中畑清
テンプレート:Infobox baseball player 中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手)。2012年より横浜DeNAベイスターズ監督。
1980年代の巨人の中心打者として活躍。日本プロ野球選手会初代会長。2004年のアテネオリンピック野球日本代表監督を務めた。愛称は「絶好調男」[1]、「ヤッターマン」[1]。
目次
経歴
プロ入り前
酪農を営む家に生まれ、子どもの頃から毎朝の乳搾りと野球の練習は欠かさなかったという。長嶋茂雄に憧れ、進学した安積商業高校でも野球部に入部し三塁手、遊撃手、捕手を務める。その後、駒澤大学へ進学。駒大では偏光サングラスと一本足打法で注目を浴び、2年の春には東都大学リーグで首位打者争いをする。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。1973年秋季リーグ最高殊勲選手。ベストナイン4度受賞。2度の全日本入り。
「駒澤三羽ガラス」(「駒大トリオ」)と呼ばれた平田薫、二宮至と共に1975年のプロ野球ドラフト会議の目玉となる。巨人からの1位指名が有力視され駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業の篠塚利夫が1位指名された。報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが、3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。中畑は北海道拓殖銀行への就職が内定していたが、当時監督だった長嶋の存在などが後押しとなりプロ入りを決意。指名されなかった平田と二宮も一緒なら入団すると申し入れ、巨人もこれを受け入れた(2人はドラフト外で巨人に入団)。
現役時代
当時巨人は王貞治、張本勲、土井正三、高田繁らが現役で活躍し選手層が厚かったため、入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかったが、3年目オフのテンプレート:Byに開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場してレッズのクローザー、マリオ・ソトから2ランホームランを放った。この日は試合前、コンタクトレンズをなくして何も見えない状態だったが、妻が後楽園球場まで届けた新品のおかげでよく見えるようになったという[2]。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と進言している。日米野球での活躍がきっかけとなり、テンプレート:Byに一軍に定着。三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。この年の新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折し、新人王はならなかった。
初の規定打席に到達したテンプレート:Byの秋、長嶋が監督を辞任し王も引退。入れ替わるようにテンプレート:By、大学野球のスター選手で中畑と同じ三塁手の原辰徳が入団したが、新監督の藤田元司ら首脳陣は原を二塁にコンバートさせた。しかし中畑はシーズン途中怪我で戦線離脱。その間に原が三塁にコンバートされ、二塁には元々守備には定評のあった篠塚が入り、.357という高打率を記録しレギュラーに定着。一塁には山本功児が入ったが、中畑が戦線復帰すると山本に代わり一塁に収まり、その後も一塁手として出場することになった。この年巨人は1973年のV9以来の日本一を奪回し、中畑も規定打席に到達したシーズンでは自己最高打率の.322、16本塁打、66打点という成績をあげた。
テンプレート:By、守備走塁コーチの末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席の印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した(実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があった。プロでは1987年に篠塚、正田耕三、落合博満らと一時首位打者争いをしたが、結局タイトルは獲得できなかった)[3]。
テンプレート:By、オールスターゲームで第2戦、第3戦にまたがる2打席連続本塁打を放つ。
テンプレート:By、前年監督へ就任した王のことをマスコミの前で「ワン公」と呼び批判。のちに謝罪し、王監督から「何も聞かなかったことにする」と許されている(王政権下では長嶋第一次政権に若手だった選手が主力を担っており、そのことによる派閥争いが度々雑誌、新聞媒体で記事にされた)。また、同年11月5日には日本プロ野球選手会が労働組合としての認可を受けた事に伴い労組としての初代会長へ就任した[4]。
