正田耕三
テンプレート:Infobox baseball player テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBottom 正田 耕三(しょうだ こうぞう、1962年1月2日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)。
目次
経歴
アマチュア時代
和歌山市の和歌山市駅近くにある蕎麦屋[1]の長男として生まれる。小学校3年生で野球を始め、城東中学では学童野球で全国優勝を経験した。なお旧名は「耕造」だったが、中学時代に自宅の階段から落ちて足を骨折したのを機に改名した[2]。市和歌山商高では卓抜した守備能力で1年の夏から二塁手のレギュラーとなった[3]が、石井毅と嶋田宗彦のバッテリーを擁する箕島高校の存在もあり[1]、甲子園出場はならなかった。
高校卒業後は新日鉄広畑へ進み、テンプレート:Byにはロス五輪代表として二塁を守り、主に一番打者を務めて15打数6安打の成績で金メダル獲得に貢献した。監督の松永怜一からはプレーとともにリーダーシップを賞賛されている[4]。オリンピック後、同年のドラフト会議で広島東洋カープから2位で指名された。正田自身は少年時代から熱狂的な阪神タイガースファンであり、かつ事前の打診なく指名したことから入団が危ぶまれたが、「自分は阪神ファンだが、プロであるからこれからは広島に野球をしにいく」と語りカープに入団[5]。アマの最高峰でプレーした事でさらに一段階上のレベルに挑戦したくなり、もし芽が出なければ3年で辞めて家業の蕎麦屋を継ぐつもりだったという[6]。
プロ時代
プロ1年目のテンプレート:By途中でスピードについて行けなくなり、監督の古葉竹識の勧めで秋からスイッチヒッター転向に挑戦した[6]。睡眠と食事以外の時間はバットを常に握っていたという程の猛練習を積み[6]、打撃コーチの内田順三も年間350日は朝から晩まで顔を合わせて指導した[7]。翌テンプレート:Byは規定打席には達しないものの90試合に出場し、打率も.288に上昇している。チームはリーグ優勝を果たし、正田は初めて野球をやってて良かったと感じたが[8]、レギュラー定着を目指してオフのハワイへの優勝旅行にもバット2本を持参して練習を重ねた[9]。実家の蕎麦屋では「正田が本塁打を打つと蕎麦を半額にします」との張り紙がプロ入り後の2年間出されていたが、実施されたのはわずか1度だけであった[1]。
テンプレート:Byは二塁手のレギュラーに定着し、オールスターゲームにも初めて出場した。最終戦でバントヒットを決めて篠塚利夫と同率で並んで初タイトルとなる首位打者を獲得し、ゴールデングラブ賞にも選ばれた。この首位打者には様々な記録がつき、同率で2名が並んだのはテンプレート:Byの張本勲・永淵洋三以来となる史上2度目、本塁打0での獲得は戦後初[10]、更にスイッチヒッターとしてはNPB史上初であった。
テンプレート:Byは春先に外傷性肩峰下滑液包炎を発し、更にこれがきっかけで高橋慶彦との間にトラブルが起きている(後述)。この肩痛のため5月12日から2週間にわたり一軍登録を抹消されたが、筋力トレーニングによるリハビリによって復帰[11]。それぞれ2年連続となるオールスターゲーム出場と首位打者獲得を果たした。なお、シーズン終盤には首位打者を確定させるため監督の阿南準郎がスタメンから正田を外したが、タイトルが取れなくても試合に出たいと直訴したという[12]。
テンプレート:Byはカープの最終戦を残して先に日程を終えた笘篠賢治が32盗塁でセ・リーグ最多盗塁だったが、4差で追う正田がその対中日戦でプロ野球タイ記録となる1試合6盗塁(そのうち5つは当時捕手だった山崎武司から)を決めて34盗塁とし、同年の盗塁王となった。また、前年に続きリーグ最多となる7本の三塁打を記録している。
テンプレート:Byは1番・遊撃手の野村謙二郎に続く2番・二塁手を務め、6月1日の対巨人戦で牽制球を受けて帰塁した際に右肩板を損傷し登録を抹消された[13]が、10日間で復帰した。同年からテンプレート:Byまで毎年.290以上の打率を残し、守備でもテンプレート:Byまで5年連続でゴールデングラブ賞を獲得している。1992年は4月に自身初の月間MVPを受賞するも、右手首を故障して89試合の出場に終わり、現状維持の年俸7,000万円(推定)で契約を更改している[14]。翌テンプレート:Byはこの怪我のため右打席に専念する事になった[9]。同年は121試合に出場したが打率が.257に下がり、オフにスイッチ再転向のため10月25日に右手首の手術を受けた[9]。また、1993年からはカープの選手会長を務めている。
