藤田元司
テンプレート:Infobox baseball player 藤田 元司(ふじた もとし、1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市出身のプロ野球選手(投手)、監督、野球解説者。
目次
経歴
現役時代
愛媛県新居浜市出身(越智郡宮窪村四阪島生まれ)。旧制愛媛県立新居浜中学校(現・愛媛県立新居浜東高等学校)在学中に終戦を迎え、学制改革に伴って新制愛媛県立西条北高等学校(現・愛媛県立西条高等学校)へ転校した。同校でバッテリーを組んでいたのがNHK高校野球中継の解説で有名だった池西増夫、同級生にフライ級プロボクサーで三迫ボクシングジム初代会長の三迫仁志がいる。[注釈 1]
慶應義塾大学へ進学後、オーソドックスなオーバースローから繰り出す快速球を武器に東京六大学リーグのスター選手として神宮球場を沸かせた。リーグ戦では通算63試合に登板して31勝19敗、227奪三振を記録したが、リーグ優勝は1年春の1回のみで、度重なる力投が報われず「悲運のエース」とも呼ばれた。
大学卒業後、日本石油を経て、1957年に大学の先輩である水原茂の誘いで読売ジャイアンツに入団(大学・社会人時代、後に西鉄ライオンズへ入団する花井悠とはチームメイトだった)。
入団1年目から17勝をあげて新人王に輝くと、1958年には29勝、1959年には27勝をあげてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続シーズンMVPを獲得した。
また、1959年6月25日に天覧試合として行われた対大阪タイガース戦では巨人の先発投手として晴れの舞台に立ち、完投勝利を挙げた。
しかし、日本シリーズでは奮闘するもなかなか日本一の栄冠に届かず、ここでも「悲運のエース」と呼ばれることとなった。1958年の日本シリーズにおいては、西鉄のエース・稲尾和久と並ぶ6試合に登板、防御率1.09を記録したものの、打線の援護なく1勝2敗に終わった。このシリーズでは、3勝1敗で迎えた第5戦、3-2と1点リードの9回裏2死3塁、あとアウト1つで日本一という場面まで迫ったが、このシリーズ不振だった関口清治に対し、胸元にシュートを投げ起死回生の中前タイムリーヒットを浴びている。結局この試合は稲尾のサヨナラホームランで西鉄が勝利、西鉄奇跡の逆転優勝につながるのだが、藤田によれば関口の打球は藤田の右肩口の上を力なく飛んでいったといい、「右手をちょいと出せば取れたのではないかと今でも思うことがあるよ」と後年になってもよく思い出していたといい、選手、監督として様々なタイトルや表彰に恵まれた藤田が「たった1つ取れなかったもの」とも語っている。[1]。
また、翌1959年の日本シリーズでは南海のエース・杉浦忠の4連投4連勝の陰で第2戦、第3戦、第4戦と3試合連続で先発、22イニングを投げたが(4試合シリーズでは杉浦の32イニングに次ぐ記録)、やはり奮闘報われず2敗を喫している。1958年第4戦から1961年第5戦にかけて5連敗という不名誉な日本シリーズタイ記録も持っている(他に村山実、北別府学)。その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、元司の音読みに掛けて「ガンジー」とも呼ばれた。
登板過多で肩を故障したことにより1960年以降は成績が急降下。1961年、1963年の日本一メンバーでもあるが、1961年の日本シリーズでは第3戦、第5戦に先発するもともに早い回でKO(第3戦は3回途中、第5戦では1回)、1963年の日本シリーズでは第2戦で城之内邦雄をリリーフして勝利投手になったものの4失点、第4戦では先発するも4回途中で降板と、エースらしい働きはできなかった。
1963年にコーチ兼任となり[2]、1964年に現役を引退。プロ入りの時期が遅かったこともあり、現役生活はわずか8年にとどまった。だが、この苦悩な経験が、この後の指導者生活に役立てることになる。
現役引退、指導者へ
引退後は監督の川上哲治の下で投手コーチに就任。堀内恒夫や高橋一三を育成して巨人のV9時代を支えたが、1973年シーズン途中に投手陣不振の責任を取らされて二軍コーチに降格され、さらにスカウトへ異動させられるなどの辛酸も味わった。
なおこの巨人コーチ時代に、副業の人事トラブル解決に暴力団員を雇っていたことや1969年の総選挙においても暴力団と繋がりがあったことが問題となり、球団から1ヶ月間の謹慎を言い渡されている(後に藤田本人は著書で当時を振り返り、全く身に覚えのないことだったと述べている)。
