鈴木啓示
テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox baseball player 鈴木 啓示(すずき けいし、1947年9月28日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手(投手)・監督。あだ名は「クサ」(草)、あるいは「スズ」(鈴)。座右の銘は「草魂(そうこん)」。
目次
来歴
プロ入り前
元は右利き。4歳の時に右腕を骨折した際、プロ野球選手に育てたいという父親の意向から左利きに矯正された。育英高等学校では1964年、2年の時に夏の甲子園兵庫県予選決勝に進出するが、芝池博明投手を擁する滝川に0-1で敗退。翌1965年の春の選抜に出場。2回戦(初戦)で徳島商の利光高明投手(日本生命)に抑えられ1-3で敗れる。同年夏の県予選決勝では報徳学園と対決、エース谷村智博と投手戦の末、0-1xでサヨナラ負け、夏の甲子園出場はならなかった。
現役時代
育英高等学校から1965年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は阪神タイガースの1位指名が有力とされていたが、阪神は鈴木を指名しなかった(石床幹雄を指名)。新人の年にオールスターゲームに出場し、同じ左腕で大先輩の金田正一(巨人)にカーブの投げ方を習おうとすると、「教えて欲しければ銭もってこい」と言われ、それまでの尊敬心から一転して敵愾心を燃やすようになる。金田がロッテの監督だった1973年から1978年までの6シーズンはロッテ戦通算26勝8敗の好成績を残し、ロッテキラーとなった。
入団1年目に10勝、以後15年連続二桁以上勝利、翌年からは5年連続20勝以上をあげ、押しも押されぬ近鉄のエースとなった。1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。1969年に24勝で最多勝。1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)では2度目のノーヒットノーランを記録した。若い頃は江夏豊とともに「セの江夏、パの鈴木」と並び称された奪三振の多い投手であった。1967年から1972年にかけて6年連続で最多奪三振に輝くが(江夏も全く同じ期間に6年連続最多奪三振を記録)、1972年頃から奪三振数が半減し、投球内容の質も低下し始めた。鈴木本人によると「入団当初はノーコンでね。1年目の開幕直後には四球連発で二軍に落とされたこともある。制球力を付けられたのは日生球場のお陰やで。ホームランを警戒して低めをつく投球を、球場が教えてくれた。2度のノーヒット・ノーランは日生がくれた褒美やった。」と当時を振り返った[1]。
その後、1974年に監督に就任した西本幸雄の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。当初は西本に反発し、1974年のオフに主砲の土井正博がトレードされた際には、「次は自分の番」と考えて、阪神監督の吉田義男にトレードを志願する電話をかけたこともあった[2]。1975年3月の阪神とのオープン戦では4回4失点でKOされると西本から「少しは向こうのピッチャー(山本和行)を見習え!」とベンチで言われるなど叱責が続いたが、やがて西本が自分とチームのことを本気で考えていると気づき、その指導を受け入れていった[2]。この年は4年ぶりに20勝以上を挙げ、防御率も2.26の好成績を残す。奪三振数は減少したが、無駄な四球と失点も減少した。この頃から有田修三とバッテリーを組むようになる。1977年には200勝を達成、20勝で最多勝を残した。
翌1978年、25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。同年に当時の日本新記録となる10試合連続完投勝利を記録し、見事な投球で往年の剛球が蘇り、最多奪三振・最多完封も記録し、「五冠王」のうち勝率を除く4つの部門でリーグトップの成績を残した。同年の鈴木を最後に、プロ野球に25勝投手は現れていない[3]。 この年、「勝てば後期優勝」のかかった9月23日の阪急との最終戦(「藤井寺決戦」とも呼ばれる)で、山田久志との投げ合いに敗れ、その後阪急が逆転優勝を遂げて3年ぶりの半期優勝を逃した。試合後、辞意を仄めかした西本監督に対して「監督をやめないでくれ! オレたちを見捨てないで下さい」と鈴木は絶叫。他の選手もそれに賛同したことで西本は留任し、翌年悲願の初優勝を達成、翌々年も優勝を果たした[4]。
