプレート:By2 | ダイエー | 112 | 425 | 367 | 38 | 97 | 15 | 0 | 18 | 166 | 66 | 1 | 0 | 0 | 3 | 54 | 7 | 1 | 77 | 10 | .264 | .358 | .452 | .810 |
テンプレート:By2 | 65 | 179 | 155 | 15 | 40 | 6 | 0 | 7 | 67 | 23 | 0 | 0 | 0 | 3 | 19 | 3 | 2 | 37 | 5 | .258 | .341 | .432 | .773 | |
通算:23年 | 2571 | 10304 | 8868 | 1319 | 2566 | 383 | 19 | 567 | 4688 | 1678 | 51 | 35 | 6 | 95 | 1273 | 182 | 62 | 1520 | 164 | .289 | .379 | .529 | .907 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
7位 | 5位 | 5位 | 9位 | 4位 | 14位 | - | 3位 | 4位 | 3位 | - | - | - | 4位 | 6位 | 5位 | - | 9位 | 35位 | - | - | 20位 | - |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
タイトル
表彰
- MVP:1回 (1988年)
- 正力松太郎賞:1回 (1988年)
- ベストナイン:7回 (1971年、1976年、1977年、1981年、1983年、1988年、1989年)
- カムバック賞 (1980年)
- 月間MVP:3回 (1981年7月、1988年5月、1989年5月)
- オールスターゲームMVP:2回 (1976年 第2戦、1983年 第1戦)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2006年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1970年4月12日、対ロッテオリオンズ1回戦(東京スタジアム)、2番・右翼手として先発出場
- 初安打:同上、4回表に木樽正明から
- 初打点:1970年4月26日、対東映フライヤーズ2回戦(後楽園球場)、4回表に宮崎昭二から
- 初本塁打:1970年5月13日、対東映フライヤーズ4回戦(大阪球場)、2回裏に高橋直樹から左越先制ソロ
- 節目の記録
- 100本塁打:1975年5月11日、対阪急ブレーブス前期6回戦(大阪球場)、9回裏に竹村一義から2ラン ※史上82人目
- 150本塁打:1977年5月29日、対日本ハムファイターズ前期12回戦(青森市営野球場)、4回表に野村収から2ラン ※史上48人目
- 1000本安打:1977年8月13日、対阪急ブレーブス後期6回戦(大阪球場)、4回裏に佐藤義則から投手強襲遊撃内野安打 ※史上103人目
- 1000試合出場:1978年5月11日、対クラウンライターライオンズ前期9回戦(平和台球場)、3番・右翼手として先発出場 ※史上200人目
- 200本塁打:1980年6月27日、対西武ライオンズ前期11回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に王天上の代打として出場、松沼博久からソロ ※史上34人目
- 250本塁打:1981年8月1日、対西武ライオンズ後期5回戦(大阪球場)、6回裏に柴田保光から右中間へ2ラン ※史上19人目
- 1500本安打:1983年5月17日、対近鉄バファローズ7回戦(大阪球場)、4回裏に鈴木啓示から同点ソロ ※史上47人目
- 300本塁打:1983年6月22日、対阪急ブレーブス10回戦(阪急西宮球場)、3回表に山沖之彦から2ラン ※史上15人目
- 1500試合出場:1983年7月12日、対ロッテオリオンズ14回戦(川崎球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上75人目
- 1000打点:1984年4月6日、対阪急ブレーブス1回戦(大阪球場)、9回裏に佐藤義則から右前適時打 ※史上17人目
- 350本塁打:1984年8月26日、対日本ハムファイターズ24回戦(平和台球場)、2回表に高橋里志から2ラン ※史上12人目
- 3000塁打:1986年6月13日、対日本ハムファイターズ11回戦(大阪球場)、6回裏に木田勇から中前安打 ※史上25人目
- 1000三振:1986年8月19日、対日本ハムファイターズ19回戦(大阪球場)、8回裏に田中幸雄から ※史上12人目
- 400本塁打:1986年10月2日、対近鉄バファローズ25回戦(藤井寺球場)、5回表に小野和義から右越ソロ ※史上10人目
- 3500塁打:1987年4月25日、対近鉄バファローズ2回戦(大阪球場)、4回裏に阿波野秀幸から左中間へソロ ※史上15人目
- 300二塁打:1987年5月2日、対ロッテオリオンズ4回戦(川崎球場)、6回表に佐藤政夫から左中間二塁打 ※史上27人目
- 1000得点:1987年6月16日 対日本ハムファイターズ9回戦(群馬県立敷島公園野球場)、7回表に加藤英司の3ラン本塁打で生還 ※史上21人目
