秋山幸二

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テンプレート:Infobox baseball player 秋山 幸二(あきやま こうじ、1962年4月6日 - )は、熊本県八代郡宮原町(現:氷川町)出身の元プロ野球選手、現プロ野球監督。現役時代は西武ライオンズ福岡ダイエーホークスで活躍した。ポジションは三塁手、のち外野手

引退後は野球解説者プロ野球コーチなどを経て、テンプレート:Byシーズンからは福岡ソフトバンクホークスの監督を務めている。

経歴

小学3年生時に母の勧めで地元に設立されたばかりの少年野球チームに入る。小学生時代からバック転をするなどスポーツ万能であったが野球は得意でなかった部類という。中学時代はサードやセンターを守っていた。

熊本県立八代高等学校に進学後ほどなくして野球部に入部し、監督の「お前は背が高いからピッチャーだ」の一言で投手にコンバートされる。3年生時のテンプレート:By春の九州大会で準優勝。最後の夏の甲子園熊本県予選では、決勝で大津一洋伊東勤がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れた[1]。当時から12球団のスカウトに注目されていた[2]ものの、大学への進学意思が強く[2]ドラフトでは指名されなかった。しかし、ドラフト終了後にプロ入りを表明し、巨人、阪急、広島との争奪戦の上[3]、西武の執拗な説得と「君を打者として育てたい」という言葉が決め手になって[2]1981年1月にドラフト外西武ライオンズに入団した[1]。高校時代も身体能力は抜群であり、入団当時の監督・根本陸夫に「オリンピック十種競技に出場できる」と言わしめたテンプレート:要出典。当時西武のコーチだった伊原春樹も著書の中で「運動神経が抜群で脚力50メートル5秒台、遠投120メートル、鉄棒やマット運動をやらせても、体操選手だったのかと思うほど、簡単にこなします。ご存知のように、バック宙もお手のもの。あの体の大きさで、これだけの身体能力を持った選手は、後にも先にも見たことありません」と記している[4]

西武時代

西武入団当時の背番号71で、入団と同時に三塁手に転向。1年目は消化試合で初の一軍昇格を果たし、初ヒットを放っている。2年目の1982年は背番号が24になり、一軍出場はなかったが、イースタン・リーグの本塁打王(19本)を獲得。

1982年からテンプレート:Byにかけて、3度野球留学でアメリカ合衆国に渡り、1Aチームのサンノゼ・ビーズ/1983年5月28日 - 8月28日)とアリゾナ・アストロズ(1982年9月中旬 - 10月、1983年9月14日 - 11月1日)でプレーして高く評価される。このような経緯や日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた。共にクリーンアップを担っていたチームメイトの清原和博は「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と語り、オレステス・デストラーデも「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っている[5]ラルフ・ブライアントも「日本で一番すごいと思った打者は秋山」だと語っている[6]

テンプレート:By、春季キャンプから一軍入りし、7番・サードで開幕スタメンの座を獲得。4月14日にプロ初本塁打。しかし怪我をしたこともあり、54試合出場にとどまる。

テンプレート:By、主に6番・サードとしてレギュラーに定着。王貞治と並ぶ史上最年少(23歳)での本塁打40本を記録し、この年三冠王を獲得した落合博満を向こうに回してオールスターファン投票1位を獲得する。これ以降、テンプレート:Byまでファン投票選出され続ける。

テンプレート:By、監督が森祇晶に交代。開幕を5番で迎えるが、ジョージ・ブコビッチの不振により4番の座を任される。この年も本塁打を40本以上放ち、初のベストナインに外野手として選出される。日本シリーズでは史上唯一の第8戦で有名な「バック宙ホームイン」を披露する。シーズン終盤、高卒新人の清原と4番を交替し3番に座ったことが好結果を生んだことでAK砲の原型を完成した。オフに背番号を1に変更、結婚もした(後に離婚→現夫人と再婚)。

