吉田豊彦
テンプレート:Infobox baseball player 吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。現在は、四国アイランドリーグplusに加盟する高知ファイティングドッグスの投手コーチ。
目次
来歴
プロ入り前
小学3年時に野球を始める。大分県立国東高等学校に進学し、高校1年秋からエース。大分県大会決勝で敗退し、甲子園行きはならなかった。当時の監督は、内川聖一の父である内川一寛。1学年下には吉田と同じサウスポーの弓長起浩がいる。
社会人・本田技研熊本を経て、1987年のドラフト会議で立浪和義を外した南海ホークスにドラフト1位で指名され、契約金2800万円、年俸600万円(いずれも推定)で入団[1]。契約金で実家の牛を買った。
プロ入り後
南海・ダイエー時代
速球とチェンジアップを武器に、ルーキーながら1年目から一軍に定着し、主にリリーフとしてチームに貢献した。 2年目の1989年は先発ローテーション入りし、初の2桁となる10勝を記録した。 1990年からは、田淵幸一監督の下でチームを支え、ダイエー創成期の左腕エースとなった。 1992年、2度目の2桁勝利(11勝)で、初のオールスターに出場した。1993年からは根本陸夫監督の下福岡ドーム元年、ダイエーのエースとしてプレー。 1994年、開幕投手を務め、4月には月間MVP受賞、2度目のオールスター出場、自身最多の12勝を挙げた。またシーズン終了後、同期入団で3歳下の捕手吉永幸一郎と共に最優秀バッテリー賞を受賞した。 1995年は8勝を挙げるものの、以後2年間(96、97年)はわずか1勝と低迷。1997年オフにはFA権の行使を示唆するも、王監督らの慰留があり、行使せずに残留。
1998年、入団以来の背番号11をエースナンバー18に変更し心機一転を図るが、シーズン途中に金銭トレードで阪神タイガースに移籍する。この期間の吉田の様子を追った番組「にんげんドキュメント"二軍"」(NHK制作)が放送され話題となった。番組では、吉田が雁ノ巣球場で若手選手と共に汗を流す様子や、当時の二軍監督だった石毛宏典が二軍選手達を集めて吉田のトレードが決定したことを伝え、「野球選手である以上トレードはある意味で宿命である」と訓示を述べるシーンが登場した。
阪神時代
制球難を克服するために投球フォームをサイドハンドに改造するなどして先発・リリーフを共に務めた。しかし、満足する結果を残すことが出来ず、2001年をもって戦力外通告を受ける。阪神時代の4年間はわずか7勝しか挙げられなかった。同オフ大阪近鉄バファローズのテストを受けて近鉄に入団。
近鉄時代
移籍当初は敗戦処理に回ることが多かったものの、徐々に梨田昌孝監督からの信頼を得るようになり、シーズン終盤では試合の勝敗を左右する場面を任されるまでに至った。2002年は42試合に登板して防御率2.10を記録した。
2003年は抑え投手不在のチーム事情もあり、15年ぶりのセーブを記録するなど、自己最多の60試合に登板し、2年連続で防御率2点台を記録し、セットアッパー並びにストッパーとして好成績を収めた。自身3度目となるオールスターにも出場している。
2004年は過去2年間の蓄積疲労からか、やや打ち込まれる場面が目立ち防御率こそ4点台に悪化したが、左のリリーフとして活躍した。この年は8月22日の対日本ハム戦で500試合登板、同月25日の対西武戦では1500投球回数、9月22日の対オリックス戦では1000奪三振、と節目の記録を続々と達成した年となった。なお、9月22日の試合では早川大輔から三振を奪ってゲームを締めてセーブ投手となったが、これは近鉄球団最後のセーブとなった。その後、11月に行われた選手分配ドラフトで新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍する。
楽天時代
2005年、田尾安志監督の下でプレー、主にセットアッパーとしてチーム最多の50試合に登板した。
2006年、再び野村克也監督と同一チームに。野村監督が茶髪、長髪、ヒゲ禁止令を出したため、トレードマークであったヒゲを剃り落とした。9月5日の対オリックス17回戦で600試合登板を達成した。同年は弱体投手陣の中で41試合に登板、防御率3.19と安定感ある成績を収めたが、中でも31イニング投げ、被本塁打0は特筆すべき点である。
2007年、開幕一軍に入ったものの怪我の影響もあってか打ち込まれてしまい、開幕から20日ほどで二軍落ち。その後、5月と8月に一軍に復帰。若手の台頭もあり出番は少なかったが、安定感ある投球が戻りつつあった。しかし、9月30日に現役引退を表明。
引退試合は同年10月4日の対千葉ロッテマリーンズ23回戦(フルキャストスタジアム宮城)の9回からリリーフ登板、先頭打者の竹原直隆にセンター前ヒットを打たれるも今江敏晃から3球三振を奪い20年に及ぶ選手生活を終えた。この試合では野村克也に直訴し、かつてのトレードマークであったヒゲを復活させて登場した。引退セレモニーでは関川の後に引退挨拶をした。セレモニーでは大粒の雨の中、マイクを握り「まだまだ投げたい!!」と叫んだ。 吉田の引退後南海ホークス出身の現役選手は大道典嘉だけとなった(大道は2010年引退)。なお、大道は南海時代に一軍では出場しておらず、南海の一軍でプレーした最後の現役選手は吉田である。この年の対読売ジャイアンツ戦(6月9日、東京ドーム)では8回裏に吉田がリリーフ登板すると代打大道がコールされ、元南海選手同士の最後の対決が実現した。結果は大道のライト前ヒットだった。
引退後
2007年の秋季キャンプからは楽天二軍投手コーチに転身し、11月2日に就任会見を行った。なお11月30日に自由契約公示された。2009年より同二軍育成コーチ(投手担当)に就任し2011年まで務めた[2]。