テンプレート:Byから監督就任した三村敏之は正田の回復が不確実な事もあり、緒方孝市を二塁手に転向することを検討した[9]。これに対して正田はギプスを装着したままトレーニングを行う程の執念で二塁のポジションを守り、緒方は外野手となっている。同年は2,500万円増の年俸9,500万円(推定)で契約を更改した[15]。テンプレート:By12月からは現役引退により退任した岡田彰布の後任が見つからなかった労働組合日本プロ野球選手会の会長となり、現役引退まで同職を務めた。なお、大学出身ではない労組選手会会長はテンプレート:By現在まで正田のみである(ちなみに左打ちができる歴代会長も正田のみ※他の会長は全員、右投右打)。
テンプレート:Byはレギュラー定着後最低の打率.235に終わり、300万円減の年俸1億700万円(推定)で契約を更改[16]。球団からのコーチ兼任の要請を断って翌テンプレート:Byは再起をかけ、オープン戦では打率.276とまずまずの状態でシーズンを迎えた[17]。しかし打撃不振に陥って4月20日にはスタメンを外れ、11年ぶりにシーズン100安打を割り込んでいる。
テンプレート:Byはコーチ兼任となり、若手の出番を増やすためなどから8月中旬に球団に引退を申し入れた[18]。同年は7月5日の対ヤクルト戦で1500安打を達成、9月5日の対阪神戦ではサヨナラヒットを放つなど最後まで活躍し、9月29日の広島市民球場での対中日戦をもって引退。また2日前の9月27日の対横浜戦は大野豊の引退試合となり、自身の引退試合では気丈だった正田もこの試合では涙が止まらなかったという[6]。
現役引退後
テンプレート:Byは広島の一軍守備走塁コーチを務めたが、当時の内野陣は若手中心で芯となるベテランが手薄であり守備のほころびが目立った。鎌田実はテレビの解説で「正田は引退をあと1年待つべきだった」と述べている。テンプレート:Byからテンプレート:Byにかけては大阪近鉄バファローズの一軍守備走塁コーチ、一軍打撃コーチを歴任。礒部公一や北川博敏に打撃指導を行なった[19]。また、当時は監督の梨田昌孝、投手コーチの小林繁、打撃コーチの真弓明信と共にナイスミドル軍団として売り出されていた。
近鉄球団が解散した後は3球団からオファーを受けたが、もっとも早く誘いのあった阪神タイガースの一軍打撃コーチに就任[19]。岡田彰布の下で赤星憲広や鳥谷敬に猛練習を課し[19]、2005年のリーグ優勝に貢献した。しかしテンプレート:Byはチーム打率および得点がリーグ最下位となって3位に終わり、クライマックスシリーズ敗退直後に解雇を告げられた[20]。テンプレート:Byにはデイリースポーツの野球評論家およびサンテレビの解説者に就任。同年秋には韓国プロ野球SKワイバーンズの秋季キャンプに臨時コーチとして参加し、翌テンプレート:Byにワイバーンズの二軍総合コーチに就任した。同年7月、打線不振による配置転換で伊勢孝夫に代わって一軍打撃コーチに昇格し、シーズン終了まで務めた。
テンプレート:Byは、再び岡田の下でオリックスの一軍打撃コーチに就任した。T-岡田に「右足を上げて打つと緩急に対応できず。低めの変化球を引っ掛けていた」とノーステップ打法に変更させ大ブレイクさせた[21]。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される[22]。テンプレート:By8月26日のロッテ戦終了後に打撃低迷の責任をとり辞任。球団本部長付としてフロント入りすることが発表された[23]。 同年オフ退団。
打撃
社会人時代は金属バットを使っていたため、左脇が開く癖があった[9]。プロ1年目でスイッチヒッターの練習を始めた際、カープには高橋慶彦や山崎隆造など既にスイッチ転向に成功した選手がいたが、コーチの内田順三からの「真似が通用するほどプロは甘くないので自分のスタイルを樹立しろ」という助言に従っている[7]。また、内田コーチの指示で1200グラムもある重いすりこぎ型のバットを使い、最短距離でバットをボールにぶつけるスイングを身に付けた[7]。右打席でも練習を重ね、同様のスイングを身につけたという[9]。若い頃から俊足を活かすゴロ打ちのスイングを磨いたことは、豊田泰光に高く評価されている[4]。
