川相昌弘
テンプレート:参照方法 テンプレート:Infobox baseball player 川相 昌弘(かわい まさひろ、1964年9月27日 - )は、岡山県岡山市南区出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ、プロ野球監督。
現役時代は読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズで活躍。同期入団には斎藤雅樹がいる。通算533本の犠牲バントはギネス記録で、「バント職人」の異名を持つ。巨人史上屈指の守備力を誇る遊撃手でもあった。
ニックネームはしわが多く老け顔だったことと「和製オジー・スミス」に引っ掛けて「ジイ」。あるいは、「人生送りバント」と表現する者もいる。
2013年より巨人の一軍ヘッドコーチを務める。
目次
来歴・人物
高校時代
岡山市立第二藤田小学校、藤田中学校から岡山県立岡山南高等学校へ入学。岡山南高では投手として活躍し、テンプレート:Byの第63回全国高等学校野球選手権大会とテンプレート:Byの第54回選抜高等学校野球大会の2回、甲子園に出場した。1982年の春は主将も務め、2回戦で早稲田実と対戦。敗れはしたものの、荒木大輔と互角の投手戦を演じた。その年の夏も甲子園出場を期待されていたが、岡山大会の準決勝で岡山東商に敗れ、最後の夏は甲子園に出場できなかった。この時、岡山東商の4番を打っていたのが、当時2年生の八木裕だった。
巨人時代
1982年のドラフト会議で巨人に4位指名を受け入団。背番号は60。
高校時代はエースで主軸打者を務めており、投手としての指名だったが、入団直後に野手へ転向。テンプレート:Byは二軍生活だったが、二軍コーチだった須藤豊の熱心な指導により徐々に才能が開花。テンプレート:Byに守備力が王貞治監督の目に留まり一軍に初昇格。テンプレート:Byから守備要員として一軍に定着し、プロ初犠打を同年6月13日の対ヤクルトスワローズ12回戦(福井県営球場)の7回裏、阿井英二郎から決めた。
テンプレート:Byのリーグ優勝には内外野の守備固め要員として貢献した。1987年の日本シリーズで、秋山幸二の単打を捕球した中堅手ウォーレン・クロマティが緩慢な送球を返し、一塁走者の辻発彦に一気にホームインされたプレーの時に返球を受けていたのが川相だった。クロマティの動きに対する批判が多かったが、川相は「クロマティのプレーを頭に入れておかなかった自分のミス」と語り、悔しさを口にした。西武の三塁コーチだった伊原春樹も、川相が先頭の走者ではなく打者走者を見る癖があったのがポイントだったと語っている。後の1994年の西武とのオープン戦で、二塁走者だった川相は、次打者のセンターフライを佐々木誠が後ろ向きで捕球したのを見ると、猛然とタッチアップでスタートし、西武の緩慢な中継のスキを突いて本塁を落とし入れた。川相は後に、上記のプレーの反省が頭にあったと述べている。
王監督時代、当時の巨人は引退した河埜和正の後を継ぐ遊撃手の定位置の座を、岡崎郁と西武から移籍した鴻野淳基の2人が争っていたが、守備力を武器に勝呂博憲も台頭し、競争は激しさを増していた。この頃、スイッチヒッターに挑戦するが、結局は右打ちに戻している。
テンプレート:By、背番号を0へ変更。巨人では球団史上初の0番であった。その年藤田元司が監督に復帰すると、第4の存在だった川相と緒方耕一が台頭する。レギュラーに定着したのは、打撃面で伸び悩み、守備要員としても守備位置が一定せず外野手での出場が6割を占めていたこともあった川相であった。なかなか定着しなかった当時の巨人の遊撃手候補は、一軍レベルで見ると遊撃手としてはやや足に難のあった岡崎、打力で川相以上に伸び悩む勝呂、即戦力要員ながら結果が出ず守備も不安があった鴻野と、他のメンバーに一長一短があったという事情もあったが、川相は持ち前の守備能力や確実性のある小技を磨き、絶対的な巨人の2番・遊撃の座を勝ち取った。後半戦、手に死球を受けて骨折して規定打席には届かなかったものの、自己最多の98試合に出場し、初のゴールデングラブ賞を受賞した。 テンプレート:Byに阪神の和田豊の年間犠打記録を抜き、58犠打のプロ野球新記録を樹立。また、自身初となる規定打席にも到達し、打率.288の好成績をマークした。翌テンプレート:Byには66犠打を記録し、自身の年間犠打新記録を更新する(現在のプロ野球記録は、テンプレート:Byに宮本慎也が記録した67犠打)。1989年から1991年まで3年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。2番打者、遊撃手としての地位を完全に確立し、テンプレート:Byもレギュラーとして活躍していたが、怪我のため戦線離脱し、規定打席には届かなかった。
この時期について、藤田は、「楽をしたくなる気持ち(もあるであろう)自分自身と戦っている時間の長さが川相と普通の選手の違いになっている」「川相のような選手が多くなればチームは強くなる」など、巨人監督退任直後の自著『藤田前監督 巨人軍を語る』で賞賛している[1]。