巨人退団後、1975年に大洋ホエールズの監督に就任した秋山登に請われて大洋投手コーチに就任したが、チームは低迷。わずか2年でコーチを退任する。その後は、NHKの野球解説者に就任する一方、川上哲治を中心に行っていたNHK少年野球教室の講師を務めた。
1度目の巨人監督就任
1981年、長嶋茂雄の監督解任を受けて巨人の第10代監督に就任。「長嶋を窓際に追いやった男」という世間の逆風の中、藤田、王貞治(助監督)、牧野茂(ヘッドコーチ)の3者による「トロイカ体制」を敷き、就任1年目にしてリーグ優勝。その勢いのまま同年の日本シリーズでは、パ・リーグ覇者の日本ハムファイターズを破り、1973年以来となる日本一に導いた。
- 1度目の巨人監督就任時は、絶大な人気を誇る長嶋解任の後任を受けた形だったため、世間の風当たりは非常に強かった。自宅には熱狂的な長嶋ファンから抗議の手紙が殺到し、中には「娘を殺すぞ」と剃刀の刃を入れた悪質な手紙もあったという。マスメディアも冷淡な反応を示し、1年目に日本一を達成しても「活躍しているのは、皆長嶋が伊東キャンプで鍛え上げた選手だ」と藤田より長嶋の功績を賞賛した[3][4]。藤田はこうした状況にも冷静に対応していたが、当時オーナーの正力亨までがマスメディアの誘導尋問に乗って長嶋へのラブコールを送り始めると、さすがに堪忍袋の緒が切れ、単身オーナー室に乗り込んで正力に「私のことが不服なら、ユニフォームを脱いだっていいんです!!」と啖呵を切った(それ以来、正力の長嶋へのラブコールはぴたりと止んだ)[5]。
1983年にもリーグ優勝を達成するが日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗退。助監督を務めていた王貞治に監督の座を譲る形で勇退し、再びNHK野球解説者に復帰すると同時に報知新聞客員解説委員にも就任するなど評論家活動を再開した。
在任中は斎藤雅樹をサイドスローへ転向させたことでも知られる。この他藤田が評論家時代、当時はまだ東海大学に在学中だった酒井勉(1989年のパ・リーグ新人王)も、藤田が同校野球部の練習の見学に来た際に「酒井君の腰の回転はサイドスローに向いてるよ」とサイドスロー転向を勧められて、成功した一人である[6]。
2度目の巨人監督就任
1988年シーズン終了後、王貞治が解任されたことを受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「老い先短い年寄りの願いをきいてくれ」と懇願され、第12代監督として復帰。前回同様、就任1年目でリーグ優勝を成し遂げると同年の日本シリーズで近鉄バファローズを下して日本一を達成。翌1990年にもペナントを制し、リーグ2連覇を達成したものの、日本シリーズではまたも西武の前に敗れた。監督業は1992年限りで勇退。
指導者として優れた人心掌握術・育成術を持っており、日本海軍連合艦隊司令長官であった山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」を座右の銘にしていた。「誰だって怒られるよりは褒められた方が嬉しい。選手だって同じだ」と語り、短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い「誉め上手」の監督であった。事実、監督時代は選手を責めるコメントをほとんど言わなかった。ただし第2次監督時代、ごく親しい知人には「一刻も早く、このチームの性根を叩き直さなければ(自分の後)苦労することになる」と語り、危機感をあらわにしていた。1990年の日本シリーズで西武相手に4連敗のストレート負けを喫した際には「監督がへぼだから負けたんです」と語り、選手を責める発言をしなかったことは一部から賞賛された。
巨人のコーチ時代には渡辺秀武を再生させ、第1次監督時代には江川卓・西本聖・定岡正二、第2次監督時代には槙原寛己・斎藤雅樹・桑田真澄の先発三本柱を確立させ、投手陣の整備をおこなった。
また野手では、川相昌弘・緒方耕一の積極的な起用、駒田徳広・岡崎郁の“名脇役”としての確立等「磨けば光る逸材」を輝かせる事にかけては定評があった。[注釈 2]
先発三本柱
第1次監督時代の先発三本柱は、角三男が抑えに控えていた。一方、第2次監督時代では一転して、先発投手に頑固なまでの完投を求めた。特に1990年は、槙原らの三本柱に宮本和知・香田勲男・木田優夫を加えた先発ローテーションの6人でチーム88勝のうち80勝を挙げ、完投数は70にも上った結果、年間で使った投手はわずか10人であった。かつてリリーフエースだった角や鹿取義隆を放出して手薄になっていた中継ぎ・抑え投手には肩に故障を抱えた水野雄仁などが登板していたほか、89年に槙原が4セーブ、90年に木田が7セーブと先発投手が抑えを兼任していた。ただし、任期最終年の1992年には石毛博史をリリーフエースに据えている。