  • いわゆる「バック宙ホームイン」は、当時の地味なイメージを払拭するために「何か派手なパフォーマンスを」と考え出されたもの。文化放送ライオンズナイターの名物リポーター中川充四郎のアイデアであり、中川が番組内で秋山に約束させた(元々は「サヨナラホームランを打ったらバック宙をする」という約束だった)。過去に5度(パ・リーグ公式戦で2度、日本シリーズで3度)披露した。初披露は1986年の日本シリーズ「第8戦」(広島市民球場)の6回に放った同点本塁打のホームイン時で、三塁を回りながら、三塁コーチの近藤昭仁に「やっていいですか?」と許可を得てから行ったが、この時は当時の広島方面から相当の顰蹙を買った。またこのバック宙の際、最後の両足の着地と同時にその足がホームベースを踏んでいるというつもりであったが、少し手前で着地してしまったため、後ずさりするような形でホームを踏んだ。その他、1987年にサヨナラホームランを打った時は着地点がホームベースを通り越していたため、前かがみで右手でホームにタッチした。1990年の対巨人戦、テンプレート:Byの対広島戦でも披露。最後となった対広島戦では、着地後尻もちをつき、以後封印することとなった。1991年のシリーズで披露したホームインはアメリカのスポーツ専門ケーブル局であるESPNスポーツセンターでプレイ・オブ・ザ・デーで紹介されたこともある[7]

テンプレート:By、これまではスタメンはサードで入り、勝ち試合の守備固めでセンターを守っていたが、バッティングに集中させるという狙いでセンターに転向。西武打撃陣が軒並み打撃成績を落とす中、3番・センターの「定位置」へ定着したこともあってか、秋山1人が成績を維持。5月21日に日本人最速で通算100本塁打を達成し、最終的に43本塁打で3年連続40本塁打以上を記録する。前年オフに落合が中日に移籍したこともあり、初の本塁打王のタイトルを獲得。史上初の40本塁打・40盗塁も期待されたが、38盗塁で惜しくも達成ならず。

テンプレート:By、初の3割を記録。打率.301、31本塁打、31盗塁で日本プロ野球史上5人目のトリプルスリーを達成。

テンプレート:By盗塁王を獲得。35本塁打、51盗塁を記録し、プロ野球史上初の30本塁打・50盗塁を達成[1]。また、史上初の本塁打王受賞経験者による盗塁王となった[1]。2年連続300刺殺(フライアウト)を達成し、外野手としての評価も確立する。当時の西武の日本人選手の中では、秋山が年俸1億円に最も近いと言われていた(1990年の秋山の推定年俸は8,400万円)。しかしこの年のオフの契約更改で、清原を名実ともにチームの顔にしたいと考えた球団の意向により、秋山は推定9,800万円の掲示を受ける。秋山はこれを不服として闘ったが、最終的に判を押す。秋山が契約更改において一発でサインしなかったのはこの年だけである。この時に球団から「1億円プレーヤーとなるには君には華が足りない」と言われたのが、翌年の躍進の引き金となった[8]

テンプレート:By、2度のサヨナラ本塁打を含むサヨナラ打3度でチームを引っ張る1年となる。オールスターゲーム第2戦12回表に右目に自打球を当て負傷退場、右目の視力は0.7から0.2にまで低下した。日本シリーズでは4本塁打を放ちMVPを受賞している。これらの活躍が評価され、正力松太郎賞も受賞。推定年俸は1億4,000万円と大幅アップした。

テンプレート:By、前年に引き続き安定した成績を挙げ、チームも3年連続パ・リーグ優勝を達成。日本シリーズでは2度の決勝打を放つなど3年連続日本一に貢献、優秀選手賞を受賞した。

テンプレート:Byは、30本塁打を放つ(=9年連続30本塁打以上は現在もパ・リーグ記録)も低調なシーズンとなり、日本シリーズでは6番で出場した試合がある。シーズンオフに渡辺智男内山智之とともにダイエーの佐々木誠村田勝喜橋本武広との大型トレードが発表される[9]

ダイエー時代

黄金時代の西武ライオンズから弱小球団だった福岡ダイエーホークスに移籍してきた秋山は、移籍当初ダイエーの選手たちに「勝ちたい」という意識が薄いことに愕然としたという。当時のダイエーの選手たちは怠惰で、藤本博史らが試合前のロッカーで将棋を指すなど、常勝西武の控え室を知っている秋山にとって、彼らの態度は信じ難いものだったという。西武からダイエーに移籍した工藤公康の著書によると、森が監督だった時代の西武の控室は他の選手には近寄り難い緊張感があったと言われている。