テンプレート:Byからは長嶋茂雄が巨人監督に復帰したが、2番遊撃手として変わらずレギュラーで活躍。4年連続でリーグ最多犠打を記録し、打率もチームトップの.290をマークした。また、同年8月14日には中日の今中慎二からプロ入り初のサヨナラ本塁打を放った。2年ぶりのゴールデングラブ賞も奪還した。
テンプレート:Byも安定した活躍を見せ、自身初となる打率3割を記録し、リーグ優勝に大きく貢献した。ゴールデングラブ賞に合わせて、こちらも自身初となるベストナインを受賞した。守備・打撃の両面で1990年代を代表する選手の一人にまで成長した。同年10月1日の対ヤクルト戦で決勝打を放ち、試合後のヒーローインタビューで子供たちの名前(当時は二男一女)を叫び、話題となった[2]。また、10.8決戦では、3回に安打で出塁した後に生還し決勝点となる得点を記録、9回にバックスクリーンを直撃する打球を放つが、三塁打の判定となり長嶋監督が猛抗議するも受け入れられず、結局この年の本塁打は0本だった。
テンプレート:Byからテンプレート:Byまで巨人の選手会長を務め、名実ともに巨人の顔となった。1996年には札幌・円山球場でプロ入り初の満塁本塁打を放ち、メークドラマの実現に大きく貢献した。しかし、長嶋監督が清水隆行を2番に据えるなど攻撃的な野球を標榜したため、7番や8番を打つ機会も増えてきた。元木大介や仁志敏久の台頭もあり、1997年が規定打席到達の最後のシーズンとなった。1998年には平野謙の記録を抜き、通算452犠打のプロ野球新記録を樹立した。
テンプレート:Byには大型遊撃手の二岡智宏の加入により出場機会は減少したものの、守備要員・バント要員で依然チームに欠かせない存在だった。遊撃手での出場機会が大幅に減り、三塁手での出場が中心になる。テンプレート:Byより、同い年の石井浩郎の退団に伴って空いた6番に背番号を変更。
しかし、二岡が完全にレギュラー遊撃手として固まり、江藤智の入団などもあり、2000年から2001年にかけては出場機会が代打や守備固めに限られていく。テンプレート:By5月16日に阪神の井川慶から3年ぶりとなる本塁打を代打で記録し、5月23日には史上132人目となる1500試合出場も達成した。また、2001年には同世代の村田真一・槙原寛己・斎藤雅樹の3人が引退したが、川相は現役にこだわった。
テンプレート:Byから原辰徳が監督に就任。原は巨人のレギュラーとして闘った旧知の仲であり、スタメンでの出場機会も増え、お立ち台に2度も上がるなど就任1年目でのリーグ優勝に貢献した。翌テンプレート:By8月20日には東京ドームで通算512犠打を達成し、エディ・コリンズのMLB記録を超え、[3]ギネス世界記録にも認定された[4]。なお、この犠打を決めた時、川相の右足が打席から出ていた、という写真が『巨人軍5000勝の記憶』にも掲載された。
同年、現役引退を表明。9月21日の引退試合では2番・二塁手としてスタメン出場、第3打席でセンター前ヒットを放ち、代走を送られて退いた。引退後は一軍コーチ就任が内定していたが、直後に発生した原の辞任により、しばらく宙ぶらりん状態が続いた。混乱の後に球団から二軍コーチ就任を言い渡され、引退を撤回し巨人を「退団」。1998年に川相自身に対してヘッドコーチとして理不尽な暴力をふるったと噂されている堀内恒夫の監督就任も退団の大きな要因と言われている(著書では否定)。
直後、元同僚の落合博満が監督に就任した中日ドラゴンズに入団テストを経て移籍。
中日時代
自身と同じ遊撃手で、球団史上最多通算本塁打記録を持つ宇野勝がつけていた背番号7を与えられたことからも、川相に対する期待の大きさが窺える[5]。
テンプレート:Byは落合監督の「一芸に秀でている選手を使う」という采配に合致する活躍を見せ、地味ながらも代打バント・守備要員として存在感を発揮。サヨナラヒットを2本打つなど、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。移籍後初めて巨人戦に代打出場してバントを決めたことや、札幌ドームで佐藤宏志から本塁打を打ったことで、古巣・巨人の応援席を含めて球場全体から歓声が沸き起こったこともあった。同年の日本シリーズ第2戦では、9回表から主軸の立浪和義に代わる守備固めで三塁の守備に就き、無死無走者で赤田将吾が岩瀬仁紀から放ったゴロを一塁に送球し、それが同試合唯一の守備機会ながら、球団史上初の「ナゴヤドームでの日本選手権試合初勝利」に貢献。
テンプレート:By、出場機会は減少したものの、守備固めや代打として活躍した。
