川上憲伸
テンプレート:Infobox baseball player 川上 憲伸(かわかみ けんしん、1975年6月22日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次
経歴
プロ入り前
徳島県徳島市出身。徳島商業高校時代は第75回全国高等学校野球選手権大会に4番・エースとして出場し、準々決勝まで進出した。その後明治大学二部商学部に進学。
大学でもエースになると、4年時には主将として活躍。大学3年時の(1996年)東京六大学野球秋季リーグ優勝(全勝優勝)に貢献した。慶應義塾大学の高橋由伸とは同期のライバルとして好勝負を繰り広げた。リーグ通算57試合登板、28勝15敗、防御率2.14、311奪三振。ベストナイン3回。
1997年のドラフト会議前の10月31日に明大の大先輩・星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズを逆指名することを表明、中日も即戦力になり、なおかつ将来性も高いとして獲得に動く[1]。ドラフトでは中日が単独で1位指名して交渉権を獲得し契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)で入団合意した[2]。
中日時代
ルーキーイヤーのテンプレート:Byは先発で起用され、14勝6敗の成績で新人王に選出された[3]。
テンプレート:Byはプロ2年目で初めて開幕投手を務める。10月2日の横浜ベイスターズ戦では7回を投げ当時リーグワースト記録となる19被安打、同最多タイの14失点打ち込まれるなど、8勝9敗1Sと精彩を欠いた。日本シリーズではチーム唯一の勝ち星を挙げたことが評価され敢闘選手賞を受賞。
テンプレート:By急性感音性難聴を患ったことなどにより不調に終わり、翌テンプレート:Byはプロ入り初の二桁敗戦を喫する。テンプレート:Byは、開幕投手を任されるはずだったが、足の深爪により登板できず、替わりに二軍の開幕投手となるも、相手投手に本塁打を打たれるなど不安が残った。しかし一軍に復帰してからは調子を取り戻した。8月1日には、この年日本一になった読売ジャイアンツ相手に、プロ野球史上70人目、81度目のノーヒットノーランを達成し、対巨人戦の連敗を9で止めた。主力投手であった野口茂樹の故障もあり、この頃から中日のエースと呼ばれるようになるテンプレート:要出典。
テンプレート:Byは4月の月間MVPに選ばれるなど快調な滑り出しをするも、5月に右肩関節唇損傷により離脱。翌テンプレート:Byは、リーグ最優秀選手、沢村賞など合計9つのタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献。5月15日の対横浜戦では、7回二死二塁から2ラン本塁打を放ち、2対0で両チーム唯一の打点を挙げての完封勝利を達成。
テンプレート:By5月20日の千葉ロッテマリーンズ戦(交流戦)で8回途中まで完全試合のペースで好投。しかし李承燁に本塁打を打たれる。ヒットはこれ1本のみの四死球なしで完投勝利、同時にスタメン全員から奪三振という珍しい記録を達成した。この年はシーズン途中まで10勝3敗と好調だったが、シーズン後半は1勝5敗と調子を落とした。
テンプレート:By6月6日のロッテ戦で7回二死までは完全試合(二死から福浦和也に四球)、9回無死までノーヒットノーランペースだったが、代打のサブローにライト前ヒットを打たれ自身2度目の大記録を逃すも9回1安打2四球での完封勝利となった。8月3日にプロ野球史上120人目となる通算1000奪三振を記録した。10月21日の北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ開幕戦で8回2失点で勝利投手となり、ナゴヤドームでは先発としては初の勝利投手となった。しかし第5戦では日本ハム打線の勢いを抑えきれずに敗戦投手となり、この敗戦によりチームはまたしても日本シリーズに敗れてしまった。しかしチーム唯一の勝ち星を挙げるなどの活躍が評価され自身2度目の敢闘選手賞を受賞。
テンプレート:By8月3日にプロ野球史上124人目(チーム史上9人目)の通算100勝に到達。これは212試合で達成の杉下茂、221試合で達成の服部受弘に次ぐチーム史上3番目の228試合でのスピード記録であった。また、4年連続二桁勝利を達成するもスタミナに欠け(規定投球回数に達しながらペナントレースでの完投数0は自身初)、本調子とはいかないシーズンであった。それでも、K/BBは6.90であり、規定投球回数到達者の中では12球団1位であった。
10月13日の阪神タイガースとのクライマックスシリーズ第1ステージでは5回までパーフェクトピッチングを見せるなど、結果7回9奪三振被安打2無四死球無失点の好投でセ・リーグクライマックスシリーズ初の勝利投手に輝いた。10月27日の日本ハムとの日本シリーズ第1戦では先発投手として登板し、8回を被安打2で完投するも、初回にフェルナンド・セギノールに浴びた3ラン本塁打が響き、ファイターズ先発のダルビッシュ有に味方打線が1点に抑えられ敗戦投手となるも、チームはこの年日本一となった。