- 王監督時代の1985年に12勝を挙げるもその後は伸び悩み、精神的な弱さから「ノミの心臓」と言われていた斎藤に、「斎藤は気が弱いんじゃない、気が優しいだけなんだ」「(斎藤が「マウンドに上がるのが怖いです」と言った際)投手というのは臆病でないといけないんだ。色々考えたら臆病になる。怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」と指導し、先発で起用し続けた。1989年5月10日の試合で、先発した斎藤が8回にピンチを迎えた際に藤田が動じなかったことは「語り草」の一つである。その後の斎藤のプロ野球選手としての足跡は、斎藤雅樹も参照。
- その存在がクローズアップされたこととしては、藤田退任後の1994年があげられる。この年は、前半に勝利数を重ねて首位確保に貢献した斎藤が後半に調子を落とすと、槙原、桑田が10月に先発して無失点の投球をするなど首位陥落阻止に貢献した。その槙原が最終戦10.8決戦先発登板の序盤で打ち込まれると、まず緊急登板の斎藤が相手打線の勢いを止めて、桑田が抑えで、優勝に導いた。1994年の日本シリーズでは、第1戦に先発した桑田が打ち込まれて1敗すると、第2戦に先発した槙原が完封勝利し、その後、桑田、槙原が1勝ずつしたこともあり、日本選手権を制した[7]。このように、藤田の「遺産」が相互補完、相乗効果等の力を見せたが、藤田の「功績」に触れる論調は、当時、ほとんど見られなかった。
監督退任後
監督退任後はNHKで野球解説者を務める傍ら、別所毅彦の死去を受け1999年から2003年まで巨人軍OB会会長を、2005年には四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツアドバイザリースタッフを務めた。また、王貞治が福岡ダイエーホークス監督として現場に復帰した時は、王の代理として世界少年野球推進財団の活動に参加し、世界少年野球大会の協賛行事として行われた日米オールスターゲームでは監督を務めた年もある[8]。そして1990年台後半からは沢村賞選考委員を務め、別所死去後は委員長に推された。なお沢村賞選考委員は歴代受賞者(委員会制度が導入された1982年より)およびパ・リーグで先発として活躍した元投手(パ・リーグ球団所属投手も対象となった1989年より)が起用されることが慣例だが、セ・リーグ(の巨人)一筋で受賞歴がない藤田の起用は異例と言える。
「我々の時代の野球選手は今よりレベルが高かった」と過去を美化する球界OBが多い中、「今とは全然レベルが違う。昔はいい加減だった」と現在と過去の違いを認識した上で語っていた。[注釈 3]
巨人軍OB会長を務めていた2000年頃から体調を崩し、NHKでの解説の仕事も固辞して療養していたが、2006年2月9日午後6時40分、心不全のため東京都世田谷区内の病院で死去した。テンプレート:没年齢。戒名は「元投院球心篤應居士(げんとういんきゅうしんとくおうこじ)」。
読売ジャイアンツでは数々の功績やその人柄を称え、史上3人目となる球団葬を執り行った(藤田家との合同葬)。川上哲治は弔辞で、「藤田君、今日はつらくてさびしい。さみしいけれど涙を見せずに御別れを言うことにする。それが、どんなに苦しいときでも笑顔を忘れなかった君への一番の供養になると思うから。ありがとう、ありがとう、本当にありがとう、藤田君、さようなら」と藤田に別れを告げた。
現役時代の颯爽とした姿やスマートな物腰から「球界の紳士」と呼ばれていた。川上は自著で、「意の広岡(達朗)、知の森(祇晶)、情の藤田」といい、「万年Bクラスのチームには広岡のような監督によって基礎から叩き込むのがよい。ある程度できあがっているチームには森のような監督の知力を使えば常勝チームになる。若手中心のチームには藤田のような監督によってチーム内部の信頼感を高めることによって強くなっていく」とし、名監督のそれぞれのタイプを分類している。
「投手出身の監督は精神野球で本質からかけ離れている」が持論の野村克也は、わざわざ著書で「藤田さんを除いては」と記し、監督としての藤田に高い評価を与えている[9]。
原辰徳は、現在でも藤田への恩を忘れておらず、時間があれば頻繁に墓参をする[10]。
亡くなる直前まで、「巨人は原辰徳なら大丈夫だ」と話していたという。
