三原脩
テンプレート:Infobox baseball player 三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:同県同郡まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手。右投右打)・監督・球団経営者。
選手としては、1934年に発足した大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍→読売ジャイアンツ)の契約第1号(日本初のプロ契約選手として紹介される場合[1] もあるが、1920年代に日本運動協会などが発足していたため、厳密には誤りである)。
監督としては、選手の調子・ツキを見逃さない慧眼の持ち主で、周囲の予想を超える選手起用・戦術で数々の名勝負を演出し「三原魔術」と驚嘆を受け、「魔術師」「知将」の異名をとった。日本プロ野球史上、日本野球連盟、2リーグ分立後のセントラル・リーグ及びパシフィック・リーグ両リーグ加盟球団での日本選手権シリーズ(日本シリーズ)といった、3種類の優勝を経験した唯一の人物(セ・パ両リーグでの日本シリーズ優勝経験監督は、水原茂、広岡達朗がいる)。監督としての3,248試合出場は日本プロ野球記録である。また監督としての5球団在籍も藤本定義、石本秀一と並ぶ日本プロ野球タイ記録である(監督代理を含めず)。
記者として、報知新聞社→読売新聞社に勤務していた時期があるほか、晩年には日本ハム球団株式会社(日本ハムファイターズ)の代表取締役社長兼球団代表→相談役を歴任した。
巨人総監督退任までの表記は「三原 修」。
目次
経歴
プロ入りまで
大地主の末っ子として何不自由なく育った。香川県立丸亀中学校で野球にのめり込み、官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、高松中の校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を認めた。高松中では遊撃手として投手の梶原英夫(のち東京帝大)らと共に第14回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)へ出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退した。野球部のマネージャーを務めたのが後に日本社会党委員長となった成田知巳だった。
卒業後、第四高等学校を受験するが、中学の先輩(水原義明)がいた早稲田大学にスカウトされ入学[2]。野球部では1年生時から二塁手として活躍する。特にテンプレート:By春季の早慶戦2回戦で、投手・水原茂を相手に敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残している[3]。リーグ通算67試合出場、231打数68安打、打率.294。
しかし1933年、結婚を機に野球部を退部(当時早大野球部では、学生結婚は好ましく思われていなかった)、大学を中退し帰郷してしまう。故郷ではぶらぶらしていたが、大学時代の仲間に誘われ大阪府へ転居。全大阪でプレーをした。
プロ入り
テンプレート:By6月6日に契約選手第1号として、同年12月26日に正式発足する大日本東京野球倶楽部へ入団しプロ入り。テンプレート:By1月に入営のため退団した[4] が、日本初のプロリーグである日本職業野球連盟(テンプレート:Byより日本野球連盟)が発足したテンプレート:Byの9月に後身である東京巨人軍へ選手兼助監督として復帰。俊足・堅守の選手だったが、応召で脚を負傷したこともあってテンプレート:Byにわずか実働3年で現役引退。この間、テンプレート:Byの連盟選手権試合(当時は前後期制で、前期と後期の優勝チームが年度王者をかけて対戦)対大阪タイガース戦の終了後に、判定に不満をもった監督の藤本定義と共に審判室へ抗議に入り、三原がバットを持っていたために連盟から出場停止処分と罰金が課された。
引退後は、報知新聞で記者として活動したが応召しビルマ戦線で従軍。
巨人監督