右打席のみだったテンプレート:Byはケガもあって打率が.257と低く、正田自身はスイッチに転向しなければその程度が限界だったかも、と語っている[9]。左打席では一塁までの距離が2歩は短くなったといい、初めて首位打者となったテンプレート:Byには33本の内野安打を記録した[24]。またその内バントヒットは15本に上り、バントの際のタイミングとポイントの良さが周囲に評価されている[24]。セーフティーバントを意識させることで相手守備が浅くなり、ヒットゾーンが広がる効果もあったという[25]。
左打ちを身につけるまでには苦労が多く、一時は転向をあきらめようかと感じたが、内田にすさまじい形相で一喝されて再び練習に取り組んだ[12]。篠塚利夫の広角打法には憧れを感じていたが、篠塚が二塁走者となった際に緩い球の打ち方を尋ねて「自分も力を抜いて打てばいい」という返答を聞き、真似ができないと感じたという[12]。なお、テンプレート:Byは1年ぶりにスイッチに復帰したが、体がスイングを覚えていてブランクを感じなかった[9]。手首の負担軽減のため、同年からはバットを軽量の880グラムに変えている[9]。
人物
練習量
高橋とともにカープの中でも屈指の猛練習をする事で知られ、テンプレート:Byのキャンプでは高橋が2万本の素振りを行えば正田は4万本をこなした、といわれる[25]。また、シーズン中も広島でのナイター終了後には西区三篠町の合宿所練習場、または大野町の屋内練習所のいずれかでピッチングマシン相手の打撃練習を毎日深夜に行なっていた。テンプレート:Byの湯布院での自主トレ終了後には、200折の温泉饅頭を持ってそれぞれの練習場の近所の家を回って騒音を詫びたという[26]。1988年のオールスターゲーム出場が決まった際にはその間の練習時間が減ることを心配するほど[11]で、一時はコーチから練習を止められることもあった[6]。
首位打者を獲得してからも左打ちを磨くためビジターでも午前中に打ち込んでから球場入りし、ホームではさらに球場での早出特打を行っていた[12]。素質を補うために練習を重ねたといい、現役晩年のテンプレート:Byでも球界屈指の練習量で知られた金本知憲や緒方孝市に負けない数のスイングをこなしたという[27]。
高橋慶彦との関係
高橋は「試合に出るならケガのことは絶対に口にするな」という衣笠祥雄の教えを固く守っており、テンプレート:By5月に正田が右肩の故障をおして出場している事が新聞記事になった際、対戦相手の投手を利すると考えて苦言を呈した[28]。一方、正田はケガ自体は他人に話しても痛みなどを訴えることはなく[29]、高橋の説明不足もあって正田はこれに反発して口を利かなくなり、数日後の神宮球場での練習中に高橋がいきなり正田の尻を蹴ってつかみ合い寸前の騒ぎとなっている[30]。これはスポーツ紙などでも報じられ[11]、高橋がロッテにトレードされる遠因にもなった。
また高橋からは打撃・走塁など多くのことを学んだが、二遊間のランダウンプレイを巡って試合中に高橋と口論することも度々あった。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 広島 | 57 | 68 | 50 | 8 | 9 | 1 | 0 | 0 | 10 | 0 | 5 | 3 | 6 | 0 | 11 | 0 | 1 | 11 | 1 | .180 | .339 | .200 | .539 |
テンプレート:By2 | 90 | 244 | 219 | 28 | 63 | 8 | 1 | 1 | 76 | 11 | 10 | 7 | 8 | 0 | 14 | 0 | 3 | 24 | 5 | .288 | .339 | .347 | .686 | |
テンプレート:By2 | 123 | 458 | 393 | 55 | 131 | 20 | 4 | 0 | 159 | 26 | 30 | 11 | 29 | 1 | 24 | 0 | 11 | 35 | 6 | .333 | .387 | .405 | .792 | |