テンプレート:Byは途中怪我で戦線離脱するが、首位打者を狙えるほどの打率を残していたため、復帰後規定打席に達するまでは打席数を稼ぐために1番打者として起用された(首位打者は篠塚が獲得)。
テンプレート:By、監督復帰した藤田により三塁への再コンバートが試みられたが、シーズン序盤、甲子園での試合中に牽制球で一塁に戻った際に指を痛め、長期戦線を離脱。その間に三塁は一塁から岡崎郁が、また一塁も外野から駒田徳広が定着したこともあり、定位置を失った中畑はこの年終盤に早々と引退を表明した。リーグ優勝を決めた試合(大洋戦・横浜スタジアム)で二塁打を放った際に球場に起こったウェーブについて、のちに、自分が日本の球場で最初に起こしたもの、と発言している。現役最後の試合となった同年に行われた近鉄との日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)を放ち、有終の美を飾った[5]。
現役引退後
引退後は日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポンの野球解説者、評論家を経て、テンプレート:Byから巨人の監督に復帰した長嶋監督の下で打撃コーチに就任。
しかし、前年好調だった打撃陣が一転して1993年はチーム打率が12球団最下位に終わり、駒田の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執が噂されたこともあってコーチとしての評価は高くないまま終わった。それでもテンプレート:Byには一塁ベースコーチを担当し、ムードメーカーの役割に徹して日本一に貢献した。同年オフに退団。その後は再び日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポン野球解説者・評論家となり(ニッポン放送解説者を務めた時期もある)、日本テレビではスポーツニュースのキャスターも務めた。
テンプレート:Byのアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチを務め、監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執る[6]。本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋の監督登録が認められなかったため正式に監督に就任[7]し、銅メダルを獲得した。同オフ、巨人から助監督を要請されたが固辞。2005年には星野仙一、江川卓らとともに巨人の次期監督候補の1人として名前が挙がったが実現しなかった(原辰徳が再任)
国政選挙への挑戦
2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ[8]、5月11日にたちあがれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席する中、正式に出馬表明記者会見を行った[9]。7月11日の投開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも同党が比例区で1議席(片山虎之助)しか獲得できなかったため落選。翌年の8月末に離党したが、後に「結果的に受からなくてよかった」と発言している。その真意を問われ、「(議員になっていれば、)震災の後に自由に支援に故郷を訪れることができなかっただろうから」と述べている[10]。
2011年には元同僚の篠塚やお笑いタレントの松村邦洋らと、3月11日の東日本大震災の爪跡残る故郷・福島を訪れてボランティア活動をしたり、後に同郷の西田敏行らともチャリティイベントを実施した。
DeNA監督時代
2011年12月9日、新しくGMに就任した巨人時代の同僚・高田繁からの要請で、球団名が変わった新生・横浜DeNAベイスターズの監督に就任[11]。自身の誕生日でもある2012年1月6日に就任会見を行い、会見の中での発言、「熱いぜ!DeNA」が正式にチームのシーズンスローガンとなった。
中畑はその明るいキャラクターから、監督就任直後からマスコミより大きな注目を浴びる。テンプレート:By2月2日、春季キャンプ中にインフルエンザに感染した際、2月7日に現場復帰するまでの間宿舎の一室からチームを見守っていたが[12]、その間も中畑は連日スポーツ紙やスポーツニュース等をにぎわせていた。しかし、前年まで4年連続最下位と長期にわたって低迷していたチームを変えることはできず、前年よりさらに勝率を下げた最下位の成績に留まった。
2012年9月15日、神宮球場で行われた対ヤクルト戦で3塁塁審を担当した深谷篤に抗議した後、胸で押す(タックル)という暴力行為を働いて監督就任初の退場処分を受けた[13]。