上記の他、日本一がかかった1980年の日本シリーズ第7戦でも近鉄リードの場面から救援登板して敗戦投手になり、「残り4試合中2勝で優勝」だった1969年終盤の対阪急4連戦の初戦では先制を許して5回でマウンドを下りている(近鉄は敗れたが鈴木に敗戦は付かず)[5]。一方、1975年の後期優勝がかかった阪急戦では3点リードの8回から救援登板して胴上げ投手になり、「引き分けでも相手が優勝」だった1980年後期の対日本ハム最終戦(大阪近鉄バファローズ#10.7決戦も参照)では、打たれながらも味方打線が木田勇を打ち崩して勝ち星を挙げ、後期優勝を導いている。また、近鉄が連続優勝した1979・1980年のプレーオフや日本シリーズでは、いずれも第2戦に先発して勝利投手となっている。特に日本シリーズでは1979年第2戦で完封勝利、1980年第2戦でも完投勝利と好成績を残している。これは、初戦より第2戦に回した方が鈴木が発奮してよい結果が出るという西本監督の判断だった[6]。なお、1975年のプレーオフでは初戦に先発している(試合は近鉄が勝ったが鈴木には勝ち星はつかず)。
西本の最終戦となった1981年10月4日の対阪急戦(日生球場)では、退任する西本に花束を渡している[7]。
1983年、鈴木康二朗がヤクルトから近鉄に移籍してきたことで、鈴木姓の投手が2名となる。そこでスコアボード、新聞などに"鈴木啓"と表記されるのを嫌った鈴木啓示が「オレは今までどおり"鈴木"でいい。あっちを"鈴木康"にすればすむことだろ。」と発言したが、球団は認めず"鈴木啓"表記を使用。しかし後年、"鈴木啓"と表記されたのと共に実況放送やスポーツニュースなどでフルネームで呼ばれる機会が増えたためか、「名前を正しく覚えてもらえた。」と新聞の取材で語っている。
1984年に通算300勝を達成。この時、球団主導で「鈴木投手の300勝は何月何日?」とファンに予想してもらう企画があったという(なお1983年シーズン終了時点であと4勝に迫っていたため、1984年中の達成は確実と見られていた)。鈴木の300勝および3000奪三振達成を記念して、同年12月9日、親会社の近鉄では上本町-鳥羽間に特急「草魂号」が運行された[8](担当乗務員の苗字を全員「鈴木」で揃えたというエピソードもある)。 この年、公共広告機構(現:ACジャパン)のコマーシャルに起用され、「投げたらアカン」という言葉が流行語大賞を受賞した。
翌1985年7月9日対日本ハム戦において3回でKOされ、翌日の7月10日に現役引退を表明。引退を西本幸雄に報告しに行くと、西本から「もう目が死んどんなぁ。ご苦労さん」と言われた[9]。
鈴木引退の報を聞いた阪急の監督上田利治は、引退の花道にとオールスターゲーム(上田が同年の全パ監督で、近鉄の本拠地である藤井寺球場での初開催も予定されていた)への出場を鈴木に持ちかけるも、辞退した。鈴木によると、上田に「パ・リーグの選手皆で胴上げしたるから出てくれ」と言われたが[10]「有り難い話やったけど、歴史のあるオールスターを俺一人の舞台にしたらアカンと思って断った」という[10]。1986年3月16日、阪神とのオープン戦で引退セレモニーを行なった。なお、鈴木が試合で使用したボールで所持しているのは、この最後の試合での交代時のボールだけである。通算300勝を達成した際にも、チームメイトから譲られたウイニングボールをスタンドに投げ入れていた。
通算317勝は歴代4位。鈴木は20世紀最後の300勝投手となり、彼を最後に日本プロ野球には300勝投手は現れていない。
現役時代の背番号1は1985年以降、パ・リーグ唯一の永久欠番となっていたが、2004年シーズン終了後の近鉄とオリックスの合併(オリックス・バファローズ誕生)により失効された(オリックスでは球団合併に際し、当時後藤光尊が付けていた背番号1の扱いについても検討されたが、鈴木本人が「自らの永久欠番はあくまで近鉄でのもの」とし、合併後も後藤の背番号1継続着用を承諾した)。