テンプレート:Byには球界初の「メンタルアドバイザー」に就任。コーチの肩書では会議に出席する必要があるので、あくまで相談役というポジションに落ち着いた。チームが勝っている試合で8・9回辺りから主に立浪の守備固めとして出場することが多かったが、荒木雅博の怪我などで5月には「2番・二塁手」としてスタメン起用された。しかし、森野将彦が怪我から復帰しスタメン獲得、立浪が代打要員となり、代走・守備要員として奈良原浩をトレード獲得、7月頃に荒木が復帰したことから出場機会が無くなり、球宴直前に登録抹消。その後は一軍に帯同しながら、メンタルアドバイザーとして裏方からリーグ優勝に貢献した。中日スポーツで毎週月曜日に「明日への送りバント」という題名で寄稿もしていた。
10月13日、来季の選手契約を結ばない方針と一軍コーチ就任要請を球団から伝えられて現役引退を表明。翌年(実質的には同年オフのキャンプ時)から中日一軍の内野守備走塁コーチに就任することも発表された。10月15日、ナゴヤドームでのシーズン最終戦の横浜戦は川相の引退試合として、2番・三塁手でスタメン出場。1打席目は安打、2打席目では送りバントを三塁線に決め、観客から大きな拍手が送られた。7回には1イニングだけ、慣れ親しんだ遊撃の守備にも就く。この日の犠打で通算533犠打となり、自身が持つ記録を更新。試合終了後はチームメイトから胴上げされ、挨拶では「24年間の選手生活の中で、中日での3年間が最高だった。日本シリーズを花道にしたい」と語った。2006年の日本シリーズでは第5戦に代打で登場。最後の送りバントを決め、有終の美を飾った。川相の引退により、1964年度生まれのプロ野球選手は全員がユニフォームを脱いだ。
引退後
テンプレート:Byシーズンからは中日ドラゴンズ一軍内野守備走塁コーチに就任。公式戦では一塁コーチスボックスに立っていた。オープン戦では経験を積む為、三塁コーチスボックスに立っていることもあった。テンプレート:Byシーズンからは二軍監督を務めるが、同年限りで突然の退団通告を受ける[6]。
テンプレート:Byからは古巣巨人で二軍監督を務める[7]。巨人には7年振りの復帰となる。超重量打線と呼ばれる巨人の打撃陣にも、積極的にバントをさせると宣言。その言葉通り、チームの犠打数は2010年の33から135と約4倍に、盗塁数も60から152と大幅に増加した。本塁打数はリーグ最少ながら、確率を求めた細かい野球によってチームを牽引した[8]。12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される[9]。テンプレート:Byも二軍監督を務め、日本シリーズではコーチ登録されベンチ入りした(代わりに橋上秀樹戦略コーチが登録から外れた)。
テンプレート:Byシーズンより、巨人の一軍ヘッドコーチに就任。3月のオープン戦では、ワールド・ベースボール・クラシック準決勝に進出した日本を応援するため渡米した原監督に代わって、監督代行として指揮を執った。
プレースタイル
打撃・走塁面
2番打者としてレギュラーに定着してからは、送りバントや右打ち、ファウルで粘って四球を奪い取るなど、「つなぎ」の姿勢に徹していた。長打力こそ無いものの、確実性の高いバッティングでチームを支えた。原監督には「日本で一番エンドランが上手い選手」と言わしめた[10]。
スタメンで出場する場合、ほとんどは2番での起用となるが、7番や8番の下位打線に回ることもあった。ごくまれにポイントゲッターとして6番を任されることもあったが、プロに入ってからクリーンナップで起用されたことは1度もない。晩年はスタメンで起用される機会も減ったが、「代打バント」という川相ならではのポジションを築いた。
走塁に関しては、決して俊足というわけではなく、二桁盗塁を記録したことは1度もない。ただしランナーとして塁に出たときには、相手投手のクセを研究して、少しでも早くスタートが切れるように心掛けていた[11]。
守備面
遊撃手としてゴールデングラブ賞6回受賞という記録が表すように、非常に高い守備力で知られた。テンプレート:独自研究範囲。川相本人は「池山(隆寛)や野村(謙二郎)のほうが上だよ」と語っており、「負けてたまるか」という気持ちでやってきたと述べている[12]。
晩年はショートを守る機会が大幅に減少し、サードかセカンドの守備固めがほとんどだったが、少ない守備機会でも確実に仕事をこなしていた。また、外野手として出場したこともある他、中日では1試合だけファーストを守ったこともある。
バント技術
犠打数のギネス記録保持者であり、バントの技術はプロ野球史上最高峰のレベルである。巨人でのレギュラー時代は2番打者として多くの犠打を記録し、レギュラーを外れた晩年は「ピンチバンター」として活躍した。誰もが送りバントと分かっている状況で代打で登場し、いとも簡単に成功してみせた。2000年の日本シリーズ第5戦では「5番・DH」のドミンゴ・マルティネスに代わって代打で登場し、無死一二塁の場面でバントを決めた。
通算の犠打成功率は9割を超えている。1995年は47犠打を記録したが、失敗数は0である。
送りバントのコツとしては「割り切りが大事」「ここに転がすと決めたら、どんなボールが来てもそこに転がす」という気持ちの整理が重要だという。技術面では、目とバットの距離を変えないようにする(手先ではなく膝でバットをボールに合わせて、目とバットの距離を一定に保つ)ことが重要なポイントだと話している[13]。