秋山の背中を見て小久保裕紀が育ち、さらに後を追うように松中信彦城島健司斉藤和巳井口資仁など後の強豪ホークスを支える選手たちが育ち、現在の若手選手は彼らを手本として練習に励む(NHKプロ野球70周年の特番で水島新司が秋山本人の前で証言)[10][11]。小久保は王と秋山について「尊敬する野球人」と述べ、秋山に対する印象を質問されて「常にプロ意識を持っていた。『できないのは選手が悪い、プロならできて当たり前』という考え方。決して『人間ならそのくらいにミスはあるさ』といった姿勢がみられない。言い訳をしない。その姿勢と意識の高さを学んできた。」[12]、松中も「秋山さんはプレーで示してくださる方でした。秋山さんのプレーからは、チームを引っ張るには、ああいうプレーが必要なんだと、感じるものがありました」と語っている[13]

テンプレート:By9月17日の対ロッテ戦から10月7日の対西武戦まで11試合連続で長打を放ち、プロ野球史上最長記録となった。オフに入籍(再婚)。FA権を取得した。一度はFA権を行使して他球団へ移籍することをほぼ決意していたが、当時監督だった根本に説得される形(実際には秋山の母親からの願いを受けて)でFA権を凍結。秋山が引退までホークスに骨を埋める決意を固めたのはこの時だと言われている。以後、秋山は獲得したFA権を行使せずに引退した。

テンプレート:Byからダイエーの初代主将に就任。シーズン終盤からは1番・ライトで出場し、文字通りチームを牽引した。西武との優勝争いの最中であった9月8日の対西武戦で松坂大輔から顔面に死球を受け頬骨を骨折するが、その後の試合ですぐにベンチに復帰。フェイスガード付きの特製ヘルメットを作ってスタメン復帰も果たし、9月25日の優勝決定試合で先制点となる先頭打者本塁打を放つなど、ダイエー初の優勝に大きく貢献する。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、第1戦で野口茂樹から先制本塁打、第2戦で川上憲伸から先頭打者本塁打、第3戦では守備で右翼フェンスを駆け上がり飛球をキャッチしその後一塁ランナーも刺すという超ファインプレーを披露するなどの活躍を見せ再びMVPに輝き、20世紀のプロ野球史上で最年長(2011年に小久保裕紀が40歳で記録更新)および史上初の2球団での日本シリーズMVP受賞を達成した。

テンプレート:By、シーズン開幕戦で先頭打者本塁打を放つ。8月18日、対ロッテ戦で出場2000試合目で2000本安打達成(史上28人目、ドラフト制度確立後のドラフト外入団選手では史上初)[14]。6月1日に通算1588三振を記録し、歴代1位に(2004年に清原和博が記録更新)。

テンプレート:By、キャンプ中に右肩を痛め、二軍で開幕を迎えた。

テンプレート:By、「(同年の)優勝が現実的に遠のき、気持ち的にもやっていくことがなくなった」と語り、8月26日に現役引退を表明。引退試合は10月5日(西武ドーム)と10月6日(福岡ドーム)双方で行われ、それぞれ超満員の観客が秋山の現役最後の雄姿を見届けた。西武ドームでは秋山が打席に入るとダイエーの応援団からはダイエー時代の応援歌が、西武の応援団からは西武時代の応援歌がそれぞれ交互に演奏された。そして、西武ドームでの試合後には西武の選手たちから、10月6日の福岡ドームでの引退試合ではダイエーの選手たちから胴上げされ、大観衆の涙を誘った。さらに福岡ドームの引退試合では、相手チームであったロッテの選手・観客も、試合終了後も残って秋山の引退を見送り、秋山が球界の宝であったことを実感させる引退試合となった。現役最終打席はライトライナー。引退セレモニーでの「野球選手を卒業します」というコメントは、幼かった長女に現役引退を理解してもらうために考え出されたコメントである。