テンプレート:By2 | 104 | 436 | 394 | 49 | 134 | 8 | 7 | 3 | 165 | 23 | 16 | 12 | 7 | 2 | 29 | 1 | 4 | 37 | 3 | .340 | .389 | .419 | .808 | |
テンプレート:By2 | 128 | 578 | 498 | 74 | 161 | 19 | 7 | 1 | 197 | 25 | 34 | 18 | 23 | 3 | 50 | 1 | 4 | 58 | 11 | .323 | .387 | .396 | .783 | |
テンプレート:By2 | 124 | 522 | 462 | 48 | 139 | 18 | 6 | 3 | 178 | 39 | 9 | 11 | 17 | 3 | 36 | 1 | 4 | 50 | 6 | .301 | .354 | .385 | .740 | |
テンプレート:By2 | 132 | 555 | 481 | 66 | 140 | 17 | 5 | 8 | 191 | 52 | 9 | 12 | 21 | 6 | 45 | 2 | 2 | 35 | 8 | .291 | .350 | .397 | .747 | |
テンプレート:By2 | 89 | 409 | 359 | 49 | 108 | 21 | 1 | 4 | 143 | 33 | 15 | 7 | 10 | 2 | 37 | 3 | 1 | 29 | 5 | .301 | .366 | .398 | .764 | |
テンプレート:By2 | 121 | 512 | 443 | 60 | 114 | 13 | 0 | 7 | 148 | 24 | 4 | 6 | 30 | 1 | 36 | 0 | 2 | 48 | 5 | .257 | .315 | .334 | .649 | |
テンプレート:By2 | 122 | 526 | 464 | 55 | 130 | 6 | 0 | 5 | 151 | 34 | 3 | 3 | 24 | 2 | 35 | 1 | 1 | 31 | 5 | .280 | .331 | .325 | .656 | |
テンプレート:By2 | 124 | 537 | 449 | 62 | 123 | 17 | 2 | 3 | 153 | 38 | 7 | 4 | 29 | 3 | 54 | 1 | 2 | 56 | 6 | .274 | .352 | .341 | .693 | |
テンプレート:By2 | 124 | 556 | 480 | 50 | 113 | 13 | 0 | 2 | 132 | 35 | 4 | 1 | 41 | 2 | 30 | 0 | 3 | 50 | 7 | .235 | .283 | .275 | .558 | |
テンプレート:By2 | 117 | 366 | 324 | 34 | 78 | 11 | 2 | 6 | 111 | 34 | 0 | 2 | 21 | 1 | 19 | 0 | 0 | 29 | 8 | .241 | .282 | .343 | .625 | |
テンプレート:By2 | 110 | 425 | 376 | 44 | 103 | 9 | 0 | 1 | 115 | 17 | 0 | 0 | 16 | 1 | 31 | 0 | 1 | 35 | 5 | .274 | .330 | .306 | .636 | |
通算:14年 | 1565 | 6192 | 5392 | 682 | 1546 | 181 | 35 | 44 | 1929 | 391 | 146 | 97 | 282 | 27 | 451 | 10 | 39 | 528 | 81 | .287 | .345 | .358 | .702 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
記録
- 初記録
- 初出場:1985年5月22日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、9回に代打で出場し、山本和行の前に三振
- 初安打:1985年5月26日、対読売ジャイアンツ6回戦(広島市民球場)