2013年、9月24日の対阪神戦に敗れ、チームのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなり、試合後に監督辞任を示唆するコメントをした[15]が、終盤までAクラスを射程距離内に入れた戦いをつづけ、テンプレート:By以来の最下位脱出を果たしたこと、前年と比べて観客数が増えたことなどが評価されテンプレート:要出典、10月3日に2014年度の続投が決定した。
プレースタイル
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 レギュラー時代は王貞治引退翌年の第一次藤田監督時代、1981年、82年ごろは4番を任される事も多かったが、その後は原辰徳や吉村禎章の台頭や、スミス、クロマティなどの加入により、主に6番、7番打者をつとめ、積極的な打撃で中軸打者をホームへ帰した。また、ムードメーカーぶりを買われ1番打者で出場した試合も多い。典型的な早打ちスタイルの中距離打者だったが、1984年には自己最高の31本塁打を記録している。
守備も巧みであり、一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。その一方で、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられたこともあった[16]。また、中畑を三塁から一塁へコンバートした藤田監督は、後年、中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だったと語っている[17]。
足首付近への自打球に悩み、足首にプロテクターを付け始めた。これ以降、他選手も足首や肘などにプロテクターを着用するようになった。
新人の頃に広島東洋カープの抑えだった江夏豊と対戦。中畑曰く、江夏はマウンドに上ると新しいボールを毛嫌いし、毎回ボールに土をすりこんでいたという。そこで、当時打撃コーチであった国松彰から「ボールを替えてもらえ」との指示が中畑に飛んだ。中畑は渋々、ボールを1球投げたところでボールの交換を要求した。捕手も嫌々ながら新しいボールと交換して江夏にボールを渡した。すると江夏が中畑を凝視しながらマウンドから降り、中畑の手前2mほどまで近づいて、「おい若造、ボール替えてくれ? 10年早いんや!」と凄まれ、思わず「すいません!」と謝ったという。中畑はこの打席で頭の高さほどのボール球を振って三振し、即2軍落ちになった。この後の江夏との対戦はまったく打てなかったという。
監督として
就任当時、開幕前から「守れない選手は使わない」をチーム方針として、守備を重視したチーム作りを徹底して行うことを表明している[18]。また、機動力を使うことも明言し、盗塁、エンドラン、スクイズなどを積極的に行なっている。この機動力を使った野球は就任1年目の頃は「せこいぜ野球」と呼称されていた。 また、オーダーを固定することは少なく、好不調で選手や打順を入れ替えることが多い。
投手陣は基本的に投手コーチにほぼ一任しているが、小刻みな継投を好み、シーズンののべ登板数の日本記録を作った前任監督の尾花高夫とは異なり、先発投手はイニングを引っ張る傾向が強い。特に三浦大輔にはかなりの信頼を置いており、2012年はリーグ最多の6完投をさせている[19]。
試合後の監督インタビューは、勝った試合はもちろん、敗れた試合でも行っている。またチームの勝利時のヒーローインタビューはベンチでチームメンバー全員で聞く事にしている。
人物
若くあまり注目もされていなかった頃、当時の長嶋茂雄監督から「清、調子はどうだ?」と聞かれた際、「えぇ、まあまあです」と答えた。これを聞いていた土井正三コーチに「監督に調子を聞かれたら嘘でもいいから必ず絶好調と答えろ」と言われて(板東英二曰く、「何を聞かれても」)「絶好調!」と答えるようになり[20]、その後中畑の代名詞として広く定着する。チームのムードメーカーで、その明るい性格からファンに人気があり、ヤッターマンの愛称でも親しまれた。 カラオケが趣味で演歌を大変好み、テレビ番組のカラオケ大会ではよく山本譲二や北島三郎などの曲を歌う。また吉幾三の作詞作曲の『十和田丸』でデビューし演歌のシングルを2枚リリースしている。
1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信、吹石徳一など)による親睦会「二八会」(にっぱちかい)の会長を務めている[21]。また毎年、福岡県北九州市の「九州ゴルフクラブ」にて、「元気だぜ!」というタイトルのプロアマゴルフコンペを行っている。
TOKIOの松岡昌宏が中畑の大ファンであり、それを知って中畑は家族で大喜びしたという[22]。