太平洋戦争後は読売新聞(報知新聞から籍が移されていた)の運動部に記者として勤務し野球評を書いていた[4] が、テンプレート:Byシーズン途中の6月3日には、球団が成績不振に悩まされていたため、監督に就任することを球団側と合意、同6月6日、大学の後輩である監督の中島治康に配慮し、助監督・技術顧問へ就任した。9月には総監督へ就任し、実質的に指揮権を握った。この年巨人は5位。翌テンプレート:Byは全試合で三原が指揮をとり2位。テンプレート:Byに試合中に相手南海ホークスの選手を殴打する事件(三原ポカリ事件)を起こし無期限の出場停止処分に処される。後に救済運動があり出場停止100日に減じられ、同年7月23日より復帰(三原が出場停止の間、チームの指揮は監督の中島がとった)。三原の離脱があったもののチームは優勝を果たした(巨人の太平洋戦争後初優勝であり、日本野球連盟リーグ最後の優勝)。
1949年には水原がシベリア抑留から復帰し、ファンや選手から水原のプレーを期待する声が高まった。しかし、総監督の三原は水原を起用することはなかった。だが水原は巨人の功労者であると、チーム内から批判が起きた。シーズン終了後に、巨人選手たちが三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「三原監督排斥騒動」が起きる。球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、セントラル・リーグへ加盟したテンプレート:Byより指揮権は水原が握ることになった。監督に就任した水原は、このとき、三原の監督交代には否定的だったが、一方で「三原君は副代表にどうですか。とにかく僕に監督ということなら、一本でやらせてください。」とも球団に提案している[5]。総監督になった三原には球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに日がな碁を打つ日々をすごしていた。
西鉄監督
1950年シーズンオフ、パシフィック・リーグの西鉄クリッパースに移籍していた元巨人投手川崎徳次と西鉄球団社長西亦次郎の説得[6] で、翌テンプレート:By1月30日に西日本パイレーツを吸収合併した西鉄クリッパース(2月28日より、西鉄ライオンズ)の監督へ就任(当初、1月18日に西日本の監督へ就任することが発表された[7] が、合併に伴い宮崎要の後任監督となった。そのため、テンプレート:Byまでは引き続き宮崎が監督を名乗り、三原は総監督として指揮を執っていた)。この際に、巨人総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓った。三原は、1952年に中西太や球界屈指のスター大下弘の獲得に成功すると、豊田泰光、稲尾和久ら若手有望選手を相次いで獲得して、大下を軸とするチーム作りを進めた。
テンプレート:Byにチーム初のリーグ優勝を果たしたが、セ・リーグは中日ドラゴンズが巨人を抑えてリーグ優勝を果たし、この年の日本シリーズでは巨人との対戦はならなかった。シリーズは中日に3勝4敗で敗れた。
そして、テンプレート:Byに2年ぶりの優勝を果たすと、対戦相手は水原率いる巨人となった。この両者の戦いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、4勝2敗でついに念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げた。以後テンプレート:Byまで3年連続で巨人と日本シリーズで対戦し、いずれも三原率いる西鉄に軍配が上がる。
特に1958年の日本シリーズは、西鉄が第1戦から3連敗しいきなり王手をかけられるが、第4戦以降は稲尾が連投し、ついに4連勝して逆転日本一を勝ち取った。日本シリーズ史上初、ワールドシリーズにも前例がない「3連敗からの4連勝」であり、この年の両者の戦いぶりは日本プロ野球の歴史に残る名勝負と称えられる。
しかし、三原は西鉄を退団して他球団への移籍を目論んでいた。そのとき大洋ホエールズが三原の意向を掴み、監督就任寸前までこぎつけたが、報知新聞(後のスポーツ報知)がこれをスクープし、結局西鉄に残留する。しかしテンプレート:Byは4位に低迷し退団、大洋監督に就任した。