ちなみに、川相が記録してきた送りバントのほとんどは、自軍のベンチからのサインによるもので、自分で判断してバントしたケースは通算で10回あるかないかだという。過去に何度か「死んでも成功させる」という気持ちで打席に立ったことがある[14]。
バントの職人というイメージから冷静沈着な印象が強いが、実際はかなりの熱血漢であり、激しい気性を覗かせる一面もあった。思うようにいかない打席の後にはベンチで悔しさを叩き付けることも珍しくなく、特にバントを失敗した時は自身のこだわりから一段と荒れていた。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 巨人 | 18 | 11 | 9 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | .111 | .273 | .111 | .384 |
テンプレート:By2 | 35 | 27 | 23 | 1 | 5 | 4 | 0 | 0 | 9 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | .217 | .240 | .391 | .631 | |
テンプレート:By2 | 48 | 37 | 31 | 6 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 2 | 3 | 0 | .194 | .265 | .226 | .491 | |
テンプレート:By2 | 58 | 49 | 38 | 8 | 8 | 4 | 0 | 0 | 12 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 4 | 1 | 2 | 7 | 1 | .211 | .318 | .316 | .633 | |
テンプレート:By2 | 53 | 81 | 71 | 7 | 19 | 1 | 2 | 2 | 30 | 6 | 3 | 0 | 6 | 0 | 3 | 0 | 1 | 11 | 1 | .268 | .307 | .423 | .729 | |
テンプレート:By2 | 98 | 381 | 319 | 40 | 81 | 9 | 5 | 5 | 115 | 28 | 6 | 4 | 32 | 2 | 23 | 0 | 5 | 46 | 4 | .254 | .312 | .361 | .673 | |
テンプレート:By2 | 94 | 406 | 309 | 53 | 89 | 19 | 2 | 9 | 139 | 32 | 9 | 5 | 58 | 4 | 32 | 0 | 3 | 34 | 4 | .288 | .356 | .450 | .806 | |
テンプレート:By2 | 126 | 562 | 439 | 53 | 110 | 17 | 2 | 2 | 137 | 36 | 8 | 0 | 66 | 2 | 49 | 0 | 5 | 56 | 6 | .251 | .331 | .312 | .643 | |
テンプレート:By2 | 98 | 398 | 330 | 42 | 85 | 13 | 1 | 5 | 115 | 23 | 4 | 5 | 42 | 0 | 20 | 0 | 6 | 38 | 9 | .258 | .312 | .348 | .660 | |
テンプレート:By2 | 131 | 553 | 462 | 58 | 134 | 23 | 2 | 5 | 176 | 35 | 2 | 10 | 45 | 2 | 43 | 0 | 1 | 64 | 9 | .290 | .350 | .381 | .731 | |
テンプレート:By2 | 130 | 567 | 473 | 69 | 143 | 18 | 4 | 0 | 169 | 33 | 3 | 0 | 35 | 2 | 54 | 0 | 3 | 51 | 13 | .302 | .376 | .357 | .733 | |
テンプレート:By2 | 108 | 467 | 371 | 51 | 97 | 13 | 0 | 2 | 116 | 19 | 3 | 3 | 47 | 0 | 47 | 0 | 2 | 47 | 12 | .261 | .348 | .313 | .660 | |
テンプレート:By2 | 126 | 549 | 440 | 50 | 102 | 14 | 0 | 2 | 122 | 22 | 5 | 1 | 56 | 2 | 48 | 0 | 3 | 49 | 7 | .232 | .310 | .277 | .588 | |
テンプレート:By2 | 124 | 507 | 416 | 68 | 120 | 21 | 2 | 6 | 163 | 25 | 2 | 3 | 45 | 2 | 39 | 0 | 5 | 40 | 6 | .288 | .355 | .392 | .747 | |