ゴルフに関心がなかった現役時代から、朝日放送関連のABCゴルフ倶楽部の会員になっていた[9]。引退後は朝日放送で解説をする流れだったが、ある日、鶴岡一人から「啓ちゃん、オレと一緒に仕事をしよう」と声をかけられて、鶴岡と同じ放送局はNHK、新聞社はスポーツニッポンと契約することとなった[9]。引退後はNHK野球解説者・スポーツニッポン評論家を経て、1993年から1995年途中まで近鉄の監督を務めた。近鉄の生え抜き選手の監督就任は小玉明利以来26年ぶりであった。引退の時点でオーナーの佐伯勇から「鈴木君、将来は監督で必ず帰ってくれ」と言われていたという[9]。
近鉄監督時代
監督としての評価は芳しくなく、自己の考えを部下に押し付けるだけの監督というイメージを植え付けられた。 監督に就任した1993年のキャンプにて、選手達に「スパイクを履いてランニングするように」と指示したところ、当時近鉄のコンディショニングコーチであった立花龍司に「この時期(冬場)にスパイクを履いてランニングすると足を痛める元になるからやめて欲しい」と指摘された。鈴木は自身の体験を踏まえ「野球選手がスパイクを履いてランニングするのは当たり前だ」と譲らず、結局鈴木と立花が調整方法を巡って対立することになり、同年シーズン終了後に立花は退団。同時に立花を信頼していたエース野茂英雄や吉井理人ら投手陣との対立を招くきっかけとなった。そして野茂・吉井を二軍落ちさせた結果、1995年初めに野茂がメジャーリーグのドジャースへ、吉井がヤクルトへとそれぞれ移籍した。特に野茂への批判は痛烈を極め「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」とまで言い切った。ただし、野茂が移籍したのは、鈴木との対立だけではなく、球団やフロントへの不信感もある(詳しくは野茂英雄の項も参照)。吉井は「近鉄時代は鈴木啓示監督から球が高いという理由で干されたこともある。」と著書に記している[11]。
1995年、開幕から選手の不調や怪我が多発したことも重なりチームは低迷。シーズン途中で監督を辞任。また同年、メジャーへ移籍した野茂が大活躍したことにより、鈴木に対する風当たりは非常に強いものとなった。鈴木・野茂の双方とも親しい江夏豊は、複雑な心境を自著の中で述べている。
金村義明は自著『勝てる監督 負けるボス』において、鈴木を「最低の監督」と評している。同著は野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という「本音」も紹介している。当時、ロッテのGMだった広岡達朗も「近鉄はいい選手が揃っているのに、監督と選手の間がうまくいっていないという話が絶えない。あれじゃだめ」と酷評されている。
大村直之は高校の後輩にあたり、大村が出場した1993年夏の甲子園のビデオを見て、牽制球を投げられては「こい。もっとこい」と投手を挑発するような根性が鈴木の目に留まり、鈴木は球団に大村をドラフトで指名するように進言した[12]。
鈴木は自身の監督時代について「力不足やったな。自分が投げとる気分でやってしまったから。選手をうまく使ってやらなイカンのに、選手を萎えさせとったこともあった。今思えば、反省ばかりやな。ナシ(梨田昌孝)[13] にも(コーチで)助けてもうたけど、アカンやった。」と語っている[10]。
監督辞任後
監督辞任後、ビートたけしがNEWS23に出演した際、寿司屋に入ると鈴木と土井正三がお互いを慰め合っていたという話を紹介した。これに限らず、後にメジャーで成功する野茂を二軍に落とした鈴木と、同じく後にメジャーで成功するイチローを二軍に落とした土井は、しばしば比較された。鈴木と土井はいずれも育英高校出身である。
2005年5月、藤井寺球場で行われたトークショーにて、「自身が指導者に恵まれた現役時代でありながら、監督としてそれを活かす事が出来なかった」と述懐し、監督時代の反省の意を表明した。
2007年、前川克彦がひき逃げで逮捕された事件で、「前川については言語道断で情けない。救いようのない恥ずかしい事件だ。同じ釜の飯を食った近鉄の仲間として残念だし悲しいし『バカタレ!』と言いたい」とマスコミにコメントした。
2008年7月、監督時代に確執があった野茂が引退した際には、「よくぞここまで野球に、投手に情熱を見せてきた。頭が下がる思いだ。私の監督時代に近鉄を去ったが、メジャーでの活躍は素直に嬉しかった。波乱万丈、いろんな経験をした人間ほど魅力がある。日本からメジャーに行った選手の中で、あれほどタフで、粘り強い男はいないのではないか」とコメントした。
