鎌田実

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テンプレート:Infobox baseball player 鎌田 実(かまだ みのる、1939年3月8日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ・野球解説者

来歴

洲本高校を経て、テンプレート:By大阪タイガースに入団。当初は中日ドラゴンズに入団する予定だったが、鎌田を担当していた佐川直行スカウトがドラゴンズを解雇されてタイガースに移籍したことにより、「何だかよくわからないうちに」タイガースに入団することとなった[注釈 1]

高校時代は遊撃手だったが、「空前絶後の遊撃手」とまで言われた吉田義男がいたため、二塁手に転向する。本人は「吉田さんがいたので、阪神は一番行きたくなかった球団だった」と後に笑顔で語っている。遊撃・吉田、三塁・三宅秀史と共に「試合前のシートノックだけで金を取れる」と言われるほど「日本球界最強の鉄壁の内野陣」を構成する。

ただし一塁手の遠井吾郎だけは、お世辞にも守備がうまいとは言えなかったため、「下手な一塁手に出てこられると邪魔だ」と、本来一塁手が捕るべき打球を鎌田がすべて処理した。なお、この指示に従って一塁から動かなかった遠井は「仏のゴローちゃん」と呼ばれた温厚な性格のためか「鎌田さんの言うとおりですから」と、嫌な顔ひとつしなかったという。

テンプレート:By近鉄バファローズに移籍。テンプレート:Byに阪神に復帰し、テンプレート:Byに現役引退。

引退後はスポーツ用品店経営を経て、近鉄のコーチ、サンテレビ野球解説者、デイリースポーツ野球評論家を務めた後、淡路島で少年野球を指導していたが、テンプレート:By2月1日より阪神大学野球連盟神戸大学海事科学部野球部監督に就任。(神戸大学体育会硬式野球部とは別チーム) 現在は、芦屋市立山手中学校の野球部の外部コーチとしても活躍

人物

鎌田も遊撃手として非常に高い能力があったようで、一時期 故障した吉田の代役として遊撃を任されたこともある。それを見た巨人が阪神にトレードを申し入れたということもあるという。そのプランでは吉田と共に名手と並び称された広岡達朗を二塁にコンバートし、鎌田を遊撃手に据えるというものであった。そのことからも、遊撃手としても半端ではない鎌田の技量が窺える。しかし、阪神がトレードを了承せず、この話は幻のまま終わったため、本人がこのトレード話を当時巨人監督の川上哲治から知らされたのは現役引退後だった。

鎌田は日本で初めてバックトスを導入した選手として知られる。テンプレート:Byのフロリダキャンプで現地の選手のバックトスを目の当たりにした鎌田は、「このプレーを日本でも定着させたい」と思い、練習を始める[1]。3年後、ついにバックトスを自在に使えるようになるが、マスコミ嫌いのため「このチームでバックトスをして、万一失敗したらマスコミがうるさいから」と、ほとんど使用しなかった。それでも、チームの危機にはバックトスを使って併殺を築き、相手チームの反撃を絶った。このとき受け皿となった吉田はのちに「お互いプロだし、守備についてのプライドもある。だから初めて見た時は驚いたけど、驚かないフリをした(笑)」と語っている。

近鉄移籍後、「これで自由にバックトスが使える」と思ったが、いきなり遊撃手がボールを捕れずにエラー。翌テンプレート:Byから監督を務めた三原脩からは「バックトスを使うな」と厳命された。納得できぬ鎌田は「なぜバックトスを使ってはいけないのか」と、大監督である三原に食って掛かった。「他の野手のレベルが低く、鎌田のバックトスに対応できなかったから」と諭そうとする三原に対し、「それは他の内野手の問題で、私のバックトスに問題があるわけではない。むしろ、併殺の可能性が高まるので、バックトスは積極的にするべきだ」とさらに反論。三原は「私も昔バックトスをやろうとしたができなかった」などと話をうやむやにするしかなかったという。その後はバックトスを封印していたが、一度だけバックトスを行い、サヨナラ負けのピンチを救った。これ以降、三原は鎌田に対し「先輩」というあだ名で呼ぶようになったという。