テンプレート:By、3月28日の広島東洋カープとの開幕戦では2008年シーズンのチーム初本塁打、初打点となる同点ソロ本塁打を放ち、この本塁打によってセ・リーグ全5球団からの本塁打を記録した。しかし4月3日の巨人戦で高橋由伸・亀井義行・小笠原道大に3者連続ホームランを浴び逆転負けで敗戦投手等不調で一時期先発を外れ、故障以外で初めて中継ぎを体験。その後は調子も戻り6月の月間最優秀選手(月間MVP)賞を獲得。北京オリンピックでは中継ぎとして奮戦したが、3位決定戦で敗戦投手となった。帰国後は2軍調整を強いられた。その後、1軍復帰するも、規定投球回数には到達せず、「隠れ1位」だった防御率のタイトルを逃した。オフにはダン・エバンスを代理人としてメジャー挑戦を目指す。11月15日にFA権を行使することを発表し、19日にFA公示された。
ブレーブス時代
テンプレート:By1月13日にアトランタ・ブレーブスと3年契約を結び、入団発表が行われた。ブレーブスにとって初めての日本人選手となり、背番号は中日時代と同じ「11」に決定した。4月12日のワシントン・ナショナルズ戦でメジャー初先発を果たし、6回を4安打3失点8奪三振で抑えて勝利投手でデビューを飾った。5月13日のニューヨーク・メッツ戦では控え野手が尽きてしまったため延長12回に日本人メジャー投手として初めて代打で起用され、高橋建と対戦して空振り三振。[4]31日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦でも、控え野手が2人いたにも関わらず再び代打で起用されるが、空振り三振を喫した。[4]シーズン序盤は打ち込まれることが多く、4月末の時点で防御率7.06、WHIP1.62と不調だったが、5月以降は防御率3.34、WHIP1.30と復調。更にロイ・ハラデイやヨハン・サンタナらメジャーを代表するエース級投手に投げ勝ったことでドラゴンスレイヤーと呼ばれるが、得点援護率がリーグワースト3位になるなど勝ち星に恵まれず[5]、エースのティム・ハドソンが故障から復帰することに伴い、シーズン後半はリリーフに回った。リリーフに回って以降は9月4日から2試合続けて自己最速となる95mph(約153km/h)を記録し、防御率2.63と好投。シーズン終了後にはシーズンを通じて右肩に違和感があったことを明かした[6]。
テンプレート:Byのスプリングトレーニングでは右肩の負担を減らすための新フォーム開発に着手[6]。開幕から先発ローテーション入りする。打線の援護もなく球団史上ワーストとなる開幕9連敗、昨年から数えて11連敗を喫し、初勝利は6月26日のデトロイト・タイガース戦までずれこんだ[7]。更にこの日の結果に限らずブルペンへの配置転換はすでに決まっており、以後はリリーフへと回ることとなった[8]。8月にはマイナー落ちも経験。防御率、WHIPも前年度を大きく下回り、ポストシーズンのロースターからも外される悔いの残るシーズンとなった。11月13日には40人枠から外れ、傘下のAA級ミシシッピに降格した。
テンプレート:Byはスプリングトレーニングに招待選手として参加。スプリングトレーニング中には東日本大震災の知らせを受けて被災者に5万ドルの義援金を寄付し、練習前のミーティングでチームメイトにも支援活動への協力を要請するなど支援活動に取り組み[9]、2試合の先発を含む5試合に登板し防御率3.75、WHIP1.25の成績を残したが、先発時は計7回8安打6失点と打ち込まれ、AA級ミシシッピで開幕を迎えた。ミシシッピでは4月17日のモービル戦に先発し初勝利を挙げたが、翌日に右肩の痛みを訴えてDL入りする。22日には地元紙のインタビューで、若手の台頭によりAA級所属となった現在の状況について「コーチや監督たちにはよくしてもらっている。メジャーに戻れるようにと一生懸命努力してくれている」と周囲への感謝も口にした一方で「正直に言って現在の状況は想像していなかった。ショックだったのは3Aを飛ばして2Aに落とされたこと」と語った[10]。6月12日のチャタヌーガ戦で復帰したが、7月12日に右肩痛を再発して再びDL入り。8月中旬に復帰するも、復帰後は6試合の登板で防御率16.07、WHIP2.67と打ち込まれ、この年はメジャーに昇格することなくシーズンを終えた。右肩痛についてはオフに手術に踏み切る覚悟もあることを明らかにした[11]。11月2日にFAとなった。
中日復帰
テンプレート:By、1月28日に古巣中日へ復帰することが球団から発表された[12]。背番号はプロ入り時からつけていた「11」[13] 2009年から3年間「11」を付けていた岡田俊哉は空いていた「21」に変更した。3月31日の開幕第2戦の広島東洋カープ戦に登板し、6回無失点で日本球界復帰後初の勝利投手になった。その直後故障により戦列を離れ、僅か7試合の登板で3勝1敗、防御率2.83の成績に終わった。契約更改では、倍増の6000万円でサインした。