2011年現在、NHK野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務めている。
プレースタイル
自他共に認めるワガママ(本人がインタビューでよく語っている)な性格で、新人時代、合宿所にいると先輩の世話、遊びなどにつき合わされまともに練習出来ないと感じ、すぐに合宿所を出て一人暮らしを始めていた。
他の大投手と同じく、下半身強化を重視していた。遠征先が天然芝のグラウンドだった場合は先発登板した次の日もチームに帯同し、ランニングによる調整を行っていた。
また、直球勝負にこだわり、1974年に監督就任した西本幸雄には「20勝もエエけど、同じするなら負けを1桁にせんとエースとは言えん」「ストレートを思い切り投げて、打たれたら本望、なんて言うのはマスターベーションや」と批判された。最初は反発して、阪神の吉田義男監督に「トレードで取ってくれ」と電話したほどだったが、西本監督が根気よく説得した結果、根負けする形で受け入れるようになった。すると成績も良くなって来たので、「このオッサンについていったら大丈夫やな」と思うようになった[14]。
当時の近鉄には「ありなしコンビ」といわれた有田修三と梨田昌孝という力の拮抗した二人の捕手がいたが、鈴木の登板試合時はどんなに調子が悪くても、スタメンには有田が起用されていた。ただし、300勝達成時の捕手は梨田だった。梨田は達成の瞬間、鈴木と抱き合って祝福したが、「啓さんといえばいつも有さんがパートナーだったので『僕でいいのかな』と妙な気分だった」と述懐している。
野村克也によれば、鈴木は典型的な「技術職人」タイプの投手だという。野村は、投手には自分の持ち球に絶対の自信をもってそれを中心に打者を攻め、打者との駆け引きを考えない、金田正一に代表される「技術職人」タイプの投手と、打者の心理状態を読み込んで配球・駆け引きを組み立てていく稲尾和久に代表される「心理学者」タイプの投手に分かれるという。「技術職人」タイプの投手にはたとえば監督が無理なリリーフを頼んでも「自分の体を壊したくないから嫌です」といい受け入れないというような自己中心主義があり、鈴木はまったくその性格にあてはまっていると野村は指摘する。自分の投球技術を鍛えるための鈴木の練習はたしかに非常に厳しいものであったことを野村は高く評価しているが、しかしこの他人がみえない一方的な厳しさが鈴木が指導者になったとき、チームプレイの軽視や他の投手の教育の困難をもたらすものではないか、という指摘を野村は鈴木の現役時代にすでにおこなっていた。結果的に鈴木の監督時代の失敗によって野村の危惧は的中してしまうことになった。
牽制球の技術に優れ、盗塁王の福本豊が神部年男と並んで最も苦手にしていた投手である。福本は8mmフィルムによる投手の研究に力を入れたが、そのきっかけは鈴木・神部対策だったという。
通算317勝のうち288勝が先発勝利であり、歴代1位の記録である。当時のエース級の投手は救援に立つことも多いのが常であったが、先発完投を身上とした鈴木はリリーフを好まず、救援勝利は29に留まる。そのうち27勝が「交代完了」で、救援して更に他の投手の救援を得て勝利投手となったのは、通算2回。また、通算セーブはわずかに2である。
一方、被本塁打560本は2位(山田久志・490本)を大きく離す歴代1位であり、MLB記録(ジェイミー・モイヤー・511本・2011年現在)をも上回る世界記録である。鈴木自身はこの記録について、「男の勲章だと思っている。どんな強打者からも逃げずに勝負した結果。560本も打たれるまで使ってもらえる投手は他にいない。」と語っている。通算78無四球完投というプロ野球記録も持っているが、これも「コントロールももちろん磨いたが、それ以上に誰からも逃げなかった証」と語っている。
レロン・リーは鈴木について、「自分が対戦した最高の左腕投手。メジャーリーグでもあれほどの投手はいなかった。どんなバッターにも堂々と勝負していた」と讃えている。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 近鉄 | 46 | 21 | 6 | 3 | 1 | 10 | 12 | -- | -- | .455 | 777 | 189.0 | 163 | 24 | 51 | 5 | 3 | 160 | 3 | 0 | 76 | 67 | 3.19 | 1.13 |
