藤井寺球場
テンプレート:野球場情報ボックス 藤井寺球場(ふじいでらきゅうじょう)は、かつて大阪府藤井寺市にあった野球場で、正式名称は「近鉄藤井寺球場」。近畿日本鉄道(近鉄)の関連会社である近鉄興業が保有および管理していたが、2005年1月末をもって閉鎖され、2006年8月に解体された。
歴史
1925年、大阪鉄道(略称:大鉄、現:近畿日本鉄道)は造園学者の大屋霊城に依頼し、郊外の沿線である藤井寺に住宅地や自然体験学習のための花卉園や果樹園を備えた「藤井寺教材園」、相撲場などのスポーツ施設を備えた「藤井寺経営地」の計画を立案。1923年に阪神電気鉄道が建設した阪神甲子園球場が全国中等学校野球大会の舞台として人気を博していたことから、この経営地に野球場を建設することとした。合資会社錢高組が施工し、1927年11月11日着工、1928年5月25日に完成した。当時の敷地面積は甲子園球場をしのぐ59,000m²。総工費は70万円。大鉄傘が備えられた内野席と、芝生の外野席を合わせた収容人員は7万人とされた。
5月27日、海軍記念日に併せて開場式が行われ、飾磨(兵庫)対教業(京都)という尋常学校の試合を皮切りに、計4試合が記念試合として行われた [1]。
その後、戦前の間は主にアマチュア野球に使用された。戦時中には1943年7月2日から解体工事が行われて大鉄傘は供出となり、球場は若人の錬成道場となった。
1949年の2リーグ分裂時に近鉄は新球団を結成し、翌年のリーグ開幕に向けて約8000万円をかけてスタンドやグラウンドを改修。1950年から近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)の本拠地となった。以降、パールス時代の近鉄の広告では本球場を「パールススタジアム」と称したものもあった。
しかし、照明設備がない本球場ではナイターを開催することができなかったため、近鉄は平日の公式戦をもっぱら大阪球場(1950年~1957年)と日本生命球場(1958年~1983年 以下、日生球場)で開催。本球場は野球協約に定める専用球場(=本拠地)であったが、長年にわたって一軍の週末や祝日のデーゲームや二軍の試合に使用される名目上の本拠地であった。
近鉄が主に使用した日生球場は大阪市内にあって交通の便が良く、観客動員も見込むことができた。また、グラウンドと客席の距離が近いためファンの根強い人気もあった。しかし、社会人野球チームを持つ日本生命保険から賃借していた球場だったために収容人員が少なく(約20,500人)、グラウンドも狭い上、照明が他球場に比べて暗いなどプロ野球興行に適しているとはいえなかった。このため日本野球機構やパ・リーグが一時的に問題視し、愛知県や三重県などの近鉄沿線の中京地区への移転も検討されたが、愛知県を保護地域とする中日ドラゴンズの独占権益侵害やファン分散につながる恐れから断念せざるを得なかった。
しかし、近鉄にとって最も大きな問題は本球場も日生球場も日本シリーズやオールスターゲームの開催条件とされている「照明設備のある収容人数3万人以上の球場」という条件を満たしていないことであった。実際、近鉄が初めてリーグ優勝した1979年と連覇した1980年の日本シリーズは、当時南海ホークスの専用球場だった大阪球場を借りて開催した(対戦相手は両年とも広島東洋カープ)[2]。そのため、本球場でナイターを行うことは近鉄の長年の願いだった。
それまで万年最下位だったチームが1969年~1972年にAクラスを維持した後の1973年2月、近鉄は球場の大規模な改修工事計画を発表した。その内容は土盛りだった外野席にスタンドを建設し、スコアボードを改修するなど本拠地にふさわしい球場とするものだったが、この計画の中にナイター設備の設置工事が含まれていた。だが、これに対して球場周辺の住民が工事を行うと観客の自動車乗り入れや応援による騒音などナイター公害が発生すると反発し、反対運動を起こした。同年7月に近鉄は工事に着工したが、反対住民は10月に大阪地方裁判所に工事差し止めの仮処分を申請し地裁がこれを認めたため、外野席スタンドの建設やスコアボードなどの改修工事は完了したものの、ナイター設備は外野の鉄塔部分が完成したところで中断され、そのまま約10年間工事が中断した。