現役時代の髪型は、当時巷で流行したテクノカット(イエロー・マジック・オーケストラに代表される、もみ上げをまっすぐにカットする髪型)だった。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 巨人 | 7 | 5 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .400 | .400 | .400 | .800 |
テンプレート:By2 | 5 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .333 | .333 | .333 | .667 | |
テンプレート:By2 | 100 | 352 | 333 | 42 | 98 | 18 | 3 | 12 | 158 | 45 | 4 | 4 | 6 | 3 | 7 | 0 | 3 | 46 | 8 | .294 | .312 | .474 | .787 | |
テンプレート:By2 | 124 | 503 | 459 | 61 | 123 | 15 | 2 | 22 | 208 | 57 | 10 | 8 | 7 | 4 | 28 | 1 | 5 | 53 | 11 | .268 | .315 | .453 | .768 | |
テンプレート:By2 | 109 | 440 | 416 | 55 | 134 | 17 | 7 | 16 | 213 | 66 | 10 | 2 | 0 | 3 | 19 | 3 | 2 | 37 | 7 | .322 | .352 | .512 | .864 | |
テンプレート:By2 | 124 | 510 | 468 | 56 | 125 | 24 | 5 | 25 | 234 | 78 | 4 | 3 | 0 | 3 | 37 | 2 | 2 | 71 | 10 | .267 | .322 | .500 | .822 | |
テンプレート:By2 | 114 | 446 | 416 | 53 | 125 | 20 | 2 | 15 | 194 | 68 | 13 | 1 | 2 | 5 | 22 | 3 | 1 | 39 | 5 | .300 | .333 | .466 | .800 | |
テンプレート:By2 | 130 | 550 | 493 | 78 | 145 | 30 | 1 | 31 | 270 | 83 | 4 | 1 | 0 | 2 | 51 | 2 | 4 | 64 | 12 | .294 | .364 | .548 | .911 | |
テンプレート:By2 | 125 | 526 | 490 | 71 | 144 | 32 | 2 | 18 | 234 | 62 | 7 | 3 | 2 | 3 | 30 | 1 | 1 | 39 | 11 | .294 | .334 | .478 | .812 | |
テンプレート:By2 | 127 | 484 | 447 | 57 | 122 | 29 | 2 | 14 | 197 | 69 | 7 | 5 | 2 | 6 | 27 | 3 | 2 | 67 | 10 | .273 | .313 | .441 | .754 | |
テンプレート:By2 | 110 | 413 | 371 | 37 | 119 | 23 | 1 | 6 | 162 | 40 | 6 | 3 | 7 | 5 | 29 | 1 | 1 | 46 | 13 | .321 | .367 | .437 | .804 | |
テンプレート:By2 | 124 | 478 | 444 | 46 | 131 | 36 | 2 | 10 | 201 | 46 | 5 | 4 | 4 | 1 | 28 | 5 | 1 | 35 | 18 | .295 | .338 | .453 | .790 | |
テンプレート:By2 | 49 | 128 | 113 | 8 | 25 | 6 | 0 | 2 | 37 | 6 | 0 | 2 | 2 | 0 | 12 | 3 | 1 | 24 | 2 | .221 | .302 | .327 | .629 | |
通算:13年 | 1248 | 4838 | 4458 | 564 | 1294 | 250 | 27 | 171 | 2111 | 621 | 70 | 36 | 32 | 35 | 290 | 24 | 23 | 523 | 108 | .290 | .334 | .474 | .808 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By | DeNA | 6位 | 144 | 46 | 85 | 13 | .351 | 41.0 | 66 | .233 | 3.76 | 58歳 |
テンプレート:By | 5位 | 144 | 64 | 79 | 1 | .448 | 23.0 | 132 | .262 | 4.50 | 59歳 | |
通算:2年 | 288 | 110 | 164 | 14 | .401 | Bクラス2回 |
表彰