2011年12月、2012年度より四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスの投手コーチに就任することが決まった[3]。
人物
- 新聞や雑誌等で吉田豊と表記されることが多く[4]、ファンだけでなく、首脳陣や選手からも「よしだゆたか」と間違えて呼ばれることがよくあったと言う。逆に、中央競馬で吉田豊と言う騎手がいたことから、「俺、実は週末は騎手やってるんよ、騎手の欄に吉田豊と書いているやろ」と冗談で話すこともあったと言う。
- 1996年5月9日、「生卵事件」が起きた試合の先発が吉田であった。
- 楽天の本拠地・フルキャストスタジアム宮城では「鉄腕」と場内放送されていた。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 南海 ダイエー |
43 | 4 | 1 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3 | -- | .500 | 379 | 87.2 | 82 | 17 | 45 | 4 | 0 | 64 | 4 | 0 | 53 | 43 | 4.41 | 1.45 |
テンプレート:By2 | 26 | 24 | 6 | 0 | 0 | 10 | 8 | 0 | -- | .556 | 664 | 149.0 | 172 | 27 | 59 | 7 | 3 | 88 | 4 | 0 | 95 | 88 | 5.32 | 1.55 | |
テンプレート:By2 | 18 | 16 | 9 | 0 | 0 | 5 | 10 | 0 | -- | .333 | 481 | 111.1 | 109 | 15 | 50 | 5 | 1 | 96 | 4 | 0 | 67 | 62 | 5.01 | 1.43 | |
テンプレート:By2 | 20 | 14 | 2 | 1 | 1 | 4 | 6 | 0 | -- | .400 | 405 | 95.0 | 105 | 17 | 27 | 0 | 1 | 36 | 2 | 0 | 48 | 44 | 4.17 | 1.39 | |
テンプレート:By2 | 23 | 23 | 11 | 3 | 0 | 11 | 9 | 0 | -- | .550 | 702 | 165.2 | 159 | 23 | 53 | 1 | 7 | 81 | 3 | 2 | 70 | 67 | 3.64 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 24 | 24 | 6 | 0 | 1 | 7 | 14 | 0 | -- | .333 | 678 | 157.2 | 149 | 18 | 60 | 1 | 11 | 103 | 2 | 0 | 88 | 81 | 4.62 | 1.33 | |
テンプレート:By2 | 30 | 29 | 11 | 1 | 0 | 12 | 11 | 0 | -- | .522 | 841 | 190.2 | 197 | 15 | 82 | 0 | 3 | 129 | 9 | 0 | 94 | 80 | 3.78 | 1.46 | |
テンプレート:By2 | 26 | 24 | 3 | 0 | 0 | 8 | 8 | 0 | -- | .500 | 704 | 160.1 | 155 | 17 | 73 | 0 | 9 | 99 | 2 | 1 | 77 | 74 | 4.15 | 1.42 | |
テンプレート:By2 | 18 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 185 | 41.1 | 47 | 6 | 17 | 0 | 2 | 28 | 1 | 0 | 25 | 23 | 5.01 | 1.55 | |
テンプレート:By2 | 27 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 202 | 44.0 | 53 | 6 | 20 | 0 | 2 | 27 | 6 | 0 | 30 | 30 | 6.14 | 1.66 | |
テンプレート:By2 | 阪神 | 44 | 2 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 238 | 52.0 | 50 | 4 | 27 | 4 | 6 | 41 | 0 | 0 | 34 | 30 | 5.19 | 1.48 |
テンプレート:By2 | 23 | 14 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 0 | -- | .200 | 371 | 81.1 | 85 | 10 | 43 | 7 | 8 | 49 | 4 | 2 | 46 | 44 | 4.87 | 1.57 | |
テンプレート:By2 | 24 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 127 | 27.1 | 34 | 4 | 12 | 0 | 2 | 24 | 0 | 0 | 18 | 17 | 5.60 | 1.68 | |
テンプレート:By2 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 40 | 8.1 | 11 | 0 | 4 | 0 | 1 | 5 | 1 | 0 | 9 | 9 | 9.72 | 1.80 | |