2012年から横浜DeNAベイスターズの監督に就任した中畑清は、選手や裏方にも気を配りながらチームをまとめていった藤田の姿を見て、「自分もこういう監督になりたい」と監督を志すようになったという[11]。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 巨人 | 60 | 18 | 4 | 0 | 0 | 17 | 13 | -- | -- | .567 | 964 | 235.2 | 190 | 10 | 80 | 2 | 5 | 156 | 7 | 0 | 86 | 65 | 2.48 | 1.15 |
テンプレート:By2 | 58 | 36 | 24 | 7 | 1 | 29 | 13 | -- | -- | .690 | 1380 | 359.0 | 251 | 11 | 114 | 5 | 5 | 199 | 11 | 0 | 75 | 61 | 1.53 | 1.02 | |
テンプレート:By2 | 55 | 35 | 24 | 3 | 2 | 27 | 11 | -- | -- | .711 | 1288 | 330.0 | 250 | 14 | 93 | 2 | 4 | 181 | 6 | 0 | 76 | 67 | 1.83 | 1.04 | |
テンプレート:By2 | 36 | 17 | 4 | 2 | 0 | 7 | 12 | -- | -- | .368 | 592 | 141.0 | 128 | 12 | 53 | 2 | 1 | 70 | 4 | 0 | 60 | 48 | 3.06 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 42 | 19 | 3 | 1 | 0 | 8 | 13 | -- | -- | .381 | 589 | 141.0 | 130 | 4 | 61 | 6 | 3 | 64 | 4 | 0 | 54 | 43 | 2.74 | 1.35 | |
テンプレート:By2 | 42 | 25 | 6 | 2 | 1 | 13 | 11 | -- | -- | .542 | 805 | 199.2 | 165 | 9 | 58 | 1 | 4 | 103 | 5 | 0 | 55 | 45 | 2.03 | 1.12 | |
テンプレート:By2 | 30 | 14 | 2 | 0 | 1 | 10 | 4 | -- | -- | .714 | 485 | 119.1 | 99 | 11 | 38 | 0 | 1 | 65 | 3 | 0 | 39 | 33 | 2.48 | 1.15 | |
テンプレート:By2 | 41 | 15 | 3 | 2 | 0 | 8 | 11 | -- | -- | .421 | 710 | 175.1 | 149 | 15 | 61 | 3 | 3 | 86 | 6 | 0 | 63 | 53 | 2.73 | 1.20 | |
通算:8年 | 364 | 179 | 70 | 17 | 5 | 119 | 88 | -- | -- | .575 | 6813 | 1701.0 | 1362 | 86 | 558 | 21 | 26 | 924 | 46 | 0 | 508 | 415 | 2.20 | 1.13 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | 昭和56年 | 巨人 | 1位 | 130 | 73 | 48 | 9 | .603 | - | 135 | .268 | 2.88 | 50歳 |
1982年 | 昭和57年 | 2位 | 130 | 66 | 50 | 14 | .566 | 0.5 | 133 | .254 | 2.93 | 51歳 | |
1983年 | 昭和58年 | 1位 | 130 | 72 | 50 | 8 | .590 | - | 156 | .275 | 3.77 | 52歳 | |
1989年 | 平成元年 | 1位 | 130 | 84 | 44 | 2 | .656 | - | 106 | .263 | 2.56 | 58歳 | |
1990年 | 平成2年 | 1位 | 130 | 88 | 42 | 0 | .677 | - | 134 | .267 | 2.83 | 59歳 | |
1991年 | 平成3年 | 4位 | 130 | 66 | 64 | 0 | .508 | 8 | 128 | .253 | 3.72 | 60歳 | |
1992年 | 平成4年 | 2位 | 130 | 67 | 63 | 0 | .515 | 2 | 139 | .262 | 3.69 | 61歳 | |
通算:7年 | 910 | 516 | 361 | 33 | .588 | Aクラス6回、Bクラス1回 |