- 2000本安打:1987年8月26日、対西武ライオンズ18回戦(大阪球場)、3回裏に工藤公康から左中間二塁打 ※史上24人目
- 2000試合出場:1987年9月8日、対西武ライオンズ20回戦(西武ライオンズ球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上24人目
- 450本塁打:1988年6月12日、対近鉄バファローズ9回戦(新潟市営鳥屋野球場)、2回裏に加藤哲郎から中越2ラン ※史上9人目
- 4000塁打:1989年4月26日、対ロッテオリオンズ5回戦(阪急西宮球場)、7回裏に関清和から左越ソロ ※史上10人目
- 500本塁打:1989年8月15日、対近鉄バファローズ15回戦(藤井寺球場)、3回表に小野和義から右中間へソロ ※史上6人目
- 1500打点:1990年4月10日、対福岡ダイエーホークス1回戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏に山内孝徳から右中間へ逆転2ラン ※史上6人目
- 350二塁打:1990年6月10日、対西武ライオンズ8回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に黒原祐二から右越二塁打 ※史上18人目
- 4500塁打:1991年5月28日、対西武ライオンズ6回戦(北九州市民球場)、3回裏に渡辺智男から一塁強襲内野安打 ※史上4人目
- 550本塁打:1991年6月7日、対日本ハムファイターズ9回戦(平和台球場)、1回裏に角盈男から右中間へ先制2ラン ※史上3人目
- 2500本安打:1991年8月7日、対日本ハムファイターズ19回戦(平和台球場)、5回裏に角盈男から中前へ逆転決勝2点適時打 ※史上6人目
- 2500試合出場:1991年9月23日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(平和台球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上5人目
- 1500三振:1992年5月28日、対西武ライオンズ8回戦(平和台球場)、4回裏に渡辺智男から ※史上2人目
- その他の記録
- 月間本塁打16本:1981年7月 日本プロ野球記録(達成当時)[7]
- オールスターゲーム出場:14回 (1972年、1975年 - 1977年、1980年 - 1984年、1987年 - 1991年)
- シーズン満塁本塁打:4本(1983年) ※パ・リーグタイ記録
- 5試合連続本塁打:2回 (1981年7月1日 - 7月7日、1981年7月9日 - 7月12日)
- 2試合連続サヨナラ本塁打 ※史上6人目(パ・リーグ史上初)
- 1990年9月9日、対西武ライオンズ24回戦(阪急西宮球場)、9回裏に鹿取義隆から中越逆転サヨナラ満塁本塁打
- 1990年9月10日、対西武ライオンズ25回戦(阪急西宮球場)、9回裏に渡辺智男から左越サヨナラソロ
- 1試合5四球:1988年5月27日、対阪急ブレーブス9回戦(阪急西宮球場) ※パ・リーグタイ記録
- 1試合10守備機会・1試合10刺殺:1973年6月10日、対日拓ホームフライヤーズ前期10回戦(後楽園球場) ※共に外野手としてのパ・リーグタイ記録
背番号
- 27 (1970年 - 1979年)
- 44 (1980年 - 1982年)
- 60 (1983年 - 1988年)
- 78 (1989年 - 1990年)
- 53 (1991年 - 1992年)
関連情報
著書
- 『不惑の挑戦:南海ホークス最後のモンスター』(海越出版社, 1988年)ISBN 4906203639
- 『我が輩はバットである:私小説・プロ野球人門田の軌跡』(海越出版社, 1993年)ISBN 487697148X
- 『門田博光の本塁打一閃:ホームランに魅せられた男』(ベースボール・マガジン社, 2006年)ISBN 458303928X
解説者としての出演番組
- ABCフレッシュアップベースボール - 出演していたABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。
- スーパーベースボール - 出演していたABCテレビのプロ野球中継現行統一タイトル。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ 『門田博光の本塁打一閃』P107。同書によると、大阪球場のオープン戦でのことで、自説を撤回しない門田に二人とも呆れていたという。
- ↑ 『門田博光の本塁打一閃』P118
- ↑ 歴史的和解!南海ノムさん、36年ぶり復活 サンケイスポーツ 2013年9月1日
- ↑ 『門田博光の本塁打一閃』P121~122。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという。
- ↑ 『門田博光の本塁打一閃』の冒頭にこの話が詳しく紹介されている
- ↑ ちなみに門田は2000本目の安打を工藤から打っている。
- ↑ 2013年8月にウラディミール・バレンティンが更新 テンプレート:Cite news