大洋監督
当時大洋は1954年から59年まで6年連続最下位であり、万年最下位の大洋に名将の誉れ高い三原が監督に就任したことは大きな話題を呼んだ。そして、水原率いる巨人とペナントレースで闘うことになりマスコミから「巌流島の戦い再現」と喧伝された。
テンプレート:Byは開幕から6連敗を喫し、エース秋山登もいきなり戦線離脱する苦しい幕開けだったが、すぐさま選手起用が冴え渡り、巨人と優勝争いを繰り広げた。前年には0勝に終わった権藤正利をリリーフ専門で起用して復活、左腕の鈴木隆を中継ぎ・リリーフで巧みに使い、投手力の底上げに成功した。打線は低打率であったが、二塁手に新人の近藤昭仁を起用し、遊撃のレギュラーだった麻生実男は代打で重点的に起用し、トレードで近鉄バファローズから鈴木武を獲得して遊撃に起用するなどの使い分けをおこなった。三原はこれらの選手を「超二流選手」と呼び、この「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合に33勝17敗という勝率を挙げていった。こうして巨人を下して球団史上初のリーグ優勝を成し遂げた。 日本シリーズは「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズとの対戦となった。下馬評では圧倒的な大毎有利であったが、初戦からの4連勝(全て1点差試合)で下して日本一。日本プロ野球史上初の前年度最下位球団による、リーグ優勝・日本一を達成した。また監督として3球団での優勝も史上初であった(2013年現在、三原の他にはこのとき大毎の監督だった西本幸雄と星野仙一)が、三原にとっても人生で最高のシーズンだったという。この功績が評価され、スポーツ界では初めて菊池寛賞を受賞した(テンプレート:By)。その後テンプレート:By、テンプレート:Byも、大洋は阪神タイガースと首位争いを演じ、優勝スレスレに至るがいずれも惜しくも優勝を逃す。テンプレート:Byを最後に辞任。
近鉄監督
テンプレート:Byには4年連続最下位だった近鉄バファローズの監督に就任。1年目4位、2年目には阪急ブレーブスと優勝を争い2位となる。テンプレート:By限りで退任。近鉄監督時代には永淵洋三を投手・野手の二刀流で起用した後野手に専念させて首位打者を獲得させたほか、小川亨を指導した。
ヤクルト監督
テンプレート:Byにヤクルトアトムズ監督へ就任。1年目最下位、2年目のテンプレート:Byには4位、3年目のテンプレート:Byは4位。優勝はできずAクラス(2・3位)入りもならなかったが、入団したばかりの若松勉の打撃センスを見抜き1年目からレギュラーに抜擢、三原と共に打撃コーチとしてヤクルト入りした中西とのマンツーマン指導の甲斐もあり翌1972年には早くも首位打者になるなど、後に若松が大打者としてはばたくきっかけを作った。
日本ハム球団社長→晩年
1973年11月、日本ハムによる日拓ホームフライヤーズ買収へ関与し日本ハムファイターズ(日本ハム球団株式会社)の代表取締役社長兼球団代表へ就任。娘婿の中西を監督に据えた。しかしテンプレート:By、75年と2年連続最下位に終わり、後任に大沢啓二を招聘。大沢はBクラスだったチームを優勝を狙えるチームにまで育て上げ、テンプレート:Byには前身の東映時代以来19年ぶりにリーグ優勝を果たした(この頃には、相談役へ退き、晩年まで務めた)。この間チームの体質改善を図り東映時代(1954年 - 1972年)からの主力を次々に放出させ、リーグ優勝時に残っていたのは宇田東植、千藤三樹男、岡持和彦(シーズンオフに宇田は阪神タイガースへ移籍、千藤は引退)だけだった。1978年の江川事件では、巨人を除く11球団で最後まで江川卓の巨人入団に反対したが、大勢を変えることはできなかった。
テンプレート:Byに野球殿堂入り。テンプレート:By2月6日、糖尿病の悪化による心不全で死去。享年72。
人物
水原茂との関係
大学時代のホームスチール事件の一方の主役で、同じ香川県出身の水原茂とは武蔵・小次郎にも例えられた永遠のライバルであり、1951年西鉄監督就任後初のキャンプで「我いつの日か中原に覇を唱えん」と第一声を発したとされる。また、1956年からの日本シリーズでの直接対決は「巌流島の対決」と呼ばれた。