背番号1は福岡ダイエーホークスの永久欠番となる予定であったが、柴原洋が1番を希望し、秋山も了承したため永久欠番とはならなかった。

現役引退後

テンプレート:Byからテンプレート:ByまでRKB毎日放送TBSテレビTBSラジオ野球解説者西日本スポーツ野球評論家として活動。また、文化放送にゲスト解説として出演することもあった。

テンプレート:By、ダイエーの後身であるソフトバンクの二軍監督に就任。テンプレート:Byからは一軍の野手総合コーチを歴任した。体調不良で出場辞退した王貞治に代わり、コーチとして初めてオールスターゲームへ出場した。

テンプレート:By9月23日にシーズン終了を以っての退任を表明した王の後任として、10月2日にホークス新監督に就任し、2011年までの3年契約と発表された。

就任2年目のテンプレート:By9月26日、チームを7年ぶりのリーグ優勝へと導いたものの、クライマックスシリーズファイナルステージでロッテに敗れ、日本シリーズ出場ならず。

テンプレート:By10月1日、全球団勝ち越し・2位以下17.5ゲーム差という圧倒的な強さでチームを2年連続リーグ優勝に導く。11月5日のクライマックスシリーズファイナルステージで、埼玉西武ライオンズに対し、ストレートの3連勝で8年ぶり14度目(南海時代含む)の日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは、クライマックスシリーズ・セの覇者となった中日ドラゴンズを4勝3敗で破り、福岡ソフトバンクホークスとして初、そして監督就任後初の日本一を達成した。

テンプレート:By1月17日、野球殿堂博物館より佐々木主浩野茂英雄の元メジャーリーガー2人と共に競技者表彰により野球殿堂入りしたことが発表された[15][16]

人物

西武時代は走攻守の三拍子を揃った選手として黄金時代を支えていた[1]

テンプレート:Byから18年間、引退するまでオールスターゲームに出場した[1]

2リーグ分立以降、本塁打王盗塁王を両方獲得したのは秋山のみである。通算400本塁打以上のいわゆる「強打者」にあって盗塁王のタイトルを獲得したのは衣笠祥雄広島)がいるが本塁打王のタイトルはなかった(通算は504本塁打)。また首位打者タイトルの常連であった張本勲はやはり衣笠と同数の通算504本塁打で、尚且つ通算盗塁数も300を超える俊足の持ち主であるが、本塁打王と盗塁王のタイトル獲得はならなかった。

花粉症持ちであり[17]、シーズン開幕当初はスロースターターであった。花粉症の癒える5月から爆発することからミスターメイの異名をとった。秋山は月間MVPを3回獲得しているが、うち2度は5月である。

引退後は福岡ソフトバンクホークス二軍監督を経て、2007年は総合コーチ、2008年はチーフコーチを歴任。前任の王貞治を後継し、2008年10月8日に同監督に就任した。

日本プロ野球名球会会員でもある。

兄がいたが、秋山の生まれる1年前に日射病のため、7歳で夭折している。そのため両親は秋山が生まれた時に「この子には兄の分まで2倍幸せになってほしい」と願い、「幸二」と名付けたというテンプレート:要出典

現夫人との間に長男と長女が生まれたが、長男を病気で亡くしている。長女はゴルフ選手の秋山真凛

フリーアナウンサー片平夏貴東国原英夫の元妻)は義妹(夫人の実妹)にあたる。

「あなたにとってサムライとは?」と聞かれ、「千葉真一柳生十兵衛[注釈 1]渡辺謙の『独眼竜政宗』は、生きるか死ぬか究極の真剣勝負というイメージがいい」と答えている[18]

講演会での珍事

2003年11月21日、福岡県築上郡椎田町(現:築上町)の椎田中学校体育館落成式の記念講演に、数学者秋山仁を招待し講演会を行う予定であった。しかし依頼側の手違いで、秋山仁では無く同姓の秋山幸二に講演のオファーを行ってしまうという珍事が起こる。会場に来た秋山幸二の姿を見て、依頼者側も驚きながらも講演会を中止する訳にもいかず、秋山自身に事情を説明し、断られるのを覚悟で「よければ講演いただけませんか」と要請すると、秋山は手違いの事情を了解した上で講演を引き受けた。当日の講演内容は急遽『私と野球人生』に変更されたが、ホークスの地元である福岡県に住む生徒にとって中心選手だった秋山幸二の登場はこれ以上ない『嬉しいハプニング』だったと伝えられている[注釈 2]。後日、この『事件』の顛末を聞いた秋山仁は、京都大学で講演を行った際に壇上に上がると口頭で「こんにちは、秋山幸二です」と冗談を述べて聴衆の笑いを誘った。