テンプレート:By2 | 93 | 300 | 266 | 27 | 68 | 14 | 1 | 1 | 87 | 16 | 2 | 1 | 14 | 2 | 17 | 1 | 1 | 36 | 8 | .256 | .301 | .327 | .628 | |
テンプレート:By2 | 82 | 186 | 149 | 19 | 44 | 1 | 0 | 0 | 45 | 14 | 0 | 2 | 19 | 0 | 17 | 1 | 1 | 12 | 3 | .295 | .371 | .302 | .673 | |
テンプレート:By2 | 54 | 74 | 58 | 8 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 4 | 0 | 1 | 6 | 1 | 8 | 0 | 1 | 9 | 0 | .190 | .294 | .207 | .501 | |
テンプレート:By2 | 73 | 64 | 52 | 6 | 15 | 3 | 0 | 2 | 24 | 5 | 0 | 0 | 10 | 0 | 2 | 0 | 0 | 11 | 0 | .288 | .315 | .462 | .776 | |
テンプレート:By2 | 88 | 132 | 114 | 11 | 25 | 5 | 0 | 1 | 33 | 8 | 0 | 0 | 14 | 0 | 3 | 0 | 1 | 25 | 4 | .219 | .246 | .289 | .535 | |
テンプレート:By2 | 72 | 90 | 80 | 5 | 19 | 3 | 1 | 0 | 24 | 3 | 0 | 1 | 9 | 0 | 1 | 0 | 0 | 10 | 3 | .238 | .247 | .300 | .547 | |
テンプレート:By2 | 中日 | 80 | 34 | 23 | 4 | 6 | 0 | 0 | 1 | 9 | 3 | 0 | 0 | 6 | 0 | 4 | 0 | 1 | 4 | 2 | .261 | .393 | .391 | .784 |
テンプレート:By2 | 69 | 24 | 17 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 7 | 6 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .294 | .294 | .412 | .706 | |
テンプレート:By2 | 51 | 29 | 22 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | .273 | .304 | .273 | .577 | |
通算:23年 | 1909 | 5528 | 4512 | 591 | 1199 | 186 | 22 | 43 | 1558 | 322 | 47 | 36 | テンプレート:Color | 19 | 418 | 3 | 45 | 570 | 92 | .266 | .333 | .345 | .678 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高、テンプレート:ColorはNPB記録
表彰
- ゴールデングラブ賞:6回 (1989年 - 1991年、1993年、1994年、1996年)
- ベストナイン:1回 (1994年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (好捕賞:1993年6月)
- 東京ドームMVP:2回 (1991年、1993年)
- セ・リーグ会長特別賞:1回 (2003年)
記録
- 世界記録
- 通算犠打:533
- 初記録
- 初出場:1984年4月24日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に石渡茂に代わり遊撃手で出場
- 初先発出場:1984年5月24日、対阪神タイガース11回戦(後楽園球場)、8番・遊撃手として先発出場
- 初安打:1984年6月2日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、8回裏に鹿取義隆の代打で出場、宮本賢治から単打
- 初打点:1985年5月6日、対ヤクルトスワローズ6回戦(後楽園球場)、2回裏に大川章から適時二塁打
- 初犠打:1985年6月13日、対ヤクルトスワローズ12回戦(福井県営球場)、7回裏に阿井英二郎から投手前犠打
- 初本塁打:1988年7月7日、対中日ドラゴンズ16回戦(札幌市円山球場)、4回裏に近藤真一から左越ソロ
- 節目の記録
- 200犠打:1992年7月1日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、8回裏に弓長起浩から ※史上11人目