三原がヤクルト監督に就任した1971年、ライバル・水原は同じセ・リーグの中日で監督を務めていた。この年のセ・リーグ最終戦となった10月9日の試合は両者の最終対決となり、川崎球場で行なわれ[8]、水原中日が勝利した。ちなみにこの年のヤクルト・中日の対戦成績は12勝12敗2分。
犬猿の仲とも評されたが、ユニフォームを脱いだ後は交流はあったそうである。晩年は、三原がパ・リーグ会長、水原がセ・リーグ会長となる計画を立てていたが、実現すること無く亡くなった。
流線型打線
西鉄時代の「三原マジック」の代表的存在として流線型打線がある。バントやつなぐ打撃を期待される二番打者に強打者を配置、1954年のリーグ制覇時は二番豊田泰光、三番中西太、四番大下弘の強力打線を組んだ。三原は独自の打線論を披露し、当時の西鉄強力打線は“水爆打線”と呼ばれた(なお水爆打線の元祖は松竹ロビンス)。現在の野球でもこの打線論を汲んでいる部分が多い。
超二流
流線型打線とともに三原の代名詞となったのが“超二流”。一流ではないが守備や打撃など一芸に秀でた選手を好んで起用していた。西鉄では滝内弥瑞生を代走・守備要員で、河野昭修や小淵泰輔を内野のユーティリティプレーヤーとして多用した。また大洋時代は代打の切り札として麻生実男を起用、主砲桑田武に「キミは打率2割5分でいい。そのかわりホームランを打て」と指示するなど、弱小といわれたチームで選手たちの特性を見抜き多彩な選手起用を見せ、大成功を収めた。また、「運」「ツキ」の有無をオーダーに反映することもあり、「ツキ」がある選手は実績にかかわらず起用して、多く成功させている。
日本シリーズ
1958年の日本シリーズで、当時スターティングメンバーは事前に公表することになっていたが、第6戦に事前公表した打順とは違う選手を起用した(玉造陽二から花井悠へ変更)。これを水原はルール違反だとして抗議し試合開始が遅れたが、三原は事前公表に反する起用をしたことを意に介さず、むしろ抗議の間西鉄側はバットを振っていればいいが、守る巨人側は投手の肩が冷やさないよう神経をすり減らすことになると踏んだため逆に喜んだ。
1960年の日本シリーズ開幕前夜に日本教育テレビ(NET)で『シリーズ直前インタビュー』と題し、大毎監督西本幸雄との対談番組が放送される予定だった。しかし、予定していた時間になってもNETのスタジオに現れず、西本と当時のホスト役だった佐々木信也(同局野球解説者)との対談に終始した。第1戦当日、佐々木と番組スタッフは監督室にいた三原を訪ねて抗議している。ところが三原はそこでNETを侮辱したかのような発言をしたため、温厚だった佐々木を大激怒させた[9]。
なお、三原と佐々木にはこの前に伏線めいた話があり、シーズン中に土井淳が決めたスクイズに対し、佐々木は三原がいつサインを出したか[10] ついに見抜けず、試合後監督室に聞きにいったところ見下したような顔で「あれは見事なスクイズでしたねえ」としか返事がもらえなかったことがあった。さらに佐々木は東京六大学で同期だった土井に真相を尋ねたところ、オフレコを条件に「自分が出していた。三原監督は時々選手の判断に任せて、サインを出させることがある」と告白されている。実際、西鉄時代にも主に二番を打っていた豊田泰光は、ヒッティング、バント、ヒットエンドランの選択を三原から任せられ、塁上の走者にサインを出していたことがある。
西本幸雄との因縁
前述の対談番組以降も、西本幸雄とはその後も縁が続いた。三原が近鉄を率いてチーム初優勝に挑んだ1969年に、阪急の監督としてそれを阻んだのが西本だった。そしてそれから10年後に、西本が近鉄の指揮をとり、三原のなしとげられなかった近鉄の初優勝が実現した。
また、当時三原が相談役を務めていた日本ハムが、球団譲渡以来の初優勝(1980年後期)に“マジック1”と迫ったシーズン最終戦に西本率いる近鉄に大敗し、後期及びシーズンに優勝を近鉄に譲った。
采配