※1 太字は日本一 ※2 1981年から1996年までは130試合制
タイトル
表彰
- 新人王 (1957年)
- MVP:2回 (1958年、1959年)
- ベストナイン:1回 (1959年)
- 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1958年)
- 正力松太郎賞:2回 (1981年、1989年)
- 東京ドームMVP特別賞:1回 (1989年)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:1996年)
記録
背番号
- 21 (1957年)
- 18 (1958年 - 1966年)
- 81 (1967年 - 1976年)
- 73 (1981年 - 1983年、1989年 - 1992年)
関連情報
著書
- 『草野球の戦力強化』(西東社:1978年5月)ISBN未確認
- 『我慢の管理学:部下とともに生きる』(光文社:1984年1月)ISBN 4334011624
- 『これが本当のプロ野球だ:巨人前監督の「わが巨人軍、わがプロ野球」』(講談社:1984年7月)ISBN 4062011824
- 『子育て人育てには愛と拳骨を』(講談社:1984年10月)ISBN 4062013789
- 『耐えて、勝つ:プロ野球選手に学ぶ自己管理術』(日之出出版:1988年11月)ISBN 4891980672
- 『6154イニングの決断:人を活かし組織を動かす掌握の管理術』(日本文芸社:1990年12月)ISBN 4537022191
- 『藤田前監督、巨人軍を語る』(日本放送出版協会:1993年3月)ISBN 4140800909
- 『藤田元司の情のリーダー学』(ごま書房:1996年5月)ISBN 4341170961
- 『監督:悪ガキこそ戦力だ』(森祇晶との対談、光文社:1997年4月)ISBN 4334005837
- 『二番打者組織論:チーム、集団のキーマンは、三番でも四番でもない』(ひらく:1997年8月)ISBN 4341190202
演じた声優
出演
CM
参考文献
- 『巨人軍 藤田監督の「人材を100%」活用する法』(G番記者グループ著・一季出版・1989年9月) ISBN 4900451339
- 『巨人軍監督列伝―王の苦悩、藤田の成功。』(大下英治著・PHP研究所・1990年7月) ISBN 4569528295
- 『ドンを越えた男―「巨人軍監督」藤田元司・しんぼうに辛抱のリーダーシップ』(松下茂典著・ダイヤモンド社・1990年9月)ISBN 4478360162
脚注
注釈
- ↑ 糸井重里との対談に詳しいが、旧制中学・新制高校時代はケンカにも強く、番長格で高下駄を鳴らして闊歩したり、喧嘩相手を何日も待ち伏せしたりするなど、後のイメージとは正反対のバンカラだった。高校を転校した理由の一つに、イメージからは信じられないような逸話を披露している。
- ↑
- また肥満が原因で、西武から巨人に半ば押し付けられる形で移籍した大久保博元に対し、(隠れるように食事をしていた大久保を見つけ)「お前は身体が資本なんだから、もっと食べなきゃダメだろう!」と言ってステーキを奢ったと言う。この時、大久保は「この人のために、死んでもいい」と泣きながら肉を食べたエピソードがある。
- 守備に難のある選手をほとんど使わなかった広岡達朗や森祇晶と同じく「守りの野球」を掲げてはいたが、唯一長打を望める選手となっていたが故障を抱える原辰徳をサードからレフト(1989年 - 1991年)やファースト(1992年)へコンバートしたほか、捕手や外野手は、肩を一度壊した村田真一、キャッチングに難のある大久保、怪我の影響で守備に不安のある吉村禎章などを日替わりで起用した。また、ショートの川相以外の既存戦力を再構成し、内野守備を補強している。また、1989年はリーグ本塁打4位ながら1試合平均4得点をクリアしており、攻撃面にも隠れた手腕を発揮している。
- 犠打の世界記録を更新し、2006年まで現役を続けた川相も、藤田がレギュラーに抜擢した選手の一人である。川相は藤田に強い恩義を感じており、藤田の死に際しては当時所属していた中日のキャンプ地の沖縄から休日を利用して帰京し、葬儀に出席している。
- 第1次監督時代(1981 - 1983年)のプロ野球中継平均年間視聴率は、1983年には27%に達した(27.1% ビデオリサーチ関東地区調べ。1965年の調査開始以来では、歴代最高記録)。監督時代の通算平均視聴率は、第1次監督時代は25.5%であり、第1次長嶋監督時代(1975 - 1980年)の23.2%、王監督時代(1984 - 1988年)の23.9%、第2次長嶋監督時代(1993 - 2001年)の20.0%よりも高かった。第2次監督時代(1989 - 1992年)は1989・90年の独走状態での優勝と1991・1992年の低迷によって、視聴者の興味が薄れたことも影響し、19.9%で、ONが監督だった時期を下回った。