テンプレート:By、右肩痛で出遅れ、8月22日の対広島戦で今季初登板で勝利投手となるが、その後勝ち星はなく9月25日に登録抹消される。10月3日に球団から戦力外通告を受けるが[14]、11月19日に中日と再契約することが発表された[15]。
テンプレート:By、2008年以来6年ぶり球団最多となる7度目の開幕投手に抜擢された[16]。6回2失点で勝ち負けは付かなかった。 この後も先発投手と起用されていたが、5月7日の登板前に腰痛を訴えて登板を回避し、翌日一軍登録を抹消された[17]。
選手としての特徴
投球
全盛期には平均球速89.5mph(約144km/h)、最速95mph(約153km/h)のストレートや平均球速86mph(約138km/h)のカットボール、そしてこれとは対照的に100km/h前後のスローカーブ、コーナーギリギリに決めるシュート、フォークボールを駆使した[5][18]。過去にはナックルボールを投げたこともあった。左打者には一発を打たれる傾向こそあるものの強さを発揮し[19]、中日時代は現役の先発投手の中では上原浩治や石川雅規らに次ぐ通算与四球率1.92と抜群の制球力を武器としていたが、メジャー移籍後は右肩の不安もあり左打者に対しての四球が増え、左打者に対しての与四球率は2010年まで3.67と精彩を欠いている。特に2010年は右打者を被打率.268、与四球率2.92だったのに対し、左打者には被打率.305、与四球率3.79だった[20]。
代名詞であるカットボールは元チームメイトの武田一浩から教わり、マリアノ・リベラを参考にして開発したという[21]。それまで変化球はスライダーとカーブだけであったが、カットボールをマスターすることにより投球パターンが大きく変わった。また、外国人野手や日米野球等で対戦したメジャーリーガー達から「日本で唯一本物のカットボールを投げる投手」と称された事もあり[19]、2010年には被打率.148を記録するなどメジャー移籍後もその威力は健在だが、投球割合のわずか数パーセントしか投げなくなり、逆に投球割合を増やしたストレートとシュートは合わせて被打率.358と大きく打ち込まれた[22]。
しばしば思わぬ本塁打を浴びることがあり、時には投手にすらホームランを打たれてしまい、中日時代には三浦大輔、リック・ガトームソン、ライアン・ボーグルソンの3人にホームランを打たれた。
2009年のスプリングトレーニングにおいて、ボビー・コックス監督から「(スローカーブが)飛びぬけて良かった。ダンディーだ。今あのビッグカーブを投げられる選手は少ない」と称賛された[23]。当日のオープン戦では4三振のうち3つをカーブで奪い、シーズン序盤にカットボールが打ち込まれるようになった際には投手コーチのロジャー・マクダウェルからカーブを多投するようアドバイスを受け、上述のように復調した[5]。
打撃
投手でありながらバッティングが良く、ナゴヤドームで投手として初めて本塁打を放った。また、2013年現在の通算8本塁打は、テンプレート:要出典範囲。右打ちでありながら、ナゴヤドームのライトスタンドへ本塁打を放ったこともある。中日在籍時は自身のウェブサイトに全本塁打の詳細な記録を載せていた。
守備
2006、2007年度と二年連続でゴールデングラブ賞を受賞するなどフィールディングは安定している。2006、2007年度は同僚の谷繁元信も二年連続で受賞しており、同一チームの同一バッテリーによる二年連続受賞はセ・リーグ初の快挙であった。
人物
テンプレート:出典の明記 中日のエース候補という意味で「背番号20に最も近い男」と評されることもあった。これは杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄と1980年代までにおける中日の歴代エースが背番号20を背負っていたことにちなむ比喩的な表現である(その後中田賢一がつけたが、2014年現在空き番)。しかし、川上は入団時につけた背番号11を気に入っており、エースとしての評価を確立した後も変えなかった。
中日では2014年に7回目の開幕投手を務め、これで森井茂を抜き開幕投手の球団記録で単独トップに立った(前身球団の記録も含む)。
同学年で大学時代からのライバルである高橋由伸に対しては、現在でも強いライバル心を持っていると言い、対決では一層の気合を入れている。
テレビ東京の当時スポーツ番組のキャスターをしていた佐々木明子アナが、週刊ベースボールのコラムで川上を新人の年に取材をした時に高橋由伸に対してノーヒットに抑えていたことに触れ「20打席ノーヒットですね」と言ってしまい(実際は当日の試合に4打席ノーヒットならば20打席ノーヒット)取材後間違いだったことに気づきスタッフと共に大慌て。川上はその試合の第3打席に本塁打を打たれてしまった。試合後取材を兼ねて謝罪しに行くと、川上もおかしいなと思いながら投げていたらしく、佐々木アナは川上の集中力を阻害したことを誌上で反省していた。