三原はアテ馬(偵察メンバー)やワンポイントリリーフなどの様々な戦術を駆使した。1960年9月19日の対阪神戦(川崎球場)では1試合に26人の選手を起用(内、偵察メンバーは2人のみ)した。通常一軍登録メンバーの中からベンチ入りできるのは25人までであるが、当時5月1日 - 9月15日までの期間以外は45名の支配下選手登録内であれば何人が出場しても良いというルールが存在したため。この件については後に「こんなおかしな制度があるんだということを提唱したかった」と本人自ら述べている。
- 1962年9月22日の対中日ドラゴンズ戦(川崎球場)では発表した先発メンバー中若手主体の7人を偵察メンバーとして送り出し、試合開始後にはそれを全員主力選手に交代させた[11]。以下、そのメンバーの一覧である[11]。
打順 | 偵察メンバー | 実際の出場メンバー | ||
---|---|---|---|---|
選手 | 守備位置 | 選手 | 守備位置 | |
1 | 青山勝巳 | 右翼手 | フランシス・アグウィリー | 三塁手 |
2 | 松久保満 | 左翼手 | 島田幸雄 | 一塁手 |
3 | 近藤和彦 | 中堅手 | 近藤和彦 | 中堅手 |
4 | 蓜島久美 | 遊撃手 | 桑田武 | 遊撃手 |
5 | 的場祐剛 | 三塁手 | アル・グルン | 右翼手 |
6 | 平山佳宏 | 二塁手 | 長田幸雄 | 左翼手 |
7 | 上田重夫 | 一塁手 | 鈴木武 | 二塁手 |
8 | 山田忠男 | 捕手 | 島野雅亘 | 捕手 |
9 | 秋山登 | 投手 | 秋山登 | 投手 |
のちにエスカレートしていきプロ野球全体の大きな問題となったサイン盗みを、パ・リーグで最初にやったのは西鉄監督時代の三原で、乱数表の導入も近鉄監督時代の三原といわれている[12]。乱数表は1983年に禁止されたが、サイン盗みは現在も時々問題となる事がある。三原の回想によれば、サイン盗みは外野のスパイが団扇の向きを変えるなどして選手に伝えていたという。
1960年の日本シリーズ初戦の先発投手では、シーズン中中継ぎ主体だった鈴木隆を起用し、一回途中でエース秋山登に交代。オープン戦で秋山から良く打っていた石川進との対戦を回避する目的で、走者が出たところでの交代と決められていたが、実際には石川は先発しなかった。
偶数戦必勝主義を唱えた。1956年の日本シリーズ初戦敗北時に初戦の負けは計算済みで、偶数戦に勝つことが重要であるとの考えである。この考えはのちの2戦目重視主義のルーツとなった。
ヤクルト時代に満塁の場面で代打の大塚徹に全球見逃しの指示を出した。何かしかけてくるだろうと相手に思わせて押し出しの四球を狙ったもの。結果はそのとおり四球となった。
大洋時代にはアル・グルンワルド(グルン)、近鉄時代は永淵洋三、ヤクルト時代は外山義明と投手でありながら打撃のよい選手にしばしば投手→外野手(あるいはその逆)といった起用や、代打で起用したりした。
その他
1956年のシーズン最終戦で既に二冠を確定させ三冠王の可能性もあった中西をあえて休ませ、同僚の豊田に5毛の差で首位打者を獲得させた。「おまえは二冠も取れたんだからもういいだろう。」と説得したという。中西が三冠王を獲得していれば二リーグ分立(セ・パ誕生)以降では初の三冠王であった。
大洋時代、阪神とのペナントレースが激化していた頃、国鉄に敗れた際「死に馬に蹴られた」[13] と一言。これに激怒したのが国鉄の金田正一である。金田は残る1試合の大洋戦に登板して完投で勝ち星を挙げ、それが大洋が優勝を逸する遠因にもなった。また、国鉄が3試合残っていた阪神戦には金田も主力投手の村田元一も登板しなかったため、「国鉄は大洋に優勝させたくなかったのだろう」と言われた。
外国人選手をめぐるトラブルに泣かされることが多く、ヤクルト監督最終年度である1973年には、ジョー・ペピトーンを巡るトラブルに巻き込まれ、日本ハム球団社長に就任したばかりの翌1974年にはバール・スノーの失踪騒動に遭った。
1973年を最後に監督業を退いたが、明治生まれで最後のプロ野球監督だった(三原は明治44年生まれ。なお、1976年に太平洋クラブライオンズが明治38年=1905年生まれのレオ・ドローチャーを招聘し契約までこぎつけたものの、直後に病気のため就任が見送りとなった)。