その間、近鉄と反対住民は仲介や調停などを重ねたがいずれも不調に終わったため、1981年3月に近鉄は大阪地方裁判所に工事差し止めへの異議申し立てを行った。地裁は1983年9月26日、外野スタンド最上段に防音壁を設置すること(3塁側からの写真のライト後方部分にあるのがそれ)や鳴り物入りの応援を禁止することなどを条件としてナイター設備の設置を認めたため、近鉄は同年11月21日に工事を再開。1984年4月6日にナイター設備が完成し、名実ともに本拠地となった。翌1985年には約9億円をかけて球場施設のリニューアルを実施。外野グラウンドを人工芝にしたほか、スタンドの一部改修などが行われ「バファローズ・スタジアム」の愛称が付けられた(1996年には内野にも人工芝を敷設)。この年の夏には初のオールスターゲームも開催された。
1984年の鈴木啓示投手の300勝達成や1989年のリーグ優勝など名勝負を繰り広げたが、1997年に大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)が完成したのに伴い再び準本拠地に降格。練習場及び二軍の本拠地球場となり、その後も一軍公式戦が年間で数試合行われたが、1999年10月7日の近鉄対千葉ロッテマリーンズ戦(最終戦)が最後の一軍公式戦となった(この試合では当時セットアッパーで、前年に脳腫瘍の手術をした盛田幸妃が復活登板した)。専用球場としての指定も同年で取り消され、晩年は二軍の試合や高校野球の大阪大会などが主となった。
2004年、近鉄はプロ野球再編問題の当事者となり、同年8月には翌年の春を目途に本球場の閉鎖を検討していることを明らかにした。近鉄は近年にも練習場及び二軍本拠地の機能を泉佐野市のりんくうタウンに移転する構想を発表するなど本球場周辺の再開発に対して強い関心を持っていた。
そして、近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併により野球場を持つ必要性が薄れたこと(オリックスの二軍本拠地及び合宿所は兵庫県神戸市にあるものを継続使用するため)や施設が著しく老朽化していることなどを理由に、2005年1月末を以て近鉄が主催する閉鎖イベント等が行われないまま本球場は閉鎖となった。
日本プロ野球選手会によるストライキが行われた2004年9月には、外野スタンドで近鉄の主力選手[3]によるサイン会が実施された。
本球場での最後のプロ野球の試合は2004年9月30日のウエスタン・リーグ優勝決定戦の近鉄対中日戦であった。この試合は前期に近鉄が優勝したために球場最後の試合となったもので、当初から予定されていた試合ではなかった。また、プロ野球選手会によるストライキによって日程が延期され、一軍公式戦終了後のこの日に開催されたため、近鉄としては最後の公式試合となった。試合は中日に敗れたため、宮崎でのファーム日本選手権への出場はならなかったが、球場には球団と球場に別れを惜しむファン約5000人がつめかけた。
近鉄としての最後の使用は2004年11月6日の秋季練習で、プロ野球での最後の使用は同年11月13日からの東北楽天ゴールデンイーグルスの球団としての初練習であった。これは配下選手が関西に住む元近鉄と元オリックスの選手が中心だったためで、当時ユニフォームのデザインはまだ決まっておらず、真っ白の仮ユニフォームを着ての練習は「まるで高校野球みたいだ」と評された。
なお、2005年6月4日と翌5日に藤井寺市や市民らの主催によって本球場で「藤井寺市民フェスタ」が開催され、鈴木啓示らOB選手の講演や運動会などを行った。7万1千人の参加者を集め、これが実質的な閉鎖イベントとなった。
2006年2月から8月にかけて解体工事が行われ、約77年余りの球場の歴史を終えた。
跡地利用
2005年8月4日、近鉄は球場敷地のうち北側約33,000m²を四天王寺学園に売却すると明らかにした。静かな環境を守りたいという地元の意向に配慮して文教施設としての利用に決めたもので、四天王寺学園は小学校の建設と大阪府羽曳野市内にある生涯学習センターを移設すると発表。2009年4月に四天王寺学園小学校が開校し、正門東側には藤井寺市、近畿日本鉄道、四天王寺学園の三者共同による藤井寺球場記念モニュメントが設置された。その後2014年4月1日に四天王寺学園中学校が開校し、さらに現在は四天王寺学園高等学校が計画中である。
敷地南側約9200m²は丸紅が買取り、大規模マンション「グランスイート藤井寺」を建設。2009年11月に竣工した。
日本シリーズの開催
本球場で日本シリーズが開催されたのは1989年で、対戦相手は読売ジャイアンツ(巨人)だった。本球場で開催された第1戦と第2戦は近鉄が勢いに乗って連勝し、東京ドームでの第3戦にも勝利して初の日本一に王手をかけた。しかし、その後巨人に4連敗。第7戦に勝利した藤田元司監督が本球場で胴上げされた。なお、本球場での日本シリーズはこの年が唯一だった。