- 250犠打:1993年8月25日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム)、1回裏に仲田幸司から ※史上4人目
- 300犠打:1995年5月4日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、1回表に山崎一玄から一塁前犠打 ※史上3人目
- 1000試合出場:1996年4月7日、対阪神タイガース3回戦(東京ドーム)、2番・遊撃手で先発出場 ※史上329人目
- 350犠打:1996年5月6日、対広島東洋カープ4回戦(東京ドーム)、1回裏に近藤芳久から ※史上2人目
- 400犠打:1997年4月9日、対中日ドラゴンズ2回戦(東京ドーム)、1回裏に有働克也から投手前犠打 ※史上2人目
- 1000本安打:1997年10月8日、対ヤクルトスワローズ27回戦(明治神宮野球場)、1回表に石井一久から左前安打 ※史上187人目
- 450犠打:1998年7月19日、対ヤクルトスワローズ19回戦(東京ドーム)、8回裏にマーク・エーカーから投手前犠打 ※史上2人目
- 452犠打:1998年8月15日、対阪神タイガース19回戦(東京ドーム)、7回裏に吉田豊彦から投手前犠打 ※従来のNPB記録(平野謙の451犠打)を更新
- 1500試合出場:2001年5月23日、対ヤクルトスワローズ8回戦(東京ドーム)、7回裏に柏田貴史の代打で出場 ※史上132人目
- 500犠打:2002年7月25日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、9回表に黒田哲史の代打で出場、マーク・バルデスから投手前犠打 ※史上初
- 512犠打:2003年8月20日、対横浜ベイスターズ25回戦(東京ドーム)、6回裏に川中基嗣の代打で出場、ドミンゴ・グスマンから投手前犠打 ※MLB記録(エディ・コリンズの511犠打)を更新
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1990年、1993年)
背番号
- 60 (1983年 - 1988年)
- 0 (1989年 - 1999年)
- 6 (2000年 - 2003年)
- 7 (2004年 - 2006年)
- 71 (2007年 - 2010年)
- 78 (2011年 - )
関連情報
過去の出演番組
書籍
- 『背番号0 闘志∞』吉田武著(1994年/ベースボール・マガジン社)
- 『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』赤坂英一著(2002年/講談社)
- 『明日への送りバント』川相昌弘著(2005年/KKロングセラーズ)ISBN 9784845420674
- 『巨人軍5000勝の記憶』(2007年/読売新聞社、ベースボールマガジン社)ISBN 9784583100296 (参考文献:p.87ほか)
- 『勝つための言葉』川相昌弘著(2008年/KKロングセラーズ)
- 『スモールベースボールを紐解く』川相昌弘著(2011年/ベースボール・マガジン社)ISBN 9784583103501
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Navboxes テンプレート:読売ジャイアンツ
テンプレート:読売ジャイアンツ1982年ドラフト指名選手- ↑ 『藤田前監督 巨人軍を語る』日本放送出版協会、1993年3月、ISBN 4140800909、55頁 - 58頁
- ↑ 1994年10月2日付読売新聞17面14版
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- ↑ 同番号の前任者・谷繁元信は、正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22にするという落合監督の方針により27に変更。
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- ↑ http://www.giants.jp/G/gnews/news_393546.html
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- ↑ 「平成24年 第52回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- ↑ 2002年5月12日、対阪神戦後の監督インタビューにて。
- ↑ 講談社刊、赤坂英一著『バントの神様―川相昌弘と巨人軍の物語』
- ↑ 講談社刊、赤坂英一著『バントの神様―川相昌弘と巨人軍の物語』
- ↑ 川相昌弘、世界記録保持者が明かすバントの極意
- ↑ 講談社刊、赤坂英一著『バントの神様―川相昌弘と巨人軍の物語』