日本ハム球団相談役の職についていた1981年10月1日、新たに人名用漢字に追加された54字に三原の名前である脩が入っていたため、その取材を受けたことがある。
新聞記者時代に野球評を書いていた一方、野球解説者としての活動は、監督時代の出場できなかった年の日本シリーズ中継ゲスト出演、日本ハム球団代表時代のKBCラジオ制作中継への本数契約による出演にとどまった。
巨人監督時代に藤本英雄(1950年6月28日)、西鉄時代に西村貞朗(1958年7月19日)、大洋時代に島田源太郎(1960年8月11日)と佐々木吉郎(1966年5月1日)、近鉄時代に佐々木宏一郎(1970年10月6日)の完全試合を自軍監督として見届けている。
名言
- 「野球は筋書きのないドラマである」
- 著書で語った言葉で、三原の野球観をあらわすと同時に、野球の魅力の本質をあらわす言葉として好んで使われる。
- 「求心力野球・遠心力野球」
- 選手個々の自主性に任せてその能力を最大限に引き出す、自身の放任的主義的な野球を遠心力野球と表現し、監督の指揮の下に選手が駒としての役割を全うする野球を求心力野球と表現した。
- 「まだ首の皮一枚でつながっている」
- 日本シリーズで三連敗し、もう後が無くなったと記者に質問されたときに、こう切り返した。のちに、アントニオ猪木らが追い込まれたときにこのフレーズを頻繁に使用した。
- 「風雲の軌跡」
- 三原の著書のタイトルである。三原の巨人総監督棚上げから西鉄ライオンズという辺境の地からの逆襲と併せて、波瀾万丈な生き方を表現するときに使われる。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2秋 | 巨人 | 13 | 55 | 43 | 3 | 9 | 2 | 1 | 0 | 13 | 2 | 5 | -- | 1 | -- | 11 | -- | 0 | 8 | -- | .209 | .370 | .302 | .673 |
テンプレート:By2春 | 47 | 214 | 186 | 31 | 45 | 9 | 1 | 0 | 56 | 24 | 12 | -- | 5 | -- | 23 | -- | 0 | 13 | -- | .242 | .325 | .301 | .626 | |
テンプレート:By2春 | 11 | 44 | 34 | 5 | 7 | 0 | 1 | 0 | 9 | 1 | 1 | -- | 0 | -- | 10 | -- | 0 | 3 | -- | .206 | .386 | .265 | .651 | |
テンプレート:By2秋 | 37 | 172 | 144 | 21 | 31 | 8 | 2 | 0 | 43 | 13 | 9 | -- | 3 | -- | 24 | -- | 1 | 13 | -- | .215 | .331 | .299 | .630 | |
通算:3年 | 108 | 485 | 407 | 60 | 92 | 19 | 5 | 0 | 121 | 40 | 27 | -- | 9 | -- | 68 | -- | 1 | 37 | -- | .226 | .338 | .297 | .636 |
---|
年度別監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1947年 | 昭和22年 | 巨人 | 5位 | 119 | 56 | 59 | 4 | .487 | 22.5 | 27 | .242 | 2.65 | 36歳 |
1948年 | 昭和23年 | 2位 | 140 | 83 | 55 | 2 | .601 | 5 | 95 | .256 | 2.27 | 37歳 | |
1949年 | 昭和24年 | 1位 | 134 | 85 | 48 | 1 | .639 | ― | 125 | .273 | 3.15 | 38歳 | |
1951年 | 昭和26年 | 西鉄 | 2位 | 105 | 53 | 42 | 10 | .558 | 18.5 | 63 | .242 | 2.75 | 40歳 |
1952年 | 昭和27年 | 3位 | 120 | 67 | 52 | 1 | .563 | 8.5 | 94 | .261 | 3.08 | 41歳 | |