記録
- オールスターゲーム出場:6回(1981年 - 1985年、1988年)
- 初記録
- 初出場:1977年7月17日、対広島東洋カープ17回戦(後楽園球場)、7回裏に原田治明の代走として出場
- 初安打:1977年7月31日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場)、6回表に高橋良昌の代打として出場、山本和行から
- 初打点:1978年7月13日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、5回表に西本聖の代打として出場、松本幸行から同点適時打
- 初先発出場:1979年4月11日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、7番・三塁手として先発出場
- 初本塁打:1979年5月1日、対阪神タイガース4回戦(後楽園球場)、2回裏に益山性旭からソロ
- 節目の記録
- 100本塁打:1984年6月16日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(横浜スタジアム)、1回表に平松政次から左越先制3ラン ※史上129人目
- 150本塁打:1986年8月5日、対中日ドラゴンズ19回戦(後楽園球場)、2回裏に小松辰雄から左越ソロ ※史上81人目
- 1000本安打:1986年9月2日、対広島東洋カープ22回戦(広島市民球場)、7回表に小林誠二から左前安打 ※史上146人目
- 1000試合出場:1987年5月26日、対横浜大洋ホエールズ7回戦(後楽園球場)、5番・三塁手として先発出場 ※史上270人目
背番号
- 24 (1976年 - 1989年)
- 72 (1993年 - 1994年)
- 70 (2012年 - )
関連情報
著書
- 『熱球悲願"絶好調男"の道』(1982年12月、恒文社)ISBN 4770404883
- 『これからも絶好調で』(1990年6月、ベースボール・マガジン社)ISBN 4583028210
- 『野球のごっちゃ煮』(2005年10月、刷仙書房)…国立国会図書館の所蔵情報 ※青空うれしとの共著(中畑は監修としてクレジット)。
- 『諦めるな!』(角川oneテーマ21、2014年3月、ISBN 4041107431)
関連書籍
- 『めざせ!巨人の星:中畑清物語』(川瀬洋樹著、二見書房(ヒーロー・ブックス)、1980年4月)
- 『絶好調夫婦』(中畑仁美著、日本テレビ放送網、1990年4月、ISBN 4820390058) ※妻の著書
- 『がんばれキヨシ監督!!:メゲない中畑清横浜DeNA監督の闘い』(柏英樹著、2012年9月、ISBN 9784750004150)
テレビ・ラジオ出演
- スポーツジョッキー 中畑クンと徳光クン→中畑&徳光のスポーツ熱中宣言(1990年4月 - 1991年3月。日本テレビ)- 司会
- スポーツMAX(日本テレビ)- 司会(キャスター)
- スポんちゅ(日本テレビ)- 司会(キャスター)
- Dramatic Game 1844(日本テレビ)- 解説
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送) - 解説
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(ラジオ日本) - 解説(ゲスト解説[23])
- 中畑清の世の中なんでもクエスチョン?(2006年。ラジオ日本)
- キスの温度 いちばん近い他人(『パナソニックスペシャル』。1990年5月9日。日本テレビ)- 主人公の上司
- メジャーリーグ(『金曜ロードショー』。日本テレビ) - ヤンキースの打者 ヘイウッドの声
- 西村京太郎サスペンス 十津川警部シリーズ7 豪華特急トワイライト殺人事件(1995年1月2日。TBSテレビ) - 本人役
- 所さんの目がテン!(2003年6月8日。日本テレビ)- ゲストVTR出演
ディスコグラフィ
- 十和田丸(1984年、バップ、VAP 10170-07) 作詞作曲は吉幾三。 b/w「酒、夜、時々…雨」
- 港(1988年2月11日、バップ、VAP 10290-07) b/w「十和田丸」
- ときめいて乾杯(1995年、ポニーキャニオン) 真木ことみとのデュエット。真木ことみのアルバム『演歌三昧』に初収録。
CM
- 大塚製薬 『オロナミンC』
- 伊藤ハム
- オートバックス
- 東京電力(共演は川合俊一)
- 千代田生命(1992年)
- 田辺製薬 『アスパラドリンク』(1997年)
- ナムコ プレイステーション用ゲームソフト 『ワールドスタジアム3』(1999年)
- セガ プレイステーション2用ゲームソフト 『プロ野球チームをつくろう!3』(2005年)
- カルピス 『アミールS』(2008年 - )