スポーツマンNo.1決定戦

現役時代にテレビ番組『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦』に出演し、THE GALLON THROWでは当時のスポーツマン記録である5m70cmを大きく上回る6m20cmを記録。筋肉番付の番組プロデューサーである樋口潮は著書で秋山を超人と評している[19]。同大会で行われた50メートル走では6秒53を記録している[20]

プロスポーツマン大会
大会 放送日 総合順位
第3回大会 1997年1月2日 2位
第4回大会 1998年1月1日 2位
第5回大会 1999年1月1日 13位
第6回大会 2000年1月1日 9位

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 西武 3 6 5 1 1 0 1 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .200 .333 .600 .933
テンプレート:By2 54 154 140 16 33 5 2 4 54 14 6 1 1 0 10 0 3 32 4 .236 .301 .386 .686
テンプレート:By2 130 542 468 93 118 16 0 40 254 93 17 9 1 3 66 0 4 115 13 .252 .348 .543 .890
テンプレート:By2 130 562 492 88 132 19 3 41 280 115 21 8 0 7 58 5 5 94 10 .268 .347 .569 .916
テンプレート:By2 130 550 496 82 130 13 2 43 276 94 38 12 0 3 48 5 3 102 8 .262 .329 .556 .886
テンプレート:By2 130 577 517 93 151 23 2 38 292 103 20 12 0 2 50 5 8 132 11 .292 .362 .565 .927
テンプレート:By2 130 555 478 92 144 24 4 31 269 99 31 14 0 4 68 4 5 93 10 .301 .391 .563 .954
テンプレート:By2 130 559 476 84 122 16 0 35 243 91 51 9 1 9 68 0 5 120 11 .256 .349 .511 .860
テンプレート:By2 116 515 455 97 135 23 3 35 269 88 21 5 0 5 53 3 2 96 8 .297 .369 .591 .960
テンプレート:By2 130 566 480 92 142 26 2 31 265 89 13 4 1 2 77 1 6 114 6 .296 .398 .552 .950
テンプレート:By2 127 536 470 67 116 23 4 30 237 72 9 8 0 1 61 2 4 136 11 .247 .338 .504 .842
テンプレート:By2 ダイエー 129 567 473 93 120 26 5 24 228 73 26 6 0 4 83 6 7 125 9 .254 .370 .482 .852
テンプレート:By2 122 529 476 61 127 25 1 21 217 66 13 4 0 5 46 5 2 101 17 .264 .331 .456 .787
テンプレート:By2 121 512 466 53 140 27 0 9 194 66 13 4 0 5 35 1 6 78 12 .300 .354 .416 .770
テンプレート:By2 97 421 371 46 91 20 2 12 151 52 11 5 2 1 43 0 4 62 9 .245 .329 .407 .736
テンプレート:By2 115 473 423 43 110 32 4 10 180 49 7 7 1 3 42 2 4 76 11 .260 .331 .426 .756
テンプレート:By2 113 420 386 41 99 16 2 12 155 44 3 2 3 1 26 2 4 83 12 .256 .309 .402 .711
テンプレート:By2 124 488 427 44 112 23 1 5 152 48 2 4 6 4 49 2 2 63 13 .262 .338 .356 .694
テンプレート:By2 82 287 269 31 77 13 3 11 129 32 1 0 0 0 17 0 1 43 6 .286 .331 .480 .811
テンプレート:By2 76 244 229 14 57 7 0 5 79 24 0 2 4 2 9 0 0 45 10 .249 .275 .345 .620
通算:20年 2189 9063 7997 1231 2157 377 41 437 3927 1312 303 116 20 61 910 43 75 1712 191 .270 .347 .491 .839
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