1953年 | 昭和28年 | 4位 | 120 | 57 | 61 | 2 | .483 | 13.5 | 114 | .253 | 3.05 | 42歳 | |
1954年 | 昭和29年 | 1位 | 140 | 90 | 47 | 3 | .657 | ― | 134 | .256 | 2.17 | 43歳 | |
1955年 | 昭和30年 | 2位 | 144 | 90 | 50 | 4 | .643 | 9 | 140 | .259 | 2.68 | 44歳 | |
1956年 | 昭和31年 | 1位 | 154 | 96 | 51 | 7 | .646 | ― | 95 | .254 | 1.87 | 45歳 | |
1957年 | 昭和32年 | 1位 | 132 | 83 | 44 | 5 | .648 | ― | 94 | .255 | 2.15 | 46歳 | |
1958年 | 昭和33年 | 1位 | 130 | 78 | 47 | 5 | .619 | ― | 83 | .243 | 2.37 | 47歳 | |
1959年 | 昭和34年 | 4位 | 144 | 66 | 64 | 14 | .508 | 22 | 69 | .236 | 2.66 | 48歳 | |
1960年 | 昭和35年 | 大洋 | 1位 | 130 | 70 | 56 | 4 | .554 | ― | 60 | .230 | 2.32 | 49歳 |
1961年 | 昭和36年 | 6位 | 130 | 50 | 75 | 5 | .404 | 21.5 | 76 | .236 | 3.10 | 50歳 | |
1962年 | 昭和37年 | 2位 | 134 | 71 | 59 | 4 | .546 | 4 | 100 | .242 | 2.73 | 51歳 | |
1963年 | 昭和38年 | 5位 | 140 | 59 | 79 | 2 | .428 | 24 | 110 | .237 | 3.29 | 52歳 | |
1964年 | 昭和39年 | 2位 | 140 | 80 | 58 | 2 | .580 | 1 | 134 | .255 | 3.03 | 53歳 | |
1965年 | 昭和40年 | 4位 | 140 | 68 | 70 | 2 | .493 | 23 | 136 | .244 | 2.81 | 54歳 | |
1966年 | 昭和41年 | 5位 | 130 | 52 | 78 | 0 | .400 | 37 | 116 | .247 | 3.74 | 55歳 | |
1967年 | 昭和42年 | 4位 | 135 | 59 | 71 | 5 | .454 | 25 | 130 | .245 | 3.28 | 56歳 | |
1968年 | 昭和43年 | 近鉄 | 4位 | 135 | 57 | 73 | 5 | .438 | 23 | 84 | .234 | 3.28 | 57歳 |
1969年 | 昭和44年 | 2位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | 2 | 118 | .243 | 2.78 | 58歳 | |
1970年 | 昭和45年 | 3位 | 130 | 65 | 59 | 6 | .524 | 13.5 | 108 | .233 | 2.98 | 59歳 | |
1971年 | 昭和46年 | ヤクルト | 6位 | 130 | 52 | 72 | 6 | .419 | 19 | .94 | 234 | 3.03 | 60歳 |
1972年 | 昭和47年 | 4位 | 130 | 60 | 67 | 3 | .472 | 14.5 | 115 | .254 | 3.73 | 61歳 | |
1973年 | 昭和48年 | 4位 | 130 | 62 | 65 | 3 | .488 | 4.5 | 78 | .228 | 2.60 | 62歳 | |