- 東ハト 『キャラメルコーン』
- 城南建設 『住宅情報館』
- ヤノメガネ
- フンドーキン醤油
- DeNA モバゲー 『大熱狂!!プロ野球カード』(2012年3月 - )[24]
ゲームソフト
- プロ野球JAPAN2001(2001年11月。コナミ。プレイステーション2用ソフト) - 解説者として声の出演
- THE BASEBALL 2002 バトルボールパーク宣言(2002年3月。上記のマイナーチェンジ版) - 同上
登場作品
- ミラクルジャイアンツ童夢くん(漫画・アニメ、石ノ森章太郎原作) - 声・小形満
脚注
参考文献
- 長谷川晶一『巨人の魂 ジャイアンツOBからの提言』(2006年、東京ニュース通信社)ISBN 492456656X
関連項目
- ※校内に中畑清記念室が設けられている。
外部リンク
- 【WebマガジンB-plus スペシャルインタビュー 中畑清】
- 中畑清(kiyoshi24gno)on Twitter
- 上総モナークカントリークラブ - アドバイザー
- 栄光の80年代プロ野球 名選手列伝 第1回 中畑清【OCNスポーツ】
- ほぼ日刊イトイ新聞 中畑清は、監督になった。
テンプレート:横浜ベイスターズ テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes テンプレート:アテネオリンピック野球日本代表 テンプレート:読売ジャイアンツ1975年ドラフト指名選手
テンプレート:スポーツMAX キャスター- ↑ 1.0 1.1 『スーパーファミスタ5 スーパーファミコン公式ガイドブック』(1996年3月、小学館発行。「ワンダーライフスペシャル」シリーズ。書籍コード:ISBN 4091025315)より、プロ野球OB名鑑を参照。
- ↑ 引退後の番組で「この日、後楽園から妻に電話してコンタクトレンズを買って届けてもらって装着したら視界が別世界だった」と語っている
- ↑ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮文庫、1990年
- ↑ 前年7月21日に法外組合として発足したときに会長へ就任していたが、東京都地方労働委員会から労組認定を受けたことで改めて就任(日本プロ野球選手会 運営組織・構成・変遷)
- ↑ この試合には夫人が観戦しに来ており、夫人が見ている中で現役最後の本塁打を放った。最後の本塁打の背景には、同僚である篠塚選手が打席に立つよう進言した、と言われている。
- ↑ 監督代行ではなくあくまでヘッドコーチであったが、後に講演で中畑は監督代行の肩書きが欲しかったと発言している
- ↑ 日本のメディアはこれらの事情に配慮し、大会中は中畑を「ヘッドコーチ」と称していた。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 中畑氏 正式出馬表明! 長嶋氏「政界で羽ばたけ」 スポーツニッポン 2010年5月12日閲覧
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ なお、中畑の休養期間中はヘッドコーチを務めている高木豊がチーム指揮を執っていた。2012年9月16日のヤクルト戦の試合途中、退場になった際も同じ対応であった。
- ↑ 試合終了後、中畑は球団広報を通じて「明らかに走者(筒香嘉智)の足がボールより先にたどり着いていた。抗議をしただけで暴力行為は犯していない」と弁明した。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 朝日新聞2013年9月25日スポーツ面
- ↑ 勇者のスタジアムの2000年年末スペシャルで江川と中畑が共演した際に中畑がこの件に触れ、江川が「牽制球取れないんだもん」とコメントすると「取れるかそんなもん!!!!」と声を荒げて言い返している。結果、その時のランナーは三塁まで進んでしまったと江川のコメントより。
- ↑ ほぼ日刊イトイ新聞 -体温ある指導者。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ シーズン終盤の9月25日の中日戦では9回151球を投げさせている。
- ↑ この当時「オレは多摩川のハナクソだよ」と自嘲していたという。
- ↑ オンデマンドスケッチ 佐用 3Woods Group 2008年12月14日
- ↑ 日本テレビ系「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー 20世紀の珍プレーベスト10」(2000年)出演時のトークより
- ↑ 参考:『ラジオ番組表 2005春』(2005年5月、三才ブックス。書籍コード:ISBN 4861990076)に掲載された、ラジオ日本の番組表。
- ↑ テンプレート:Cite news