リーグ公式戦
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
テンプレート:By ソフトバンク 3位 144 74 65 5 .532 6.5 129 .263 3.69 47歳
テンプレート:By 1位 144 76 63 5 .547 - 134 .267 3.89 48歳
テンプレート:By 1位 144 88 46 10 .657 - 90 .267 2.32 49歳
テンプレート:By 3位 144 67 65 12 .508 6.5 70 .252 2.56 50歳
テンプレート:By 4位 144 73 69 2 .514 9.5 125 .274 3.56 51歳
通算:5年 721 378 309 34 .550 Aクラス4回、Bクラス1回
  • 通算成績には2008年8月14日の監督代行1試合(敗戦)を含む
  • 太字は日本一
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2009 ソフトバンク パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
東北楽天ゴールデンイーグルス
(パ・リーグ2位)
0勝2敗=敗退
2010 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
千葉ロッテマリーンズ
(パ・リーグ3位)
3勝4敗=敗退(※1)
2011 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
埼玉西武ライオンズ
(パ・リーグ3位)
4勝0敗=日本シリーズ進出
(※1)
日本シリーズ 中日ドラゴンズ
(セ・リーグ1位)
4勝3敗=日本一
2012 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
埼玉西武ライオンズ
(パ・リーグ2位)
2勝1敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
北海道日本ハムファイターズ
(パ・リーグ1位)
0勝4敗=敗退(※2)
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 リーグ優勝したチームに与えられるアドバンテージの1勝を含む。
※2 4敗の中に相手チームのアドバンテージの1勝を含む。

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1987年5月26日、対日本ハムファイターズ7回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に佐藤誠一から中越ソロ ※史上149人目
  • 150本塁打:1988年7月31日、対阪急ブレーブス19回戦(阪急西宮球場)、9回表に佐藤義則から左中間へソロ ※史上87人目
  • 200本塁打:1990年4月19日、対ロッテオリオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に小宮山悟から左越2ラン ※史上59人目
  • 250本塁打:1991年6月26日、対日本ハムファイターズ12回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に酒井光次郎から左越ソロ ※史上31人目
  • 1000本安打:1992年5月14日、対千葉ロッテマリーンズ8回戦(西武ライオンズ球場)、5回裏に小宮山悟から ※史上165人目
  • 1000試合出場:1992年6月10日、対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(グリーンスタジアム神戸)、4番・中堅手で先発出場 ※史上301人目
  • 300本塁打:1993年4月11日、対福岡ダイエーホークス2回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に若田部健一から左越先制2ラン ※史上22人目
  • 1000三振:1993年8月24日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回表に星野伸之から ※史上17人目
  • 350本塁打:1994年10月1日、対日本ハムファイターズ27回戦(福岡ドーム)、8回裏にキップ・グロスから右中間へ決勝2ラン ※史上16人目
  • 1000打点:1996年4月7日、対西武ライオンズ2回戦(福岡ドーム)、3回裏に西口文也から左犠飛 ※史上23人目
  • 1500本安打:1996年5月3日、対オリックス・ブルーウェーブ6回戦(福岡ドーム)、6回裏に鈴木平から一塁内野安打 ※史上70人目
  • 1500試合出場:1996年5月22日、対西武ライオンズ9回戦(西武ライオンズ球場)、3番・中堅手で先発出場 ※史上115人目
  • 3000塁打:1996年7月3日、対西武ライオンズ15回戦(西武ライオンズ球場)、1回表に潮崎哲也から右越先制決勝ソロ ※史上33人目
  • 1000得点:1996年8月15日、対日本ハムファイターズ21回戦(東京ドーム)、4回表に吉永幸一郎の内野ゴロで生還 ※史上28人目
  • 300二塁打:1998年5月27日、対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム) 、9回裏にマーク・ミムズから中越適時二塁打 ※史上34人目
  • 400本塁打:1998年6月16日、対オリックス・ブルーウェーブ11回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回表に木田優夫から左越決勝2ラン ※史上12人目
  • 1500三振:1999年5月5日、対オリックス・ブルーウェーブ5回戦(福岡ドーム) 、1回裏に金田政彦から ※史上3人目
  • 1521三振:1999年6月13日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回表に小倉恒から ※バ・リーグ新記録
  • 3500塁打:1999年6月24日、対日本ハムファイターズ15回戦(東京ドーム) 、2回表に沼田浩から左越2ラン ※史上19人目
  • 300盗塁:1999年7月22日、対オリックス・ブルーウェーブ19回戦(グリーンスタジアム神戸)、2回表に二盗(投手:小倉恒、捕手:日高剛) ※史上23人目
  • 1588三振:2000年6月1日、対日本ハムファイターズ12回戦(東京ドーム)、7回表に生駒雅紀から ※当時新記録(後に清原和博が更新)
  • 350二塁打:2000年7月28日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(グリーンスタジアム神戸) 、6回表に戎信行から中越二塁打 ※史上21人目
  • 2000試合出場:2000年8月18日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(北九州市民球場) 、5番・右翼手で先発出場 ※史上32人目
  • 2000本安打:同上、5回裏に黒木知宏から左前安打 ※史上28人目
その他の記録
  • トリプルスリー:1回 (1989年)
  • 30本塁打30盗塁:3回 (1987年、1989年、1990年)
  • サイクルヒット:1989年7月13日、対近鉄バファローズ13回戦(藤井寺球場) ※史上40人目
  • 9年連続シーズン30本塁打以上(1985年 - 1993年) ※王貞治の19年連続に次いで歴代2位[1]
  • 5試合連続本塁打(1985年5月19日 - 5月26日、1991年5月4日 - 5月9日)
  • 9試合連続打点(1985年5月17日 - 5月30日)
  • 5試合連続勝利打点(1987年5月16日 - 5月22日) ※日本プロ野球記録
  • 2試合連続満塁本塁打(1993年8月21日 - 8月22日) ※史上3人目
  • 11試合連続長打(1994年9月17日 - 10月7日) ※日本プロ野球記録
  • シーズン30本塁打以上・50盗塁以上(1990年) ※史上初
  • 通算400本塁打・300盗塁達成(1999年) ※史上2人目(過去の達成者は張本勲
  • 通算833試合連続出場(1985年4月6日~1991年6月16日) ※歴代12位
  • オールスターゲーム出場:18回 (1985年 - 2002年) ※18年連続出場は史上最長