テンプレート:By2 | 44 | 34 | 19 | 4 | 10 | 21 | 13 | -- | -- | .618 | 1085 | 276.0 | 230 | 36 | 42 | 1 | 5 | 222 | 2 | 0 | 99 | 85 | 2.77 | 0.99 | |
テンプレート:By2 | 57 | 40 | 18 | 7 | 1 | 23 | 21 | -- | -- | .523 | 1433 | 359.0 | 273 | 41 | 88 | 5 | 9 | 305 | 4 | 0 | 107 | 99 | 2.48 | 1.01 | |
テンプレート:By2 | 46 | 39 | 28 | 7 | 6 | 24 | 13 | -- | -- | .649 | 1327 | 330.2 | 265 | 34 | 73 | 8 | 10 | 286 | 1 | 0 | 98 | 92 | 2.50 | 1.02 | |
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テンプレート:By2 | 43 | 31 | 14 | 5 | 0 | 14 | 15 | -- | -- | .483 | 1018 | 242.0 | 213 | 32 | 101 | 7 | 10 | 180 | 2 | 0 | 95 | 92 | 3.42 | 1.30 | |
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テンプレート:By2 | 37 | 35 | 30 | 8 | 10 | 25 | 10 | 0 | -- | .714 | 1138 | 294.1 | 234 | 21 | 42 | 1 | 7 | 178 | 4 | 0 | 73 | 66 | 2.02 | 0.94 | |
テンプレート:By2 | 24 | 19 | 6 | 1 | 0 | 10 | 8 | 0 | -- | .556 | 576 | 134.2 | 148 | 23 | 37 | 0 | 4 | 91 | 2 | 0 | 71 | 66 | 4.40 | 1.37 | |
テンプレート:By2 | 26 | 24 | 12 | 2 | 1 | 14 | 8 | 0 | -- | .636 | 735 | 179.0 | 161 | 32 | 52 | 1 | 3 | 100 | 2 | 0 | 86 | 77 | 3.87 | 1.19 | |
テンプレート:By2 | 22 | 21 | 8 | 0 | 3 | 5 | 11 | 0 | -- | .313 | 529 | 123.0 | 142 | 17 | 27 | 1 | 2 | 42 | 0 | 0 | 78 | 70 | 5.12 | 1.37 | |
テンプレート:By2 | 24 | 24 | 16 | 0 | 5 | 11 | 10 | 0 | -- | .524 | 786 | 190.1 | 199 | 34 | 35 | 2 | 1 | 100 | 0 | 0 | 95 | 79 | 3.74 | 1.23 | |
テンプレート:By2 | 28 | 28 | 23 | 3 | 7 | 14 | 11 | 0 | -- | .560 | 920 | 226.0 | 232 | 31 | 30 | 1 | 2 | 101 | 0 | 0 | 105 | 93 | 3.70 | 1.16 | |
テンプレート:By2 | 28 | 28 | 17 | 0 | 4 | 16 | 10 | 0 | -- | .615 | 889 | 213.0 | 217 | 30 | 45 | 0 | 5 | 102 | 0 | 0 | 108 | 89 | 3.76 | 1.23 | |
テンプレート:By2 | 15 | 13 | 2 | 0 | 0 | 5 | 6 | 0 | -- | .455 | 313 | 65.0 | 91 | 17 | 28 | 1 | 1 | 38 | 0 | 0 | 64 | 57 | 7.89 | 1.83 | |