飛行機の移動が苦手で、試合中チームを離れて、次の試合に備えて一人夜行列車で移動したこともある。これは前述のフロリダキャンプの際、他のメンバーが熟睡する中、一人起きていた鎌田はものすごい大雨の中を飛行機が飛び立つという経験をし、恐怖を覚えたからだという。つまり、鎌田はバックトスと共に飛行機恐怖症も一緒に覚えて帰ったということになる。

バッティングにも特徴のある選手で、いわゆる悪球打ちの打者であった[1]。バッティングのストライクゾーンが頭の上まであったという[1]。この打撃に「大根切り打法」という呼び名もついていた[1]。これは、頭の高さのボールであっても強引に叩きつけ、ヒットにするバッティングであったことから命名された[1]。その一方で真ん中のボールに弱いという弱点も持っていた[1]選球眼に難があり、ボールゾーンスイング率が高く、打率出塁率がほぼ変わらなかった。IsoD(出塁率-打率)が.028と4000打数以上の歴代選手の中では最も低い数字となっている[2]テンプレート:Byには106試合出場で、IsoDが.006,テンプレート:Byには全試合出場を果たしながら.013しかなかった。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 阪神 45 92 85 4 11 1 0 0 12 5 1 0 3 0 1 0 3 13 2 .129 .169 .141 .310
テンプレート:By2 67 139 128 9 23 4 3 1 36 13 3 1 6 1 3 0 1 18 0 .180 .203 .281 .484
テンプレート:By2 106 371 360 31 86 16 4 2 116 17 1 6 7 1 2 0 1 23 8 .239 .245 .322 .567
テンプレート:By2 130 468 449 32 119 16 3 3 150 39 11 8 3 1 14 1 1 35 4 .265 .288 .334 .622
テンプレート:By2 130 522 500 56 130 17 4 4 167 36 14 11 10 2 9 1 1 29 9 .260 .273 .334 .607
テンプレート:By2 133 571 532 41 106 10 5 1 129 23 2 10 9 2 25 1 3 59 9 .199 .238 .242 .481
テンプレート:By2 110 416 400 43 104 12 3 1 125 26 5 4 1 2 13 0 0 13 5 .250 .282 .313 .594
テンプレート:By2 53 154 148 11 26 2 1 0 30 6 2 1 1 1 3 0 1 11 2 .176 .196 .203 .399
テンプレート:By2 88 227 213 13 45 4 1 1 54 10 4 1 1 1 12 1 0 31 6 .211 .252 .254 .506
テンプレート:By2 92 272 250 20 50 8 1 2 66 12 2 3 6 0 16 4 0 11 3 .200 .248 .264 .512
テンプレート:By2 近鉄 112 441 420 52 105 15 1 2 128 16 16 4 9 2 9 0 1 50 3 .250 .266 .305 .571
テンプレート:By2 124 429 390 38 89 11 2 3 113 25 15 4 19 2 17 1 1 25 5 .228 .261 .290 .551
テンプレート:By2 114 302 278 24 63 10 2 2 83 18 2 3 9 1 13 1 1 20 5 .227 .263 .299 .561
テンプレート:By2 阪神 108 213 186 23 54 5 3 2 71 12 3 2 15 0 12 0 0 12 5 .290 .333 .382 .715
テンプレート:By2 62 116 104 5 28 2 0 0 30 6 3 1 8 0 4 1 0 9 0 .269 .296 .288 .585
テンプレート:By2 8 10 8 1 2 0 0 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 1 0 .250 .250 .250 .500
通算:16年 1482 4743 4451 403 1041 133 33 24 1312 264 84 59 109 16 153 11 14 360 66 .234 .261 .295 .555
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録
節目の記録

背番号

  • 41 (1957年 - 1966年、1970年 - 1972年)
  • 8 (1967年 - 1969年)
  • 71 (1993年 - 1994年)

関連情報

著書

  • 『21世紀の野球理論―もっと上手になる120の鉄則』デイリースポーツ社(共著・編集)。神戸新聞出版センター。2002年。128頁。ISBN 4343001776

注釈

  1. 鎌田と同様に、佐川直行スカウトの移籍によって入団先がドラゴンズからタイガースに変更になった選手に並木輝男がいる。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 テンプレート:Cite web
  • ちょっとマニアックですが、IsoDベスト、ワースト40|野球史