盛田幸妃

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テンプレート:Infobox baseball player 盛田 幸妃(もりた こうき、1969年11月21日 - )は、北海道茅部郡鹿部町出身の元プロ野球選手投手)。テンプレート:Byからテンプレート:Byまでの登録名盛田 幸希

現役時代に脳腫瘍に罹患しながら、リハビリにより復活を遂げた。

経歴

現役時代

鹿部中学時代は山本鉄弥の指導を受けた。函館有斗高校(現・函館大学付属有斗高校)所属時に3度の甲子園出場[1]を経験した。3年時の1987年に開催された第69回選手権大会では、1回戦で上原晃を擁する沖縄水産高校に敗退した。同年秋のプロ野球ドラフト会議横浜大洋ホエールズから1位指名を受け、契約金4800万円、年俸420万円(金額は推定)で入団した[2]

ルーキーイヤーの1988年5月21日中日ドラゴンズ戦で一軍デビュー。1992年に監督の江尻亮によって重用されるようになり、中継ぎ投手として登板した出場がほとんど(この年は52試合中46試合)でありながら規定投球回に達し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。オールスターゲームにも監督推薦で初出場。佐々木主浩とともに「ダブルストッパー」と呼ばれる。だが球団名が横浜ベイスターズに変更された翌1993年は、春季キャンプ前の自主トレ中に右ひざ靭帯を損傷し、22試合出場に終わる。

1994年登録名を「盛田 幸妃」から「盛田 幸希」(読みは同じ)に変更。同時に前年引退した斉藤明夫から背番号17を受け継ぐ。この年に右ひじを手術した佐々木に代わり、前半戦のクローザーを務めた。1995年はリーグ最多登板、オールスターゲームに監督推薦で2度目の出場。

1996年に監督の大矢明彦による大規模コンバートの一環として先発投手に転向し、レギュラーシーズン開幕投手を務める。しかし、リリーフとの調整法の違いから制球に苦しむようになり、危険球で退場処分されたのを機に成績が落ち始める。1997年にも開幕投手(中日戦)となるが、1回裏に立浪和義に先頭打者本塁打を打たれる。この試合はナゴヤドーム初の公式戦であり、同球場の第1号の被本塁打投手となった。7回表の攻撃で一軍初出場の代打多村仁と交代し降板。6回3失点で敗戦投手となり、盛田はナゴヤドームでの敗戦投手第1号ともなった。以後、登板試合数が減少。閉幕後、中根仁との交換トレードで近鉄バファローズに移籍。

1998年に登録名を「幸妃」に戻す。5月末頃から右足首の違和感や麻痺などが起こり、8月13日に一軍登録抹消。検査の結果、ゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受ける。このとき医師から「スポーツ脳に腫瘍があり、普通の生活に戻れても、野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたという。手術後も右足に麻痺が残る後遺症があったがリハビリで克服。驚異的な回復力で翌1999年8月には二軍戦に登板できるようになり、同年シーズン最終戦で一軍復帰した。

2001年に34試合に登板、2勝を挙げ、近鉄の12年振りのリーグ優勝に貢献。オールスターゲームにも中継ぎ投手部門でファン投票1位で選ばれ、カムバック賞を受賞。2013年シーズン終了時点で、パシフィック・リーグから同賞を贈られた最後の選手である。

2002年9月25日に、同年シーズン限りでの現役引退を表明。10月6日オリックス・ブルーウェーブ戦(大阪ドーム)で引退試合が行われ、5年振りに先発した[3]。同年、球団職員として横浜に復帰した。

引退後

横浜球団の職員を務めながら、TBSラジオ専属の野球解説者として活躍。TBSニュースバード北海道放送(HBC)のテレビ・ラジオ中継のゲスト解説者としても客演。(HBCラジオ向けの裏送り中継によく登場する)高校時代の在学地・函館で例年2日間開催される北海道日本ハムファイターズの主催試合では、両日共にHBCラジオで解説を務める。キャッチコピーは「奇跡のリリーバー」。またライツ・スポーツネットワークの講師の一人としても活動している。

2005年の夏に脳腫瘍が再発するが、翌2006年2月に除去手術を受けて成功した。

人物

父親は北海道で漁師をしていた。プロ入り前、父親が出漁中に盲腸炎にかかり大洋漁業の船に収容され一命を取りとめた[4]