- 初本塁打:1986年5月22日、対中日ドラゴンズ7回戦(石川県立野球場)、1回に杉本正から左越満塁本塁打
- 節目の記録
- 1000本安打:1994年4月10日、対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)
- 1000試合出場:1994年5月22日、対横浜ベイスターズ戦(福井県営球場) ※史上318人目
- 250犠打:1997年5月30日、対横浜ベイスターズ戦(広島市民球場)
- 1500試合出場:1998年6月17日、対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)
- 1500本安打:1998年7月10日、対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:5回 (1987年 - 1990年、1993年)
- 1試合6盗塁(プロ野球タイ記録):1989年10月15日、対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)
背番号
- 4 (1985年 - 1998年)
- 78 (1999年 - 2004年)
- 87 (2005年 - 2007年、2010年 - 2011年)
- 88 (2009年)
関連情報
出演番組
- サンテレビボックス席(2008年)
脚注
関連項目
テンプレート:Navboxes テンプレート:ロサンゼルスオリンピック野球日本代表
テンプレート:広島東洋カープ1984年ドラフト指名選手- ↑ 1.0 1.1 1.2 Number、1998年8月13日号、P.113
- ↑ 月刊THE CARP
- ↑ 毎日新聞、2005年3月6日付朝刊、和歌山地方面
- ↑ 4.0 4.1 週刊ベースボール、1998年10月19日、P.36
- ↑ 後藤正治『スカウト』
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 週刊ベースボール、1998年12月21日、P.12
- ↑ 7.0 7.1 7.2 週刊ベースボール、1999年7月19日、P.18
- ↑ 週刊ベースボール、1998年12月21日、P.14
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 9.7 9.8 週刊ベースボール、1999年7月19日、P.19
- ↑ 戦前も含めると中根之(1936年秋)岡村俊昭(1944年)に続く3人目、43年ぶりの記録となる
- ↑ 11.0 11.1 11.2 週刊ベースボール、1988年8月1日、P.36
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 週刊ベースボール、1989年10月16日、P.125
- ↑ 読売新聞、1990年6月3日付朝刊、P.19
- ↑ 毎日新聞、1992年12月3日付朝刊、P.21
- ↑ 朝日新聞、1994年12月3日付朝刊、P.21
- ↑ 朝日新聞、1996年11月30日付朝刊、P.21
- ↑ 毎日新聞、1997年7月19日付夕刊、P.1
- ↑ 週刊ベースボール、1998年9月28日、P.115
- ↑ 19.0 19.1 19.2 読売新聞、2005年2月2日付夕刊、P.2
- ↑ 読売新聞、2007年12月10日付夕刊、P.3
- ↑ 週刊現代、2010年9月11日号、P.173
- ↑ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- ↑ 【オリックス】正田打撃コーチ引責辞任 - 2011年8月26日
- ↑ 24.0 24.1 週刊ベースボール、1988年6月13日、P.84
- ↑ 25.0 25.1 週刊ベースボール、1988年6月13日、P.85
- ↑ 越智正典『二番打者物語』ダイヤモンド社、1995年、P.20
- ↑ 週刊ベースボール、1996年12月23日、P.56
- ↑ 海老沢泰久『ヴェテラン』、文春文庫、P.261
- ↑ 週刊ベースボール、1988年9月12日、P.118
- ↑ 海老沢泰久『ヴェテラン』、文春文庫、P.262