背番号

  • 71 (1981年、2006年)
  • 24 (1982年 - 1986年)
  • 1 (1987年 - 2002年)
  • 79 (2005年)
  • 80 (2007年 - 2008年)
  • 81 (2009年 - )

関連情報

著書

出演CM

出演番組

脚注

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注釈

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出典

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関連項目

外部リンク

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 2.2 朝日新聞1985年6月15日朝刊
  3. http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_august/KFullNormal20070801152.html
  4. 伊原春樹著、二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、ベースボール・マガジン社、2011年、P120-121
  5. ベースボールマガジン 2011年9月号 P28
  6. 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P75
  7. 1991年10月30日午後版スポーツセンター参照。
  8. ツーシームみたいに 秋山幸二『週刊ベースボール』2011年12月19日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/19, 105頁。
  9. テンプレート:Cite web
  10. プロ野球最期の言葉、村瀬秀信著、イースト・プレス、2010年、P214
  11. ベースボールマガジン 2007年春季号 伝説の名チーム名鑑復刻版⑫ 1999福岡ダイエーホークス P99
  12. ベースボールマガジン 2012年7月号 P54
  13. HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボールマガジン社、2008年、P40
  14. テンプレート:Cite web
  15. 平成26年 野球殿堂入り決定!! 野球殿堂博物館 殿堂ニュース 2014年1月17日付
  16. 野茂氏が野球殿堂入り!即表彰は20年ぶり 佐々木、秋山両氏も選出 スポーツニッポン 2014年1月17日閲覧
  17. 週刊ベースボール2012年4月23日号 P36
  18. テンプレート:Cite news
  19. 『跳び箱神話part2』、レゾナンス出版、215-217頁。ISBN 4-947735-07-4。
  20. 『跳び箱神話part2』、レゾナンス出版、203-204頁。ISBN 4-947735-07-4。


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