5歳のとき実弟を脳腫瘍で亡くす。弟が遺したグラブ(おもちゃ)で遊ぶようになったのが、野球生活の原点という。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 大洋
横浜
3 2 0 0 0 0 0 0 -- ---- 23 4.1 6 3 4 0 0 3 1 0 6 6 12.46 2.31
テンプレート:By2 7 3 0 0 0 0 0 0 -- ---- 87 19.0 21 7 10 0 1 11 2 0 17 17 8.05 1.63
テンプレート:By2 26 1 0 0 0 1 1 0 -- .500 188 43.0 49 10 15 0 3 37 0 0 27 24 5.02 1.49
テンプレート:By2 52 6 1 0 0 14 6 2 -- .700 539 131.2 100 9 51 4 6 80 4 0 37 30 2.05 1.15
テンプレート:By2 22 0 0 0 0 3 2 3 -- .600 201 43.2 57 7 18 1 4 30 1 0 35 31 6.39 1.72
テンプレート:By2 46 0 0 0 0 8 4 16 -- .667 290 72.2 56 4 19 0 5 59 1 0 22 20 2.48 1.03
テンプレート:By2 57 0 0 0 0 8 4 5 -- .667 311 73.0 65 4 27 2 8 60 2 0 25 16 1.97 1.26
テンプレート:By2 28 15 1 0 1 5 9 0 -- .357 479 107.2 126 13 32 1 7 77 4 0 70 65 5.43 1.47
テンプレート:By2 32 5 0 0 0 1 7 2 -- .125 268 59.1 74 8 19 3 3 39 3 1 41 35 5.31 1.57
テンプレート:By2 近鉄 32 0 0 0 0 5 1 1 -- .833 149 34.0 30 3 20 2 2 19 1 0 13 11 2.91 1.47
テンプレート:By2 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 2 0.1 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0.00 3.00
テンプレート:By2 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 14 2.0 3 1 3 0 2 3 0 0 4 4 18.00 3.00
テンプレート:By2 34 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 104 21.2 25 3 11 1 5 14 0 1 18 17 7.06 1.66
テンプレート:By2 2 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 0.2 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0.00 1.50
通算:14年 345 33 2 0 1 47 34 29 -- .580 2658 613.0 612 72 231 14 46 434 19 2 315 276 4.05 1.38
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

タイトル

表彰

記録

背番号

  • 15 (1988年 - 1993年)
  • 17 (1994年 - 1997年)
  • 21 (1998年 - 2002年)

登録名

  • 盛田 幸妃 (1988年 - 1993年、1998年 - )
  • 盛田 幸希 (1994年 - 1997年)

関連情報

作品

中村ジン原作・笠原倫作画『復活 The Long and Winding Road』前・後編(白泉社ヤングアニマル』2000年6、7号掲載)
脳腫瘍からカムバックを果たすまでの実録コミック。
フジテレビプロ野球ニュース(1999年12月放送)
脳腫瘍からカムバックを成し遂げた復活の日を完全密着。夫人との昼食のシーン、試合中の夫人の表情を一部始終収録したスペシャル企画。
NHK総合『不屈の者たちへ 奇跡のストッパー 人生のマウンドに立つ』(2009年8月19日放送)
現役時代、脳腫瘍のため再起は不可能といわれながらも手術とリハビリによって奇跡の復活を果たした「奇跡のストッパー」盛田。引退後にも再発し、3度の手術を乗り越えてきた。病と向き合いながらも全力投球で生きる盛田の日々をそれを支えた家族の話を交えて綴ったドキュメント。

書籍

  • 『彼女がくれたマウンド』(光文社、2000年) ISBN 4-334-97251-9 - 倫子夫人との共著

出演

脚注

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関連項目

外部リンク

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テンプレート:横浜大洋ホエールズ1987年ドラフト指名選手
  1. 1985年夏季(第67回選手権大会)、1986年春季(第58回選抜大会)、および1987年夏季(第69回選手権大会)。
  2. 朝日新聞、1987年11月29日付朝刊 (24面)
  3. このとき盛田は打者1人のみに投球して降板したが、その打者は盛田と同じ年に大洋に入団した進藤達哉だった(進藤はドラフト外)。
  4. 朝日新聞、1987年11月19日付朝刊 (20面)