中日に入団する際に当時監督であった星野に「背番号は11番から20番の中から好きな番号を選べ」といわれ、冗談交じりに「じゃあ、15番で」と発言した(15番は西沢道夫の永久欠番。数日後、星野監督から電話で「11番にしろ、いいな」と返され、11番に決定した)。 川上自身は5という数字が好きだったらしい。
1999年に週刊少年サンデーに「川上憲伸物語 魂のストレート」(作:武村勇治 原案:矢崎良一 協力:中日ドラゴンズ)として読切連載された事がある。ライバルである高橋由伸も同年に週刊少年マガジンに「高橋由伸物語」として読切連載された。
中日在籍当時、ライバル・巨人の関連会社である日本テレビの『THE・サンデー』で、「ウッス!川上憲伸っス!」という彼の1週間を追うコーナーが放送されていた時期があった(石井浩郎、三沢興一のコーナーと同時に放送されていたが、この2名は巨人在籍経験があった)。また、『THE独占サンデー』では川上のパロディのパペット人形キャラ「川上犬・シン」(本物の川上は犬好きである)も登場していた。
かつては広島戦に弱く、最多勝に輝いた2006年は広島戦のみ勝ち星が挙げられなかったこともある。そのためかは不明だが広島戦が近づくと広島戦に強い朝倉健太とローテーションを入れ替えていた。その結果2004年6月16日以来広島市民球場では登板しておらず、その試合も勝ち投手になっていない。しかし、中日復帰後初となった2012年9月15日のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島での初登板では6回1安打無失点で勝利を上げている。また、2008年には広島戦での防御率が1.06、中日復帰後の2012年は0.66、2013年は1.64であり、広島戦に弱いということはなくなった。
日本シリーズなどの大舞台に強く、これまでに登板したプレーオフの試合では、たとえ敗戦投手になったとしても、大崩れしたことはない。2007年に53年ぶりの日本一になるまで、長い間短期決戦に弱いと言われてきた中日の投手の中では異例とも言える。しかし、その2007年のプレーオフでは、クライマックスシリーズは2試合に先発し、2勝したものの、日本ハムとの日本シリーズでは川上自身、出場した日本シリーズでは初めて勝利を挙げることができなかった。
中日時代は井端弘和、福留孝介の主力3選手がともに独身であることがネタにされていたが、福留は2007年に、井端は2008年に結婚している。川上自身も2011年末に29歳の一般女性と結婚していたことが2012年2月に明らかになった[24]。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 中日 | 26 | 25 | 4 | 3 | 2 | 14 | 6 | 0 | -- | .700 | 649 | 161.1 | 123 | 14 | 51 | 1 | 2 | 124 | 4 | 0 | 48 | 46 | 2.57 | 1.08 |
テンプレート:By2 | 29 | 25 | 3 | 1 | 1 | 8 | 9 | 1 | -- | .471 | 695 | 162.0 | 173 | 20 | 43 | 0 | 2 | 102 | 3 | 0 | 84 | 80 | 4.44 | 1.33 | |
テンプレート:By2 | 14 | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 260 | 60.1 | 65 | 10 | 20 | 3 | 1 | 24 | 1 | 0 | 32 | 32 | 4.77 | 1.41 | |
テンプレート:By2 | 26 | 25 | 3 | 1 | 1 | 6 | 10 | 0 | -- | .375 | 608 | 145.0 | 153 | 12 | 36 | 1 | 4 | 127 | 4 | 0 | 61 | 60 | 3.72 | 1.30 | |
テンプレート:By2 | 27 | 27 | 3 | 3 | 1 | 12 | 6 | 0 | -- | .667 | 760 | 187.2 | 170 | 13 | 34 | 4 | 8 | 149 | 0 | 0 | 54 | 49 | 2.35 | 1.09 | |
テンプレート:By2 | 8 | 8 | 1 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 234 | 53.2 | 60 | 2 | 14 | 0 | 1 | 37 | 3 | 0 | 22 | 18 | 3.02 | 1.38 | |