テンプレート:By2 | 近鉄 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 124 | 30.0 | 26 | 3 | 9 | 1 | 3 | 21 | 0 | 0 | 7 | 7 | 2.10 | 1.17 |
テンプレート:By2 | 60 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 8 | -- | .500 | 247 | 58.0 | 48 | 3 | 25 | 6 | 1 | 66 | 1 | 1 | 16 | 15 | 2.33 | 1.26 | |
テンプレート:By2 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 4 | -- | .333 | 200 | 47.2 | 47 | 8 | 14 | 2 | 2 | 43 | 0 | 0 | 24 | 22 | 4.15 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 楽天 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1 | 12 | .500 | 201 | 47.2 | 48 | 2 | 7 | 2 | 5 | 43 | 3 | 0 | 22 | 18 | 3.40 | 1.15 |
テンプレート:By2 | 41 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 10 | .500 | 137 | 31.0 | 32 | 0 | 10 | 1 | 4 | 24 | 1 | 0 | 11 | 11 | 3.19 | 1.35 | |
テンプレート:By2 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | ---- | 55 | 10.0 | 22 | 2 | 3 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 11 | 11 | 9.90 | 2.50 | |
通算:20年 | 619 | 184 | 49 | 5 | 2 | 81 | 102 | 17 | 23 | .443 | 6981 | 1596.0 | 1631 | 197 | 640 | 41 | 71 | 1075 | 47 | 6 | 845 | 776 | 4.38 | 1.42 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:1988年4月10日、対西武ライオンズ2回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に2番手で救援登板、2回5失点(自責点0)
- 初奪三振:同上、3回裏に辻発彦から
- 初先発・初勝利:1988年4月30日、対西武ライオンズ3回戦(大阪球場)、5回0/3を2失点
- 初セーブ:1988年5月22日、対近鉄バファローズ7回戦(秋田市営八橋球場)、8回裏に2番手で救援登板・完了、2回1失点
- 初完投勝利:1988年9月1日、対ロッテオリオンズ21回戦(川崎球場)、9回4失点
- 初完封勝利:1991年8月21日、対日本ハムファイターズ22回戦(山形県野球場)
- 初ホールド:2005年4月30日、対西武ライオンズ7回戦(フルキャストスタジアム宮城)、10回表に4番手で救援登板、1回無失点
- 節目の記録
- 1000投球回数:1995年6月6日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(宮城球場) ※史上260人目
- 500試合登板:2004年8月22日、対北海道日本ハムファイターズ24回戦(大阪ドーム)、7回表に5番手で救援登板、1回無失点 ※史上74人目
- 1500投球回数:2004年8月25日、対西武ライオンズ25回戦(西武ドーム)、7回裏3死目に柴田博之を左飛で達成 ※史上154人目
- 1000奪三振:2004年9月22日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(大阪ドーム)、9回表に早川大輔から ※史上113人目
- 600試合登板:2006年9月5日、対オリックス・バファローズ17回戦(フルキャストスタジアム宮城)、9回表に救援登板、2/3回無失点 ※史上32人目
- オールスターゲーム 出場:3回 (1992年、1994年、2003年)※1990年は出場辞退
背番号
- 11 (1988年 - 1997年)
- 18 (1998年)
- 91 (1998年途中 - 2001年)
- 49 (2002年 - 2007年)
- 82 (2008年 - 2011年)
- 84 (2012年 - )
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:高知ファイティングドッグス テンプレート:福岡ソフトバンクホークス開幕投手
テンプレート:南海ホークス1987年ドラフト指名選手- ↑ なお、南海では最後のドラフト1位指名選手である。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 高知FD 新投手コーチ決定のお知らせ 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2011年12月17日)
- ↑ 南海・ダイエー在籍時は1988-1990年は吉田博之、1994年途中-1998年途中は吉田修司、阪神在籍時は全期間吉田浩および2000年-2001年に吉田剛が同時に在籍していたため