- 現役時代における川上との確執、副業の失敗等による心労が重なり、40歳代から心臓を患うようになった。2度目の監督就任の際には、医者から「命の保障はない」と告げられていたという。1990年頃から心臓病が悪化し(キャンプイン直後の1990年2月に発作で倒れたことがある)、ニトログリセリンを常備しながら采配を振っていた。1991年に4位に転落したことで、病気の負担もあり辞任を決意していたが、正力オーナーの慰留で1992年も続投した。
- 慶應義塾大学出身であることや、そのスマートな外見や物腰のため、現役時代から『紳士』のイメージが強かった。しかし、実際を知る人の間では、自他共に認める極めて短気な性格で『瞬間湯沸し器』の異名で有名だった。江川も当時を振り返って「自分が打ち込まれたとき、ベンチからマウンドに歩いてくるときの藤田監督は、鬼の形相で顔を真っ赤にして、本当に恐ろしかった」と語っている。また広岡達朗も著書の中で「藤田は歴代監督の中で一番門限が厳しかった。」と記している。
- 日本シリーズでは、1989年は故障で槙原を欠きながらも7戦を戦い抜き勝利しているが、1990年は拙攻・拙守が重なり、黄金期の西武ライオンズにストレート負けを喫し「硬直化した先発起用に頼ったペナントの戦い方が仇となった」と指摘された。
- ↑
- 2003年、山下大輔が横浜ベイスターズ監督に就任した際、目標とする監督として別当薫とともに藤田の名前を挙げている。両者とも、山下にとって慶應義塾大学の先輩にあたる。
- 2003年、原辰徳が巨人監督をわずか2年で解任されたことに抗議して、広岡達朗と共に読売新聞と報知新聞の購読を打ち切った。
- 2004年のプロ野球再編問題の渦中、プロ野球1リーグ構想、球団削減案に反対を表明した数少ない巨人OBの1人である。また、「このままではよそで育った選手ばかりを当てにしてしまうようになり、自らの手で名選手を育て世に輩出してきた巨人の素晴らしき伝統に傷がついてしまう」「若い選手の育成の妨げになるだけだ」とFA制度や逆指名制度の導入にも反対していた。
- 2005年10月5日に堀内恒夫が巨人監督辞任の会見を行った際には、「つらい状況の中よく頑張ってくれた」と労いの言葉を掛け、同年12月4日の巨人OB会総会を堀内が欠席した際にも、「今日はホリが来てないけれど、みんな会ったら慰労してやってくれ。こういうところへ出てこられるムードを作ってやらないといけない」と冒頭でまず堀内を擁護した。
- 2度目の監督就任の際、「本来ならば王が10年ぐらい監督をやるべきだ」と語っていた。原が2度目の監督を打診された際に相談を受けた時には、「今の巨人の再建は5年かかる」と諭し、元監督として長期的視野に立ったチーム作りを球団に直談判したという。
関連項目
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ 文春ビジュアル文庫『豪球列伝』文藝春秋社
- ↑ 監督・コーチングスタッフ(1960~1969年) - スポーツ報知
- ↑ 報知新聞記者だった白取晋によると、当時、藤田を賞賛することはマスメディアの間でタブーとなっていた。
- ↑ 1994年の日本シリーズでは長嶋が監督として初めて日本一を挙げるが、主に日本一の原動力となったのは藤田が監督時代に確立した「先発三本柱」(斎藤・槙原・桑田)であった(シリーズMVPは槙原)。
- ↑ 松下茂典『ドンを越えた男―「巨人軍監督」藤田元司・しんぼうに辛抱のリーダーシップ』ダイヤモンド社、35~36頁
- ↑ 『週刊ベースボール』1989年7月3日号「酒井勉インタビュー」(ベースボールマガジン社)
- ↑ 自身が二度に渡って挑戦するも果たせなかった「打倒・西武」が初めて達成されたシリーズであった(これまでに巨人は計三度、日本シリーズで西武に敗退していた)。
- ↑ 背番号は監督時代の「73」ではなく、現役時代の「18」を着用していた。
- ↑ 野村克也『弱者が勝者になるために―ノムダス〈2〉』ニッポン放送プロジェクト
- ↑ 原は、1980年のプロ野球ドラフト会議において4球団からの指名を受けていた。この4球団競合の末に交渉権を獲得したのは、このオフに巨人の新監督(第1次)として就任することとなった藤田だった。
- ↑ スポーツニッポン2012年1月1日