通算:20年 | 703 | 577 | 340 | 71 | テンプレート:Color | 317 | 238 | 2 | -- | .571 | 18648 | 4600.1 | 4029 | テンプレート:Color | 1126 | 58 | 90 | 3061 | 34 | 5 | 1772 | 1588 | 3.11 | 1.12 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高、テンプレート:ColorはNPB歴代最高
打撃成績
824打数172安打(.209)13本 70打点
年度別監督成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993年 | 平成5年 | 4位 | 130 | 66 | 59 | 5 | .528 | 7 | 145 | .258 | 3.62 | 46歳 | 近鉄 |
1994年 | 平成6年 | 2位 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 7.5 | 169 | .274 | 4.24 | 47歳 | |
1995年 | 平成7年 | 6位 | 130 | 49 | 78 | 3 | .386 | 32 | 105 | .234 | 3.97 | 48歳 |
タイトル
- 最多勝:3回 (1969年、1977年 - 1978年)
- 最高勝率:1回 (1975年)
- 最優秀防御率:1回 (1978年)
- 最多奪三振(当時連盟表彰なし):8回 (1967年 - 1972年、1974年、1978年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:1966年5月4日、対東京オリオンズ5回戦(東京スタジアム)、3回裏に2番手で救援登板、2回1/3を3失点
- 初奪三振:1966年5月17日、対東映フライヤーズ5回戦(中日スタヂアム)、3回表に宮原秀明から
- 初勝利:1966年5月24日、対東映フライヤーズ8回戦(後楽園球場)、5回裏に3番手で救援登板・完了、5回無失点
- 初先発・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1966年6月3日、対南海ホークス7回戦(日生球場)
- 初セーブ:1974年8月25日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(宮城球場)、8回裏2死に2番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 節目の記録
- 1000奪三振:1970年4月29日、対阪急ブレーブス3回戦(日生球場)、4回表に米田哲也から ※史上36人目
- 100勝:1971年4月10日、対ロッテオリオンズ1回戦(東京スタジアム)、9回3失点(自責点2)完投勝利 ※史上51人目
- 1500奪三振:1972年4月22日、対南海ホークス2回戦(日生球場)、3回表に西岡三四郎から ※史上19人目
- 150勝:1974年6月25日、対ロッテオリオンズ前期12回戦(後楽園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上25人目
- 2000奪三振:1975年8月17日、対阪急ブレーブス後期3回戦(日生球場)、5回表に住友平から ※史上9人目
- 200勝:1977年4月26日、対ロッテオリオンズ前期3回戦(日生球場)、5回表に2番手で救援登板・完了、5回無失点 ※史上15人目
- 500試合登板:1978年4月1日、対クラウンライターライオンズ前期1回戦(平和台球場)、9回4失点(自責点3)完投勝利 ※史上36人目
- 2500奪三振:1979年4月19日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(日生球場)、8回表に柏原純一から ※史上6人目
- 250勝:1979年9月20日、対南海ホークス後期11回戦(日生球場)、9回1失点完投勝利 ※史上8人目