アマチュア野球での使用
本球場は戦前、戦後を通じてアマチュア野球の舞台でもあり、戦前には関西六大学のリーグ戦や早大と関大との定期戦、学童野球などに使用された。1931年からは全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会)の大阪府予選の会場の一つとなり、2004年まで使用された。特に1998年からは、それまでの決勝戦会場だった日生球場が閉鎖されたために本球場で決勝戦が行われ、NHK大阪放送局と朝日放送の2局が生中継をした。
1956年から1980年までは全国高等学校軟式野球選手権大会の会場としても使われた。
なお、1946年9月に文部省が日本初のプレーグランドボール(現在のソフトボール)の講習会を本球場で開催した。
鳴り物禁止の応援
近隣住民がナイター設備の建設に反対した際、理由として騒音問題を挙げたことからこれ以降、本球場ではラッパや鐘、太鼓など鳴り物による応援が禁止され、これらの持ち込みも規制されたが、これは他の球場には見られないことであった。また、このことはブラスバンドによる応援が盛んな高校野球にとっては支障が大きく、本球場を会場としていた全国高等学校軟式野球選手権大会は1981年以降、共に兵庫県にある県立明石公園第一野球場(現:明石トーカロ球場)と高砂市野球場(ハンカチメモリアルスタジアム)に開催地を変更した。
なお、プロ野球のオープン戦では阪神タイガースの応援団がトランペットを使用したり[4]、1999年の最後の公式戦においては試合の終盤にトランペットが使用されるなど、いくつかの例外はあった。
その他設備の概要
- グラウンド
- 元々両翼は97.6m(320ft)あり、日本では珍しいコミスキー・パークのような直線的な外野フェンスを持つフィールド形状であったが、スタンドとの間に円弧状の第二のフェンス(ラッキーゾーン)を設けたために一般的な扇状となり、両翼は公称91mに縮小された。ただし、1980年代頃からフェンスに距離の記載がなくなった。一説には両翼90.8m、中堅117m、左中間110m、右中間110mとも。
- スコアボード
- 1973年 - 1974年に改装された手回しパネル式のスコアボードを閉場まで使用した。カウントの電光表示はスコアボード中央部にあったが、1985年の改装の際に投手名表示ボードを設置したことに伴ってスコアボード上部へ移設した。LEDボードができる前の1989年までは本塁打が出た場合、スコア表示部分と選手名表示部分の中間に「HomeRun」という電飾文字が入る演出もあった(その後広告が入ったため廃止)。
- 1993年にホークスの本拠地が福岡ドーム(現:福岡 ヤフオク!ドーム)に移転したのと、広島市民球場のスコアボードが電光化されたため、本球場のスコアボードは一軍の本拠地球場では最後まで残ったパネル式である。
- また、ナイトゲームに限って近鉄の選手が本塁打を打った場合と近鉄が勝利した場合は花火がバックスクリーンから打ち上げられた。
- LED式メッセージボード
- 右中間の外野スタンド防音フェンスに設置され、打率・本塁打数、球速などを表示した。
- 他球場の経過速報板
- 外野スタンド右翼ポール際にあり、パネル式。
- 防音フェンス
- 外野スタンド後方に高さ5m(うち上部2mは昇降式)、内野・外野スタンド間に高さ14m(うち上部5mは昇降式)、幅35m
- 球友寮
- 敷地内のライトスタンド裏にあった大阪近鉄バファローズの選手寮。初代の建物は老朽化が進んだため、2000年10月におよそ4億円の費用をかけて建て替えられた。その建物は今も存在しており、大阪女子短期大学の教育研修センターとなっている。
- 室内練習場
- 敷地内の球場東側に隣接。
球場の狭さ
1980年代以降、他球場の大型化が進んだため、本球場は「狭くてホームランが出やすい球場」と言われた。実際、1980年10月3日の近鉄対ロッテ戦では13本の本塁打を記録し、1試合の最多本塁打プロ野球タイ記録となった。高さ2mの外野フェンスの上に高さ3mの金網を設けたが、狭い球場というイメージは払拭できなかった。
また、1986年8月6日の近鉄対西武ライオンズ戦の8回表には西武が1イニング6本塁打の日本記録を樹立した。
近鉄のエースとして活躍した鈴木啓示は通算560被本塁打という記録を持っているが、これは日本プロ野球やMLBを通じて今もなお最多記録である。
脚注
関連項目
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