テンプレート:By2 | 27 | 27 | 5 | 2 | 1 | 17 | 7 | 0 | -- | .708 | 774 | 192.1 | 173 | 27 | 38 | 2 | 4 | 176 | 2 | 0 | 72 | 71 | 3.32 | 1.10 | |
テンプレート:By2 | 25 | 25 | 3 | 2 | 2 | 11 | 8 | 0 | 0 | .579 | 738 | 180.1 | 186 | 20 | 28 | 4 | 4 | 138 | 1 | 0 | 75 | 75 | 3.74 | 1.19 | |
テンプレート:By2 | 29 | 28 | 6 | 3 | 2 | 17 | 7 | 0 | 0 | .708 | 841 | 215.0 | 166 | 22 | 39 | 1 | 5 | 194 | 3 | 0 | 74 | 60 | 2.51 | 0.95 | |
テンプレート:By2 | 26 | 26 | 0 | 0 | 0 | 12 | 8 | 0 | 0 | .600 | 696 | 167.1 | 175 | 18 | 23 | 2 | 6 | 145 | 1 | 0 | 72 | 66 | 3.55 | 1.18 | |
テンプレート:By2 | 20 | 16 | 1 | 0 | 0 | 9 | 5 | 0 | 1 | .643 | 473 | 117.1 | 99 | 11 | 25 | 3 | 5 | 112 | 1 | 0 | 33 | 30 | 2.30 | 1.06 | |
テンプレート:By2 | ATL | 32 | 25 | 0 | 0 | 0 | 7 | 12 | 1 | 0 | .368 | 669 | 156.1 | 153 | 15 | 57 | 6 | 6 | 105 | 8 | 1 | 73 | 67 | 3.86 | 1.34 |
テンプレート:By2 | 18 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 0 | 0 | .091 | 391 | 87.1 | 98 | 10 | 32 | 10 | 1 | 59 | 4 | 0 | 57 | 50 | 5.15 | 1.49 | |
テンプレート:By2 | 中日 | 7 | 6 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | .750 | 121 | 28.2 | 25 | 3 | 10 | 0 | 2 | 17 | 0 | 0 | 10 | 9 | 2.83 | 1.22 |
テンプレート:By2 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | .500 | 119 | 28.0 | 26 | 3 | 13 | 1 | 0 | 12 | 4 | 0 | 11 | 10 | 3.21 | 1.39 | |
NPB:13年 | 269 | 253 | 29 | 15 | 10 | 116 | 74 | 1 | 1 | .600 | 6968 | 1699.0 | 1594 | 175 | 374 | 22 | 44 | 1357 | 27 | 0 | 648 | 606 | 3.21 | 1.16 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
MLB:2年 | 50 | 41 | 0 | 0 | 0 | 8 | 22 | 1 | 0 | .267 | 1060 | 243.2 | 251 | 25 | 89 | 16 | 7 | 164 | 12 | 1 | 130 | 117 | 4.32 | 1.40 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- 新人王 (1998年)
- MVP:1回 (2004年)
- 最優秀バッテリー賞:2回 (2004年、捕手:谷繁元信、2006年、捕手:谷繁元信)※同一バッテリーの複数回受賞はセ・リーグ史上唯一。
- 沢村賞:1回 (2004年)
- 最優秀投手:2回 (2004年、2006年)
- ベストナイン:2回 (2004年、2006年)
- ゴールデングラブ賞:3回 (2004年、2006年、2007年)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (2004年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (2002年)
- 月間MVP:8回 (1998年7月、2002年8月、2003年4月、2004年5月・8月、2005年7月、2006年5月、2008年6月)※セ・リーグ史上最多。
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2008年5月)