- 600試合登板:1981年7月12日、対日本ハムファイターズ後期4回戦(日生球場)、先発登板で5回4失点で敗戦投手 ※史上19人目
- 300勝:1984年5月5日、対日本ハムファイターズ7回戦(藤井寺球場)、9回3失点完投勝利 ※史上6人目
- 3000奪三振:1984年9月1日、対南海ホークス22回戦(大阪球場)、2回裏に門田博光から ※史上4人目
- 700試合登板:1985年6月4日、対南海ホークス9回戦(日生球場)、先発登板で6回4失点 ※史上10人目
- その他の記録
- ノーヒットノーラン ※史上40人目
- 1968年8月8日、対東映フライヤーズ19回戦(日生球場) ※史上48度目
- 1971年9月9日、対西鉄ライオンズ26回戦(日生球場) ※史上56度目
- 10試合連続完投勝利:1978年達成(当時日本記録、現在でもパ・リーグ記録)
- プロ野球新の74試合無四球試合(1983年10月5日、対阪急。最終的に78試合まで記録を伸ばす)
- 通算340完投 ※パ・リーグ記録
- シーズン30完投 :1978年 ※パ・リーグ記録
- 通算71完封勝利 ※パ・リーグ記録
- シーズン20勝以上:8回(1967年 - 1971年、1975年、1977年、1978年) ※パ・リーグタイ記録
- 開幕投手:14回 (金田正一と並ぶプロ野球記録)
- オールスターゲーム選出:15回 (1966年 - 1973年、1975年 - 1978年、1980年、1983年 - 1984年)
背番号
- 1 (1966年 - 1985年)
- 70 (1993年 - 1995年)
関連情報
著書
- 『投げたらアカン!:わが友・わが人生訓』(恒文社、1985年4月、ISBN 477040607X)
- 『男の人生にリリーフはない:男は誰も長距離ランナー、投げたらアカンのや!』(徳間書店、1985年6月、ISBN 4195030870)
CM出演
出演番組
脚注
関連項目
外部リンク
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テンプレート:近鉄バファローズ1965年ドラフト指名選手- ↑ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P239
- ↑ 2.0 2.1 みずのひろ「西本との出会いが300勝への転機 鈴木啓示」『近鉄バファローズの時代』(イースト・プレス、2004年)P90 - 92
- ↑ 2013年に東北楽天ゴールデンイーグルスの田中将大が記録した24勝(0敗)が最高記録。
- ↑ LPレコード「悲願30年 近鉄バファローズ ドキュメント 栄光のV1」の水本義政による解説文より
- ↑ 元近鉄応援団長のライター佐野正幸はこれらの事例を取り上げて「鈴木はいつもの試合では頼りになるのだが、ここ一番だと勝ってくれない。そのたびに期待はするのだが、ことごとく近鉄ファンを裏切った」と記している(『近鉄消滅 新生パ・リーグ誕生』(長崎出版、2005年、P167)。同書には1969年の対阪急4連戦の第3戦(阪急の優勝が決定)でも「鈴木は失点して途中でマウンドから下ろされた」とあるが、実際には先発が清俊彦(敗戦投手)で鈴木はリードされた6回から登板して交代完了しており、事実ではない。
- ↑ 『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将西本幸雄』ぴあ、2005年、P135 - 136。
- ↑ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P94
- ↑ 幻の特急「草魂号」~最後の300勝投手と僕。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 スポーツニッポン『我が道』2011年10月25日
- ↑ 10.0 10.1 10.2 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P18
- ↑ 吉井理人著『投手論』PHP新書、2013年、P103。
- ↑ スポーツニッポン『我が道』2011年10月28日
- ↑ 鈴木が監督を務めていた時は作戦兼バッテリーコーチ
- ↑ ベースボール・マガジン社『近鉄バファローズ球団史 1950-2004』 p16