通算:27年 | 3248 | 1687 | 1453 | 108 | .537 | Aクラス15回、Bクラス12回 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1949年は2リーグ分立により6試合、1951年は日米野球開催のため15試合未消化のまま終了
- ※3 1954年から1955年、1963年から1965年までは140試合制
- ※4 1958年から1962年、1966年から1996年までは130試合制
表彰
背番号
- 21(1936年 - 1938年)
- 31(1947年 - 1950年)
- 50(1951年 - 1953年)
- 60(1954年 - 1967年)
- 70(1968年 - 1970年)
- 80(1971年 - 1973年)
登録名
- 三原 修(1936年 - 1938年、1947年 - 1950年)
- 三原 脩(1951年 - 1973年)
関連情報
著書
- 「三原修」名義
- 「三原脩」名義
- 『監督はスタンドとも勝負する』(1963年、朝日新聞社)
- 『三原メモ』(1964年、新潮社)
- 『現代の野球』(1971年 ベースボール・マガジン社)※翻訳(著者:ギル・ホッジス)
- 『勝つ:戦いにおけるツキとヨミの研究』(1973年、サンケイ新聞社出版局)
- 『ギル・ホッジスの戦法:現代の野球』(1978年3月、ベースボール・マガジン社)※翻訳(著者:ギル・ホッジス)
- 『風雲の軌跡:わが野球人生の実記』(1983年7月、ベースボール・マガジン社 ISBN 4583023448)
- 『人づかいの魔術:私の野球人生から』(1983年8月、講談社 ISBN 406200562X)
出演映画
- 『エノケンのホームラン王』(1948年9月9日、東宝)
- 『鉄腕投手 稲尾物語』(1959年3月21日、東宝) ※監修も務める
出演番組
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ 『野球殿堂 1959‐2009』、『コトバンク』内掲載記事「三原脩」(ソース:『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『デジタル大辞泉』)ほか
- ↑ 真のライバル 3 (もう一人の水原)〈徒然想 2010年4月8日記事〉
- ↑ 早大時代のホームスチールは6回慶大が2-2の同点とした直後の7回、2死満塁の場面で実行した。勝ち越した早大は流れをつかみその後も加点、6-3で対戦成績を1勝1敗とし前年春からの早慶戦の連敗を5で止めた。この早慶戦は伊達正男が3日連続完投で勝ち点を挙げ「伊達の三連投」としても有名な試合である。ホームスチールは左打者が打席に入っていたときに企てたものだった。打者が左打席に立てば三塁走者の動きは相手捕手から丸見えになるばかりか相手投手は右投げの水原であり、通常ホームスチールが考えられない局面である。そのため早大初代監督であった飛田穂洲から定石外れの暴挙と痛烈な批判を浴びせられたが、三原は堂々と反論、後の片鱗を見せた。
- ↑ 4.0 4.1 『野球殿堂 1959-2009』P77
- ↑ また、すべての選手が排斥に賛同していたわけではなく、たとえば川上哲治は当時三原派であり、「1年目(1950年)は水原さんとは仲は良くなかった」と語っている。
- ↑ 『ライオンズ60年史』p26
- ↑ 参考:三原脩が監督を務めた時代の年表 ※『ライオンズ・クラシック 2011』(埼玉西武ライオンズホームページ内)より。
- ↑ 10月11日からの日本シリーズに合わせ、公式戦を早く消化するよう変則ダブルヘッダーが組まれた。第2試合は川崎が本拠地である「大洋×中日」、第一試合が「ヤクルト×中日」だった。
- ↑ NHK教育テレビジョン『知るを楽しむ 「個性がプロ野球を救う」』における、佐々木のコメントより。
- ↑ この頃三原はじめ多くの監督はコーチボックスで指揮をとっていた。
- ↑ 11.0 11.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 『南海ホークスがあったころ』
- ↑ 元は「死に馬が屁を放る」で三原の造語である。