- 日本シリーズ敢闘選手賞:2回 (1999年、2006年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1998年 第1戦)
記録
- NPB初記録(投手記録)
- 初登板・初先発・初勝利:1998年4月9日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤドーム)、7回0/3を1失点
- 初奪三振:同上、3回表に藪恵壹から
- 初完投勝利・初完封勝利:1998年7月4日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤドーム)
- 初セーブ:1999年6月3日、対読売ジャイアンツ8回戦(ナゴヤドーム)、6回表に2番手として救援登板・完了、4回無失点
- 初ホールド:2008年10月12日、対阪神タイガース24回戦(スカイマークスタジアム)、3回裏に2番手として救援登板、2回無失点
- NPB節目の記録
- 1000投球回数:2005年5月13日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(ナゴヤドーム)、1回表3死目にフリオ・ズレータを中飛で達成 ※史上301人目
- 1000奪三振:2006年8月3日、対横浜ベイスターズ10回戦(横浜スタジアム)、4回裏に古木克明から ※史上120人目
- 100勝:2007年8月3日、対横浜ベイスターズ13回戦(横浜スタジアム)、先発登板で7回2失点 ※史上124人目
- 1500投球回数:2007年9月6日、対読売ジャイアンツ21回戦(ナゴヤドーム)、8回表3死目に李承燁を右飛で達成 ※史上160人目
- NPB初記録(打撃記録)
- 初打席・初打点:1998年4月9日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に藪恵壹から投手前スクイズ
- 初安打:1998年4月16日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、5回表に三澤興一から左中間二塁打
- 初本塁打:1998年7月11日、対横浜ベイスターズ11回戦(釧路市民球場)、3回表に川村丈夫から左越同点2ラン
- NPBその他の記録
背番号
- 11 (1998年 - )
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:中日ドラゴンズ テンプレート:Navboxes テンプレート:北京オリンピック野球日本代表
テンプレート:中日ドラゴンズ1997年ドラフト指名選手- ↑ 『中日新聞』1997年10月31日朝刊32頁
- ↑ 『朝日新聞』1997年11月26日付朝刊 (14版、25面)
- ↑ 年度別成績 1998年 セントラル・リーグ
- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 5.0 5.1 5.2 テンプレート:Cite book
- ↑ 6.0 6.1 新フォームの完成か、原点回帰か。川上憲伸に迫られる決断web Sportiva、2010年6月25日。
- ↑ 『月刊スラッガー』2010年12月号、日本スポーツ企画出版社、2010年、雑誌15509-12、43頁
- ↑ 川上憲伸、クラシック・スタイルで手にした1勝の重みweb Sportiva、2010年7月2日。
- ↑ 川上が義援金5万ドル寄付「一刻も早く」日刊スポーツ、2011年3月22日。
- ↑ 川上、地元紙に「2Aショック」日刊スポーツ
- ↑ 憲伸 今オフ右肩手術も…「引退しない」と浪人覚悟スポニチ、 2011年9月6日。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 川上憲伸投手と契約中日球団公式サイト2013年11月19日配信
- ↑ これは谷繁兼任監督が同年3月24日のセ・リーグファンミーティングにて発表した。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ Pitch fx
- ↑ 19.0 19.1 テンプレート:Cite book
- ↑ FanGraphs Kenshin Kawakami SPLITS
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 2010-11 MLB投手白書 主要250投手ピッチ・アナリシス/先発投手編 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、26頁。
- ↑ ブレーブスの名将・コックス監督が川上を絶賛 「すごい戦力になる。真っすぐはもちろん、ダンディーなカーブを投げる」テンプレート:リンク切れスポニチ2009年2月21日。
- ↑ テンプレート:Cite news